鹿鳴集 例 言  
一、 本集収むるところのうち、『南京新唱』『山中高歌』『放浪唫草』『村荘雑事』の四篇は、かって
   大正十三年十二月、東京春陽堂より出版せしめしことあるも、当時の印行わづかに八百部に
   過ぎざりしかば、今は殆ど市上に残本を見ず。たまたまこれあらば市価は遠く定価を超ゆるを
   以て、好事の人々は往々手写して之を伝へ、時に携え来りて題署を需むるもの相継ぎ、或は
   書を寄せて再刊を勧めるもの少なからず。これ茲にこの集を出して知己に便ならしめんとする
   所以なり。
一、 本集には、先づかの前集の誤植を訂し、その字句に修正を加えたるほかに、『南京新唱』に五
   首、『放浪唫草』に四首補入せり。
一、 本集には、右のほかに、なほ『南京余唱』『震余』『望郷』『旅愁』『小園』『南京続唱』『比叡山』
   『観仏三昧』『九官鳥』『春雪』『印象」の十一篇を収めて、歌数は通計三百三十二首なれば、
   春陽堂の刊本に比して優に二倍を超えたり。
一、 『南京余唱』以下の諸篇も、何れかの刊行物にて一度は世に公にしたるものもあれど、いづれ
   も今新に其の字句を訂し、また編次を改めたるところあり。著者は今年六十歳を迎へて、頗る
   老境に入り、再び修正の機会あるべしとも思ほえざれば、遂にこの集を以て定本と為すべきに
   似たり。
一、 『南京新唱』は、明治四十一年八月より大正十三年に至る十七年間、『村荘雑事』は大正十
   一年九月より十三年まで三年間、『望郷』は何時の頃よりか大正十四年七月まで、『旅愁』は
   明治四十年八月より大正十五年一月まで廿年間、『小園』は大正十三年前後より昭和九年
   頃に至る十数年間の作なるが如し。今は此等の歌を分つにただ類を以てし、配列は製作の
   順序によるにあらず。ことに『南京新唱』は、十七年にわたりて幾度となく大和地方を歴訪した
   る間に、自ら成りし歌を、その場面に従ひて輯次したるのみなれば、聯作の如く見えながら、
   実は数年を隔てたるもの多かるべく、或は一旦の着想を二三年の後に至りてやうやく詠み据
   ゑたるもあるべし。みな煩を避けて註記するところなり。
一、 著者の大和旅行は、常に美術史研究のために為したるも、歌を詠ずる時には、往々寺伝民
   潭の心易きに興じて之に拠りしものあり。法隆寺綱封蔵の梓弓を聖徳太子の手沢となし、新
   薬師寺金堂にて本尊の右側なる神将を迷企羅大将と呼び、法華寺の本尊及び温室に対して
   光明皇后を聯想し、三輪の金屋の石仏を薬師と見なし、武蔵野を春日野と区別せず、唐招提
   寺をも大寺を以て呼びしが如き、みな然り。
一、 『南京新唱』の歌には、始め之を詠みし時と現在とは、全く環境を異にし来れるものあり。当時
   は荒廃を極めて、旅客をして哀傷に勝へざらしめたる喜光寺の、今は修繕成りて全く面目を新
   たにしたる、秋篠寺の技芸天、梵天、救脱菩薩の諸像は、一時悉く奈良博物館に寄托せられ
   て、寂寞を喞たしめしに、今は総て寺中に帰れる、凡そ此の如き変化は将来にも繰りかへさる
   こと無きを保しがたし。後の人之を察せよ。
一、 『南京新唱』の歌の中には、著者が強度の近視眼による錯覚の跡また在るべし。浄瑠璃寺多
   聞天の裾裏の宝相華を燃え立つばかりの真紅なりと思ひし如き、即ちこれなり。この類なほあ
   るべけむも、すべて今にして補正の筆を加へず。
一、 『南京新唱』 『南京余唱』の南京を「ナンキン」と読む人少なからざるも、「南京」は「南都」とひ
   としく古来奈良の別名なれば、昔時『南京遺響』あり、近時「南京遺文』あり。みな須く「ナンキ
   ヤウ」たるべきなり。
一、 『放浪唫草』の中に感慨を寓したる中津自性寺の大雅の遺墨は、幾何もなくして何者か悉く切
   り抜きて盗み去り、今往く処を知らずといふ。
一、 『村荘雑事』『小園』に詠ずるところは、今の淀橋区下落合三丁目千二百九十六番地なる市
   島春城翁の別業なり。もと名づけて閉松菴といへり。著者は、さきに小石川区豊川町五十八
   番地に住したりしが、大正十一年四月に至り慨するところありて遽に職を辞し、之がために生
   計一時に艱めり。翁はこの窮状を憐み、貸すにこの邸を以てせられしかば、乃ち欣然として群
   書と筆硯とを携へて移り棲み、その名を秋艸堂と改め、居ること十六年に及び、自適最も楽め
   り。土地高爽にして、叢菊あり、果樹菜圃あり、また冷泉あり。鳴禽の声は四時絶ゆることなし。
   今此稿を校するに当り、追感最も切なり。之を記して翁の曠懐を伝へむとす。
一、 『春雪』に云ふところの「叔父」とは、即ち會津友次郎老人なり。二月三日』午前七時牛込の
   僑居に没す。歳七十六なり。之に先ちて著者は本集の『後記』を草し、たまたま述べて幼時に
   受けたる恩恵に及びし時、危篤の報たちまち到る。筆を捨てて之に赴きしも、既に人事に弁
   せず、少頃して逝けり。感応あるが如し。
一、 『印象』は大正十二年九月の試作なるも、自ら別種に属するを以て、特に巻末に附せり。
一、 著者の歌は、特に解し易からずといふ人ありと聞くも、豈かばかりの字句を以て解し難しとす
   べけむや。ただ大和地方に点在する寺塔の実情を知らざる人々には、少しく易からざるもの
   あらむのみ。若し他日篤志の人、代りて註釈の労を執るあらば、読者のために便あらむ。匆忙
   として自ら之を為すに遑あらざるなり。
一、 本集の歌は通巻殆ど仮名を以て綴れり。仮名のみにても通ぜること無かるべしと思へばなり。
   新作の熟語に、都合よき振仮名を施して、含蓄を豊かにせむとするは、便は便なるべきも、つ
   ひに歌の唱ふべきものなるを忘るるにいたらむ。これ著者の深く恐れて警むるところなり。
一、 『後記』の一篇は、著者が少年時代より今日に至る作歌の経歴を語れり。綴り来れば、遂に
   これ一個の田舎育ちの平凡なる文学青年の、空疎なる身上噺に過ぎざらむとすれど、著者の
   意はむしろ努めて時流と環境との推移を伝へむとするにあり。この間微旨あるのみ。豈己を談
   るに急なるものならむや。
一、 著者がさきに初めて歌集を出して世に問ひし時、序跋又は題画を寄せられたる人々のうち、
   坪内逍遥先生、淡島寒月、山口剛、櫻井天壇、横山有策、吉江喬松、武石貞松の諸君今は
   みな在らず。感懐最も深し。
一、 本集の出づるや、信濃の人松下秀麿君奔走して力あり。上野の人吉野秀雄君専ら校正に労
   せらる。記して之を謝す。


   
この書を『創元選書』に加ふるに当りて
 さきに、『鹿鳴集』を印行すること七千五百部に及びしも、江湖の需要尚ほ歇まざるに鑑み、この度これを『創元選書』の一として頒布を広くすることになれり。排印の体裁を改めたるは日本出版会の新規定に拠りたるなり。
 この機会にあたり、前版以来懸案なりし鹿の歌二首の脱屚を補ひ、さきに例言中に記したる歌数の計算を訂正したり。
 本文の歌の中に、「ぬ」を「の」と改めたるもの数首、「く」を「ら」と、「の」を「に」と、「ば」を「ど」と改めたるもの各一首あり。
 第六頁『帝室博物館にて』と題したるものの第一首は、実は法輪寺講堂にて成りしものなるが如くに今にして疑はるれども、しばらく『鹿鳴集』の原様を保存して修正の手を控えたり。
 この書、旅行者の伴侶として、往々行李の中に携へらるることのあるを聞く。依てその検索を助くる為に、地名、寺名、尊名の索引をつくりて巻末に附載したり。
 この集一般読者のために或は難解の歌のあるべきをおもひ、後世識者の手によりて註釈書の成らむことを、例言の中に希望しおきしも、一昨年中、著者自らこれを試み、『渾斎随筆』と題して同じく創元社より刊行せしめたり。
 初めて世に送りたる『南京新唱』のために序跋を送りたる知友のうち、前版『鹿鳴集』刊行に際して唯一の生存者たりし成堂増村度次氏も昨春物故せられたり。記して例言を補ふ。
 昭和十九年三月
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