会津八一の歌

  会津八一(あいづ・やいち)                             目次へ
 1881~1956。新潟の生れ。号 秋艸道人(しゅうそうどうじん)。早稲田で学んだのち、坪内逍遥の招きで早稲田中学校教員となる。その後文学部教授に就任、美術史を講じた。
 古都奈良への関心が生み出した歌集『南京新唱(なんきょうしんしょう)』にその後の作歌を加えた『鹿鳴集』がある。奈良の仏像は八一の歌なしには語れない。歌人としては孤高の存在であったが、独自の歌風は高く評価されている。鹿鳴集に続いて『山光集』『寒燈集』を発表している。
 書にも秀で、今では高額で売買される。生涯独身で通したが、慕う弟子達を厳しく導き、多くの人材を育てた。 

   会津八一の生涯・年表  新潟市會津八一記念館  早稲田大学會津八一記念博物館

                                                   わ行の歌
二十四日奈良を出て宇治平等院黄檗山万福寺を礼す(第1首)

 わうばく に のぼり いたれば まづ うれし 
                もくあん の れん いんげん の がく 

              (黄檗に登り至ればまづうれし木庵の聯隠元の額)  

黄檗山万福寺
わうばく
「黄檗山万福寺(おうばくざんまんぷくじ)は1661年に中国僧隠元によって開創された宇治市にある黄檗宗(禅宗)の総本山。“黄檗の三筆(隠元、木庵、即非)”は有名、また“普茶料理(中国風の精進料理)”でも知られる」
もくあん 「木庵性瑫(もくあんしょうとう)。隠元と共に来日し、隠元の黄檗山万福寺の開創を助け、隠元の後万福寺第2世となる」
れん 「聯。中国で、2句でひと組の表現を一種の装飾として屋内や屋外に掲げた。相対して壁や柱にかけた細長い書画の板」
いんげん 「中国僧・隠元隆琦(いんげんりゅうき)。中国明朝時代の臨済宗を代表する僧で、中国福建省にある黄檗山萬福寺の住職だったが、日本からの招請に応じ、63歳の時(1654年)に来日。そのため、将軍徳川家綱が宇治に寺を開き、隠元は寺名を中国の自坊と同じ“黄檗山萬福寺”と名付ける」
がく 「扁額のこと。板、紙などに書画をかき、門や室内などにかける横に長い額」

歌意
 黄檗山万福寺に登ってくるとまず目に入ってくる木庵の聯、隠元の額、嬉しいことだ。

 万福寺は額や聯が至る所にある。過日訪れた時に二本の柱に掲げられた聯に圧倒されたことを覚えている。歌人であり、書家でもあった八一の喜びが伝わってくる。
                              第1首   第2首   第3首 
観仏三昧目次

鹿鳴集・観仏三昧(第15首) (2012・12・27)
柴売(第2首)

 わが かど に いくひ はこびて そまびと が
                つみたる しば に あきつ たち たつ    

              (わが門に幾日運びて杣人が積みたる柴に秋津立ち立つ)  

柴売 「八一は昭和20年7月10日に養女きい子を亡くし、10月まで観音堂に独居する。それは心の安寧のために必要な時間だったであろう。観音堂をめぐる柴売の情景が詩的な抒情詩として6首詠われる。同じ時の歌、山鳩21首観音堂10首と共に味わいたい」
そまびと 「杣人。杣木を切り倒したり運び出すことを職業とする人。杣山(木材を切り出す山、また木材にするための木を植えた山)から杣木を取る仕事をする」
しば 「柴。山野に生えているあまり大きくない雑木やその枝、燃料に使用する」
あきつ 「秋津。蜻蛉(とんぼ)のこと」
たちたつ 「次から次へと飛び立つ」

歌意
 私の住む観音堂の門の前に何日もかけて杣人が運んだ柴に蜻蛉がしきりに飛び立っている。

 雪支度のために何日もかけて積まれた柴に、蜻蛉が飛び立っては止まり、止まってはまた飛び立つ。積まれた柴の情景が動的な蜻蛉と共に印象的に詠われる。
柴売目次

寒燈集・柴売(第2首) (2013・3・1)
村荘雑事(第16首)

 わが かど の あれたる はた を ゑがかむ と
               ふたり の ゑかき くさ に たつ みゆ 

              (わが門の荒れたる畑を描かむと2人の絵かき草に立つ見ゆ)  

村荘雑事 「会津八一が住んだ下落合秋艸堂(1922-1935年)で自然を詠んだ17首」
わがかどの 「わが門の。私の家の門のあたり」
ゑかき 「絵描き。“この二人はわが家に近く住みし友人中村彝(つね 1888-1924)が門下の人々なりき。”自註鹿鳴集」

歌意
 私の家の門のあたりの荒れた畑を描こうとする2人の絵描きが草むらの中に立っている姿が見える。

 晩秋の武蔵野の情景を描こうとする荒れた畑の草むらに立つ2人の絵描き、絵のような光景である。大自然の息づかいに聞き入る八一には、絵描きも自然と一体のものである。

会津八一と中村彝(つね)
 八一は一度しか会っていない近くに住んでいた画家・中村彝を高く評価した。「渾齋随筆・中村彝と私」で瀕死の床で書いた中村彝の手紙を紹介する。「これらの歌を口ずさんでゐると、言葉の微妙な響と、不思議なニュアンスにさそわれて、全く自然と歌のけぢめが分からなくなり、まるで目白の自然そのものを、まざまざと歌の中に見る心地します。何でもなく歌われた文句のはしにも、悠久な自然の忍びよる幽かな響、はてしなく流れ、わびしくおしうつり、やはらかに惠む、その深い氣息が感じられて、全く堪らない感じがします。悲しいと言っていゝか、嬉しいと言っていいか、ソクソクとして迫る大自然の幽玄な力に蔽はれて、体が急に寒くなり、血圧の高まるのを覚えます」
 悲しいことに中村彝は下落合の住居で37歳の時に亡くなる。

 中村彝
 明治の終わり、日本の美術界に彗星のように現われ、輝かしい作品を残しながら、大正という時代を駆け抜けて、わずか37歳でその生涯を閉じた画家。新宿・中村屋の主人・相馬愛蔵夫妻の厚意で、病身の彼は中村屋の裏にある画室に住んだが、後に下落合に移り、そこで生涯を終える。
村荘雑事目次

鹿鳴集・村荘雑事(第16首) (2013・6・29)
別府にて(第5首)

 わが こころ つくし の はま の たちばな の
               いろづく まで に あき ふけ に けり

              (我が心筑紫の浜の橘の色づくまでに秋ふけにけり)  

放浪唫草
「さすらいの旅で詠った歌の草稿。放浪唫草(ぎんそう)目次参照」
別府 「別府市は、大分県の東海岸の中央にある市。温泉が市内各地で湧出し、別府温泉として全国的に知られる」
わがこころ 「筑紫を引き出す縁語。あがこころ(我心)は心が“清澄む”、心が“あかし(=赤心)”、心を“つくす”意から、それらと同音の地名“清澄”“明石”“筑紫”にかかる枕詞」
筑紫 「古代九州の総称。また、筑前・筑後にあたる北九州を指す場合もある」
たちばな 「橘、ミカン科の常緑低木。“わが宿りし旅館の前庭にも多くこれを植ゑたり”自註鹿鳴集」

歌意
 (自分の心を“尽くす”という言葉にちなむ)筑紫の浜の橘が黄色く色づくまでに秋は深くなった。

 前歌で橘を眺めて古代憧憬の思いを詠った八一は同時に色づく橘に季節の推移を感じ表現する。枕詞「わがこころ」が語調を整えると同時に作者の情感の深さを表わしている。
放浪唫草目次

鹿鳴集・放浪唫草(第18首) (2013・4・25)
中耳炎を発して読書談話を禁制せらるることまた久しきに(第3首) 

 わが こころ ましろき つぼ の もの もはず 
               おと なき ごとく あり かつ ましじ
             

             (我が心真白き壺のもの思はず音無きごとくありかつましじ)
    
ものもはず 「もの思はず。ものを思わない」
ありかつましじ 「上代語で、生きて(あり)耐えている(かつ)ことはできない(ましじ)、できはしないでしょう。“一日こそ 人も待ちよき 長き日を かくのみ待たば 有りかつましじ (万葉集) ただ一日なら待っています、しかしこんなに長い日々を待たされたらとても生きている気がしません”」
       
歌意
 (重い病状にあっても)私の心は真白い壺が物も言わず音もたてないでじっとしているような、そんな様と同じようにじっとしていることには耐えられません。

 第2首で詠まれた3つの禁止(読むな、語るな、思うな)にはとても応じられないと白い壺をとり上げながら詠う。壺のたとえが面白い。 
病間目次

山光集・病間(第9首) (2014・7・19)
八月二十三日友人山口剛を誘いて大塚に小鳥を買ふ(第8首)

 わが こふる おほき みてら の な に おへる
               とり の いかるが これ に し ありけり

              (我が恋うる大きみ寺の名に負へる鳥の斑鳩これにしありけり)  

斑鳩
「斑鳩12首 目次参照
山口剛 (たけし)八一の親友。1880-1932、 茨城県生まれ、早稲田大学教授(国文学者)。『山口剛著作集』全6巻(中央公論社) 震余第7首参照
わがこふる 「我が恋ふる。八一は聖徳太子の法隆寺(おほきみてら)に特別の情愛を持ち、学術研究に力を入れたり、歌を詠んだりした」
おほきみてら 「“「大寺」といふこと。法隆寺を指していへり。一名「いかるがでら」。また「いかるが」には古来「伊河留我」「伊河流賀」「斑鳩」「鵤」などの宛字が用ゐられたり。”自註鹿鳴集」
なにおへる 「名前として持っている、名前を負っている」

歌意
 私が恋して止まない大きいお寺・法隆寺(斑鳩寺)の名を持っている鳥の斑鳩はこの鳥なのだ。

 八一は法隆寺再建非再建論争に加わるなど法隆寺研究に力を入れ、「いかるが」という言葉にも深い関心を示した。
 この時の鳥屋行きは斑鳩(数珠掛鳩)の購入が目的だった。
斑鳩目次

鹿鳴集・斑鳩(第8首) (2013・8・14)
土くれ(第7首)
十月の末つかたなりけむ喜多武四郎予が胸像を作り持ち来りて示すを見るに頗る予が意を獲たり乃ち喜多が携へたる鉄の箆をとりてその背に秋艸道人の四字を刻す

 わが こふる とほき ひじり の おもかげ を 
               よりて しぬばむ つちくれ も がも

              (我が恋ふる遠き聖の面影を寄りて偲ばむ土くれもがも)  

土くれ 「八一の胸像(塑像)“塑像なれば、かくいひなしたり。”自註鹿鳴集
喜多武四郎 「彫刻家(1897-1970)戸張孤雁(とばりこがん)に師事、日本美術院同人」
ひじり 「聖。徳の高い人や知識・技量がひときわすぐれている人」
よりて 「寄りて。(心が)寄って、傾いて」
もがも 「・・・があったら、・・・が欲しい」
       
歌意
 私が恋い慕う遠い時代の優れた人達の面影を心を寄せて偲ぶことができる塑像があればなあ。

 自分の胸像に感激した八一は、昔の聖達を写し取ったような塑像があればと詠う。全7首は友人の彫刻家が丹精込めて作ってくれた胸像に対する喜びと感謝を詠っている。 
土くれ目次

寒燈集・土くれ(第7首) (2014・8・31)
予罹災ののち西条に村居し一夜大いなる囲炉裏のほとりにて
よめる歌これなり(第10首)
     
 わが こゑ の ちち に にたり と なつかしむ 
               おい も いまさず かへり きたれば

             (我が声の父に似たりと懐かしむ老いもいまさず帰り来たれば)  

囲炉裏 「いろり。“予が歌ひたるこの丹呉家の炉は方四尺に近けれども、わが父の幼かりし頃は、この炉はさらに五割方大きかりしよし村人は云ひ伝へたり。”自註鹿鳴集
おい 「老い。老人」

歌意
 私の声が亡くなった父に似ていると懐かしんでくれる老人もいない、帰ってきた故郷には。

 疎開した丹呉家の炉辺に独り居る八一にとって、亡き父に似ていると懐かしんでくれる人もいない状況は、深い孤独の世界である。実家のあった古町とは遠く離れた疎開先の西条では余計にその感が深い。
炉辺目次

寒燈集・炉辺(第10首) (2014・11・5)
尾道にて(第2首)

 わが すてし バナナ の かは を ながし ゆく
                しほ の うねり を しばし ながむる 

              (我が捨てしバナナの皮を流しゆく潮の流れをしばし眺むる)  

放浪唫草 「さすらいの旅で詠った歌の草稿。放浪唫草(ぎんそう)目次参照」
尾道 「尾道市(おのみちし)は、広島県の南東部、山陽地方のほぼ中南部に位置する」
うねり 「 潮が曲がりくねる様子」
しばし 「しばらく」

歌意
 私が船から捨てたバナナの皮を乗せて流れていく潮のうねりをしばらく眺めて見ていたことよ。

 潮のうねりに乗って流されて行くバナナの皮を見つめる八一、船旅の一情景が表現される。心身ともに衰弱した東京での生活からの転地静養の長旅に解放感が感じられる。
放浪唫草目次

鹿鳴集・放浪唫草(第6首) (2013・4・18)
閑庭(第8首)

 わが たてる はたけ の はて に きこえ くる 
               には の こぬれ の ひよどり の こゑ

           (我が立てる畑の果てに聞こえ来る庭の木末のひよどりの声)  

閑庭 「かんてい。もの静かな庭。ここでは下落合秋艸堂のことを言う。“この林荘のことは、かつて『鹿鳴集』の例言の中に述ぶるところありたり。併せ見るべし。後にこの邸を出でて、同じ下落合にてほど近き目白文化村といふに移り住みしなり。”自註鹿鳴集」
こぬれ 「木末。こ(木)のうれ(末)の音変化、樹木の先端の部分、こずえ」
ひよどり 「鵯。スズメ目ヒヨドリ科の鳥。全長26センチくらい。全体に暗青灰色で、目の後ろに褐色の斑がある。ピーヨピーヨと大きな声で鳴く」

歌意
 私が立っている畑の端の方にも聞えて来る、私の家の庭の木のこずえで鳴いているひよどりの声。

 秋艸堂への道にある畑までも聞えて来る家の庭木に止まっているひよどりの声、その声の大きさと武蔵野の静かな自然が浮かんでくる。
閑庭目次

寒燈集・閑庭(第8首) (2014・9・13)
山鳩(第12首)

 わが ため に ひとよ の ちから つくしたる
                なが たま の を に なか ざらめ や も 

              (わが為に一世の力尽くしたる汝が玉の緒に泣かざらめやも)  

山鳩
「身の回りの世話をし、共に暮らした養女・きい子への挽歌21首。山鳩・序 参照」
きい子 「八一の実弟高橋戒三夫人の妹、20歳で八一の身の回りの世話に入る。33歳、八一の養女になる。昭和20年7月10日結核で死去(34歳)」
ひとよ 「一世。一生」
たまのを 「玉の緒。“魂(たま)の緒の意から”生命のこと」

歌意
 私のために生ある間尽くしてくれたお前の短い命にどうして泣かないことがあろうか、泣かないではいられない。

 傍若無人とも取れる態度、大柄で男性的な体躯、典型的な明治の男である八一は涙を見せたことはないし、その姿を想像できない。その八一の涙である。それゆえ読者の涙を誘うのである。
山鳩目次

寒燈集・山鳩(第12首) (2013・2・5)
ふたたび厳島を過ぎて(第4首)

 わが ため に みて うちならし わたつみ の
               あした の みや に はふり は うたふ

              (我が為にみ手打ち鳴らしわたつみの朝の宮にはふりはうたふ)  

放浪唫草
「さすらいの旅で詠った歌の草稿。放浪唫草(ぎんそう)目次参照」
厳島 「いつくしま。広島県南西部、廿日市(はつかいち)市の島。日本三景の一つ。厳島神社(別名、安芸の宮島)がある」
わがために 「私の求めに応じて。(祈祷料を納めて祈祷を求めた)」
みてうちならし 「手を打ち鳴らして。みての“み”は接頭語」
わたつみ 「海を支配する神、海神」
あした 「朝」
はふり 「神主・禰宜(ねぎ)に従って祭祀(さいし)をつかさどる神職。“うまさけを三輪のはふりが斎(いわ)ふ杉手触れし罪か君に逢ひがたき(万葉集 712)”」
うたふ 「“謡ふ。神ほぎうたを唱ふ”自註鹿鳴集 “ほぎ”は祝う」

歌意
 私の求めに応じて手を打ち鳴らし、海神のいます朝の厳島神社で神職が神を祝う歌を唱ってくれる。

 古代を愛し、神仏に深い理解を示した八一の敬虔な姿が浮かび上がってくる。「わがために」が思い入れの強さと八一の個性を表している。
放浪唫草目次

鹿鳴集・放浪唫草(第12首) (2013・4・23)
土くれ(第3首)
十月の末つかたなりけむ喜多武四郎予が胸像を作り持ち来りて示すを見るに頗る予が意を獲たり乃ち喜多が携へたる鉄の箆をとりてその背に秋艸道人の四字を刻す

 わが とも が いくひ の ちから かたまけて 
               けづりし つち の かげ さやか なり

              (我が友が幾日の力傾まけて削りし土の影さやかなり)  

土くれ 「八一の胸像(塑像)“塑像なれば、かくいひなしたり。”自註鹿鳴集
喜多武四郎 「彫刻家(1897-1970)戸張孤雁(とばりこがん)に師事、日本美術院同人」
かたまけて 「傾まけて。傾注して、精魂込めて」
かげ 「影。姿、形、人や物の姿を絵に写しとったもの」
さやか 「明か、清か。 はっきりしているさま、明るいさま」
       
歌意
 私の友人が何日もの間精魂こめて彫りあげた土の胸像はくっきりとして素晴らしい。

 彫った友への感謝の気持ちをもって自らの胸像に対面し、その素晴らしい姿、形に感激する。
土くれ目次

寒燈集・土くれ(第3首) (2014・8・30)
新潟にて「夕刊ニヒガタ」を創刊するとて(第3首)
     
 わがとも よ よき ふみ つづれ ふるさと の 
               みづた の あぜ に よむ ひと の ため

             (我が友よ良き文綴れ故郷の水田の畔に読む人のため)  

夕刊ニヒガタ 「坂口献吉・新潟日報社長(1895-1966)は、1946年に夕刊ニイガタを新設し、八一に社長就任を懇請した」
わがともよ 「我が友よ。ここでは社長としての立場で社員一同をさす」
       
歌意
 記者である私の友人たちよ、良い記事を書こう、この故郷新潟の水田の畔で読む人々のために。

 夕刊ニイガタの社長に就任して、長い孤独と沈潜していた心から脱却して、明るく自信に満ちた言葉で仲間たちに呼びかけた。
をぐさ目次

寒燈集以後・をぐさ(第3首) (2014・11・23)
芝草(第5首)   
十月二十四日ひさしく懈(おこた)りて伸びつくしたる門前の土塀の芝草を刈りて日もやや暮れなむとするに訪ね寄れる若き海軍少尉ありと見れば昨秋我が校を去りて土浦の飛行隊に入りし長島勝彬なり明朝つとめて遠方に向はんとするよしいへば迎へ入るしばししめやかに物語して去れり物ごし静かなるうちにも毅然たる決意の色蔽ふべからずこの夜これを思うて眠成らず暁にいたりてこの六首を成せり     

 わが ふみ を たづさへ ゆきて たたかひ の 
               ひま に よむ とふ あらき はまべ に         
             

           (我が書を携へ行きて戦ひの暇に読むとふ荒き浜辺に)
       
わがふみ 「八一の第1歌集“鹿鳴集”」
よむとふ 「読むと言う。“とふ”は“といふ”の変化したもの」

歌意
 私の本を持って行って戦いの合間に読むと言う、戦場の荒れた浜辺で。

 八一の歌集を戦場に持って行って読むと教え子が言う。そのことを聞いた八一の感動は想像に余りある。実際、長島勝彬以外にも門下生は鹿鳴集を携えて戦地に赴いたと言う。
芝草目次

山光集・芝草(第5首) (2014・6・2)
中耳炎を発して読書談話を禁制せらるることまた久しきに(第1首) 

 わが みみ の そこ の ただれ を ゆゆしみ と 
               くすし の こと の あまた かなし も 
             

             (我が耳の底のただれをゆゆしみと薬師の言のあまた悲しも)
    
ゆゆしみ 「甚だしい、ひどい」
くすし 「薬師。医者」
こと 「言。言葉」
あまた 「非常に、はなはだ」
       
歌意
 私の耳の奥のただれがとてもひどいと言う医者の言葉が大変悲しい。

 肺炎で危篤になった一週間は過ぎた。しかし、持病の中耳炎が再発した。読むこと、語ること、思うことを禁止(第2首)されたほど、症状は悪かった。
病間目次

山光集・病間(第7首) (2014・7・18)
山鳩(第17首)

 わが やど に しじに とひ こし わかびと の
                なす なからめ や なが たま も みよ 

              (わが宿にしじに問ひ来し若人のなすなからめや汝が魂もみよ)  

山鳩 「身の回りの世話をし、共に暮らした養女・きい子への挽歌21首。山鳩・序 参照」
きい子 「八一の実弟高橋戒三夫人の妹、20歳で八一の身の回りの世話に入る。33歳、八一の養女になる。昭和20年7月10日結核で死去(34歳)」
しじにとひこし 「“しじに”は繁に。数量が多いさま、たくさん。何度も訪ねてきた」
なすなからめや 「“なす”は立派なことを成し遂げる。“や”は反語を示す」
たまもみよ 「きい子の魂を見守っておくれ」

歌意
 私の宿に何度も通ってきた若い人たちはきっと学問の上でなにかをなすだろう。どうかきい子の魂を見守っておくれ。

 八一門下から多くの人材が出た。厳しく真摯に指導した若人は同時にきい子が面倒を見た人達である。「魂を見守っておくれ」は八一の痛切な叫びであり願いでもある。
山鳩目次

寒燈集・山鳩(第17首) (2013・2・7)
このごろ(第3首)

 わが やど の かべ の ふるぶみ くれなゐ に 
               もえ なむ さま を おもふ このごろ

              (我が宿の壁の古書紅に燃えなむさまを思ふこの頃)  

ふるぶみ 「古書。壁に積み重ねられた書物」
もえなむさま 「空襲によって燃える様子。前年11月1日に始まった東京空襲の中でも、国は本土決戦、一億玉砕を叫んでいた。しかし、現実は空襲にさらされて誰もが焼け出されることを覚悟し、敗戦を意識していた」
       
歌意
 私の家の壁に積まれた古書が真っ赤に燃えあがっている様子を想像する今日この頃である。

 空襲によって赤く燃え上がるさまを想像する日々だった。この後、新潟への疎開を考え準備したが、運送が間に合わずに4月13日に秋艸堂は焼失した。残ったのは事前に送った筆、硯、墨など少しと庭に埋めた陶器だけだった。このことは後に寒燈集・焦土(8首)として詠まれている。
このごろ目次

寒燈集・このごろ(第3首) (2014・9・2)
その翌日わが家の焼けたる跡にいたりて(第4首)

 わが やど の ちまき の ふみ の ひとまき も 
               ゆるさぬ かみ の こころ さぶし も


           (我が宿の千巻の書の一巻も許さぬ神のこころさぶしも)  

ちまき 「千巻。沢山の」
ひとまき 「一巻。一冊」
ゆるさぬ 「免除しなかった、残さなかった、焼いてしまった」
さぶし 「寂し、淋し。“さびし(さびしい)”の古形。心楽しくない、さびしい」

歌意
 私の家にあった沢山の本のたった一冊も残さず焼いてしまった神の心が寂しく感じられる。

 全ての書の焼失は神の意志だと考えるが、神の心が寂しく残念だと思うのである。
焦土目次

寒燈集・焦土(第6首) (2014・10・14)
淡島寒月老人に

 わが やど の ペルウ の つぼ も くだけたり 
                な が パンテオン つつが あらず や

 
           (わが宿のペルウの壺も砕けたり汝がパンテオン恙あらずや)

震余 「地震とその後のこと」
淡島寒月 「本名:淡島宝受郎(とみお)1859-1926、学芸の人。若い八一が志した奈良研究に寒月の影響がある。明治時代の日本の作家、画家、古物収集家。広範な知識を持った趣味人で、収集家としても有名である。3000あまりの玩具と江戸文化の貴重な資料は関東大震災で全て焼失した。 註参照」
ペルウのつぼ 「ペルーの壺。“南アメリカ秘魯(ペルー)国の先住民インカの造り遺したる土製の壺。人畜鳥魚などを描きたるその文様に特色ありて、趣味人の間に愛玩(あいがん)せらる。”自註鹿鳴集」
パンテオン 「古代ギリシア、古代ローマのすべての神々を祀る神殿のこと。寒月の住居(梵雲庵)をパンテオンにたとえた。“PANTEON。羅馬(ローマ)皇帝アグリッパが紀元前二十七年に建立して、当時の世界各地の宗教的偶像を陳列したりといふ神殿の名なり。その神殿に擬して戯にかく詠みしなり。”自註鹿鳴集」
つつがあらずや 「恙(つつが)は禍のこと。禍が無かったであろうか」

歌意
 私の家の大事にしていたペルーの壺も壊れてしまった。神仏像その他を陳列したパンテオンと言えるあなたの家は被害はなかったであろうか。

 若き八一が親交した20歳ほど年上の寒月の家も火災で燃えてしまった。前句(震余第7首)と同じように巨大地震の惨状を「諧謔の語」を入れながら詠む。直視するに堪えがたい現実をこうした表現を以て詠まざるを得なかった八一の心を思う。

 淡島寒月 自註鹿鳴集より
 名は宝受郎(1859-1926)。椿岳(ちんがく)の子。向島須崎町弘福寺の門前に住める趣味家。明治以後最も早く井原西鶴の文章に心酔し、これを幸田露伴(1867-1947)尾崎紅葉(1867-1903)の二人に鼓吹(こすい)せし人、後にこの二人によりて文壇は初めて西鶴の存在と価値を知れり。老後は諸国の土俗玩具、内外の神仏像などを多く蒐集(しゆうしゆう)したるが、この火災にて、身長の一倍半に近かりし自著の随筆の稿本とともに、悉くそれらを烏有(うゆう)に帰せしめたり。作者とは久しく忘年の交あり。
震余目次

鹿鳴集・震余(第8首) (2013・7・14)
猿沢池にて

クリックを

 わぎもこ が きぬかけ やなぎ みまく ほり 
            いけ を めぐり ぬ かさ さし ながら 

         
           (吾妹子が衣掛け柳みまくほり池をめぐりぬ傘さしながら)

猿沢池 「興福寺境内の南にある奈良八景の一つ、池畔に衣掛柳がある」
わぎもこ 「吾が妹(いも)のつまった語で、妻や恋人をさす」
きぬかけやなぎ 「天皇の寵を失い池に身を投げた采女が上衣を掛けた柳」

歌意
 采女が愛を失って入水する前に掛けたと伝えられている衣掛柳を見たいと思って猿沢の池をめぐり歩いた。折からの雨に傘をさしながら。

歌碑 裏

 28才の「若き八一の憂い」と古代に対する憧憬が甘味に詠われている。大和物語、枕草子などに記載される采女の悲話伝説から生まれた八一の名歌だ。
 平成10年7月、奈良セントラルライオンズクラブが右上の歌碑を建てた。友人の知らせですぐに訪れたが、奈良駅近くなのでその後何度も接している。
南京新唱目次

鹿鳴集・南京新唱(第11首) (2002・06・06)
その寺の金堂に入りて(第3首) 

 わくごら は あな うつくし と みほとけ の 
               みだう の やみ に こゑ はなち つつ 
             

           (若子らはあな美しとみ仏のみ堂の闇に声放ちつつ)
       
霜葉 「そうよう。霜で紅や黄に変色した葉」
金堂 「室生寺金堂。本尊を安置する本堂で、五体の仏像が並び立ち、その手前に十二神将立像が立つ」
わくごら 「若子ら。“わくご”は年少の男子、また、若い男子を敬っていう語。ここでは学生達を指す」
あな 「感嘆詞で喜び、悲しみ、うれしさ、怒りなどを強く感じて発する語。ああ、あら」

歌意
 若者たちは、なんと美しい仏像だろう、と暗い金堂の中で感嘆の声を放っている。

 明日にも戦地に赴く学生たちの感嘆の声、仏像の美に対する純粋な感動であろう。
 “道人は金堂でも手燭を点して、沢山ならぶ仏たちをゆっくり、しずかに見せてくれた。「わくらご」とは、若い学生たちを古風に呼んだ。思わず「美しいなあ」と溜息のような声がこだましたが、わたしもその一人だった。かって大正十一年(1921)八月のさ中、道人ははじめて室生寺を訪ねたときの感動と陶酔を、若い学生たちに味わせたかったのだろう”(植田重雄の“最後の奈良見学旅行3”より)
 

霜葉目次

山光集・霜葉(第7首) (2014・6・20)
汽車中(第2首)

わさだ かる をとめ が とも の かかふり の
                しろき を み つつ みち なら に いる


    (早稲田刈る乙女がとものかかふりの白きを見つつ道奈良に入る)


わさだ 「早稲田。早稲を作る田」
をとめがとも 「乙女たち、ともは複数を表わす接尾語」
かかふり 「冠。手拭いなどで頬かぶりする」

歌意
 早稲を刈る乙女たちのかぶる手ぬぐいの白い色を見ながら、道は奈良に入った。
 
 白い手ぬぐいをかぶった乙女たちの刈り入れの姿は、昔はどこででも見ることができた風景だが、汽車に乗って大和路に入る秋の光景は、何度も訪れた八一にとっては特別のものだったろう。奈良の古寺、古仏への思いが平易な表現の裏側に垣間見ることができる。ときめきを秘めて奈良を訪れる。いつもそうありたい。    第1首へ
南京新唱目次

鹿鳴集・南京新唱(第91首) (2009・05・27)
旅中たまたま新聞にて大隈候の病あつしと知りて
     
 わせだ なる おきな が やまひ あやふし と
               かみ も ほとけ も しろし めさず や 

             (早稲田なる翁が病ひ危ふしと神も仏もしろしめさずや)  

大隈候 「大隈重信(1838~1922)、元佐賀藩士で明治から大正に活躍した政治家。早稲田大学の創設者で初代総長」
わせだ 「早稲田大学」
おきな 「年取った男、年寄り。ここでは上記、大隈重信のこと」
あやふし 「危ふし、命が危ない」
しろしめさずや 「お知りにならないのだろうか、いやそうではなくお知りだろう。“しろしめす”は知らしめす(知召)の変化した語で、お知りになる。承知しておられる。おわかりでいらっしゃる。“ず”は否定、“や”は反語」

歌意
 早稲田大学の大隈候が重い病気で命が危ないと神や仏はお知りにならないのだろうか、いや決してそんなことはない。知っておられるだろう。

 早稲田中学教頭職にあった八一の大隈候の重病に対する叫びである。神仏はいらっしゃらないのかと詠う気持ちが素直に伝わってくる。
 放浪唫草は大正10年11月から11年2月まで西国を遍歴したときに詠ったものだが、1月2~13日まで一度大阪に戻り、奈良をめぐり、再度西国に立つ。大隈候の重病を知ったが、諸般の事情で東京には戻らなかった。大隈重信は大正11年1月10日に亡くなる。

放浪唫草目次

鹿鳴集・放浪唫草(第52首) (2013・6・1)
十一月十日学生を伴ひ奈良に向ふとて汽車の窓より
東方の海上を望みて(第2首)   

 わたつみ の そこ つ いはね の しほざゐ に 
               かみ の うましし あきつしまやま        
             

           (わたつみの底つ磐根の潮騒に神の生ましし秋津島山)
       
わたつみ 「海神。海を支配する神、海。ここでは海を指す」
そこついわね 「底つ磐根。底にある岩」
しほざゐ 「潮騒。潮の満ちてくるときに波の騒ぎ立つ音」
あきつしまやま 「秋津島山。秋津島は大和国の異称。また、広く日本をさす。秋津島山で日本の国を言う。“『古事記』によれば、二神の矛(ほこ)の滴の塩より生れしは、ただ淤能碁呂島(おのごろしま)のみなるを、ここには秋津島全体をかけてかく詠みなしたり。”自註鹿鳴集」

歌意
 海の底の岩に潮が波立ち騒ぎ立つ音の中で神がお生みになった秋津島山、日本よ。

 日本の敗色は濃く、国家の存亡まで考えたかもしれない。神が生んだこの国を守ると願う心。
海上目次

山光集・海上(第2首) (2014・6・3)
あるあしたクエゼリンの戦報に音羽侯の将士とともにみうせたまひける
よし聞きて(第3首)   

 わたつみ の そこひ も しらず ゆく しほ の 
              ふかき うらみ を わが いかに せむ

           (わたつみの底ひも知らず行く潮の深き恨みを我が如何にせむ)

クエゼリン 「クェゼリン環礁のこと。マーシャル諸島、ラリック列島にある環礁。委任統治していた日本軍は昭和19年2月、アメリカ軍によって全滅」
音羽侯 「音羽正彦侯爵。昭和11年に皇籍を離脱して侯爵となり、第6根拠地隊参謀として昭和19年クェゼリン島で玉砕。参照」
わたつみ 海神。海を支配する神、海。ここでは海を指す

歌意
 海の深い底、人が知ることもできないようなところを流れていく潮のように深い敗戦の恨みを私はどうしたらいいのだろう。

 上3句は「ふかき」を導く序詞。元皇室、音羽侯爵のクェゼリン環礁での戦死を詠む4首の第3首

 日本ニュース(1944・4・20)
去る2月、クェゼリン環礁守備部隊6500名の勇士とともに、尊き御身をもって南海の果てに散華させたもうた侯爵、音羽正彦少佐のご英霊は、4月12日、御父君朝香宮鳩彦王殿下、御兄君孚彦王殿下をはじめ奉り、軍代表参列して御迎え申し上げるうちを、○○空港に無言の凱旋(がいせん)を遊ばされました。ご英霊は同期生ショウジ隊員に奉持(ほうじ)され、国民挙げて哀悼のうちに一路横須賀へと向かわせられました。
病間目次

山光集・病間(第35首) (2014・8・2)
鐘銘
五剣山八栗寺の鐘は戦時供出し空しく十余年を経たり今ここに昭和三十年十一月龍瑞僧正新に之を鋳(い)むとし余に歌を索(もと)む乃ち一首を詠じて之を聖観世音菩薩の宝前に捧ぐその歌に曰く

 わたつみ の そこ ゆく うを の ひれ に さへ 
               ひびけ この かね のり の みため に


           (わたつみの底ゆく魚の鰭にさへ響けこの鐘法のみために)  

鐘銘 「しょうめい。釣り鐘にしるしてある銘文」
八栗寺 「香川県高松市牟礼町牟礼の五剣山にある真言宗大覚寺派の寺院。四国八十八箇所霊場の第八十五番札所」
戦時供出 「昭和13年、政府は戦局の悪化と物資の不足、特に武器生産に必要な金属資源の不足を補うため、鉄鋼配給規則を制定(任意)、さらに昭和16年8月30日には国家総動員法に基づく金属類回収令を公布して強制的に金属類の根こそぎ回収を行った。そのため、全国の梵鐘はほとんど拠出された」
鋳む 「いむ。金属を溶かして鋳型の中に流し込む。ここでは鐘を作ること」
わたつみ 海を支配する神、その神が支配する海。ここでは海を指す
のり 「法。仏の教え」

歌意
 海の底の深いところを泳いでいく魚の鰭にまでこの鐘の音は響いていけ、仏の教えのために。

 仮名文字の歌の鐘銘は無かったので苦労したという。揮毫して渡したが、この鐘の完成を見ることなく昭和31年12月21日、八一はこの世を去った。この歌は八一の最後の作品である。

追記
 この作品を持って886首の解説を終わる。歌は会津八一全歌集(S61年7月25日初版)による。なお、その他に拾遺264首があるが、これについては上記の全歌集を参照して欲しい。
鐘銘目次

寒燈集以後・鐘銘 (2014・12・9)
瀬戸内海の船中にて

 わたつみ の みそら おし わけ のぼる ひ に
                ただれて あかき あめ の たなぐも 

              (わたつみのみ空押し分け昇る日にただれて赤き天のたなぐも)  

放浪唫草
「さすらいの旅で詠った歌の草稿。放浪唫草(ぎんそう)目次参照」
わたつみ 「海を支配する神、その神が支配する海。ここでは海を指す」
ただれて 「皮膚や肉がやぶれくずれて(そのように)」
あめ 「あめ(天)の古形で空のこと」
たなぐも 「“棚の如く平らかに層をなして靡(なび)ける雲”自註鹿鳴集」

歌意
 海の上から空を押し分けて昇る朝日によって、ただれたように赤く染まった雲、空の上にたなびいた雲が(船の上から)見えることよ。

 夕方大阪を出た船(第1首)は海上で夜明けを迎えた。朝の情景を「ただれて赤き」と表現する。怪異な感触がある「ただれて」という表現が、ダイナミックで不思議な夜明けの光景を強調する。
放浪唫草目次

鹿鳴集・放浪唫草(第2首) (2013・4・15)


やがて松ヶ崎なる新潟飛行場に着して(第3首)

 わたり こし みそら はるけく しらくも の 
               むれ たつ なか に いる こころ かも

           (渡り来しみ空はるけく白雲の群れ立つ中に入る心かも)  

はるけく 遥けく。(空間的に)はるかに、遠い」
雲際 「うんさい。雲の果てるところ。はるかな天空」

歌意
 新潟飛行場に降り立って、渡ってきたはるかな空を仰ぐと白雲の群れ立っている中へ入っていくような気持になる。

 地上に降り立った八一は飛んできた彼方の空を眺めて詠う。緊張した飛行時からの解放感もあったであろう。この時、飛行場に車で出迎えたのは坂口献吉・新潟日報社長(参照)だった。戦後、早稲田大学には帰らず、坂口の協力で新たな道を新潟で歩む。

 坂口献吉・新潟日報社長(1895-1966)は、1946年に「夕刊ニイガタ」を新設し、八一に社長就任を懇請した。社長に就任した八一は後に早稲田から復職の要請があったが断っている。これは坂口献吉の人力や郷里の人々の温かい心に応えたためである。なお、坂口安吾は献吉の弟である。
雲際目次

寒燈集・雲際(第5首) (2014・10・18)
その寺の金堂に入りて(第2首) 

 わたる ひ の ひかり ともしき やまでら の 
               しづけき ゆか に たつ ほとけ たち
             

           (渡る日の光乏しき山寺の静けき床に立つ仏たち)
       
霜葉 「そうよう。霜で紅や黄に変色した葉」
金堂 「室生寺金堂。本尊を安置する本堂で、五体の仏像が並び立ち、その手前に十二神将立像が立つ」
ともしき 「乏しき。 十分でない、足りない」

歌意
 空を渡る日の光も山の中なので乏しく薄暗い山寺の静かな床の上に立っている仏たちよ。

 光の乏しい室生寺金堂の仏たちの雰囲気を的確にとらえている。金堂に入ってしばらく見つめていると浮かび上がるように美しい仏たちがあらわれてくる。
                            植田重雄の“最後の奈良見学旅行3

霜葉目次

山光集・霜葉(第6首) (2014・6・20)
菅原道真をおもひて
     
 わび すみて きみ が みし とふ とふろう の
               いらか くだけて くさ に みだるる  

             (わび住みて君が見しとふ都府楼の甍砕けて草に乱るる)  

菅原道真 「845ー903、平安時代前期の貴族、学者、漢詩人、政治家。宇多天皇に重用され、醍醐朝では右大臣となるが、左大臣藤原時平の中傷により大宰府に左遷、そこで没した。現在は学問の神として親しまれる」
わびすみて 「生きて暮らしていくことをつらいと思うほどの心で住まわれた」
みしとふ “「見しといふ」の略。”自註鹿鳴集」
とふろう 「都府楼、大宰府の建物。“『唐書』の「百官志」によれば、節度使ありて、その地方々々の軍政及び行政を掌(つかさど)り、節度使の高殿を「都府楼」といふ。我が国の「都府楼」は、それに倣(なら)ひしものなり。この地に左遷されし菅原道真(845-903)の詩に「都府楼ハ纔(わずか)ニ瓦色ヲ看(み)ル、観音寺ハ只(た)ダ鐘音ヲ聴ク」といふ句あり。また世俗に周知さるる「去年ノ今夜清涼ニ侍ス」の句を含める七言絶句あり。その閉戸憂悶の状睹(み)るが如し。かくの如きこと三年にて此の地にて死せり。”自註鹿鳴集

歌意
 失意の中で住まわれてあなたが見たと言う都府楼の甍が砕け散って生い茂る雑草の中にあちこちに乱れている。

 讒訴(ざんそ)されて大宰府に左遷され、三年で死んでしまった菅原道真への哀惜を砕けた甍に託して詠う。道真の有名な漢詩や歌が思いを深くする。病身の八一が捨て身の思いで旅だった西国遍歴の心境が重ねられる。
放浪唫草目次

鹿鳴集・放浪唫草(第54首) (2013・6・3)
二日飛報あり叔父の病を牛込薬王寺に問ふ
この夜春雪初めていたる (第2首)

 われ わかく ひと に まなびし もろもろ の
               かぞへ も つきず その まくらべ に

              (我若く人に学びし諸々の数へも尽きずその枕辺に)  

叔父
「会津友次郎(会津本家の当主)昭和15年2月3日76歳で没す。八一の少年時代にその才を認め文芸への影響を与えた人。春雪目次参照」
ひとに 「この人に(叔父に)」
もろもろ 「多くのもの、さまざまのもの」
かぞへもつきず 「数えきれない」

歌意
 私の若き時にこの人に学んださまざまのことは数えることが出来ないほど多い、なすすべなく枕もとにいて思う。

 叔父の枕辺で思い起こすことは、学問その他多くのことをこの人から学んだことである。叔父への感謝の気持ちが素直に自然に表れている。学者、歌人、書家として大成したことは八一の才能とともに若き日の叔父の影響が多大であることは言うまでもない。
春雪目次

鹿鳴集・春雪(第2首) (2013・10・12)
閑庭(第40首)

 ゐどばた の はち を こちたみ いくとせ を 
               ぶだう の ふさ の いまだ にほはず

           (井戸端の蜂をこちたみ幾年を葡萄の房のいまだにほはず)  

閑庭 「かんてい。もの静かな庭。ここでは下落合秋艸堂のことを言う。“この林荘のことは、かつて『鹿鳴集』の例言の中に述ぶるところありたり。併せ見るべし。後にこの邸を出でて、同じ下落合にてほど近き目白文化村といふに移り住みしなり。”自註鹿鳴集」
こちたみ 甚だしい、ひどくたくさんだ。“はちをこちたみ・蜂多きがために、その害を受けて、葡萄は遂に熟することなかりしとなり。”自註鹿鳴集
にほはず 「熟して色づかない」

歌意
 井戸端の蜂があまりに多いので何年もの間、葡萄の房は色づき、熟することはない。

 蜂の群れのために手入れが行きとどかなかったのか、放置された葡萄(第41首)は熟することが無かったようだ。房ができても摘粒して袋かけなどしないと色づかないと言う。 
閑庭目次

寒燈集・閑庭(第40首) (2014・10・3)
雨竹に
     
 ゑがき こし すみゑ の たけ の このごろ を 
               ややに つゆけく なり に ける かも

             (描きこし墨絵の竹のこの頃をややに露けくなりにけるかも)  

自画題歌 「昭和20年~21年の間に菊、竹、その他の画を題にした歌8首」
雨竹 「雨にうたれている雰囲気の竹。雨の日の竹は湿潤な感じを出すために、水分たっぷりに墨が滲むくらいで描くという」
       
歌意
 ずっと描いてきた墨絵の竹がこの頃は少し露っぽく、しっとりとした感じになってきたようだ。

 長年描いてきた墨絵、その雨竹の画が湿っぽい感じが出てくるようになったと自賛する。
自画題歌目次

寒燈集・自画題歌(第5首) (2014・11・20)
閑庭(第14首)

 をか の うへ に わが いへ をれば の の はて の 
               いりひ に ふじ の もえぬ ひ ぞ なき

           (岡の上に我が家居れば野の果ての入日に富士の燃えぬ日ぞ無き)  

閑庭 「かんてい。もの静かな庭。ここでは下落合秋艸堂のことを言う。“この林荘のことは、かつて『鹿鳴集』の例言の中に述ぶるところありたり。併せ見るべし。後にこの邸を出でて、同じ下落合にてほど近き目白文化村といふに移り住みしなり。”自註鹿鳴集」
わがいへをれば 「私が住んでいるので」

歌意
 武蔵野の岡の上に私は住んでいるので、我家から見える野の果ての富士山はいつも夕日に真赤に染まらない日は無く、赤々と燃えている。

 当時の武蔵野は自然のままで富士山もよく見えた。壮大な情景を赤く燃える富士を通して表現する。
閑庭目次

寒燈集・閑庭(第14首) (2014・9・17)
春日野にて(第9首)

 をぐさ はむ しか の あぎと の をやみ なく
                 ながるる つきひ とどめ かねつ も


           (を草食む鹿のあぎとのを止みなく流るる月日とどめかねつも)

をぐさ   「“「を」は接頭語。ただ「草」といふの同じ。”自註鹿鳴集」
あぎと 「顎(あご)」
をやみなく 「“”は接頭語。止むことが無く」
かねつも 「“かねつ”はできないこと、は詠嘆を表す」

歌意

 草を食べる鹿の顎(あご)が少しも止まらないのと同じように、月日の流れはとどめることができないのだなあ。

 鹿鳴集冒頭、春日野にて9首の最後の歌である。9首の中、7首まで鹿の歌を詠み込んだ。鹿を中心に春日野を詠み込み、奈良へ誘いながら、歌集は奈良の仏を詠んだ名歌に繋がっていく。誰もが、鹿鳴集(330首)冒頭の南京新唱(99首)を読む中で、八一の奈良と仏像の歌の虜になってしまう。
 万葉集の鹿はほとんどその鳴き声で詠まれていたが、「あぎと」と言う具体的な姿を歌材にしたことを八一は後の解説で強調している。
南京新唱目次

鹿鳴集・南京新唱(第9首) (2005・12・15)
奈良の宿にて(第1首)

 をじか なく ふるき みやこ の さむき よ を 
               いへ は おもはず いにしへ おもふ に

         

             (牡鹿鳴く古き都の寒き夜を家は思わず古思ふに)

奈良の宿
いへは
「登大路(のぼりおおじ)にあった日吉館」
「“我が家は。”自註鹿鳴集」

歌意
 牡鹿が牝鹿を求めて鳴く、寒さが厳しい古都奈良の夜更け、(奈良の宿で)遠く離れた我が家のことは思わず、古代のことに思いをはせている。
        
 豪放磊落に見える八一は淋しがり屋だったという。荒廃した古都奈良、質素な定宿に一人投宿して深夜牡鹿の声を聞いて自然に詠み出された歌であろう。そこで思うのは我がことではなく、自らが求める古代への思いであった。
 八一は、随筆・渾齋隨筆の「鹿の歌二首」で、鹿の声について以下のように言う。
鹿の聲はもとより淋しい。それに私の定宿のある登大路(のぼりおふぢ)あたりの夜はことに淋しい。しかし、それよりも、私の気持ちの方に、もっと淋しいものがあったのだろう。・・・・とりわけ、あの鳴き聲は、大ッぴらで、高ッ調子で、そのくせ、そのまゝ人の心に強く染み入る
南京新唱目次

鹿鳴集・南京新唱(第92首) (2007・01・11)
大阪の港にて

 をちこち に いたがね ならす かはぐち の
                あき の ゆふべ を ふね は いで ゆく 

              (をちこちに板金鳴らす川口の秋の夕べを船は出でゆく)  

放浪唫草
「さすらいの旅で詠った歌の草稿。放浪唫草(ぎんそう)目次参照」
をちこち 「遠近、遠い所と近い所。あちらこちら」
いたがねならす 「“鉄板を打ち鳴らす音なり。鉄工所か造船所にてもありしならむ”自註鹿鳴集」

歌意
 あちらこちらの工場から鉄板を叩く音が響いてくる秋の夕暮れの大阪の港、その川口から私を乗せた船が出ていこうとしている。

 早稲田中学運営(教頭)から学術の道に軸足を移そうとする八一は、心と体の病を癒すことも兼ねて大正10年11月から翌年2月まで西国を遍歴する。その旅立ちの最初は大阪の港だった。
放浪唫草目次

鹿鳴集・放浪唫草(第1首) (2013・4・13)
別府のやどりにて夢想

 をちこち の しま の やしろ の もろがみ に
               わが うた よせよ おき つ しらなみ

              (をちこちの島の社のもろがみに我が歌よせよ沖つ白波)  

放浪唫草
「さすらいの旅で詠った歌の草稿。放浪唫草(ぎんそう)目次参照」
別府 「別府市は、大分県の東海岸の中央にある市。温泉が市内各地で湧出し、別府温泉として全国的に知られる」
夢想 「“ここにては「空想」にはあらず。睡眠中に作りて、醒めて後尚(な)ほ記録せる詩歌の類を神仏の霊感などの如く思ひて「御夢想」などいふ。”自註鹿鳴集」
をちこち 「遠近、遠い所と近い所。あちらこちら」
もろがみ 「多くの神々」
よせよ 「“運び行きてこれを伝へよ。”自註鹿鳴集」
おきつしらなみ 「沖に立つ白波」

歌意
 あちらこちらの島の社殿に鎮座する多くの神々に私の歌を運んで伝えておくれ、沖に立つ白波よ。

 市島春城宛の手紙から。「今朝夢中にて一首を得候。夢中に詩歌をつくることは、古來多く傳ふるところ、小生も其経験は稀ならず候へども、みな心身の多少疲れたるときの所産なるらしく候。今暁のものは をちこち の ・・・・(大正10年12月3日)」。

 市島春城(いちしましゅんじょう)1860~1944
 政治家・文筆家。新潟県北蒲原郡生まれ。ジャーナリスト、衆議院議員、早稲田大学図書館初代館長として活躍、多くの随筆、記録を残す。八一の親戚にあたり、住居の提供など、学業から生活まで手助けした。
放浪唫草目次

鹿鳴集・放浪唫草(第23首) (2013・4・29)
春日野にて(第2首)

 をとめら が ものがたり ゆく の の はて に   
               みる に よろしき てら の しらかべ       

              (乙女らが物語りゆく野の果てに見るによろしき寺の白壁)
  
ののはて 「春日野の果て、はずれ
みるによろしき 「見るのに良い、美しい」

歌意
 乙女たちが物語りゆく春日野のはずれに美しい寺の白壁が見えるのはとても良い。

 賑やかに語りながらゆく乙女たちと寺の白壁の場面を良しとして詠う。古都奈良の特徴ある風景と言える。
南京続唱目次

鹿鳴集・南京続唱(第12首) (2012・12・11)
春日野にて(第1首)

 をとめら は かかる さびしき あき の の を   
               ゑみ かたまけて ものがたり ゆく       

              (乙女らはかかる寂しき秋の野を笑みかたまけて物語りゆく)
  
かかる 「これほどまでに
ゑみかたまけて 「“ゑみ”は笑み。笑いが片寄る、笑い転げて」

歌意
 私にはこんなに寂しく思える秋の春日野を、乙女たちは笑い転げて物語りゆく。

 春日野にては全3首、その第1首。箸が転げても笑う修学旅行生かもしれぬ乙女達、集団の明るい声と古都奈良の秋を寂しいと捉える歌人の心の対比が面白い。
南京続唱目次

鹿鳴集・南京続唱(第11首) (2012・12・11)
山鳩(第15首)

 をのこご に うまれたり せば ひたすらに
                ひとつ の みち に すすみ たり けむ

              (男子に生まれたりせばひたすらに一つの道に進みたりけむ)  

山鳩 「身の回りの世話をし、共に暮らした養女・きい子への挽歌21首。山鳩・序 参照」
きい子 「八一の実弟高橋戒三夫人の妹、20歳で八一の身の回りの世話に入る。33歳、八一の養女になる。昭和20年7月10日結核で死去(34歳)」
おのこご 「男子」
ひたすら 「いちずに」

歌意
 もしおまえが男子に生まれていたならば、いちずに一つの道を進んできっと大成していただろう。

 一つの道を貫き通し大成することが女子では難しい時代だったので「男に生まれていたならな~」と歎き、きい子を評価する。
 「きい子は平生學藝を尚び非理と不潔とを好まず絶命に臨みてなほ心境の明清を失はざりし」(山鳩・序より)
山鳩目次

寒燈集・山鳩(第15首)(2013・2・6)
三月二十八日報ありちか頃その寺に詣でて拝観するに香薬師像の
たちまち何者にか盗み去られて今はすでにおはしまさずといふを
聞きて詠める(第1首) 


 をろがみて きのふ の ごとく かへり こし 
              みほとけ すで に なしと いはず やも

         

             (をろがみて昨日のごとく帰りこしみ仏すでに無しと言はずやも )

をろがみて
みほとけ
やも
「拝(おが)んで、拝観して」
「香薬師(新薬師寺)」
「・・・であろうか、いやそうではあるまい。詠嘆を込めた反語」

歌意
 香薬師を拝観して帰ってきたのは昨日のように思われる。それなのに御仏はもういらっしゃらないと言うのだろうか。
        
 昭和18年3月、3度目の盗難にあった香薬師はついに戻ることは無かった。盗難を嘆き、御仏が戻ることを願って八一は上記の詞書で5首の歌を詠んだ。今、新薬師寺に安置されているのは香薬師のレプリカである。(右の写真は早大文学部所蔵のレプリカ)




香薬師目次

山光集・香薬師(第1首) (2010・03・04)
inserted by FC2 system