会津八一の歌

  会津八一(あいづ・やいち)                             目次へ
 1881~1956。新潟の生れ。号 秋艸道人(しゅうそうどうじん)。早稲田で学んだのち、坪内逍遥の招きで早稲田中学校教員となる。その後文学部教授に就任、美術史を講じた。
 古都奈良への関心が生み出した歌集『南京新唱(なんきょうしんしょう)』にその後の作歌を加えた『鹿鳴集』がある。奈良の仏像は八一の歌なしには語れない。歌人としては孤高の存在であったが、独自の歌風は高く評価されている。鹿鳴集に続いて『山光集』『寒燈集』を発表している。
 書にも秀で、今では高額で売買される。生涯独身で通したが、慕う弟子達を厳しく導き、多くの人材を育てた。 

   会津八一の生涯・年表  新潟市會津八一記念館  早稲田大学會津八一記念博物館

                                                       さ行の歌
山中にて(第2首)

 さいちょう の たちたる そま よ まさかど の 
                    ふみたる いは よ こころ どよめく   


          (最澄の立ちたる杣よ将門の踏みたる岩よ心どよめく)

さいちょう
そま


まさかど
ふみたるいは
どよめく

天台宗の祖師、最澄。“諡号(しごう)は伝教大師”」 
「杣(そま)は一般に木材を切り出す山のこと。最澄の歌“わが立つ杣”が有名で、杣そのものが比叡山を指す。参照(第1首注)

「平安時代の武将・平将門、比叡山での伝説がある。参照」 
「比叡山・四明獄頂上にある将門が踏んだと言われる将門岩」 
「鳴り響く、さわぐ」 

歌意
 最澄が立った杣よ、平将門の踏んだ岩よ、それらを思うととても心がさわぐことだ。
 
 奈良では仏教美術に魅せられて古代憧憬の歌を詠んだが、ここでは歴史上に活躍した最澄と将門の比叡山における姿を想定しながら高ぶる心を詠み込んだ。
 写真は最澄・伝教大師40歳の像と言われるもので、比叡山の西塔峰道駐車場にある。11メートルあるこの像は、山田恵諦第13代天台座主の時に建立された。

注 将門の伝説
 将門、藤原純友と相携えて比叡山に登り、王城を俯瞰して、壮んなるかな、大丈夫此に宅(を)るべからざるかと叫んで反を謀り、純友に向かって、他日志を得なば我は王族、まさに天子となり、公は藤原氏、能くわが関白になれと謂ったといふ伝説がある。(吉野秀雄・鹿鳴集歌解より)
 また、八一も自注鹿鳴集で同様のことを「頼山陽・日本外史(1829)」によると述べている。 
比叡山目次

鹿鳴集・比叡山(第6首) (2011・11・20)
明王院(第1首) 

 さかもと の よがは の たき の いは の へ に 
               ひと の みし とふ くしき おもかげ
             

             (坂本の横川の滝の岩の上に人の見しとふくしき面影)
       
明王院 「和歌山県高野町の高野山真言宗の寺院。高野山のなかほど本中院谷に所在。日本三不動のひとつ赤不動で有名」
さかもとのよがわ 「比叡山の横川。横川中堂を中心にした地域で、慈覚大師円仁によって開かれ、源信、親鸞、日蓮、道元など、名僧たちが修行に入った。赤不動は智証大師円珍がここの滝で修行中に感得した不動明王の姿を描かせたと言う伝説がある」
ひとのみしとふ 「人が見たと言う。“ひと”は円珍、見たのは赤不動の神秘的な幻影」
くしき 「神秘的な」

歌意
 比叡山の坂本の横川の滝の岩の上に人が見たと言う神秘的な姿、それがこの赤不動だ。

 明王院の赤不動(仏画)に対面した感動を、まずはこの絵の伝説に触れて表現した。明王院11首はこの赤不動を詠んだ歌である。(下記前書を参照)                         

 前書  
 十九日高野山明王院に於て秘宝赤不動を拜すまことに希世の珍なりその図幽怪神異これに向ふものをして舌慄へ胸戦き円珍が遠く晩唐より将来せる台密の面目を髣髴せしむるに足る予はその後疾を得て京に還り病室の素壁に面してその印象を追想し成すところ即ちこの十一首なり。  語句解説
明王院目次

山光集・明王院(第1首) (2014・7・2)
二十二日唐招提寺薬師寺を巡りて赤膚山(あかはだやま)正柏が窯(かま) に立ちよりて息(いこ)ふ(第4首)

 さきだちて さら や くだけむ もの かきし 
                われ や くだけむ よ の なか の みち 

              (先立ちて皿や砕けむ物書きし我や砕けむ世の中の道  

赤膚山正柏 「赤膚山は唐招提寺薬師寺の西にあり、現在の五条山。赤膚焼の発祥の地で数軒の窯元がある。(松田)正柏はそこの窯元・陶工の名前」
赤膚焼 「赤膚焼は桃山時代に大和郡山城主が、五条村赤膚山に開窯したと伝えられる。赤膚焼の由来は、焼物が赤味を帯びていたため、または窯があった五条山の別名赤膚山に由来するという両説がある。赤みを帯びた器に乳白色の萩釉を掛け、奈良絵と呼ばれる絵付けを施した物がよく知られる」
さきだちて 「先になって」
くだけむ 「砕けるのだろうか」
よのなかのみち 「有限であるこの世のならい。“世道の無上なるをいへり。”自註鹿鳴集」

歌意
 私が書画を書いたこの皿が砕けて無くなるのが先か、それとも私が先に死んで行くのであろうか、無常であるこの世のならいでは。

 仏教に精通し無常なることを常に念頭に置いていた八一の思いが素直に表現されている。対象と己との対比で「無常」あるいは「有限」であることを詠んだ歌は他にもあるが、この句は目の前の対象に直接的に対応した心情の吐露といえる。
                  第1首   第2首   第3首   第4首          
観仏三昧目次

鹿鳴集・観仏三昧(第14首) (2012・12・26)
観心寺の本尊如意輪観音を拝して(第1首) 

 さきだちて そう が ささぐる ともしび に 
                くしき ほとけ の まゆ あらは なり

              (さきだちて僧が捧ぐる灯火に奇しき仏の眉あらはなり)  

観心寺 「大阪府河内長野市にある高野山真言宗の寺院である。西暦701年に役行者の創建と伝えられるが、空海の弟子・実恵(じつえ)が開基である。本尊は如意輪観音(国宝)」
如意輪観音 「平安初期に作られた像高3尺6寸(108cm)、六臂(ぴ)の木造半跏思惟像である。密教美術の豊麗な様式を持つ最高傑作と言われている」
さきだちて 「先導して。“住職は開扉(かいひ)に先だちて、弟子僧とともに厳(おごそ)かに加持祈祷し、恭(うやうや)しく扉を開きたる後、燭台を捧げてわれ等を導きたり。”自註鹿鳴集」
くしき 「神秘的な。“幽婉(ゆうえん)にして神秘的なる。”自註鹿鳴集」
まゆあらはなり 「眉がはっきり見える」

歌意
 先に立った僧が捧げ持つ灯りに、この妖しいまでの秘仏の太い眉がはっきりと眼前に迫ってくる。

 4月18日、年1回の開帳に金堂は人で埋まっている。如意輪観音は、僧が捧げ持つ灯りに怪しげに艶めかしく現れたのではなく、満座の人々が凝視する先に豊かで色美しい姿を堂内に浮かび上がらせていた。それは強烈な印象であり、訪れたことの幸せをしみじみと感じるひとときだった。豊満で美しい仏の顔を飽きることなく眺めていた。 第2首
                                                       
 観心寺如意輪観音(鹿鳴集歌解より 吉野秀雄著)
 弘仁期密教美術の特色とする雄勁な手法と豊麗な様式を遺憾なく発揮したもの。奈良時代のからッとした理想美の世界を出でてここに至ると、何よりも森厳・霊活な、妖しき生きものといふ感に打たれる。
南京新唱目次

鹿鳴集・南京新唱(第83首) (2009・4・18)
泰山木(第5首)

 さき はてて ひとひ の うち に うつろへる 
               ましろき はな の こころ を ぞ おもふ

             (咲き果てて一日の内に移ろへる真白き花の心をぞ思ふ)  

泰山木 「モクレン科の常緑高木。葉は長楕円形で大きく、濃緑色。初夏、枝の端に香りの強い大きな白い花を開く。“明治初年北米より渡来せる常緑の喬木。「泰山」の文字を充つれども、中国の山嶽の名にかかはるところなし。「たいさん」と清みて読むべし。”自註」
うつろへる 「移ろへる。色が変わる、色があせる」

歌意
 咲き果てて一日の内に色褪せ、終わってしまう真白な泰山木の花の心がしのばれる。

 白く大きい花びらと強い香りを持つアクセントの強い花が、一日で咲き終わることへの感傷を詠う。敗戦間近の暗い世上の中で、心静かに泰山木の花を愛でた5首である。              
泰山木目次

寒燈集・泰山木(第5首) (2014・8・25)
折りにふれてよめる(第2首)
     
 さき ををる もも の したみち ひたすらに
               くだち も ゆく か よる の をすぐに 

             (咲きををる桃の下道ひたすらにくだちも行くか夜のをすぐに)  

さきををる 「咲き撓る。(枝がたわむほど花が)たくさん咲く。咲きこぼれる」
もものしたみち 黄泉の国(冥土)の比良坂にある桃の木の下の道。“『古事記』(712)に、黄泉(よみ)より女神のために追われて遁(のが)れ来たる男神が、黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)の下にて、桃の木より三個の実を摘み取りて、魔除けとなしたるよしあり。作者はこの歌にては、その桃樹の満開の頃を想像したるなり。・・・”自註鹿鳴集。 参照
くだちもいくか 「降ちもいくか。夜が更けていくか。“くだち”は 日が傾くこと。または、夜半過ぎ」
よるのをすぐに 「夜の食す国。黄泉の国、死者の国。“おす”は治める、統一するの尊敬語

歌意
 (黄泉の国の入り口)比良坂のたわわに咲く桃の花の下の道も夜が更けて行く、黄泉の国では。

 古代出雲の伊邪那岐(イザナギ)、伊邪那美(イザナミ)の神話を想定して、黄泉の国の満開の桃の花を詠む。古代への見識が深かった八一らしい歌だが、神話(古事記)への知識が必要なので、難しいと言える。しかし、歌そのものは咲き誇る桃の花を思い浮かべれば、容易に理解できる。
       
                                
 黄泉比良坂、伊邪那岐、伊邪那美(古代出雲神話、古事記)
 黄泉比良坂は黄泉の国と現世の境界、入り口。死んだ伊邪那美を忘れられない伊邪那岐は黄泉の国へ向かい再会するが、「見るな」という約束を破って見てしまったために、伊邪那美や黄泉の住人達に追われる。その時、黄泉比良坂にあった桃の木から実をもぎ取って投げつけることで助かった。
小園目次

鹿鳴集・小園(第7首) (2013・9・20)
十九日室生にいたらむとて先づ桜井の聖林寺に十一面観音の端厳を  拝す 旧知の老僧老いてなほ在り

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 さく はな の とわ に にほへる みほとけ を 
               まもりて ひと の おい に けらし も


        (咲く花の永遠ににほへるみ仏を守りて人の老いにけらしも)

「・・の如く」
にほへる 「いい匂いという意味ではなく、美しくつややかなという意」
ひと 「住職、三好宥忍師(ゆうにんし)」

歌意
 咲く花のように美しく艶やかさを永遠にお持ちになっているみ仏をお守りになって、人であるこの寺のご住職もお年をめされたものだ。

 大正14年、聖林寺を訪れて「あめ そそぐ・・」と詠ってから15年、再び訪れてこの歌を詠んだ。作者59才の作品である。年齢からか穏やかな静かな歌である。
 昨秋、聖林寺を訪れた時、住職が左のガラス戸を開けて背面を見せ、いろいろと解説してくれた。飾らぬ誠実な方で大神神社(おおみわ)の冊子にも文章を書いていた。
 裏面からの観音はまさしく美しく艶やかで肉感的ですらあった。         
観仏三昧目次

鹿鳴集・観仏三昧(第5首) (2002・11・19)
この日寺中に泊し夜ふけて同行の学生のために千年の
寺史を説くこれより風邪のきざし著し(第2首) 

 さけ のむ と ひそかに いでし やまでら の 
               かど の をばし に かぜ ひき に けむ   
             

           (酒飲むと密かに出でし山寺の門の小橋に風邪引きにけむ)
       
霜葉 「そうよう。霜で紅や黄に変色した葉」
やまでらのかど 「室生寺の山門」
をばし
「小橋。山門の前にある橋を渡ると旅館や商店がある」

歌意
 酒を飲もうとひそかに室生寺を抜け出たが、山門を出た小橋の辺りで風邪を引いてしまったらしい。

 酒好きの八一がこっそり寺を抜け出して酒を飲もうと思ったから、仏の罰があたったと面白おかしく表現する。この翌日、18日に高野山に行き、泊まるが一連の無理がたたり、東京に戻ると肺炎で危篤になり、5ヶ月も寝込むことになる。
                           植田重雄の“最後の奈良見学旅行3
       

霜葉目次

山光集・霜葉(第10首) (2014・6・24)
奈良の戎(えびす)の市にて
     
 ささ の は に たひ つり さげて あをによし
               なら の ちまた は ひと の なみ うつ 

             (笹の葉に鯛吊り下げてあをによし奈良の巷は人の波打つ)  

戎の市 「恵比寿神社(奈良市南市町)の祭礼、1月4日宵えびす5日本えびす。7福神の1つ恵比寿は商売繁盛の神として信仰される。元は漁業の神であったので鯛を釣り上げる姿でえがかれる」
たひつりさげて 「鯛吊り下げて。“笹の葉に、紙にて造りたる鯛のほかに、大判小判など吊り下げたるものを、縁起物としてこの市にて売るなり。”自註鹿鳴集」
あおによし 奈良の枕詞」
ちまた 「巷。人が大ぜい集まっている、にぎやかな通り」

歌意
 笹に鯛をつり下げた縁起物を持った人達で奈良の戎市の立つ街は波打つように賑わっている。

 「憂患」を抱えた寂しい西国の旅の途中、正月に一度奈良を訪れた八一は戎市の賑わいに驚く。人々の喜びが「波打つ」光景を素直に受け止め表現する八一の心情は、穏やかさを取り戻したと言えるだろう。
放浪唫草目次

鹿鳴集・放浪唫草(第61首) (2013・6・11)
室生寺にて(第1首)

 ささやかに にぬり の たふ の たち すます
           このま に あそぶ やまざと の こら

   (ささやかに丹塗りの塔の立ちすます木の間に遊ぶ山里の子ら)

室生寺  「室生寺は、奈良県宇陀市にある真言宗寺院。奈良盆地の東方、三重県境に近い室生の地にある山岳寺院である。山深くにある堂と優れた仏像は有名で、シャクナゲの名所でもある。女人禁制だった高野山に対し、女性の参詣が許されていたことから“女人高野”の別名がある」
ささやかに 「小ぢんまりと」
にぬり 「丹塗り。朱色に塗った」
たふ 「平安初期の作といわれる小ぢんまりした朱色の美しい五重の塔。1998年の台風で大きな被害を受けたが、2000年には復旧した」
たちすます 「立ち澄ます。清らかに澄んで立っている」

歌意
 小ぢんまりと清らかに赤く塗られた塔がすっきりと立っている。そのあたりの木の間に遊ぶ山里の子供達よ。

 屋外にある五重塔としては日本で最も小さい。16m余の塔が巨木に囲まれている様はいかにも小ぢんまりしていて、静かで可愛らしいとも言える。新緑の中にある朱塗りの塔はいつ見ても素晴らしい。木々の間で無心に遊ぶ子供たちの姿が、静寂の中に大きく包まれていくようである。
 混雑を避けて連休明けに訪れたが、バスを連ねた観光客の中では往時を偲んで歌を鑑賞するにはよほどの努力がいる。    室生寺にて第2首へ
          
南京新唱目次

鹿鳴集・南京新唱(第88首) (2009・05・08)
閑庭(第13首)

 さざんくわ の いくひ こぼれて くれなゐ に 
               ちり つむ つち に あめ ふり やまず

           (山茶花の幾日こぼれて紅に散り積む土に雨降り止まず)  

閑庭 「かんてい。もの静かな庭。ここでは下落合秋艸堂のことを言う。“この林荘のことは、かつて『鹿鳴集』の例言の中に述ぶるところありたり。併せ見るべし。後にこの邸を出でて、同じ下落合にてほど近き目白文化村といふに移り住みしなり。”自註」
さざんくわ 「山茶花。ツバキ科の常緑小高木。晩秋から冬にかけ、赤色や白色やピンクなどの五弁花をつける。蕾ごと落ちる椿と異なり花びらがぱらぱらと散る」
こぼれて 「山茶花の花びらがぱらぱらと散る状態」

歌意
 山茶花の花が何日もこぼれ散り、紅く積み重なった土の上に雨が止むことなく降り続いている。

 晩秋から冬にかけて咲く山茶花は花びらをぱらぱらと落とす。その紅の花びらたちが地面を染める。冬に貴重な彩りに目を向けながら、冷たい雨の続く冬の寂しい庭を詠う。    
閑庭目次

寒燈集・閑庭(第13首) (2014・9・17)
その日国上村源八新田なる森山耕田が家に宿りて
禅師が手沢の鉢の子を見る(第2首)


 さすたけ の きみ が たなれ の はちのこ を 
               まさめ に みる か わが ひざ の へ に

           (さすたけの君が手馴れの鉢の子を正目に見るか我が膝の辺に)  

鉢の子 「托鉢(たくはつ)僧が手に持つ鉄の鉢」
さすたけの 刺す竹の。君、大宮人、皇子などにかかる枕詞
たなれ 「手馴れ。手に慣れていること、使い慣れていること」
まさめ 「正眼、正目。正面から見ること、まのあたり」

歌意
 あなたが手に持って使い慣れた鉢の子をまのあたりに見ることができるのだ、私の膝の上に置いて。

 良寛の鉢の子をまのあたりに見てその喜びを素直に詠う。鉢の子を通してありし日の良寛と対話しているようである。             
鉢の子目次

寒燈集・鉢の子(第4首) (2014・10・26)
国葬の日に(第3首)   

 さすたけの きみ を つつみて ふるさと の 
              やま は しげらむ のち の よ の ため に      
             

           (さすたけの君を包みて故郷の山は繁らむ後の世のために)
       
さすたけの 「刺す竹の。君、大宮人、皇子などにかかる枕詞」
ふるさとのやま 「故郷の山。山本五十六の故郷・新潟の山。“元帥の遺骨は、一半は多摩の墓地に、他の一半は故郷長岡の長興寺なる祖先以来の墓所に埋められたり。”自註」

歌意
 故郷に帰るあなたのみ魂をつつんで故郷の山は繁ることだろう。後の世のために。

 故郷の山があたたかく迎え、後々までも見守るだろうし、そのことは後の世のためでもあると詠う。山本元帥7首を終わる。      
山本元帥目次

山光集・山本元帥(第7首) (2014・5・30)
正月十日奈良新薬師寺にて我がために息災の護摩を
いとなまんとすと聞えければ(第1首) 

 さち あれ と はるかに なら の ふるてら に 
               たく なる ごま の われ に みえ く も 
             

             (幸あれとはるかに奈良の古寺に焚くなる護摩の我に見えくも)
    
ふるてら 「古寺。新薬師寺のこと。八一はこの寺の香薬師像を詠み、寺庭に歌碑があって関係が深い」
ごま 「護摩。(護摩を焚く)密教で不動明王・愛染明王などを本尊とし、その前に作った護摩壇で護摩木を焚いて仏に祈る行法。木は人の悩みや災難を、火は智慧や真理を表す。息災・増益・降伏(ごうぶく)などを祈願する」
       
歌意
 私の病気回復を祈ってはるか彼方の奈良の古寺・新薬師寺で焚いてくれる護摩の火が眼の前に見えてくるようだ。

 香薬師を詠った八一の病気平癒を願って奈良の地で護摩を焚くと言う。八一の感謝の念は強い。
病間目次

山光集・病間(第11首) (2014・7・20)
山歌(第1首)
昨秋天皇陛下この地に巡幸したまひし時県吏まづ来りて予にもとむるに良寛禅師に関する一席の進講を以てす予すなはちこれを快諾したるも期に及びてにはかに事を以てこれを果すことを得ず甚だこれを憾(うら)みとせり今その詠草を筐底(きょうてい)に見出でてここに録して記念とす       

 さと の こ と てまり つき つつ あそびたる 
               ほふし が うた を きこえ まつらむ


           (里の子と手まりつきつつ遊びたる法師が歌を聞こえまつらむ)  

筐底 「きょうてい。箱の底、箱の中」
きこえまつらむ 「“きこえ”は言うの謙譲語。(天皇に)申し上げる、お聞かせする。“まつる”も動詞の下に付いて謙譲を表す」

歌意
 里の子と手まりをついて遊んだ良寛法師の歌をお聞かせ申し上げたい。

 詞書にあるように、八一は小杉放菴、佐藤耐雪、佐々木象堂、斎藤秀平と共に、良寛について御進講する予定だったが、問題があって辞退した。天皇を敬慕する八一はこのことに苦しみ、食事もせずに自室に閉じこもっていたという。そして、山歌4首を後に詠んで、心の中で御進講を果たした。
山歌目次

寒燈集以後・山歌(第1首) (2014・12・8)
このごろ(第1首)

 さにはべ に われ たち いでて まきし な の 
               つち さへ いてて かたき このごろ 

              (さ庭辺に我立ち出でて蒔きし菜の土さへ凍てて硬きこの頃)  

さにはべ さ庭辺。“さ”は語調を整える意味のない助詞。小さいを意味する狭庭辺も考えられる
いてて 「凍てて。凍って」
       
歌意
 私が庭に出て菜の種を蒔いた土さえも凍って硬くなっているこの頃である。

 既に空襲は始まり、食料は乏しく多くの人が庭や道端を耕していろいろな物を植えた。このことは寒燈集・街上に詠われている。病弱のきい子の手助けもあったであろう、八一も庭に菜の種を蒔いた。 
このごろ目次

寒燈集・このごろ(第1首) (2014・9・1)
庭上(第2首)
     
 さにはべ の かぜ を こちたみ うつろひし 
               ばら の つぼみ の ゆれ たてる みゆ 

             (さ庭辺の風をこちたみうつろひし薔薇のつぼみの揺れたてる見ゆ)  

九官鳥 「人や動物の声真似、鳴き真似が上手で音程や音色だけでなく声色も真似する。名の由来は、九官と名乗る中国人が“この鳥は吾の名を言う”と説明したものが、誤って名前にされた。八一は大阪の知人からもらってしばらく飼った」
庭上 「昭和10年に下落合秋艸堂から目白文化村に転居、洋館風の家でその庭を言う」
さにはべ さ庭辺。“さ”は語調を整える意味のない助詞。小さいを意味する狭庭辺も考えられる」
こちたみ “こちたきために。烈(はげ)しさに。本来は「言痛シ」より来ればにや、『万葉集』にては上に「ひとごとを」の伴ふを常とせり。”自註鹿鳴集。多くは“人言をこちたみ”(人の口がうるさいので)の形で用いられる
うつろひし 色が変わってゆく。色褪せた」

歌意
 庭先に吹く烈しい冬の風に、咲かなくて色褪せた薔薇の蕾が大揺れに動いているのが見える。

 きい子の病臥(入院)で独り居の八一の孤独な心に吹き荒れる木枯らしと哀れな薔薇の姿が迫ってくる。この時八一は還暦を迎えている。
 八一は「うつろいし」の解説を73歳で書いた自註鹿鳴集で“色褪せたる。これは咲き了(おわ)りし花が乾き果てて枝とともに風に揺らるるさまなり。”と書いている。もしそうなら歌意は以下のようになる。
 「庭先に吹く烈しい冬の風に、咲き終わって色褪せ小さくなった薔薇の花が大揺れに動いているのが見える」
      
九官鳥目次

鹿鳴集・九官鳥(第2首) (2013・9・27)
柿若葉(第3首)
新潟市はわがためには故郷なれども今はたよるべき親戚も無ければ北蒲原郡西条なる丹呉氏の宗家をたづねて身を寄すすでに亡きわが父も幼時この家に扶養を受けられたることなどしみじみ思ひ出でて眼に触るるものすべてなつかし

 さびいろ の ひば を そがひ に ひとむら の 
               ぼたん の わかば かがやき たつ も

           (錆色の檜葉をそがひに一叢の牡丹の若葉輝き立つも)  

宗家 「そうけ。一門、一族の中心となる家柄、本家。丹呉家は父方の遠縁の親戚、当主は丹呉康平で町長を務める素封家であった」
さびいろ 「錆色。鉄錆の色のような赤茶色」
ひば 「檜葉。ヒノキの葉」
そがひ 「背向。背後、後ろの方角、後方」
ひとむら 「一叢。ひとかたまり」

歌意
 赤茶色の檜の葉を背後にひとかたまりの牡丹の若葉が輝いて立っているよ。

 冬越えの赤茶色になった檜の葉、対照的に春になって伸び出した瑞々しい牡丹の若葉を詠む。疎開した新潟の自然の営みが詠われている。    
柿若葉目次

寒燈集・柿若葉(第3首) (2014・10・20)
この日奈良坂を過ぎ佐保山の蔚々(うつうつ)たるを望む  聖武天皇の南陵あり 傍(かたわら)に光明皇后を葬りて東陵といふ

 さほやま の こ の した がくり よごもり に 
                もの うちかたれ わがせ わぎもこ 

              (佐保山の木の下がくり夜ごもりにものうち語れ我背吾妹子  

奈良坂 「奈良市の北から京都府木津川市木津に出る坂道」
佐保山 「奈良市北部、佐保川の北側にある丘陵。京都府との境をなす。西部の佐紀(さき)山と合わせて古くは奈良山と呼んだ」
蔚々たる 「樹木がこんもり茂る様」
このしたがくり 「木の下に隠れて」
よごもり 「夜が深いこと。まだ夜が明けきらないこと。また、その時刻。深夜。夜ふけ」
わがせわぎもこ 「男女の愛称。我背・男性の愛称、吾妹子・女性の愛称」

歌意
 佐保山のこんもり茂った樹木に隠れて夜更けまで物語ってください。「我背吾妹子」と呼び合う聖武天皇、光明皇后よ。

 御陵を拝しながら、憧憬する古代への想いをおおらかに詠っており、天皇と皇后に対する暖かい心根がしみじみと伝わってくる。過日、この二つの御陵を親切なタクシーに案内してもらって訪れたことがある。その時、池に咲いていた“こうほね”の花が印象に残っている。   
観仏三昧目次

鹿鳴集・観仏三昧(第10首) (2012・12・23)
閑庭(第36首)

 さみだるる せと の をばやし したぐさ に 
               けさ を にほへる くちなし の はな

           (さみだるる背土のを林下草に今朝を匂へるくちなしの花)  

閑庭 「かんてい。もの静かな庭。ここでは下落合秋艸堂のことを言う。“この林荘のことは、かつて『鹿鳴集』の例言の中に述ぶるところありたり。併せ見るべし。後にこの邸を出でて、同じ下落合にてほど近き目白文化村といふに移り住みしなり。”自註」
さみだるる さみだれ(五月雨)の動詞化したもの。さみだれは 陰暦5月ごろに降りつづく長雨、梅雨」
せと 「背戸。普通は“せど”と言う。家の裏口、裏門」
をばやし 小林。“を”は意味の無い接頭語だが、ここでは小さい林」
くちなし 梔子。アカネ科の常緑低木。葉は長楕円形でつやがあり、香りの高い白い花を開く」

歌意
 五月雨が降る裏門の小さな林の下の草の中に、今朝はくちなしの花が香り高く匂っている。

 梅雨の季節に真白に咲いたくちなしの花が強い香りを出している。香り高い白い花を雨の中にとらえた心惹かれる歌である。      
閑庭目次

寒燈集・閑庭(第36首) (2014・10・1)
火鉢(第4首)

 さよ ふけて かき おこせども いたづらに 
               おほき ひばち の ひだね ともし も

              (さ夜更けかき起こせどもいたづらに大き火鉢の火種ともしも)  

火鉢 「灰を入れ、中に炭火をおこして、暖房や湯沸かしなどに用いる道具」
さよふけて 「さ夜ふけて、夜がふけて。“さ”は語感をととのえる接頭語」
いたづらに 「徒らに。無駄に」
ともし 「乏し。少ない、不足だ」

歌意
 夜が更けて寒いのでかき起すけれどどうにもならない、この大きい火鉢の火種がとても少ないので。

 火種が乏しい火鉢をいくらかき起こしても暖かくならない。古書を夜通し読もうと思ったが寒さには勝てない。寒さが増す寂しい夜、読書を続けるのは無理だったようだ。    
火鉢目次

寒燈集・火鉢(第4首) (2014・9・8)
越後の中頸城(なかくびき)に住めるころ(第2首)

 さよ ふけて かど ゆく ひと の からかさ に 
                ゆき ふる おと の さびしく も あるか


              (さ夜更けて門行く人のからかさに雪降る音の淋しくもあるか)

中頸城
「新潟県中頸城郡(なかくびきぐん)板倉村(現在は上越市板倉区)。八一は早大文学部卒業後、ここにある有恒学舎(現県立有恒高等学校)に英語教師として赴任した。明治39~43年、26~30歳の時である」
さよふけて 「さ夜ふけて。夜がふけて。“さ”は語感をととのえる接頭語」
かどゆく 「“かど”は門。門前を通りゆく」
からかさ 「唐傘。唐風のかさの意。割り竹の骨に紙を張って油をひき、柄をつけた傘」
あるか 「“「か」は「かな」といふに等し。詠嘆。”自註鹿鳴集」

歌意
 夜がふけて門前を通りゆく人の唐傘の上に雪が降る、なんと淋しい雪の音であることよ。

 有恒学舎に赴任した八一は宮澤萬太郎宅の二階に下宿した。都会を離れた村に雪が降る。静寂と言える世界で人の通る気配と雪の傘にあたる音のみが八一に伝わってくる。淋しい環境に置かれた八一の心境が詩的な姿で伝わってくる。       
旅愁目次

鹿鳴集・旅愁(第3首) (2013・8・24)
木葉(このは)村にて(第5首)
     
 さる の こ の つぶらまなこ に さす すみ の
               ふで あやまち そ はし の ともがら 

              (猿の子のつぶら眼に注す墨の筆過ちそ土師のともがら)  

木葉村 「現在の熊本県玉名郡玉東町木葉」
さるのこ 子猿(木葉猿)。ここでは陶器の猿」
つぶらまなこ 「“つぶら”はまるくて、かわいらしいさま。まるくてかわいい目」
さすすみ 「差す墨。墨で猿の目を描くこと」
あやまちそ 失敗しないで。終助詞“そ”は、“な+動詞の連用形+そ”の形で、行為が実行にうつされないことを希望または要求するのに用いる。禁止。ここでは“な”は省略
はし 土師。上代、陵墓管理、土器や埴輪の製作などをした人。ここでは陶器を作る人」
ともがら 「仲間」

歌意
 猿の子の丸いつぶらな瞳に墨を差しているその筆使いを仕損じないように、土師の仲間たちよ。

 郷土玩具・木葉猿にもいろいろあった。第4首の猿の目は怒っていた。ここでは可愛らしい眼の猿である。作品を見る八一の視点が面白い。この木葉猿の地、熊本県玉名郡玉東町木葉にこの歌の碑が建っている。

追記 歌碑について(木の葉猿窯元の庭にある) 
 2017年11月、八一研究家の池内さんから、メールと歌碑の写真を頂いたので以下に掲載します。

 「11月17日(金)、熊本市で会議があったので、少し足を伸ばして木の葉猿窯元へ行きました。熊本駅から木葉駅まで鹿児島本線で20分、駅から歩いて15分程です。
 永田禮三氏はご不在でしたが、奥様がおられました。歌碑除幕式典のアルバムを見せていただき、お話を伺うことができました。
 二十年以上経った歌碑は、周囲にしっかりと馴染んでいます。もう少し周囲を奇麗にしていただければとも思うのですが、ご夫婦ともにご高齢なので仕方がないのかもしれません。
当初は黒御影石を使う予定だったが、光って読みにくいので地元の石を使われたとのことです。確かに、秋篠寺や新潟市西海岸公園の歌碑は碑面が反射して読みにくいです。黒御影石を使わなくて正解だと思いました。(池内)

  
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鹿鳴集・放浪唫草(第47首) (2013・5・25)
木葉(このは)村にて(第7首)
     
 さる の みこ ちやみせ の たな に こま なめて
               あした の かり に いま たたす らし 

             (猿の皇子茶店の棚に駒並めて朝の狩りに今立たすらし)  

木葉村 「現在の熊本県玉名郡玉東町木葉」
さるのみこ 猿の皇子。“猿を貴公子になどの如くに見立てたり。”自註鹿鳴集」
こまなめて 「“こま”は馬、“なめて”は並べて。馬の頭を並べて」
あした 「朝」
いまたたすらし 「“今しも出発せらるるか。『万葉集』巻一に「朝狩りに今立たすらし、夕狩に今たたすらし、み取らしの梓の弓の、なかはずの音すなり」とあるを取りて、戯にこれに倣(なら)ひたるなり。”自註鹿鳴集」

歌意
 猿の皇子は茶店の棚の上に馬の頭を並べて、今朝の狩りに今出発されようとしている。

 自註鹿鳴集にあるように馬を並べた皇子たちの朝狩りの情景を思い浮かべれば、
八一が興味を持った木葉猿の滑稽味がよくわかる。
 「たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野」(万葉集・中皇命)などを参考に。
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鹿鳴集・放浪唫草(第49首) (2013・5・29)
鐘楼(第6首)   
三月十四日二三子とともに東大寺に詣づ客殿の廊下より望めば焼きて日なほ浅き嫩草山の草の根わづかに青みそめ陽光やうやく熙々たらむとすれども梢をわたる野風なほ襟に冷かにしてかの洪鐘の声また聞くべからずことに寂寞の感ありよりて鐘楼に到り頭上にかかれる撞木を撫しつつこの歌を作る

 さをしか の みみ の わたげ に きこえ こぬ 
                  かね を ひさしみ こひ つつ か あらむ            
        

           (さ牡鹿の耳の綿毛に聞えこむ鐘を久しみ恋ひつつかあらむ)

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熙々 「きき。やわらぎ楽しむさま。ひろびろとしたさま。往来のはげしいさま(大辞林)」
洪鐘 「こうしょう。大きな釣鐘」
寂寞 「せきばく。ひっそりとして寂しいさま」
撞木 「しゅもく。釣り鐘を突く棒」
さおしか 「牡鹿。さは接頭語」
みみのわたげ 「耳の中のふさふさした綿毛」
ひさしみ 「久しいから」

歌意
 奈良の鹿たちは久しく耳の綿毛に聞こえてこない鐘の音を恋しく思っていることであろう。

 八一の鐘の響きへの思いは鹿たちに投影されて詠われる。鐘楼6首は鐘の音へのなつかしさ、恋しさを以て終わる。なお「みみのわたげ」を詠んだ歌がもう1首(しか の こ は・・・)ある。
 写真は鹿鳴人提供(2014・5・24)の東大寺鐘楼。        
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山光集・鐘楼(第6首) (2014・5・16)
鹿の鳴くをききて(第1首)

  しか なきて かかる さびしき ゆふべ とも 
              しらで ひともす なら の まちかど
 

            (鹿鳴きてかかる寂しき夕べとも知らで灯ともす奈良の街角)

かかる

しらで
ひともす
「このような。八一にとっての“かかる さびしき”は余人には計り知れないほどの奈良への思いからくる哀傷、寂しさである」
「知らないで」

「灯点す」

歌意
 鹿が鳴いてこんなに寂しい夕方なのに、そのことを感じないで奈良の人達は街角に灯をともすことよ。

 八一の古都奈良への情熱、とりわけ古代への憧憬は誰にも負けないほど強い。明治以降の古寺、仏像の荒廃は激しい。そうしたことへの寂寥感を、市井の日常に生きる奈良の町の人達を「知らで」と詠むことによって浮き上がらせている。
 第2首 “しか なきて なら は さびし と しる ひと も
                    わが もふ ごとく しる と いはめ や も”
と併せ読むと八一の哀傷、寂寥感が良くわかる。
 万葉集以来、鹿の鳴き声はもの悲しいとして歌われている。しかも和歌での鹿の扱いは全て鳴き声であって、鹿そのものを詠んだ名歌(南京新唱冒頭の“春日野にて”参照)は八一が初めてであり、鹿への思い入れも大きい。    
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鹿鳴集・南京余唱(第39首) (2012・6・14)
鹿の鳴くをききて(第2首)

  しか なきて なら は さびし と しる ひと も 
              わが もふ ごとく しる と いはめ や も
 

            (鹿鳴きて奈良は寂しと知る人も我が思ふごとく知ると言はめやも)

わがもふ
いはめやも
「私が思う。第1首参照」
「言うだろうか、いや言えないだろう。“も”は感嘆」

歌意
 晩秋に鹿の鳴き声が聞こえる奈良は寂しいと知っている人でも、私が思っているほどに寂しさを感じていると言うことができるだろうか。それほど私の思いは深い。

 古都への哀傷を際立たせる歌である。鹿の鳴く奈良の寂しさを反語を使ってまで強く表現した八一の心情に打たれる。抒情豊かな第1首と合わせて読む時に、初めて深く八一の心情が理解できる。
                                                        
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鹿鳴集・南京余唱(第40首) (2012・6・17)
西国の旅より奈良にもどりて
     
 しか の こ は みみ の わたげ も ふくよかに
               ねむる よ ながき ころ は き に けり 

             (鹿の子は耳の綿毛もふくよかに眠る夜長き頃は来にけり)  

西国の旅 「大正10年11月16日~11年2月18日までの九州地方の旅行、放浪唫草の旅」
奈良にもどりて 「西国の旅の途中(1月1~13日)、一度大阪、奈良に戻っている」
ふくよかに “軟かに。ふさふさとしたる綿毛を、その耳の内側に持てる鹿の子のさまなり。”自註鹿鳴集」

歌意
 鹿の子の耳の中の綿毛がふさふさと伸び軟らかい、そんな鹿たちの静かに眠る夜長の頃となったものだ。

 九州長旅の途中、大阪の親友伊達俊光宅で新年を迎え、その後奈良に向かい、写真家小川晴暘と春日山の石仏群を撮影している。山中高歌以後、西国の旅を経て奈良美術に軸足を移した八一には奈良の地はまさに安らぎの場であった。その気持ちがゆったりと眠る小鹿の姿に表れている。
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鹿鳴集・放浪唫草(第60首) (2013・6・10)
海龍王寺にて(第1首)

 しぐれ の あめ いたく な ふり そ こんだう の
                 はしら の まそほ かべ に ながれむ

              (時雨の雨いたくな降りそ金堂の柱のま赭壁に流れむ)


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海龍王寺
 
「光明皇后の立願により奈良市法華寺町に建立、明治の頃は無住寺で荒廃はなはだしかった」
しぐれのあめ 「晩秋初冬の降ったり止んだりする雨」
いたく 「はなはだしく、たいそう」
まそほ 「真赭。ま、は接頭語。赤色の土、またその色」

歌意
 時雨の雨よそんなに激しく降ってくれるな。この古寺の柱に塗ってある赤の顔料が壁に流れて染みてしまうでしょうから。

 「いたくなふりそ」は良く使われている表現だが、その表現の力強さが好きだ。状況と作者の願いの中に悠久の時と哀愁を感じる。海龍王寺は八一の歌と共に訪れた時、初めてその良さがわかる。
    (歌碑建立は昭和45年)       第2首へ            
              
                     本堂                  本堂の中で
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鹿鳴集・南京新唱(第41首) (2002・05・28)
大安寺をいでて薬師寺をのぞむ

 しぐれ ふる のずゑ の むら の このま より 
                  み いでて うれし やくしじ の たふ

           (時雨降る野末の村の木の間より見出でてうれし薬師寺の塔)

大安寺
 
「東大寺、興福寺などがある南都七大寺の一つ。創立者は聖徳太子と伝えられる。奈良市大安寺町、近鉄奈良駅から南に位置し、その先に薬師寺を望む。明治の頃は無住寺で荒廃はなはだしかった」
薬師寺 「同じく南都七大寺の一つ。天武天皇の発願を起源にする。天災と戦乱でほとんど消失したが、唯一この有名な東塔が創建当時のもの。近年ほとんど再建された」
しぐれ 「時雨、秋の末から冬の初めにかけて、ぱらぱらと通り雨のように降る雨」
のずゑのむら 「野のはての村」

歌意
 時雨の降りしきる野のはての村の木立の間から(荒れ果てた原野・平城の都址を隔てて)薬師寺の塔が見えるではないか。心から嬉しさがわいてきた。

 南京新唱の薬師寺の歌(四首)の第一首、大安寺をでて荒れ果てた原野の向こうに薬師寺東塔を見出した感動が躍動的に詠まれる。八一の作品の中で最も有名でかつ美しいと言われる「すいえん・・」の歌(三首目)への序章ともいえる。
 自註鹿鳴集で作者はこう書いている。
 今はあさましき原野となりはてたる平城の都址を隔てて、西の京(ニシノキヤウ)の方を望むに、時雨の降りしきる里洛の中より、まず薬師寺の塔の目に入り来れるを詠めるなり。    
           
 2001年1月12日、友人達と七条大池から塔を眺めた。若草山の山焼きの日で多くのカメラマンが押し寄せていた。掲載の歌とは正反対の位置からだが、見晴らしの悪い池沿いの道を抜けて眼前に開けたこの光景に同じような喜びを感じた。         
南京新唱目次

鹿鳴集・南京新唱(第55首) (2003・8・26)
耶馬渓(やまけい)にて(第8首)
       
 しぐれ ふる やまくにがは の たにま より
               ゆふ かたまけて ひとり いで ゆく

              (時雨降る山国川の谷間より夕かたまけて一人出でゆく)  

耶馬渓
「大分県中津市にある山国川の渓谷、景勝地として知られる。
“山国川の谿谷。「山」の字を「耶馬」と訓読して、かく命じたるは頼山陽(1780-1832)なり。今日にいたりては、原名の方かへりて耳遠くなれり。”自註鹿鳴集」
やまくにがは 「山国川は、大分県と福岡県の県境付近を流れる川。福岡県と大分県を分ける河川として知られて、中流に耶馬渓がある」
ゆうかたまけて 「“「かたまく」は「かたむく」。夕も近く、日の暮れんとするに、といふこと。”自註鹿鳴集」

歌意
 時雨の降る山国川の谷間、耶馬渓からもう日も暮れようとしているのに一人宿を出て旅するのだ。

 寂しい冬の谷間を出発する孤客に時雨が降り注ぐ。孤客の胸の内はどんなであっただろうか?耶馬渓には2泊し、さらに九州の旅を続ける。   
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鹿鳴集・放浪唫草(第35首) (2013・5・7)
耶馬渓(やまけい)にて(第5首)
       
 しぐれ ふる やま を し みれば こころ さへ
               ぬれ とほる べく おもほゆる かも

              (時雨降る山をし見れば心さへ濡れとほるべく思ほゆるかも)  

耶馬渓
「大分県中津市にある山国川の渓谷、景勝地として知られる。
“山国川の谿谷。「山」の字を「耶馬」と訓読して、かく命じたるは頼山陽(1780-1832)なり。今日にいたりては、原名の方かへりて耳遠くなれり。”自註鹿鳴集」
やまをし 「山を。“し”は強意などの意を添える助詞」
ぬれとほる 「“湿気が心の奥まで沁み込む。”自註鹿鳴集」
かも 「…ことよ、…だなあ(感動・詠嘆を表す)」

歌意
 時雨が降り注ぐ紅葉の散った寒々とした山をじっと見ていると心の中まで雨が沁み込んで来るように思われることだなあ。

 「心の中まで濡れてしまう」は冬の雨の耶馬渓と一人旅の八一の心情を的確に表わしている。 
放浪唫草目次

鹿鳴集・放浪唫草(第32首) (2013・5・6)
村荘雑事(第15首)

 しげり たつ かし の このま の あをぞら を
               ながるる くも の やむ とき も なし 

              (繁り立つ樫の木の間の青空を流るる雲の止む時も無し)  

村荘雑事
「会津八一が住んだ下落合秋艸堂(1922-1935年)で自然を詠んだ17首」
しげりたつ 「葉が生い茂っている」
かし 「樫。ブナ科の常緑高木で、高さは約20メートルになる」
このま 「木の間。木と木の間」

歌意
 葉が生い茂っている樫の木々の間から見える青空を行く白雲は途切れることなく流れている。

 樫の木々の間から見る秋の青い空、そこには次々と流れていく白雲がある。爽やかな情景である。八一の心情もきっとそうであっただろう。         
村荘雑事目次

鹿鳴集・村荘雑事(第15首)  (2013・6・29)
桜桃(第7首)
     
 しげりは に こもる こぬれ の あけ の み の 
               あな うらぐはし つゆ も ゆらら に

             (繁り葉に籠る木末の朱の実のあなうらぐはし露もゆららに)  

桜桃・あうたう 「おうとう。セイヨウミザクラの別名、また、その実、さくらんぼ」
こぬれ 「“木(こ)の末(うれ)”の転、木の末、こずえ」
あなうらぐはし 「“「あな」は詠嘆。「うらぐはし」は美妙なりといふこと。万葉集に「もとへば、あせみはなさき、すゑへは、つばくはなさく、うらぐはしやまぞ、なくこもるやま」「あさひなす、まぐはしも、ゆふひなす、うらぐはしも」などあり。”自註」
       
歌意
 桜桃の木の繁った葉の梢の中に籠っているようにある赤い桜桃の実、さくらんぼはなんと美しい事か、さくらんぼについた露もゆらゆらと揺れて。

 桜桃の茂みの中にしっとりと露に濡れた赤いさくらんぼを見事にとらえて詠っている。心地よい季節に八一の心も明るく軽やかである。  
桜桃目次

寒燈集・桜桃(第7首) (2014・11・15)
法華寺温室懐古(第1首)

 ししむら は ほね も あらはに とろろぎて
               ながるる うみ を すひ に けらし も
 
            (ししむらは骨もあらはにとろろぎて流るる膿を吸ひにけらしも)

法華寺温室  「からふろ(空風呂)、本堂東にある蒸風呂のこと。悲田院、施薬院などの福祉施設を作った光明皇后が、千人の施浴の誓願を立て建設したもの」
光明皇后伝説 「からふろ(空風呂)で千人の垢を流す願を立てた光明皇后に、全身ただれた千人目の病人が、膿を吸ってくれと言う。迷わず自らの口で行うと、病人が“実は自分は仏(阿閦如来・あしゅくにょらい)である”と告げて去る。この伝説を基にして、法華寺温室懐古3首が詠われている」
ししむら 「肉体。“「しし」といへば、本来獣肉の意味なりしを、古き頃より「ししづき」など人体のことにも用ゐらる。”鹿鳴集自註」
ほねもあらはに 「骨が見えるほどに」
とろろぎて 「とろけて」
けらしも 「けらし=確実な根拠に基づいて、過去の動作・状態を推量する意、も=感動・詠嘆のの意。(膿をお吸いに)なられたことよ」

歌意
 骨も見えるほどの癩病(ハンセン病)患者のとろけて流れ出る膿をお口でお吸いになられたのだ。

 光明皇后の伝説からとはいえ、とても衝撃的な歌である。残酷さのなかに退廃的な美を表現したとも言えるが、法華寺温室懐古2首3首及び法華寺本尊十一面観音の歌との関連で捉えないといけないだろう。 
南京新唱目次

鹿鳴集・南京新唱(第44首) (2007・05・09)
その朝金剛峰寺の霊宝館にて大師の絵像に対して(第1首) 

 しづけさ の はな に ある ごと こんどう の 
               五こ たにぎりて おはし ます かも     
             

       (静けさの花にあるごと金銅の五鈷手握りておはしますかも)
       

金剛峰寺 「金剛峯寺(こんごうぶじ)。和歌山県高野山にある高野山真言宗総本山。空海・弘法大師が816年に開山」
大師 「空海・弘法大師」
あるごと 「あるが如くに」
こんどう 「金銅。銅や青銅に金めっきをしたり、金箔を押したりしたもの」
五こ 「五鈷。密教法具の金剛杵(こんごうしょ)の一つ。“密教の法具にして金剛杵の一種に両端に五つの股あるを五鈷といふ。普通銅製にして鍍金す。”自註」
たにぎりて 「手握りて。手に握って、大師絵像は右上図のように胸のあたりに五鈷を持っている」

歌意
 弘法大師は静かな花であるかのように金銅の五鈷を手に握っていらっしゃる。

 大師の胸にある五鈷は咲き始めた花のようであり、それは静けさの象徴でもあるかにようだと詠う。第2首とともに空海・弘法大師賛歌である。        植田重雄の“最後の奈良研究旅行4  
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山光集・白雪(第3首) (2014・6・28)
五月二十二日山本元帥の薨去をききて(第2首)   

 しづめ こし うなばら とほく たつ くも の 
                  しづけき みね を きみ と あふがむ   
             

           (鎮め来し海原遠く立つ雲の静けき峰を君と仰がむ)
       
山本元帥 「昭和18年4月18日に南太平洋上空で戦死した山本五十六(いそろく)連合艦隊司令長官。八一と同郷、新潟出身」
薨去 「こうきょ。皇族または三位以上の公卿(後に武士も)が死去した場合に使用される表現。天皇・皇后・皇太后・太皇太后の場合は“崩御”と表現」
しづめこし 「鎮め来し。騒動や混乱をおさめて安定させてきた」

歌意
 あなたがおさめて安定させてきた海の遠くに立つ雲の静かな峰をあなたと思って仰ごうと思う。

 山本五十六連合艦隊司令長官の姿を遠くの雲の姿に比して、悲しみを詠う。  
山本元帥目次

山光集・山本元帥(第2首) (2014・5・27)
十二月二十四日遠く征戍にある門下の若き人々をおもひて(第4首)   

 シベリヤ の おほかみ むれて きこえ くる  
                 のべ の かりほ に いねず か も あらむ   
             

           (シベリヤの狼群れて聞こえくる野辺の仮庵に寝ねずかもあらむ)
       
征戍 せいじゅ。辺境におもむいて守ること。また、その兵士
かりほ 仮庵。仮の小屋。ここでは野外に作った陣営をいう」

歌意
 シベリヤの狼の群れの遠吠えが聞こえてくる寒い野原の軍営で、私の弟子たちはおそらく眠ることができないことだろう。

 狼の遠吠えは出征した中尉瀧口宏(後の早大教授、考古学専攻)の私信によると自註で書いている。寒い季節、野営でしかも狼の遠吠え、東京では考えられない悪環境の中にある愛弟子たちへの思いが率直に詠われている。
 なお、八一の瀧口宏宛の手紙(昭和17年1月24日)にはこう書かれている。“東京は今年非常に寒く、昨今零下二三度のところなり。老生の如き久々に凍傷に悩みつつあり。然るに今日の貴書にては、實に三十三度と承り、御辛労を想像して無限の感に打たれ候。その地にありて御元氣にて、無人の土地にて一人にて實測などといふことも、勇ましく存じ候。最近、早稲田にて直接教へたる若き人々も、たいてい、みな徴せられて、後から出かける筈にて候。……”(會津八一の生涯、植田重雄著より)
望遠目次

山光集・遠望(第4首) (2014・4・20)
信濃の野尻なる芙蓉湖に泛びて

 しまかげ の きし の やなぎ に ふね よせて 
                ひねもす ききし うぐいす のこゑ


              (島影の岸の柳に舟寄せてひねもす聞きし鶯の声)

野尻なる芙蓉湖 「長野県上水内郡信濃町にある野尻湖のこと。芙蓉湖という異名がある。東の斑尾山と西の黒姫山に挟まれた高原にあり、古くは信濃尻湖(しなのじりこ)といい、それがなまって野尻湖と呼ばれるようになった」
しまかげ 「野尻湖にある琵琶島(弁天島)の島影と思われる。参照」
ひねもす 「一日中」

歌意
 湖の中にある島の岸辺の柳の下に舟を寄せて一日中聞いていた美しい鶯の声よ。

 野尻湖の西、黒姫山の近くの柏原は八一が傾倒した小林一茶の故郷、のんびりと湖で鶯の声を聞きながら一茶を思い、また遠い時代の出来事を思い浮かべていたであろう。
 八一は大学卒業後英語教師として赴任した有恒学舎(現県立有恒高等学校)の時代に、一茶自筆の六番日記を醸造家・入村四郎宅(長野県中頸城郡新井町)で発見している。
 
 野尻(自註鹿鳴集より)
 柏原駅より近し。柏原は俳人小林一茶(1763-1827)の郷里。江戸の生活をやめて郷里にて生を終へたり。野尻には芙蓉湖(俗ニハ野尻ノ池)あり。その中央に島あり。小祠ありて弁才天を祀(まつ)る。むかし此(この)地の城主たりし宇佐美貞行は、その主上杉謙信の姉聟(あねむこ)なる長尾政景がひそかに謙信に異図を懐(いだ)けるを憂ひ、紅葉見に事よせて之を招き、舟を湖上に泛(うか)べて酒宴の末、格闘して相抱きて共に水底に没したりといふ伝説あり。水辺に二人の墓といふものあり。  
旅愁目次

鹿鳴集・旅愁(第5首) (2013・8・27)
霜余(第3首)

 しも あらき さには の つち に をれ ふして 
               なほ みどり なる アカンサス あはれ

              (霜荒きさ庭の土に折れ伏してなほ緑なるアカンサスあはれ)  

霜余 「そうよ。霜の残っている様子」
しもあらき 「霜荒き。霜が沢山降りる状態、厳しいこと」
アカンサス 「大型の常緑多年草。初夏に長花茎を出して花をつける。花弁は筒状で、色は白、赤などがある。乾燥にも日陰にもまた、寒気にも強い。“acanthus なり。希臘建築にてコリンス式柱頭にその模様を用ゐらる。”自註」
       
歌意
 霜が厳しく荒れた庭の土に折れ伏しながら、それでもなお緑をとどめているアカンサスはあわれだ。

 アカンサスは建築文様に使われるギリシャの国花である。教材にするために植えたと言う。荒れ果てた庭になお緑を保ったアカンサスが手入れの無いまま折れ伏している。“あはれ”はまさしく哀れである。
霜余目次

寒燈集・霜余(第3首) (2014・9・5)
歌碑(第5首)   
「ちかづきてあふぎみれどもみほとけのみそなはすともあらぬさびしさ」といふは新藥師寺香藥師を詠みしわが舊作なりちか頃ある人の請(こい)にまかせて自らこれを書しこれを石に刻ましめその功もまさに畢(おわ)りたれば相知る誰彼を誘ひ行きてこれを堂前に立てむとするに遽(にわか)に病を得て發するを得ずたまたま寺僧の拓して送れる墨本を草廬の壁上にかかげしめわづかにその状を想像して幽悶を慰むるのみいよいよ感應の易(やす)からざるをさとれり

 しもくぼ の いしや が さくら はる たけて 
                  いし の くだけ と ちり まがひ けむ
             

           (下久保の石屋が桜春たけて石のくだけと散りまがひけむ)
       
しもくぼ 「奈良市下久保町。現在は高畑町と改名されている。新薬師寺から500mほど西の辺り」
はるたけて 「春長ける、闌ける。盛りの時期・状態になる。たけなわになる」
くだけ 「砕けたもの、かけら」
まがひ 「紛ひ、擬ひ。入り乱れること」

歌意
 奈良・下久保の石屋の桜が春たけなわになって、散り落ちる花びらと彫って飛び散った石のかけらと入り乱れたことであろう。

 散る桜と石のかけらの入り交じる奈良の石屋の作業場を東京で想像する。ただの想像ではなく、美しい風景として詠いあげた。以前にこの石屋に八一は訪れていると言う。 

歌碑目次

山光集・歌碑(第5首) (2014・5・4)
浄瑠璃寺にて(第1首)

じやうるり の な を なつかしみ みゆき ふる 
                   はる の やまべ を ひとり ゆく なり

             (浄瑠璃の名を懐かしみみ雪降る春の山辺を一人行くなり)

浄瑠璃寺
 
「奈良市から柳生への途中の岩船寺から山道を下ると浄瑠璃寺に出る。奈良との県境、京都府木津川市加茂町にある。開基(982年)は多田満仲、再興(1047年)は僧義明と伝えられる。浄瑠璃寺の名は、東方浄瑠璃世界の主、薬師(瑠璃光)如来に因んだものだが、本堂は阿弥陀堂(九体寺)なので、浄瑠璃の名と一致しない。八一もその辺りを寺史の変遷を暗示すると言っている」
じやうるり 「浄瑠璃(浄土)。東方薬師(瑠璃光)如来の浄土を言う。これに対し、西方を阿弥陀入来の極楽浄土と言うのは周知のことである」
なをなつかしみ 「浄瑠璃と言う名のゆかしさにひかれて」

歌意
 浄瑠璃と言う名のゆかしさに心引かれて春の雪が降る奈良からの山辺の道を一人浄瑠璃寺に向かって歩いている。

 寒い初春の山道を奈良から「浄瑠璃と言う言葉に」心踊らされながら歩む作者、素直な表現の中に寺と仏達に対するほのぼのとした心を感じることが出来る。
 たしかに浄瑠璃と言う言葉は人の心を動かす雰囲気がある。随分昔に何も知らずにこの寺を訪れた。再訪したときは九体仏(阿弥陀入来)に圧倒され、美しい吉祥天に見入っていた。
 なお、文楽の浄瑠璃の名の由来は御伽草子(室町時代)の一つ「浄瑠璃十二段草子」から。薬師(瑠璃光)如来を背景にしたこの語り物は浄瑠璃の初めだったと言われている。        
南京新唱目次

鹿鳴集・南京新唱(第36首) (2006・3・1)
二十四日奈良を出て宇治平等院黄檗山万福寺を礼す(第3首)

 しやかむに を めぐる 十はちだいらかん 
                おのも おのもに あき しずか なり

              (釈迦牟尼をめぐる十八大羅漢おのもおのもに秋静かなり)  

黄檗山万福寺
わうばく
「黄檗山万福寺は1661年に中国僧隠元によって開創された宇治市にある黄檗宗(禅宗)の総本山。“黄檗の三筆(隠元、木庵、即非)”は有名、また“普茶料理(中国風の精進料理)”でも知られる」
しやかむに 「釈迦牟尼(の仏像)。仏教の開祖、お釈迦様のこと。釈迦族の牟尼(聖者)という意味でこう呼ばれる。万福寺大雄宝殿(本堂)の本尊は釈迦三尊像」
十はちだいらかん 「十八の大羅漢は釈迦像を取り巻いている。羅漢(阿羅漢)とは“人々から尊敬・布施をうける資格のある人”で聖者、高僧を指す。釈迦の直弟子のうち高位のものはみな羅漢である」
おのもおのもに 「それぞれに」
あきしずかなり 「“寂然として眉宇の間に秋色を湛へたりといふこと。”自註鹿鳴集」

歌意
 釈迦仏を取り巻いている十八体の大羅漢は秋の静寂の中でそれぞれ静かに威厳をもって存在されている。

 「あきしずかなり」は本堂の仏の姿の静かで威厳ある姿を表わしている。そのことはまた、八一の心も秋の静けさのなかに浸ってゆったりとしていると言えよう。

                         第1首   第2首   第3首         
          
観仏三昧目次

鹿鳴集・観仏三昧(第17首) (2012・12・30)
雁来紅(第1首)
   葉鶏頭また雁来紅(がんらいこう)といひまた老少年といふ一種雁来黄(がんらいこう)といふ
   ものは稀品なりカマヅカは倭名にして夙(つと)に清原氏の枕草紙に出でたるも古今万葉には
   見るところなし以て伝来を考ふべし我が家赤貧洗ふが如く一物の出して人に示すべきなきも
   ただ秋草堂の号あるに因(ちな)みて庭上多く秋卉(しゅうき)を植うことにその爛斑蹌踉(らん
   はんそうろう)の癡態(ちたい)を愛するがために此の物を植うることすでに二十年に及びやう
   やく培養の要を得来りしが如くこれに対して幽賞また尽くるところなし時に行人の歩を停めて
   感歎の声を揚ぐるを聞くひそかに之を以て貧居の一勝となさんとす    (語句解説
  

 しよくどう の あした の まど に ひとむら の
              あけ の かまづか ぬれ たてる かも 
             

              (食堂の朝の窓に一叢の朱のかまづか濡れ立てるかも)
       
雁来紅 「雁来紅(がんらいこう)は漢名で、雁が飛来してくる秋になると、その葉が美しい紅色に染まるのでこの名がある。和名は葉鶏頭(はげいとう)、鎌柄(かまつか、かまづか)など。かまづかとは、鎌の柄になる木ということ」
ひとむら 「一叢、一群。ひとかたまり」
あけ 「朱。赤い色」
かまづか 「上記、雁来紅参照」

歌意
 朝の食堂の窓の外にはひとかたまりの赤い葉鶏頭が濡れて立っている。

 雁来紅16首の第1首。会津八一は雁来紅・葉鶏頭を好み、自ら栽培した。「雁来紅の作り方」という文を書くほどの栽培の名手だった。
 窓から見える雨に濡れた葉鶏頭を静かに詠みあげて、16首の詩的世界が始まる。
雁来紅目次

山光集・雁来紅(第1首) (2014・3・6)
霜余(第4首)

 しよくだう の まど の ひさし に かれ はてし 
               ぶだう の つる も いまだ かかげず

              (食堂の窓の庇に枯れ果てし葡萄の蔓もいまだかかげず)  

霜余 「そうよ。霜の残っている様子」
かかげず 「引きあげない。(葡萄の枯れた蔓がそのままで)剪定したり葡萄棚に引きあげてない」
       
歌意
 食堂の窓の庇に作ってある葡萄棚の枯れ果ててしまった蔓も剪定して整理し引きあげることもしていない。

 春の新芽に備えて枯れた蔓を整理し、手入れをしなければいけないが、それもしていないと詠む。“つるも”と言ってその他のものも手入れしていないことを表現する。年齢による労力の低下もあるだろうが、やはり、空襲下の心の落ち込みの影響が大きい。  
霜余目次

寒燈集・霜余(第4首) (2014・9・5)
金堂なる十一面観音を(第1首) 

 しよく とりて むかへば あやし みほとけ の 
               ただに います と おもほゆる まで
             

           (燭取りて向かへばあやしみ仏のただにいますと思ほゆるまで)
       
霜葉 「そうよう。霜で紅や黄に変色した葉」
金堂 「室生寺金堂。本尊を安置する本堂で、五体の仏像が並び立ち、その手前に十二神将立像が立つ」
しよく 「燭。ともしび、 灯火」
あやし 「怪し。不思議な力がある、神秘的な感じがする」
ただにいます 「仏像ではなく本当の仏そのものがそこにいるということ」

歌意
 暗い金堂の中で灯火をもって十一面観音像に向かうと不思議なことに仏像ではなく本当の仏様がおられるように思われてくる。

 薄暗い金堂の中で灯火に照らし出された仏像は本当の十一面観音に見えた。それがその時、八一が見た観音像である。
 室生寺での歌だが、仏像への接し方をその前に訪れた聖林寺で語っている。
                               (植田重雄の“最後の奈良見学旅行3”より
 ・・・扉を閉めたままの暗い本堂にはいると、学生の一人が懐中電灯をつけて見ようとした。すると、
 「懐中電灯など照らしたって、仏像は見えはせんぞ」
 道人が怒鳴った。
 やがて住職が手燭をともして差し出すと、それを受けて道人は、ぐりぐりと抉るように、観音の顔、胸、手などを照らし出して、
 「この観音様の光背は、昔のままではない。はじめどのような光背であったかを想い浮かべなければならない。この仏さんを祀っていたお堂は、はじめどんなお堂であったかも想像しながらよく見るのだ」
 「何度もいうごとく、仏さんを前にしてどうあるべきか、それぞれ自分自身で納得、解決することだ」
 道人がかかげる手燭に照らし出される観音は、全世界をおおうような、やさしく悲しいお顔をしていた。

霜葉目次

山光集・霜葉(第9首) (2014・6・21)
菊久栄      昭和二十七年十一月一日
           皇太子が立太子の礼を行はせらるるを祝ひての献歌    

 しらぎく は か に こそ にほへ ひのもと の 
               ひつぎ の みこ は いや さかえ ませ


           (白菊は香にこそ匂へ日の本の日嗣の皇子はいや栄えませ)  

菊久栄 「菊は皇室の紋章、皇室の繁栄を意味する」
立太子の礼 「立太子の礼を行って皇太子(平成天皇)を正式に定めた。しかし、明治以降は皇室典範制定により、同法で定められた皇位継承順位に従って皇太子が決まるため、立太子の礼は完全に儀礼的なものとなった」
かにこそにほへ 「香にこそ匂へ。良い香りをたてて匂え」
ひのもとの 「日の本の。日本の国の」
ひつぎのみこ 「日嗣の皇子。皇位を継承する皇子」

歌意
 白菊は香り高く匂って、それとともに日本の皇位を継がれる皇子がますますお栄になりますように。

 皇太子への祝いの歌を美しく詠出している。   
菊久栄目次

寒燈集以後・菊久栄 (2014・12・9)
村荘雑事(第5首)

 しらゆり の はわけ の つぼみ いちじるく
               みゆ べく なりぬ あさ に ひ に け に 

              (白百合の葉分けの蕾いちじるく見ゆべくなりぬ朝に日に異に)  

村荘雑事
「会津八一が住んだ下落合秋艸堂(1922-1935年)で自然を詠んだ17首」
はわけのつぼみ 「“茎の上端なる葉柄の繁りあひたる間より、押し分けるやうにして、伸び出づる蕾(つぼみ)をいひたり。されど古人にかかる用例ありしを記憶せず。”自註鹿鳴集」
いちじるく 「はっきりわかるほど目立って」
みゆべくなりぬ 「見えるようになった」
あさにひにけに 「朝に日に異に。朝に日に(朝も昼も)と日に異に(日増しに)が複合した形。日々に変わって。日増しに」

歌意
 白百合の葉の間の蕾が日増しに大きくなってきて、はっきりと見えるようになった。

 百合の花をよく観ている。蕾を「はわけのつぼみ」と捉え、日ごとに大きくなる様子を的確に表現した。我家ではちょうど百合の蕾が大きくなりかけてきたところである。八一と同じように開花を待ちながら眺めている。  
村荘雑事目次

山光集・村荘雑事(第5首) (2013・6・22)
歳暮新潟の朝市に鉢植の梅をもとめて(第3首)
     
 しろかべ に かげ せぐくまる ひとはち の 
               うめ の おいき に とし ゆかむ と す

             (白壁に影せぐくまる一鉢の梅の老い木に年ゆかむとす)  

せぐくまる 「跼まる。背をまるめてこごむ」
おいき 「老い木。年を経た木、老木(ろうぼく)」
       
歌意
 白壁に映る影がまるで背をかがめているような一鉢の梅の老木とともに今年も行こうとしている。

 梅の老木の影を見るとかがめているように見える。そこには年老いた八一の心情が投影されている。
盆梅目次

寒燈集以後・盆梅(第3首) (2014・11・26)
三日榛名湖畔にいたり旅館ふじやといふに投ず(第5首)

 しろがれ に かれ たつ かや の なか にして
              つつじ は もゆる みづうみ の はて に 
             

              (白枯れに枯れ立つ萱の中にしてつつじは燃ゆる湖の果てに)
       
榛名湖 「群馬県高崎市榛名山山頂に位置する湖。古名、伊香保沼」
しろがれ 「白く枯れた」
かや 「萱。チガヤ・スゲ・ススキなど、イネ科・カヤツリグサ科の植物の総称。葉が細長い」

歌意
 白く枯れた萱の原の中にひときわ赤くツツジが燃えるように咲いている。湖の果てに。

 青い湖、白い萱の原、そして燃え立つ赤いつつじ、前作と同じように色彩豊かな光景が詠われる。
榛名目次

山光集・榛名(第15首) (2014・2・27)
その朝金剛峰寺の霊宝館にて大師の絵像に対して(第2首) 

 すがしく も はなやぎて こそ おはしけれ 
               につたうしやもん へんぜうこんがう     
             

             (すがしくも華やぎてこそおはしけれ入唐沙門遍照金剛)
       
金剛峰寺 「金剛峯寺(こんごうぶじ)。和歌山県高野山にある高野山真言宗総本山。空海・弘法大師が816年に開山」
大師 「空海・弘法大師」
すがしく 「さわやかで気持ちがよい。すがすがしい」
はなやぎて 「華やぎて、花やぎて。 明るくはなやかである」
につたうしやもん 「入唐沙門。唐に留学した僧(沙門は僧のこと)」
へんぜうこんがう 「遍照金剛。空海のこと。一般的には大日如来の名(光明があまねく照らし、金剛のように不滅である)。“空海の自著に遍照金剛と書けるものあり。”自註」

歌意
 弘法大師はさわやかで明るく華やかな様子でいらっしゃることだ。唐に留学され、遍照金剛と名乗られた人であることよ。

 秀才肌でまじめな最澄に対して天才肌で多芸多能な空海を“すがしくもはなやぎて”と表現する。書にも秀でていた空海を書家でもあった八一は評価していた。
                            植田重雄の“最後の奈良研究旅行4
  

白雪目次

山光集・白雪(第4首) (2014・6・28)
街上(第4首)

 すずかけ の かげらふ みち に いくばく の 
               くろつち ありて なすび はな さく

              (鈴懸の陰らふ道にいくばくの黒土ありて茄子花咲く)  

街上 「がいじょう。街路の上、路上」
すずかけ 「鈴懸。鈴懸の木、街路樹に多く用いられ、樹皮は大きくはげて白と淡緑色のまだらになる。葉は切れ込みがあって大きい。プラタナス」
かげらふ 「陰らふ。陰になっている」
いくばく 「わずかな、すこしの」

歌意
 鈴懸けの木の陰になっている道に少しばかりの黒土があって、そこに茄子の花が咲いている。

 東京空襲(11月)で焦土になる前の町の風景である。食糧難のなかでのわずかな庶民の営みをとらえて詠う。    
街上目次

寒燈集・街上(第4首) (2014・8・22)
後数月にして熱海の双柿舎を訪はむとするに
       汽車なほ通ぜず舟中より伊豆山を望みて
 
 

 すべ も なく くえし きりぎし いたづらに 
                 かすみ たなびく なみ の ほ の へ に
 


          (すべもなく崩えし切り岸いたづらに霞たなびく波の秀のへに)

双柿舎 「“坪内逍遥先生(1859-1935)の宅。熱海市の水口町にあり。庭前に二株の垣の古木あるを以て、これより先に作者が命名せしものなり。”自註鹿鳴集」
すべもなく 「方法がなく」
くえし 「崩れた」
きりぎし 「切り立った崖」
いたづらに 「無駄に、むなしく」
なみのほ 「波の秀、波の穂。波頭(なみがしら)」
へに 「へ=あたり」

熱海

逍遙書屋
歌意
 (震災で)手の施しようもなく崩れている(熱海伊豆山の)断崖にいたずらに春霞がたなびいている。ちょうど打ち寄せる波頭のあたりに。

 関東大震災の翌年、師であり朋友でもあった坪内逍遥の熱海の双柿舎(邸宅)を訪れるが、汽車が復興していなかったので小田原から舟で熱海へ。その時に詠んだ歌。今では想像できないほど荒れ果てた熱海に、いたずらにたなびく春霞ののどかさを対置した秀歌。
 八一は望んで双柿舎の扁額のために書を書いた。何枚も何枚も書いた中から師に提示したという。
                                                                    
    
              会津八一(秋艸道人)の筆になる木彫の扁額「雙柿舎」

 3月の末、所用で小田原から熱海に入った。一時の隆盛さはないとは言え、巨大な熱海温泉街の奥にひっそりと静かな坪内逍遥の旧邸があった。美しい扁額に見入り、震災後の熱海の情景を想像してみた。
     
震余目次

鹿鳴集・震余(第4首) (2004・04・08)
望郷(第6首)

 すべ も なく みゆき ふり つむ よ の ま にも
               ふるさとびと の おゆ らく をし も

              (すべもなくみ雪降り積む夜の間にも故郷人の老ゆらく惜しも)  

望郷
「故郷新潟を詠った。望郷目次参照」
すべもなく 「方法がなく。“如何(いかん)ともしがたきばかりにといふこと。但(ただ)しこの歌は東京に在(あ)りし日に詠めるなり。”自註鹿鳴集」
みゆき 「“ただ「ゆき」といふこと。「み」は接頭語。「深雪」とあて字して、深き雪と解し居る人多きも、それは当らず。”自註鹿鳴集」
よのま 「夜の間」
おゆらくをしも 「“老い行くは惜しむべしといふこと。「らく」は「る」の延音。「も」詠嘆の助詞。”自註鹿鳴集」

歌意
 どうしようも無いくらいに雪が降り続き積もっていく夜の間に、なすことも無く老いてゆく雪深き故郷の人々の人生は惜しむべきことだ。

 故郷新潟の冬はどんよりとした空と深い雪、日常はとても暗いものだった。東京に在って、故郷新潟で一生を暮す人々を想って詠んだが、それはその頃の八一の姿と思いであったかもしれない。
 南京新唱第90首で「やまとぢ の るり の みそら」(解説)と奈良の空の素晴らしさを詠んだ八一の気持が理解できる。   
望郷目次

鹿鳴集・望郷(第6首) (2013・7・28)
松濤(第4首)
     
 すべ も なく やぶれし くに の なかぞら を 
               わたらふ かぜ の おと ぞ かなしき

             (術も無く破れし国の中空を渡らふ風の音ぞ悲しき)  

松濤 「しょうとう。松の梢を渡る風の音を波の音にたとえていう語。松籟(しょうらい)」
すべもなく 「術も無く。どのようにしたらよいか、手段や方法がない」
やぶれし 「破れし。(戦争に)負けた」
       
歌意
 なすすべも無く戦争に負けてしまったこの国の中空を吹き渡る風の音のなんと悲しい事か。

 敗戦の年の12月、全ての物を無くして故郷に疎開した高齢の八一には寒空を渡る風の音が厳しく聞こえた。多くの日本人の心も同じだったであろう。       
松濤目次

寒燈集・松濤(第4首) (2014・11・10)
雁来紅(第14首)

 すみ もちて かける かまづか うつせみ の 
              わが ひたひがみ にる と いはず や も  
             

              (墨もちて描けるかまづかうつせみの我額髪似ると言はずやも)

雁来紅
「雁来紅(がんらいこう)は漢名で、雁が飛来してくる秋になると、その葉が美しい紅色に染まるのでこの名がある。和名は葉鶏頭(はげいとう)、鎌柄(かまつか、かまづか)など。かまづかとは、鎌の柄になる木ということ」
かまづか 「上記、雁来紅参照」
うつせみ 「空蝉。この世に現に生きている人、転じて、この世」
ひたひがみ 「額髪。額の上の髪、前髪」
       
歌意
 墨をもって描いた葉鶏頭を現在の私の前髪に似ていると人は言わないだろうか、いや言うだろう。

 歌にも絵にも自負があった八一は「わが ひたひかみ にる と いはず や も」について第15首の自註で倪雲林(げいうんりん)の言葉を引用して人がどのように見ようがかまわないとし、「主観の芸術は往々にして形似に拘泥せざることあり」と書いている
。   

注1 わがひたひかみにるといはずやも・(次歌の註参照) 自註
雁来紅目次

山光集・雁来紅(第14首) (2014・3・22)
やがて紀元節も近づきければ古事記の
中巻なる神武天皇の条を読みて(第4首)   

 すめがみ の すゑ なる われ や あまつひ を 
               おひて すすむ と こと の よろしさ


               (皇神の裔なる我や天つ日を負ひて進むと言のよろしさ )

紀元節 「2月11日、神話上の神武天皇の即位日として定めた祭日。1873年~1948年。現在は健康記念日となっている。(1966年~)」
古事記 「日本最古の歴史書で、天皇による支配を正当化しようとしたもの。上巻は神代、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの記事を収める」
神武天皇 「日本神話に登場する人物で、日本の初代天皇(古事記、日本書紀による)」
すめがみ 「皇神。皇室の祖先である神、ここでは天照大神のこと」
すゑ 「裔。血筋の末、子孫」
あまつひ 「天の日。太陽」
こと 「言。ものを言うこと、言った言葉」

歌意
 天照大神の子孫である私だから太陽を背に進むと神武天皇が言った言葉はなんと素晴らしいことか。

 古事記の逸話を詠んだもの。戦の時、太陽(日の神)に向かって進まず、背にして進んだということによる。第18首から第32首までは戦後一度削除し、後に復活したものである。  
病間目次

山光集・病間(第21首) (2014・7・26)
天皇を迎へて(一)(第5首)

 すめみま と あれ こし きみ を みやこべ に 
               うちことほぎし わかき ひ を おもふ


               (すめみまと生れ来し君を都辺にうち言祝ぎし若き日を思ふ)

すめみま 皇御孫、皇孫。天照大神の子孫、皇統の子孫、天皇
あれこし 「生れ来し。生れてきた」
うちことほぎし うち言祝ぎし、うち寿ぎし。“うち”は接頭語。言葉で祝福する、祝いの言葉を述べて幸運を祈る

歌意
 天皇家の子孫としてお生まれになったあなたを東京でお祝いした若い日のことを思いだします。

 
昭和天皇の生誕を祝う歌。天皇は1901年(明治34年)生れ、大正天皇が病弱なため20歳で摂政、その後天皇として戦争、敗戦、戦後の復興の時期に在位する。いろいろと問題はあるが、明治の人、八一の天皇敬慕の念は変わらない。     
天皇を迎へて(一)目次

寒燈集以後・天皇を迎へて(一)(第5首) (2014・12・5)
奈良の新薬師寺を思ひいでて(第1首) 

 すめろぎ の おほき めやみ を かしこみ と 
                とほき きさき の たてましし てら


              (すめろぎの大き眼やみをかしこみと遠き后の建てましし寺)

溷濁 こんだく。混じり濁ること
すめろぎ  天皇。ここでは聖武天皇
おほきめやみ 「めやみとは目の病気、天皇の眼病なので接頭語の大きをつけた。参照」
かしこみ 「恐れ慎み」
とほききさき 「遠い昔の時代の后、ここでは光明皇后」
たてましし 「お建てになった」

歌意
 聖武天皇の御眼病平癒のために大昔の光明皇后がお建てになった寺なのだ、この新薬師寺は。

 昭和17年、61歳の八一の眼は濁り(溷濁・混濁)を生じる。その年の3月、溷濁で8首を読む。この歌はその中の「奈良の新薬師寺を思ひいでて」2首の内の第1首。眼病治癒目的で新薬師寺は建立されており、また本尊は眼病に良く効くと言われている。寺とみ仏への思いが自らの病気を通して伝わってくる。ただ、本尊・香薬師は1年後に盗難にあって行方不明になる。右の写真は鹿鳴人提供。

 すめろぎのおおきめやみ 自註より
    新薬師寺の創建者は、或は聖武天皇といひ、或は光明皇后といひ、すでに藤原時代に
    ありてこのこと不明に帰し居たり。後説によれば天皇御眼疾平癒のために皇后の立願せ
    らせたまふところをいふ。但し古き文献の証するものなし。
(参照 第2首   
溷濁目次

山光集・溷濁(第7首) (2010・3・15)
十九日高野山を下る熱ややたかければ学生のみ河内観心寺に遣り
われひとり奈良のやどりに戻りて閑臥す(第5首) 

 すめろぎ の くに たたかふ と かすが なる 
               やまべ の さる の しらず か も あらむ
             

             (天皇の国戦ふと春日なる山辺の猿の知らずかもあらむ)
       
河内観心寺 「大阪府河内長野市にある高野山真言宗の寺院。開基は実恵、本尊は如意輪観音。この素晴らしい国宝・如意輪観音像は毎年4月17・18日に開扉される」
やどり 「宿り。旅先で宿をとること、また、その場所」
閑臥 「かんが。静かに(病気で)横になる」
すめろぎ 「天皇」

歌意
 天皇の国である日本が今戦争をしていることを春日の山の猿たちは知らないだろうなあ。

 戦争は敗色濃く、学徒出陣へと進んでいくが、猿たちはそんなことには関係なく遊び暮らしている。そんな姿を羨ましく感じたかもしれないが、この時代はやはり戦争に言及しなければならなかった。       
                      植田重雄の“最後の奈良研究旅行4
  


 かすがなるやまべのさる  (自註)
 野猿は群をなして春日山奈良公園一帯の地に出没し、奈良人はむしろこれに目慣れたり。予が宿れる登大路あたりの人家にては、後苑の過日蔬菜(そさい)の類を盗み去らるること珍らしからずといふ。
白雪目次

山光集・白雪(第9首) (2014・6・30)
吉野塔尾御陵にて  

 すめろぎ の こころ かなし も ここ にして 
              みはるかす べき のべ も あら なく に
 

              (すめろぎの心かなしもここにして見晴るかすべき野辺もあらなくに)
         
塔尾御陵  「とうのおのみささぎ。吉野にある後醍醐天皇の御陵墓」
すめろぎ 「天皇、ここでは吉野で崩御した後醍醐天皇のこと」
こころかなしも 「なんとお心の痛ましいことよ。後醍醐天皇の活躍と悲哀を背景に。参照」
みはるかす 「見晴らす、はるかに見渡す」       
あらなくに 「ないことよ」

歌意
 天皇のみ心はなんと痛ましいことよ。この吉野の御陵からは、天皇として威厳を持ってはるかに見渡す野辺もないのだ。

 建武の新政で活躍し、その後敗れて吉野で崩御した後醍醐天皇の痛ましい心を己のものとして八一は詠んだ。当時(明治、大正時代)は南朝を正統とし、後醍醐天皇を支えた楠正成などは英雄視された。戦後生まれの筆者も子供の頃は、南北朝時代の南朝寄りのいろいろの逸話に心をときめかしたものだ。
  
               
 後醍醐天皇
 第96代天皇(1288-1339) 。天皇親政を目指したが正中の変・元弘の変に敗れ、隠岐に流された。1333年脱出し、新田義貞・足利尊氏らの支援で鎌倉幕府を滅ぼして建武新政権を樹立。のち公武の不和から親政は失敗、尊氏らも離反、36年吉野に移り南朝を立てたが、ここで崩御する。
 戦前戦中は、南朝を正当の系譜とする皇国史観により、後醍醐天皇の活躍と悲哀は大きなウエートを占めた。
南京余唱目次

鹿鳴集・南京余唱(第2首) (2011・12・08)
あるあしたクエゼリンの戦報に音羽侯の将士とともにみうせたまひける
よし聞きて(第2首)   

 すめろぎ の みこと かしこみ ありそべ の 
              たま と くだけて ちりましぬ とふ

           (天皇の命かしこみ荒磯辺の玉と砕けて散りましぬとふ)

クエゼリン 「クェゼリン環礁のこと。マーシャル諸島、ラリック列島にある環礁。委任統治していた日本軍は昭和19年2月、アメリカ軍によって全滅」
音羽侯 「音羽正彦侯爵。昭和11年に皇籍を離脱して侯爵となり、第6根拠地隊参謀として昭和19年クェゼリン島で玉砕。参照」
すめろぎ 「天皇。ここでは昭和天皇のこと」
みこと 「命、御言。命令」
かしこみ 「畏み。対象を畏れ多く思い、慎みと敬いをもって行う様子を示す表現」
ありそべ 「荒磯辺。荒い磯辺」
たまとくだけて 「玉と砕けて。玉砕(玉と砕けるは玉砕の訓読み)、正義や名誉のためいさぎよく死ぬこと、戦時は日本軍の全滅を意味した」

歌意
 天皇の命令を恐れ多いことと我が身に受け止め、南のクェゼリン環礁の荒い磯辺で玉砕、戦死されたという。

 元皇室、音羽侯爵のクェゼリン環礁での戦死を詠む4首の第2首。  

 日本ニュース(1944・4・20)
去る2月、クェゼリン環礁守備部隊6500名の勇士とともに、尊き御身をもって南海の果てに散華させたもうた侯爵、音羽正彦少佐のご英霊は、4月12日、御父君朝香宮鳩彦王殿下、御兄君孚彦王殿下をはじめ奉り、軍代表参列して御迎え申し上げるうちを、○○空港に無言の凱旋(がいせん)を遊ばされました。ご英霊は同期生ショウジ隊員に奉持(ほうじ)され、国民挙げて哀悼のうちに一路横須賀へと向かわせられました。
病間目次

山光集・病間(第34首) (2014・8・1)
三月十五日大鹿卓とともに平城の宮址に遊び大極の芝にて(第3首)   

 すめろぎ は ここ に いまして ひむがし の   
                  おほき みてら を みそなはし けむ 
             

           (すめろぎはここにいまして東の大きみ寺を見そなはしけむ)
       
大鹿卓 「会津八一門下。1898~1959年、小説家、詩人。金子光晴の実弟」
すめろぎ 「天皇。ここでは聖武天皇」
ひむがしのおおきみてら 「“東大寺をいふ。これこの天皇の御縁故最も深き寺なりければ。”自註」
みそなはし 「“見そなはす”は“見る”の尊敬語、ごらんになる」

歌意
 聖武天皇はここ平城宮におられて、東大寺をごらんになったことであろう。

 天皇敬慕の強かった八一は聖武天皇の姿を想像して詠む。平城宮址の歌に戦時の影響があるとはいえ、八一が天皇制下の軍国一辺倒では無かったことを付記しておく。  
平城宮址目次

山光集・平城宮址(第3首) (2014・5・18)
天皇を迎へて(二)(第2首)

 すめろぎ を むかへ まつりて はるる ひ の 
               ゆふ かたまけて ややに さむし も


               (すめろぎを迎へまつりて晴るる日の夕片設けてややに寒しも)

すめろぎ 天皇、ここでは昭和天皇のこと
ゆふかたまけて 「夕片設けて。夕方になって」
ややに 少しばかり、しだいに

歌意
 天皇をお迎えして、秋の晴れた日が夕方になって少し寒くなってきた。

 天皇が新潟に来たのは10月7日、秋晴れの快い日だったが、夕方には少し寒くなった。当時の状況をそのままに詠う。
  
天皇を迎へて(二)目次

寒燈集以後・天皇を迎へて(二)(第2首) (2014・12・6)
薬師寺東塔(第2首)

 すゐえん の あま つ をとめ が ころもで の 
                   ひま にも すめる あき の そら かな
 
             (水煙の天つ乙女が衣手のひまにも澄める秋の空かな)

水煙
 
「五重塔など仏塔の最上部にある相輪と呼ばれるものの一部で、その上部に ある火炎状の銅版。火の字を嫌って水煙とよぶ。東塔の水煙は透かし彫りの火炎の中に飛翔する天女が彫りこまれている。薬師寺には原寸大のレプリカが飾ってある」
あまつをとめ 「楽をかなで、空中を飛行する天女。作者はこう解説している。“「飛天」とは飛行する天人といふこと。或は天華、或は天香、或は天楽を以て空中より諸仏を供養す。一般には女性の如く考えらるるも、その中に両性あり。さればこの場合には、作者は特に「をとめ」と呼べるのみ。”自註鹿鳴集」
ひま 「暇。すきま、ここでは天女の衣の袖の間ということ」

歌意
 東塔の水煙に彫られた天女たち、音楽を奏でて飛翔する彼女たちの衣の袖の間にさえ、美しく澄んだ青い秋の空が見えるではないか。

 薬師寺の歌(4首)の第3首。八一の作品の中で最も有名でかつ美しいと言われるこの歌は、快い調べで水煙のわずかな透かし彫りのすきまに見える秋空を歌い上げる。美しい水煙の天女と古都奈良の秋空の美を自らの美意識のなかで一体として表現する。調べを大事にしながら、声を出して読み込むといい。絶妙な美の境地が感じ取れるはずだ。実際は塔は高く水煙の暇などは見えないのだから、これは作者の美的想像力で創り出したものなのだ。
 佐々木信綱の下記の東塔の歌とは全く趣が違うのである。
        行く秋の 大和の国の 薬師寺の 塔の上なる ひとひらの雲        

     

 1999年(平成11年)9月、歌碑が境内に作られた。植田先生からも伺っていたので明けて1月友人達と訪れた。親切な寺僧の細やかな説明を昨日のように思う。薬師寺は寺としていろいろな工夫を凝らしていると聞いている。         




追記 東塔水煙降臨展
 2013年11月29日、東塔水煙降臨展(9・16~11・30)に出かけた。4面ある水煙(高さ1.6m)の表裏に笛を奏で、花を蒔き、衣を翻し、祈りを捧げる姿の3体の飛天が透かし彫りしてある。全てを数えると24体ある。
 東塔(薬師寺)創建当時のままの1300年の時を経た水煙は歴史の重みを感じさせる。この奈良時代の質の高い工芸に注目をさせたのはなんと言っても八一の上記の歌である。飛天に命を吹き込んだと言っても過言ではないだろう。








南京新唱目次

鹿鳴集・南京新唱(第57首) (2003・10・06)
雁来紅(第5首)

 すゐせん を ほりたる あと に かまづか を
              わが まきし ひ は とほ から なく に 
             

              (水仙を堀りたる後にかまづかをわが蒔きし日は遠からなくに)
       
雁来紅 「雁来紅(がんらいこう)は漢名で、雁が飛来してくる秋になると、その葉が美しい紅色に染まるのでこの名がある。和名は葉鶏頭(はげいとう)、鎌柄(かまつか、かまづか)など。かまづかとは、鎌の柄になる木ということ」
かまづか 「上記、雁来紅参照」
とほからなくに 「遠い日ではなかったのに」

歌意
 水仙の球根を掘った後に、私が葉鶏頭の種を蒔いたのは遠い日ではないのに、もうこんなに大きく成長している。

 前句・4首と同じように、思った以上に早く感じる葉鶏頭の成長を詠う。  
雁来紅目次

山光集・雁来紅(第5首) (2014・3・10)
閑庭(第23首)

 すゐれん の うきは まだしき いくはち の 
               みづ に かがよふ はる の しらくも

           (睡蓮の浮葉まだしき幾鉢の水に耀ふ春の白雲)  

閑庭 「かんてい。もの静かな庭。ここでは下落合秋艸堂のことを言う。“この林荘のことは、かつて『鹿鳴集』の例言の中に述ぶるところありたり。併せ見るべし。後にこの邸を出でて、同じ下落合にてほど近き目白文化村といふに移り住みしなり。”自註」
まだしき 「未だしき。まだその時期になっていない、時期尚早だ」
かがよふ 「耀ふ。 きらきらと光りかがやく、きらめきゆれる」

歌意
 睡蓮の浮き葉がまだ小さいいくつかの鉢の水に、春の白雲がきらきらと光りかがやいて映っている。

 葉が育ち始めた睡蓮鉢、その水の上に輝く白雲に注視して春の到来を詠う。  

 参照 
  鹿鳴集・南京新唱の村荘雑事(第13首)
    みづ かれし はちす の はち に つゆぐさ の はな さき いでぬ あき は きぬ らし 
閑庭目次

寒燈集・閑庭(第23首) (2014・9・22)
同じ日唐招提寺にいたり長老に謁して斎をうく(第2首) 

 せうだい の けふ の とき こそ うれしけれ 
               そう の つくれる いも の あつもの
             

           (招提の今日の斎こそ嬉しけれ僧の作れる芋のあつもの)
       
唐招提寺 「奈良市五条町にある鑑真が建立した南都六宗の1つである律宗の総本山」
「とき。寺院で出される食事」
せうだい 「唐招提寺」
とき 「斎。寺院で出される食事」
あつもの 「羹。魚、鳥の肉や野菜を入れた熱い吸い物。“普通「あつもの」のあて字として用ゐらるる「羹」といふ漢字には羊といふ文を含めるが故か、国語字典の類にも、野菜を加へたる肉汁の意なりとせらるるも、この時予が饗応を受けしはただの芋汁なり。”自註」

歌意
 唐招提寺で頂いた今日の食事ほど嬉しいものはなかった。寺僧が寺庭の芋を使って手づから作ったあつものだったので。

 僧たちが作った芋を使った寺の料理、食糧難のこの時の唐招提寺のもてなしが心に響いた。
                       植田重雄の“最後の奈良研究旅行”   
西の京目次

山光集・西の京(第5首) (2014・6・12)
唐招提寺にて(第1首)

 せきばく と ひ は せうだい の こんだう の
                   のき の くま より くれ わたり ゆく         

              (寂寞と日は招提の金堂の軒の隈より暮れわたりゆく)

せきばく  「寂寞。さびしくひっそりとした様子」
せうだい 「唐招提寺」
のきのくま 「軒の隈。くまは隅々で、入り込んだ所」

歌意
 さびしくひっそりと今日の日は唐招提寺の軒の入り組んだ隅の方から暮れわたっていく。

 秋の日暮、その暮れゆく姿を金堂の暗い軒の隈から感じ取る。暮色は隈から軒の外面を包んでいく。それを感じ歌に詠む八一は素晴らしい。良い歌だ。

                   春日野(八一と健吉の合同書画集より)
             
南京続唱目次

鹿鳴集・南京続唱(第1首) (2012・11・26)
唐招提寺にて(第2首)

 せんだん の ほとけ ほの てる ともしび の 
                   ゆらら ゆららに まつ の かぜ ふく

              (栴檀の仏ほのてる灯火のゆららゆららに松の風吹く)

せんだんのほとけ 「高価な香木・栴檀で作られた仏像、ここでは清涼寺式の釈迦立像のこと。この仏像は赤栴檀(しゃくせんだん)で作られている」
ほのてる 「かすかに照らす」
ゆららゆららに 「ゆらゆらと」

歌意
 栴檀で作られた仏像をかすかに照らす蝋燭の炎をゆらゆらと動かして、唐招提寺の松に吹きつける風が堂内を通っていく。

 堂内の蝋燭のかすかな炎がわずかに仏像を照らしている。そのかすかな灯火を動かす風を、外の松風の風音から浮かび上がらせる。風の流れを目と耳で的確に表現する秀歌。静かな古寺のたたずまいが浮かび上がってくる。

 この仏像は嵯峨清涼寺と同式の釈迦立像と八一は書いている。 清涼寺式とは、10世紀末、宋から持ち帰った仏像をまねたものと言われており、平安時代末期から鎌倉時代にかけて流行したもので、全国で 百体ぐらいある。
 栴檀には赤栴檀(しゃくせんだん)白檀(びゃくだん)紫檀(したん)があり、仏像や仏具によく使われている。余談だが、上方落語に赤栴檀の噺がある。 (参照)
           

 
落語「百年目」で旦那が番頭に「旦那」の意味を話して諭す。昔、天竺に赤栴檀という樹があり、大層立派に茂っており、樹の下に難莚草(なんえんそう)という汚い草が生えていた。この難莚草を刈り取ってしまうと赤栴檀が枯れてしまった。赤栴檀はこの茂っては枯れ、茂っては枯れる難莚草から良い肥料を貰い、難莚草は赤栴檀が降ろしてくれる露で生きている。お互いに助け合って、所謂、施し合って樹と草が永く繁茂しているのだと説明する。この赤栴檀の檀と難莚草のなんをとり、「檀那」と言ったのだが、後「旦那」の字に改められた。もちろん、難莚草は番頭を指している。
南京新唱目次

鹿鳴集・南京新唱(第53首) (2006・8・10)
法隆寺福生院に雨やどりして大川逞一にあふ

 そうばう の くらき に のみ を うちならし 
                   じおんだいし を きざむ ひと かな   


          (僧坊の暗きに鑿をうち鳴らし慈恩大師を刻む人かな)

福生院

大川逞一

そうばう
じおんだいし
「法隆寺東院(夢殿等)の四脚門近くにある一院、“その頃は無住の如くに見えたり。”と八一は自註鹿鳴集で書いている」 
「仏像彫刻家、昭和9年、母校東京美術学校(現東京芸大)の嘱託として法隆寺に住み込み、国宝仏像を模刻、復元に取り組む」 

「僧坊。福生院のこと」 
「中国、唐代の僧・窺基(きき)。法相宗の開祖。玄奘に師事。諡号(しごう)が慈恩大師」 

歌意
 僧坊の暗い所で鑿を打ち鳴らして慈恩大師の像を彫る人よ。
 
 無住の法隆寺・福生院で黙々と彫刻に励む彫刻家・大川逞一の姿に感じて詠んだ。一心に仕事に打ち込む芸術家達の姿に誰もが素晴らしさを感じる。とりわけ、仏像彫刻を学ぶ筆者には、八一のその時の感動がそのまま伝わってくる。      
         
比叡山目次

鹿鳴集・比叡山(第12首) (2011・11・30)
大仏讃歌(第10首)   
天平十三年四月聖武天皇諸国に詔して国分寺を建てしめ十五年十月東大寺廬舎那の大像を創めしめたまふその義華厳梵網の所説に拠りたまへるものの如し予しばしば此寺に詣で金容遍満の偉観を瞻仰してうたた昔人の雄図に感動せずんばあらずかつて和歌一首を成せり曰く「おほらかにもろてのゆびをひらかせておほきほとけはあまたらしたり」と今日また来りてその宝前に稽首し退いてさらに十首を詠じ以て前作の意を広めむとす邦家いまや四海に事多し希くは人天斉しく照鑑してこの聖皇の鴻願をして空しからざらしめむことを
  昭和十八年三月十一日   

 そそり たつ いらか の しび の あまつひ に 
                  かがやく なべに くに は さかえむ  
             

           (そそり立つ甍の鴟尾の天つ日に輝くなべに国は栄えむ)
       
大仏讃歌目次 参照」
そそりたつ 「高くそびえる」
いらか 「甍。瓦葺きの屋根」
しび 「鴟尾、鵄尾、蚩尾。古代の大建築で、大棟の両端につけた飾り。参照」
あまつひ 「天の日。日の光」
なべに 「なへに。・・・するとともに、・・・するにつれて、」

歌意
 そびえたつ大仏殿の瓦葺の屋根の鴟尾が日の光に輝くとともに我が国は栄えるだろう。

 10首は大仏の存在感を力強く詠った連作であり、八一の奈良に寄せる思いが強く伝わって来る。しかし、戦局が悪化した昭和18年、大仏讃歌10首は同時に戦勝祈願を意味していたと考えられる。

 いらかのしび  (自註)
「しび」は鴟尾又は鵄尾とも書き、屋脊なる大棟の両端にある壮飾なり。俗に沓形(くつがた)ともいふ。現在の大仏殿は、元禄の造営にはこの物なかりしを、明治の重修に当り、寺家は賢明にも、遠く天平の古風に遡りて補加せられたるなり。朝夕燦然として天日に反映し、まことに偉観なり。因にいふ。この度東大寺の懇望により、生駒山頂に一巨石を獲て、著者自筆のままこの歌を刻せしめ、大仏殿の東なる丘麓に建つることとなれり。
大仏讃歌目次

山光集・大仏讃歌(第10首) (2014・5・13)
十七日龍安寺にいたる(第3首)   

 そとには の かき の こずゑ を うつ さを の      
                 ひびき も ちかし しろすな の うへ に
             

           (外庭の柿の梢を打つ竿の響きも近し白砂の上に)
       
龍安寺 「りょうあんじ。京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の寺院。石庭で知られる。奥行10mほどの敷地に白砂を敷き詰め15個の石を一見無造作に点在させただけのシンプルな枯山水の石庭である。本尊は釈迦如来、世界遺産に登録されている」
こずゑ 「梢。木の先端」

歌意
 堀の外の庭の柿を落とそうとして梢を叩いている竿の音がこの石庭の白砂の上に間近に響いてくる。

 第1首で石庭を前に古を思い、第2首で白砂を水に見立てた。第3首では一転して柿の実を打ち落とす音に現実に戻る。龍安寺の石庭は八一の心をいろいろに動かした。     
京都散策目次

山光集・京都散策(第7首) (2014・4・5)
十七日龍安寺にいたる(第2首)   

 そとには の まつ に かげりて いはむら を 
                 ひたせる すな の たゆたふ に につ     
             

           (外庭の松に陰りて岩群をひたせる砂のたゆたふに似つ)
       
龍安寺 「りょうあんじ。京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の寺院。石庭で知られる。奥行10mほどの敷地に白砂を敷き詰め15個の石を一見無造作に点在させただけのシンプルな枯山水の石庭である。本尊は釈迦如来、世界遺産に登録されている」
そとには 「外庭。石庭の堀の外の庭」
いはむら 「岩群。岩や石がごろごろしている所」
ひたせる 「浸せる。砂を水に見立てて、岩を浸しているとする」
たゆたふ 「ゆらゆらと揺れ動いて定まらない様子」

歌意
 堀の外の庭の松の影になって、石庭の岩群を浸すように見える白砂は揺れ動いている水の様子に似ている。

 かすかに動く松の影を捉えて、庭の白砂が石を浸している水のように動いていると詠う。その観察眼、表現力は八一ならではである。         
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山光集・京都散策(第6首) (2014・4・5)
柴売(第6首)

 そまびと の くるま いにたる くさむら に
                しば ひろひ きて かしぐ けふ かも     

              (杣人の車去にたる草むらに柴拾ひきて炊ぐ今日かも)  

柴売 「八一は昭和20年7月10日に養女きい子を亡くし、10月まで観音堂に独居する。それは心の安寧のために必要な時間だったであろう。観音堂をめぐる柴売の情景が詩的な抒情詩として6首詠われる。同じ時の歌、山鳩21首観音堂10首と共に味わいたい」
そまびと 「杣人。杣木を切り倒したり運び出すことを職業とする人。杣山(木材を切り出す山、また木材にするための木を植えた山)から杣木を取る仕事をする」
いにたる 「去(往)にたる。立ち去る、行ってしまう」
しば 「柴。山野に生えているあまり大きくない雑木やその枝、燃料に使用する」
かしぐ 「炊ぐ。米や麦などを煮たり蒸したりして飯を作る、飯をたく」

歌意
 杣人の車が去っていった後の草むらの柴を拾ってきて、今日は一人でご飯を炊いた。

 落ちている柴を拾う、一人で炊飯する。この言葉の中に、きい子亡き後の1人身の生活の寂しさが浮かび上がってくる。一人居を詠んだ柴売6首はこれで完結する。山鳩、観音堂を含む37首はきい子への鎮魂歌であり、また八一自身の次への準備でもあると言える。
 ただ、詠われた歌が必ずしも現実であったというわけではない。八一の頼った丹後家の側面援助はあった。丹後家の小作人三浦夫婦が生活の手助けをしているのも事実である。この歌や観音堂第3首は事実であるだろうがこの当時の象徴として詩的に詠われている。      
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寒燈集・柴売(第6首) (2013・3・2)
柴売(第3首)

 そまびと の つみたる しば に わが かど の
                さくら の したば いろづき に けり    

              (杣人の積みたる柴にわが門の桜の下葉色づきにけり)  

柴売 「八一は昭和20年7月10日に養女きい子を亡くし、10月まで観音堂に独居する。それは心の安寧のために必要な時間だったであろう。観音堂をめぐる柴売の情景が詩的な抒情詩として6首詠われる。同じ時の歌、山鳩21首観音堂10首と共に味わいたい」
そまびと 「杣人。杣木を切り倒したり運び出すことを職業とする人。杣山(木材を切り出す山、また木材にするための木を植えた山)から杣木を取る仕事をする」
しば 「柴。山野に生えているあまり大きくない雑木やその枝、燃料に使用する」
したば 「下葉。桜の木の下の方の葉」

歌意
 杣人が積みあげた柴のそばの観音堂の門のあたりの桜の木の下葉が赤く色づいてきた。

 蜻蛉が飛びまわり(第2首)、桜の葉が紅葉し始めた。養女の冥福を祈りながら、学問や書の世界に復帰する前の静かな雌伏の時を八一は過ごす。そのことが目の前の自然に対する感受性をより豊かにしている。              
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寒燈集・柴売(第3首) (2013・3・2)
別府の宿より戯(たわむれ)に奈良の工藤精華に贈る

 そらみつ やまと の かた に たつ くも は
               きみ が いぶき の すゑ に か も あらむ

              (そらみつ大和の方に立つ雲は君が息吹の末にかもあらむ)  

放浪唫草
「さすらいの旅で詠った歌の草稿。放浪唫草(ぎんそう)目次参照」
別府 「別府市は、大分県の東海岸の中央にある市。温泉が市内各地で湧出し、別府温泉として全国的に知られる」
工藤精華 「 “その頃奈良に住みてよく酒を嗜みたる老写真師。古美術の撮影にて知らる。『日本精華』の著あり”自註鹿鳴集」
そらみつ 「大和のかかる枕詞」
いぶき 「息吹。“息を吹くこと。この歌は、この老人のつねに好みて壮語するを諷したるなり”自註鹿鳴集」
すゑ 「末、末端」
あらむ 「あるであろう」

歌意
 ここから大和の方向にそびえ立って見える雲は、あなたが話をする時に吐き出した息の末端であるのでしょう。

 遠く九州の地から奈良の写真家に送ったユーモアを交えた優しい歌である。工藤精華(利三郎)は、徳島県出身で奈良・猿沢池東畔で写真館を開き、美術写真を撮った。2人の出会いは八一27歳、精華60歳の時だった。精華は若い八一に拓本の撮り方などを教えたりして可愛がったと言う。
 後に写真家・小川晴暘(飛鳥園)に八一が肩入れしたために不仲になるが、この歌の当時は親密な間柄だったようだ。     
放浪唫草目次

鹿鳴集・放浪唫草(第22首) (2013・4・27)
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