会津八一(あいづ・やいち) 目次へ 1881~1956。新潟の生れ。号 秋艸道人(しゅうそうどうじん)。早稲田で学んだのち、坪内逍遥の招きで早稲田中学校教員となる。その後文学部教授に就任、美術史を講じた。 古都奈良への関心が生み出した歌集『南京新唱(なんきょうしんしょう)』にその後の作歌を加えた『鹿鳴集』がある。奈良の仏像は八一の歌なしには語れない。歌人としては孤高の存在であったが、独自の歌風は高く評価されている。鹿鳴集に続いて『山光集』『寒燈集』を発表している。 書にも秀で、今では高額で売買される。生涯独身で通したが、慕う弟子達を厳しく導き、多くの人材を育てた。 会津八一の生涯・年表 新潟市會津八一記念館 早稲田大学會津八一記念博物館 |
閑庭(第17首) あかあかと いりひ は もゆる わが やど の もの なき へや の しろき ふすま に (赤々と入日は燃ゆる我が宿のもの無き部屋の白き襖に)
歌意 夕日は真赤に燃えるばかりである、私の家の何も無い部屋の白い襖にさし込んで。 白い襖に真赤な夕日が当っている。大自然の営みの中の秋艸堂が浮かんでくる。
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六月一日吉野秀雄の案内にて多胡の古碑を観たる後伊香保にいたり 千明仁泉亭に入る翌二日裏山の見晴に登り展望す(第8首) あかぎ ね の をちかた とほき やまなみ に ふたら さやけく くも の よる みゆ (赤城嶺の遠方遠き山並みに二荒さやけく雲の寄る見ゆ)
歌意 目の前の赤城山のはるか彼方の日光連山の山並みの中に二荒山(日光男体山)がはっきりとそびえたち、雲が寄っていくのが見える。 伊香保温泉の間近に赤城山がそびえたち、その向こう遠くの日光男体山がはっきりと見える。大自然の広大な光景は八一ならずとも感激を覚えずにはおかない。
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奈良より東京なる某生に あかき ひ の かたむく のら の いやはて に
なら の みてら の かべ の ゑ を おもへ (赤き日の傾く野らのいや果てに奈良のみ寺の壁の絵を思へ)
歌意 真っ赤な夕日が落ちていく武蔵野、その果ての果てにある奈良の法隆寺の壁画を君がいる遠くの地・武蔵野から思ってほしい。 奈良から東京に送った便りに書かれていた歌。八一は旅先からの絵葉書など膨大な私信を残していて、書簡集だけでも読みがいがある。一時期住んだ落合秋艸堂はまさしく武蔵野そのものであった。関東平野から遠く奈良を思うように、奈良から離れた地より法隆寺の焼ける前の金堂の壁画を想像してみると歌の実感が迫ってくる。
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ふたたび厳島を過ぎて(第3首)
あかつき の ともしび しろく わたつみ の しほ の みなか に みやゐ せる かも (あかつきの灯火白くわたつみの潮のみ中に宮居せるかも)
歌意 太陽が昇るまえのほの暗い暁に灯火が白く点っており、厳島神社の神々は海の潮の中に鎮座されているのかな。 明け方の白い灯火の中、瀬戸内海の潮の中に厳として存在する神殿を詠って重々しい。
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二十二日唐招提寺薬師寺を巡りて赤膚山(あかはだやま)正柏が窯(かま) に立ちよりて息(いこ)ふ あかはだ の かま の すやき に もの かく と
いむかふ まど に ちかき たふ かな (赤膚の窯の素焼きに物書くとい向かふ窓に近き塔かな)
歌意 赤膚焼の窯で、素焼きの陶に物を書こうとして向かっている窓に薬師寺の塔が間近に見えることよ。 4首の連作の第1首、素焼きの上に物を書き、窯で焼く中で詠う。第4首で“世道の無常なるをいへり。”(自註鹿鳴集)と心情を吐露する。 この時の写真が平城遷都1300年記念「奈良の古寺と仏像~會津八一のうたにのせて~」に使われていた。 第1首 第2首 第3首 第4首
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明王院(第11首) あかふどう わが をろがめば ときじく の こゆき ふり く も のき の ひさし に (赤不動我がをろがめば時じくの小雪降り来も軒の庇に)
歌意 赤不動を拝んでいると季節外れの小雪が降ってきたことだ。明王院の軒のひさしに。 赤不動を拝んで明王院を出ると、思いがけない小雪が軒のひさしに降っていた。燃えるような赤不動と冷たい白い雪の対照が素晴らしい。11首の連作を閉めるにふさわしい八一の精魂込めた赤不動鑑賞の想いが伝わってくる。(下記前書を参照) 注 前書 十九日高野山明王院に於て秘宝赤不動を拜すまことに希世の珍なりその図幽怪神異これに向ふものをして舌慄へ胸戦き円珍が遠く晩唐より将来せる台密の面目を髣髴せしむるに足る予はその後疾を得て京に還り病室の素壁に面してその印象を追想し成すところ即ちこの十一首なり。 語句解説
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閑庭(第2首) あきかぜ の くさ の とびら に あるる よ を たけ ゑがき をり ともしび の もと に (秋風の草の扉に荒るる夜を竹描きをり燈火の下に)
歌意 秋風がこの簡素な家の戸をがたがたと鳴らして荒れる夜を、私は竹を描いている、燈火の下で。 武蔵野を吹き荒れる秋風のなかで竹を描く。移り住んだ侘びしい住まいの中で、一人水墨画を描くなかで徐々に暮らしのスタイルを作っていったのであろう。
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雁来紅(第6首) あきくさ の な に おふ やど と つくり こし ももくさ は あれど かまづか われ は (秋草の名に負ふ宿と作りこし百草はあれどかまづか我は)
歌意 秋草という名を号に持つ私の家(秋艸堂)にふさわしく、多くの秋の草花を作ってきたが、なんといっても葉鶏頭が最も素晴らしいと思っている。 葉鶏頭は私の作る最高の花であり、愛好するものであると言う。八一は雁来紅栽培についての質問に答え、「雁来紅の作り方」という玄人はだしの文章を残すほどの凝りようだった。
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耶馬渓(やまけい)にて(第10首)
あき さらば やまくにがは の もみじば の いろ に か いでむ われ まち がて に (秋さらば山国川のもみじ葉の色にか出でむ我待ちがてに)
歌意 秋になったなら山国川のもみじ葉は色づいているだろうか、私がやって来るのを待ち遠しく思いながら。 耶馬渓を去るにあたって第9首では何度も立ち返ってきて耶馬渓の景色を見たいと詠い、この第10首では耶馬渓が私を待っていると詠う。
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秋篠寺にて(第3首) あきしの の みてら を いでて かへりみる
いこま が たけ に ひ は おちむ と す (秋篠のみ寺を出でてかえり見る生駒ヶ岳に日は落ちんとす)
歌意 秋篠寺を出て振り返ると、生駒山に今まさに日が落ちようとしている。 注 奈良の友人(鹿鳴人)から歌碑の写真が届いた。(06・09・10掲載) 注2 建立は昭和45年 春日野(八一と健吉の合同書画集より)
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土くれ(第4首) 十月の末つかたなりけむ喜多武四郎予が胸像を作り持ち来りて示すを見るに頗る予が意を獲たり乃ち喜多が携へたる鉄の箆をとりてその背に秋艸道人の四字を刻す あき たけて はな なき まど の あさ の ひ に しろき そざう の もの おもはしむ (秋たけて花無き窓の朝の日に白き塑像のもの思はしむ)
歌意 秋が深まって花も無い窓の朝の光の中で白い私の塑像はいろいろなことを私に思わせる。 我が身を対象化した塑像、それに対峙していると自らのいろいろなことが次から次へと浮かんでくるのである。
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村荘雑事(第12首)
あきづけば また さき いでて うらには の くさ に こぼるる やまぶき の はな (秋づけばまた咲き出でて裏庭の草にこぼるる山吹の花)
歌意 秋が近くなるとまた咲き出して裏庭の草の上に黄色の花びらを散らしている山吹の花であることよ。 下落合秋艸堂の裏庭には返り咲きした山吹の黄色い花びらが緑の草の上にこぼれる。緑と黄色、絵になる風景である。村荘雑事の歌は「淡々として水の如し」(桜井天壇)と評されるように武蔵野を淡々と歌い、自然に溶け込んでいる。
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奈良博物館にて(第2首) あき の ひ は ぎえん が ふかき まなぶた に
さし かたむけり ひと の たえま を (秋の日は義淵が深きまなぶたにさし傾けり人の絶え間を)
歌意 秋の日差しが義淵坐像の深くくぼんだまぶたに射し傾いている。拝観の人が途絶えた静寂の中で。 目尻が垂れ下がり、皺の多い独特の容貌の義淵坐像を、人の途絶えた夕方の博物館で浮き出させる。この像を秋の日に博物館で見てみたいと思わせる心にくい歌である。
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被服廠(ひふくしよう)の跡にて(第1首) あき の ひ は つぎて てらせど ここばく の
ひと の あぶら は つち に かわかず (秋の日はつぎて照らせどここばくの人のあぶらは土に乾かず)
歌意 秋の日差しはずっと続いて照らしているけれど、沢山の焼け死んだ人の体の脂肪は大地一面に黒々と沁み込んでいて乾かない。 四万の焼死者の出た被服廠跡に立って焼跡の惨状を詠う。涙も涸れるような現実に彼は何を思ったのであろう。ただ茫然と眼前の現実を詠ったのであろうか、「ひとのあぶら」は生々しく、読む者に迫ってくる。
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根本中堂の前に二株の叢竹あり 開山大師が唐の 台岳より移し植うるところといふ(第1首) あき の ひ は みだう の には に さし たらし せきらんかん の たけ みどり なり (秋の日は御堂の庭にさしたらし石欄杆の竹緑なり)
歌意 秋の陽射しが根本中堂の庭に降り注いで、石欄杆に囲まれた竹の緑が鮮やかで美しい。 時は秋、昭和13年10月の比叡山である。先に早稲田の学生達を指導しつつ美術研修旅行で奈良を廻った八一は、京都比叡山の秋の日差しが注ぐ堂内で、最澄が唐から移し植えたとされる叢竹を詠い出す。遠い昔の学究・最澄に同じ学を目指すものとして深い思いを寄せているのであろう。 第2首へ
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高円山をのぞみて あきはぎ は そで には すらじ ふるさと に ゆきて しめさむ いも も あら なく に (秋萩は袖には摺らじ故郷に行きて示さむ妹もあらなくに)
歌意 (昔、奈良時代は)高円山のこの萩を袖に摺り付けて模様としたが、私はしないでおこう。故郷に帰って見せる恋人もいないのだから。 八一28歳の恋の歌と言ってよい。八一の従妹周子の友人である女子美術学校生・渡辺文子への恋が成就しなかった八一は、そうした思いを古代への憧憬とともに歌った。 晩年の養女・高橋キイ子への家族的、人間的な愛の歌(山鳩)を除けば、貴重な愛の歌である。同じ「若き八一の憂い」から歌われた「わぎもこが・・」の歌よりもっと直接的な表現になっている。 南から奈良市街に入る手前で高円山は右手に現れ、やがて秋萩の美しい白毫寺への道にさしかかる。写真は5月に地獄谷を訪れた時、高円山中腹から奈良の街を撮ったもの。 注 奈良の友人(鹿鳴人)から高円山の写真が届いた。(2006・09・24掲載)
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観音堂(第8首) あき ふかき みだう の のき に すごもる と かや に はね うつ はち の むれ みゆ (秋深きみ堂の軒に巣ごもると茅に羽打つ蜂の群れ見ゆ)
歌意 秋が深くなってこの観音堂の軒に越冬のため巣籠りする蜂たちが、茅葺の屋根に羽を打ち付けるように飛んでいる姿が見える。 きい子無き観音堂の生活は夏から秋、さらに秋が深まっていく。時と共に落ち着きを取り戻した八一の歌は、自然の営みを捉えて豊かな抒情詩として詠われている。
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印象(第2首) 秋夜寄丘員外 韋応物 懐君属秋夜 散歩詠涼天 山空松子落 幽人応未眠 あきやま の つち に こぼるる まつ の み の おと なき よひ を きみ いぬ べし や (秋山の土にこぼるる松の実の音無き宵を君寝ぬべしや) 秋夜丘員外ニ寄ス 君ヲ懐ウテ秋夜ニ属シ、 散歩シテ涼天ニ詠ズ。 山空シクシテ松子落ツ。 幽人ハ応ニ未ダ眠ラザルベス。
歌意 秋山の土には松の実が音もなくこぼれ落ちる、そんな静かな夕べを君は眠るべきだろうか、いやきっと寝ないだろう。 漢詩との関係で行けば、松毬の落ちるわずかな音が聞こえるほどの静かさなのか、松の実が音もなく落ちる静寂なのか、いろいろ考えさせられる。しかし、秋の夜の山中のひっそりと静まり返っている様をよく捉えている。 注 秋夜丘員外(きゅういんがい)ニ寄ス 韋応物(いおうぶつ) 君ヲ懐(おも)ウテ秋夜ニ属シ、 散歩シテ涼天ニ詠(えい)ズ。 山空シクシテ松子(しょうし)落ツ。 幽人ハ応(まさ)ニ未ダ眠ラザルベス。 秋の夜に丘員外に手紙を送る 私が君のことを思っているのは秋の夜。散歩しながら涼しい秋の夜空を眺めて詩を詠んだ。 君が隠棲する人気のない山の中では松毬の落ちる音が聞こえる。それほど静かなので、 ひっそりと住む人はまだ眠らないでいるだろう。 (八一の解釈は、“音もなく松の実が落ちる、そんな静かな山中で” となる) ・韋応物 中国・中唐の詩人、京兆(陝西省西安)の人。陶淵明に心酔、自然詩人として、 王維・孟浩然・柳宗元と並び称される。 ・丘員外 浙江省の臨平山に隠棲した友人 ・属 …である(今ちょうどそのときである) ・涼天 秋の涼しい夜空 ・松子 まつかさ(松笠、松毬)。しかし、八一は松毬の中にある実だという ・幽人 俗世間を逃れた人 ・応に…べし 当然…すべきである、きっと…だろう
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下山の途中に(第2首) あきやま の みち に すがりて しのだけ の うぐひすぶゑ を しふる こら かも (秋山の道にすがりて篠竹の鶯笛を強ふる子らかも)
歌意 秋山の下山の道でとりついて、篠竹で作った鶯笛を買え買えと強いる子供たちよ。 昭和13年頃はまだ日本が貧しい時代、いろいろな物を売る子供たちが沢山いた。物を売る子供たちへの思いは、今の豊かな時代では理解しがたいかもしれない。
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二十八日高尾神護寺にいたる あきやま の みづ を わたりて いまだしき もみじ の みち を われ ひとり ゆく (秋山の水を渡りて未だしき紅葉の道を我一人行く)
歌意 秋山の渓流の流れを渡って、まだ紅葉には早い神護寺への道をたった一人で上ってゆく。 第1首で「やまと には かの いかるが の おほてら に みほとけ たち の まちて いまさむ」と仏たちへの憧憬を高らかに詠った観仏三昧は神護寺の歌で終わる。観仏三昧はこの第28首が示すように南京新唱で詠んだ情熱的なものとは違った落ち着きと静かさがある。年齢や時代背景が影響しているのであろう。
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ふたたび厳島を過ぎて(第2首)
あけぬり の のき の しらゆき さながらに かげ しづか なる わたつみ の みや (朱塗りの軒の白雪さながらにかげ静かなるわたつみの宮)
歌意 厳島神社の回廊や社殿の朱塗りの軒に白雪が積もっている姿そのままに、静かなたたずまいを見せている海の神の宮であることよ。 八一が訪れたのは12月の下旬、雪が降る寒い日で参詣客も少なかったであろう。どっしりと静かなたたずまいの雪景色の海神の宮・厳島神社が眼前に広がってくる。
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山中高歌(第4首) あさあけ の をのへ を いでし しらくも の
いづれ の そら に くれ はて に けむ (朝明けの峰の上を出でし白雲のいづれの空に暮れ果てにけむ)
歌意 朝明けの頃、峰の上にあった白雲は流れて行ってどのあたりの空で夕暮になり、暮れてしまったのであろう。 朝明けの雲を夕べになって思いやる。第2首では流れる雲に「いかに かなしき こころ」と自らの心を託したが、ここでは平静な心が雲の行方を詩的にとらえている。同じような雲の流れも作者の視点に寄って大きく変わる。
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歳旦(第2首)
あさ さむき テイブル に わが ひとり ゐて むかふ ざふに に ゆげ の たち たつ (朝寒きテイブルに我が一人ゐて向かふ雑煮に湯気の立ち立つ)
歌意 元旦の朝の寒いなかでテーブルに一人で雑煮に向かっていると雑煮の湯気が次から次へとのぼっていくことよ。 入院したきい子のいない元旦は味気ないものである。立ちのぼる雑煮の湯気に見入る八一の姿は寂しさがにじみ出ている。
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同日等持院にいたる影堂には足利氏累代の像あり(第1首) あさ さむき てら の いたま を わたり きて いし ひえ はてし えいだう の ゆか (朝寒き寺の板間を渡り来て石冷え果てし影堂の床)
歌意 朝のまだ寒いとき、等持院の板の間を渡ってきて御影堂に入ると石の床が冷えはてている。 御影堂で足利尊氏と足利氏累代の像を4首にわたって詠む。戦中と言える昭和15年は、南朝に反した足利尊氏を逆賊、南朝の後醍醐天皇を擁護した楠木正成を忠孝の士とした教育が主流だった時である。そんな時勢で真正面から足利氏を取り上げる八一の時代を客観的に透察する眼はさすがである。 ちなみに武士階級が中心の時代、その代表格の足利尊氏を初めとする室町幕府の成立は必然であった。天皇実質支配を擁護した楠木正成は時代の流れに逆らう地方の一豪族だった。
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東伏見宮大妃殿下も来り観たまふ (第1首) あさ さむき みくら の には の しば に ゐて みや を むかふる よきひと の とも (秋寒きみ倉の庭の芝にゐて宮を迎ふるよき人のとも)
歌意 朝の寒い時に正倉院の庭の芝生の所で宮をお迎えする官吏の人々よ。 前作(正倉院の曝涼に参じて)の夕暮れの情景から一転して、緊張する正倉院の朝を表現する。大正時代の皇室関係者を迎えるその雰囲気、緊張感が伝わってくる。宮を迎える官吏たちを「よきひと」と表現した所に皇室崇拝の念が強かった八一の心情が表れている。 余談だが、この依仁親王妃は美しい人で加山雄三の大伯母にあたる。
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また東大寺の海雲師はあさなあさなわがために二月堂の千手菩薩に 祈誓をささげらるるといふに(第1首) あさ さむき をか の みだう に ひれふして ずず おしもむ と きく が かなしさ (朝寒き岡のみ堂に平伏して数珠押し揉むと聞くがかなしさ)
歌意 寒さの厳しい朝、岡の御堂・二月堂の床に身を伏せて、数珠を押し揉みながら私のために祈って下さっていると聞いた。なんと素晴らしいことだ。 昭和18年11月、八一は学生を連れた最後の奈良旅行で病に倒れた。風邪から扁桃腺炎、中耳炎を併発し回復まで数カ月かかる。そのため、奈良の寺々は病気の快癒を願ってさまざまな形で祈った。八一のために親交の深かった上司海雲が奈良で祈祷しているという。その感激を素直に詠った。
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斎居(第3首)
あさな あさな わが て に のぼる いかるが の あかき あし さへ ひえ まさる かな (朝な朝な我が手に登る斑鳩の赤き足さへ冷えまさるかな)
歌意 毎朝籠から出してやると私に慣れ親しんだ斑鳩が手に乗ってくる。その斑鳩の赤い足さえとても冷たく感じられる秋艸堂の冬である。 引っ越して間もない目白文化村秋艸堂の冬、手の上に乗る斑鳩の足の冷えを強く感じると言う。独り居の侘びしさを漂わせて、九官鳥12首は終わる。
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鐘楼(第3首) 三月十四日二三子とともに東大寺に詣づ客殿の廊下より望めば焼きて日なほ浅き嫩草山の草の根わづかに青みそめ陽光やうやく熙々たらむとすれども梢をわたる野風なほ襟に冷かにしてかの洪鐘の声また聞くべからずことに寂寞の感ありよりて鐘楼に到り頭上にかかれる撞木を撫しつつこの歌を作る あさ に け に つく べき かね に こもりたる とほき ひびき を きか ざる な ゆめ (朝に日に撞くべき鐘にこもりたる遠き響きを聞かざるなゆめ)
歌意 本来なら朝に昼に撞くべき鐘に籠っている遠い時代の響きを聞かないなんて、決してあってはならない。 戦時化の鳴らない鐘に対する怒りと悲しさ、淋しさが強く詠われる。 写真は鹿鳴人提供(2014・5・24)の東大寺鐘楼。
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奈良に向かふ汽車の中にて (第2首) あさひ さす いなだ の はて の しろかべ に ひとむら もみぢ もえ まさる みゆ (朝日さす稲田のはての白壁にひとむら紅葉燃えまさる見ゆ)
歌意 朝日の差している稲田の果てにある家の白壁に紅葉が一叢赤く燃え盛っているのが見える。 奈良の仏たちを夢見た夜汽車の眠り(第1首)から覚めると、外から待ち望んだ奈良の風景が飛び込んできた。明るい朝日のもとで黄色に色づく稲田、白い壁そして赤く燃え上がる紅葉を絵画的に詠っている。
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太秦の広隆寺の宝庫にて あさひ さす しろき みかげ の きだはし を さきて うづむる けいとう の はな (朝日さす白き御影のきだはしを咲きて埋むる鶏頭の花)
歌意 朝日がさして白く輝いている御影石を埋めるようにして咲いている(赤い)鶏頭の花よ。 この歌は1925年(大正14年)41歳の時に詠まれている。広隆寺の宝庫(旧霊宝殿)は建設されて3年目だった。その新しく美しい宝庫の階段の白と鶏頭の赤が印象的で、色彩豊かな歌である。 私が初めて訪れた時は新しい霊宝殿(1982年建設)だったが、階段の脇に美しく花が咲いていたのを覚えている。まだ、この歌を知らなかった頃だ。 会津八一はこの頃、東京の高田豊川町の自宅や次に移り住んだ目白下落合の市島春城の別荘を秋艸堂と名付け、秋の草花を好んだ。特に葉鶏頭を愛し、「雁来紅の作り方」という文章まで作った。葉鶏頭は雁来紅(がんらいこう)、かまつかと言う別名がある。八一はかまづかと呼び、59歳の時に雁来紅16首を詠んでいる。以下に2首を紹介する。 あきくさ の な に おふ やど と つくり こし ももくさ は あれど かまづか われ は (秋草の名に負ふ宿と作り来し百草あれどかまづかわれは) 解説 つくり こし この はたとせ を かまづか の もえ の すさみ に われ おい に けむ (作り来しこの二十年をかまづかの燃えのすさみにわれ老いにけむ) 解説
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土くれ(第1首) 十月の末つかたなりけむ喜多武四郎予が胸像を作り持ち来りて示すを見るに頗る予が意を獲たり乃ち喜多が携へたる鉄の箆をとりてその背に秋艸道人の四字を刻す あさひ さす ひろき つくゑ に ふろしき の つつみ を おきて とも は しづけし (朝日さす広き机に風呂敷の包みを置きて友は静けし)
歌意 朝日がさしている明るい大きな机の上に風呂敷の包みを置いて、友は静かに座っている。 彫刻家・喜多武四郎が作ってくれた風呂敷に包んだ八一の胸像が机に置かれている。期待がつのる一瞬を第1首で詠う。7首の始まりである。
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霜余(第6首) あさひ さす リラ の しづえ に かけ すてし みかん の かは に かぜ そよぐ みゆ (朝日さすリラのしづえに掛捨てし蜜柑の皮に風そよぐ見ゆ)
歌意 朝日がさしているライラックの下枝に掛けてそのままになっている蜜柑の皮に風がそよいでいるのが見える。 蜜柑の皮は乾燥させていろいろに使うのだろうが、病のために弱っていたきい子が取り残したのかもしれない。4首の未剪定の葡萄の情景といい、八一の鬱々とした心が思われる。
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耶馬渓(やまけい)にて(第6首)
あさましく おい ゆく やま の いはかど を つつみ も あへず このは ちる なり (あさましく老いゆく山の岩角を包みもあへず木葉散るなり)
歌意 老いたる人に似た情けないほど見苦しく見える動かない山の岩角を包み隠す事もできないで木の葉が散っているなあ。 「人の骨高に老いたるに比したる」という比喩は特殊で難しく、八一ならではの表現と言える。落葉が岩を包み隠せないと言う視点は秀逸である。 注 「兀々」は物事に専心するさま。絶えずつとめるさま。また、じっと動かないさま。ここでは動かないさまを言う。
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火鉢(第5首) あさまど を ひかげ さし いり そらいろ の ひばち の はひ の しろたへ に みゆ (朝窓を日影さし入り空色の火鉢の灰の白妙に見ゆ)
歌意 朝の窓からさしこむ日の光で空色の火鉢の中の灰が真白に見える。 前夜、抱きかかえるように暖をとった火種の乏しい火鉢の灰が、夜明けの光で灰色から白色に輝いて見えると言う。寒い一夜を火鉢と共に過ごした5首である。
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その日国上村源八新田なる森山耕田が家に宿りて 禅師が手沢の鉢の子を見る(第1首) あさやま を こころ かろらに くだり けむ きみ が たもと の はちのこ ぞ これ (朝山を心かろらに下りけむ君が袂の鉢の子ぞこれ)
歌意 朝の山を心も軽やかに下って行ったであろうあなたの袂にあったのはこの鉢の子なのですね。 森山家にあった木製の鉢の子(鉄鉢)を手にとって、その感動を詠う。この鉢の子は良寛の生活を象徴し、とりわけ村での活動、生活を思い起こさせる。 注 鉢の子 自註 仏家に応量器といふものあり。俗に鉄鉢といふ。托鉢、洗面、炊事に用ゐ、多くは鉄製なるを、良寛禅師の遺物として今森山君の家に蔵するものは、木製にして、たけ低く、形も稍小さし。こは良寛全集を編したる玉木礼吉君の家に在りしを、病みて自ら起たざるべきをさとり、これを森山君に伝へたりといふ。手に取りて仔細に見るに、材古り、塗料も剝げ、深く破れ目さへありて、禅師を憶はしむるにはこよなきものなり。禅師に鉢の子の長歌二首あり。其一に曰く。「はちの子は、はしきものかも、しきたへの、いへでせしより、あしたには、かひなにかけて、ゆうべには、たなへにのせて、あらたまの、としのをながく、もたりしを、けふそよに、わすれしくれば、たつらくの、たづきもしらず、をるらくの、すべをもしらず、かりごもの、おもひみだれて、ゆうづつの、かゆきかくゆき、たにぐくの、さわたるそこひ、あまぐもの、むかふすきはみ、あめつちの、よりあひのかぎり、つえつきも、つかずもゆきて、とめなむと、おもひしときに、はちのこは、ここにありとて、わがもとに、ひとはもてきむ、いかなるや、ひとにませかも、ちはやぶる、かみののりかも、ぬばたまの、よるのゆめかも、うれしくも、もてくるものか、よろしなへ、もちくるものか、そのはちのこを。反歌。みちのへの、すみれつみつつ、はちのこを、わすれてぞこし、そのはちのこを」。また、禅師の詩集には「一衣一鉢」「一衲一鉢」「一襄一鉢」「一瓶一鉢」などの語、随所に散見し、禅師の生活には最も大切なる調度なりしこと示せり。聞くところにては、このほかに安田靫彦君また禅師が手沢の鉢の子といふものを蔵せらるるよし。
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望郷(第2首)
あさり す と こぎ たみ ゆけば おほかは の しま の やなぎ に うぐひす なく も (漁りすと漕ぎたみゆけば大川の洲の柳に鶯鳴くも)
歌意 魚を取るために小舟をこぎまわしてゆくと、信濃川の中洲にある柳のところで鶯が鳴いている。 新潟は信濃川河口の港町で、川と密接な暮らしがあった。多分、子供のころの思い出であろう。魚取りの時に柳の影で鳴く鶯を思い出して詠う。また、柳は市内の堀割の岸に多く、新潟とは切っても切れない風物であった。
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耶馬渓(やまけい)にて
大正十年十二月十二日雨を冒(おか)して耶馬渓に入り二日にして去る時に歳やうやく晩(おそ)く霜葉すでに飛びつくしてただ寒巌と枯梢(こしよう)と孤客の病身に対するあるのみ 䔥条(しようじよう)まことに比すべきものなかりき
耶馬渓 山国川の谿谷。「山」の字を「耶馬」と訓読して、かく命じたるは頼山陽 (1780-1832)なり。今日にいたりては、原名の方かへりて耳遠くなれり。 あしびき の やまくにがは の かはぎり に しぬぬに ぬれて わが ひとり ねし (あしびきの山国川の川霧にしぬぬに濡れて我が一人寝し)
歌意 山国川から立ち上がる川霧が宿にたちこめ、しっとりと濡れて私は一人寝たことだ。 紅葉が散ってしまった寒々とした耶馬渓で、1人旅の八一の孤独が浮かび上がる。ここで八一は11首詠んでいる。
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山精(第2首) 七月二十九日さきに童馬山房主人より贈られし歌集「暁紅」をとり出してふたたび読みもてゆくに感歎ますますふかしこえて五日この五首を記して箱根強羅なる山荘にこもれる主人のもとに寄す あしびき の やま の すだま と こもり ゐて よみ けむ うた か さよ の くだち を (あしびきの山の山精と籠りゐて詠みけむ歌かさ夜のくだちを)
歌意 箱根の山の山霊となって籠り、詠んだ歌なのだろうか、夜更けの頃に。 山霊が詠ったかと思われるほど素晴らしい歌と茂吉の作品を評価する。他者を褒めることが少なかった八一の賛辞である。
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当麻寺に役小角の木像をみて(第2首) あしびき の やま の はざま の いはかど の つらら に にたる きみ が あごひげ (あしびきの山の狭間の岩角の氷柱に似たる君があごひげ)
歌意 山間の岩角に垂れ下がっている氷柱に似ているあなたのあごひげですね。 第1首に続く、遊び心豊かでウイットに富んだ歌である。自註鹿鳴集で“そもそも山腹の寺にて見たる像にてあり、像そのものは、岩に踞(きょ)したるさまに彫まれたれば、おのづから「岩」といふ語の点出されたるならむ。”と言う。 山の寺、葛城山麓で生まれて修行活躍した修験者、岩に踞(うずくま)る姿、などから連想によって生まれた歌と言える。 写真は松久宗琳仏所の宗教美術展(06・11・6)にて展示されていたものである。
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浄瑠璃寺(第2首) あしびき の やま の みてら の いとなみ に
おり けむ はた と みる が かなしさ (あしびきの山のみ寺の営みに織りけむ機と見るが悲しさ)
歌意 この山のお寺の生計のために布を織ったであろう織機、この使われなくなって古くなった織機を見る悲しさよ。 山寺の廃機を見て当時を偲び、移りゆく物への哀惜を感慨を持って詠う。八一の名歌が浮かんでくる。 いかるが の さと の をとめ は よもすがら きぬはた おれり あき ちかみ かも 解説 浄瑠璃寺 第1首 第2首 第3首 第4首
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閑庭(第22首) あすならう いろづく なか ゆ さしいでて つぼみ とぼしき こうばい の えだ (あすなろう色づく中ゆさし出でて蕾乏しき紅梅の枝)
歌意 あすなろの葉が色づいている中から、突き出している蕾の少ない紅梅の枝よ。 手入れがされてないあすなろの変色している葉の間から、わずかばかりの蕾をつけた紅梅が突き出すように伸びている。冬の庭の様子をよくとらえている。
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奈良博物館即興(第2首) あせたる を ひと は よし とふ びんばくわ の ほとけ の くち は もゆ べき ものを (褪せたるを人は良しとふ頻婆果の仏の口は燃ゆべきものを)
歌意 時を経て色褪せたものが良いと人々は言うが、仏像の唇はもともと頻婆果のように真っ赤に燃えているべきものなのだ。 色褪せた唇の向こうに仏の真っ赤な本来の唇の姿を浮かび上がらせる。確たる鑑賞眼から、古色蒼然としたものを喜ぶ古美術観を批判するが、それ以上に「びんばくわ」の赤と「もゆべきものを」の結句が肉薄してくる素晴らしい歌だ。 八一の歌の中でもよく知られている歌で、筆者もすぐに好きになった。この歌から、作られたばかりの仏像の姿を求めて、故松久宗琳仏師の展覧会に出かけた。それがきっかけで、宗琳に師事した安達先生の仏像教室に入門したが、八一の歌が導きの糸になったと言える。 八一の鑑賞眼については注2を参照。 注 びんばくわ(自註鹿鳴集) BIMBA。頻婆果。印度の果実の一種にして、その色赤しといふ。経典には、仏陀の肉体的特色として三十二相、八十種好を挙ぐる中に「脣色(しんしよく)ハ赤紅ニシテ頻婆果ノ如シ」「丹潔ナルコト頻婆果ノ如シ」「光潤ニシテ丹暉(たんき)ナルコト頻婆果ノ如ク上下相称フ」「赭菓(しやか)脣ヲ涵(うる)フス」などいひ、略して「果脣(かしん)」などいふ語も生じたり。 注2 さてこの歌の心は(自註鹿鳴集) さてこの歌の心は、世上の人の古美術に対する態度を見るに、とかく骨董趣味に陥りやすく、色褪せて古色蒼然たるもののみを好めども、本来仏陀の唇は、赤くして輝きのあるがその特色の一つなるものを、といふなり。仏陀の形像を見るに、枯木寒厳を以てよしとせざる作者の態度を示したるものなり。この歌を発表したる時、特に強く推賞の辞を公にしたるは、当時いまだ一面識もなかりし斉藤茂吉君なりしなり。
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豊後海上懐古(第2首)
あたらしき くに ひらかむ と うなばら の あした の かぜ に ふなで せり けむ (新しき国拓かむと海原のあしたの風に船出せりけむ)
歌意 新しい国土を開拓しようと思われて(日向から)海原の朝の風に乗って船出されたのであろう。 第1首で紹介した神武東征の船出を想像して詠う。まさしく豊後の海上を眺めながらの懐古である。
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九月一日大震にあひ庭樹の間に遁れて(第3首) あたらしき まち の ちまた の のき の は に
かがよふ はる を いつ と か またむ (新しき街の巷の軒の端に輝ふ春をいつとか待たむ)
歌意 新しい街が作られ、街の賑やかな通りの家々の軒端が輝く春のようになる日をいつの頃かと思いながら待とうと思う。 首都東京は壊滅的な被害にあった。惨事を前にその復興を祈るしか無かったであろう。いつもポジティブだった八一は己に言い聞かすように将来の再生を詠んだ。
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宿の主人心ありて高山の植物多く食膳にのぼる(第1首) あつもの の うけら も をしつ みづうみ の やど の あさげ は のち こひむ かも (あつもののうけらも食しつ湖の宿の朝餉は後恋ひむかも)
歌意 うけらの熱い吸い物を食べた湖の宿の朝食は後になって懐かしく恋しく思うことだろうなあ。 さわやかな湖畔の朝、宿の主人の心のこもった山独特の山菜の熱い吸い物は心に残ったであろう。後になって恋しく思うと余韻のある歌となっている。
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ある日銀閣寺にて あないじや の けうとき すがた め に ありて しづこころ なき ぎんかく の には (案内者のけうとき姿目にありてしづこころなき銀閣の庭)
歌意 案内人のうとましい姿が目に残って、落ち着いた気持になれない銀閣寺の庭であることよ。 銀閣寺の不適格な案内人の言動に怒る。八一の歌に珍しい。東山文化の中心である銀閣寺への思いをかき乱された怒りはおさまらない。
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山中にて(第1首) あのくたら みほとけ たち の まもらせる そま の みてら は あれ に ける かも (阿耨多羅御仏たちの守らせる杣の御寺は荒れにけるかも)
歌意 無上の悟りをお持ちになる全知の仏様たちに守られているこの比叡山も、年月を経て荒れ果ててしまったことよ。 織田信長による比叡山焼き討ち後、豊臣秀吉らによって復興されたが、明治初年の神仏分離や廃仏毀釈の苦難にあった比叡山は荒廃していた。その現実を眼前して深く思いにふける八一である。 しぐれ の あめ いたく な ふり そ こんだう の はしら の まそほ かべ に ながれむ (海竜王寺にて) 解説 上句にある荒廃した古都(奈良・京都)へのため息が、この比叡山の歌にも脈々と流れている。 注 阿耨多羅三藐三菩提の仏たちわが立つ杣に冥加あらせ給へ(最澄・新古今集) に基づいてこの歌は詠われている。八一は自註鹿鳴集で“・・・最澄の歌あり。作者はこの意を受けて、その無上正等覚の諸仏の加護したまへる杣木にて造れる伽藍も、いたく荒廃したるものよと歎きたるなり。 「阿耨多羅三藐三菩提」を略して「阿耨三菩提」又は「阿耨菩提」ともいふ。『慧苑(えおん)恩義』ニ、『「阿」ハ「無」トイフナリ。「耨多羅」ハ「上」ナリ。「三藐」ハ「正」ナリ。「三」は「遍」ナリ「等」ナリ。「菩提」ハ「覚」ナリ。総ジテ「無上正等正覚」とイフベキナリ』とあり、訳して・・・「無上正等覚」などいふ。”
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法隆寺壁画の作者をおもひて(第3首) あはれ ひと こころ ゆたけき いとなみ を ここ に とどめて ゆくへ しらず も (あはれ人心豊けき営みをここに留めて行方知らずも)
歌意 ああ、中国から来た絵師はこんなに心豊かな仕事を金堂の壁画に残して、その行方は分からないのだ。 素晴らしい壁画を描いた中国の絵師を深く思う。これだけの物を創造しながら、名も分からない作者たち、それは多くの他の作品を残した無名の作者たちへの思いも含んでいるだろう。
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山鳩(第3首) あひ しれる ひと なき さと に やみ ふして いくひ きき けむ やまばと の こゑ (相知れる人無き里に病み伏して幾日聞きけむ山鳩の声)
歌意 知っている人さえいないこの村里の観音堂で病に臥し、何日お前は聞いたのだろう、山鳩の声を。 知る人も無い疎開先の寂れた観音堂で、戦時下で薬も手当てもほとんどできずに世を去っていくきい子への万感の思いがあっただろう。きい子が臥して聞き、亡き後も鳴き続ける山鳩の声は八一の心を揺さぶる。
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山鳩(第16首) あひ しれる わかびと つどひ いつ の ひ か われ を かこみて な を ことなさむ (相知れる若人集いいつの日かわれを囲みて汝をことなさむ)
歌意 おまえをよく知っている若い人々が集まって、いつの日か私を囲んでおまえのことをいろいろと語り合うだろう。 八一宅を訪れた多くの門下生、とりわけ若い学生たちの中にはきい子を想った人もいたようだ。小説や舞台でそうしたことが扱われている。自ら可愛がった若い人たちと共にきい子の思い出を語ることは八一にとっては供養である。 注 寒燈集・自註より なをことなさむ・「な」は汝。「ことなす」は、云ひ出でてその噂をなし、語り草にすること。萬葉集に「あきのたの、ほだのかりばか、かよりあはば、そこかもひとの、わをことなさむ」「くれなゐの、こぞめのころも、したにきて、うへにとりきば、ことなさむかも」「みちのくの、あだたらまゆみ、つらはけて、ひかばかひとの、わをことなさむ」などあり。 ・秋の稲穂の田の刈り時のように、こんなに寄り合ったなら、そのことでも人は噂をたてるのでしょうか。 ・濃く染まった紅色の衣を下着から上着として着替えたら、世間の連中はなんと噂をするだろうかな。 ・陸奥の安達太良山のまゆみにつるをつけて、弓を引くようにあなたに心を寄せたら、世間では私と あなたを何と噂するでしょう。
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印象(第4首) 照鏡見白髪 張九齢 宿昔青雲志 蹉跎白髪年 誰知明鏡裏 形影自相憐 あまがける こころ は いづく しらかみ の みだるる すがた われ と あひ みる (天翔る心はいづく白髪の乱るる姿我と相見る) 鏡ニ照シテ白髪ヲ見ル 宿昔ノ青雲ノ志。 蹉跎タリ、白髪ノ年。 誰カ知ラン、明鏡ノ裏。 形影自ラ相憐ムコトヲ。
歌意 大空を駆け巡るようなあの青春の大きな理想は何処へ行ったのであろう。時は過ぎて今はただ白髪の乱れる私の姿と鏡で対面するのみである。 鏡に写る白髪が青雲の志と夢破れた老境を浮かび上がらせる。八一の訳詩も見事だ。参考までに八一が譯詩小見(渾齋随筆・八一)で紹介した江戸時代の千種有功(ありこと)の訳詩(和漢草)を下記する。 いくとせか 心に かけし 青雲を つひに しらが の 影も はづかし 注 鏡ニ照(てら)シテ白髪ヲ見ル 張九齢(ちょうきゅうれい) 宿昔(しゅくせき)ノ青雲ノ志。 蹉跎(さた)タリ、白髪ノ年。 誰カ知ラン、明鏡ノ裏。 形影(けいえい)自(みすか)ラ相憐ムコトヲ。 かっては輝かしい未来を夢見たが、なすすべもなくうらぶれて今は白髪の年齢になった。 鏡の中を覗きながら、己の姿を嘆くことになろうと、いったい誰が考えただろう。 ・張九齢 中唐の政治家・詩人、韶州曲江(広東省)の人で進士に合格。字は子寿。 ・宿昔 ずっと昔、以前 ・青雲ノ志 立身出世しようとする志、大きな理想 ・蹉跎 つまずいて、思いどおりにならないこと ・形影 自分の体と影、自分と鏡に写った姿
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唐招提寺にて(第2首) あまぎらし まだき も くるる せうだい の
には の まさご を ひとり ふむ かな (雨霧らしまだきも暮るる招提の庭の真砂を一人踏むかな)
歌意 空が曇っているので、まだ夕方ではないのに暗くなった唐招提寺の庭の砂をたった一人で踏んでいることよ。 第一首で詠った暮れゆく唐招提寺の庭の砂を一人踏む。寺院の夕暮れの静寂なひとときが浮かんでくる。砂を踏む音が聞こえてきそうな静かな唐招提寺の歌である。 ずいぶん昔、初めて訪れた平日の唐招提寺に人がなく、蓮の鉢が雑然と並んでいる庭が印象的だったことを思い出す。
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大仏讃歌(第9首) 天平十三年四月聖武天皇諸国に詔して国分寺を建てしめ十五年十月東大寺廬舎那の大像を創めしめたまふその義華厳梵網の所説に拠りたまへるものの如し予しばしば此寺に詣で金容遍満の偉観を瞻仰してうたた昔人の雄図に感動せずんばあらずかつて和歌一首を成せり曰く「おほらかにもろてのゆびをひらかせておほきほとけはあまたらしたり」と今日また来りてその宝前に稽首し退いてさらに十首を詠じ以て前作の意を広めむとす邦家いまや四海に事多し希くは人天斉しく照鑑してこの聖皇の鴻願をして空しからざらしめむことを 昭和十八年三月十一日 あまぎらす みてら の いらか あさ に け に をちかたびと の かすみ と や みむ (天霧らすみ寺の甍朝に日に遠方人の霞とや見む)
歌意 空を一面におおい曇らすような大仏殿の大きな瓦葺の屋根を、遠くの人達は朝も昼も霞のように見ているだろう。 大仏殿の屋根の大きさを「空を覆い曇らす」ようだと詠い、その巨大さを詠って大仏讃歌の一詠とする。
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またある日(第1首) あまごもる なら の やどり に おそひ きて さけ くみ かはす ふるき とも かな (雨ごもる奈良の宿りに襲ひ来て酒酌み交はす古き友かな)
歌意 雨に降られて籠っている奈良の宿に押しかけて来た古い友達と酒を酌み交わすことよ。 大正14年春、45歳の八一は奈良を訪ねて、南京余唱(42首)の27首を一挙に詠みあげる。とりわけ大学同期で互いに「心友」と呼び合った大阪の伊達俊光との酒席は何物にも代え難かっただろう。嬉々とした八一の顔が浮かんでくる。伊達は、若き日の八一が自らの恋の悩みなどを手紙で送っている終生の友である。 伊達俊光は紀州生まれ。早大卒業後、大阪毎日新聞社に入り、後にNHK大阪放送局の文化部長になって関西文化事業に貢献する。ヨーロッパの絵画の解説書やトルストイの「戦争と平和」の翻案本などがある。会津八一の伊達に宛てた書簡類は600通にのぼる。
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吉野の山中にやどる(第3首) あまごもる やど の ひさし に ひとり きて
てまり つく こ の こゑ の さやけさ (雨ごもる宿の廂に一人来て手毬つく子の声のさやけさ)
歌意 雨に降り籠められている宿の廂の下に一人やってきて手毬をつく子の声のすがすがしいことよ。 軒下で毬をつきながら歌う子供の手毬歌のすがすがしさに、山中で雨に閉じ込められた気持が和らいだであろう。また、尊敬する新潟の良寛の歌を想起していたかもしれない。 つきて見よ ひふみよいむな やここのとを とをとおさめて またはじまるを 良寛 「つきて見よ 一二三四五六七八九十を 十とおさめて また始まるを」
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東大寺にて(第2首) あまたたび この ひろまへ に めぐり きて たちたる われ ぞ しる や みほとけ (あまたたびこの広前にめぐり来て立ちたる我ぞ知るやみ仏)
歌意 いくたびもこの大仏殿の前庭にめぐって来て立った私ですが、み仏はこの私をお気づきになられているでしょうか。 何度も何度も訪れた仏の前で「お気づきになっていますか!」と叫ぶ。仏への深い賛美と一体化を願いながらも、そこには「ちかづきて・・・みそなはす とも あらぬ さびしさ」に通じる寂寥感を秘めているようだ。 (写真は平成12年9月東大寺で同行の友人M撮影) 豆本では詞書が以下のようになっている。 「われ奈良にきたりて東大寺の毘慮遮那仏のひろまえにぬかづくこといくばくぞ」 (注 毘慮遮那仏 びるしゃなぶつ=大仏)
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病中法隆寺をよぎりて(第1首) あまた みし てら には あれど あき の ひ に もゆる いらか は けふ みつる かも (あまた見し寺にはあれど秋の日に燃ゆる甍は今日見つるかも)
歌意 いくたびも訪れ見慣れた寺ではあるが、秋の日を浴びて燃えるような甍は今日はじめて見た。 「病中法隆寺をよぎりて」7首の第1首。病身を押して訪れた法隆寺のはじめて見る燃えるばかりの甍を素直な感動として詠む。病身の目から見たこの寺への詠嘆が、次に続く金堂壁画の荒廃への嘆きとして続く。八一自身がこの7首の中で詠んだ壁画は戦後火災にあう。火災に会う前に何度も八一が保全を主張したが、実行されず、火事で大破したのは昭和24年のことである。 八一自註や随筆で聖徳太子が身後の罹災を予知した歌 「斑鳩の宮の甍に燃ゆる火のほむらの中に心は入りぬ」を引用し、この歌の影響を示唆すると共に「燃ゆる」の意味の違いを説明している。 第1首 第2首 第3首 第4首 第5首 第6首 第7首
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大仏讃歌(第2首) 天平十三年四月聖武天皇諸国に詔して国分寺を建てしめ十五年十月東大寺廬舎那の大像を創めしめたまふその義華厳梵網の所説に拠りたまへるものの如し予しばしば此寺に詣で金容遍満の偉観を瞻仰してうたた昔人の雄図に感動せずんばあらずかつて和歌一首を成せり曰く「おほらかにもろてのゆびをひらかせておほきほとけはあまたらしたり」と今日また来りてその宝前に稽首し退いてさらに十首を詠じ以て前作の意を広めむとす邦家いまや四海に事多し希くは人天斉しく照鑑してこの聖皇の鴻願をして空しからざらしめむことを 昭和十八年三月十一日 あまたらす おほき ほとけ を きづかむ と こぞり たち けむ いにしへ の ひと (天足らす大き仏を築かむとこぞり立ちけむ古の人)
歌意 宇宙いっぱいに満ち満ちておられると言う大仏を作ろうと全ての人がこぞって立ちあがったのであろう、古の人達は。 聖武天皇は国家の安寧と統一を意図して国分寺の建設とその象徴である大仏を建立した。それは皆の願いであったと捉えて詠う。
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二上山をのぞみて
あま つ かぜ ふき の すさみ に ふたがみ の
を さへ みね さへ かつらぎ の くも (天つ風吹きのすさみに二上の峰さへ嶺さへ葛城の雲)
歌意 空を吹く激しい風のために、葛城山に湧き出た雲に二上山が覆われてしまった。 二上山の麓にある当麻寺を訪れ、二上山から連なる葛城山脈を遠望すると山の天気の急激な変化を体感できる。当麻寺にいる間に刻々と山上の天気は変化していく。 八一は自註鹿鳴集でこう書いている。“「葛城山は二上山の西に連る。この山は上代に雄略天皇(?-四七九)が、一言主神(ヒトコトヌシノカミ)に遇(あ)ひ、ともに馬を駢(なら)べて田猟せしところといひ、後には役行者(エンノギヤウジヤ)が岩窟に籠もりて練行(レンギヤウ)したるところといひ、常に一種怪異の聯想あり。この山を出でたる白雲が、山腹を葡(は)ひ来りて、やがて二上の全山を埋むるを見て、作者は異様に心を動かして、この一首を成したるなり” 山々を眺め、八一の自註を読むことによって、この難解な歌の歌意が分かる。大和を訪れた作者が伝承を背景に、荒々しい山の変化を歌い上げたこの歌の良さが、静かにゆったりと迫ってくる。
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閑庭(第27首) あめいろ の めだか かはむ と みやこべ に いでて もとめし おほき みづがめ (飴色のめだか飼はむと都辺に出でて求めし大き水瓶)
歌意 飴色のめだかを飼おうと思って東京の町中に出て買ってきたこの大きな水瓶よ。 八一は生きているものをとても大事にし愛しんだ。木や花を育て鳥などを飼った。九官鳥まで飼ったことがある。飴色のめだかは緋メダカのことだろう。
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閑庭(第34首) あめ そそぐ はた の ほそみち なづみ きて あし あらふ らし かど の ゐ の おと (雨そそぐ畑の細道なづみきて足洗ふらし門の井の音)
歌意 雨の降る畑の細道を難儀しながらやって来て汚れた足を洗っているようだ、門の辺りの井戸の音が聞こえる。 雨の降る静かな秋艸堂の部屋に井戸を汲む音が聞こえる。あるいは足洗う水音も聞こえたかもしれない。門下生か家人・きい子であろう。
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聖林寺にて あめ そそぐ やま の みてら に ゆくりなく
あひ たてまつる やましな の みこ (雨そそぐ山のみ寺にゆくりなく会ひたてまつる山階の皇子)
歌意 雨のふりそそぐ山寺の聖林寺で、思いがけなく山階宮の皇子にお会い申したことだ。 まだ身分制度が大きなウエートを占めていた戦前、高貴な身分の方に偶然あった感動を詠んでいる。 この寺の十一面観音は素晴らしく、和辻哲郎はその美を絶賛している。均整の取れた豊潤な美しさは見る者を圧倒する。間近に拝観できるのもよい。
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夢殿の救世観音に あめつち に われ ひとり ゐて たつ ごとき この さびしさ を きみ は ほほゑむ (天地にわれ一人ゐて立つごときこの寂しさを君はほほゑむ)
歌意 この壮大な天地の中にたった一人立っているような想いで見上げる私の寂しさに、みほとけは(慈くしみ深く)ほほえんでおられる。 平易に歌われた一首だが人の心をとらえ揺さぶる。一歩踏み込んで、作者と仏像との間の「さびしさ」と「ほほえみ」を理解する必要がある。天地の中でたった一人立つ寂しさは、同時に救世観音の寂しさであり、作者と観音そのものと渾然一体になっている。観音の持つ寂しさが八一の「さびしさ」を呼び起こしたと言える。 さびしさの「ほほゑみ」について、作者は随筆・渾齋隨筆でこう言う。「目の前に立ち現れた、あの幽玄な美術的表現、観音の慈悲心、聖徳太子の御一生、上宮王家のかなしい運命、或はこの像の秘仏としての久しい伝来などが、錯綜して、この一首の成立を手伝った・・・」 また植田重雄先生は「秋艸道人会津八一の學藝」で歌成立までの推敲と変化を述べ、作者と仏との間の、崇高、寂寥、慈悲一体の境を示す歌と絶賛する。 (大正10年10月) うつしよ に われ ひとり ゐて たつ ごとき この さびしさ を きみ は ほほえむ (大正12年6月) あめ地に我ひとり居て立つ如き此の寂しさをほゝゑみてあり (大正12年9月) あめつちに唯ひとりゐて立つ如き此寂しさをほゝゑみてあり (大正13年12月 南京新唱 春陽堂より出版) あめつち に われ ひとり ゐて たつ ごとき この さびしさ を きみ は ほほゑむ そしてこう展開する。「この歌はいつでもどこでも仏像を仰ぐとき、荘厳と寂寥、慈悲心、人間的関係を喚び醒す力を持っているのではないだろうか。」 「会津八一の生涯」では「道人(八一)にとって伝説の救世観音が聖徳太子と等身であり、太子は観音の化身だった。小主観、小自在を拒絶して、完璧な澄みきった一首が生まれるためには、絶対者としてのみほとけと人間との出会いにすべてが賭けられているのであろう」と述べている。 追記1 喜多上(文芸評論家)の歌の解説 彼は秋艸会報31号(11・3・1)で『「われ」の寂しさは作者・観音の双方とする解釈が一般化していますが、観音に絞ってもよいでしょう』と述べ、歌意を以下のように語っている。 「天地の間で、自分ひとりで立っているようなこのさびしさを、きみは微笑んでおられる。果てのない世界で、自分ひとりが与えて報われずに立っているような衆生済度の寂寥感を、救世観音のきみは微笑んでおられる」 (2011・04・16) 追記2 救世観音について1 法隆寺夢殿の秘仏救世観音像(飛鳥時代)は聖徳太子等身と伝えられている。明治17年、この絶対秘仏を開扉させたのがアメリカ人・フェノロサである。 「もしこれを見なば仏罰たちどころに至り地震たちまち全寺を毀(こぼ)つであろうと抗(あらが)う寺僧を説き伏せて開扉せしめた話は有名である」(吉野秀雄) 巻かれていた白布を取り除いた東洋美術史家のフェノロサは言う。「飛散する塵埃(じんあい)に窒息する危険を冒しつつ、凡そ五百ヤードの木綿を取り除きたりと思ふとき、最終の包皮落下し、此の驚嘆すべき世界無二の彫像は忽ち吾人の眼前に現れたり」(有賀長雄訳) この秘仏は春秋に開帳される。また、救世観音を詠んだ会津八一の歌碑は法隆寺近くの個人の家(原家)に建っている。 (11・04・16) 追記3 救世観音について2 救世観音は聖観音と同じ意味だが、日本にだけある名前だ。「くぜくわんおん」と会津八一は書いているが、「くせ」「ぐせ」「ぐぜ」どの呼び名でも良いようだ。 喜多 上は開帳されている法隆寺夢殿の秘仏救世観音について、フェノロサや八一の言葉を引用して語っている。秋艸会報31号から以下に転載。 「この像は正面から見ると気高くはないが、側面ではギリシャ初期(アルカイック)の美術の高みに達していよう。(中略)しかし、最高に美しい形は横顔の見えにある。鼻は漢人のように高く、額は真直ぐで聡明である。唇は黒人に似てやや分厚く、静かで神秘的な微笑みが漂う(フェノロサ) 動の正面より静の側面を評価し、横顔の神秘の微笑みを絶賛しています。・・・この側面への着目が以後の仏像の見方を変えたといっても過言ではありません。・・・八一もフェノロサの先駆的な仕事を評価し、こう続けています。 “昔の日本人は仏教に対する信仰から、真正面より仏像を礼拝して其有難さも美しさも同時に感じたらしい。然し吾々としてはそれ程の信仰は無いから、側面から見て此像が何程美しくあり得るかを、今一度見なほす余地があるかも知れぬ」 (卓話 會津八一の今日 喜多 上 12月21日 新潟・瑞光寺) (2011・04・24) 追記4 歌碑(原家) 夢殿の救世観音を詠んだ会津八一の歌碑は原家の庭に立っている。 (生駒郡斑鳩町法隆寺北1丁目10番) 歌碑の裏にはこう記されている。 昭和五十四年五月十六日 玉泉 原 與司明 光 子 建立 撰 并 書 宮川 寅雄 刻 工 太田 重喜 用 石 神鍋山麓萬劫石 歌碑の詳細が分からなかったが、今日知り得たことを表記しておく。 (2011・05・13) 原玉泉(與司明) この歌碑を建立した人で、会津八一を尊敬、敬慕した歌人、ずっと公職につかれていた人。自らの歌集を出すかわりに、八一のこの歌碑を建てたという。現在の原さん(玉泉さんの息子)は、次の代になったらうまく残せるか心配で、歌碑を法隆寺に移転した。 (やいちさん提供の資料を参考に 2011・11・10)
法隆寺に原家の歌碑移転 (2014・11・7) 原家の歌碑が法隆寺に移転、夢殿の近くに建立。 左の写真は除幕式に出席した鹿鳴人提供。 (2014・11・7)
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山精(第1首) 七月二十九日さきに童馬山房主人より贈られし歌集「暁紅」をとり出してふたたび読みもてゆくに感歎ますますふかしこえて五日この五首を記して箱根強羅なる山荘にこもれる主人のもとに寄す あめつち の いかなる ちから あともひて この ひとまき の われ に せまれる (天地の如何なる力あともひてこの一巻の我に迫れる)
歌意 天地のどのような力を集め加えて、この一巻の歌集は私の心に迫って来るのであろう。 斎藤茂吉の歌集・暁紅に心打たれて詠った6首を茂吉に送った八一はその内5首を寒燈集に集録した。歌壇では結社も流派ももたなかった八一の鹿鳴集を高く評価した茂吉を敬愛し、感謝の念を持っていた。鹿鳴集後記に言う。“・・・ことに斎藤茂吉氏が、幾度か推輓の筆を執られたるは感激に堪へざるところなる・・・”。
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四月三日神武天皇祭にあたりて(第2首) あめつち の なか つ みくに の くに の ほ と さだめまし けむ かしはら の みや (天地の中つみ国の国の秀と定めましけむ橿原の宮)
歌意 天地の中央にある国の最も優れた所と都を定められたのであろう。橿原の宮を。 戦況が悪化する中で、古事記、日本書紀にある日本神話で登場する神武天皇(日本の初代天皇)の業績を讃え、国の威信を詠う。
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大仏讃歌(第5首) 天平十三年四月聖武天皇諸国に詔して国分寺を建てしめ十五年十月東大寺廬舎那の大像を創めしめたまふその義華厳梵網の所説に拠りたまへるものの如し予しばしば此寺に詣で金容遍満の偉観を瞻仰してうたた昔人の雄図に感動せずんばあらずかつて和歌一首を成せり曰く「おほらかにもろてのゆびをひらかせておほきほとけはあまたらしたり」と今日また来りてその宝前に稽首し退いてさらに十首を詠じ以て前作の意を広めむとす邦家いまや四海に事多し希くは人天斉しく照鑑してこの聖皇の鴻願をして空しからざらしめむことを 昭和十八年三月十一日 あめつち を しらす みほとけ とこしへ に さかえむ くに と しきませる かも (天地を知らすみ仏とこしへに栄えむ国と敷きませるかも)
歌意 天地をお治めになるこの大仏は我が国が永遠に栄えるようにと統治されているのだ。 聖武天皇の大仏建立の理想は国家の安定と永遠の繁栄だった。そのことを戦局が悪化している日本の現状に投影して(自註、注参照)、盧遮那仏を天皇と同一視して戦争への協力を詠っている歌と言える。 注 あめつちをしらすみほとけ (自註) 三千大千世界百億の小釈迦の上に一千の大釈迦あり、その上に盧遮那仏の鎮座したまふを、我が無数国民の上にそれぞれの国司あり、その上に天皇の君臨せさせたまふに比し、以て政教を合一せる統御のの大理想を示したまへるに似たり。この故にこの巨像は天地主催者の象徴とも、また君民一体の象徴とも見るを得べし。歌意ここにあり。
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村荘雑事(第10首) あめ はれし きり の したば に ぬれ そぼつ
あした の かど の つきみさう かな (雨霽れし桐の下端に濡れそぼつ明日の門の月見草かな)
歌意 夜来の雨が上がった桐の木の下の辺りに、しっとりと濡れている朝の 門辺の月見草の花よ。 雨上がりの夏の朝、色鮮やかな黄色の月見草に新鮮な驚きを感じた作者の感動が素直に伝わってくる。雨後の情景は鮮明で美しい。 心地よい調べの中で、朝のすがすがしさと庭の緑、月見草の黄色が印象的である。 「富士には月見草がよく似合ふ」と言った太宰とは違う景色だ。 注 やいちさんから頂いた写真で、平成8年、新潟市の浦山公園に建てられた歌碑です。 (06・10・21掲載)
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薬師寺東塔(第3首) あらし ふく ふるき みやこ の なかぞら の いりひ の くも に もゆる たふ かな (嵐吹く古き都のなかぞらの入日の雲にもゆる塔かな)
歌意 嵐の吹き荒れる古都の中空に、沈む夕日に赤く染まる雲の中で東塔も燃えているようだ。 前作(第2首)の青空を背景にした静かな調べに対して、嵐の中に赤く染まる雲を置いて重厚な声調で塔を歌う。力溢れる作品である。 奈良在住ではないのでこんな風景にはなかなか出会えない。写真家・入江泰吉は二上山の荒れる風景を撮る為に何日も何日も通ったという。 (注 上の写真は筆者の想像で合成して作ったもの) 春日野(八一と杉本健吉の合同書画集)より
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十四日奈良帝室博物館にいたり富楼那の像を見て(第1首) あらは なる その ふところ に もの ありて わく が ごとく に かたり いづ らし (あらはなるその懐に物ありて湧くが如くに語り出づらし)
歌意 胸元もあらわなその懐になにか物があって、そこから湧きだすように弁舌さわやかに語るのであろう。 弁舌に長けた釈迦弟子・富楼那の写実的な彫像を見てその特色を詠った。興福寺にある富楼那画像 植田重雄の“最後の奈良研究旅行”
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折りにふれてよめる(第1首)
あり わびぬ ほとけ いまさば をろがまむ やむ と しも なき よる の まくら に (あり侘びぬ仏いまさばをろがまむ病むとしもなき夜の枕に)
歌意 今は生きていることが辛く侘しい、み仏がいらっしゃるなら一心にお祈りしよう。病気と言うほどではない病で夜、枕に伏しているときには。 いろいろの持病に苦しめられた八一の心情を吐露したものである。しかし、こうした弱音を見せる八一ではなかったので珍しい歌と言える。それ故に八一の辛さがよく伝わってくる。
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平城宮懐古(第2首) あるとき は かの とうざん の うばそく が ぢぶつ の ひかり さし いり に けむ (ある時はかの東山の優婆塞が持仏の光さし入りにけむ)
歌意 ある時は平城宮の東の山で修行する行者の念持仏の光が皇居に射し入ったことであろう。 ありし日の平城宮内の出来事を詠むが、東大寺要録に書かれた故事を知らないとわかりにくい。ただ、古代に対する八一の造詣の深さを思う。
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平城宮懐古(第5首) あるとき は からびと さびて すごろく の さい ふり けらし みやびと の とも (ある時は唐人さびて双六の賽振りけらし宮人の友)
歌意 ある時は唐の人のように振舞って双六の賽を振ったであろう、宮中の貴人たちは。 かって見た正倉院の双六から、当時の貴人たちが宮中で双六を楽しんだだろうと想像して詠う。 注 すごろくのさい (自註) 「すごろく」は漢字「双六」の朝鮮音なりといふ。正倉院北倉の階下には、紫檀木画双六局一あり。その階上には、象牙の双六の頭(さい)六、各色雑玉の双六の子(いし)八十五あり。中倉階下には紫檀木画双六局一、及び頭を入るべき紫檀材に金銀絵を施し銀張にせる筒一あり。みな唐制と見ゆ。制作繊麗にして当時宮闕に於ける貴紳遊戯の状を想像せしむるに足る。
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平城宮懐古(第1首) あるとき は ないだうぢやう に こもり けむ ひびき すがしき そうじやう が こゑ (ある時は内道場に籠りけむ響きすがしき僧上が声)
歌意 ある時は平城宮の内道場に籠って玄昉僧上は経典を講じたであろう。さわやかに響く僧上の声が聞こえてくるようだ。 ありし日の平城宮内の情景を想像し、歌によって目の前に浮かびあがらせる。平城宮懐古第1~5首は「あるときは」で始めて、遠い昔の宮内での出来事を表出する。
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平城宮懐古(第4首) あるとき は まなこ しひたる たうそう に もの たまはりて ねぎらはせ けむ (ある時は眼しひたる唐僧に物賜はりてねぎらはせけむ)
歌意 ある時は渡来中に失明した唐の僧・鑑真に聖武天皇は物を賜ってねぎらわれたことであろう。 苦労して渡来した鑑真への天皇のねぎらいを詠う。八一の頭の中には遠い昔の平城京を巡る出来事が次々と浮かぶのである。 注 まなこしひたるたうそう (自註) 唐招提寺の開祖なる唐の僧鑑真は、渡来の船中にて失明せり。『東征伝』によれば着京の後吉備真備を遣わして口づから勅を伝へしめたまふ。曰く・・・。
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平城宮懐古(第3首) あるとき は みちのくやま に さく はな の くがね いでぬ と とよめき に けむ (ある時は陸奥山に咲く花の黄金出でぬととよめきにけむ)
歌意 ある時は陸奥の山に咲く花のように黄金が産出したことに宮中は大声をあげて喜んだことであろう。 聖武天皇の大仏建立は金の調達に困ったが、陸奥より金が献上された完成へと進んだ。そうした故事を踏まえて詠んでいる。 注 みちのくやまにさくはなのくがねいでぬ (自註) 『続日本紀』巻十七によれば天平二十一年二月陸奥国黄金を出してこれを貢る。『万葉集』巻十八、大伴家持がこの祥瑞を謡へる歌のうちに「みちのくやまにくがねはなさく」の語あり。予が歌に「さくはなの」の「の」は「の如く」の意なり。 注2 大伴家持の歌(万葉集巻18ー4097) すめろきの みまさかえむと あずまなる みちのくやまに くがねはなさく (天皇の御代が栄えるだろうと、東国の陸奥の山に黄金の花が咲く)
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またあるあした(第3首)
あをぞら の かぜ さむ からし まくらべ の
まど の たかき を あかき くも ゆく (青空の風寒からし枕辺の窓の高きを赤き雲ゆく )
歌意 青空に吹く風はきっと寒いだろう。寝ている枕辺の窓から私が見上げる高い空を赤い雲が流れていく。 病臥する枕辺から流れる雲を詠う。窓から外の変化を感じられるほどに病状は良くなったのであろう。実質的な病気の歌はこの第17首で終わる。18~41首は時代の影響を受けた戦争詠である。
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山中高歌(第7首) あをぞら の ひる の うつつ に あらはれて
われ に こたへよ いにしへ の かみ (青空の昼のうつつに現れて我に答えよ古の神)
歌意 青空が広がるこの現実の世界に姿を現して、憂患の中にある私の呼びかけと問いに古代ギリシャの神よ、答えてください。 植田重雄は著書「會津八一の芸術」でこう述べる。『・・・もし神が人間の運命を定めるのであれば、わたしの運命を教えてくれるように、わたしの歩むべき道はどこにあるのか、わたしのとるべき態度はどのようにすべきか、今この現実に語っていただきたい、道人は必死に絶対者に向かって語ったのではないだろうか。「憂患を懐きて此処に来り遊ぶ」と詞書で叙べているごとくである。絶対者としての古代の神への呼びかけは、視覚的なものでなく、内面的な世界である。神仏は人間が求めるような形で答えてはくれない。しかし、見えざるかたちで答えてくれる。ここに至って道人は大自然を呼吸し、天地と契合(けいごう)し、新しい自己の道が拓かれるのを待望する。・・・』 八一自身「コノ歌ハ近時ヨホド得意ノモノニ属ス」と手紙で書いている。これは歌自慢をしているのではなく、悩みを抱えて信濃の大空を見上げた八一が古代の神に問いかけることによって、その後の生き方をつかんだそのことの喜びを言っているのであろう。実際、この後、奈良美術の研究に邁進するのである。 この歌は推敲に推敲を重ねた歌で、山中高歌を代表するものである。
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たはむれに東京の友に送る あをによし なら の かしうま たかければ まだ のらず けり うま は よけれど (あをによし奈良の貸馬高ければまだ乗らずけり馬はよけれど)
歌意 奈良を馬で回ろうと思うが貸馬は高価なのでまだ乗っていない。馬は良いのだけれど。 「たはむれに・・・」に表れているように軽くユーモアのある歌である。当時、中国大陸の交通は馬無しには考えられなかった。そのことを想定して、乗馬の練習をしていたが、結局その希望を果たすことはできなかった。初期に望んだ西洋への留学も諸般の事情で断念しているので、八一にとって海外は縁が無かったと言える。
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銅鑼(第5首) はじめて草盧に奈良美術研究会を開きしより今にして二十年にあまれり身は遂に無眼の一村翁たるに過ぎずといへども当時会下の士にして後に世に名を成せるもの少からずこれを思へば老懐いささか娯むところあらむとす あをによし なら の みてら の ふるがはら たたみ に おきて かたりける かも (あをによし奈良のみ寺の古瓦畳に置きて語りけるかも)
歌意 奈良のお寺の古い瓦を畳の上に置いて、車座になった若者たちに語ったものだ。 八一は言う。「学問をしてゆくに、実物を能く観察して、実物を離れずに、物の理法を観てゆくと云うことは、何よりも大切なことだ。 どれ程理論が立派に出来上がって居ても何所かに、実物を根底にする真実性が含まれて居なければ、即ちそれは空論だ、空学だ。取るに足るものではない」(早稲田大学會津八一記念博物館HPより)、それゆえ、奈良の古い瓦を大切にしたし、また中国の明器や鑑鏡・瓦磚(がせん)のごとき古美術品を数多く購入した。(会津コレクション) 20年前を回想した銅鑼・5首、八一の若者たちに対する愛情と今の孤独が浮かび上がる。
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このごろ(第4首) あをによし なら の みほとけ ひたすらに さきく いませ と いのる このごろ (あをによし奈良のみ仏ひたすらに幸くいませと祈るこの頃)
歌意 空襲が烈しくなる中で、ひたすら奈良のみ仏たちが無事でありますようにと祈る今日この頃である。 奈良の古寺や仏たちを深く愛した八一にとって空襲で喪失することは我が身を割かれるのと同じ思いだった。幸い、古都奈良、京都を愛する米国人の尽力もあり、戦禍を免れた。
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東京にかへるとて あをによし ならやま こえて さかる とも ゆめ に し みえ こ わかくさ の やま (あをによし平城山越えて離るとも夢にし見えこ若草の山)
歌意 平城山(ならやま)を越えて奈良から離れて東京に帰った後も、夢に見えて来て欲しい、若草山よ。 万葉調の調べのよい歌である。初めて奈良を訪れた時(明治41年)に詠んだ作だが、何度も訪れた奈良を心から愛した八一の心情がよく表れている。
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小園(第3首)
あをやぎ の えだ も とををに あわゆき の ふり つむ なべに つゆ と ちり つつ (青柳の枝もとををに淡雪の降り積むなべに露と散りつつ)
歌意 青々とした柳の枝がたわむほどに春の淡雪が積もるが、その度にすぐに溶けて露となって散ってしまう。 庭にある芽が出たばかりの青々とした柳に積もる淡雪の変化をとらえて詠う。積もる間もなく溶ける春の淡雪、その自然の姿に心を動かされたのである。
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別府にて
いかしゆ の あふるる なか に もろあし を ゆたけく のべて ものおもひ も なし (いかし湯の溢るる中に両脚をゆたけく伸べてもの思ひもなし)
歌意 病に効くと言う温泉の溢れるばかりの湯の中に両足をゆったりと伸ばして思いわずらうことは何もない。 大正10年11月20日から3週間あまり別府に滞在する。心と体の病を癒すことも兼ねたこの旅の目的の一つは別府温泉だった。ゆったりと湯につかり、旅の開放感を味わう八一の気持が率直に詠われる。
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これよりさき奈良の諸刹をめぐる(第2首) いかで かく ふり つぐ あめ ぞ わが ともがら わせだ の こら の もの いはぬ まで (いかでかく降り継ぐ雨ぞわがともがら早稲田の子らのもの言わぬまで)
どうしてこのように雨が降り続くのか、私の仲間・早稲田の学生たちがものを言わなくなるほどに。 元気な若者たちが雨にびしょ濡れになり、ものも言わなくなった。八一の愛弟子たちへの思いやりが伝わってくる。
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奈良博物館にて(第4首) いかで われ これら の めん に たぐひ ゐて
ちとせ の のち の よ を あざけらむ (いかで我これらの面にたぐひゐて千年の後の世をあざけらむ)
歌意 なんとかしてこれらの伎楽の面と一緒になって、今から千年後の世の中を軽く見下してやりたいものだ。 博物館にて第3首と合わせないと理解しにくい。“伎楽面が日本に来てから千年以上経っている。その掲げられた高慢に見える面も古びたなあ”に対応して軽く“見下してありたい”と詠った。孤高の人八一ならではの歌である。
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山精(第5首) 七月二十九日さきに童馬山房主人より贈られし歌集「暁紅」をとり出してふたたび読みもてゆくに感歎ますますふかしこえて五日この五首を記して箱根強羅なる山荘にこもれる主人のもとに寄す いかで われ ひとたび ゆきて うつしみ の きみ と あひ みむ あき の ひかげ に (いかで我一度行きてうつしみの君と相見む秋の日影に)
歌意 どうかして私は一度行って、現実のあなたとお会いしたい。秋の日差しの下で。 かねがね会いたいと思っていた八一だが、実際の面会は9ヶ月後の昭和20年4月7日、青山の堂馬山房だった。直後に秋艸堂が空襲で焼けて新潟に疎開、また堂馬山房も5月25日に罹災し、茂吉は山形に疎開した。2人が対面したのはこの1回と思われる。 この贈歌「山精」に対する返歌5首が斎藤茂吉歌集・小園に収められている。
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法隆寺村にやどりて いかるが の さと の をとめ は よもすがら きぬはた おれり あき ちかみ かも
歌意 斑鳩の里の娘たちは夜が更けるまで機を織っている。秋が近づいたからであろうか。 明治41年、28歳の田舎の中学の英語教師八一は初めて奈良を訪れる。法隆寺は修学旅行生の砂ぼこりが舞うような世俗化したものではなかった。廃仏毀釈の影響で訪れる人も少ない閑散とした村の中にあった。夢殿に近い宿屋に泊まった夜、境内を散策する八一は機織の音に心を打たれる。甘酸っぱい青春の思いと古代への憧憬が若い乙女を通して歌い上げられている。 追記 歌碑建立 平成24年11月6日、斑鳩町法隆寺南の上宮(かみや)遺跡公園に奈良の19基目の歌碑として建立された。 「写真は奈良の友人・鹿鳴人提供」
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御遠忌近き頃法隆寺村にいたりて(第2首) いかるが の さとびと こぞり いにしへ に よみがえる べき はる は き むかふ (斑鳩の里人こぞり古によみがへるべき春は来向ふ)
歌意 斑鳩の里の人々みんなが、遠い昔(太子の時代)の気持になる春が祭とともにやってきた。 聖徳太子千三百年忌を前に読んだ4首の第2首、50年に一度のお祭の準備がすすむ里の様子を季節感と共にとらえる。里人全員の心が「上代の気分に立ち還(かえ)る」と、太子への思いを詠む。 (参照 第1首 第3首 第4首)
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大和安堵村なる富本憲吉の工房に立ちよりて いかるが の わさだ の くろ に かりほ して はに ねらす らむ ながき ながよ を (斑鳩の早稲田の畦に仮庵して埴ねらすらむ長き夜を)
歌意 斑鳩の早稲の田んぼのほとりに仮の庵をつくり、陶土を捏(こ)ねているのだろう、秋の夜長に。 鹿鳴集・旅愁は19首、その17首目にこの歌があり、作者は明治40年から大正15年(1926年)までの作と書いている。おそらく大正10年代の作と思われる。(下記注参照) まだ世に知られる存在ではなかった奈良時代の富本憲吉へのほのぼのとした親しみが詠われている。ただ、後の昭和4年(1930年)、秋艸堂諸事雑用引受け執事と自称していた料治熊太(りょうじ・くまた)宛の文章で八一は富本の芸術観を批判している。(富本憲吉の芸術観・八一全集11巻参照) 5月、富本憲吉記念館(平成24年5月31日閉館)を訪れた時の素晴らしい作品と館関係者の親切な解説はとても良かった。 注 富本憲吉(1886―1963) 陶芸家。奈良県生駒郡安堵町生まれる。大学卒業後ロンドン留学。1913年、東京から帰り、故郷の裏庭に簡単な窯を作り楽焼作りを始める。陶芸の時代を区分して、1926年までを大和時代、1945年までを東京時代、その後を京都時代と言う。白磁、染付、色絵などの意匠・造形に意を注ぎ、とくに色絵磁器に新境地を切り開く。1955年に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。代表作に『色絵金彩羊歯文飾壺(しだもんかざりつぼ)』がある。
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山鳩(第10首) いくたび の わが いたづき を まもり こし なれ なかり せば われ あらめ や も (いく度のわがいたづきを守りこしなれ無かりせば我れあらめやも)
歌意 幾度もの私の重い病いの看病を続けたお前がいなかったなら、私は生きていただろうか、生きてはいなかっただろう。 きい子を死なせたことへの八一の後悔は続く。学者として、また歌人、書家として太成した会津八一 は、この頃の献身的なきい子の存在なしにはありえなかったのだ。
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平城宮懐古(第7首) いくたび を われ また きたり この をか の みくさ の うへ に もの おもはめ や (幾度を我また来たりこの丘のみ草の上に物思はめや)
歌意 この後、私はこの平城宮址に何度も来て、この丘の芝草の上で物思いすることがあるだろうか。 今後も宮址に来て古代を偲ぶことができるだろうかと不安と疑問を以て平城宮址13首を終わる。昭和18年3月は戦局が悪化し、国家の先行きもあるが、奈良のさらなる荒廃も考えたであろう。この時、八一は63歳、この時代に決して若いとは言えない年齢であった。 なお、平城宮址を詠んだ歌、鹿鳴集・南京新唱の歌2首も参照して欲しい。 平城京址の大極芝にて はたなか の かれたる しば に たつ ひと の うごく とも なし もの もふ らし も 第1首 はたなか に まひ てり たらす ひとむら の かれたる くさ に たち なげく かな 第2首
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新に召に応ずる人に(第3首) いくとせ の いのち まさきく この かど に きみ を し またむ われ おいぬ とも (幾年の命真幸くこの門に君をし待たむ我老いぬとも)
歌意 何年ものこの戦争で命を落とすことなく無事に帰って来る君をこの門のところで待っている。たとえ私が老いようとも。 何年経とうと無事帰って来る教え子を私は年をとろうとも待っている、そして共に学ぼう、と言う。教え子を思う気持ちと学に志した八一の固い決意を見る事ができる。
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新に召に応ずる人に(第2首) いくとせ の おほみいくさ を かへり きて また よみ つがむ いにしへ の ふみ (幾年の大御軍を帰りきてまた読み継がむ古の文)
歌意 何年もの戦いを生きて帰り、また読みさしの古書を共に読み継ごうではないか。 学の途中で戦地に赴く若者(第1首)に願いを込めて詠う。何年続くか分からない戦争だけど、戦争が終わり無事に帰ってきたら、また学の道を共に進もう。言外に死んではならないと強い思いがこもっている。 学徒出陣で学生代表はこう宣言した「生等(我ら)いまや見敵必殺の銃剣をひっさげ、積年忍苦の精進研鑚をあげて、ことごとくこの光栄ある重任に捧げ、 挺身をもって頑敵を撃滅せん。生等もとより生還を期せず」 “生等もとより生還を期せず”と言う時代に“無事に帰ってきて”と詠む八一の真情が胸を打つ。
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閑庭(第45首) いくとせ の このは ちり つむ にはかげ の つち の ごとく に われ おい に けむ (幾年の木葉散り積む庭陰の土のごとくに我老いにけむ)
歌意 幾年の間、木の葉が散り積もってできた庭陰の土のように私は老いてしまったのであろう。 前歌(第44首)とともに敗戦間近の暗い世相の中で老いと向き合い、下落合秋艸堂を回想しながら閑庭45首を終わる。 故植田重雄は“會津八一の生涯”でこう書いている。「孤独と寂寥の影が濃い。急迫した時局の中で、昔の追憶の糸をたどればたどるほど、耐えがたい孤独の侘びしさとなった。この戦争末期ほど、道人が孤独に生き、それに耐えたときはないといってよい」。
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大仏讃歌(第7首) 天平十三年四月聖武天皇諸国に詔して国分寺を建てしめ十五年十月東大寺廬舎那の大像を創めしめたまふその義華厳梵網の所説に拠りたまへるものの如し予しばしば此寺に詣で金容遍満の偉観を瞻仰してうたた昔人の雄図に感動せずんばあらずかつて和歌一首を成せり曰く「おほらかにもろてのゆびをひらかせておほきほとけはあまたらしたり」と今日また来りてその宝前に稽首し退いてさらに十首を詠じ以て前作の意を広めむとす邦家いまや四海に事多し希くは人天斉しく照鑑してこの聖皇の鴻願をして空しからざらしめむことを 昭和十八年三月十一日 いくとせ の ひと の ちから を ささげ こし おほき ほとけ は あふぐ べき かな (幾年の人の力を捧げこし大き仏は仰ぐべきかな)
歌意 1200年と言う長い年月、人々が敬いたてまつってきたこの大仏は仰ぎ尊ぶべきだ。 目の前の古代から受け継いだ大仏は仰ぎ尊ぶべきだと力強く詠う。八一の大仏に対する賞賛、敬慕は揺るぎない。
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三月十五日大鹿卓とともに平城の宮址に遊び大極の芝にて(第6首) いくむら の みささぎ まろく つらなれる ふるき みやこ の きたやま の そら (幾群の御陵まろく連なれる古き都の北山の空)
歌意 いくつもの天皇・皇后の御陵が丸く連なっている古い都の北山の空よ。 第5首では平城宮址の南の方の農夫を詠み、ここでは北に広がる御陵を題材にする。5,6首で宮址を中心にした世界を詠いだした。
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三月十五日大鹿卓とともに平城の宮址に遊び大極の芝にて(第1首) いこまね を そがひ に み つつ めぐり こし むぎ の なか なる ひとすぢ の みち (生駒嶺を背向に見つつ巡りこし麦の中なる一筋の道)
歌意 生駒山を後方に見ながらこの平城京址まで巡ってきた青い麦畑の中の道よ。 大仏讃歌10首を東大寺に献納した後、門下生と2人、平城宮址を訪れる。古代への憧憬が深い八一は平城宮の歌13首を連作する。生駒山を背後にした麦畑の一本道と広大な宮址の情景が目の前に浮かびあがって来るようだ。
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歌碑(第2首) 「ちかづきてあふぎみれどもみほとけのみそなはすともあらぬさびしさ」といふは新薬師寺香薬師を詠みしわが旧作なりちか頃ある人の請(こい)にまかせて自らこれを書しこれを石に刻ましめその功もまさに畢(おわ)りたれば相知る誰彼を誘ひ行きてこれを堂前に立てむとするに遽(にわか)に病を得て発するを得ずたまたま寺僧の拓して送れる墨本を草廬の壁上にかかげしめわづかにその状を想像して幽悶を慰むるのみいよいよ感應の易(やす)からざるをさとれり いしきり の いかなる をぢ か わが うた を くちずさみ つつ ほり つぎ に けむ (石切の如何なるをじか我が歌を口ずさみつつ彫りつぎにけむ)
歌意 石工のどのような老翁だったのだろうか。私の歌を口ずさみながら彫り続けたのであろう。 奈良・新薬師寺の歌碑建立に病気で参列できなかった八一は石工の製作過程に思いを馳せる。歌碑完成への喜びが伝わって来る。
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歌碑(第3首) 「ちかづきてあふぎみれどもみほとけのみそなはすともあらぬさびしさ」といふは新薬師寺香薬師を詠みしわが旧作なりちか頃ある人の請(こい)にまかせて自らこれを書しこれを石に刻ましめその功もまさに畢(おわ)りたれば相知る誰彼を誘ひ行きてこれを堂前に立てむとするに遽(にわか)に病を得て発するを得ずたまたま寺僧の拓して送れる墨本を草廬の壁上にかかげしめわづかにその状を想像して幽悶を慰むるのみいよいよ感應の易(やす)からざるをさとれり いしきり の のみ の ひびき の いくひ ありて いし に いり けむ あはれ わが うた (石切の鑿の響きの幾日ありて石に入りけむあはれ我が歌)
歌意 石工の鑿で刻む音が何日続いて石に刻み込まれたのだろう、ああ、私の歌は。 八一にとって初めての歌碑、その喜びが製作過程を想像してしみじみとした感動として詠みだされた。結句で「ああ、私の歌は」と気持が高揚する。
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歌碑(第7首) 「ちかづきてあふぎみれどもみほとけのみそなはすともあらぬさびしさ」といふは新薬師寺香薬師を詠みしわが旧作なりちか頃ある人の請(こい)にまかせて自らこれを書しこれを石に刻ましめその功もまさに畢(おわ)りたれば相知る誰彼を誘ひ行きてこれを堂前に立てむとするに遽(にわか)に病を得て発するを得ずたまたま寺僧の拓して送れる墨本を草廬の壁上にかかげしめわづかにその状を想像して幽悶を慰むるのみいよいよ感應の易(やす)からざるをさとれり いしぶみ に きざめる うた は みほとけ の には に はべりて のち の よ も みむ (碑に刻める歌はみ仏の庭に侍りて後の世も見む)
歌意 石碑に刻まれた私の歌はみ仏の庭に控えて、後の世の人もみることであろう。 奈良の新薬師寺の石碑の私の歌はずっと仏のそばで訪れる人を待ち、後世の人も読むだろう、読んで欲しいと願う。筆者はまさに後世の人であり、この歌碑を見たいがために新薬師寺を訪れ、また歌碑に影響を受けて香薬師像を彫った。
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讃岐の海岸寺にやどりて病める北川蝠亭によみて送る いそやま の あをばがくり に やどり して よる の うしほ を きき つつ か あらむ (磯山の青葉が庫裏に宿りして夜の潮を聞きつつかあらむ)
歌意 磯辺にある山の青葉の繁った海岸寺の庫裏に病で泊まっている君は夜更けの潮の音を聞いているのであろう。 八一は病に伏す北川蝠亭を思いやって詠った。蝠亭を評価しその陶印を広く師友に紹介したと言う。書家・八一は篆刻や印に造詣が深く、自ら彫ることはなかったが、そのこだわりと理論は一流で、多くの印を作っている。
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勝浦の浜にて(第1首) いそやま や けさ みて すぎし しろうし の くさ はみて あり おなじ ところ に (磯山や今朝見て過ぎし白牛の草食みてあり同じ所に)
歌意 磯辺にある山で今朝草を食べていた白い牛が帰る頃にも同じ場所で同じように草を食べている。 のんびりとした放牧の牛の姿を詠んで、悠然とした房総半島の自然を描写した。房総半島は八一にとって思い出深い土地である。学生時代の20代後半、恋人・渡辺文子(画家)達と良く出かけた。また、その後英語教師として赴任した有恒学舎時代、明治40年夏にも訪れている。この時、彼女との愛は破綻していたようだ。大正9年には健康を害して九十九里片貝村から勝浦に行っている。
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観世音寺の鐘楼にて(第2首)
いたづき の たぢから こめて つく かね の ひびき の すえ に さぎり は まよふ (いたづきの手力こめて撞く鐘の響きの末にさ霧は迷ふ)
歌意 病身の身ではあるが力いっぱい鐘を撞いた、その鐘の響きが消えてしまうあたりに夕霧が立ちさまよっている。 菅原道真が聞いたであろう鐘(第1首)を、病気ではあるが力いっぱい撞いた。「菅公も鐘の響きをお聞きください(第3首)」と願った鐘音もはるか彼方の夕霧と紛れるようにして消えていく。旅愁の漂う歌である。
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病中法隆寺をよぎりて(第3首) いたづき の まくら に さめし ゆめ の ごと かべゑ の ほとけ うすれ ゆく はや (いたづきの枕に覚めし夢のごと壁絵の仏うすれゆくはや)
歌意 病床の枕で目覚めた時のおぼろげになってゆく夢のように、金堂の壁画の仏たちは色あせ、落剝し、薄れてゆくことであるよ。 持病の腎臓炎で療養していた八一は完治を待たずに法隆寺を訪れる。壁画への異常なまでの執念が、薄れゆく夢との比喩で荒廃する壁画への哀惜をいやが上にも際立たせる。奈良博物館で開催されている法隆寺金堂展で再現壁画を見ることができる。また、ネット上の東京大学総合研究博物館で壁画を参照できる。 第1首 第2首 第3首 第4首 第5首 第6首 第7首 注 かべゑ(自註鹿鳴集) この集中には、壁絵を「かべゑ」「かべのゑ」また「かべのふるゑ」など詠めり。されど直ちに「へきぐわ」と読むことを厭ふにはあらず。その場合としての音調のためなり。
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山鳩(第11首) いたづき の われ を まもる と かよわ なる なが うつせみ を つくしたる らし (いたづきの我を守るとか弱なる汝がうつせみを尽くしたるらし)
歌意 幾度もの私の重病の看病を続けてくれたか弱いお前がいなかったなら、私は生きていただろうか、生きてはいなかっただろう。 きい子の献身的な看病が無かったならば、八一の今は無い。お前の命と引き換えに私の命があると絶唱するこの歌は、きい子への最高の感謝と言ってよい。
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山鳩(第5首) いたづき を ゆきて やわせ と ふるさと の いなだ の かぜ を とめ こし もの を (いたづきを行きてやわせと故郷の稲田の風をとめこしものを)
歌意 病気の身を都会から離れて和らげるようと、故郷の稲田の心地よい風を求めてやってきたのに、もうお前はいないのだ。 空襲で焼け出されて故郷を頼ってきたのだが、それはまた結核のきい子にはよい環境でもあった。ただ、戦時下で手厚い医療も行きとどいた看病もできなかった。きい子の死への悔恨の念がさらに深まる。
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八月二十三日友人山口剛を誘いて大塚に小鳥を買ふ(第3首)
いたり つく とりや が みせ の ももどり の もろごゑ しぬぎ こま ぞ なく なり (至り着く鳥屋が店の百鳥も諸声しぬぎ駒ぞ鳴くなり)
歌意 鳥屋に着くと沢山の鳥が一斉にそれぞれ鳴いているが、その鳴き声をしのいで駒鳥が高い美しい声で鳴いている。 期待を込めて鳥屋にたどり着いた時の光景が的確に再現される。八一は鳥に詳しく、高らかに鳴く鳥が駒鳥であることをよく知っていた。素空も子供の頃に鳥屋に行き、文鳥や十姉妹を眺めるのが好きだったし、竹の籠にいれて小鳥を飼うのは楽しかった。
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三日榛名湖畔にいたり旅館ふじやといふに投ず(第1首) いたり つく やま の みづうみ おほなら の ひろは ゆたけく かげろへる かも (到り付く山の湖大楢の広葉ゆたけくかげろへるかも)
歌意 ようやく山の湖に着くと大楢の木々の広葉が豊かに勢いよく繁っていて、日の光にきらめいている。 第4首まで楢の木に関連して詠う。山道を登ってたどり着いた榛名湖畔の初夏の楢の葉は豊かに瑞々しく育っている。目の前に広がる湖と楢の若葉が読者の前に浮かんでくる。
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大仏讃歌(第4首) 天平十三年四月聖武天皇諸国に詔して国分寺を建てしめ十五年十月東大寺廬舎那の大像を創めしめたまふその義華厳梵網の所説に拠りたまへるものの如し予しばしば此寺に詣で金容遍満の偉観を瞻仰してうたた昔人の雄図に感動せずんばあらずかつて和歌一首を成せり曰く「おほらかにもろてのゆびをひらかせておほきほとけはあまたらしたり」と今日また来りてその宝前に稽首し退いてさらに十首を詠じ以て前作の意を広めむとす邦家いまや四海に事多し希くは人天斉しく照鑑してこの聖皇の鴻願をして空しからざらしめむことを 昭和十八年三月十一日 いちいち の しやか ぞ いませる 千えふ の はちす の うへ に たかしらす かも (いちいちの釈迦ぞいませる千葉の蓮の上に高知らすかも)
歌意 台座の蓮弁の一葉一葉に釈迦がおられるその千の蓮弁の上の大仏は三千世界を立派に治めておられるのだ。 大仏の台座の蓮弁それぞれに釈迦がいる広大な世界が描かれている。それが千あると言い、その上にいる大仏の素晴らしさを詠む。大仏の姿と力をわかりやすく単純化している力量に感心する。なお、理解を助けるために下記注で八一の自註の一部を掲載する。 注 いちいちのしやかぞいませる千えふのはちす (自註) これらの歌は、所謂蓮華蔵世界、三千大千世界の説に基きて詠めり。・・・・・ すなわち盧遮那仏が座したまへる蓮台には、一千の華弁ありて、一弁は自ら一世界を成し、その一世界ごとに、盧遮那仏の化身たる一体の大釈迦おはしまし、この大釈迦の座下には、百億の国土ありて、さらにその化身たる百億の小釈迦、おのおのこの国土にいまし、おのおの菩提樹の下に坐して成仏したまふこと、猶ほ我等の世界に於ける釈迦如来の如しといふなり。しかしてその一弁の世界なる百億の国土を大千世界といふ。その構想の雄渾にして壮大なること、また比すべきもの無けむ。真に驚くべし。 今わが東大寺大仏殿にて、その蓮台に攀ぢて仔細に見るに、華弁は正副二十八葉に過ぎざれども、けだしこれを以て千葉の蓮華蔵世界を代表せしめたりと見るべく、各葉の大釈迦の座下を二十五段に分ち、そこに多数の堂塔仏像あり、尚ほ其下に須弥山及び日月等をも鏤刻したるは、即ちかの大千世界を現したるものと見るべし。 また良寛の歌に あわゆきのなかにたちたる といへる「みちおほち」は、すなはち、この「三千大千」を和風に訓み下したるらしきも、この訓み方は果して良寛の創意に出づるや否やを知らず。
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柿若葉(第4首) 新潟市はわがためには故郷なれども今はたよるべき親戚も無ければ北蒲原郡西条なる丹呉氏の宗家をたづねて身を寄すすでに亡きわが父も幼時この家に扶養を受けられたることなどしみじみ思ひ出でて眼に触るるものすべてなつかし いちじろく ひとき の つぼみ さしのべて あす を ぼたん の さかむ と する も (いちじろく一木の蕾さし伸べて明日を牡丹の咲かむとするも)
歌意 ひときわ目立って一本の蕾を伸ばして、明日には牡丹の花が咲こうとしている。 牡丹は時が来るとわずかな時間で茎を伸ばし、蕾を膨らませる。見る者に開花の期待を大きくさせる。そして、咲いた大輪の花はとても豪華で美しい。
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十一日まづ東大寺に詣でまた春日野にいたる同行の学生に て近く入営せむとするもの多く感に堪へざるが如しすなはち そのこころを思ひて(第1首) いで たたむ いくひ の ひま を こぞり きて かすが の のべ に あそぶ けふ かな (出で立たむ幾日の暇をこぞりきて春日の野辺に遊ぶ今日かな)
歌意 学徒出陣で出征するまでの幾日かの暇を、学生たちが皆集まって来て春日野の野辺に遊ぶ今日の日なのだ。 出征する学生たちへの深い思いを込めた春日野7首の第1首である。この最後の奈良旅行は昭和18年11月11日から22日までだった。12月1日は最初の学徒兵入隊となっていた。 このあたりの事情は旅行に参加した植田重雄の“最後の奈良見学旅行”を参照。
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十七日桜井の聖林寺にいたりつぎに室生寺にいたる(第1首) いで たたむ わくご が とも と こえ くれば かはなみ しろし もみぢ ちり つつ (出で立たむ若子が友と越え来ればか川波白し紅葉散りつつ)
歌意 この奈良旅行を最後に出征する若い学生たちと山を越えてくると白く波立つ川面に色鮮やかな紅葉が散っている。 白く波立つ川、そこに鮮やかな紅葉が散っている情景を表現しながら、戦地へ出て行く教え子たちへの思いを詠む。第1首は惜別の歌の始まりである。 植田重雄の“最後の奈良見学旅行3”
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枕頭(ちんとう)(第2首)
いで はてて をのこ ともしき ふるさと の みづた の おも に とし は き むかふ (出で果てて男乏しき故郷の水田の面に年は来向ふ)
歌意 戦争に出つくして男手が少なくなった故郷新潟の水田の上にも新年はめぐって来るのだ。 眠れぬままに故郷新潟の新年を思う。日中の戦争が泥沼化する中で現実を素直に詠んだだけだが、当時の歌壇では反戦的と非難する者もいた。八一は決して反体制的な人間ではなかったが、道理、理屈の通らないことは嫌いだった。戦時下で戦争協力的な歌もわずかにあったが(戦後、歌集からは削除)、むしろ出陣して行く門下生や教え子に生きて帰って学問の道に戻るようにと語っている。
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三月二十八日報ありちか頃その寺に詣でて拝観するに香薬師像の たちまち何者にか盗み去られて今はすでにおはしまさずといふを 聞きて詠める(第4首) いでまして ふたたび かへり いませり し みてら の かど に われ たちまたむ (出でまして再び帰りいませりしみ寺の門にわれ立ち待たむ)
歌意 二度の盗難にあわれ、寺から離れられたみ仏ですが、二度とも無事にお帰りになりました。(今回の)三度目の盗難から無事にお戻りになられることを寺の門に立ってお待ちしています。 八一は自註に「この像はさきに盗難にかかること二回なれども、多少の損傷はともかくも、二回ともにめでたく寺中に戻りたまえり」と書いている。盗んだ犯人はこの銅造の香薬師仏を金で作られていると勘違いしたらしく、確認のため右手首を切り落としたと言う。その時は数日して畑の中から出てきている。 八一は亀井勝一郎の対談でこんな話をしている。 『・・・何時も私の行った後で盗まれた。それが三度もあった。私も連累ではないかと怪しまれやしないか。』 会津 『あの仏像を見ていると盗みたくなりますね。』 亀井 『そうなんです。盗難にあった後、・・・吉井勇が「香薬師もとの御堂に還れよと秋艸道人歌よみたまえ」などと書いている。私は失くなられる度に因縁が深い。』 会津 (左の写真は早大文学部所蔵のレプリカ)
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山鳩(第1首) いとのきて けさ を くるし と かすか なる その ひとこと の せむ すべ ぞ なき (いとのきて今朝を苦しとかすかなるその一言のせむすべぞなき)
歌意 とりわけ今朝は苦しいとかすかな声で告げるのだが、その一言に対して私はもう何もしてやれることがないのだ。 空襲の東京を逃れ、故郷新潟へ。開放性の咽頭結核だった養女・きい子の病状が悪化したため、疎開先の屋敷から村はずれの観音堂にリヤカーで運んだのは7月3日、その一週間後の10日に亡くなる。もう何もしてやれなくなった八一の切々とした悲しみが伝わってくる。 山鳩21首は序と共に屈指の挽歌である。
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またある日(第2首) いにしへ に わが こふ らく を かうべ に こ おほさか に こ と しづこころ なき (古に我が恋ふらくを神戸に来大阪に来としづこころなき)
歌意 強い思いで遠い昔のことに取り組んでいるのに、神戸に来い、大阪に来いと友人たちが言うので心が落ち着かない。 古代憧憬の念が強い八一はそのために奈良を訪れている。旧知の友人たちの誘いを煩わしいと詠っているが、その誘いが嬉しいのである。 第1首で触れたように大阪の友人は、大学以来の無二の親友・伊達俊光であり、神戸の人は若き日の恋人・亀高文子(旧姓渡辺)である。画家・渡辺文子との恋は成就しなかったが、この頃、再婚して神戸に住む文子の家庭にたびたび出入りしている。八一の生涯独身の理由の一つは文子とのことにあったと推測できるのではなかろうか。
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仏足堂にて いにしへ の うた の いしぶみ おしなでて かなしき まで に もの の こほしき (古の歌の碑押しなでて悲しきまでにものの恋しき)
歌意 昔の仏足跡歌碑を手で撫でさすっていると、いとおしく、悲しいまでに古のものが恋しくなってくる。 黒光りし緻密で硬い(黝黒堅緻)石を撫でながら、古代を偲び、感慨にふける八一であった。 植田重雄の“最後の奈良研究旅行”
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十一日まづ東大寺に詣でまた春日野にいたる同行の学生に て近く入営せむとするもの多く感に堪へざるが如しすなはち そのこころを思ひて(第2首) いにしへ の おほみいくさ に いでましし かみ の やしろ と をろがみ たつ も (古の大御戦に出でましし神の社とをろがみ立つも)
歌意 大昔の戦争にお出になられた神々を祭る春日神社に学生たちは武運長久を祈って立っている。 出征する学生たちは先ず、春日大社で戦いでの武運を祈る。その姿を八一はどんな思いで見ていたのであろう。生きて帰ってまた学問に励んで欲しいと心で思っただろうし、別れを告げる植田重雄には「どんな戦場でも歌を詠め、歌を忘れるな」と言っている。 植田重雄の“最後の奈良見学旅行” 注 おほみいくさにいでまし (自註) 春日神社の祭神四座のうち、第一殿は武甕槌命(たけみかづちのみこと)、第二殿は経津主命(ふつぬしのみこと)、第三殿は天児屋根命(あめのこやねのみこと)にして、いづれも天孫降臨前後の征戦に活躍したる著名の神将なればかく詠めり。
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偶感(第3首) いにしへ の かみ も そぞろに おどろかむ くぬち こぞれる ひと の ちから を (古の神もそぞろに驚かむ国内こぞれる人の力を)
歌意 古の神々もとても驚かれたであろう。国中こぞって立ち上がり戦争を遂行する人々の力を。 敗色濃くなった戦局のを十分認識していたであろうが、時代を投影した国威高揚の歌にすぎない。
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自性寺(じしようじ)の大雅堂にて(第2首)
いにしへ の くしき ゑだくみ おほ かれど きみ が ごとき は わが こひ やまず (古の奇しき絵だくみ多かれど君がごときは我恋ひやまず)
歌意 古の優れた絵師は沢山いるけれども、あなたのような素晴らしい方を私はいつも恋しく思っている。 池大雅礼讃の歌だが、自性寺の大雅堂にて全4首を鑑賞すれば、この大雅と対等な立場で詠っていることがわかる。大雅こそ私が認める稀なる芸術家だと言うことは、八一もまた大雅のレベルの人間である、あるいはなるであろうという気概が表れている。
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やがて紀元節も近づきければ古事記の 中巻なる神武天皇の条を読みて(第8首)
いにしへ の ちしほ ながれて いま も かも
うだ の くさね の いろ に いづ らし (古の血潮流れて今もかも宇陀の草根の色に出づらし)
歌意 神武天皇暗殺を狙ったが反対に殺された兄宇迦斯(えうかし)の流された血潮で染まった宇多の血原、そのためだろうか今も宇多の草は赤く染まるらしい。 古事記の逸話を詠んだもの。第18首から第32首までは戦後一度削除し、後に復活したものである。
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大宰府のあとにて
いにしへ の とほ の みかど の いしずゑ を くさ に かぞふる うつら うつらに (古の遠の御門の礎を草に数ふるうつらうつらに)
歌意 遠い昔の都から離れたこの大宰府跡の礎石を草の中にぼんやりとして数えている。 |
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奈良にて いにしへ の なら の みやびと いま あらば
こし の えみし と あ を ことなさむ (古の奈良の宮人今あらば越の蝦夷と吾をことなさむ)
歌意 昔の奈良朝廷に仕えた宮人がもし今いるならば、私のことを越(こし)の夷(えみし)がやってきたと言って大騒ぎするだろう。 明治24年、初めて奈良を訪れた時に、「法華寺途上旧都のあとを望みて」の題で詠まれた歌である。後にこの「奈良にて」の題で、鹿鳴集刊行時その中の南京新唱に加えられた。平城宮址を眼前にして在りし日を想像しながら、新潟出身の大柄な我が身のことを滑稽味を加えて詠った。 「吾を言(こと)なさん」(評判にする、言い騒ぐ)は万葉集に数例あると八一自身が自註で書いている。
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明王院(第9首) いにしへ の ひじり の まなこ まさやかに かく をろがみて ゑがき けらし も (古の聖の眼まさやかにかくをろがみて描きけらしも)
歌意 その昔の聖、円珍の眼ははっきりとこの絵のように不動明王を見て、拝みながら描いたのだなあ。 赤不動の歌は智証大師円珍が比叡山の横川の滝で修行中に感得した不動明王の姿を描かせたと言う伝説を背景にする。八一自身も横川の滝の円珍の位置に立って赤不動に見入っている。(下記前書を参照) 注 前書 十九日高野山明王院に於て秘宝赤不動を拜すまことに希世の珍なりその図幽怪神異これに向ふものをして舌慄へ胸戦き円珍が遠く晩唐より将来せる台密の面目を髣髴せしむるに足る予はその後疾を得て京に還り病室の素壁に面してその印象を追想し成すところ即ちこの十一首なり。 語句解説
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自性寺(じしようじ)の大雅堂にて(第4首)
いにしへ の ひと に あり せば もろともに もの いは まし を もの かか まし を (古のひとにありせば諸共にもの言はましをもの書かましを)
歌意 もしも私があなたと同時代の人間であったなら、一緒に書画について語り合い、書きたかったのに。 八一がこれほどに評価する芸術家は珍しい。そして共に語り、書きたいと詠む上は自らを大雅と競い合う力量が備わっているいう自負の心があるのだろう。こうした気概が後の歌人、書家としての八一を形成していく。
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新に召に応ずる人に(第1首) いにしへ の ふみ よみ すてて みいくさ に いで たつ ひと の あご の そりぐひ (古の文読み捨ててみ戦に出でたつ人の顎の剃りぐひ)
歌意 読みかけの古典を捨て置いて、戦に出て行こうとする若者の顎の剃り跡に少し伸びた髭よ。 共に古典を読んでいた教え子が、書(学問)を捨てて戦場に行く。別れの挨拶に来た若者の顎の剃り跡を印象的に詠う。第1首は戦地へ向かう死を覚悟した教え子との暗く重い別れを平明に詠うが、そこには深い思いやりがある。
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山中高歌(第6首) いにしへ の ヘラス の くに の おほがみ を
あふぐ が ごとき くも の まはしら (いにしへのヘラスの国の大神を仰ぐがごとき雲の真柱)
歌意 古代ギリシャの偉大なゼウスの神像を仰ぎ見るような雲の柱であることよ。 八一は古代ギリシャに憧れ、少しの間だったが「古代希臘学会」(大正五年)を設立して活動する。この後、視点は奈良美術に変わっていくが、ギリシャに関する造詣は深い。 早稲田中学での内紛、持病のリウマチで疲れた八一にとって、眼前の積乱雲はギリシャ神話の神の出現のように見えた。あるいはそれを希望していたかもしれない。
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香具山にのぼりて(第5首) いにしへ を ともらひ かねて いき の を に わが もふ こころ そら に ただよふ (古をともらひかねて息の緒に我が思ふ心空に漂ふ)
歌意 遠い古代を追懐し、弔おうと思っても弔いきれないで、命にかけて思う私の心が天空に漂っている。 香具山に登って辺りを眺めた時、湧き上がってきた八一の古代への憧憬がほとばしり出る。それを抑えきれずに心が空に漂うと言う。 前4首で淡々と香具山の情景を詠んだ後に、絶唱と言えるこの第5首で締めくくった八一の表現力は素晴らしい。
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山精(第4首) 七月二十九日さきに童馬山房主人より贈られし歌集「暁紅」をとり出してふたたび読みもてゆくに感歎ますますふかしこえて五日この五首を記して箱根強羅なる山荘にこもれる主人のもとに寄す いにしへ を わが する ごとく のち の よ は きみ を こほしみ たへ がて に せむ (古を我がするごとく後の世は君を恋ほしみ堪え難てにせむ)
歌意 古の歌人を私が恋い慕ったように、後世の人はあなたを慕って堪え難い思いをするでしょう。 八一は心から茂吉を万葉の時代の歌人、歌聖と同じと詠む。茂吉は近代短歌史上に輝かしい業績をのこした優れた歌人である。
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枕頭(ちんとう)(第1首)
いね がて に わが もの おもふ まくらべ の さよ の くだち を とし は いぬ らし (寝ねがてに我が物思ふ枕辺のさ夜のくだちを年はいぬらし)
歌意 眠ることが出来なくていろいろと物思いにふけっている枕辺も夜が更けて今年も過ぎ去っていくようだ。 独りで年明けを迎える大晦日、しかも明けて還暦になる。いろいろなことが思い浮かんでは消えていった。戦争へ突き進む時代の暗い影も八一の心を痛めていたであろう。
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石切峠にて
いはばな の ほとけ の ひざ に わすれ こし かき の み あかし ひと も みる べく (岩鼻の仏の膝に忘れ来し柿の実赤し人も見るべく)
歌意 石切峠の岩の突端に彫られた石仏の膝の上に私が置き忘れた柿は真っ赤だった、きっと行き来する人達も見ることだろう。 仏の膝の上の赤い柿、そのことを思い出して詠んだこの歌は、旅の途中で小川晴暘を連れて高畑から滝坂を登って、石仏群の写真を撮った時に詠ったものである。この歌を放浪唫草の最後に置いた意味は、その日の充実した気持ちを思い、放浪唫草に終止符を打つことであっただろう。連作の最後に赤が印象的に使われている。
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地獄谷にて いはむろ の いし の ほとけ に いりひ さし
まつ の はやし に めじろ なく なり (岩室の石の仏に入日さし松の林に目白なくなり)
歌意 石窟の壁に彫られた仏に夕日がさし辺りの静かな松林では、しきりに目白が鳴いている。 地獄谷石窟を見るために旧柳生街道からそれて、山中に500mほど獣道のようなところを歩く。ほとんど訪れる人もなさそうな静かな場所で鶯が鳴き、目白がさえずっていた。鳥達の鳴き声がはっきりと聞こえるほどあたりは全くの静寂である。 この歌は、石窟仏と辺りを囲む情景を目白の鳴き声で見事に浮き立たせている。「いわむろの」「いしの」「いりひさし」と「い(母音)」でたたみ掛ける調べは快い。 高円山麓(白毫寺付近)から、旧柳生街道・滝坂の道を石仏を鑑賞しながら登り、約1時間半で地獄谷に着く。さらに石切峠を越えて柳生へと道は続く。一度は全て歩いてみたいと思っている。
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法隆寺壁画の作者をおもひて(第2首) いまさ ざる みこ を しぬびて しづか なる みてら とひ こし から の ゑだくみ (いまさざる皇子をしぬびて静かなるみ寺問ひ来しからの絵だくみ)
歌意 すでに亡くなってこの世におられない皇子・聖徳太子を慕って、この静かな法隆寺を訪ねてやってきた中国の絵師よ。 壁画を描いた中国の絵師は聖徳太子を慕って海を渡ってきたと、その心根の素晴らしさを詠う。その背景には八一の聖徳太子への強い思慕がある。
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十八日室生を出で当麻を経て高野山に登り明王院に入る かねて風邪の心地なりしを翌朝目さむれば薄雪降りしきて 塔廟房舎みな白し我が齢も大師を過ぐることすでに一歳 なればおもひ更に深し(第2首) いませりし よはひ は こぞ と すぎ はてし わが ころもで に ゆき な ふり そ ね (いませりし歳は去年と過ぎ果てし我が衣手に雪な降りそね)
歌意 弘法大師が生きておられた年齢を私は去年過ぎてしまった。(62歳と)老いてしまった私の袖に雪よ降らないでおくれ。 この時代、62歳は高齢と言える。この時の八一は風邪気味で体調を崩していた。そのことで雪降る高野山の寒さが身に沁みたであろうし、心の状態にも影響した。 植田重雄の“最後の奈良研究旅行4”
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明王院(第10首) いま の よ の ゑし の ともがら いにしへ の かかる ためし を しら ざる な ゆめ (今の世の絵師のともがら古のかかるためしを知らざるなゆめ)
歌意 今の時代の画家たちが円珍の感得図と言われる赤不動の絵のような昔の例を全く知らないというわけではない筈だ。 第9首で円珍が不動明王を見て描いた姿を想像して詠い、こうした素晴らしい絵像(赤不動)の描き方を現代画家も知っているべきだと詠う。(下記前書を参照) 注 前書 十九日高野山明王院に於て秘宝赤不動を拜すまことに希世の珍なりその図幽怪神異これに向ふものをして舌慄へ胸戦き円珍が遠く晩唐より将来せる台密の面目を髣髴せしむるに足る予はその後疾を得て京に還り病室の素壁に面してその印象を追想し成すところ即ちこの十一首なり。 語句解説
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五月二十八日松野尾村に山本一郎を訪ひ三十日その案内にて弥彦神社に詣で山路を国上に出で良寛禅師が幽棲の故址を探る(第1首) いやひこ の このま こえ きて くがみ なる きみ が みあと を けふ みつる かも (いやひこの木の間越え来て国上なる君がみ址を今日見つるかも)
歌意 弥彦山の木の間を越えてやってきて、国上山にあるあなたの住んでいた五合庵の址を今日見ることができました。 良寛は八一の敬慕する故郷の先輩だった。書も歌も似る所がある。東京時代に五合庵を訪ねる計画があったが実現せず、疎開してやっと訪れた。
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印象(第3首) 秋 日 耿湋 返照入閭巷 憂来誰共語 古道少人行 秋風動禾黍 いりひ さす きび の うらは を ひるがへし かぜ こそ わたれ ゆく ひと も なし (入り日差す黍の末葉をひるがへし風こそ渡れ行く人も無し) 秋 日 返照ハ閭巷ニ入リ、 憂ヒ来ツテ誰カ共ニ語ラン。 古道ハ人ノ行ク少シ。 秋風ハ禾黍ヲ動カス。
歌意 ここは秋の夕日が差し込み黍の葉先をひるがえして風が渡っていく、行き過ぎる人さえいない寂しいところだ。 田園の秋の夕暮の憂愁を詠んだ漢詩を的確に和歌として表現している。耿湋の漢詩は唐詩選にこの1首だけが選ばれている。また、芭蕉はこの詩によって「この道や行く人なしに秋の暮」を作ったと言われている。 注 秋 日 耿湋(こうい) 返照ハ閭巷(りよこう)ニ入リ、 憂ヒ来ツテ誰カ共ニ語ラン。 古道ハ人ノ行ク少シ。 秋風ハ禾黍(かしょ)ヲ動カス。 夕日が小さな村里に射し込んで、悲しみが湧いて来るがそれを語る相手もいない。村の古路には、 行きかう人もなく、ただ、稲や黍の葉ばかりが秋風に揺れているばかりだ。 ・耿湋 中唐の詩人、河東(山西省永済)の人で進士に合格。長安で詩人として活躍し、 大暦十才子の一人 ・返照 照り返しまたは夕日の光 ・閭巷 村里 ・憂ヒ来ツテ 悲しみが湧いて来て ・禾黍 稲と黍(きび)
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閑庭(第5首) いりひ さす きび の はたみち たどり こし とも と わが たつ その あぜ の へ に (入り日さす黍の畑道たどり来し友と我が立つその畔の上に)
歌意 夕日のさす黍の畑の中の道をたどってやってきた友人と親しく語りあいながら、その畔道の上に立っている。 黍畑に囲まれた自然豊かな武蔵野の情景が浮かんでくる。曽宮一念は下落合秋艸堂の近くに住んでいた。上記、印象(第3首)も参考に。
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村荘雑事(第9首)
いりひ さす はたけ の くろ に まめ うう と つち おしならす て の ひら の おと (入り日差す畑の畔に豆植うと土押し均す手のひらの音)
歌意 夕日が差してきた畑の畔に豆を植えようと土を押し均している手のひらの音よ。 雨後の雨を含んでちょうど良くなった畑の土に豆を植えようと手のひらで均していると夕陽が差してきた。太陽の光と土の音、自然に囲まれた八一の充実感があふれる。
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霜余(第1首) いろづきし したば とぼしみ つゆじも に ぬれ たつ ばら の とげ あらは なり (色づきし下葉乏しみ露霜に濡れ立つ薔薇に刺あらはなり)
歌意 色づいた薔薇の下葉も少なくなって露霜に濡れて立っている薔薇の刺がはっきりと見える。 寒さの厳しい秋艸堂の冬の庭を詠う6首。薔薇を見つめる八一の眼はこまやかで見事である。空襲のさ中の東京で我慢を強いられる生活が、自然へと歌を導いたのであろうが、霜余6首には重苦しさが漂っている。
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十三日西の京薬師寺にいたる うかび たつ たふ の もごし の しろかべ に あさ の ひ さして あき はれ に けり (浮かび立つ塔の裳階の白壁に朝の日さして秋晴れにけり)
歌意 晩秋の空に浮かび立つ東塔の裳階の白壁に朝日がさして美しく輝き、さわやかな秋晴れである。 最後の奈良旅行3日目は薬師寺からはじまった。「うかびたつたふ」は八一の東塔への気持が溢れている。東塔は三重塔だが、バランス良く配置された裳階によって美しい六重塔に見える。歌からその美しい姿が目に飛び込んでくる。 以下は、鹿鳴集にある薬師寺を詠んだ2首である。 大安寺をいでて薬師寺をのぞむ 解説 しぐれ ふる のずゑ の むら の このま より み いでて うれし やくしじ の たふ 薬師寺東塔(第2首) 解説 すゐえん の あま つ をとめ が ころもで の ひま にも すめる あき の そら かな 植田重雄の“最後の奈良研究旅行”
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宿の主人心ありて高山の植物多く食膳にのぼる(第2首) うけら にる やど の くりや は かむさぶ と をとめ が かみ も わわけ たり けむ (うけら煮る宿の厨は神さぶと乙女が髪もわわけたりけむ)
歌意 うけらを煮る宿の台所は古びて昔のようなので、そこで働く乙女の髪も遠い昔の女たちのようにほつれ乱れているだろう。 古色蒼然として神々しい宿の雰囲気の中で、台所で働く乙女たちを古代人の姿に投影して詠んだのであろう。
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やがて紀元節も近づきければ古事記の 中巻なる神武天皇の条を読みて(第1首)
うさつひこ とのづくり して をろがみし
おほき ひかり の きはまり しらず (宇沙都比古殿造りしてをろがみし大き光の極まりしらず )
歌意 (神武東征の途中)宇沙都比古は仮宮をお建てして出迎え、深く礼をした。それほど初代天皇・神武天皇の大きな威光は極まるところを知らなかった。 この第18首から第32首までは戦後一度削除し、後に復活したものである。敗色濃い戦争のさ中という状況のなかで古代的鎮護国家(政府が神話を利用して内政の安定を図ろうとした政策)の色濃い作品が多い。八一は戦争中でも政治や軍事には遠い距離をもっていたが、国家の流れの中ではその影響を免れることはできなかったようだ。 学生たちを戦地に送ったことへの思い、もともと古代に対する憧憬が強かった八一の思想に寄るところも大きい。 しかし、歌としては得るものが少なく、反って戦争礼讃に通じるものがあり、無条件の評価はできない。
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病中法隆寺をよぎりて(第6首) うすれ ゆく かべゑ の ほとけ もろとも に わが たま の を の たえぬ とも よし (薄れゆく壁絵の仏もろともにわが魂の緒の絶えぬともよし)
歌意 落剝して、薄れゆくこの壁画の仏たちとともに、私の命も絶えてしまってもかまわない。 「病中法隆寺をよぎりて」対面した薄れゆく壁画の仏たちへの愛惜の念を八一は高めていった。消えうせるかもしれない仏たちと一緒に死んでしまってもいいと言い切る。仏たちへの感情移入と「病中」ゆえの気持の高ぶりとが相まって、この歌が詠われる。第7首の「仏の未来を憂う」を終わりとする全7首の中で、この歌をとらえることによって「たえぬともよし」の純粋な表出が、少女趣味的ではない自然なものとして伝わってくる。 第1首 第2首 第3首 第4首 第5首 第6首 第7首
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大仏讃歌(第8首) 天平十三年四月聖武天皇諸国に詔して国分寺を建てしめ十五年十月東大寺廬舎那の大像を創めしめたまふその義華厳梵網の所説に拠りたまへるものの如し予しばしば此寺に詣で金容遍満の偉観を瞻仰してうたた昔人の雄図に感動せずんばあらずかつて和歌一首を成せり曰く「おほらかにもろてのゆびをひらかせておほきほとけはあまたらしたり」と今日また来りてその宝前に稽首し退いてさらに十首を詠じ以て前作の意を広めむとす邦家いまや四海に事多し希くは人天斉しく照鑑してこの聖皇の鴻願をして空しからざらしめむことを 昭和十八年三月十一日 うちあふぐ のき の くまわ の さしひぢき まそほ はだらに はるび さしたり (うち仰ぐ軒の隈回の挿肘木真赭はだらに春日さしたり)
歌意 大仏殿の軒の隅の挿肘木をふり仰ぐとその赤い色がまだらになって春の日がさしている。 大仏殿の軒に差し込む春の光の一瞬を捉えて詠う。大仏への敬意や賛美の中でも歌人の美的感覚は発揮される。 注 さしひじき (自註) 挿肘木は、鎌倉時代の再建に際して宋より輸入せられし軒廻構造の一様式にして、旧来の如く柱を以て肘木を支えずして、肘木の下端を柱身に挿しこみたるを特色とす。世に「天竺様」と称す。現在の大仏殿は元禄時代の建立なるも、よくその遺制を伝えたり。天平創建の様式にあらざれども、この寺が歴代の人力によりて今日に及びたりと見るときは、国民的記念物としてますます意義深きを覚ゆるを以て、特にこれを歌へり。
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十一月二十一日奈良より帰り來りその夜より病みふして立つ 能はざること五箇月に及べりそのいとまいとまに詠める歌(第5首) うちなびき わが みだれ ふす よ の ま にも ほとけ はるけく みそなはし けむ (うちなびき我が乱れ臥す夜の間にも仏はるけくみそなはしけむ)
歌意 病で横になって乱れ臥している夜の間も仏ははるか遠くから私をご覧になっておられるだろう。 八一の脳裏に浮かぶのは長年慣れ親しんだ奈良の仏像であっただろう。仏及び仏像に対する深い理解、信頼に支えられて八一の奈良の歌は芸術的に詠われている。決して単純な信仰心によるものではない。そうしたことを背景にここでは深い信頼に支えられた仲間を表しているようにも見える。
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街上(第2首) うちひさす おほき みやこ の みち の へ に ひとむらほむぎ いろ に いでつ も (うち日さす大き都の道の辺に一叢穂麦色に出でつも)
歌意 日が照っているこの都、東京の道ばたにひとかたまりの麦の穂が出て色づいている。 敗戦の色濃く、食糧危機の中、どんな場所にでも食べ物が植えられた。首都の道端に麦が植えられ色づいている、と淡々と詠む。しかし、時代背景なしに読むことはできない。
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九月一日大震にあひ庭樹の間に遁れて(第2首) うちひさす みやこおほぢ も わたつみ の
なみ の うねり と なゐ ふり やまず (うちひさす都大路もわたつみの波のうねりとなゐ振りやまず)
歌意 日本の都、東京の大通りも海の波のように大きく揺れ動き、地震は止むことも無い。 大地震の大地の揺れを大海の大波に例える。激しい動きを俯瞰する腰の据わった作である。
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春日野にて うち ふして もの もふ くさ の まくらべ を あした の しか の むれ わたり つつ (うち伏してもの思ふ草の枕べを朝の鹿の群れ渡りつつ)
歌意 春日野の草を枕に寝そべって(古都の寺々やみほとけ、あるいは古代のことなど)いろいろと思っている私の傍らを朝の鹿たちの群れが通っていく。 歌集「南京新唱(なんきょうしんしょう)」巻頭第3首。『道人は書に「懶眞」(懶キコトハ眞ナリ)と書いているように懶(ものう)く寝そべることが多かった。怠惰ではないが、時の流れから超然として何もせず茫然としていることに安らぎを感ずることが多い』と植田教授は書いている。恩師坪内逍遥の前でも「寝そべって」対話していたことでも有名な八一である。 奈良の地を訪れた若き八一は歌集冒頭で鹿を詠むことによって、古都奈良を浮き立たせ、古代憧憬へと読むものを導いていく。 静かな春日野の原に腰を下ろして、ゆっくりと時間を過ごしてみたいものだ。 注 「もの もふ」は多くの意味に用いられるが、ここでは初案に「ほとけづかれのみをふせて」とあるので、観仏のことをいっているが、もっと広い意味にとって古い奈良への思慕でもかまわない。 (会津八一の世界・植田重雄著)
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春日野にて(第3首) うつくしき ひと こもれり と むさしの の
おくか も しらず あらし ふく らし (美しき人こもれりと武蔵野の奥かも知らず嵐吹くらし)
歌意 美しい若夫婦が籠ったと言う武蔵野(春日野)の果て、そこにいる乙女らに関心があるのか嵐が吹き続けている。 難しい歌である。業平の歌からの言葉の引用を理解する必要がある。その上で第1首、第2首との関連で「武蔵野の奥」には目の前にいる乙女たちを想定する。美しい乙女たちに惹かれて嵐が吹くと訳してみたい。
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山口剛に うつくしき ほのほ に ふみ は もえ はてて
ひと むくつけく のこり けらし も (美しき炎に書は燃え果てて人むくつけく残りけらしも)
歌意 美しい炎に蔵書は全て燃えてしまった。その持ち主のわが友だけが無骨で哀れな姿で残ったらしい。 震災は学者である友人の全ての蔵書を灰にした。そして友人に対する思いやりを「諧謔の語を以て」詠った。災害の後の呆然とし、醜いとさえ見える人間の姿は友人も作者も同じだったのだ。下記注から作者の気持がよくわかる。 註 山口剛 自註鹿鳴集より 号は不言斎(1880-1932)作者が中年時代の親友。国文学者。博洽(はつこう)の読書家。奇逸なる趣味家にしてまた文章を能(よ)くせり。作者の処女歌集なる『南京新唱』のために寄せたる序は、最も詞句の精妙さを以て称せらる。久しく浅草駒形なる知人根岸氏方に奇寓し、この時(1923)罹災して悉く蔵書を喪(うしな)ひ、悲嘆の状見るに堪へず。是を以て作者ことさらに諧謔(かいぎやく)の語を以て、一首を成して贈る。意はむしろ倶(とも)に啼(な)かんとするに近し。然るに昭和二十年(1945)四月に至り、作者は自ら戦災に罹り、満屋の万巻ことごとく灰塵に帰したれども、彼すでに世に在らず。作者の為に手を拍(う)つて大に笑ふもの無きを悲しめり。
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十一日まづ東大寺に詣でまた春日野にいたる同行の学生に て近く入営せむとするもの多く感に堪へざるが如しすなはち そのこころを思ひて(第5首) うつしみ は いづく の はて に くさ むさむ かすが の のべ を おもひで に して (現し身は何処の果てに草生さむ春日の野辺を思ひ出にして)
歌意 戦いに出かけるこの若者たちはどこの地の果てで草生す屍となるのだろう。この訪れた春日野の思い出にして。 絶望的な戦場におもむく死を覚悟した若者たち、八一の心は激しく揺れ動いたであろう。前途ある学生たちが、学問の道を離れて死地へ赴くとは。愚かな指導者たちによって行われた戦争の時代は繰り返してはいけない。しかし、人と人、師弟の情を背景にした歌は人の心を打つ。 植田重雄の“最後の奈良見学旅行” 注 海ゆかばについて 大伴家持の長歌(万葉集巻18 4094)「陸奥の国に金(くがね)を出だす詔書を賀(ほ)く歌」の中に収められている。それを信時潔が作曲した。 海行かば 水漬(みづ)く 屍(かばね) 山行かば 草生(む)す 屍 大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ かえり見はせじ (海を行くなら水に漬かる屍ともなろう 山を行くなら草の生える屍ともなろう 天皇のおそばにこそ死のう 一身を顧みはしない)
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十一月二十一日奈良より帰り來りその夜より病みふして立つ 能はざること五箇月に及べりそのいとまいとまに詠める歌(第6首) うつしみ は まもらひ ゆかむ いまだ よ に なす べき こと の あり と に か あらむ (うつしみは守らひゆかむ未だ世になすべきことのありとにかあらむ)
歌意 この身は大切に守っていこう。まだこの世に私がしなければいけないことがあるようだから。 病に臥して、意識が回復したのは7日後(第2首)、そして療養は5ヶ月に及んだ。重い病が八一の心を反って平静にし、6首全体に切々とした心情がにじみ出ている。
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病中法隆寺をよぎりて(第2首) うつしよ の かたみ に せむ と いたづき の み を うながして み に こし われ は (うつし世の形見にせむといたづきの身をうながして見にこしわれは)
歌意 この世の形見にしようと病気の身をせきたてて私はこの法隆寺を見に来たのだ。 「病中法隆寺をよぎりて」7首の第2首。病身を押しての訪問、八一の強烈な法隆寺への思い入れが手に取るようにわかる。病気ゆえ、二度とこの地を訪れることが無いかもしれないという切実感が「みをうながして」(我が身をせきたてて)と詠むことよって重く迫ってくる。 1921年(大正10年)10月、持病の腎臓炎の再発で千葉勝浦で療養していた八一は、同10月23日法隆寺を訪れ、この7首を作った。 第1首 第2首 第3首 第4首 第5首 第6首 第7首
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山鳩(第8首) うつしよ の ひかり ともしみ わかき ひ を わが やど いかに さびし かり けむ (うつしよの光ともしみ若き日をわが宿いかに寂しかりけむ)
歌意 この世での私の生活は光が当たるところが少なかった。きい子は若い日々をそんな我が家で過ごしてどんなにか寂しかったことだろう。 最も輝いてよい若き日を質素な学者の家で過ごし死んでいったきい子、この家に来なければ楽しいことが沢山あっただろうにと八一は後悔する。死して改めて彼女の存在の大きさを思うのである。 当時、八一は実際の生活には無頓着だった上に、研究のための美術品や学術資料を私費で購入したりして、質素な生活をしている。これらの一部が現在の早稲田大学會津八一記念博物館のコレクションになっている。
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十二月二十四日遠く征戍にある門下の若き人々をおもひて(第3首) うつせみ の いのち まさきく あらきの に いねて きく らむ こほろぎ の こゑ (うつせみの命まさきく荒き野に寝ねて聞くらむこほろぎの声)
歌意 前線に赴いている若者たちは命に別状なく無事に荒野に寝て、聞いているだろうこうろぎの声を。 北方の寒い荒野で守備につく門下生を思いやる心が詠われている。「真幸く」前線にいる愛弟子たち、これは無事であることを願う心の表れである。 この遠望5首は門下生の1人、瀧口宏(後の早大教授、考古学専攻)の満州からの音信に心動かされて詠んだものである。
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五月二十二日山本元帥の薨去をききて(第1首) うつせみ の ちから を つくし わたつみ の そら の みなか に かむさり に けり (うつせみの力を尽くしわたつみの空のみ中に神去りにけり)
歌意 山本元帥はこの世の人として力の限りを尽くして南太平洋の空の中に神として去られていった。 同郷の山本五十六連合艦隊司令長官の死を悼んで詠む。死後元帥をおくられ、国葬となる。
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明王院(第3首) うつせみ の ちしほ みなぎり とこしへ に もえ さり ゆく か ひと の よ の ため に (うつせみの血潮みなぎり永久に燃え去り行くか人の世のために)
歌意 不動明王は現実の人間の姿で全身に血潮をみなぎらせて、永遠にずっと燃え続けていくのであろう、人の世のために。 不動明王(赤不動)の赤い肉体と燃え上がる背後の炎をとらえて詠う力強い歌である。人間のために悪魔や煩悩を全て焼き尽くすという炎を主題にして。(下記前書を参照) 注 前書 十九日高野山明王院に於て秘宝赤不動を拜すまことに希世の珍なりその図幽怪神異これに向ふものをして舌慄へ胸戦き円珍が遠く晩唐より将来せる台密の面目を髣髴せしむるに足る予はその後疾を得て京に還り病室の素壁に面してその印象を追想し成すところ即ちこの十一首なり。 語句解説
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わが右の眼の硝子体に溷濁を生じて(第5首) うつせみ の まなこ くもりて むらぎもの こころ すめらば くるしく も あらむ (うつせみの眼曇りてむらぎもの心澄めらば苦しくもあらむ)
歌意 現に生きているこの身の眼が曇ってしまい、心だけが澄んでいたとしたらやはり苦しいことだろう。 第4首で眼が曇っても心だけは澄んでいて欲しいと詠んだ八一だが、ここでは一転して片方が曇っているならやはり苦しいと揺れ動く心情を吐露している。
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明王院(第4首) うつせみ は あけ に もえ つつ くりから に みはりて しろき まなこ かなし も (うつせみは朱に燃えつつ倶利迦羅に見張りて白き眼かなしも)
歌意 (不動明王の)現実の肉体は真っ赤に燃えあがりながら、倶利迦羅に向かって白い眼を見開いて睨んでいる。なんと素晴らしく、心惹かれる眼であることよ。 不動明王(赤不動)の赤い肉体と睨みつける白い眼、色彩の対比の中に迫力ある赤不動が浮かび上がってくる。(下記前書を参照) 注 前書 十九日高野山明王院に於て秘宝赤不動を拜すまことに希世の珍なりその図幽怪神異これに向ふものをして舌慄へ胸戦き円珍が遠く晩唐より将来せる台密の面目を髣髴せしむるに足る予はその後疾を得て京に還り病室の素壁に面してその印象を追想し成すところ即ちこの十一首なり。 語句解説
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四月十三日の夜アメリカ機の燒夷弾のもとに草廬たちまち焼け落ちて 満屋の図書器玩ことごとく灰燼となる(第2首) うつせみ は やかば やく べし こころ ゆ も めでて わが こし ふみ を いかに せむ (空蝉は焼かば焼くべし心ゆも愛でて我が来し書をいかにせむ)
歌意 自分の身は焼くなら焼いてしまってもかまわない、だが、ずっと愛してきた書物が焼かれてしまったのはどうしようもなく残念だ。 学者として、歌人として、書家として全力を傾けてきた八一にとって、書物は命以上のものだった。その悔しさが浮かぶ。疎開の準備をしていた八一だが、人手がないことや輸送手段の遅延でほとんどの物を焼失した。
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閑庭(第1首) 予さきに落合不動谷なる春城老人の別業(べつぎょう)を借りてここに寓(ぐう)すること十六年「村荘雜事」十七首および「小園」九首あり幽懐(ゆうかい)を暢敍(ちょうじょ)していささかまた陶家(とうか)の余趣(よしゅ)あるが如くひそかに会心の作となせる然るにこの林荘は後に人のために購(あがな)ひ去られて樹梢は伐採せられ蘚苔(せんたい)は痕跡を留めず鳥語虫声また聴くべからずもとの如くにして易(かわ)らざるはただ昊天(こうてん)の碧色(へきしょく)あるのみ予一昨春二友とともに行きてこれに臨み茫然佇立(ちょりつ)して去ること能はず帰来怏怏(おうおう)として怡(たのし)まざること数旬に及べり乃ち日夕ふかく眼底に印象するところの一景一情を追ひてこれを歌ひ来るにこの頃やうやく四十首を超えたり前作とともに長くみづから吟哦(ぎんが)の料となし以て緬想(めんそう)を資(たす)けんと欲す 乙酉三月念一日 (語句解説 下記注へ) うつり きて うたた わびしき くさ の と に けさ を ながるる あきさめ の おと (移り来てうたた侘びしき草の戸に今朝を流るる秋雨の音)
歌意 移ってきたばかりのとても侘びしいこの簡素な家に今朝は秋雨が降ってその流れる音がしている。 移り住んだ市島春城の別荘は武蔵野の広大な敷地の中にあった。周りは樹木や畑だけのなかで秋雨の音はいやがうえにも侘びしさを助長する。この45首はありし日の下落合秋艸堂を回想して詠う。 注 詞書・語句解説 ・別業 別荘 ・幽懐 心の中に深くいだく思い ・暢敍 思っているままを述べる ・陶家の余趣 “陶淵明風の田園気分といふこと。”自註 ・林荘 林の中の家、秋艸堂 ・蘚苔 苔のこと ・昊天 大空、夏の空 ・碧色 青色、緑色 ・二友 “当日同行したるは福田雅之助、三浦寅吉の二君なり。”自註 ・佇立 たたずむこと ・怏怏 心が満ち足りないさま ・吟哦 節をつけて漢詩・和歌などをうたうこと ・緬想 はるかに思いやる ・乙酉三月念一日 昭和20年3月21日“念は二十、念一は廿一日”自註
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また二上山を望みて当麻の大曼荼羅をおもふ(第1首) うつろひし つづれ の ほとけ つたへ きて やま は ことし も もみぢ せる かも (うつろひし綴れの仏伝え来て山は今年も紅葉せるかな)
歌意 色褪せた綴織の大曼荼羅の仏をずっと伝え来て、寺のある二上山は今年も紅葉していることよ。 年月とともに色褪せてしまった当麻寺の中将姫伝説の大曼荼羅を想い、寺のある二上山の美しい紅葉を詠う。八一が思いを寄せる織物の曼陀羅は時とともに色褪せるが、目の前の紅葉は毎年同じ時期に同じように色づく。 なお、二上山・当麻寺を詠った八一の南京新唱第77~81首も参考にして欲しい。 注 つづれのほとけ 自註より 當麻寺の浄土変相図は俗に藤原の豊成の女なる法如尼の、天平宝字七年六月二十三日藕糸を用ゐて一夜にして織るところといふ。今の綴織といふものなるが如し。絵画なりといふ説行われしことあるも予は採らず。 (藕糸・ぐうし、蓮の糸)
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東大寺の戒壇院にて(第1首) うつろひし みだう に たちて ぬばたまの
いし の ひとみ の なに を か も みる (うつろひしみ堂に立ちてぬばたまの石の瞳の何をかも見る)
歌意 時が経って古びたみ堂の中に立つ四天王は、黒い石の瞳で一体何を見ているのだろう。 何かを凝視する四天王の眼の鋭さを捉えて、この像の姿を見事に浮かび上がらせている。そして見ている先の答えを第2首で詠っている。 八一の有名な四天王の歌 びるばくしや まゆね よせたる まなざし を まなこ に み つつ あき の の を ゆく (戒壇院をいでて) この有名な歌と共に鑑賞すると味わい深い。
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別府にて(第6首)
うなばら に むかぶす やへ の しらくも を みやこ の かた へ ゆめ は ぬひ ゆく (海原にむかぶす八重の白雲を都の方へ夢は縫ひゆく)
歌意 はるか向こうの海の上に低く幾重にも横たわる白雲を都の方向へ針で縫っていくように、私の夢も都へ辿っていく。 この放浪の旅は都(東京)での心身の疲弊を癒す旅だった。さらに早稲田中学で中学幹事と運営上の問題で対立した八一(教頭)が教育者から学者・研究者へと転換して行こうと考え、実行しようとした旅でもある。語られる夢とは学者、歌人、書家として大成していくこの後の姿を見ればわかる。
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やがて紀元節も近づきければ古事記の 中巻なる神武天皇の条を読みて(第2首)
うなばら の しほ の みなわ を むなわけて
おほき みふね は すすみ やまず も (海原の潮の水泡を胸分けて大きみ船は進みやまずも )
歌意 海原の潮の泡を押し分けながら神武天皇の大きな船は突き進んで止まらない。 第18首から第32首までは戦後一度削除し、後に復活したものである。
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豊後海上懐古(第3首)
うなばら を こえ ゆく きみ が まながい に かかりて あをき やまとくにばら (海原を越え行く君がまながいにかかりて青き大和国原)
歌意 新しい国土を開拓しようと船出し海原を越えて行くあなたの眼前に広がっているのは青々とした大和の国だったのでしょう。 神武天皇が理想として求めた美しい大和の国は同時に八一が恋焦がれた地でもあった。天皇と同化することによって古都奈良への思いを詠ったと言ってもよい。
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ふたたび厳島を過ぎて
うなばら を わが こえ くれば あけぬり の しま の やしろ に ふれる しらゆき (海原を我が越え来れば朱塗りの島の社に降れる白雪)
歌意 (九州から)はるばる海を越えて厳島にやってくると朱塗りの社殿に白雪が降り積もっている。 赤と白の色彩表現が、効果的に雪の厳島神社を浮かび上がらせる。12月29日旅の途中に一度大阪に戻る。その途中、大阪から九州への往路に寄ることができなかった厳島に船を下りて5首詠んでいる。
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村荘雑事(第11首)
うま のる と わが たち いづる あかとき の つゆ に ぬれたる からたち の かき (馬乗ると我が立ち出づるあかときの露に濡れたるからたちの垣)
歌意 乗馬の練習のために出かけようとすると、目の前に早朝の露にしっとりと濡れたからたちの緑の垣根がある。 雨に濡れた月見草を詠った第10首と同じで、八一は早朝の露(水)に濡れた鮮やかな緑の美しさに驚く。中国大陸の旅行のため乗馬の練習をした八一だったが、実現はしなかった。乗馬の歌に橘寺にてがある。
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御遠忌近き頃法隆寺村にいたりて(第1首)
うまやど の みこ の まつり も ちかづきぬ まつ みどり なる いかるが の さと (厩戸の皇子の祭も近づきぬ松みどりなる斑鳩の里)
歌意 厩戸の皇子のお祭も近づいた。松の緑が美しいこの斑鳩の里に。 聖徳太子千三百年忌を前に詠んだ4首の第1首、法隆寺の内外に美しく広がる松の緑を取り上げて、斑鳩の里を簡潔にさわやかに歌う。数々の偉業を成し遂げた聖徳太子への懐古の情を感動を持って展開している。 (参照 第2首 第3首 第4首) 春日野(八一と杉本健吉の合同書画集) 追記 歌碑建立 (2012・10・15記) 平成24年9月9日、奈良県の斑鳩町観光協会 法隆寺iセンター前に建立された。(クリックを)
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御遠忌近き頃法隆寺村にいたりて(第3首) うまやど の みこ の みこと は いつ の よ の いかなる ひと か あふが ざらめ や (厩戸の皇子の尊はいつの世の如何なる人か仰がざらめや)
歌意 厩戸の皇子はいつの世のどんな人でも尊敬せずにはいられようか。 十七条憲法を制定して国家の礎を築き、また仏教の普及に尽力した聖徳太子への思慕の情が直線的に歌われる。その直情と声調の良さが読むものの心に迫る。 八一が唯一、歌の門下と認めた吉野秀雄は鹿鳴集歌解で以下のように言う。「この歌、一本調子にひたぶる太子をあがめ奉らうとしたもので、溢れいづる感懐、よく声調化されて些かの弛緩もない。もしもこの種の歌想の単純を以てとやかく歌を論じようとする者ありとすれば、遂に歌とは無縁の徒輩とせねばならぬのである」 (参照 第1首 第2首 第4首) 注1 聖徳太子について 上記「うまやどのみこ」の解説にも書いたが、太子の正式名は厩戸の皇子、聖徳太子は後に世につけられた尊称である。また、上記の聖徳太子像も後世に描かれたものである。上記に酷似した肖像画は厩戸の皇子より前の時代の中国にある。高貴な人を描くパターンとして、太子像に使われたようだ。 もちろん、八一自身そのことは熟知の上で、太子を深く思慕している。 注2 歌の三つの解釈(平成24年3月9日追記) 秋艸会報第三十三号(平成24年3月1日発行)で和光慧さんが以下のようにこの歌の三つの解釈を書いている。(和光さんは 「会津八一とゆかりの地―歌と書の世界」の 著者である) 1 厩戸の皇子さまはどんな世のどんな人でも崇拝し奉らずにゐられようか。(吉野秀雄) 2 聖徳太子(厩戸皇子命)はいつの時代のどのような徳を持っておられた方であろうか。 讃仰せずにはいられない。(植田重雄) 3 聖徳太子が遺された深いお言葉は、いつの時代のどんな人も尊敬せずにはいられない。(和光慧) 注3 四天王寺聖霊院境内の会津八一歌碑(平成27年6月15日追記) 會津八一研究家として活躍する池内力氏から貴重な写真を頂いた。昭和58年に建立された歌碑は聖徳太子の月命日である毎月22日に公開される。池内氏は平成22年の8月22日(日)に撮影。
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閑庭(第12首) うみ おちて つち に ながるる かき の み の ただれて あかき こころ かなし も (熟み落ちて土に流るる柿の実のただれて赤き心悲しも)
歌意 熟して落ちて土の上に実が流れ出ている柿のただれた赤い色、それを見ていると心が痛んで悲しい気持ちになる。 柿の実のただれた赤に物悲しさを感じて詠んだ。ただ、“あかきこころ”を柿の心として、ただれて赤い柿の心を思うと悲しいとも解釈できる。
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印象(第5首) 登鸛雀楼 王之渙 白日依山尽 黄河入海流 欲窮千里目 更上一層楼 うみ に して なほ ながれ ゆく おほかは の かぎり の しらず くるる たかどの (海にしてなほ流れゆく大河の限りの知らず暮るる高殿) 鸛雀楼ニ登ル 白日ハ山ニ依リテ尽キ、 黄河ハ海ニ入リテ流ル。 千里ノ目ヲ窮メント欲シテ、 更ニ一層ノ楼ニ上ル。
歌意 黄色い黄河は海に入ってもなお流れていく。その限りない眺めの中でこの高殿も暮れていく。 漢詩の意味は解釈によって違ってくる。八一は「黄河ハ海ニ入リテ流ル」から黄河は海に入ってもなお黄濁した流れが見える。それを高殿から遠望すると解釈して和歌に直した。後日、推敲(渾齋随筆・八一)の中で、鸛雀楼から海は遠くて見えないので「黄河ハ流レテ海ニ入ル」と読み下す事が正しく、自分の歌は漢詩とは違ったから創作と言うことにすると書いている。 間違いの原因は、漢詩の日本での読み下しが韻を尊重しているので、「白日依山尽 黄河入海流」を「白日ハ山ニ依リテ尽キ 黄河ハ海ニ入リテ流ル」とするからだと書いている。 注 鸛雀楼(かんじゃくろう)ニ登ル 王之渙(おうしかん) 白日(はくじつ)ハ山ニ依(よ)リテ尽キ、 黄河ハ海ニ入リテ流ル。 千里ノ目ヲ窮(きわ)メント欲シテ、 更ニ一層ノ楼ニ上(のぼ)ル。 輝く太陽は山に寄り添うように沈んで行き、黄河は海に向かって流れている。(黄河は海に 流れ込んでもまだ黄色く流れる) この眺めをもっと千里先までみきわめようと、鸛雀楼を更に 一階上に登った。 ・鸛雀楼 山西省永済県の西南の三層の楼、鸛雀はコウノトリのこと ・王之渙 中唐の詩人、并州晋陽(山西省太原市)出身の在野の詩人、字は季陵 ・白 日 「輝く昼の太陽」と「輝く夕陽」との二説ある、白は黄河の黄に対応 ・依山盡 山に寄り添うように沈んで行く ・千里目 千里の彼方までも見渡す眺望 ・一層楼 もう一層上
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十七日桜井の聖林寺にいたりつぎに室生寺にいたる(第3首) うみ ゆかば みづく かばね と やまがは の いはほ に たちて うたふ こら は も (海行かば水漬く屍と山川の巌に立ちて歌ふ子らはも)
歌意 「海行かば水漬く屍・・・」と山川の巌の上に立って歌う学生たちよ。 室生川の巌の上で戦地での死を覚悟した若者たちが「海行かば・・・」を歌う。教え子たちの悲痛な歌声が八一の悲しみを深め、愛情をこめてその情景を詠出した。 植田重雄の“最後の奈良見学旅行3” 注 「海ゆかば」について 大伴家持の長歌(万葉集巻18 4094)「陸奥の国に金(くがね)を出だす詔書を賀(ほ)く歌」の中に収められている。それを信時潔が作曲した。 海行かば 水漬(みづ)く 屍(かばね) 山行かば 草生(む)す 屍 大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ かえり見はせじ (海を行くなら水に漬かる屍ともなろう 山を行くなら草の生える屍ともなろう 天皇のおそばにこそ死のう 一身を顧みはしない)
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閑庭(第26首) うらには の このね たちぐき はるか なる はた の こみち に いでし たかむな (裏庭の木の根たちくぎ遥かなる畑の小道に出でしたかむな)
歌意 裏庭の木々の根の間をくぐり抜けて、はるかに離れた畑の小道に顔を出した筍よ。 庭の竹林の竹の根が思いもよらず伸びて、遠くに顔を出した筍、その驚きを詠う。万葉調の“たちぐき”が語調を整えている。
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観音堂(第10首) うらには の しげき が もと の あらぐさ に こぼるる ひかげ み つつ かなし も (裏庭の繁木がもとの荒草にこぼるる日影見つつ悲しも)
歌意 裏庭の生い茂った木の下の荒れて乱れた雑草に木漏れ日があたるのを見るにつけても悲しみがますます深くなる。 観音堂10首、最後の歌である。きい子の死を悼んで詠った山鳩21首ののち、一人過ごした観音堂の生活は単なる悲しみではなく、自然と人間の営みに対する根源にかかわる悲しみへの転化となる。そのことはこの後の八一の歌人、書家としての活躍のための準備であったともいえる。
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四月三十日三浦寅吉に扶けられて羽田より飛行機に乗りてわづかに東京を立ち出づ(第2首) うらぶれて そら の くもま を わたり く と ふるさとびと の あに しらめ や も (うらぶれて空の雲間を渡り来と故郷人のあに知らめやも)
歌意 みじめな姿になった私が飛行機に乗って空の雲間を渡って帰って来るとは、故郷の人々はどうして知っていようか、いや知ってはいない。 うらぶれた帰郷である。その悲しみが伝わってくるが、決して取り乱してはいない。落ちついた調べで冷静に詠っている。
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春日野にて(第6首) うらみ わび たち あかし たる さをしか の もゆる まなこ に あき の かぜ ふく (恨み侘び立ちあかしたる牡鹿のもゆる眼に秋の風吹く)
歌意 (角を激しく打ちあった)恋の争いに負け、悔しさと悲しみの中で一夜を眠ることなく過ごした鹿の血走った眼に容赦なく秋の冷たい風が吹き抜けていく。 大正13年、初めて歌集「南京新唱(なんきょうしんしょう)」を発表、その巻頭6首目の歌である。早稲田中学職員間の軋轢から逃れるようにして奈良の地を訪れた若き八一の憂いが対象化されているようだ。一説には失恋の痛手を投影していると言われる。
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印象(第9首) 山 館 皇甫冉 山館長寂寂 閑雲朝夕来 空庭復何有 落日照青苔 うらやま に くも ゆき かよふ ひろには の こけ の おもて に いりひ さしたり (裏山に雲行きかよふ広庭の苔のおもてに入日さしたり) 山 館 山館ハ長ク寂々タリ、 閑雲ハ朝夕ニ来ル。 空庭復タ何カ有ラン、 落日ハ青苔ヲ照セリ。
歌意 裏山をゆったりと雲が行きかい、この山の家の広い庭の苔に夕日が差している。 漢詩の持つゆったりとしたおおらかな情景をうまく詠いあげている。鹿鳴集359首、最後の歌である。 注 山 館 皇甫冉(こうほぜん) 山館ハ長ク寂々タリ、 閑雲ハ朝夕ニ来ル。 空庭復(ま)タ何カ有ラン、 落日ハ青苔(せいたい)ヲ照セリ。 山の館は長い間ひっそりと寂しく、ゆったりとした雲が朝夕にやってくるだけである。人けのない 寂しい庭に、また何があるというのか、ただ夕陽が青い苔を照らしているだけである。 ・山館 山の屋敷 ・皇甫冉 中国・盛唐の詩人。安定(甘粛省涇川)の出身、字は茂政。潤州(現・鎮江)丹陽に 移住し、その後進士となり、左拾遺、右補闕等を歴任する。「唐皇甫冉詩集」が残る ・寂々 ひっそりとして、さびしいさま ・閑雲 ゆったりと空に浮かび静かに流れゆく雲 ・空庭 人けのないさびしい庭 ・青苔 青々とした色の苔
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四月二十四日早稲田の校庭を踏みつつ(第1首) うらわかく いへ さかり きて ほとほとに わが よ は ここ に をへむ と する も (うら若く家離り来てほとほとに我が代はここに終へむとするも)
歌意 まだ若かった頃に故郷・新潟の家を離れて来て、私の人生はほとんどここ早稲田で過ごし、終えようとしている。 八一は故郷新潟を離れて東京の早稲田大学で学んだのち、1910年、坪内逍遥の招きで早稲田中学校教員となる。その後早稲田大学文学部教授に就任、美術史を講じた。しかし、大学は学徒出陣で学問の場としての体を成していなかった。大学を辞する決意を込め、校庭に立って詠う。感慨深いものがある。
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銅鑼(第2首) はじめて草盧に奈良美術研究会を開きしより今にして二十年にあまれり身は遂に無眼の一村翁たるに過ぎずといへども当時会下の士にして後に世に名を成せるもの少からずこれを思へば老懐いささか娯むところあらむとす うらわかく さい ある ひと と まどゐ して うまらに くひし そば の あつもの (うら若く才ある人とまどゐしてうまらに食ひし蕎麦のあつもの)
歌意 若くて才能のある人達とくるま座になって美味しく食べた熱い蕎麦よ。 若い学徒たちと研究の合間に輪になって楽しく食べた蕎麦、20年ほど前の懐かしいひと時を、昭和20年3月の暗い世相と孤独な生活の中で詠う。
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金堂なる十一面観音を(第2首) うらわかく ほとけ いまして むなだま も ただま も ゆらに みち ゆかす ごと (うら若く仏いまして胸玉も手玉もゆらに道行かすごと)
歌意 この十一面観音はまだ若くいらっしゃって胸飾りや腕輪の玉をからからと鳴らしながら道をお歩きになっているようだ。 第1首で仏像ではなく本当の仏がいるようだと詠んだ八一は、その仏が胸飾りや腕輪の玉を鳴らして歩いているかのようだと感受性豊かに表現する。これは学者の眼ではなく芸術家の感覚をもって詠ったと自註で書いている。注参照。 植田重雄の“最後の奈良見学旅行3” 注 むなだまもただまも (自註) 珠玉を以て作れる日本固有の胸飾、腕飾をあらはせる言葉を以て、観音の服飾に応用したること、前出の「たまのみすまる」に同じ。かかる用例は、世上の学者より不穏当の批評あるべきも、東大寺三月堂の本尊不空羂索観音の宝冠には、日本風の勾玉、管玉、切子玉を用ゐて厳飾せるを見るが如く、ここに芸術の自由を要求すべき余地なしとせざるべし。
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閑庭(第4首) うゑ おきて ひと の いにたる かどばた の いも の こ ほりて くらひける かも (植ゑ置きて人の去にたる門畑の芋の子堀りて食らひけるかも)
歌意 植えたままで前の人が去っていった門の側の畑の小芋を掘って食ったことだ。 大正から昭和初期の武蔵野はのどかなところだった。おおらかな風情が浮かびあがってくる。八一は放置された畑の芋を掘り起こして食べたことを食糧難の敗戦末期に懐かしく思い起こす。
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観音堂(第7首) うゑ おきて ひと は すぎ にし あきはぎ の はなぶさ しろく さき いで に けり (植ゑ置きて人は過ぎにし秋萩の花房白く咲きいでにけり)
歌意 萩を植えた人はもう亡くなられているが、秋の訪れとともに白い萩の花が咲き始めている。 秋萩は毎年秋になると咲き始める。人の命は限りがあるが自然はいつものように花を咲かす。「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」八一の心は自然の営みとともに心の静かさを取り戻していく。 注 春城翁 市島春城(いちしましゅんじょう)1860-1944。政治家・文筆家。新潟県北蒲原郡生まれ。本名謙吉。ジャナーリスト、衆議院議員、早稲田大学図書館初代館長として活躍した。会津八一の親戚にあたり、早稲田中学教頭職を辞し収入が激減した八一に、落合の別荘を大正11年から14年間住居(下落合秋艸堂時代)として貸し、学業・生活の手助けをした。
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同日等持院にいたる影堂には足利氏累代の像あり(第2首) えいだう の あさ の くらき に うちならぶ むろまちどの の そくたい の ざう (影堂の朝の暗きにうち並ぶ室町殿の束帯の像)
歌意 御影堂の朝のまだ暗い中に並んでいる室町幕府の歴代の束帯の木像たちよ。 足利家の菩提寺の歴代将軍の木像に接して、室町幕府のいろいろに思いを馳せたであろう。
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閑庭(第3首) えんがは に あし ふみ のべて つらつらに あふげば ふかき あをぞら の いろ (縁側に足踏み伸べてつらつらに仰げば深き青空の色)
歌意 縁側に足を投げ出してつくづくと空を仰ぐと、なんと深みのある青空の色だろう。 その頃の武蔵野の秋空は素晴らしかった。縁側に足を投げ出し、ゆったりとした姿勢で青空を見つめる。下落合秋艸堂でまず感受した大自然の姿である。
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わが右の眼の硝子体に溷濁を生じて(第2首) おいなみに くもれる まなこ いま の よ の おほき くすし も すべ なかる べし (老波に曇れる眼いまの世の大き薬師もすべ無かるべし)
歌意 年をとって濁ってきた眼なので、今の世の権威ある優れた医者でも治療の方法が無いだろう。 年老いてきたための眼病だから、名医でも治療は難しいだろうと淡々と詠む。しかし、次句以降衰えた眼を主題にして心の内をいろいろと表出する。
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十一月十日学生を伴ひ奈良に向ふとて汽車の窓より 東方の海上を望みて(第1首) おき つ なみ しろむ を みれば うなばら に くに うまし けむ かみ の よ を おもふ (沖つ波白むを見れば海原に国生ましけむ神の代を思ふ)
歌意 汽車の窓から沖の波が白むのを見ていると海の中に国をお作りになった神代のことが思われる。 学生を連れた最後の奈良旅行だったが、敗色強い時代の影響を受け、国と民族への思いがこの歌を詠わせた。そうした背景なしに古代憧憬の歌と考えたいがそうではない。
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長崎のさる寺にて
おくり いでて かたる はふし の ゆびさき に みづ とほじろき わうばく の もん (送り出でて語る法師の指先に水遠白き黄檗の門)
歌意 山寺の僧が私を山門まで送り指差し語る方向に、はるかな長崎の海が白々と見えている、この黄檗宗の寺の門から。 海を見下ろす山腹に立つ黄檗宗の寺の門から俯瞰する長崎の光景である。「水遠白き」という古歌にもある言葉がよく合っている。
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六日午後堀の内に送りて荼毘(だび)す(第1首)
おくり ゆく ひつぎぐるま の のき の は に きざめる くも の ひかり さぶし も (送りゆく柩車の軒の端に刻める雲の光さぶしも)
歌意 あなたを野辺に送る霊柩車の屋根の軒に彫ってある金色の雲形模様の光も寒々しくみえる。 寒々としているのは八一の心である。野辺の送りでは金箔の雲の耀きも寒々と淋しいものである。火葬場へ叔父を送る八一の心は深い悲しみに満ちている。
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村荘雑事(第14首)
おこたりて くさ に なり ゆく ひろには の いりひ まだらに むし の ね ぞ する (おこたりて草になりゆく広庭の入日まだらに虫の音ぞする)
歌意 除草を怠って草茫々になった秋艸堂の広い庭に夕陽が斑模様に差し込んで、草むらのあちこちから秋の虫の声が聞こえてくる。 秋の庭の夕日を「いりひまだらに」と表現して素晴らしく、まさしく秋の歌と言ってよい。敷地3千坪、宅地5百坪あったと言う下落合秋艸堂ならではの歌である。除草は追いつかない、あるいは怠けたか、しかし秋艸堂の名にふさわしく秋の草が生え広がるに任せたのかもしれない。
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山中高歌(第3首) おしなべて さぎり こめたる おほぞら に
なほ たち のぼる あかつき の くも (おしなべてさ霧こめたる大空になほ立ち昇る暁の雲)
歌意 どこもかしこも一面に霧でおおわれている大空に、なお湧き出て立ちあがってゆく朝の雲であることよ。 心身ともに疲弊して山田温泉に出かけた八一をダイナミックな大自然が待ち受けていた。山中の朝の躍動する霧と雲が彼の心をとらえるとともに、癒し始めていく。
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法隆寺の金堂にて(第1首)
おし ひらく おもき とびら の あひだ より はや みえ たまふ みほとけ の かほ
歌意 (寺の案内人が)押し開く重い扉がまだ開いていないのに、み仏のお顔がもう私の目の前にお現れになった。 大正9年、40歳の八一は訪れる人が少ない金堂の前に期待を持って立った。前夜、受付に新潟よりと伝えている。 開かれていく扉から差し込むわずかの光の中に現れる仏たちへの賛美は、刹那の感動として見事に表現されている。残念ながら、現在、正面の扉は閉じられていて東の入口が開け放たれている。しかも、大勢の観光客に囲まれている。 八一のこの美しい歌に導かれながら、金堂の仏や壁画に対面する喜びを大事にしたい。 (左の写真は寺の関係者が「昔はここを開けていたのですよ」と教えてくれた金堂正面の扉) 注1 法隆寺 607年、聖徳太子が斑鳩宮のそばに建立したと伝えられ、670年に焼失したが再建された。現存する世界最古の木造建築で、金堂・五重の塔・講堂・南大門・中門・夢殿・回廊などがある。また、釈迦三尊像他多数の国宝を含む膨大な寺宝を持つ。 注2 重き扉(随筆・渾齋隨筆 自作小註より) 私がこの寺に最初御参りをした頃には、一度ごとに案内人が、鍵を持って行って、扉をあけて入れてくれ、出る時には一々閉めたものであった。・・・・・・実際、あの頃、静かな伽藍に響きわたるその軋みや轟きは、まことに餘韻の深いものであった。私はこの二首の歌で、折々その頃を思い出している。 注3 参照 法隆寺の金堂にて 第2首
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雁来紅(第2首) おちあひ の しづけき あさ を かまづか の したてる まど に もの くらひ をり (落合の静けき朝をかまづかの下照る窓に物食らひをり)
歌意 落合の静かな朝、葉鶏頭が赤く照り映える窓辺で私は食事をしている。 丹精に育てた葉鶏頭が美しく照り映える窓辺、無造作に「ものくらひおり」と表現するなかに葉鶏頭に対する八一の愛着を感じ、次歌への期待が高まる。
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八月二十三日友人山口剛を誘いて大塚に小鳥を買ふ(第11首)
おちあひ の のなか の もり の ひとつや に さげて わが こし かご の いかるが (落合の野中の森の一つ家に提げて我が来し籠の斑鳩)
歌意 落合の森の中にある一軒家に私が手に下げて持ってきた籠の鳥こそ私の求める斑鳩だ。 手に入れた斑鳩を長い道のりを歩いて落合秋艸堂に運んだ。その喜びが溢れている。 注 「ひとつや」について自註鹿鳴集(昭和29年)で以下のように書いている。 作者はその頃は、真にかかる言葉にて呼ぶに似合はしき家に住み居たり。自ら「村荘」と呼び慣れたるもこの家なり。作者は、かって原版『鹿鳴集』の例言に記して曰く『「村荘雑事」、「小園」に詠ずるところは、今の淀橋区下落合三丁目千二百九十六番地なる市島春城翁の別業なり。もと名づけて「閑松菴」といへり。著者は、さきに小石川区豊川町五十八番地に住したりしが、大正十一年四月に至り、慨するところありて遽(にわか)に職を辞し、之がために生計一時に艱(なや)めり。翁はこの窮状を憐み、貸すにこの邸を以てせられしかば、乃ち欣然として群書と筆硯(ひつけん)とを携えて移り来り、その名を「秋艸堂」と改め、居ること十六年に及び、自適最も楽めり。土地高爽にして断崖に臨み、秋冬の候、日々坐して富士を望むべし。庭上に鬱林あり、脩竹(しゆうちく)あり、叢菊(むらぎく)あり、果樹菜圃(さいほ)あり、また冷泉あり。鳴禽(めいきん)の声は四時絶ゆることなし。今此(この)稿を校するに当り、追感最も切なり。之を記し翁の曠懐を伝えんとす』。
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東大寺の某院を訪ねて おとなへば そう たち いでて おぼろげに われ を むかふる いしだたみ かな (おとなへば僧立ち出でておぼろげに我を迎ふる石畳かな)
歌意 訪問すると1人の僧が誰なんだろうと言うおぼろげな顔をしながら、私を迎えてくれた。この寺の石畳の上で。 八一を知らない僧に出迎えられて、戸惑っている彼の顔が浮かんでくる。この頃(大正14年)奈良に移住した志賀直哉を中心にしたサロンがあった。後に志賀が奈良を去るとその流れをくんで観音堂の上司海雲住職によって観音院サロンが開かれ、八一や入江泰吉、杉本健吉など多くの文化人が出入りした。
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当麻寺に役小角の木像をみて(第1首) おに ひとつ ぎやうじや の ひざ を ぬけ いでて あられ うつ らむ ふたがみ の さと (鬼ひとつ行者の膝を抜けいでて霰うつらむ二上の里)
歌意 役の行者の膝を抜け出した一匹の鬼が、二上の里の空に上って戯れに霰を降らしているのだろう。 自註鹿鳴集で“(かの鬼が)・・・この戯(たわむれ)を為すかと空想を馳(は)せて詠みたるなり”と言う。寺を出た時に急に降ってきた霰、まだ晩秋なのに不思議なことだと思った八一が数々の役の行者の伝説を思い浮かべ、背景にして詠む。 山の麓なので二上の里(当麻の里)の天候は刻々と変わるようだ。訪れた今春、遊び心豊かなこの歌を味わいながら、瞬く間に変わり行く空と雲を見上げていた。
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閑庭(第30首) おほい なる かめ の そこひ に すむ うを の ゆたけき こころ あやに ともし も (大いなる瓶の底ひに住む魚のゆたけき心あやに羨しも)
歌意 大きな瓶の奥底に住んでいる魚のゆったりとした自然な心がむしょうに羨ましいことだ。 人的問題から心身ともに疲弊していた山中高歌から放浪唫草の時代を経て、下落合秋艸堂に落ち着いた頃が投影されているのであろう。
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閑庭(第28首) おほい なる かめ はこび きつ ふるには の をぐさ はだらに もえ いづる ころ (大いなる瓶運び来つ古庭の小草はだらに萌え出づるころ)
歌意 めだかを飼うための大きな瓶を運んできた。我が家の古い庭にまだらに草が萌え出るころに。 前の歌で購入したと詠んだ瓶が秋艸堂の庭に運び込まれた。これでめだかが飼えると喜ぶ八一の顔が浮かんでくる。
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火鉢(第1首) おほい なる カントンやき の みづがめ を ひばち と なしつ ふゆ の きぬれば (大いなるカントン焼の水瓶を火鉢となしつ冬の来ぬれば)
歌意 大きい広東焼の水瓶を火鉢として使うことにした、冬が来たので。 今ではほとんど見ることが出来なくなった火鉢だがこの当時は必需品。すべての物資が乏しくなった敗戦間近、水瓶を転用して使うことを思い付いた八一の夜から朝までの一夜を詠う第1首。
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火鉢(第2首) おほい なる ひばち いだきて いにしへ の ふみ は よむ べし ながき ながよ を (大いなる火鉢抱きて古の書は読むべし長き長夜を)
歌意 大きい火鉢を抱いて、昔の書物を読むことにしよう、冬の長い夜を。 広東焼の水瓶を代用した火鉢を気にいり、夜を徹して愛読書である古典を読もうと決意する。戦時下の物資の乏しい生活を強いられた秋艸堂の夜である。
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火鉢(第3首) おほい なる ひばち の そこ に かすか なる ひだね を ひとり われ は ふき をり (大いなる火鉢の底にかすかなる火種を一人我は吹きをり)
歌意 大きい火鉢の底にあるわずかな火種を燃え上がらせようと私は一人で吹いている。 物資の欠乏した時代、火種も炭も乏しかっただろう。少しでも暖をとろうと吹いている己を詠う。侘びしい夜の姿である。
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やがて紀元節も近づきければ古事記の 中巻なる神武天皇の条を読みて(第7首)
おほかみ の みこ を はかる と し が まけし
おし に うたえつ うだ の えうかし (大神の御子を謀ると己が設けし押機に打たえつ宇陀の兄宇迦斯)
歌意 大神の御子である神武天皇を謀って殺そうと自分が作った押機に打たれて死んだ宇陀の兄宇迦斯であることよ。 古事記の逸話を詠んだもの。第18首から第32首までは戦後一度削除し、後に復活したものである。
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つらつら世情をみてよめる(第1首) おほき ひと いでて をしへよ もろびと の よりて すすまむ ひとすぢ の みち (大き人出でて教へよ諸人のよりて進まむ一筋の道)
歌意 この昏迷する世情の中で、偉大な指導者よ、出現して教えよ。多くの人がより所として進むべき一筋の道を。 戦争に敗れ、日本中が混乱と虚脱の状態にあった。きい子の死(7月)に消沈する八一だったが、徐々に現実世界との接触を始める。東京へ帰ることも考えていたが、泊まる場所も無く、大学の再建も見通しが無い状態だった。そうした中での八一の叫びが3首詠われる。 しかし、東京への移転のめどは無く、この後、新潟特有の暗い冬の生活が待っていた。
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五月二十二日山本元帥の薨去をききて(第4首) おほそら の ほし に つづりて よろづよ に みな は つたへむ ヤマモトイソロク (大空の星に綴りて万代にみ名は伝へむヤマモトイソロク)
歌意 大空の星を綴ってヤマモトイソロクと言う星座を作り、その星座と名を永遠に伝えよう。 大学卒業後赴任した有恒学舎時代に天文学にいそしんだ八一の知識と山本五十六への崇敬の念がこの作品を作っている。
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四月三十日三浦寅吉に扶けられて羽田より飛行機に乗りてわづかに東京を立ち出づ(第1首) おほぞら を わたれば さむき ころもで に せまりて しろき あめ の たなぐも (大空を渡れば寒き衣手に迫りて白き天の棚雲)
歌意 飛行機に乗って大空を渡っていくと寒さを感じる着物の袖に白い天空のたなびく雲が迫って来る。 杖と鞄だけを持って東京を逃れる八一にとって生涯たった一度の飛行経験だった。緊張して搭乗した八一だが、この時のことを7首詠んでいる。
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病中法隆寺をよぎりて(第5首) おほてら の かべ の ふるゑ に うすれたる ほとけ の まなこ われ を み まもる
歌意 法隆寺金堂の古い壁画、その落剝し消えてしまいそうな仏の眼が私をじっと見守っている。 落剝、荒廃を嘆く八一の心(眼)は壁画の仏を凝視する。そこでは生きた仏が静かに、しかし確実に作者を見守っている。主客の一体化がこの歌を作ったといえる。 歌人吉野秀雄が鹿鳴集歌解でこう書いている。『「ほとけのまなこ」はいづれの仏眼でもよく、壁画全部のそれでも差支えない。しかし、「みまもる」感じから言えば、西大壁阿弥陀浄土の左右の脇侍が眼前に浮かんでくる。』右上の写真をクリックしてほしい。壁画中もっとも有名な6号画・阿弥陀浄土であり、右脇侍は観音菩薩、左脇侍は勢至菩薩である。 なお、仏の眼を詠んだものに新薬師寺・香薬師の歌(1、2)がある。しかし、意味合いは違う。 第1首 第2首 第3首 第4首 第5首 第6首 第7首 注 吉野秀雄 歌人。1902年高崎生まれ。慶應義塾大学を胸を病んで中退し、闘病中、正岡子規、伊藤左千夫をはじめ「アララギ」派の短歌に親しみ、作歌を始める。この頃から会津八一の「南京新唱」にひかれ、のちに師事し、唯一の門弟となる。また、万葉集と良寛に傾倒し、「苔径集」「早梅集」「寒蝉集」「良寛和尚の人と歌」などを発表する。1967年、鎌倉で病没。65歳。
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東大寺懐古(第2首) おほてら の には の はたほこ さよ ふけて
ぬひ の ほとけ に つゆ ぞ おき に ける (大寺の庭の幡鉾さ夜ふけて縫ひの仏に露ぞ置きにける)
歌意 大仏殿の前庭には、仏たちを刺繍した幡鉾が並び、夜が更けていく。その仏たちに夜露が降り、しっとりと濡れている。 東大寺懐古第1首で歌われる天皇皇后の夜の行幸の高まりの中で、刺繍された仏たちに秋の夜露が降りたと詠む。仏を刺繍した幡鉾と夜露を詠み込む事によって、大仏殿前の状況がありありと浮かんでくる。「はたほこ」「ぬひのほとけ」の意味がわかれば、歌意とこの歌の壮大さと繊細さが自然にわかってくる。 幸いにも奈良の友人・鹿鳴人から彼の懇意にしている井上博道氏の写真が届いた。幡鉾や東大寺前の法要の参考になる。 八一は鹿鳴集自註で「はたほこ」ついて以下のように解説する。 『万葉集』には「幡幢(はんとう)」、『和名類聚鈔(わみようるいじゆしよう)』には「宝幢」の漢字を宛てたるも、作者はむしろ『東大寺要録』の如く「幡鉾」の二字を宛てんとす。即ち鉾の形をなせる竿に幡(ハタ)を取りつけたるものなればなり。・・・・ 晩年、門下で有名な歌人・吉野秀雄とも書簡でこの「はたほこ」について意見を交わしている。吉野秀雄はこの歌を高く評価する。 注 写真は大仏殿庭儀法要 井上博道氏撮影のものである。
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十七日東大寺にて(第1首)
おほてら の ひる の おまえ に あぶら つきて
ひかり かそけき ともしび の かず (大寺の昼のお前に油尽きて光かそけき灯火の数)
歌意 ま昼の東大寺の大仏の前の油が尽きかけてかすかな光になった数々の灯火であることよ。 暗い時代に入った昭和14年は東大寺は訪れる人も少なかったし、数ある灯火のかすかな光は昼間はとりわけ寂しく見えただろう。眼前をそのまま詠ったものだが、第2首との関連でとらえると理解が深まる。第2首で、寺あるいは燃え続ける灯火に対比して人間の命のはかなさを詠むなかに八一の深い寂寥感が感じ取れる。
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十七日東大寺にて(第2首)
おほてら の ひる の ともしび たえず とも
いかなる ひと か とは に あらめ や (大寺の昼の灯火絶えずともいかなる人か永久にあらめや)
歌意 東大寺の昼の灯火がたとえ消えないで燃え続けていようとも、どんな人も永遠にこの世にいることができるだろうか、生きてはおれないのだ。 燃え続ける灯火に対比して有限な人間の生命を詠う。そこには八一の人生のはかなさに対する寂寥感が漂う。だが、短い生命を確実に認識することはとりもなおさず、人生の大切さを強調していると言える。
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東大寺懐古(第1首) おほてら の ほとけ の かぎり ひともして
よる の みゆき を まつ ぞ ゆゆしき (大寺の仏の限り灯ともして夜の行幸を待つぞゆゆしき)
歌意 東大寺の大仏、そして全ての仏に灯明を上げ、天皇皇后の夜の行幸をお迎えするために待っている様は、特別でとても恐れ多いことだ。 東大寺を建立した聖武天皇の時代を懐古する。あの広大な東大寺の夜を万余の灯明が照らし出す華やかでかつ厳かな様子を見事に歌い上げている。華やかで美しい灯りと天皇を迎える数千人の僧侶達に埋め尽くされた東大寺を目を閉じて想像してみるといい。
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唐招提寺にて(第1首) おほてら の まろき はしら の つきかげ を つち に ふみ つつ もの を こそ おもへ (大寺のまろき柱の月影を土に踏みつつものをこそ思へ)
歌意 唐招提寺の丸いエンタシスの柱が月の光で大地にくっきりと影を落としている。その影を踏みながら私は深いもの思いに耽っている。 早稲田大学文学部の講師として東洋美術史を教えた八一にはギリシャ美術史等の素地があった。遠くギリシャ文化まで思いを寄せながら、深い思いに耽る。随筆・渾齋隨筆によるとこの歌を読んだ日は夕方、法隆寺の回廊の丸い柱の影で上の句を口ずさみ、夜、唐招提寺で下の句を読み据えたとある。故植田重雄早大教授はこの歌を激賞する。歌碑は金堂左にある。また寺には有名な鑑真和上像や多くの優れた仏像がある。(歌碑建立は昭和25年中秋) 注 石碑は06・7・12 友人鹿鳴人撮影 八一書入り茶器は新宿中村屋作成のもの
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九月一日大震にあひ庭樹の間に遁れて(第1首) おほとの も のべ の くさね も おしなべて
なゐ うちふる か かみ の まにまに (大殿も野辺の草根もおしなべてなゐうち振るか神のまにまに)
歌意 皇居も野辺の草も全て一様に地震は打ち振るわしたのだろうか、造化の神様の思うままに。 とてつもなく大きい地震だった。「おほとの」を天皇、「くさね」を民衆と解せば、この一句で地震の大きさを如実に表している。
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三日榛名湖畔にいたり旅館ふじやといふに投ず(第4首) おほなら に こなし さき そふ みづうみ の きし の いはほ に つる は なに うを (大楢に小梨咲きそふ湖の岸の巌に釣るは何魚)
歌意 大楢に寄りそって小梨の花が咲いている湖の岸辺の岩に立って、釣り人は何の魚を釣っているのであろう。 青い湖、新緑の楢、淡紅の小梨、岩の上の釣り人、美しい光景が眼前に広がってくる。
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二十五日大原に三千院寂光院を訪ふ(第2首) おほはら の ちやみせ に たちて かき はめど かきもち はめど バス は みえ こず (大原の茶店に立ちて柿食めどかき餅食めどバスは見えこず)
歌意 大原の茶店に立って柿やかき餅を食べて待っているけどバスはなかなかやってこない。 八一はこの後修学離宮訪れる予定でバスを待っていた。観仏三昧ではこの歌の次に離宮での歌が詠まれている。「かき はめど」から八一の柿を詠んだ歌を思う。 滝坂の歌 秋篠寺の歌。 第1首 第2首
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四月三日神武天皇祭にあたりて(第1首) おほみて に ぬぼこ とり もち をたけび に うたひまし けむ かむながら かも (大御手に瓊矛取り持ち雄叫びにうたひましけむ神ながらかも)
歌意 神武天皇は御手に玉で飾った矛をお持ちになって、勇ましく雄叫び上げて東征の歌を歌われたことであろう。神でおありになるままで。 九州から大和への神武東征の神話を背景にして、天皇の国家創造を讃え、戦争への揺るぎない国家の存在を詠う。
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泰山木(第4首) おほらかに ひとひ を さきて うつろへる たいさんぼく の はな の いろ かも (おほらかに一日を咲きて移ろへる泰山木の花の色かも)
歌意 ゆったりと一日だけ咲いて、すぐに色褪せていく泰山木の花の色よ。 泰山木の花の寿命は短く、一日花なので大きい白い花は夕方には黄色から茶色になって終わる。たった一日で色褪せる花に心動かされて詠った。
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東大寺にて(第1首) おほらかに もろて の ゆび を ひらかせて おほき ほとけ は あまたらしたり
歌意 大きくゆったりと両手の指をお開きになって、大仏様はこの宇宙に広く満ち広がっておられる。まるで宇宙そのもののように。 明治41年八一が訪れた時は大修理中で、正面の高い足場から参拝したと言う。そうした視点が「あまたらしたり」に関連したのかもしれない。南京新唱の30首目に出てくる東大寺の歌は、大仏を簡潔にとらえ、かつ仏教の宇宙観も詠みこんでいる。歌碑が南大門と大仏殿の間にある。2000年9月23日、友人達と訪れた時、その大きさと見事さに感銘した。(歌碑建立は昭和25年10月) 春日野(八一と杉本健吉の合同書画集)より
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若き人々に寄す(第3首) おもへ ひと なが もろうで の たぢから に よりて かかれる ちちはは の くに を (思へ人汝がもろうでの手力に寄りてかかれる父母の国を)
歌意 思ってください、若い人々よ。父母の国はあなたたちの力にかかっていることを。 戦地で戦う若い人々に呼び掛けた悲痛な叫びである。こう詠わずにはいられなかった。
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やがて松ヶ崎なる新潟飛行場に着して(第2首) おり たてば なつ なほ あさき しほかぜ の すそ ふき かへす ふるさと の はま (降り立てば夏なほ浅き潮風の裾吹き返す故郷の浜)
歌意 新潟飛行場に降り立つと夏もまだ浅い潮風が着物の裾を吹き返していく故郷の浜辺だった。 新潟に逃れ着いた八一の心に語りかけたのは慣れ親しんだ故郷の浜であり、潮風だった。
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