会津八一(あいづ・やいち) 目次へ |
山中にて(第2首) さいちょう の たちたる そま よ まさかど の ふみたる いは よ こころ どよめく (最澄の立ちたる杣よ将門の踏みたる岩よ心どよめく)
歌意 最澄が立った杣よ、平将門の踏んだ岩よ、それらを思うととても心がさわぐことだ。 奈良では仏教美術に魅せられて古代憧憬の歌を詠んだが、ここでは歴史上に活躍した最澄と将門の比叡山における姿を想定しながら高ぶる心を詠み込んだ。 写真は最澄・伝教大師40歳の像と言われるもので、比叡山の西塔峰道駐車場にある。11メートルあるこの像は、山田恵諦第13代天台座主の時に建立された。 注 将門の伝説 将門、藤原純友と相携えて比叡山に登り、王城を俯瞰して、壮んなるかな、大丈夫此に宅(を)るべからざるかと叫んで反を謀り、純友に向かって、他日志を得なば我は王族、まさに天子となり、公は藤原氏、能くわが関白になれと謂ったといふ伝説がある。(吉野秀雄・鹿鳴集歌解より) また、八一も自注鹿鳴集で同様のことを「頼山陽・日本外史(1829)」によると述べている。
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明王院(第1首) さかもと の よがは の たき の いは の へ に ひと の みし とふ くしき おもかげ (坂本の横川の滝の岩の上に人の見しとふくしき面影)
歌意 比叡山の坂本の横川の滝の岩の上に人が見たと言う神秘的な姿、それがこの赤不動だ。 明王院の赤不動(仏画)に対面した感動を、まずはこの絵の伝説に触れて表現した。明王院11首はこの赤不動を詠んだ歌である。(下記前書を参照) 注 前書 十九日高野山明王院に於て秘宝赤不動を拜すまことに希世の珍なりその図幽怪神異これに向ふものをして舌慄へ胸戦き円珍が遠く晩唐より将来せる台密の面目を髣髴せしむるに足る予はその後疾を得て京に還り病室の素壁に面してその印象を追想し成すところ即ちこの十一首なり。 語句解説
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二十二日唐招提寺薬師寺を巡りて赤膚山(あかはだやま)正柏が窯(かま) に立ちよりて息(いこ)ふ(第4首) さきだちて さら や くだけむ もの かきし
われ や くだけむ よ の なか の みち (先立ちて皿や砕けむ物書きし我や砕けむ世の中の道)
歌意 私が書画を書いたこの皿が砕けて無くなるのが先か、それとも私が先に死んで行くのであろうか、無常であるこの世のならいでは。 仏教に精通し無常なることを常に念頭に置いていた八一の思いが素直に表現されている。対象と己との対比で「無常」あるいは「有限」であることを詠んだ歌は他にもあるが、この句は目の前の対象に直接的に対応した心情の吐露といえる。 第1首 第2首 第3首 第4首
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観心寺の本尊如意輪観音を拝して(第1首) さきだちて そう が ささぐる ともしび に
くしき ほとけ の まゆ あらは なり (さきだちて僧が捧ぐる灯火に奇しき仏の眉あらはなり)
歌意 先に立った僧が捧げ持つ灯りに、この妖しいまでの秘仏の太い眉がはっきりと眼前に迫ってくる。 4月18日、年1回の開帳に金堂は人で埋まっている。如意輪観音は、僧が捧げ持つ灯りに怪しげに艶めかしく現れたのではなく、満座の人々が凝視する先に豊かで色美しい姿を堂内に浮かび上がらせていた。それは強烈な印象であり、訪れたことの幸せをしみじみと感じるひとときだった。豊満で美しい仏の顔を飽きることなく眺めていた。 第2首 注 観心寺如意輪観音(鹿鳴集歌解より 吉野秀雄著) 弘仁期密教美術の特色とする雄勁な手法と豊麗な様式を遺憾なく発揮したもの。奈良時代のからッとした理想美の世界を出でてここに至ると、何よりも森厳・霊活な、妖しき生きものといふ感に打たれる。
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泰山木(第5首) さき はてて ひとひ の うち に うつろへる ましろき はな の こころ を ぞ おもふ (咲き果てて一日の内に移ろへる真白き花の心をぞ思ふ)
歌意 咲き果てて一日の内に色褪せ、終わってしまう真白な泰山木の花の心がしのばれる。 白く大きい花びらと強い香りを持つアクセントの強い花が、一日で咲き終わることへの感傷を詠う。敗戦間近の暗い世上の中で、心静かに泰山木の花を愛でた5首である。
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折りにふれてよめる(第2首)
さき ををる もも の したみち ひたすらに くだち も ゆく か よる の をすぐに (咲きををる桃の下道ひたすらにくだちも行くか夜のをすぐに)
歌意 (黄泉の国の入り口)比良坂のたわわに咲く桃の花の下の道も夜が更けて行く、黄泉の国では。 古代出雲の伊邪那岐(イザナギ)、伊邪那美(イザナミ)の神話を想定して、黄泉の国の満開の桃の花を詠む。古代への見識が深かった八一らしい歌だが、神話(古事記)への知識が必要なので、難しいと言える。しかし、歌そのものは咲き誇る桃の花を思い浮かべれば、容易に理解できる。 注 黄泉比良坂、伊邪那岐、伊邪那美(古代出雲神話、古事記) 黄泉比良坂は黄泉の国と現世の境界、入り口。死んだ伊邪那美を忘れられない伊邪那岐は黄泉の国へ向かい再会するが、「見るな」という約束を破って見てしまったために、伊邪那美や黄泉の住人達に追われる。その時、黄泉比良坂にあった桃の木から実をもぎ取って投げつけることで助かった。
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十九日室生にいたらむとて先づ桜井の聖林寺に十一面観音の端厳を 拝す 旧知の老僧老いてなほ在り
さく はな の とわ に にほへる みほとけ を
まもりて ひと の おい に けらし も (咲く花の永遠ににほへるみ仏を守りて人の老いにけらしも)
歌意 咲く花のように美しく艶やかさを永遠にお持ちになっているみ仏をお守りになって、人であるこの寺のご住職もお年をめされたものだ。 大正14年、聖林寺を訪れて「あめ そそぐ・・」と詠ってから15年、再び訪れてこの歌を詠んだ。作者59才の作品である。年齢からか穏やかな静かな歌である。 昨秋、聖林寺を訪れた時、住職が左のガラス戸を開けて背面を見せ、いろいろと解説してくれた。飾らぬ誠実な方で大神神社(おおみわ)の冊子にも文章を書いていた。 裏面からの観音はまさしく美しく艶やかで肉感的ですらあった。
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この日寺中に泊し夜ふけて同行の学生のために千年の 寺史を説くこれより風邪のきざし著し(第2首) さけ のむ と ひそかに いでし やまでら の かど の をばし に かぜ ひき に けむ (酒飲むと密かに出でし山寺の門の小橋に風邪引きにけむ)
歌意 酒を飲もうとひそかに室生寺を抜け出たが、山門を出た小橋の辺りで風邪を引いてしまったらしい。 酒好きの八一がこっそり寺を抜け出して酒を飲もうと思ったから、仏の罰があたったと面白おかしく表現する。この翌日、18日に高野山に行き、泊まるが一連の無理がたたり、東京に戻ると肺炎で危篤になり、5ヶ月も寝込むことになる。 植田重雄の“最後の奈良見学旅行3”
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奈良の戎(えびす)の市にて
ささ の は に たひ つり さげて あをによし なら の ちまた は ひと の なみ うつ (笹の葉に鯛吊り下げてあをによし奈良の巷は人の波打つ)
歌意 笹に鯛をつり下げた縁起物を持った人達で奈良の戎市の立つ街は波打つように賑わっている。 「憂患」を抱えた寂しい西国の旅の途中、正月に一度奈良を訪れた八一は戎市の賑わいに驚く。人々の喜びが「波打つ」光景を素直に受け止め表現する八一の心情は、穏やかさを取り戻したと言えるだろう。
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室生寺にて(第1首) ささやかに にぬり の たふ の たち すます
このま に あそぶ やまざと の こら (ささやかに丹塗りの塔の立ちすます木の間に遊ぶ山里の子ら)
歌意 小ぢんまりと清らかに赤く塗られた塔がすっきりと立っている。そのあたりの木の間に遊ぶ山里の子供達よ。 屋外にある五重塔としては日本で最も小さい。16m余の塔が巨木に囲まれている様はいかにも小ぢんまりしていて、静かで可愛らしいとも言える。新緑の中にある朱塗りの塔はいつ見ても素晴らしい。木々の間で無心に遊ぶ子供たちの姿が、静寂の中に大きく包まれていくようである。 混雑を避けて連休明けに訪れたが、バスを連ねた観光客の中では往時を偲んで歌を鑑賞するにはよほどの努力がいる。 室生寺にて第2首へ
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閑庭(第13首) さざんくわ の いくひ こぼれて くれなゐ に ちり つむ つち に あめ ふり やまず (山茶花の幾日こぼれて紅に散り積む土に雨降り止まず)
歌意 山茶花の花が何日もこぼれ散り、紅く積み重なった土の上に雨が止むことなく降り続いている。 晩秋から冬にかけて咲く山茶花は花びらをぱらぱらと落とす。その紅の花びらたちが地面を染める。冬に貴重な彩りに目を向けながら、冷たい雨の続く冬の寂しい庭を詠う。
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その日国上村源八新田なる森山耕田が家に宿りて 禅師が手沢の鉢の子を見る(第2首) さすたけ の きみ が たなれ の はちのこ を まさめ に みる か わが ひざ の へ に (さすたけの君が手馴れの鉢の子を正目に見るか我が膝の辺に)
歌意 あなたが手に持って使い慣れた鉢の子をまのあたりに見ることができるのだ、私の膝の上に置いて。 良寛の鉢の子をまのあたりに見てその喜びを素直に詠う。鉢の子を通してありし日の良寛と対話しているようである。
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国葬の日に(第3首) さすたけの きみ を つつみて ふるさと の やま は しげらむ のち の よ の ため に (さすたけの君を包みて故郷の山は繁らむ後の世のために)
歌意 故郷に帰るあなたのみ魂をつつんで故郷の山は繁ることだろう。後の世のために。 故郷の山があたたかく迎え、後々までも見守るだろうし、そのことは後の世のためでもあると詠う。山本元帥7首を終わる。
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正月十日奈良新薬師寺にて我がために息災の護摩を いとなまんとすと聞えければ(第1首) さち あれ と はるかに なら の ふるてら に たく なる ごま の われ に みえ く も (幸あれとはるかに奈良の古寺に焚くなる護摩の我に見えくも)
歌意 私の病気回復を祈ってはるか彼方の奈良の古寺・新薬師寺で焚いてくれる護摩の火が眼の前に見えてくるようだ。 香薬師を詠った八一の病気平癒を願って奈良の地で護摩を焚くと言う。八一の感謝の念は強い。
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山歌(第1首) 昨秋天皇陛下この地に巡幸したまひし時県吏まづ来りて予にもとむるに良寛禅師に関する一席の進講を以てす予すなはちこれを快諾したるも期に及びてにはかに事を以てこれを果すことを得ず甚だこれを憾(うら)みとせり今その詠草を筐底(きょうてい)に見出でてここに録して記念とす さと の こ と てまり つき つつ あそびたる ほふし が うた を きこえ まつらむ (里の子と手まりつきつつ遊びたる法師が歌を聞こえまつらむ)
歌意 里の子と手まりをついて遊んだ良寛法師の歌をお聞かせ申し上げたい。 詞書にあるように、八一は小杉放菴、佐藤耐雪、佐々木象堂、斎藤秀平と共に、良寛について御進講する予定だったが、問題があって辞退した。天皇を敬慕する八一はこのことに苦しみ、食事もせずに自室に閉じこもっていたという。そして、山歌4首を後に詠んで、心の中で御進講を果たした。
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このごろ(第1首) さにはべ に われ たち いでて まきし な の つち さへ いてて かたき このごろ (さ庭辺に我立ち出でて蒔きし菜の土さへ凍てて硬きこの頃)
歌意 私が庭に出て菜の種を蒔いた土さえも凍って硬くなっているこの頃である。 既に空襲は始まり、食料は乏しく多くの人が庭や道端を耕していろいろな物を植えた。このことは寒燈集・街上に詠われている。病弱のきい子の手助けもあったであろう、八一も庭に菜の種を蒔いた。
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庭上(第2首)
さにはべ の かぜ を こちたみ うつろひし ばら の つぼみ の ゆれ たてる みゆ (さ庭辺の風をこちたみうつろひし薔薇のつぼみの揺れたてる見ゆ)
歌意 庭先に吹く烈しい冬の風に、咲かなくて色褪せた薔薇の蕾が大揺れに動いているのが見える。 きい子の病臥(入院)で独り居の八一の孤独な心に吹き荒れる木枯らしと哀れな薔薇の姿が迫ってくる。この時八一は還暦を迎えている。
八一は「うつろいし」の解説を73歳で書いた自註鹿鳴集で“色褪せたる。これは咲き了(おわ)りし花が乾き果てて枝とともに風に揺らるるさまなり。”と書いている。もしそうなら歌意は以下のようになる。 「庭先に吹く烈しい冬の風に、咲き終わって色褪せ小さくなった薔薇の花が大揺れに動いているのが見える」
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柿若葉(第3首) 新潟市はわがためには故郷なれども今はたよるべき親戚も無ければ北蒲原郡西条なる丹呉氏の宗家をたづねて身を寄すすでに亡きわが父も幼時この家に扶養を受けられたることなどしみじみ思ひ出でて眼に触るるものすべてなつかし さびいろ の ひば を そがひ に ひとむら の ぼたん の わかば かがやき たつ も (錆色の檜葉をそがひに一叢の牡丹の若葉輝き立つも)
歌意 赤茶色の檜の葉を背後にひとかたまりの牡丹の若葉が輝いて立っているよ。 冬越えの赤茶色になった檜の葉、対照的に春になって伸び出した瑞々しい牡丹の若葉を詠む。疎開した新潟の自然の営みが詠われている。
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この日奈良坂を過ぎ佐保山の蔚々(うつうつ)たるを望む 聖武天皇の南陵あり 傍(かたわら)に光明皇后を葬りて東陵といふ さほやま の こ の した がくり よごもり に
もの うちかたれ わがせ わぎもこ (佐保山の木の下がくり夜ごもりにものうち語れ我背吾妹子)
歌意 佐保山のこんもり茂った樹木に隠れて夜更けまで物語ってください。「我背吾妹子」と呼び合う聖武天皇、光明皇后よ。 御陵を拝しながら、憧憬する古代への想いをおおらかに詠っており、天皇と皇后に対する暖かい心根がしみじみと伝わってくる。過日、この二つの御陵を親切なタクシーに案内してもらって訪れたことがある。その時、池に咲いていた“こうほね”の花が印象に残っている。
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閑庭(第36首) さみだるる せと の をばやし したぐさ に けさ を にほへる くちなし の はな (さみだるる背土のを林下草に今朝を匂へるくちなしの花)
歌意 五月雨が降る裏門の小さな林の下の草の中に、今朝はくちなしの花が香り高く匂っている。 梅雨の季節に真白に咲いたくちなしの花が強い香りを出している。香り高い白い花を雨の中にとらえた心惹かれる歌である。
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火鉢(第4首) さよ ふけて かき おこせども いたづらに おほき ひばち の ひだね ともし も (さ夜更けかき起こせどもいたづらに大き火鉢の火種ともしも)
歌意 夜が更けて寒いのでかき起すけれどどうにもならない、この大きい火鉢の火種がとても少ないので。 火種が乏しい火鉢をいくらかき起こしても暖かくならない。古書を夜通し読もうと思ったが寒さには勝てない。寒さが増す寂しい夜、読書を続けるのは無理だったようだ。
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越後の中頸城(なかくびき)に住めるころ(第2首) さよ ふけて かど ゆく ひと の からかさ に ゆき ふる おと の さびしく も あるか (さ夜更けて門行く人のからかさに雪降る音の淋しくもあるか)
歌意 夜がふけて門前を通りゆく人の唐傘の上に雪が降る、なんと淋しい雪の音であることよ。 有恒学舎に赴任した八一は宮澤萬太郎宅の二階に下宿した。都会を離れた村に雪が降る。静寂と言える世界で人の通る気配と雪の傘にあたる音のみが八一に伝わってくる。淋しい環境に置かれた八一の心境が詩的な姿で伝わってくる。
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木葉(このは)村にて(第5首)
さる の こ の つぶらまなこ に さす すみ の ふで あやまち そ はし の ともがら (猿の子のつぶら眼に注す墨の筆過ちそ土師のともがら)
歌意 猿の子の丸いつぶらな瞳に墨を差しているその筆使いを仕損じないように、土師の仲間たちよ。 郷土玩具・木葉猿にもいろいろあった。第4首の猿の目は怒っていた。ここでは可愛らしい眼の猿である。作品を見る八一の視点が面白い。この木葉猿の地、熊本県玉名郡玉東町木葉にこの歌の碑が建っている。 追記 歌碑について(木の葉猿窯元の庭にある) 2017年11月、八一研究家の池内さんから、メールと歌碑の写真を頂いたので以下に掲載します。 「11月17日(金)、熊本市で会議があったので、少し足を伸ばして木の葉猿窯元へ行きました。熊本駅から木葉駅まで鹿児島本線で20分、駅から歩いて15分程です。 永田禮三氏はご不在でしたが、奥様がおられました。歌碑除幕式典のアルバムを見せていただき、お話を伺うことができました。 二十年以上経った歌碑は、周囲にしっかりと馴染んでいます。もう少し周囲を奇麗にしていただければとも思うのですが、ご夫婦ともにご高齢なので仕方がないのかもしれません。 当初は黒御影石を使う予定だったが、光って読みにくいので地元の石を使われたとのことです。確かに、秋篠寺や新潟市西海岸公園の歌碑は碑面が反射して読みにくいです。黒御影石を使わなくて正解だと思いました。(池内)」
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木葉(このは)村にて(第7首)
さる の みこ ちやみせ の たな に こま なめて あした の かり に いま たたす らし (猿の皇子茶店の棚に駒並めて朝の狩りに今立たすらし)
歌意 猿の皇子は茶店の棚の上に馬の頭を並べて、今朝の狩りに今出発されようとしている。 自註鹿鳴集にあるように馬を並べた皇子たちの朝狩りの情景を思い浮かべれば、八一が興味を持った木葉猿の滑稽味がよくわかる。 「たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野」(万葉集・中皇命)などを参考に。
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鐘楼(第6首) 三月十四日二三子とともに東大寺に詣づ客殿の廊下より望めば焼きて日なほ浅き嫩草山の草の根わづかに青みそめ陽光やうやく熙々たらむとすれども梢をわたる野風なほ襟に冷かにしてかの洪鐘の声また聞くべからずことに寂寞の感ありよりて鐘楼に到り頭上にかかれる撞木を撫しつつこの歌を作る さをしか の みみ の わたげ に きこえ こぬ かね を ひさしみ こひ つつ か あらむ (さ牡鹿の耳の綿毛に聞えこむ鐘を久しみ恋ひつつかあらむ)
歌意 奈良の鹿たちは久しく耳の綿毛に聞こえてこない鐘の音を恋しく思っていることであろう。 八一の鐘の響きへの思いは鹿たちに投影されて詠われる。鐘楼6首は鐘の音へのなつかしさ、恋しさを以て終わる。なお「みみのわたげ」を詠んだ歌がもう1首(しか の こ は・・・)ある。 写真は鹿鳴人提供(2014・5・24)の東大寺鐘楼。
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鹿の鳴くをききて(第1首) しか なきて かかる さびしき ゆふべ とも しらで ひともす なら の まちかど (鹿鳴きてかかる寂しき夕べとも知らで灯ともす奈良の街角)
歌意 鹿が鳴いてこんなに寂しい夕方なのに、そのことを感じないで奈良の人達は街角に灯をともすことよ。 八一の古都奈良への情熱、とりわけ古代への憧憬は誰にも負けないほど強い。明治以降の古寺、仏像の荒廃は激しい。そうしたことへの寂寥感を、市井の日常に生きる奈良の町の人達を「知らで」と詠むことによって浮き上がらせている。 第2首 “しか なきて なら は さびし と しる ひと も わが もふ ごとく しる と いはめ や も” と併せ読むと八一の哀傷、寂寥感が良くわかる。 万葉集以来、鹿の鳴き声はもの悲しいとして歌われている。しかも和歌での鹿の扱いは全て鳴き声であって、鹿そのものを詠んだ名歌(南京新唱冒頭の“春日野にて”参照)は八一が初めてであり、鹿への思い入れも大きい。
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鹿の鳴くをききて(第2首) しか なきて なら は さびし と しる ひと も わが もふ ごとく しる と いはめ や も (鹿鳴きて奈良は寂しと知る人も我が思ふごとく知ると言はめやも)
歌意 晩秋に鹿の鳴き声が聞こえる奈良は寂しいと知っている人でも、私が思っているほどに寂しさを感じていると言うことができるだろうか。それほど私の思いは深い。 古都への哀傷を際立たせる歌である。鹿の鳴く奈良の寂しさを反語を使ってまで強く表現した八一の心情に打たれる。抒情豊かな第1首と合わせて読む時に、初めて深く八一の心情が理解できる。
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西国の旅より奈良にもどりて
しか の こ は みみ の わたげ も ふくよかに ねむる よ ながき ころ は き に けり (鹿の子は耳の綿毛もふくよかに眠る夜長き頃は来にけり)
歌意 鹿の子の耳の中の綿毛がふさふさと伸び軟らかい、そんな鹿たちの静かに眠る夜長の頃となったものだ。 九州長旅の途中、大阪の親友伊達俊光宅で新年を迎え、その後奈良に向かい、写真家小川晴暘と春日山の石仏群を撮影している。山中高歌以後、西国の旅を経て奈良美術に軸足を移した八一には奈良の地はまさに安らぎの場であった。その気持ちがゆったりと眠る小鹿の姿に表れている。
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海龍王寺にて(第1首) しぐれ の あめ いたく な ふり そ こんだう の
はしら の まそほ かべ に ながれむ
(時雨の雨いたくな降りそ金堂の柱のま赭壁に流れむ)
歌意 時雨の雨よそんなに激しく降ってくれるな。この古寺の柱に塗ってある赤の顔料が壁に流れて染みてしまうでしょうから。 「いたくなふりそ」は良く使われている表現だが、その表現の力強さが好きだ。状況と作者の願いの中に悠久の時と哀愁を感じる。海龍王寺は八一の歌と共に訪れた時、初めてその良さがわかる。 (歌碑建立は昭和45年) 第2首へ 本堂 本堂の中で
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大安寺をいでて薬師寺をのぞむ しぐれ ふる のずゑ の むら の このま より
み いでて うれし やくしじ の たふ (時雨降る野末の村の木の間より見出でてうれし薬師寺の塔)
歌意 時雨の降りしきる野のはての村の木立の間から(荒れ果てた原野・平城の都址を隔てて)薬師寺の塔が見えるではないか。心から嬉しさがわいてきた。 南京新唱の薬師寺の歌(四首)の第一首、大安寺をでて荒れ果てた原野の向こうに薬師寺東塔を見出した感動が躍動的に詠まれる。八一の作品の中で最も有名でかつ美しいと言われる「すいえん・・」の歌(三首目)への序章ともいえる。 自註鹿鳴集で作者はこう書いている。 今はあさましき原野となりはてたる平城の都址を隔てて、西の京(ニシノキヤウ)の方を望むに、時雨の降りしきる里洛の中より、まず薬師寺の塔の目に入り来れるを詠めるなり。 2001年1月12日、友人達と七条大池から塔を眺めた。若草山の山焼きの日で多くのカメラマンが押し寄せていた。掲載の歌とは正反対の位置からだが、見晴らしの悪い池沿いの道を抜けて眼前に開けたこの光景に同じような喜びを感じた。
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耶馬渓(やまけい)にて(第8首)
しぐれ ふる やまくにがは の たにま より ゆふ かたまけて ひとり いで ゆく (時雨降る山国川の谷間より夕かたまけて一人出でゆく)
歌意 時雨の降る山国川の谷間、耶馬渓からもう日も暮れようとしているのに一人宿を出て旅するのだ。 寂しい冬の谷間を出発する孤客に時雨が降り注ぐ。孤客の胸の内はどんなであっただろうか?耶馬渓には2泊し、さらに九州の旅を続ける。
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耶馬渓(やまけい)にて(第5首)
しぐれ ふる やま を し みれば こころ さへ ぬれ とほる べく おもほゆる かも (時雨降る山をし見れば心さへ濡れとほるべく思ほゆるかも)
歌意 時雨が降り注ぐ紅葉の散った寒々とした山をじっと見ていると心の中まで雨が沁み込んで来るように思われることだなあ。 「心の中まで濡れてしまう」は冬の雨の耶馬渓と一人旅の八一の心情を的確に表わしている。
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村荘雑事(第15首)
しげり たつ かし の このま の あをぞら を ながるる くも の やむ とき も なし (繁り立つ樫の木の間の青空を流るる雲の止む時も無し)
歌意 葉が生い茂っている樫の木々の間から見える青空を行く白雲は途切れることなく流れている。 樫の木々の間から見る秋の青い空、そこには次々と流れていく白雲がある。爽やかな情景である。八一の心情もきっとそうであっただろう。
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桜桃(第7首)
しげりは に こもる こぬれ の あけ の み の あな うらぐはし つゆ も ゆらら に (繁り葉に籠る木末の朱の実のあなうらぐはし露もゆららに)
歌意 桜桃の木の繁った葉の梢の中に籠っているようにある赤い桜桃の実、さくらんぼはなんと美しい事か、さくらんぼについた露もゆらゆらと揺れて。 桜桃の茂みの中にしっとりと露に濡れた赤いさくらんぼを見事にとらえて詠っている。心地よい季節に八一の心も明るく軽やかである。
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法華寺温室懐古(第1首) ししむら は ほね も あらはに とろろぎて
ながるる うみ を すひ に けらし も (ししむらは骨もあらはにとろろぎて流るる膿を吸ひにけらしも)
歌意 骨も見えるほどの癩病(ハンセン病)患者のとろけて流れ出る膿をお口でお吸いになられたのだ。 光明皇后の伝説からとはいえ、とても衝撃的な歌である。残酷さのなかに退廃的な美を表現したとも言えるが、法華寺温室懐古2首、3首及び法華寺本尊十一面観音の歌との関連で捉えないといけないだろう。
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その朝金剛峰寺の霊宝館にて大師の絵像に対して(第1首) しづけさ の はな に ある ごと こんどう の 五こ たにぎりて おはし ます かも (静けさの花にあるごと金銅の五鈷手握りておはしますかも)
歌意 弘法大師は静かな花であるかのように金銅の五鈷を手に握っていらっしゃる。 大師の胸にある五鈷は咲き始めた花のようであり、それは静けさの象徴でもあるかにようだと詠う。第2首とともに空海・弘法大師賛歌である。 植田重雄の“最後の奈良研究旅行4”
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五月二十二日山本元帥の薨去をききて(第2首) しづめ こし うなばら とほく たつ くも の しづけき みね を きみ と あふがむ (鎮め来し海原遠く立つ雲の静けき峰を君と仰がむ)
歌意 あなたがおさめて安定させてきた海の遠くに立つ雲の静かな峰をあなたと思って仰ごうと思う。 山本五十六連合艦隊司令長官の姿を遠くの雲の姿に比して、悲しみを詠う。
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十二月二十四日遠く征戍にある門下の若き人々をおもひて(第4首) シベリヤ の おほかみ むれて きこえ くる のべ の かりほ に いねず か も あらむ (シベリヤの狼群れて聞こえくる野辺の仮庵に寝ねずかもあらむ)
歌意 シベリヤの狼の群れの遠吠えが聞こえてくる寒い野原の軍営で、私の弟子たちはおそらく眠ることができないことだろう。 狼の遠吠えは出征した中尉瀧口宏(後の早大教授、考古学専攻)の私信によると自註で書いている。寒い季節、野営でしかも狼の遠吠え、東京では考えられない悪環境の中にある愛弟子たちへの思いが率直に詠われている。 なお、八一の瀧口宏宛の手紙(昭和17年1月24日)にはこう書かれている。“東京は今年非常に寒く、昨今零下二三度のところなり。老生の如き久々に凍傷に悩みつつあり。然るに今日の貴書にては、實に三十三度と承り、御辛労を想像して無限の感に打たれ候。その地にありて御元氣にて、無人の土地にて一人にて實測などといふことも、勇ましく存じ候。最近、早稲田にて直接教へたる若き人々も、たいてい、みな徴せられて、後から出かける筈にて候。……”(會津八一の生涯、植田重雄著より)
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信濃の野尻なる芙蓉湖に泛びて しまかげ の きし の やなぎ に ふね よせて ひねもす ききし うぐいす のこゑ (島影の岸の柳に舟寄せてひねもす聞きし鶯の声)
歌意 湖の中にある島の岸辺の柳の下に舟を寄せて一日中聞いていた美しい鶯の声よ。 野尻湖の西、黒姫山の近くの柏原は八一が傾倒した小林一茶の故郷、のんびりと湖で鶯の声を聞きながら一茶を思い、また遠い時代の出来事を思い浮かべていたであろう。 八一は大学卒業後英語教師として赴任した有恒学舎(現県立有恒高等学校)の時代に、一茶自筆の六番日記を醸造家・入村四郎宅(長野県中頸城郡新井町)で発見している。 注 野尻(自註鹿鳴集より) 柏原駅より近し。柏原は俳人小林一茶(1763-1827)の郷里。江戸の生活をやめて郷里にて生を終へたり。野尻には芙蓉湖(俗ニハ野尻ノ池)あり。その中央に島あり。小祠ありて弁才天を祀(まつ)る。むかし此(この)地の城主たりし宇佐美貞行は、その主上杉謙信の姉聟(あねむこ)なる長尾政景がひそかに謙信に異図を懐(いだ)けるを憂ひ、紅葉見に事よせて之を招き、舟を湖上に泛(うか)べて酒宴の末、格闘して相抱きて共に水底に没したりといふ伝説あり。水辺に二人の墓といふものあり。
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霜余(第3首) しも あらき さには の つち に をれ ふして なほ みどり なる アカンサス あはれ (霜荒きさ庭の土に折れ伏してなほ緑なるアカンサスあはれ)
歌意 霜が厳しく荒れた庭の土に折れ伏しながら、それでもなお緑をとどめているアカンサスはあわれだ。 アカンサスは建築文様に使われるギリシャの国花である。教材にするために植えたと言う。荒れ果てた庭になお緑を保ったアカンサスが手入れの無いまま折れ伏している。“あはれ”はまさしく哀れである。
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歌碑(第5首) 「ちかづきてあふぎみれどもみほとけのみそなはすともあらぬさびしさ」といふは新藥師寺香藥師を詠みしわが舊作なりちか頃ある人の請(こい)にまかせて自らこれを書しこれを石に刻ましめその功もまさに畢(おわ)りたれば相知る誰彼を誘ひ行きてこれを堂前に立てむとするに遽(にわか)に病を得て發するを得ずたまたま寺僧の拓して送れる墨本を草廬の壁上にかかげしめわづかにその状を想像して幽悶を慰むるのみいよいよ感應の易(やす)からざるをさとれり しもくぼ の いしや が さくら はる たけて いし の くだけ と ちり まがひ けむ (下久保の石屋が桜春たけて石のくだけと散りまがひけむ)
歌意 奈良・下久保の石屋の桜が春たけなわになって、散り落ちる花びらと彫って飛び散った石のかけらと入り乱れたことであろう。 散る桜と石のかけらの入り交じる奈良の石屋の作業場を東京で想像する。ただの想像ではなく、美しい風景として詠いあげた。以前にこの石屋に八一は訪れていると言う。
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浄瑠璃寺にて(第1首) じやうるり の な を なつかしみ みゆき ふる
はる の やまべ を ひとり ゆく なり (浄瑠璃の名を懐かしみみ雪降る春の山辺を一人行くなり)
歌意 浄瑠璃と言う名のゆかしさに心引かれて春の雪が降る奈良からの山辺の道を一人浄瑠璃寺に向かって歩いている。 寒い初春の山道を奈良から「浄瑠璃と言う言葉に」心踊らされながら歩む作者、素直な表現の中に寺と仏達に対するほのぼのとした心を感じることが出来る。 たしかに浄瑠璃と言う言葉は人の心を動かす雰囲気がある。随分昔に何も知らずにこの寺を訪れた。再訪したときは九体仏(阿弥陀入来)に圧倒され、美しい吉祥天に見入っていた。 なお、文楽の浄瑠璃の名の由来は御伽草子(室町時代)の一つ「浄瑠璃十二段草子」から。薬師(瑠璃光)如来を背景にしたこの語り物は浄瑠璃の初めだったと言われている。
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二十四日奈良を出て宇治平等院黄檗山万福寺を礼す(第3首) しやかむに を めぐる 十はちだいらかん
おのも おのもに あき しずか なり (釈迦牟尼をめぐる十八大羅漢おのもおのもに秋静かなり)
歌意 釈迦仏を取り巻いている十八体の大羅漢は秋の静寂の中でそれぞれ静かに威厳をもって存在されている。 「あきしずかなり」は本堂の仏の姿の静かで威厳ある姿を表わしている。そのことはまた、八一の心も秋の静けさのなかに浸ってゆったりとしていると言えよう。 第1首 第2首 第3首
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雁来紅(第1首) 葉鶏頭また雁来紅(がんらいこう)といひまた老少年といふ一種雁来黄(がんらいこう)といふ ものは稀品なりカマヅカは倭名にして夙(つと)に清原氏の枕草紙に出でたるも古今万葉には 見るところなし以て伝来を考ふべし我が家赤貧洗ふが如く一物の出して人に示すべきなきも ただ秋草堂の号あるに因(ちな)みて庭上多く秋卉(しゅうき)を植うことにその爛斑蹌踉(らん はんそうろう)の癡態(ちたい)を愛するがために此の物を植うることすでに二十年に及びやう やく培養の要を得来りしが如くこれに対して幽賞また尽くるところなし時に行人の歩を停めて 感歎の声を揚ぐるを聞くひそかに之を以て貧居の一勝となさんとす (語句解説) しよくどう の あした の まど に ひとむら の あけ の かまづか ぬれ たてる かも (食堂の朝の窓に一叢の朱のかまづか濡れ立てるかも)
歌意 朝の食堂の窓の外にはひとかたまりの赤い葉鶏頭が濡れて立っている。 雁来紅16首の第1首。会津八一は雁来紅・葉鶏頭を好み、自ら栽培した。「雁来紅の作り方」という文を書くほどの栽培の名手だった。 窓から見える雨に濡れた葉鶏頭を静かに詠みあげて、16首の詩的世界が始まる。
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霜余(第4首) しよくだう の まど の ひさし に かれ はてし ぶだう の つる も いまだ かかげず (食堂の窓の庇に枯れ果てし葡萄の蔓もいまだかかげず)
歌意 食堂の窓の庇に作ってある葡萄棚の枯れ果ててしまった蔓も剪定して整理し引きあげることもしていない。 春の新芽に備えて枯れた蔓を整理し、手入れをしなければいけないが、それもしていないと詠む。“つるも”と言ってその他のものも手入れしていないことを表現する。年齢による労力の低下もあるだろうが、やはり、空襲下の心の落ち込みの影響が大きい。
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金堂なる十一面観音を(第1首) しよく とりて むかへば あやし みほとけ の ただに います と おもほゆる まで (燭取りて向かへばあやしみ仏のただにいますと思ほゆるまで)
歌意 暗い金堂の中で灯火をもって十一面観音像に向かうと不思議なことに仏像ではなく本当の仏様がおられるように思われてくる。 薄暗い金堂の中で灯火に照らし出された仏像は本当の十一面観音に見えた。それがその時、八一が見た観音像である。 室生寺での歌だが、仏像への接し方をその前に訪れた聖林寺で語っている。 (植田重雄の“最後の奈良見学旅行3”より) ・・・扉を閉めたままの暗い本堂にはいると、学生の一人が懐中電灯をつけて見ようとした。すると、 「懐中電灯など照らしたって、仏像は見えはせんぞ」 道人が怒鳴った。 やがて住職が手燭をともして差し出すと、それを受けて道人は、ぐりぐりと抉るように、観音の顔、胸、手などを照らし出して、 「この観音様の光背は、昔のままではない。はじめどのような光背であったかを想い浮かべなければならない。この仏さんを祀っていたお堂は、はじめどんなお堂であったかも想像しながらよく見るのだ」 「何度もいうごとく、仏さんを前にしてどうあるべきか、それぞれ自分自身で納得、解決することだ」 道人がかかげる手燭に照らし出される観音は、全世界をおおうような、やさしく悲しいお顔をしていた。
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菊久栄 昭和二十七年十一月一日 皇太子が立太子の礼を行はせらるるを祝ひての献歌 しらぎく は か に こそ にほへ ひのもと の ひつぎ の みこ は いや さかえ ませ (白菊は香にこそ匂へ日の本の日嗣の皇子はいや栄えませ)
歌意 白菊は香り高く匂って、それとともに日本の皇位を継がれる皇子がますますお栄になりますように。 皇太子への祝いの歌を美しく詠出している。
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村荘雑事(第5首)
しらゆり の はわけ の つぼみ いちじるく みゆ べく なりぬ あさ に ひ に け に (白百合の葉分けの蕾いちじるく見ゆべくなりぬ朝に日に異に)
歌意 白百合の葉の間の蕾が日増しに大きくなってきて、はっきりと見えるようになった。 百合の花をよく観ている。蕾を「はわけのつぼみ」と捉え、日ごとに大きくなる様子を的確に表現した。我家ではちょうど百合の蕾が大きくなりかけてきたところである。八一と同じように開花を待ちながら眺めている。
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歳暮新潟の朝市に鉢植の梅をもとめて(第3首) しろかべ に かげ せぐくまる ひとはち の うめ の おいき に とし ゆかむ と す (白壁に影せぐくまる一鉢の梅の老い木に年ゆかむとす)
歌意 白壁に映る影がまるで背をかがめているような一鉢の梅の老木とともに今年も行こうとしている。 梅の老木の影を見るとかがめているように見える。そこには年老いた八一の心情が投影されている。
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三日榛名湖畔にいたり旅館ふじやといふに投ず(第5首) しろがれ に かれ たつ かや の なか にして つつじ は もゆる みづうみ の はて に (白枯れに枯れ立つ萱の中にしてつつじは燃ゆる湖の果てに)
歌意 白く枯れた萱の原の中にひときわ赤くツツジが燃えるように咲いている。湖の果てに。 青い湖、白い萱の原、そして燃え立つ赤いつつじ、前作と同じように色彩豊かな光景が詠われる。
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その朝金剛峰寺の霊宝館にて大師の絵像に対して(第2首) すがしく も はなやぎて こそ おはしけれ につたうしやもん へんぜうこんがう (すがしくも華やぎてこそおはしけれ入唐沙門遍照金剛)
歌意 弘法大師はさわやかで明るく華やかな様子でいらっしゃることだ。唐に留学され、遍照金剛と名乗られた人であることよ。 秀才肌でまじめな最澄に対して天才肌で多芸多能な空海を“すがしくもはなやぎて”と表現する。書にも秀でていた空海を書家でもあった八一は評価していた。 植田重雄の“最後の奈良研究旅行4”
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街上(第4首) すずかけ の かげらふ みち に いくばく の くろつち ありて なすび はな さく (鈴懸の陰らふ道にいくばくの黒土ありて茄子花咲く)
歌意 鈴懸けの木の陰になっている道に少しばかりの黒土があって、そこに茄子の花が咲いている。 東京空襲(11月)で焦土になる前の町の風景である。食糧難のなかでのわずかな庶民の営みをとらえて詠う。
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後数月にして熱海の双柿舎を訪はむとするに 汽車なほ通ぜず舟中より伊豆山を望みて すべ も なく くえし きりぎし いたづらに かすみ たなびく なみ の ほ の へ に (すべもなく崩えし切り岸いたづらに霞たなびく波の秀のへに)
(震災で)手の施しようもなく崩れている(熱海伊豆山の)断崖にいたずらに春霞がたなびいている。ちょうど打ち寄せる波頭のあたりに。 関東大震災の翌年、師であり朋友でもあった坪内逍遥の熱海の双柿舎(邸宅)を訪れるが、汽車が復興していなかったので小田原から舟で熱海へ。その時に詠んだ歌。今では想像できないほど荒れ果てた熱海に、いたずらにたなびく春霞ののどかさを対置した秀歌。 八一は望んで双柿舎の扁額のために書を書いた。何枚も何枚も書いた中から師に提示したという。 会津八一(秋艸道人)の筆になる木彫の扁額「雙柿舎」 3月の末、所用で小田原から熱海に入った。一時の隆盛さはないとは言え、巨大な熱海温泉街の奥にひっそりと静かな坪内逍遥の旧邸があった。美しい扁額に見入り、震災後の熱海の情景を想像してみた。
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望郷(第6首)
すべ も なく みゆき ふり つむ よ の ま にも ふるさとびと の おゆ らく をし も (すべもなくみ雪降り積む夜の間にも故郷人の老ゆらく惜しも)
歌意 どうしようも無いくらいに雪が降り続き積もっていく夜の間に、なすことも無く老いてゆく雪深き故郷の人々の人生は惜しむべきことだ。 故郷新潟の冬はどんよりとした空と深い雪、日常はとても暗いものだった。東京に在って、故郷新潟で一生を暮す人々を想って詠んだが、それはその頃の八一の姿と思いであったかもしれない。 南京新唱第90首で「やまとぢ の るり の みそら」(解説)と奈良の空の素晴らしさを詠んだ八一の気持が理解できる。
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松濤(第4首)
すべ も なく やぶれし くに の なかぞら を わたらふ かぜ の おと ぞ かなしき (術も無く破れし国の中空を渡らふ風の音ぞ悲しき)
歌意 なすすべも無く戦争に負けてしまったこの国の中空を吹き渡る風の音のなんと悲しい事か。 敗戦の年の12月、全ての物を無くして故郷に疎開した高齢の八一には寒空を渡る風の音が厳しく聞こえた。多くの日本人の心も同じだったであろう。
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雁来紅(第14首) すみ もちて かける かまづか うつせみ の わが ひたひがみ にる と いはず や も (墨もちて描けるかまづかうつせみの我額髪似ると言はずやも)
歌意 墨をもって描いた葉鶏頭を現在の私の前髪に似ていると人は言わないだろうか、いや言うだろう。 歌にも絵にも自負があった八一は「わが ひたひかみ にる と いはず や も」について第15首の自註で倪雲林(げいうんりん)の言葉を引用して人がどのように見ようがかまわないとし、「主観の芸術は往々にして形似に拘泥せざることあり」と書いている。 注1 わがひたひかみにるといはずやも・(次歌の註参照) 自註
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やがて紀元節も近づきければ古事記の 中巻なる神武天皇の条を読みて(第4首)
すめがみ の すゑ なる われ や あまつひ を
おひて すすむ と こと の よろしさ (皇神の裔なる我や天つ日を負ひて進むと言のよろしさ )
歌意 天照大神の子孫である私だから太陽を背に進むと神武天皇が言った言葉はなんと素晴らしいことか。 古事記の逸話を詠んだもの。戦の時、太陽(日の神)に向かって進まず、背にして進んだということによる。第18首から第32首までは戦後一度削除し、後に復活したものである。
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天皇を迎へて(一)(第5首) すめみま と あれ こし きみ を みやこべ に うちことほぎし わかき ひ を おもふ (すめみまと生れ来し君を都辺にうち言祝ぎし若き日を思ふ)
歌意 天皇家の子孫としてお生まれになったあなたを東京でお祝いした若い日のことを思いだします。 昭和天皇の生誕を祝う歌。天皇は1901年(明治34年)生れ、大正天皇が病弱なため20歳で摂政、その後天皇として戦争、敗戦、戦後の復興の時期に在位する。いろいろと問題はあるが、明治の人、八一の天皇敬慕の念は変わらない。
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奈良の新薬師寺を思ひいでて(第1首) すめろぎ の おほき めやみ を かしこみ と とほき きさき の たてましし てら (すめろぎの大き眼やみをかしこみと遠き后の建てましし寺)
歌意 聖武天皇の御眼病平癒のために大昔の光明皇后がお建てになった寺なのだ、この新薬師寺は。 昭和17年、61歳の八一の眼は濁り(溷濁・混濁)を生じる。その年の3月、溷濁で8首を読む。この歌はその中の「奈良の新薬師寺を思ひいでて」2首の内の第1首。眼病治癒目的で新薬師寺は建立されており、また本尊は眼病に良く効くと言われている。寺とみ仏への思いが自らの病気を通して伝わってくる。ただ、本尊・香薬師は1年後に盗難にあって行方不明になる。右の写真は鹿鳴人提供。 注 すめろぎのおおきめやみ 自註より 新薬師寺の創建者は、或は聖武天皇といひ、或は光明皇后といひ、すでに藤原時代に ありてこのこと不明に帰し居たり。後説によれば天皇御眼疾平癒のために皇后の立願せ らせたまふところをいふ。但し古き文献の証するものなし。(参照 第2首)
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十九日高野山を下る熱ややたかければ学生のみ河内観心寺に遣り われひとり奈良のやどりに戻りて閑臥す(第5首) すめろぎ の くに たたかふ と かすが なる やまべ の さる の しらず か も あらむ (天皇の国戦ふと春日なる山辺の猿の知らずかもあらむ)
歌意 天皇の国である日本が今戦争をしていることを春日の山の猿たちは知らないだろうなあ。 戦争は敗色濃く、学徒出陣へと進んでいくが、猿たちはそんなことには関係なく遊び暮らしている。そんな姿を羨ましく感じたかもしれないが、この時代はやはり戦争に言及しなければならなかった。 植田重雄の“最後の奈良研究旅行4” 注 かすがなるやまべのさる (自註) 野猿は群をなして春日山奈良公園一帯の地に出没し、奈良人はむしろこれに目慣れたり。予が宿れる登大路あたりの人家にては、後苑の過日蔬菜(そさい)の類を盗み去らるること珍らしからずといふ。
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吉野塔尾御陵にて すめろぎ の こころ かなし も ここ にして
みはるかす べき のべ も あら なく に (すめろぎの心かなしもここにして見晴るかすべき野辺もあらなくに)
歌意 天皇のみ心はなんと痛ましいことよ。この吉野の御陵からは、天皇として威厳を持ってはるかに見渡す野辺もないのだ。 建武の新政で活躍し、その後敗れて吉野で崩御した後醍醐天皇の痛ましい心を己のものとして八一は詠んだ。当時(明治、大正時代)は南朝を正統とし、後醍醐天皇を支えた楠正成などは英雄視された。戦後生まれの筆者も子供の頃は、南北朝時代の南朝寄りのいろいろの逸話に心をときめかしたものだ。 注 後醍醐天皇 第96代天皇(1288-1339) 。天皇親政を目指したが正中の変・元弘の変に敗れ、隠岐に流された。1333年脱出し、新田義貞・足利尊氏らの支援で鎌倉幕府を滅ぼして建武新政権を樹立。のち公武の不和から親政は失敗、尊氏らも離反、36年吉野に移り南朝を立てたが、ここで崩御する。 戦前戦中は、南朝を正当の系譜とする皇国史観により、後醍醐天皇の活躍と悲哀は大きなウエートを占めた。
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あるあしたクエゼリンの戦報に音羽侯の将士とともにみうせたまひける よし聞きて(第2首)
すめろぎ の みこと かしこみ ありそべ の
たま と くだけて ちりましぬ とふ (天皇の命かしこみ荒磯辺の玉と砕けて散りましぬとふ)
歌意 天皇の命令を恐れ多いことと我が身に受け止め、南のクェゼリン環礁の荒い磯辺で玉砕、戦死されたという。 元皇室、音羽侯爵のクェゼリン環礁での戦死を詠む4首の第2首。 注 日本ニュース(1944・4・20) 去る2月、クェゼリン環礁守備部隊6500名の勇士とともに、尊き御身をもって南海の果てに散華させたもうた侯爵、音羽正彦少佐のご英霊は、4月12日、御父君朝香宮鳩彦王殿下、御兄君孚彦王殿下をはじめ奉り、軍代表参列して御迎え申し上げるうちを、○○空港に無言の凱旋(がいせん)を遊ばされました。ご英霊は同期生ショウジ隊員に奉持(ほうじ)され、国民挙げて哀悼のうちに一路横須賀へと向かわせられました。
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三月十五日大鹿卓とともに平城の宮址に遊び大極の芝にて(第3首) すめろぎ は ここ に いまして ひむがし の おほき みてら を みそなはし けむ (すめろぎはここにいまして東の大きみ寺を見そなはしけむ)
歌意 聖武天皇はここ平城宮におられて、東大寺をごらんになったことであろう。 天皇敬慕の強かった八一は聖武天皇の姿を想像して詠む。平城宮址の歌に戦時の影響があるとはいえ、八一が天皇制下の軍国一辺倒では無かったことを付記しておく。
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天皇を迎へて(二)(第2首) すめろぎ を むかへ まつりて はるる ひ の ゆふ かたまけて ややに さむし も (すめろぎを迎へまつりて晴るる日の夕片設けてややに寒しも)
歌意 天皇をお迎えして、秋の晴れた日が夕方になって少し寒くなってきた。 天皇が新潟に来たのは10月7日、秋晴れの快い日だったが、夕方には少し寒くなった。当時の状況をそのままに詠う。
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薬師寺東塔(第2首) すゐえん の あま つ をとめ が ころもで の
ひま にも すめる あき の そら かな (水煙の天つ乙女が衣手のひまにも澄める秋の空かな)
歌意 東塔の水煙に彫られた天女たち、音楽を奏でて飛翔する彼女たちの衣の袖の間にさえ、美しく澄んだ青い秋の空が見えるではないか。 薬師寺の歌(4首)の第3首。八一の作品の中で最も有名でかつ美しいと言われるこの歌は、快い調べで水煙のわずかな透かし彫りのすきまに見える秋空を歌い上げる。美しい水煙の天女と古都奈良の秋空の美を自らの美意識のなかで一体として表現する。調べを大事にしながら、声を出して読み込むといい。絶妙な美の境地が感じ取れるはずだ。実際は塔は高く水煙の暇などは見えないのだから、これは作者の美的想像力で創り出したものなのだ。 佐々木信綱の下記の東塔の歌とは全く趣が違うのである。 行く秋の 大和の国の 薬師寺の 塔の上なる ひとひらの雲 1999年(平成11年)9月、歌碑が境内に作られた。植田先生からも伺っていたので明けて1月友人達と訪れた。親切な寺僧の細やかな説明を昨日のように思う。薬師寺は寺としていろいろな工夫を凝らしていると聞いている。 追記 東塔水煙降臨展 2013年11月29日、東塔水煙降臨展(9・16~11・30)に出かけた。4面ある水煙(高さ1.6m)の表裏に笛を奏で、花を蒔き、衣を翻し、祈りを捧げる姿の3体の飛天が透かし彫りしてある。全てを数えると24体ある。 東塔(薬師寺)創建当時のままの1300年の時を経た水煙は歴史の重みを感じさせる。この奈良時代の質の高い工芸に注目をさせたのはなんと言っても八一の上記の歌である。飛天に命を吹き込んだと言っても過言ではないだろう。
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雁来紅(第5首) すゐせん を ほりたる あと に かまづか を わが まきし ひ は とほ から なく に (水仙を堀りたる後にかまづかをわが蒔きし日は遠からなくに)
歌意 水仙の球根を掘った後に、私が葉鶏頭の種を蒔いたのは遠い日ではないのに、もうこんなに大きく成長している。 前句・4首と同じように、思った以上に早く感じる葉鶏頭の成長を詠う。
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閑庭(第23首) すゐれん の うきは まだしき いくはち の みづ に かがよふ はる の しらくも (睡蓮の浮葉まだしき幾鉢の水に耀ふ春の白雲)
歌意 睡蓮の浮き葉がまだ小さいいくつかの鉢の水に、春の白雲がきらきらと光りかがやいて映っている。 葉が育ち始めた睡蓮鉢、その水の上に輝く白雲に注視して春の到来を詠う。 参照 鹿鳴集・南京新唱の村荘雑事(第13首) みづ かれし はちす の はち に つゆぐさ の はな さき いでぬ あき は きぬ らし
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同じ日唐招提寺にいたり長老に謁して斎をうく(第2首) せうだい の けふ の とき こそ うれしけれ そう の つくれる いも の あつもの (招提の今日の斎こそ嬉しけれ僧の作れる芋のあつもの)
歌意 唐招提寺で頂いた今日の食事ほど嬉しいものはなかった。寺僧が寺庭の芋を使って手づから作ったあつものだったので。 僧たちが作った芋を使った寺の料理、食糧難のこの時の唐招提寺のもてなしが心に響いた。 植田重雄の“最後の奈良研究旅行”
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唐招提寺にて(第1首) せきばく と ひ は せうだい の こんだう の
のき の くま より くれ わたり ゆく (寂寞と日は招提の金堂の軒の隈より暮れわたりゆく)
歌意 さびしくひっそりと今日の日は唐招提寺の軒の入り組んだ隅の方から暮れわたっていく。 秋の日暮、その暮れゆく姿を金堂の暗い軒の隈から感じ取る。暮色は隈から軒の外面を包んでいく。それを感じ歌に詠む八一は素晴らしい。良い歌だ。 春日野(八一と健吉の合同書画集より)
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唐招提寺にて(第2首) せんだん の ほとけ ほの てる ともしび の
ゆらら ゆららに まつ の かぜ ふく (栴檀の仏ほのてる灯火のゆららゆららに松の風吹く)
歌意 栴檀で作られた仏像をかすかに照らす蝋燭の炎をゆらゆらと動かして、唐招提寺の松に吹きつける風が堂内を通っていく。 堂内の蝋燭のかすかな炎がわずかに仏像を照らしている。そのかすかな灯火を動かす風を、外の松風の風音から浮かび上がらせる。風の流れを目と耳で的確に表現する秀歌。静かな古寺のたたずまいが浮かび上がってくる。 この仏像は嵯峨清涼寺と同式の釈迦立像と八一は書いている。 清涼寺式とは、10世紀末、宋から持ち帰った仏像をまねたものと言われており、平安時代末期から鎌倉時代にかけて流行したもので、全国で 百体ぐらいある。 栴檀には赤栴檀(しゃくせんだん)白檀(びゃくだん)紫檀(したん)があり、仏像や仏具によく使われている。余談だが、上方落語に赤栴檀の噺がある。 (注参照) 注 落語「百年目」で旦那が番頭に「旦那」の意味を話して諭す。昔、天竺に赤栴檀という樹があり、大層立派に茂っており、樹の下に難莚草(なんえんそう)という汚い草が生えていた。この難莚草を刈り取ってしまうと赤栴檀が枯れてしまった。赤栴檀はこの茂っては枯れ、茂っては枯れる難莚草から良い肥料を貰い、難莚草は赤栴檀が降ろしてくれる露で生きている。お互いに助け合って、所謂、施し合って樹と草が永く繁茂しているのだと説明する。この赤栴檀の檀と難莚草のなんをとり、「檀那」と言ったのだが、後「旦那」の字に改められた。もちろん、難莚草は番頭を指している。
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法隆寺福生院に雨やどりして大川逞一にあふ そうばう の くらき に のみ を うちならし じおんだいし を きざむ ひと かな (僧坊の暗きに鑿をうち鳴らし慈恩大師を刻む人かな)
歌意 僧坊の暗い所で鑿を打ち鳴らして慈恩大師の像を彫る人よ。 無住の法隆寺・福生院で黙々と彫刻に励む彫刻家・大川逞一の姿に感じて詠んだ。一心に仕事に打ち込む芸術家達の姿に誰もが素晴らしさを感じる。とりわけ、仏像彫刻を学ぶ筆者には、八一のその時の感動がそのまま伝わってくる。
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大仏讃歌(第10首) 天平十三年四月聖武天皇諸国に詔して国分寺を建てしめ十五年十月東大寺廬舎那の大像を創めしめたまふその義華厳梵網の所説に拠りたまへるものの如し予しばしば此寺に詣で金容遍満の偉観を瞻仰してうたた昔人の雄図に感動せずんばあらずかつて和歌一首を成せり曰く「おほらかにもろてのゆびをひらかせておほきほとけはあまたらしたり」と今日また来りてその宝前に稽首し退いてさらに十首を詠じ以て前作の意を広めむとす邦家いまや四海に事多し希くは人天斉しく照鑑してこの聖皇の鴻願をして空しからざらしめむことを 昭和十八年三月十一日 そそり たつ いらか の しび の あまつひ に かがやく なべに くに は さかえむ (そそり立つ甍の鴟尾の天つ日に輝くなべに国は栄えむ)
歌意 そびえたつ大仏殿の瓦葺の屋根の鴟尾が日の光に輝くとともに我が国は栄えるだろう。 10首は大仏の存在感を力強く詠った連作であり、八一の奈良に寄せる思いが強く伝わって来る。しかし、戦局が悪化した昭和18年、大仏讃歌10首は同時に戦勝祈願を意味していたと考えられる。 注 いらかのしび (自註) 「しび」は鴟尾又は鵄尾とも書き、屋脊なる大棟の両端にある壮飾なり。俗に沓形(くつがた)ともいふ。現在の大仏殿は、元禄の造営にはこの物なかりしを、明治の重修に当り、寺家は賢明にも、遠く天平の古風に遡りて補加せられたるなり。朝夕燦然として天日に反映し、まことに偉観なり。因にいふ。この度東大寺の懇望により、生駒山頂に一巨石を獲て、著者自筆のままこの歌を刻せしめ、大仏殿の東なる丘麓に建つることとなれり。
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十七日龍安寺にいたる(第3首) そとには の かき の こずゑ を うつ さを の ひびき も ちかし しろすな の うへ に (外庭の柿の梢を打つ竿の響きも近し白砂の上に)
歌意 堀の外の庭の柿を落とそうとして梢を叩いている竿の音がこの石庭の白砂の上に間近に響いてくる。 第1首で石庭を前に古を思い、第2首で白砂を水に見立てた。第3首では一転して柿の実を打ち落とす音に現実に戻る。龍安寺の石庭は八一の心をいろいろに動かした。
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十七日龍安寺にいたる(第2首) そとには の まつ に かげりて いはむら を ひたせる すな の たゆたふ に につ (外庭の松に陰りて岩群をひたせる砂のたゆたふに似つ)
歌意 堀の外の庭の松の影になって、石庭の岩群を浸すように見える白砂は揺れ動いている水の様子に似ている。 かすかに動く松の影を捉えて、庭の白砂が石を浸している水のように動いていると詠う。その観察眼、表現力は八一ならではである。
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柴売(第6首) そまびと の くるま いにたる くさむら に しば ひろひ きて かしぐ けふ かも (杣人の車去にたる草むらに柴拾ひきて炊ぐ今日かも)
歌意 杣人の車が去っていった後の草むらの柴を拾ってきて、今日は一人でご飯を炊いた。 落ちている柴を拾う、一人で炊飯する。この言葉の中に、きい子亡き後の1人身の生活の寂しさが浮かび上がってくる。一人居を詠んだ柴売6首はこれで完結する。山鳩、観音堂を含む37首はきい子への鎮魂歌であり、また八一自身の次への準備でもあると言える。 ただ、詠われた歌が必ずしも現実であったというわけではない。八一の頼った丹後家の側面援助はあった。丹後家の小作人三浦夫婦が生活の手助けをしているのも事実である。この歌や観音堂第3首は事実であるだろうがこの当時の象徴として詩的に詠われている。
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柴売(第3首) そまびと の つみたる しば に わが かど の さくら の したば いろづき に けり (杣人の積みたる柴にわが門の桜の下葉色づきにけり)
歌意 杣人が積みあげた柴のそばの観音堂の門のあたりの桜の木の下葉が赤く色づいてきた。 蜻蛉が飛びまわり(第2首)、桜の葉が紅葉し始めた。養女の冥福を祈りながら、学問や書の世界に復帰する前の静かな雌伏の時を八一は過ごす。そのことが目の前の自然に対する感受性をより豊かにしている。
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別府の宿より戯(たわむれ)に奈良の工藤精華に贈る
そらみつ やまと の かた に たつ くも は きみ が いぶき の すゑ に か も あらむ (そらみつ大和の方に立つ雲は君が息吹の末にかもあらむ)
歌意 ここから大和の方向にそびえ立って見える雲は、あなたが話をする時に吐き出した息の末端であるのでしょう。 遠く九州の地から奈良の写真家に送ったユーモアを交えた優しい歌である。工藤精華(利三郎)は、徳島県出身で奈良・猿沢池東畔で写真館を開き、美術写真を撮った。2人の出会いは八一27歳、精華60歳の時だった。精華は若い八一に拓本の撮り方などを教えたりして可愛がったと言う。 後に写真家・小川晴暘(飛鳥園)に八一が肩入れしたために不仲になるが、この歌の当時は親密な間柄だったようだ。
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