会津八一(あいづ・やいち) 目次へ |
二十四日奈良を出て宇治平等院黄檗山万福寺を礼す(第1首) わうばく に のぼり いたれば まづ うれし
もくあん の れん いんげん の がく (黄檗に登り至ればまづうれし木庵の聯隠元の額)
歌意 黄檗山万福寺に登ってくるとまず目に入ってくる木庵の聯、隠元の額、嬉しいことだ。 万福寺は額や聯が至る所にある。過日訪れた時に二本の柱に掲げられた聯に圧倒されたことを覚えている。歌人であり、書家でもあった八一の喜びが伝わってくる。 第1首 第2首 第3首
|
||||||||||||||||||
柴売(第2首) わが かど に いくひ はこびて そまびと が つみたる しば に あきつ たち たつ (わが門に幾日運びて杣人が積みたる柴に秋津立ち立つ)
歌意 私の住む観音堂の門の前に何日もかけて杣人が運んだ柴に蜻蛉がしきりに飛び立っている。 雪支度のために何日もかけて積まれた柴に、蜻蛉が飛び立っては止まり、止まってはまた飛び立つ。積まれた柴の情景が動的な蜻蛉と共に印象的に詠われる。
|
||||||||||||||||||
村荘雑事(第16首)
わが かど の あれたる はた を ゑがかむ と ふたり の ゑかき くさ に たつ みゆ (わが門の荒れたる畑を描かむと2人の絵かき草に立つ見ゆ)
歌意 私の家の門のあたりの荒れた畑を描こうとする2人の絵描きが草むらの中に立っている姿が見える。 晩秋の武蔵野の情景を描こうとする荒れた畑の草むらに立つ2人の絵描き、絵のような光景である。大自然の息づかいに聞き入る八一には、絵描きも自然と一体のものである。 会津八一と中村彝(つね) 八一は一度しか会っていない近くに住んでいた画家・中村彝を高く評価した。「渾齋随筆・中村彝と私」で瀕死の床で書いた中村彝の手紙を紹介する。「これらの歌を口ずさんでゐると、言葉の微妙な響と、不思議なニュアンスにさそわれて、全く自然と歌のけぢめが分からなくなり、まるで目白の自然そのものを、まざまざと歌の中に見る心地します。何でもなく歌われた文句のはしにも、悠久な自然の忍びよる幽かな響、はてしなく流れ、わびしくおしうつり、やはらかに惠む、その深い氣息が感じられて、全く堪らない感じがします。悲しいと言っていゝか、嬉しいと言っていいか、ソクソクとして迫る大自然の幽玄な力に蔽はれて、体が急に寒くなり、血圧の高まるのを覚えます」 悲しいことに中村彝は下落合の住居で37歳の時に亡くなる。 注 中村彝 明治の終わり、日本の美術界に彗星のように現われ、輝かしい作品を残しながら、大正という時代を駆け抜けて、わずか37歳でその生涯を閉じた画家。新宿・中村屋の主人・相馬愛蔵夫妻の厚意で、病身の彼は中村屋の裏にある画室に住んだが、後に下落合に移り、そこで生涯を終える。
|
||||||||||||||||||
別府にて(第5首)
わが こころ つくし の はま の たちばな の いろづく まで に あき ふけ に けり (我が心筑紫の浜の橘の色づくまでに秋ふけにけり)
歌意 (自分の心を“尽くす”という言葉にちなむ)筑紫の浜の橘が黄色く色づくまでに秋は深くなった。 前歌で橘を眺めて古代憧憬の思いを詠った八一は同時に色づく橘に季節の推移を感じ表現する。枕詞「わがこころ」が語調を整えると同時に作者の情感の深さを表わしている。
|
||||||||||||||||||
中耳炎を発して読書談話を禁制せらるることまた久しきに(第3首) わが こころ ましろき つぼ の もの もはず おと なき ごとく あり かつ ましじ (我が心真白き壺のもの思はず音無きごとくありかつましじ)
歌意 (重い病状にあっても)私の心は真白い壺が物も言わず音もたてないでじっとしているような、そんな様と同じようにじっとしていることには耐えられません。 第2首で詠まれた3つの禁止(読むな、語るな、思うな)にはとても応じられないと白い壺をとり上げながら詠う。壺のたとえが面白い。
|
||||||||||||||||||
八月二十三日友人山口剛を誘いて大塚に小鳥を買ふ(第8首)
わが こふる おほき みてら の な に おへる とり の いかるが これ に し ありけり (我が恋うる大きみ寺の名に負へる鳥の斑鳩これにしありけり)
歌意 私が恋して止まない大きいお寺・法隆寺(斑鳩寺)の名を持っている鳥の斑鳩はこの鳥なのだ。 八一は法隆寺再建非再建論争に加わるなど法隆寺研究に力を入れ、「いかるが」という言葉にも深い関心を示した。 この時の鳥屋行きは斑鳩(数珠掛鳩)の購入が目的だった。
|
||||||||||||||||||
土くれ(第7首) 十月の末つかたなりけむ喜多武四郎予が胸像を作り持ち来りて示すを見るに頗る予が意を獲たり乃ち喜多が携へたる鉄の箆をとりてその背に秋艸道人の四字を刻す わが こふる とほき ひじり の おもかげ を よりて しぬばむ つちくれ も がも (我が恋ふる遠き聖の面影を寄りて偲ばむ土くれもがも)
歌意 私が恋い慕う遠い時代の優れた人達の面影を心を寄せて偲ぶことができる塑像があればなあ。 自分の胸像に感激した八一は、昔の聖達を写し取ったような塑像があればと詠う。全7首は友人の彫刻家が丹精込めて作ってくれた胸像に対する喜びと感謝を詠っている。
|
||||||||||||||||||
予罹災ののち西条に村居し一夜大いなる囲炉裏のほとりにて よめる歌これなり(第10首) わが こゑ の ちち に にたり と なつかしむ おい も いまさず かへり きたれば (我が声の父に似たりと懐かしむ老いもいまさず帰り来たれば)
歌意 私の声が亡くなった父に似ていると懐かしんでくれる老人もいない、帰ってきた故郷には。 疎開した丹呉家の炉辺に独り居る八一にとって、亡き父に似ていると懐かしんでくれる人もいない状況は、深い孤独の世界である。実家のあった古町とは遠く離れた疎開先の西条では余計にその感が深い。
|
||||||||||||||||||
尾道にて(第2首)
わが すてし バナナ の かは を ながし ゆく しほ の うねり を しばし ながむる (我が捨てしバナナの皮を流しゆく潮の流れをしばし眺むる)
歌意 私が船から捨てたバナナの皮を乗せて流れていく潮のうねりをしばらく眺めて見ていたことよ。 潮のうねりに乗って流されて行くバナナの皮を見つめる八一、船旅の一情景が表現される。心身ともに衰弱した東京での生活からの転地静養の長旅に解放感が感じられる。
|
||||||||||||||||||
閑庭(第8首) わが たてる はたけ の はて に きこえ くる には の こぬれ の ひよどり の こゑ (我が立てる畑の果てに聞こえ来る庭の木末のひよどりの声)
歌意 私が立っている畑の端の方にも聞えて来る、私の家の庭の木のこずえで鳴いているひよどりの声。 秋艸堂への道にある畑までも聞えて来る家の庭木に止まっているひよどりの声、その声の大きさと武蔵野の静かな自然が浮かんでくる。
|
||||||||||||||||||
山鳩(第12首) わが ため に ひとよ の ちから つくしたる なが たま の を に なか ざらめ や も (わが為に一世の力尽くしたる汝が玉の緒に泣かざらめやも)
歌意 私のために生ある間尽くしてくれたお前の短い命にどうして泣かないことがあろうか、泣かないではいられない。 傍若無人とも取れる態度、大柄で男性的な体躯、典型的な明治の男である八一は涙を見せたことはないし、その姿を想像できない。その八一の涙である。それゆえ読者の涙を誘うのである。
|
||||||||||||||||||
ふたたび厳島を過ぎて(第4首)
わが ため に みて うちならし わたつみ の あした の みや に はふり は うたふ (我が為にみ手打ち鳴らしわたつみの朝の宮にはふりはうたふ)
歌意 私の求めに応じて手を打ち鳴らし、海神のいます朝の厳島神社で神職が神を祝う歌を唱ってくれる。 古代を愛し、神仏に深い理解を示した八一の敬虔な姿が浮かび上がってくる。「わがために」が思い入れの強さと八一の個性を表している。
|
||||||||||||||||||
土くれ(第3首) 十月の末つかたなりけむ喜多武四郎予が胸像を作り持ち来りて示すを見るに頗る予が意を獲たり乃ち喜多が携へたる鉄の箆をとりてその背に秋艸道人の四字を刻す わが とも が いくひ の ちから かたまけて けづりし つち の かげ さやか なり (我が友が幾日の力傾まけて削りし土の影さやかなり)
歌意 私の友人が何日もの間精魂こめて彫りあげた土の胸像はくっきりとして素晴らしい。 彫った友への感謝の気持ちをもって自らの胸像に対面し、その素晴らしい姿、形に感激する。
|
||||||||||||||||||
新潟にて「夕刊ニヒガタ」を創刊するとて(第3首)
わがとも よ よき ふみ つづれ ふるさと の みづた の あぜ に よむ ひと の ため (我が友よ良き文綴れ故郷の水田の畔に読む人のため)
歌意 記者である私の友人たちよ、良い記事を書こう、この故郷新潟の水田の畔で読む人々のために。 夕刊ニイガタの社長に就任して、長い孤独と沈潜していた心から脱却して、明るく自信に満ちた言葉で仲間たちに呼びかけた。
|
||||||||||||||||||
芝草(第5首) 十月二十四日ひさしく懈(おこた)りて伸びつくしたる門前の土塀の芝草を刈りて日もやや暮れなむとするに訪ね寄れる若き海軍少尉ありと見れば昨秋我が校を去りて土浦の飛行隊に入りし長島勝彬なり明朝つとめて遠方に向はんとするよしいへば迎へ入るしばししめやかに物語して去れり物ごし静かなるうちにも毅然たる決意の色蔽ふべからずこの夜これを思うて眠成らず暁にいたりてこの六首を成せり わが ふみ を たづさへ ゆきて たたかひ の ひま に よむ とふ あらき はまべ に (我が書を携へ行きて戦ひの暇に読むとふ荒き浜辺に)
歌意 私の本を持って行って戦いの合間に読むと言う、戦場の荒れた浜辺で。 八一の歌集を戦場に持って行って読むと教え子が言う。そのことを聞いた八一の感動は想像に余りある。実際、長島勝彬以外にも門下生は鹿鳴集を携えて戦地に赴いたと言う。
|
||||||||||||||||||
中耳炎を発して読書談話を禁制せらるることまた久しきに(第1首) わが みみ の そこ の ただれ を ゆゆしみ と くすし の こと の あまた かなし も (我が耳の底のただれをゆゆしみと薬師の言のあまた悲しも)
歌意 私の耳の奥のただれがとてもひどいと言う医者の言葉が大変悲しい。 肺炎で危篤になった一週間は過ぎた。しかし、持病の中耳炎が再発した。読むこと、語ること、思うことを禁止(第2首)されたほど、症状は悪かった。
|
||||||||||||||||||
山鳩(第17首) わが やど に しじに とひ こし わかびと の なす なからめ や なが たま も みよ (わが宿にしじに問ひ来し若人のなすなからめや汝が魂もみよ)
歌意 私の宿に何度も通ってきた若い人たちはきっと学問の上でなにかをなすだろう。どうかきい子の魂を見守っておくれ。 八一門下から多くの人材が出た。厳しく真摯に指導した若人は同時にきい子が面倒を見た人達である。「魂を見守っておくれ」は八一の痛切な叫びであり願いでもある。
|
||||||||||||||||||
このごろ(第3首) わが やど の かべ の ふるぶみ くれなゐ に もえ なむ さま を おもふ このごろ (我が宿の壁の古書紅に燃えなむさまを思ふこの頃)
歌意 私の家の壁に積まれた古書が真っ赤に燃えあがっている様子を想像する今日この頃である。 空襲によって赤く燃え上がるさまを想像する日々だった。この後、新潟への疎開を考え準備したが、運送が間に合わずに4月13日に秋艸堂は焼失した。残ったのは事前に送った筆、硯、墨など少しと庭に埋めた陶器だけだった。このことは後に寒燈集・焦土(8首)として詠まれている。
|
||||||||||||||||||
その翌日わが家の焼けたる跡にいたりて(第4首) わが やど の ちまき の ふみ の ひとまき も ゆるさぬ かみ の こころ さぶし も (我が宿の千巻の書の一巻も許さぬ神のこころさぶしも)
歌意 私の家にあった沢山の本のたった一冊も残さず焼いてしまった神の心が寂しく感じられる。 全ての書の焼失は神の意志だと考えるが、神の心が寂しく残念だと思うのである。
|
||||||||||||||||||
淡島寒月老人に わが やど の ペルウ の つぼ も くだけたり
な が パンテオン つつが あらず や (わが宿のペルウの壺も砕けたり汝がパンテオン恙あらずや)
歌意 私の家の大事にしていたペルーの壺も壊れてしまった。神仏像その他を陳列したパンテオンと言えるあなたの家は被害はなかったであろうか。 若き八一が親交した20歳ほど年上の寒月の家も火災で燃えてしまった。前句(震余第7首)と同じように巨大地震の惨状を「諧謔の語」を入れながら詠む。直視するに堪えがたい現実をこうした表現を以て詠まざるを得なかった八一の心を思う。 註 淡島寒月 自註鹿鳴集より 名は宝受郎(1859-1926)。椿岳(ちんがく)の子。向島須崎町弘福寺の門前に住める趣味家。明治以後最も早く井原西鶴の文章に心酔し、これを幸田露伴(1867-1947)尾崎紅葉(1867-1903)の二人に鼓吹(こすい)せし人、後にこの二人によりて文壇は初めて西鶴の存在と価値を知れり。老後は諸国の土俗玩具、内外の神仏像などを多く蒐集(しゆうしゆう)したるが、この火災にて、身長の一倍半に近かりし自著の随筆の稿本とともに、悉くそれらを烏有(うゆう)に帰せしめたり。作者とは久しく忘年の交あり。
|
||||||||||||||||||
猿沢池にて
わぎもこ が きぬかけ やなぎ みまく ほり いけ を めぐり ぬ かさ さし ながら (吾妹子が衣掛け柳みまくほり池をめぐりぬ傘さしながら)
歌意 采女が愛を失って入水する前に掛けたと伝えられている衣掛柳を見たいと思って猿沢の池をめぐり歩いた。折からの雨に傘をさしながら。
28才の「若き八一の憂い」と古代に対する憧憬が甘味に詠われている。大和物語、枕草子などに記載される采女の悲話伝説から生まれた八一の名歌だ。 平成10年7月、奈良セントラルライオンズクラブが右上の歌碑を建てた。友人の知らせですぐに訪れたが、奈良駅近くなのでその後何度も接している。
|
||||||||||||||||||
その寺の金堂に入りて(第3首) わくごら は あな うつくし と みほとけ の みだう の やみ に こゑ はなち つつ (若子らはあな美しとみ仏のみ堂の闇に声放ちつつ)
歌意 若者たちは、なんと美しい仏像だろう、と暗い金堂の中で感嘆の声を放っている。 明日にも戦地に赴く学生たちの感嘆の声、仏像の美に対する純粋な感動であろう。 “道人は金堂でも手燭を点して、沢山ならぶ仏たちをゆっくり、しずかに見せてくれた。「わくらご」とは、若い学生たちを古風に呼んだ。思わず「美しいなあ」と溜息のような声がこだましたが、わたしもその一人だった。かって大正十一年(1921)八月のさ中、道人ははじめて室生寺を訪ねたときの感動と陶酔を、若い学生たちに味わせたかったのだろう”(植田重雄の“最後の奈良見学旅行3”より)
|
||||||||||||||||||
汽車中(第2首) わさだ かる をとめ が とも の かかふり の しろき を み つつ みち なら に いる (早稲田刈る乙女がとものかかふりの白きを見つつ道奈良に入る)
歌意 早稲を刈る乙女たちのかぶる手ぬぐいの白い色を見ながら、道は奈良に入った。 白い手ぬぐいをかぶった乙女たちの刈り入れの姿は、昔はどこででも見ることができた風景だが、汽車に乗って大和路に入る秋の光景は、何度も訪れた八一にとっては特別のものだったろう。奈良の古寺、古仏への思いが平易な表現の裏側に垣間見ることができる。ときめきを秘めて奈良を訪れる。いつもそうありたい。 第1首へ
|
||||||||||||||||||
旅中たまたま新聞にて大隈候の病あつしと知りて
わせだ なる おきな が やまひ あやふし と かみ も ほとけ も しろし めさず や (早稲田なる翁が病ひ危ふしと神も仏もしろしめさずや)
歌意 早稲田大学の大隈候が重い病気で命が危ないと神や仏はお知りにならないのだろうか、いや決してそんなことはない。知っておられるだろう。 早稲田中学教頭職にあった八一の大隈候の重病に対する叫びである。神仏はいらっしゃらないのかと詠う気持ちが素直に伝わってくる。
放浪唫草は大正10年11月から11年2月まで西国を遍歴したときに詠ったものだが、1月2~13日まで一度大阪に戻り、奈良をめぐり、再度西国に立つ。大隈候の重病を知ったが、諸般の事情で東京には戻らなかった。大隈重信は大正11年1月10日に亡くなる。
|
||||||||||||||||||
十一月十日学生を伴ひ奈良に向ふとて汽車の窓より 東方の海上を望みて(第2首) わたつみ の そこ つ いはね の しほざゐ に かみ の うましし あきつしまやま (わたつみの底つ磐根の潮騒に神の生ましし秋津島山)
歌意 海の底の岩に潮が波立ち騒ぎ立つ音の中で神がお生みになった秋津島山、日本よ。 日本の敗色は濃く、国家の存亡まで考えたかもしれない。神が生んだこの国を守ると願う心。
|
||||||||||||||||||
あるあしたクエゼリンの戦報に音羽侯の将士とともにみうせたまひける よし聞きて(第3首)
わたつみ の そこひ も しらず ゆく しほ の
ふかき うらみ を わが いかに せむ (わたつみの底ひも知らず行く潮の深き恨みを我が如何にせむ)
歌意 海の深い底、人が知ることもできないようなところを流れていく潮のように深い敗戦の恨みを私はどうしたらいいのだろう。 上3句は「ふかき」を導く序詞。元皇室、音羽侯爵のクェゼリン環礁での戦死を詠む4首の第3首。 注 日本ニュース(1944・4・20) 去る2月、クェゼリン環礁守備部隊6500名の勇士とともに、尊き御身をもって南海の果てに散華させたもうた侯爵、音羽正彦少佐のご英霊は、4月12日、御父君朝香宮鳩彦王殿下、御兄君孚彦王殿下をはじめ奉り、軍代表参列して御迎え申し上げるうちを、○○空港に無言の凱旋(がいせん)を遊ばされました。ご英霊は同期生ショウジ隊員に奉持(ほうじ)され、国民挙げて哀悼のうちに一路横須賀へと向かわせられました。
|
||||||||||||||||||
鐘銘 五剣山八栗寺の鐘は戦時供出し空しく十余年を経たり今ここに昭和三十年十一月龍瑞僧正新に之を鋳(い)むとし余に歌を索(もと)む乃ち一首を詠じて之を聖観世音菩薩の宝前に捧ぐその歌に曰く わたつみ の そこ ゆく うを の ひれ に さへ ひびけ この かね のり の みため に (わたつみの底ゆく魚の鰭にさへ響けこの鐘法のみために)
歌意 海の底の深いところを泳いでいく魚の鰭にまでこの鐘の音は響いていけ、仏の教えのために。 仮名文字の歌の鐘銘は無かったので苦労したという。揮毫して渡したが、この鐘の完成を見ることなく昭和31年12月21日、八一はこの世を去った。この歌は八一の最後の作品である。 追記 この作品を持って886首の解説を終わる。歌は会津八一全歌集(S61年7月25日初版)による。なお、その他に拾遺264首があるが、これについては上記の全歌集を参照して欲しい。
|
||||||||||||||||||
瀬戸内海の船中にて
わたつみ の みそら おし わけ のぼる ひ に ただれて あかき あめ の たなぐも (わたつみのみ空押し分け昇る日にただれて赤き天のたなぐも)
歌意 海の上から空を押し分けて昇る朝日によって、ただれたように赤く染まった雲、空の上にたなびいた雲が(船の上から)見えることよ。 夕方大阪を出た船(第1首)は海上で夜明けを迎えた。朝の情景を「ただれて赤き」と表現する。怪異な感触がある「ただれて」という表現が、ダイナミックで不思議な夜明けの光景を強調する。
|
||||||||||||||||||
やがて松ヶ崎なる新潟飛行場に着して(第3首) わたり こし みそら はるけく しらくも の むれ たつ なか に いる こころ かも (渡り来しみ空はるけく白雲の群れ立つ中に入る心かも)
歌意 新潟飛行場に降り立って、渡ってきたはるかな空を仰ぐと白雲の群れ立っている中へ入っていくような気持になる。 地上に降り立った八一は飛んできた彼方の空を眺めて詠う。緊張した飛行時からの解放感もあったであろう。この時、飛行場に車で出迎えたのは坂口献吉・新潟日報社長(注参照)だった。戦後、早稲田大学には帰らず、坂口の協力で新たな道を新潟で歩む。 注 坂口献吉・新潟日報社長(1895-1966)は、1946年に「夕刊ニイガタ」を新設し、八一に社長就任を懇請した。社長に就任した八一は後に早稲田から復職の要請があったが断っている。これは坂口献吉の人力や郷里の人々の温かい心に応えたためである。なお、坂口安吾は献吉の弟である。
|
||||||||||||||||||
その寺の金堂に入りて(第2首) わたる ひ の ひかり ともしき やまでら の しづけき ゆか に たつ ほとけ たち (渡る日の光乏しき山寺の静けき床に立つ仏たち)
歌意 空を渡る日の光も山の中なので乏しく薄暗い山寺の静かな床の上に立っている仏たちよ。 光の乏しい室生寺金堂の仏たちの雰囲気を的確にとらえている。金堂に入ってしばらく見つめていると浮かび上がるように美しい仏たちがあらわれてくる。 植田重雄の“最後の奈良見学旅行3”
|
||||||||||||||||||
菅原道真をおもひて
わび すみて きみ が みし とふ とふろう の いらか くだけて くさ に みだるる (わび住みて君が見しとふ都府楼の甍砕けて草に乱るる)
歌意 失意の中で住まわれてあなたが見たと言う都府楼の甍が砕け散って生い茂る雑草の中にあちこちに乱れている。 讒訴(ざんそ)されて大宰府に左遷され、三年で死んでしまった菅原道真への哀惜を砕けた甍に託して詠う。道真の有名な漢詩や歌が思いを深くする。病身の八一が捨て身の思いで旅だった西国遍歴の心境が重ねられる。
|
||||||||||||||||||
二日飛報あり叔父の病を牛込薬王寺に問ふ この夜春雪初めていたる (第2首) われ わかく ひと に まなびし もろもろ の かぞへ も つきず その まくらべ に (我若く人に学びし諸々の数へも尽きずその枕辺に)
歌意 私の若き時にこの人に学んださまざまのことは数えることが出来ないほど多い、なすすべなく枕もとにいて思う。 叔父の枕辺で思い起こすことは、学問その他多くのことをこの人から学んだことである。叔父への感謝の気持ちが素直に自然に表れている。学者、歌人、書家として大成したことは八一の才能とともに若き日の叔父の影響が多大であることは言うまでもない。
|
||||||||||||||||||
閑庭(第40首) ゐどばた の はち を こちたみ いくとせ を ぶだう の ふさ の いまだ にほはず (井戸端の蜂をこちたみ幾年を葡萄の房のいまだにほはず)
歌意 井戸端の蜂があまりに多いので何年もの間、葡萄の房は色づき、熟することはない。 蜂の群れのために手入れが行きとどかなかったのか、放置された葡萄(第41首)は熟することが無かったようだ。房ができても摘粒して袋かけなどしないと色づかないと言う。
|
||||||||||||||||||
雨竹に
ゑがき こし すみゑ の たけ の このごろ を ややに つゆけく なり に ける かも (描きこし墨絵の竹のこの頃をややに露けくなりにけるかも)
歌意 ずっと描いてきた墨絵の竹がこの頃は少し露っぽく、しっとりとした感じになってきたようだ。 長年描いてきた墨絵、その雨竹の画が湿っぽい感じが出てくるようになったと自賛する。
|
||||||||||||||||||
閑庭(第14首) をか の うへ に わが いへ をれば の の はて の いりひ に ふじ の もえぬ ひ ぞ なき (岡の上に我が家居れば野の果ての入日に富士の燃えぬ日ぞ無き)
歌意 武蔵野の岡の上に私は住んでいるので、我家から見える野の果ての富士山はいつも夕日に真赤に染まらない日は無く、赤々と燃えている。 当時の武蔵野は自然のままで富士山もよく見えた。壮大な情景を赤く燃える富士を通して表現する。
|
||||||||||||||||||
春日野にて(第9首)
をぐさ はむ しか の あぎと の をやみ なく ながるる つきひ とどめ かねつ も (を草食む鹿のあぎとのを止みなく流るる月日とどめかねつも)
歌意 草を食べる鹿の顎(あご)が少しも止まらないのと同じように、月日の流れはとどめることができないのだなあ。 鹿鳴集冒頭、春日野にて9首の最後の歌である。9首の中、7首まで鹿の歌を詠み込んだ。鹿を中心に春日野を詠み込み、奈良へ誘いながら、歌集は奈良の仏を詠んだ名歌に繋がっていく。誰もが、鹿鳴集(330首)冒頭の南京新唱(99首)を読む中で、八一の奈良と仏像の歌の虜になってしまう。 万葉集の鹿はほとんどその鳴き声で詠まれていたが、「あぎと」と言う具体的な姿を歌材にしたことを八一は後の解説で強調している。
|
||||||||||||||||||
奈良の宿にて(第1首) をじか なく ふるき みやこ の さむき よ を いへ は おもはず いにしへ おもふ に (牡鹿鳴く古き都の寒き夜を家は思わず古思ふに)
歌意 牡鹿が牝鹿を求めて鳴く、寒さが厳しい古都奈良の夜更け、(奈良の宿で)遠く離れた我が家のことは思わず、古代のことに思いをはせている。 豪放磊落に見える八一は淋しがり屋だったという。荒廃した古都奈良、質素な定宿に一人投宿して深夜牡鹿の声を聞いて自然に詠み出された歌であろう。そこで思うのは我がことではなく、自らが求める古代への思いであった。 八一は、随筆・渾齋隨筆の「鹿の歌二首」で、鹿の声について以下のように言う。 「鹿の聲はもとより淋しい。それに私の定宿のある登大路(のぼりおふぢ)あたりの夜はことに淋しい。しかし、それよりも、私の気持ちの方に、もっと淋しいものがあったのだろう。・・・・とりわけ、あの鳴き聲は、大ッぴらで、高ッ調子で、そのくせ、そのまゝ人の心に強く染み入る」
|
||||||||||||||||||
大阪の港にて
をちこち に いたがね ならす かはぐち の あき の ゆふべ を ふね は いで ゆく (をちこちに板金鳴らす川口の秋の夕べを船は出でゆく)
歌意 あちらこちらの工場から鉄板を叩く音が響いてくる秋の夕暮れの大阪の港、その川口から私を乗せた船が出ていこうとしている。 早稲田中学運営(教頭)から学術の道に軸足を移そうとする八一は、心と体の病を癒すことも兼ねて大正10年11月から翌年2月まで西国を遍歴する。その旅立ちの最初は大阪の港だった。
|
||||||||||||||||||
別府のやどりにて夢想
をちこち の しま の やしろ の もろがみ に わが うた よせよ おき つ しらなみ (をちこちの島の社のもろがみに我が歌よせよ沖つ白波)
歌意 あちらこちらの島の社殿に鎮座する多くの神々に私の歌を運んで伝えておくれ、沖に立つ白波よ。 市島春城宛の手紙から。「今朝夢中にて一首を得候。夢中に詩歌をつくることは、古來多く傳ふるところ、小生も其経験は稀ならず候へども、みな心身の多少疲れたるときの所産なるらしく候。今暁のものは をちこち の ・・・・(大正10年12月3日)」。 注 市島春城(いちしましゅんじょう)1860~1944 政治家・文筆家。新潟県北蒲原郡生まれ。ジャーナリスト、衆議院議員、早稲田大学図書館初代館長として活躍、多くの随筆、記録を残す。八一の親戚にあたり、住居の提供など、学業から生活まで手助けした。
|
||||||||||||||||||
春日野にて(第2首) をとめら が ものがたり ゆく の の はて に
みる に よろしき てら の しらかべ (乙女らが物語りゆく野の果てに見るによろしき寺の白壁)
歌意 乙女たちが物語りゆく春日野のはずれに美しい寺の白壁が見えるのはとても良い。 賑やかに語りながらゆく乙女たちと寺の白壁の場面を良しとして詠う。古都奈良の特徴ある風景と言える。
|
||||||||||||||||||
春日野にて(第1首) をとめら は かかる さびしき あき の の を
ゑみ かたまけて ものがたり ゆく (乙女らはかかる寂しき秋の野を笑みかたまけて物語りゆく)
歌意 私にはこんなに寂しく思える秋の春日野を、乙女たちは笑い転げて物語りゆく。 春日野にては全3首、その第1首。箸が転げても笑う修学旅行生かもしれぬ乙女達、集団の明るい声と古都奈良の秋を寂しいと捉える歌人の心の対比が面白い。
|
||||||||||||||||||
山鳩(第15首) をのこご に うまれたり せば ひたすらに ひとつ の みち に すすみ たり けむ (男子に生まれたりせばひたすらに一つの道に進みたりけむ)
歌意 もしおまえが男子に生まれていたならば、いちずに一つの道を進んできっと大成していただろう。 一つの道を貫き通し大成することが女子では難しい時代だったので「男に生まれていたならな~」と歎き、きい子を評価する。 「きい子は平生學藝を尚び非理と不潔とを好まず絶命に臨みてなほ心境の明清を失はざりし」(山鳩・序より)
|
||||||||||||||||||
三月二十八日報ありちか頃その寺に詣でて拝観するに香薬師像の たちまち何者にか盗み去られて今はすでにおはしまさずといふを 聞きて詠める(第1首) をろがみて きのふ の ごとく かへり こし みほとけ すで に なしと いはず やも (をろがみて昨日のごとく帰りこしみ仏すでに無しと言はずやも )
歌意 香薬師を拝観して帰ってきたのは昨日のように思われる。それなのに御仏はもういらっしゃらないと言うのだろうか。 昭和18年3月、3度目の盗難にあった香薬師はついに戻ることは無かった。盗難を嘆き、御仏が戻ることを願って八一は上記の詞書で5首の歌を詠んだ。今、新薬師寺に安置されているのは香薬師のレプリカである。(右の写真は早大文学部所蔵のレプリカ)
|