会津八一の生涯 

 会津八一は1881年(明治14)8月1日に新潟市古町通五番町に生まれる。“八一”と言う名は生まれた日による。1946年(昭和31)11月21日新潟で永眠(75歳)。美術史家、歌人、書家で、号は秋艸道人(しゅうそうどうじん)、八朔(はっさく)、渾斎(こんさい)等である。
 1906年(明治39)早稲田大学文学部を卒業、1931年(昭和6)早稲田大学文学部教授になる。独自の歌、書で世に知られる。奈良美術研究のかたわら南都に取材して盛んに短歌をつくり、1924年(大正13)に歌集「南京新唱(なんきょうしんしょう)」を上梓(じょうし)する。その後南京新唱を含む「鹿鳴集(ろくめいしゅう)」「山光集(さんこうしゅう)」「寒燈集(かんとうしゅう)」を出版、生涯に千首余の歌を詠む。オリジナリティに富んだ書は独自の世界を切り開き、ファンが多い。
 学者としては1933年(昭和8)「法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究」で学位を受け、美術史を早大で教える。
 1945年(昭和20年)戦災で東京から新潟に移った後は、夕刊新潟社の社長、後に新潟日報社の社賓となり、新潟の文化向上のためにも尽くした。

 年 表
1881年(明治14)     新潟市古町通五番町に生まれる (8月1日生)
                  父、政次郎、母、イク。八一は3男4女の次男
1895年(明治28)14歳 新潟県尋常中学校(現県立新潟高等学校)入学
1899年(明治32)18歳 俳句を始め、万葉集や良寛らの歌を読む
                  この頃、尾崎紅葉、坪内逍遥に会う
1900年(明治33)19歳 高校を卒業、上京し正岡子規と面会、その後脚気を病み帰郷
1901年(明治34)20歳 「東北日報」「新潟新聞」の俳句選者となる
1902年(明治35)21歳 東京専門学校(現早稲田大学)高等予科に入学
                  翌年早稲田大学文学科に入学
1906年(明治39)25歳 大学卒業、 英語教師として新潟県中頚城(なかくびき)郡板倉村の
                  有恒学舎(現県立有恒高等学校)に赴任
1908年(明治41)27歳 初めて奈良に旅行し、20首の短歌を詠む
1910年(明治43)29歳 坪内逍遙に招かれ、早稲田中学校英語教師になる
1924年(大正13)43歳 第1歌集「南京新唱」刊行
1925年(大正14)44歳 早稲田大学附属高等学院教授となる
1926年(大正15)45歳 早稲田大学文学部講師となり東洋美術史を講義
1931年(昭和 6)50歳 早稲田大学文学部教授となる
1938年(昭和13)57歳 早稲田大学文学部に藝術学専攻科を設置し主任教授となる
1940年(昭和15)59歳 歌集「鹿鳴集」刊行
1942年(昭和17)61歳 随筆集「渾齋随筆」刊行
1944年(昭和19)63歳 歌集「山光集」刊行
1945年(昭和20)64歳 早稲田大学教授を辞任
                  空襲により罹災し、新潟県北蒲原郡中条町へ
                  7月10日、養女きい子亡くなる(33歳)
1946年(昭和21)65歳 夕刊新潟社の社長に就任
1947年(昭和22)66歳 歌集「寒燈集」刊行
1948年(昭和23)67歳 早稲田大学名誉教授となる
1948年(昭和24)68歳 従兄弟中山後郎の娘蘭を養女とする
1950年(昭和25)69歳 新潟日報社の社賓となる
1953年(昭和28)72歳 宮中歌会始の召人となる
                  「自註鹿鳴集」を刊行
1955年(昭和30)74歳 香川県五剣山八栗寺の鐘銘を揮毫
1956年(昭和31)75歳 11月21日、冠状動脈硬化症により新潟大学付属病院で永眠
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