会津八一(あいづ・やいち) 目次へ 1881~1956。新潟の生れ。号 秋艸道人(しゅうそうどうじん)。早稲田で学んだのち、坪内逍遥の招きで早稲田中学校教員となる。その後文学部教授に就任、美術史を講じた。 古都奈良への関心が生み出した歌集『南京新唱(なんきょうしんしょう)』にその後の作歌を加えた『鹿鳴集』がある。奈良の仏像は八一の歌なしには語れない。歌人としては孤高の存在であったが、独自の歌風は高く評価されている。鹿鳴集に続いて『山光集』『寒燈集』を発表している。 書にも秀で、今では高額で売買される。生涯独身で通したが、慕う弟子達を厳しく導き、多くの人材を育てた。 会津八一の生涯・年表 新潟市會津八一記念館 早稲田大学會津八一記念博物館 |
西大寺の四王堂にて まがつみ は いま の うつつ に あり こせど
ふみし ほとけ の ゆくへ しらず も (まがつみは今のうつつにありこせど踏みし仏の行方知らずも )
歌意 (四天王に)踏みつけられていた邪鬼たちは今も変らずこのように残っているが、仏たちは焼失して行方知れずになっている。(なんと皮肉なことだろう!) 八一自身が言うように用語が非常に難しい歌だ。千年余存在し続ける邪鬼達、それに対し当時の(人を救う)仏たちが焼失して今は無いことの皮肉に心を動かしているのだ。後年、再鋳された貧弱な仏たちとの対比を指摘し、作者は歌の理解のために四王堂の中に入ることを薦めている。 注 ありこす (自註鹿鳴集で万葉集の「ありこす」とは意味が違うことを述べ、以下のように展開する) 造語は・・・許さるべきことにもあれば、ひたすら幽遠なる上古の用例にのみ拘泥し、 死語廃格を墨守すべきにあらず。新語、新語法のうちに古味を失わず、古語、古法のうち にも新意を出し来るにあらずんば、言語として生命なく、従って文字として価値無きに至るべし。
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二十五日大原に三千院寂光院を訪ふ(第1首) まかり きて ちやみせ に たてど もんゐん を かたりし こゑ の みみ に こもれる (まかり来て茶店に立てど門院を語りし声の耳にこもれる)
歌意 寂光院を辞して門前の茶店に立っている今も建礼門院を語った尼僧の言葉が耳に残っている。 平家物語の最後で語られる建礼門院の隠遁生活と他界は、冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」を如実に表す場面で、その哀史が多くの人の涙を誘う。おそらく八一もそうした心で尼僧の語った言葉が耳に残ったのであろう。 第1首 第2首
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四月二十七日ふたたび早稲田の校庭に立ちて(第4首) まかり きて わせだ の たゐ に いくとせ を きく つくらしし おほき ひと は も (罷り来て早稲田の田居に幾年を菊作らしし大き人はも)
歌意 官を辞してきてから早稲田の田舎に来て、何年も菊を作られた偉大な人、大隈重信候よ。 学生のいない校庭に立って、ありし日の初代総長・大隈重信を追想する。八一は放浪唫草で以下のように詠っている。 旅中たまたま新聞にて大隈候の病あつしと知りて 解説 わせだ なる おきな が やまひ あやふし と かみ も ほとけ も しろし めさず や
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またあるあした(第2首) まくらべ に しひ の こずゑ を こぼれ いる
あさひ まぶし と きぬ かつぎ ねつ (枕辺に椎の梢をこぼれいる朝日まぶしと衣かつぎ寝つ )
歌意 私が寝ている枕近くに椎の木の梢からこぼれるように差してくる朝日がまぶしいと着物をかぶって寝ていた。 起きることのできない病人に朝の光が差し込んでくる。臥せているより仕方のない病床を詠う。
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木葉(このは)村にて(第8首)
ましらひめ さる の みこと に まぐはいて みこ うまし けむ とほき よ の はる (ましら姫猿の尊にまぐはいて御子生ましけむ遠き代の春)
歌意 猿のお姫様と猿の尊が契って、御子をお産みになったであろう遠い昔、古代の春よ。 木葉村にて8首の最後、木葉猿を取り上げて愉快に詠んできた締めくくりは八一の大好きな古代への想像が膨らむ。猿たちを神話の時代に生き返らせた楽しい歌である。
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十月十五日京都にいたり数珠屋町に宿る まちなか に あした の かね の つき おこる きやうと に いねて あし のばし をり (町中に朝の鐘の撞きおこる京都にいねて足のばしをり)
歌意 町の中で朝の鐘を撞く音が間近に聞こえる京都の宿に寝て、私は足を伸ばしてゆったりとしている。 朝の鐘の音が聞こえる京都でのゆったりした朝を詠う。泊まった宿の西には東本願寺、西本願寺があり、まさしく京都の町そのものである。 しばらく京都に住んだことがあるが、鐘の音の聞こえる雪の日の朝は格別のものだった。
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街上(第3首) まちびと が きばこ に まきし こまつな の このごろ のびて はる はて に けり (町人が木箱に蒔きし小松菜のこの頃伸びて春果てにけり)
歌意 町に住む人々が木の空き箱に蒔いて育てている小松菜が、この頃は伸びてもう春が終わってしまった。 敗戦の色濃く、食糧危機の中、空き箱のわずかな場所にも食料が植えられた。小松菜が青々と伸び、春が過ぎて行ったと情景を歌う。
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伐柳(第1首) 新潟の市中には多く柳を植ゑ特異の景観をなせり旧幕の頃河村瑞軒来りてこの地に町奉行をつとめたる時遠く人を浙江の西湖に派しその苗を求めしめて植ゑたるに始まると伝ふ十一月十五日の夕予ひとり家を出でて市中を行くに残柳の枝間にところどころ人影ありてしきりに鉈を揮ふを見る まち ゆけば えだの たかき に ひと ありて やなぎ かる なり うすぐもる ひ を (街行けば枝の高きに人ありて柳刈るなり薄曇る日を)
歌意 街を行くと柳の枝の高い所に人がいて、柳の剪定をしている、薄曇る日に。 新潟に落ち着いた八一は新潟の美しい風景である柳を見て詠う。 信濃川と阿賀野川の間の新潟市は、かつていくつもの堀が張り巡らされた水の都だった。その堀は埋め立てられて柳ばかりが残った。今では一部復元したという。 八一の柳を詠んだ名歌に望郷第3首がある。 ふるさと の ふるえ の やなぎ はがくれ に ゆうべ の ふね の もの かしぐ ころ
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奈良の町をあるきて まち ゆけば しな の りはつ の ともしび は ふるき みやこ の つち に ながるる (町行けば支那の理髪の灯火は古き都の土に流るる)
歌意 奈良の町を夜行くと中国人の床屋の灯火がこの古都の土を流れるように照らしていることよ。 千年の歴史を持つ奈良の土とひっそりとした中国人の床屋の灯火、夜の町の一風景だが心に深くしみ込んでくる情感があり、好きな歌である。この南京余唱(大正14年)では平淡な歌が多くなるが、そのことにより「上手い」と思える歌より奥深いところでの味わいが出ていると言える。
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街上(第1首) まち ゆけば ばうくうがう の あげつち に をぐさ あをめり あめ の いとま を (街行けば防空壕の上げ土に小草青めり雨のいとまに)
歌意 街を歩いていくと防空壕を掘ってできた土に小さな草が生え、青々としてみずみずしい、雨の晴間に。 敗戦の色濃く、空襲が予想される悲惨な状態の中でも自然は変わることなく営みを続ける。上げ土の小さな草に心の安らぎを感じた。
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柿若葉(第8首) 新潟市はわがためには故郷なれども今はたよるべき親戚も無ければ北蒲原郡西条なる丹呉氏の宗家をたづねて身を寄すすでに亡きわが父も幼時この家に扶養を受けられたることなどしみじみ思ひ出でて眼に触るるものすべてなつかし まつかぜ は まど に な いり そ あらは なる かりぎ の むね の うたた さむき に (松風は窓にな入りそ露なる借着の胸のうたた寒きに)
歌意 松の間を渡って来る風よ、窓からは入ってくれるな。借着なので胸があらわで寒いから。 前の歌の田の上を渡って来る風はすがすがしく、快い睡眠を与えてくれた。この歌の松風には薄着なので入ってくれるなと言う。しかし、二つの歌は共に“風”に対する親しみを詠い、八一の心が癒されて来ていることがわかる。
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東伏見宮大妃殿下も来り観たまふ (第2首) まつ たかき みくら の には に おり たたす ひがしふしみのみや の けごろも (松高きみ倉の庭に下りたたす東伏見宮の毛衣)
歌意 松が高くそびえる正倉院の庭に車から降りてお立ちになられた東伏見宮の毛皮のコートのお姿よ。 第1首では迎える側の人々を詠み、この第2首では迎える宮の姿を詠った。皇室への深い尊敬と珍しい毛皮のコートの表現から、遠い大正14年の雰囲気を味わうことができる。
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松の雪(第3首) まど ちかき まつ の しづえ の しだりえ の ゆき ふみ こぼす やまがら の こゑ (窓近き松のしづ枝のしだり枝の雪踏みこぼす山雀の声)
歌意 窓に近い松の下枝の垂れ下がったところの雪を踏み落としながら鳴く山雀の声よ。 きびきびと動き回り、雪をはねながら鳴く山雀の姿をとらえて詠う。小鳥好きの観察眼である。
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尾張篠島をおもふ(第1首) まど ひくき はま の やどり の まくらべ に ひねもす なきし ねこ の こ の こゑ (窓低き浜の宿りの枕辺にひねもす鳴きし猫の子の声)
歌意 窓の低い浜の宿で寝ている私の枕もとで一日中ずっと猫の子の声が聞こえていた。 大正元年、腎臓の不調を抱えた八一は世良延雄(学生)を連れて西下(奈良旅行)、その途中名古屋在住の義弟・桜井天壇(八高教授)一家の人々と篠島に渡ったようだ。そんな病身の心に子猫の哀れな鳴き声が強く響いたのであろう。この歌は第2首からわかるように10年後にその時のことを思い出して詠ったものである。 平成25年5月17日、友人と篠島にわたり、念願であった八一のこの歌碑に対面することができた。
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四月二十四日早稲田の校庭を踏みつつ(第3首) まなび す と とし の よそぢ を かかげ こし わが むなぞこ の ほそき ともしび (学びすと年の四十路を掲げ来し我が胸底の細き灯火)
歌意 この大学で学問をするのだと40年間ずっと掲げてきた私の胸底の細い灯火よ。 学問への情熱をかけてきた40年、それは学究としての強い意志に支えられてきた。細い灯火とは強い灯火と読み変えても良い。ただ、次歌でこの灯火も油が乏しくなったと吐露する。
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秋篠寺にて(第2首) まばら なる たけ の かなた の しろかべ に しだれて あかき かき の み の かず (まばらなる竹の彼方の白壁にしだれて赤き柿の実の数)
歌意 まばらな竹林のむこうにある白壁のところに枝をたわませて沢山の柿の実がなっていることよ。 ひなびた秋篠の里の青い竹林、白い壁、赤いたわわな柿。か行音を有効に使って、リズミカルに表現した美しい歌だ。写真は、秋篠寺の白壁と秋篠町に広がる田園に実っている柿の木。
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村荘雑事(第8首)
まめ ううる はた の くろつち このごろ の あめ を ふくみて あ を まち に けむ (豆植うる畑のくろ土この頃の雨を含みて吾を待ちにけむ)
歌意 豆を植えるための畑の畔の土は、ちょうどこの頃の雨を含んで植え時だと吾を待っていただろう。 花作り以外にも、豆なども下落合秋艸堂で作った。畑の畔(くろ)の土が私を待ち望んでいたと八一の心根は自然と一体化する。過去の迷いを払拭し、自然と語る落ち着いた環境が奈良美術研究の深化と多くの奈良の名歌を生みだすことになったのであろう。
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滝坂にて(第2首) まめがき を あまた もとめて ひとつ づつ
くひ もて ゆきし たきさか の みち (豆柿をあまた求めて一つづつ食ひもて行きし滝坂の道)
歌意 豆柿を沢山買って、食べながら登っていった滝坂の道よ! 仏を繊細に詠う八一の日常における野性的な一面を垣間見ることが出来る。しかし、その時の深い感動を詩歌として表出する力は深い感受性無しにはありえない。秋の滝坂を豆柿をかじりながら登っていく作者の姿が詩情豊かに浮かび上がってくる。 「滝坂の道としてではなく柳生街道として親しんだ」と地元の友人は言う。「やぎゅう」ではなく「たきさか」この語感を楽しみたい。 注 滝坂 (第1首の自註でこう表現している) 『大和名所図会』には滝坂を紅葉の名所とし、里人数輩が、渓流の岸なる樹下に 毛氈(もうせん)を敷きて、小宴を開くの図を出し、その上に「千里ノ楓林(ふうりん)ハ 煙樹深ク、朝トナク暮トナク猿吟アリ」と題せり。文字の誇張はさることながら、 この辺に野猿の多きは、これにても見るべし。
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十二月二十四日遠く征戍にある門下の若き人々をおもひて(第1首) みいくさ は よとせ を すぎぬ たち とりて わが ともがら の いで たちし より (み戦は四年を過ぎぬ太刀取りて我が輩の出でたちしより)
歌意 戦争は既に4年が経った。私が教えた親しい弟子たちが太刀をとって出征して行ってから。 真珠湾の奇襲で戦争は拡大し、泥沼に入って行く。戦地に赴いた自らの教え子たちの身を案じて詠う。 植田重雄は「會津八一の生涯」の中の「大戦と望遠」で以下のように書いている。 “開戦の日(12月8日)、学園は異常な興奮の坩堝(るつぼ)と化して、どの授業も戦争の話で持ちきりであった。近藤潤次郎(中国古典)は「この戦争ははじめ日本が勝ちます、しかしあとで負けます」と、さりげなく言った。道人は開口一番、「授業を放り出して戦争の議論などしていられない程、重大なことになった。われわれは、寸暇を惜しんで勉強するのだ」と語気を励まして、英語のテキストを読みつづけた。” 大学では、まだこの頃、戦争礼讃一辺倒ではなく冷静な判断をする先生たちがいた。
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春日神社にて みかぐら の まひ の いとま を たち いでて もみじ に あそぶ わかみや の こら (み神楽の舞ひの暇に立ち出でて紅葉に遊ぶ若宮の娘ら)
歌意 神楽を舞う合間に外に出て、紅葉のもとで遊ぶ若宮神社の若い巫女たちよ。 昔、奈良の友人に案内されて若宮の巫女の舞いを見た時のことが鮮明に浮かんでくる。その時は若葉が美しい春だったが、この南京余唱の歌を読むたびにイメージが重なる。 紅葉のもとで遊ぶ白い着物と赤い袴の若い娘たちの情景を八一は美しいと自註で語っている。 春日野(八一と健吉の合同書画集より)
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厳島にて(第2首)
みぎは より ななめに のぼる ともしび の はて に や おはす いちきしまひめ (みぎはより斜めに登る灯火の果てにやおはす市杵島姫)
歌意 灯火が水際より山上へ斜めに灯っている、その一番奥にいらっしゃるのだろうか、市杵島姫は。 船から見える厳島神社の灯火から市杵島姫を想像する八一の古代への造詣の深さがわかる。現在では厳島神社の夜景は名所になっている。
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松濤(第5首)
みこしぢ の はて なる たゐ に やどり して くに の まほら の あやに こほし も (み越路の果てなる田居に宿りして国のまほらのあやに恋ほしも)
歌意 越路の果ての田舎に仮住まいしていると国の中央、東京が言い表しようがないほどに恋しく思われる。 空襲で罹災し離れた東京は若い時からの八一の活動の場だったが、その中心である早稲田大学も見通しが立たない状態だった。この歌はほとんど全てを失ったと言える老いた八一の偽らざる気持である。
その後(昭和21年)、乞われて「夕刊ニイガタ」の社長に就任、新潟に活動の場を移し生涯を終える。
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汽車より善光寺をのぞみて(第1首) みすずかる しなの の はて の くらき よ を ほとけ います と もゆる ともしび (みすずかる信濃のはての暗き夜を仏いますと燃ゆる灯火)
歌意 信濃の国の果ての暗い夜の中に善光寺如来がおられますよと寺の赤々とした明かりが燃えている。 伝説の仏像が安置される善光寺の明かりを遠くに見て、帰省の折に詠んだ若い時の歌と思われる。明治から大正初期、東京新潟間は長野廻りで16時間かかった。その後大正3年に郡山(福島)廻りが開通し、長野を通らずに12時間半になったと言う。 注 善光寺如来 善光寺如来は善光寺式阿弥陀三尊。「善光寺縁起」では、信州善光寺の秘仏本尊・阿弥陀三尊像は、欽明天皇の時代(6世紀)に百済の聖王(聖明王)から伝えられた日本最初の仏像であると言う。この本尊は鎌倉時代以来秘仏とされ、ここ数百年間見た者はいないとされている。 また、伝説によると難波の堀江(現在の大阪市)に捨てられたこの仏像を602年(推古天皇10年)頃、本田(本多)善光が発見し、出身地である信濃国に持ち帰って祀った。その後642年(皇極天皇元年)、長野県長野市に建てられた善光寺に仏像は移されたと言う。
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山中高歌(第1首) みすずかる しなの の はて の むらやま の
みね ふき わたる みなつき の かぜ (みすずかる信濃のはての群山の嶺吹き渡るみなつきの風)
歌意 信濃の国の果てに連なる山々、その高い峰を吹き渡っていく6月の風はなんとさわやかなことだろう。 早稲田中学教頭時代、学校運営をめぐる内紛で疲れた心身を癒すため山田温泉へ。その時の山中高歌10首の第1首。(大正10年) この歌の調べの良さも味わいたい。第1、4、5句が「み」で始まる。「みすずかる」「みねふき」「みなつき」の音韻の重なりからくる調べ。 山中高歌・序 「山田温泉は長野県豊科駅の東四里の谿間にあり山色浄潔にして嶺上の白雲も以て餐ふべきをおもはしむかって憂患を懐きて此処に来り遊ぶこと五六日にして帰れり爾来潭声のなほ耳にあるを覚ゆ」
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被服廠(ひふくしよう)の跡にて(第2首) みぞがは の そこ の をどみ に しろたへ の
もの の かたち の みゆる かなしさ (溝川の底のをどみに白妙の物の形の見ゆる悲しさ)
歌意 溝川の底の澱んでいる所に白色をした物の形、死んだ人が見えることはなんと悲しく惨いことか。 大地震の後の惨たらしい光景は長く続いた。東京大空襲の被服廠跡の脇に流れる小川に沈んだ焼死体は放置されていた。
厳然たる事実を直視したこの歌はその現実を後世に伝える。
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二十四日奈良を出て宇治平等院黄檗山万福寺を礼す(第2首) みそら より みなぎる たき の しらたま の
とどめ も あへぬ ふで の あと かな (み空よりみなぎる滝の白玉のとどめもあへぬ筆の跡かな)
歌意 空からあふれんばかりに落ちてくる滝の白玉のように一気呵成に書かれた力強く流麗な筆の運びである。 「とどめもあへぬ」が歌の中心で、その力強さを表現するために勢いある滝の流れを序として使った。木庵、隠元の書はオリジナリティに富んだ力強い作である。第1首の解説で八一は「ただし作者は平素隠元、木庵等の書道に専ら随喜し居るものにはあらず」(自註鹿鳴集)と記すが、彼らの独特の書に一定の評価をしたと言える。 第1首 第2首 第3首
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その夜家にかへりておもふ(第2首)
みぞれ ふる こし の むらやま さよ ふけて きみ が みたま の こえ がて に せむ (みぞれ降る越のむら山さ夜更けて君が御霊の越えがてにせむ)
歌意 みぞれが降りしきる越後新潟の山々は、この夜更けにあなたの魂が故郷に越えていこうとしていることを困難にしているだろう。 東京は雪、故郷新潟はいつものように過酷な豪雪である。故郷へ帰ろうとする叔父の魂も難渋するだろうと心配する。
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天皇を迎へて(一)(第1首) みち の へ の をぐさ の つゆ に たち ぬれて わが おほきみ を まち たてまつる (道の辺の小草の露に立ち濡れて我が大君を待ちたてまつる)
歌意 道端の草の露に立ち濡れながら、わが天皇をお迎えするのだ。 昭和22年10月7日の昭和天皇新潟巡行の時に詠った歌。明治生まれで皇室を大事にし、天皇を慕う八一の歌。
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八月二十三日友人山口剛を誘いて大塚に小鳥を買ふ(第2首)
みち の べ は なつび てらせる ごこくじ の かど めぐり ゆく おほつかなかまち (道の辺は夏日照らせる護国寺の角巡りゆく大塚仲道)
歌意 鳥屋への道は真夏の暑い日差しが照らしており、その中を護国寺の角を廻って大塚仲町へ向かっていく。 鳥屋へ友と行く道のりは真夏の暑い日だったが、寺を廻りながら期待は高まったであろう。その気持ちを抑えながら、淡々と道のりを詠う。 八一は鳥好きで、自然の鳥を愛でることも飼うことも好きだった。そのことは「斑鳩」「小鳥飼」(渾斎随筆)に詳しく書いている。
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伐柳(第3首) 新潟の市中には多く柳を植ゑ特異の景観をなせり旧幕の頃河村瑞軒来りてこの地に町奉行をつとめたる時遠く人を浙江の西湖に派しその苗を求めしめて植ゑたるに始まると伝ふ十一月十五日の夕予ひとり家を出でて市中を行くに残柳の枝間にところどころ人影ありてしきりに鉈を揮ふを見る みちばた の つち に しきたる あらごも に かりて つみたる はやなぎ の えだ (道端の土に敷きたる荒薦に刈りて積みたる葉柳の枝)
歌意 道端の土の上に敷いてある荒いむしろに刈り落として積んである葉の残っている柳の枝よ。 冬前の柳の剪定で切り落とされた柳の枝が積んである。目の前の風景を的確に詠む。横たわる柳の葉の緑が印象的である。
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滋賀の都の址に遊びて後に同行の人に送る みづうみ の きし の まひる の くさ に ねて きみ が うたひし うた は わすれず (湖の岸の真昼の草に寝て君がうたひし歌は忘れず)
歌意 琵琶湖の岸辺で真昼に草の上に寝ながら君が詠った歌、その歌を決して今も忘れてはいない。 腎臓病で2度も入院したこの年、2度目の奈良旅行に旅立つ。病後のため教え子が同行した。その時のことを後に思い出して感謝の気持ちを込めて詠った。
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大和のさるかたにて みづがめ の ふた の ひびき も うつろ なる てら の くりや の くれ かぬる ころ (水甕の蓋の響きもうつろなる寺の厨の暮れかぬるころ)
歌意 水甕の蓋をする音がうつろにぼんやりと響いている寺の大きな厨の辺りは暮れようとして暮れかねている。 人気の少ない観音堂の広い厨の水甕の蓋の音をとらえて、夕暮れ前の寺の風景を表現した。 大正11年以降八一は奈良での活動に入っており、大正10年代と思われるこの作はその頃のものであろう。八一と観音堂は関係が深い。当時の住職上司海雲が昭和13年に開設した観音院サロン(滋賀直哉のサロンを継承)に杉本健吉(画家)、入江泰吉(写真家)などと共に出入りしている。 昭和19年奈良修学旅行引率中に病に倒れた八一は上司海雲の我が身への祈祷に対して以下の2首を詠んでいる。 また東大寺の海雲師はあさなあさなわがために二月堂の千手観音に祈誓をささげらるるといふに あさ さむき をか の みだう に ひれふして ずず おしもむ と きく が かなしき 解説 みほとけ の あまねき みて の ひとつ さへ わが まくらべ に たれさせ たまへ 解説 春日野(八一と健吉の合同書画集より)
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村荘雑事(第13首)
みづ かれし はちす の はち に つゆぐさ の はな さき いでぬ あき は きぬ らし (水涸れし蓮の鉢に露草の花咲き出でぬ秋は来ぬらし)
歌意 水涸れした睡蓮鉢にいつ生えたのか露草の花が咲いている、秋がやってきたらしい。 大きな睡蓮鉢の水が無くなったことに気付かなかっただろうか。ただ、そこから自然に生えた楚々とした露草の薄い藍色の花を八一は見逃さなかった。野草の小さな花にも季節を感じ、心を動かして詠うのである。
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浄瑠璃寺(第4首) みどう なる 九ぼん の ひざ に ひとつ づつ
かき たてまつれ はは の みため に (み堂なる九品の膝に一つづつ柿奉れ母のみために)
歌意 み堂の九体の阿弥陀様の膝の上に庭の柿を一つずつお供えしましょう。あなたの亡きお母さんの供養のために。 4首の浄瑠璃寺の歌は「亡き母のために柿を供えよ」で完結する。寂しい寺でたった1人の少女が庭の柿を売る。そんな中で従来の奈良や仏像の歌にはない情味溢れる八一の心には自らの亡き母への想いもあっただろう。彼には自分の母を詠んだ歌が無いので余計にそう思ってしまう。さらにこの「はは」とは全ての人の母であってよい。 浄瑠璃寺 第1首 第2首 第3首 第4首
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御遠忌近き頃法隆寺村にて(第4首) みとらし の あづさ の まゆみ つる はけて
ひきて かへらぬ いにしへ あはれ (みとらしの梓の真弓弦はけて引きて帰らぬいにしへあはれ)
歌意 聖徳太子がお使いになった梓弓に弦(つる)をかけ、引いて矢を射ればもう矢は戻ってこない。そのようにもう戻ってこない昔のことが感動を持って思われる。 この句は初句から三句までが「ひきてかへらぬ」の序句になっているので、言葉の難しさの割には歌意は単純である。(敬愛する太子の)引き返すことがない昔が偲ばれるという意味。ただ、単なる序句ではなく、実際に二十八歳の青年八一が、法隆寺の「みとらしの梓の真弓」を眼前にして感動を持って歌ったものなので、厚みのある充実した作品になっている。 写真は7月に東京国立博物館・法隆寺宝物殿で撮ったもの。弓を見てこの歌を思い出しながら、大正時代の八一と法隆寺を想った。 (参照 第1首 第2首 第3首) 注 みとらしの梓の真弓 (自註鹿鳴集) 作者は、当時は年二十八の青年として、この薄暗き綱封蔵の中にて、初めてこの古風なる 弓矢を見、この優雅なる名称を聞きて、忽(たちま)ち太子思慕の情に堪えず。恍惚(こうこつ) として忽ちこの歌を詠みしなることを、ここに付記す。
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法輪寺にて みとらし の はちす に のこる あせいろ の
みどり な ふき そ こがらし の かぜ (みとらしの蓮に残る褪せ色の緑な吹きそ木枯らしの風)
歌意 手にお持ちになった蓮華に残っている色褪せた緑に木枯しの風よ吹いてくれるな、消えてしまうといけないので。 八一は古代への憧憬と滅びゆくものへの愛惜を沢山詠っている。この歌は下記の寂れた海龍王寺を詠った歌と同じ手法で詠まれている。 しぐれ の あめ いたく な ふり そ こんだう の はしら の まそほ かべ に ながれむ 海龍王寺にて(第1首) また、風や色彩を巧みに詠む。以下の秀歌とともに味わっていただきたい。 はつなつ の かぜ と なりぬ と みほとけ は をゆび の うれ に ほの しらす らし 奈良博物館にて(第5首) くわんのん の せ に そふ あし の ひともと の あさき みどり に はる たつ らし も 奈良博物館にて(第2首) くわんのん の しろき ひたひ に やうらく の かげ うごかして かぜ わたる みゆ 奈良博物館にて(第1首) この観音(瓔珞)の歌も法輪寺の十一面観音を詠んだものと言われている。 注 こがらしのかぜ (自註鹿鳴集) 秋の末より冬へかけて吹く風を「木枯」(コガラシ)といひ、また「凩」の字を宛つ。この風の吹き渡る時は、山野の草木一時に凋落すといふが故に、この蓮葉のみは吹くことなかれと歌ひたるなり。
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勝浦の浜にて(第2首) みなぞこ の くらき うしほ に あさひ さし こぶ の ひろは に うを の かげ ゆく (水底の暗き潮に朝日さし昆布の広葉に魚の影行く)
歌意 海の底を流れる暗い潮に朝日が射して、海中で揺らめく昆布の広い葉の間を泳いでいく魚の姿が見えている。 日の光によって海底を泳ぐ魚の姿が目前に現れた。八一にとって初めてと思われるこの体験は、新鮮で感動的なものだったのだろう。普段見慣れない自然の営みに触れる時、そこに詩歌が生まれる。 昔、観光でガラス窓のある船底から、水中を行く魚を見た時の事を思い出す。
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明王院(第6首) みなのわた かぐろき ひかり かむさびて よ さへ ひる さへ もゆる くりから (みなのわたか黒き光神さびて夜さへ昼さへ燃ゆる倶利迦羅)
歌意 (倶利迦羅の剣の柄に巻き付いた竜の尾の)黒い光は神々しく、夜も昼も燃えている倶利迦羅よ。 第5首に続いて剣の柄に竜の尾の巻き付く倶利迦羅の神々しさを詠い、赤不動を描き出す。(下記前書を参照) 注 前書 十九日高野山明王院に於て秘宝赤不動を拜すまことに希世の珍なりその図幽怪神異これに向ふものをして舌慄へ胸戦き円珍が遠く晩唐より将来せる台密の面目を髣髴せしむるに足る予はその後疾を得て京に還り病室の素壁に面してその印象を追想し成すところ即ちこの十一首なり。 語句解説
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六月一日吉野秀雄の案内にて多胡の古碑を観たる後伊香保にいたり 千明仁泉亭に入る翌二日裏山の見晴に登り展望す(第4首) みはるかす のら の いづく に すむ はと の とほき つづみ と きき の よろしき (見晴るかす野良のいづくに住む鳩の遠き鼓と聞きのよろしき)
歌意 はるかに見渡す野のどこかに住んでいる鳩の鳴き声が、遠いところで打つ鼓のように聞こえてとても快い。 鳩の鳴き声は総じてくぐもった声で「ポッポッポー」「ホーホー、ッホホー」と聞こえる。しかし初夏の山野で聞く声は快い鼓の音のように聞こえると詠う。自然の中での八一の伸びやかな心が「とほきつづみ」と適切な表現を生み出している。
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三月十五日大鹿卓とともに平城の宮址に遊び大極の芝にて(第5首) みはるかす ふるき みやこ の の の はて に ひと ありて うつ くは の かがやき (見晴るかす古き都の野の果てに人ありて打つ鍬の輝き)
歌意 大極殿址に立ってはるか彼方を見渡すと古都・平城京であった野の果てに人がいて、畑を耕している。その打つ鍬が輝いていることよ。 早春の農耕を遠くの鍬の輝きで表し、「野の果て」で平城京址の広大さを詠う。奈良は戦時下ではないようなおおらかな歌である。
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中宮寺にて みほとけ の あご と ひぢ とに あまでら の
あさ の ひかり の ともしきろ かも (み仏の顎と肘とに尼寺の朝の光のともしきろかも )
歌意 み仏の顎と肘のあたりにこの尼寺のかすかな朝の光が射し、なつかしく心ひかれることだ。 近代的な今の本堂では味わうことができないが、当時の尼寺で、尼僧が厨子の扉を開けた瞬間の朝の光のあたる仏の姿を見事にとらえている。尼僧たちが布等で拭いたために黒光りする仏、光による顎と肘の陰影を想像してみるといい。 注1 中宮寺 621年、聖徳太子が母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の宮を寺としたと伝えられる。創建当初は500メートルほど東にあり、現在地に移転したのは16世紀末頃と推定される。現本堂は高松宮妃の発願で1968年に建立された。 天寿国繍帳は聖徳太子が亡くなり(622)、妃の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が、太子が往生した天寿国の有様を刺繍したもの。 注2 半跏像(半跏思惟像) 半跏思惟像は右足を曲げて左膝を上に置き、頬に右手を当ててうつむくような姿、いかに人々を救うかという思索にふける。 追記1 歌碑1 奈良に会津八一の17基目の歌碑が建ったのは中宮寺門跡・日比野光尊さんの熱い願いによる。中宮寺は「奈良の古寺と仏像―會津八一のうたにのせて―」新潟展へ本尊の菩薩半跏像の出展を断っていたが、たび重なる災害に苦しむ新潟県民のためにと門跡が許可し、また門跡自身が新潟展開催中に新潟市、佐渡市、長岡市の講演など精力的に活動した。 そんな中、門跡は半跏像と共に飾られた八一の歌の軸装に惚れ、所望されたそうだが、これは会津八一記念館所蔵の大切なものだからもちろん断られた。それなら、この歌の歌碑を中宮寺に建てたいと願ったことが建立につながった。沢山の人が賛同、寄付し7月8日建立の会発足会議から5カ月弱、平成22年11月29日には除幕式が行われたが、都合で出席できなかった。 (2011・4・8) 追記2 歌碑2 平成23年5月13日友人達と歌碑が建立された中宮寺を訪れた。本堂前に見事な歌碑が半跏思惟像に対面する形であり、解説のための石碑も別に建てられている。 今回、本堂に座して半跏思惟像を食い入るように眺めたが、歌との遊離を感じるところがあった。この歌はひっそりとした尼寺の淡い朝の光の中にある漆塗りのような黒い仏像が対象だが、現在の本堂では歌の良さが失われている。なぜなら、幾多の苦難の道(何度かの火事や移転等)を歩んだ中宮寺の本堂は1968年建立の耐火建造物で、歌の中の尼寺のイメージとは大きく違っている。その上、本堂から我々が想像するのは如来像なのに、如意輪観音あるいは弥勒菩薩と言われる仏が置かれていることにも違和感は否めない。本尊の脇侍であったであろうこの像には小さくて静寂なお堂が似合う。 そうではあるが、この像に対座して八一の歌を味わうときは目を閉ざし、100年ほど前の尼寺を想ってみると良い。だれもが歌の素晴らしさと半跏思惟像の魅力に捕らわれてしまう。 吉野秀雄は鹿鳴集歌解で書いている。“この姿態柔婉な像が尼寺の尼達に護られかしづかれてゐることはいかにもふさわしいが、してみると、「あまでらの」という句も、尼寺だから尼寺といったといふ以上の趣致を一首に添えてゐることに気附く” (2011・5・21)
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また東大寺の海雲師はあさなあさなわがために二月堂の千手観音に 祈誓をささげらるるといふに(第2首) みほとけ の あまねき みて の ひとつ さへ
わが まくらべ に たれさせ たまへ (み仏のあまねきみ手の一つさへわが枕辺にたれさせ給へ )
歌意 み仏の沢山あるその手の一つだけでも病に伏す私の枕辺に垂れて病を治してください。 昭和18年11月、八一は学生を連れた最後の奈良旅行で病に倒れた。風邪から扁桃腺炎、中耳炎を併発し回復まで数カ月かかる。そのため、奈良の寺々は病気の快癒を願ってさまざまな形で祈った。上司海雲の二月堂・千手観音への祈りから、「あまねき みて の ひとつ さへ」とした表現が素晴らしい。 その時、病気平癒を祈願し、新薬師寺が焚いた護摩に対してはこう詠んでいる。 「さち あれ と はるかに なら の ふるてら に たく なる ごま の われ に みえ く も」
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香薬師を拝して(第1首) みほとけ の うつらまなこ に いにしへ の
やまとくにばら かすみて ある らし (み仏のうつら眼にいにしへの大和国原かすみてあるらし)
歌意 香薬師のうっとりとした眼には古代の大和の国が春の霞にかすんでみえているらしい。 八一は最初の歌集「南京新唱」で香薬師を4首詠んでいる。(香薬師を拝して2首と高畑にて2首)昭和18年の3回目の盗難で今では八一の歌や先人の描写や写真から想いうかべるしかない。亀井勝一郎は「大和古寺風物詩」で以下のように表現する。 「香薬師如来の古樸(こぼく)で麗(うるわ)しいみ姿には、拝する人いずれも非常な親しみを感ずるに相違ない。高さわずかに二尺四寸金銅立像の胎内仏である。ゆったりと弧をひいた眉(まゆ)、細長く水平に切れた半眼の眼差(まなざし)、微笑してないが微笑しているようにみえる豊頬(ほうきょう)、その優しい典雅な尊貌(そんぼう)は無比である。両肩から足もとまでゆるやかに垂れた衣の襞(ひだ)の単純な曲線も限りなく美しい」 なお、内田康夫が香薬師盗難を素材に推理小説「平城山を越えた女」(徳間文庫)を書いている。 香薬師を拝して 第2首へ (香薬師を詠んだ歌は全部で11首ある)
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大仏讃歌(第3首) 天平十三年四月聖武天皇諸国に詔して国分寺を建てしめ十五年十月東大寺廬舎那の大像を創めしめたまふその義華厳梵網の所説に拠りたまへるものの如し予しばしば此寺に詣で金容遍満の偉観を瞻仰してうたた昔人の雄図に感動せずんばあらずかつて和歌一首を成せり曰く「おほらかにもろてのゆびをひらかせておほきほとけはあまたらしたり」と今日また来りてその宝前に稽首し退いてさらに十首を詠じ以て前作の意を広めむとす邦家いまや四海に事多し希くは人天斉しく照鑑してこの聖皇の鴻願をして空しからざらしめむことを 昭和十八年三月十一日 みほとけ の うてな の はす の かがよひ に うかぶ 三千だいせんせかい (み仏の台の蓮の輝よひに浮かぶ三千大千世界)
歌意 大仏のお座りになっている台座にある蓮華の上に描かれて、その輝きの中に浮かびあがる三千大千世界であることよ。 大仏の台座のそれぞれの蓮弁に描かれている三千世界(蓮華座蓮弁線刻画)を捉えて、大仏を取り巻く世界の壮大さを詠いあげる。過日、機会があって蓮華座に上がることがあったがその大きさと線刻画の存在に驚いたことを思い出す。
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東院堂の聖観音を拜す みほとけ の ひかり すがしき むね の へ に かげ つぶら なる たま の みすまる (み仏の光すがしき胸のへにかげつぶらなる玉のみすまる)
歌意 聖観音の清々しく照っているその胸のあたりに玉の首飾りがつぶらに輝いている。 白鳳期に作られた東院堂の聖観音(国宝)をみごとに捉えて詠っている。この観音は最も美しい仏像の一つと言われいて、端正で華麗な姿には見惚れてしまう。ずっと摸作してみたいと思っているが難しい。 植田重雄の“最後の奈良研究旅行”
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室生寺にて(第2首) みほとけ の ひぢ まろら なる やははだ の あせ むす まで に しげる やま かな (み仏の肘まろらなる柔肌の汗むすまでにしげる山かな)
歌意 み仏の肘の丸くふっくらとした柔肌が汗ばむかとおもわれるほど、この山の茂りは濃い。 室生寺をめぐる夏の山を詠ってはいるが、平安初期の密教の官能的な仏たちを表現したと言える。“肉感的な仏の柔肌、それが汗ばむ”と八一はなまめかしく捉える。その「あせむす」と「しげる やま」を結びつけるのは八一独特の感覚である。 「ひじ まろら なる」仏とは、吉野秀雄(鹿鳴集歌解)が言うとおり、灌頂堂の丸い肘の如意輪観音と考えられる。観心寺の歌からも想像されることだ。ただ、観心寺の豊麗でなまめかしい観音に比べると室生寺の仏は、端正な顔をしている。 原田清(鹿鳴集評釈)は、この仏を室生寺を代表する金堂の十一面観音と言う。ふっくらとして美しい十一面観音の肘を想像することも楽しい。 室生寺にて第1首へ
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三月二十八日報ありちか頃その寺に詣でて拝観するに香薬師像の たちまち何者にか盗み去られて今はすでにおはしまさずといふを 聞きて詠める(第2首) みほとけ は いかなる しこ の をのこら が やど にか たたす ゆめ の ごとく に (み仏はいかなる醜の男らが宿にか立たす夢のごとくに)
歌意 み仏は一体どんな醜悪でくだらない男たちの家に立っておいでなのだろう。あの夢のような美しいお姿で! み仏を盗み去った盗人を「醜の男ら」と憎みののしる言葉を使い、八一は香薬師への強い思慕を表す。さらに醜悪でくだらない男たちとの対比で、南京新唱で詠いあげた香薬師の美しい姿を際立たせている。 鹿鳴集・南京新唱 香薬師を拝して(第1首) みほとけ の うつらまなこ に いにしへ の やまとくにばら かすみて ある らし 解説 (左の写真は早大文学部所蔵のレプリカ)
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三月二十八日報ありちか頃その寺に詣でて拝観するに香薬師像の たちまち何者にか盗み去られて今はすでにおはしまさずといふを 聞きて詠める(第3首) みほとけ は いまさず なりて ふる あめ に わが いしぶみ の ぬれ つつ か あらむ (み仏は居まさずなりて降る雨に我が碑の濡れつつかあらむ)
歌意 み仏がいらっしゃらなくなった新薬師寺では、降る雨に私の歌を刻んだ歌碑が濡れていることであろう。寂しことだ。 歌碑には「ちかづきて あふぎ みれども みほとけ の みそなはす とも あらぬ さびしさ」 が刻まれている。この「さびしさ=寂寥」を歌い上げた歌の石碑は今雨にぬれている。そのことが、み仏への思慕と寂寥感をさらに深くしている。 先日、友人・鹿鳴人が新薬師寺を訪れてこの歌碑を撮ってくれたので左に掲載する。 (右の写真は早大文学部所蔵のレプリカ)
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奈良の新薬師寺を思ひいでて(第2首) みほとけ は いまも いまさば わがため に まなこ すがしく まもらせ たまへ (み仏は今も居まさば我が為に眼すがしく守らせたまへ)
歌意 み仏は今もいらっしゃるなら、どうか私の為に濁りの無い清らかな眼であるようにお守りください。 この歌を詠んだ昭和17年3月頃、八一の初めての歌碑が新薬師寺に建立されている。そのゆかりの香薬師像と新薬師寺はともに眼病治癒に効力があると言われており、八一の眼病治癒への願いが、み仏のうっとりとした眼のすがすがしさへの賛美と重なって迫ってくる。 この歌は東京で奈良を想って詠まれ、この時には香薬師像はまだ寺に存在していた。盗難にあうのは一年後である。(参照 第1首) (右の写真は早大文学部所蔵のレプリカ)
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仏伝をよみて
みほとけ を やどし まつりて くさ の と の あかつきやみ に かしぐ かゆ かな (み仏を宿しまつりて草の戸の暁闇に炊ぐ粥かな)
歌意 旅の途中のお釈迦様をお泊めいたして、粗末なわびしい住まいで月の出のない暁の暗闇の中で作る粥であることよ。 仏像を詠んだ秀歌が有名な八一はもちろん仏教に精通していた。当然、多くの仏伝を読んだことであろう。貧しく粗末な侘び住まいにかかわらず、乏しい食料の中で粥を炊いて釈迦に捧げる。この姿に八一は心惹かれたのである。一見、強面のタイプに見えるが、八一は心優しい人であった。
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三輪の金屋にて路傍の石仏を村媼(そんおう)の礼するを見て みみ しふ と ぬかづく ひと も みわやま の
この あきかぜ を きか ざらめ や も (耳しふとぬかづく人も三輪山のこの秋風を聞かざらめやも)
歌意 耳を病んで苦しんでいる里の老女が、頭を地につけてこのみ仏に祈っている。三輪山から吹き降ろす秋風の音をこの老女は聞かないのだろうか、いやきっと聞いているに違いない。 八一が訪れた時、石仏は路傍の木立にただ立てかけられていただけ、吹き降ろす秋風のもと、耳を病む老女の祈る姿という素朴で寂しい情景だけがあった。だが、「聞かざらめやも」に込められた反語の中に、強い希望と「三輪山=神の力」を感じ取ることが出来るような気がする。 現在の石仏は写真のような頑丈なコンクリートの堂の中にあって、この歌の当時の趣を味わうことは出来ない。周辺は山の辺の道(遊歩道)として整備され、訪れる人も多い。 三輪山の南なる弥勒谷(みろくだに)といふところに、高さ六七尺、幅三尺ばかりの板状の 石に仏像を刻したるもの二枚あり。・・・・路傍の木立に立てかけ、その前に燭台、花瓶、供物、 および耳を疾(や)める里人の納めものと見ゆる形ばかりなる錐など置きてありき。・・・
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天皇を迎へて(二)(第1首) みやこべ を さかり いまして ふるさと の われら が うへ を ただに み たまふ (都辺を離りいまして故郷の我等が上をただに見たまふ)
歌意 都、東京を離れていらっしゃって、この故郷の地の私たちの暮らしを直接にご覧になられる。 敗戦後の国民の姿を直接見て、励まそうとする天皇の巡幸を国民の側から詠う。
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北満の戦陣にある若き人々に寄す(第3首) みやこべ を な が こふ そら の いづく に か なきて わたらむ ひとむら の とり (都辺を汝が恋ふ空のいづくにか鳴きて渡らむ一群の鳥)
歌意 遠い戦地で東京を恋しく思って君が見上げる空のどこかに鳴きながら渡っていく鳥の群れがあることだろう。 遠い戦地で都、東京を思う学生たちの心情を思いやって詠んだ。戦地の学生たちは、鳴きながら渡っていく鳥たちの姿を万感の思いを持って眺めたことであろう。
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やがて松ヶ崎なる新潟飛行場に着して(第1首) みやこべ を のがれ きたれば ねもごろに しほ うちよする ふるさと の はま (都辺を逃れ来たればねもごろに潮打ち寄する故郷の浜)
歌意 戦禍の都を逃れて新潟にやってくると、そこには変わることなくこまやかに潮が打ち寄せる故郷の浜がある。 東京を逃れてたどり着いた故郷、そこでは昔と変わらない寄せては返す浜が迎えてくれた。その情景は疲れ果てた八一の心を癒してくれるのである。この歌碑が新潟県立図書館前にある。
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厳島にて
みやじま と ひと の ゆびさす ともしび を ひだり に み つつ ふね は すぎゆく (宮島と人の指差す灯火を左に見つつ船は過ぎゆく)
歌意 あれが宮島ですよ、と船の客が指をさして教えてくれる灯火を左に見ながら船が行き過ぎてゆく。 日本三景の安芸の宮島・厳島神社の夜景を前にいろいろな思いがあっただろうが、船は九州・別府を目指す。宮島へは九州からの帰路に立ち寄り、「ふたたび厳島を過ぎて(放浪唫草第9~13首)」を詠む。
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松濤(第1首)
みゆき つむ たのも こえ きて ふるには の こぬれ とよもす わたつみ の かぜ (み雪積む田面越え来て古庭の小末響もすわたつみの風)
歌意 雪が積もっている田んぼの上を渡ってきて、古い庭の木の梢を鳴り響かせる海からの風よ。 旧家の庭の木々の梢を揺るがせる松濤を詠う。疎開して一人ぼっちになった八一を驚かせる風は孤独に拍車をかけたであろう。
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松の雪(第2首) みゆき つむ まつ の はやし を つたひ きて まど に さやけき やまがら の こゑ (み雪積む松の林を伝ひ来て窓にさやけき山雀の声)
歌意 雪が積もった松の林を伝って来て、窓の近くで高く澄んだ響きで鳴く山雀の声よ。 山雀の動きと声を的確につかんで詠う。筆者は2007年8月に新潟を訪れ、この歌碑を新潟西海岸公園で鑑賞した。
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十九日高野山を下る熱ややたかければ学生のみ河内観心寺に遣り われひとり奈良のやどりに戻りて閑臥す(第1首) みゆき ふる かうや おり きて こもり ねし なら の やどり の よひ の ともしび (み雪降る高野降り来て籠り寝し奈良の宿りの宵の灯)
歌意 雪の降る高野山を降りて来て風邪のために籠って静かに寝ている奈良の宿の夕方の灯よ。 学生を連れた最後の奈良旅行の疲れ、雪の高野山の寒さで体調を崩し、一人奈良の日吉館で静養する八一、慣れ親しんだ日吉館の宵の灯はとても優しく暖かく、心を慰めてくれたであろう。 植田重雄の“最後の奈良研究旅行4”
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北満の戦陣にある若き人々に寄す(第2首) みゆき ふる かかる あした を くもゐ に か はう ひき なづむ きみ が おもかげ (み雪降るかかる朝を雲居にか砲引きなづむ君が面影)
歌意 雪が降るこのような寒い朝も、はるか遠くの戦地で苦労して砲を引いている君の面影が浮かんでくる。 東京は雪が降って寒い、そんな朝に極寒の戦地で苦労する教え子の姿を思い浮かべ、心配する。戦争を鼓舞する歌が沢山詠まれた、あるいはそれしか詠めなかったこの時代に出征して行った学生たちを思う歌が冷静に詠まれていることに頭が下がる思いである。
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望郷(第7首)
みゆき ふる こし の あらの の あらしば の しばしば きみ を おもは ざらめ や (み雪降る越の荒野の荒柴のしばしば君を思はざらめや)
歌意 雪の降る越後・新潟の荒野の荒い柴の「しば」のようにしばしば、何度も何度も、あなたを思わないと言うことは無い、いつも心から思っている。 長い序詞を使う古風な表現に八一らしさがある。歌からは故郷新潟の人を思ってと思われる。しかし初歌は「油わく越の荒野のあら柴のしばしば君をおもはざらめや」(親友の伊達俊光に送ったもの、1906年・明治39年作)なので、友人を思う歌となる。 この頃八一は早大を卒業し新潟の有恒学舎に英語教師として赴任した。ちょうど、画家・渡辺文子への愛が終焉した頃で、彼女への愛をこの歌に託したとも思われる。 八一は伊達俊光だけに渡辺文子への愛の思いを手紙などで打ち明け相談している。
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夜雪(第5首) みゆき ふる さよ の くだち を まくらべ に おもはぬ ひと の おもかげ に たつ (み雪降るさ夜のくだちを枕辺に思はぬ人の面影に立つ)
歌意 雪の降る夜更け、なかなか眠れない私の枕辺に思いがけない人の面影が浮かんでくる。 雪の降る夜に思いがけない人の面影が浮かぶという。東京から故郷新潟に戻り、定住を決めた八一にとってそれは東京の友人や教え子だったのか、あるいは今は無き人であったのだろうか。
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伐柳(第2首) 新潟の市中には多く柳を植ゑ特異の景観をなせり旧幕の頃河村瑞軒来りてこの地に町奉行をつとめたる時遠く人を浙江の西湖に派しその苗を求めしめて植ゑたるに始まると伝ふ十一月十五日の夕予ひとり家を出でて市中を行くに残柳の枝間にところどころ人影ありてしきりに鉈を揮ふを見る みゆき ふる ふゆ の きたる と まちびと の かり いそぐ らし はやなぎ の えだ (み雪降る冬の来たると街人の刈り急ぐらし葉柳の枝)
歌意 雪が降る冬がやってくると街の人々が刈り急いでいるらしい、葉の残っている柳の枝を。 新潟の晩秋の情景、昔も今も変わらない姿である。冬の来る前、葉の落ちる前に剪定する人間の営みは変わらない。
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良寛禅師をおもひて(第1首) みゆき ふる ふゆ の ながよ を つらつらに くがみ の ひじり おもほゆる かも (み雪降る冬の長夜をつらつらに国上の聖思ほゆるかも)
歌意 雪の降り続く冬の長い夜には、つくづく国上山の良寛禅師のことが思われてならない。 前年の昭和20年5月、東京から新潟に疎開した八一は、問題をたくさん抱えていたが、真っ先に念願だった五合庵を訪れて、鉢の子・4首を詠んだ。そして今、疎開先から新たな家に移り、心新たに良寛を偲ぶのである。
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柴売(第1首) みゆき ふる ふゆ を ちかみ か わが かど に ひ に はこび こし そまびと の しば (み雪降る冬を近みかわが門に日に運びこし杣人の柴)
歌意 雪が降る冬が近いからだろうか、私の住む観音堂の前に杣人が毎日運んできた柴が積まれている。 雪国新潟の冬は早く、近くまできている。冬に備えて柴が運ばれ、観音堂の前で売買される。きい子の死、敗戦と続く混乱の中で、独居の感情を背後に秘めて、八一は淡々と眼前の情景を詠う。
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夜雪(第2首) みゆき ふる みち の ちまた を ふるさと の ひと に まじりて ぬれ に ける かも (み雪降る道の巷を故郷の人に混じりて濡れにけるかも)
歌意 雪が降っている町中の通りを故郷の人に混じって濡れたことだ。 “ちまた”は新潟の町の賑やかな通りだろう。雪の中を故郷の人達とともに歩く。やっと故郷に帰ってきたという思いが伝わってくる。故郷の人々と共に暮らす喜びも感じられる。
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吉野北六田の茶店にて みよしの の むだ の かはべ の あゆすし の
しほ くちひびく はる の さむき に (み吉野の六田の川辺の鮎鮨の塩口ひびく春の寒きに)
歌意 吉野の六田の茶店で食べた鮎鮨が塩辛く、口がひりひりする。まだ春は浅く寒い(こともあって)。 詠まれたのは大正14年3月、春寒を読み込むことによって口にひりひりする鮎鮨の塩辛さを見事に表現する。辛かったのだろうなと思わず思ってしまう。古語「くちひびく」まで一気に詠み込み、「はるのさむきに」と受け止める八一の作詠はさすがである。
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吉野の山中にやどる(第2首) みよしの の やままつがえ の ひとは おちず
またま に ぬく と あめ は ふる らし (み吉野の山松が枝の一葉落ちずま玉に貫くと雨は降るらし)
歌意 吉野の山の松の枝の一本一本全てを、雨が作る美しい露の玉が貫こうとしきりに雨が降っている。 宿の春雨を松葉を貫く玉と詠んだ。八一は「またまにぬく」を子規の歌の用法に似ると以下のように自註鹿鳴集で注釈している。 「正岡子規子(1867-1902)に、松葉に貫ける無数の雨滴の珠玉を詠める、有名なる一聯の歌ありて、用語にも相似たるところあれど、その模倣にあらず。また情景の規模を異にするが故に、敢て自ら棄てず。」 正岡子規の歌 「松の葉の葉毎に結ぶ白露の置きてはこぼれこぼれては置く」 「青松の横はふ枝にふる雨の露の白玉ぬかぬ葉もなし」 (原田清著 会津八一 鹿鳴集評釈 より)
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木津川の岸に立ちて み わたせば きづ の かはら の しろたへ に かがやく まで に はる たけ に けり (見渡せば木津の川原の白妙に輝くまでに春たけにけり)
歌意 見渡すと木津川の川原が春の光で白く輝いている。春もたけなわになったのだなあ。 春日を浴びて川原が輝いて見える春ののどかな景色を詠んだ。目に入る光景をおおらかに表現するが、豪雪で有名な故郷・新潟の全てが重苦しい冬景色と対比させていたかもしれない。
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芝草(第2首) 十月二十四日ひさしく懈(おこた)りて伸びつくしたる門前の土塀の芝草を刈りて日もやや暮れなむとするに訪ね寄れる若き海軍少尉ありと見れば昨秋我が校を去りて土浦の飛行隊に入りし長島勝彬なり明朝つとめて遠方に向はんとするよしいへば迎へ入るしばししめやかに物語して去れり物ごし静かなるうちにも毅然たる決意の色蔽ふべからずこの夜これを思うて眠成らず暁にいたりてこの六首を成せり みんなみ に あす は ゆかむ と ひとり きて しづかに たてり ゆふづき の もと に (南に明日は行かむと1人来て静かに立てり夕月のもとに)
歌意 南方の戦線に明日は出征すると1人で私を訪ねて来て君は静かに立っている。夕月の下に。 死を覚悟した教え子は出征前に師に会い、しばしの語らいをしたかった。訪れて、門前で夕月の下にたたずむ学生の姿が目に見えるようだ。
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東大寺観音院にいたり前住稲垣僧正をおもふ(第1首) むかし きて かたりし そう の おもかげ の しろき ふすま を さり がてぬ かも (昔来て語りし僧の面影の白き襖を去りがてぬかも)
歌意 昔、観音院に来て共に語った僧の面影が白い襖に偲ばれて立ち去り難いことだ。 この時の観音院住職・上司海雲と親しく交流するが、前住職とも親しくその面影を白い襖から思う。稲垣僧上との出会いは南京余唱の東大寺の某院を訪ねてとして詠われている。
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東寺の塔頭(たつちゆう)観智院にて むかし きて やどりし ひと を はりまぜ の ふるき びやうぶ に かぞへ みる かな (昔来て宿りし人を貼り混ぜの古き屏風に数へ見るかな)
歌意 昔に来てこの観智院に泊まった人たち、その筆蹟を貼り集めた屏風をみて、その人達を数えてみた。 分かりやすい歌だが、八一の感慨は自註鹿鳴集で表わされている。“作者もかってこの寺の客となりて、古書の校合のために三四泊したることあるによりて、これらを見て感ことに深かりしなり。” 寺の柱にある落書きの名を読む「海龍王寺にて」の歌を思い出す。
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自性寺(じしようじ)の大雅堂にて
自性寺は豊前中津町にあり 池大雅(いけのたいが)かつて来りて滞留したりと称し寺中の二室を大雅堂と名づけその襖(ふすま)に彼の書画大小二十余点を貼りつめたり まことに西海の一勝観なり しかるにこの寺今はさだまれる住職もなきばかりに衰へて袴はきたる青年ただ一人ありて見物の客の案内などするのみ そのさま甚だ旅懐をいたましめたり
むかしびと こころ ゆららに もの かきし ふすま に たてば なみだ ながるる (昔人こころゆららに物書きし襖に立てば涙流るる)
歌意 古人・池大雅がこころ豊かにお書きになった書画を貼りめぐらした襖の前に立って鑑賞するとその素晴らしさに涙が流れてくる。 独自性を大事にし独往の人だった八一はなかなか他の人を褒めなかった。その彼が池大雅に感激し4首を詠む。 故植田重雄先生は著書“會津八一の生涯”でこう書いている。『今大雅堂と相対峙して、「これたまたま我が家の法と相似たり。筆力また遠く相及ばざるを信ぜざるなり」(八一書簡)と言いきっている。自己が書家として開眼し、その独自性の自信を得たのは、この自性寺の大雅との出会いの時からである』
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四月二十七日ふたたび早稲田の校庭に立ちて(第1首) むかしびと こゑ も ほがら に たく うち て とかしし おもわ みえ きたる かも (昔人声もほがらに卓打ちて説かしし面輪見えきたるかも)
歌意 恩師坪内先生が、声も朗々と教卓をたたきながら講義されたそのお顔が今もありありと浮かんでくる。 この歌は早稲田大学坪内博士記念演劇博物館前の逍遥の胸像の下に彫られている。ただ、早稲田には若山牧水、北原白秋、窪田空穂など有名な歌人・文人がいるのでと言う理由やその他で随分反対があったようだ。 そのため、この胸像・歌碑の存在に逍遥と八一の強い師弟関係及び八一と作った弟子達との深い絆をうかがう事が出来る。石碑を作る弟子達の計画に「・・・私自身が大いに感動して、これは是非完成して貰ひたいと、特に強く望をかけてゐる」(私の歌碑)と70歳の八一は書き残している。
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四月二十四日早稲田の校庭を踏みつつ(第2首) むかし わが あした ゆふべ に よみ つぎし ふみ なほ ありて しよこ は かなし も (昔我が朝夕に読み継ぎし書なほありて書庫はかなしも)
歌意 昔、学生だった私が朝に夕に読み続けた書物が今もなおある図書館は何と心惹かれることだ。 八一が入学した頃、生家の財が傾き、貧しい学生生活を強いられた。学生ながら社会で華々しく活躍する同級生(相馬御風など)から離れ、ひたすら図書館で読書し学習した。そのことを“最も華やかなるべき大学時代も、かくて幽独に堪へたる閉戸読書の時代なりしなり”と鹿鳴集・後記で書いている。 なお、八一が通った図書館ではないが、1925(大正14)年にできた図書館(2号館)が、1998(平成10)年からは會津八一記念博物館となっている。
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雁来紅(第16首) むかし わが ひと たび かきし すゐぼく の かの かまづか は た が いへ に あらむ (昔我一たび描きし水墨のかのかまづかは誰が家にあらむ)
歌意 昔私が一度描いたあの水墨画の葉鶏頭は今は誰の家にあるのだろう。 雁来紅11~16首で葉鶏頭の水彩画の歌を並べ、この16首でかって描いた一枚の水墨画の行方に思いを寄せる。しみじみとしたこの歌は雁来紅16首の終わりにふさわしい。
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耶馬渓(やまけい)にて(第7首)
むか つ を の すぎ の ほこふで ぬき もちて ちひろ の いは に うた かか まし を (むかつをの杉の鉾筆抜き持ちて千尋の岩に歌書かましを)
歌意 向かいに見える峰の鉾のように尖った杉を抜いて筆として手に持ち、巨大な石に歌を書きたいものだなあ。 杉の木を引き抜き、千尋の岩に歌を書きたいとは豪快で楽しい。 「鉾杉」について八一はこうも言っている。『万葉集』には唯だ一度「ほこすぎ」といへり。また樹木を筆の形に比したるは東西の文学にその例あり。たとへばハイネの「ノルドゼイ」の如し。
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村荘雑事(第17首) むさしの の くさ に とばしる むらさめ の
いや しくしく に くるる あき かな (武蔵野の草にとばしる村雨のいやしくしくに暮るる秋かな)
歌意 武蔵野に村雨がしきりに降って、我が庭の草に飛び散っている。そうして武蔵野の秋はますます深まっていく。 八一は大正13年に移り住んだ下落合の「落合秋艸堂」(市島春城別邸)で村荘雑事17首を詠む。3000坪に及ぶ春城別邸(宅地は500坪)は、武蔵野そのものと言っていいほどの風情があった。 秋雨が激しくなっていく様子を急速に深まっていく秋に重ねながら、武蔵野の晩秋を詠う。選ばれた言葉のリズムが流れるような調べをつくり、暮れゆく秋へと誘う。 先月、この歌の碑と墓碑がある東京練馬の法融寺を訪れた。歌碑は珍しい絵入りである。生前、自ら揮毫して全ての歌碑を彫らせた八一だが、この碑は幾分見難くなっている。東京近郊の住宅街と化したこのあたりに、もう武蔵野の風景はなさそうだが、静かな寺内には八一ゆかりの人たちの墓碑もあり、今では本でしか触れることのできない一時代前を偲んできた。 大正13年から14年間住んだ市島春城別邸(八一の遠縁)を八一は下落合秋艸堂と名づけ、 ここを拠点にいろいろの学術活動を展開する。友人、学生等が出入りし、ここで薫陶を 受けた門下生から傑出した人物が出る。学者、歌人、画家、映画監督と多岐にわたる。
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四月二十四日早稲田の校庭を踏みつつ(第4首) むなぞこ に ひそかに たてし ともしび の あぶら とぼしく おい はて に つつ (胸底に密かに立てし灯火の油乏しく老い果てにつつ)
歌意 学問の追求のため、胸底にひそかに立てた灯火も油が乏しくなって、今は老い果ててしまった。 5ヶ月にわたる病臥の影響もあるだろうし、学徒出陣による学園の荒廃も影響しただろう。気丈夫な八一も8月で64歳、老いを意識した。
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五月二十八日松野尾村に山本一郎を訪ひ三十日その案内にて弥彦神社に詣で山路を国上に出で良寛禅師が幽棲の故址を探る(第2首) むらぎもの こころ かたまけ しぬび こし この やま の へ に うぐひす なく も (むらぎもの心傾け偲び来しこの山の辺に鶯鳴くも)
歌意 私が心を傾けて慕わしく思いながらやってきたこの国上山の辺りに鶯が鳴いているよ。 五合庵址を訪れることが出来たことを鶯も喜んでいるようである。八一の喜びがにじみ出ている。
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六月一日吉野秀雄の案内にて多胡の古碑を観たる後伊香保にいたり 千明仁泉亭に入る翌二日裏山の見晴に登り展望す(第7首) むらぎもの こころ はるけし まなかひ に なつづく やま の そき たつ を みて (むらぎもの心はるけしまなかひに夏づく山のそき立つを見て)
歌意 私の心ははるか彼方にあるように思われる。夏らしくなって遠くに立っている山を目の前に見ていると。 遠くの夏らしくなっていく山を見ていると自分の心も遠く動いていくようだと詠う。大自然の中では日常の束縛から心が解放されゆったりと動いていくと言うことだろうか。
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偶感(第1首) むらぐも は いゆき もとほり あめつち の わかるる とき と いま を かも いはむ (群雲は行ゆきもとほり天地の分かるる時と今をかも言はむ)
歌意 群がる雲が行きめぐって、天地の分かれるはじめの時と今の状況を言うのだろうか。 敗色濃くなった戦局の中で、国は挙国一致を強調した。その影響下に詠われたと思われる。今は天地のはじめと同じ、この国のためにと念じることを背景にしている。
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雁来紅(第10首) むらさき は あけ に もゆる を き に もゆる みどり は さびし かまづか の はな (紫は朱に燃ゆるを黄に燃ゆる緑はさびしかまづかの花)
歌意 紫色の葉の葉鶏頭は真っ赤に燃えるのに、色づいて黄色に染まる緑色の葉鶏頭は淋しい。 葉鶏頭作り20年の作者の観察が4色を配して細やかに詠われ、色の違いへの微妙な思いを述べる。「かまづかのはな」は微小な葉鶏頭の花ではなく色づく葉鶏頭全体を言う。
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越後の中頸城(なかくびき)に住めるころ(第1首) むらびと が とがま とり もち きそひ たつ あした の はら に きり たち わたる (村人が利鎌取り持ち競ひたつ朝の原に霧立ちわたる)
歌意 村人たちが利鎌を持って競い合うように野原に立って草刈りをする、その朝の野原に霧が立ってあたり一面に広がっている。 大学を卒業した八一は坪内逍遥の紹介した「文章世界」の訪問記者の職を断って、遠方の有恒学舎に赴任した。「小生の素志は学校教師になりて衣食の資を得て、更に勉強を積み度き故、・・・」と身内に手紙している。東京からは遠く「千里の孤客」(会津八一の生涯、植田重雄)の思いがあっただろう。 新たな環境で出発した八一は板倉村の自然と人を3首詠む。
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柴売(第5首) むらびと は おのも おのもに しば かひて つみたる のき の あたたかに みゆ (村人はおのもおのもに柴買ひて積みたる軒の暖かに見ゆ)
歌意 村人はそれぞれに柴を買って軒下に積みあげている。その軒下が暖かそうに見える。 観音堂の庭で買い求めた柴が村人たちの家の軒下に積まれた。到来する冬への備えは暖かさの象徴であるし、また眺める八一の眼も穏やかで暖かい。
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歌碑(第1首) 「ちかづきてあふぎみれどもみほとけのみそなはすともあらぬさびしさ」といふは新薬師寺香薬師を詠みしわが旧作なりちか頃ある人の請(こい)にまかせて自らこれを書しこれを石に刻ましめその功もまさに畢(おわ)りたれば相知る誰彼を誘ひ行きてこれを堂前に立てむとするに遽(にわか)に病を得て発するを得ずたまたま寺僧の拓して送れる墨本を草廬の壁上にかかげしめわづかにその状を想像して幽悶を慰むるのみいよいよ感應の易(やす)からざるをさとれり めぐり ゐて とも と わが みる まなかひ に いしぶみ あをく あらはれ たつ も (巡りゐて友と我が見るまなかひにいしぶみ青く現れ立つも)
歌意 寺の境内を友と一緒に巡っていると目の前に私の歌碑が青く立ち現れた。 昭和17年4月八一の最初の歌碑が奈良・新薬師寺に建立されたが、前月に患った眼の疾患のため出席できず、現地を思って8首読む。この歌も眼前に歌碑があるように詠っているが、想像である。 この歌碑の歌「ちかづきて・・・」は新薬師寺の香薬師像を詠んだ名歌である。なお、八一の奈良にある歌碑は現在20基である。
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正月十日奈良新薬師寺にて我がために息災の護摩を いとなまんとすと聞えければ(第2首) もえ さかる ごま の ひかり に めぐり たつ 十二 の やしや の かげ をどる みゆ (燃え盛る護摩の光にめぐり立つ十二の夜叉の影踊る見ゆ)
歌意 私の病気回復を祈って燃え上がる護摩の火の光に薬師如来をめぐって立っている十二神将の影が踊っている姿が私には見える。 護摩を焚く本堂で十二神将の影が揺らめいている、と病床から想像する。圧倒的な存在感のある十二神将を護摩の光の中に浮かび上がらせた八一の力量を思う。 注 十二のやしや 自註鹿鳴集 この寺の本堂には、その本尊薬師如来の周辺の円壇に、もと岩淵寺のものなりしと伝えらるる 十二神将あり。よく躍動の姿勢を表はせるを以て有名なり。歌の意またおのづからここに因めり。 これらの神将はまた夜叉大将ともいふ。『薬師寺瑠璃光如来本願功徳経』には「薬師大将」と記 せり。夜叉としいへば何か凶悪なる魔性の邪神に限るが如く思ひなす人あらば、そは誤解といふ べし。仏法に帰依したる守護の善神なり。
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その翌日わが家の焼けたる跡にいたりて(第1首) もえ さりし ふみ の かたみ と しろたへ に つみたる はひ ぞ くつ に ぬくめる (燃え去りし書の形見と白妙に積みたる灰ぞ靴にぬくめる)
歌意 燃えて無くなってしまった書物の形見として残ったうず高く積もった白い灰が靴にあたたかく感じられる。 沢山の書物は燃えて灰となり、まだあたたかい。焼け落ちた翌日、八一にはまだ熱のある灰しか残らなかった。呆然と立ち尽くす八一の姿が浮かびあがる。
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丹呉氏の炉辺にて(第2首)
もえ のこる ほた の ほかげ に さしのべし わが あし くらし みゆき ふる よ を (燃え残る榾の火影に差し伸べしわが足暗しみ雪降る夜を)
歌意 燃え残った榾の炎の明りに囲炉裏に伸ばした私の足が暗く弱々しい。雪の降る夜に。 伸ばした足は暗く、弱々しい。囲炉裏の火は消えそうで、外は雪が降り続く。八一の孤独な心そのものである。
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歳暮新潟の朝市に鉢植の梅をもとめて(第2首) もとめ こし ひとき の うめ に ひともせば かげ さやか なる やど の しろかべ (求め来し一木の梅に燈ともせば影さやかなる宿の白壁)
歌意 買い求めてきた一本の梅を部屋に置いて燈を点すと、部屋の白壁に梅の影がはっきりと映っている。 夕刊ニイガタの社長になり、住まいも西条から町中の南浜通に移った。落ちついた八一は梅の盆栽を買って年末を迎える。この頃、後に養女となる中山蘭子が八一の身の回りを世話するようになった。
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二十二日唐招提寺薬師寺を巡りて赤膚山(あかはだやま)正柏が窯(かま) に立ちよりて息(いこ)ふ(第3首) もの かきし すやき の をざら くれなゐ の
かま の ほむら に たきて はやみむ (物書きし素焼きの小皿くれなゐの窯の炎に焚きてはや見む)
歌意 私の書画を書いた素焼きの小皿を窯に入れ、燃え上がる真っ赤な炎で焼き上げて出来ばえを早く見たいものだ。 自らが絵付けした物の完成は待ち遠しく、期待がこもるものである。激しく動く赤い炎に焼かれる陶器が眼前に浮かんでくる。 八一は新宿・中村屋で書画を入れた茶器を作っている。 第1首 第2首 第3首 第4首
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二十二日唐招提寺薬師寺を巡りて赤膚山(あかはだやま)正柏が窯(かま) に立ちよりて息(いこ)ふ(第2首) もの かきて すやき の さら を ならべたる
ゆか の いたま に とぶ いなご かな (物書きて素焼きの皿を並べたる床の板間に飛ぶ蝗かな)
歌意 物を書いた素焼きの皿を並べている床の板の間に蝗が紛れ込んで飛んでいる。 絵付けした素焼きを乾燥している板の間に飛ぶ蝗、緊張から解かれたゆったりした気分を蝗を詠み込みながら表現する。赤膚焼の窯元がある静かな秋の情景である。 素空が赤膚焼を知ったのは友人鹿鳴人の弟さん(松森哲重・陶芸家)の作だった。奈良絵を施した美しいものでずっと飾ってある。 このページのために陶器の専門家・鹿鳴人に写真を依頼した。奈良絵の文様は人形、餅花、家と説明があった。 第1首 第2首 第3首 第4首
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十一月二十一日奈良より帰り來りその夜より病みふして立つ 能はざること五箇月に及べりそのいとまいとまに詠める歌(第2首) もの くはぬ なぬか は すぎつ ひと みな の なげかふ なか を ねむり き に けり (物食はぬ七日は過ぎつ人皆の嘆かふ中を眠りきにけり) 歌意 何も食べずに7日間が過ぎてしまった。人がみんな嘆き気づかう中を私はずっと眠っていたのだ。 きい子、弟子、友人、知人が心配する中、7日間も眠りつづけた。意識は回復したが、5ヶ月に及ぶ闘病の始まりである。
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若き人々に寄す(第5首) もの すべて あかき ほのほ に やきすてよ この ちちはは の くに を まもる に (物全て赤き炎に焼きすてよこの父母の国を守るに)
歌意 全ての物を、命もなにもかも赤い炎に焼き捨てなさい。この父母の国を守るために。 命さえもと言う絶唱で全5首を終わる。この後すぐに、八一の住居は多くの本とともに空襲で焼けてしまう。空襲による罹災を予想していたかのようである。
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予罹災ののち西条に村居し一夜大いなる囲炉裏のほとりにて よめる歌これなり(第12首) もの みな の うつろふ むら の みち の へ に かげ きよら なる みぞがは の みづ (もの皆の移ろふ村の道の辺にかげ清らなる溝川の水)
歌意 全てのものが移り変わってしまった村の道の辺で、昔のままに流れているのは清らかな溝川の水であることよ。 事物は移り変わっていくことは常だが、村を流れる小川の清らかな水だけは昔と変わらない。そのことに深い感慨を覚えたのである。
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中耳炎を発して読書談話を禁制せらるることまた久しきに(第4首) もの もはぬ つぼ に あり とも あさゆふ に ひと の てふれ に なる とふ もの を (もの思はぬ壺にありとも朝夕に人の手触れになるとふものを)
歌意 ものを思わない壺でも朝夕に人の手に触れられて関わりを持つのだから、病気だからと言って人としゃべることやものを思うことを私は止めることができない。 第2、3首を受けて、壺だって人と関係するのだから、病気だからと言って3つの禁止(読むな、語るな、思うな)は無理だと詠う。
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中耳炎を発して読書談話を禁制せらるることまた久しきに(第2首) もの よみ そ もの な かたり そ もの もひ そ こころ かそけく こもらせ と こそ (もの読みそものな語りそもの思ひそ心かそけく籠らせとこそ)
歌意 書物などを読んではいけない、人と語ってはいけない、ものを考えてもいけません、心静かに籠って安静にするようにと医者は言う。 「もの・・・そ」続けたリズミカルな表現で絶対安静を表すが、悲壮感が無いのは多分病状が良くなってからの歌と思われる。続く、2首でこの3つの禁止に抗って口もきかず、ものを考えないことはありえないと詠んでいる。
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十七日桜井の聖林寺にいたりつぎに室生寺にいたる(第4首) もみぢば の たにま はるけく わたり きて こけ まだら なる てら の きざはし (紅葉葉の谷間はるけく渡り来て苔まだらなる寺の階)
歌意 美しい紅葉の谷間をはるばる渡ってくるとそこには室生寺の苔がまだらな石段があらわれた。 学生たちと山間の長い道のりを共にあるいて来て、目の前にあの室生寺の石段が出現した。 「道人ははじめて室生寺を訪ねたときの感動と陶酔を、若い学生たちに味わせたかったのだろう。室生寺は道人が奈良美術の研究を手がける出発点だった」(植田重雄の“最後の奈良見学旅行3”)その室生寺の前に教え子たちと共に立った喜びが浮かんでくる。
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八月二十三日友人山口剛を誘いて大塚に小鳥を買ふ(第6首)
ももどり の なき かふ みせ の たな の うえ に ましろき はと の ただに ねむれる (百鳥の鳴き交ふ店の棚の上に真白き鳩のただに眠れる)
歌意 いろいろの鳥が鳴き合っている鳥屋の棚の上に真白な鳩がひたすら眠っていることよ。 鳥たちが動き回り鳴き合っている鳥屋の中で、真白な鳩だけが静かに眠っている。鳥を愛で慈しむ八一の観察眼は鋭い。喧噪のなかで動かぬ鳩達をとらえて詠う。
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明王院(第7首) もゆる ひ の ひかり ゆゆしみ おのづから まなこ ふせ けむ どうじ こんがら (燃ゆる火の光ゆゆしみ自づから眼伏せけむ童子矜羯羅)
歌意 燃え上がる火の光を恐れ多いと自然に眼を伏せてしまったのであろう。脇侍の童子矜羯羅は。 この赤不動の二脇侍は通例に反して共に右側にある。そこを捉えてその芸術性に心を動かす。第8首も二童子を詠う。(下記前書を参照) 注 前書 十九日高野山明王院に於て秘宝赤不動を拜すまことに希世の珍なりその図幽怪神異これに向ふものをして舌慄へ胸戦き円珍が遠く晩唐より将来せる台密の面目を髣髴せしむるに足る予はその後疾を得て京に還り病室の素壁に面してその印象を追想し成すところ即ちこの十一首なり。 語句解説
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春日野にて(第8首) もりかげ の ふぢ の ふるね に よる しか の
ねむり しづけき はる の ゆき かな (森かげの藤の古根による鹿のねむり静けき春の雪かな)
もりかげ 「森蔭」 よる 「寄り掛かる」 歌意 春日野の森蔭の古木の藤のむき出た根の上に身を寄せるようにして、静かに眼を閉じている鹿。その静かな眠りを妨げないように音もなく春の雪が降りそそいでいる。 写真は2003年1月29日、奈良の友人から送られてきた若草山の雪景色だ。写真の美しさから春日野の歌を思い起こした。 古都の静かに眠る鹿と春の雪、調べよく春日野を歌いながら、あたたかな余韻を残している。鹿鳴集冒頭、春日野にての中の一首、こんな日に訪れて見たいものだ。 (若草山頂上の鶯塚という古墳の写真)
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十九日高野山を下る熱ややたかければ学生のみ河内観心寺に遣り われひとり奈良のやどりに戻りて閑臥す(第2首) もりかげ の やど の ながや に ひとり ねし まくら に ちかき もの の ひとこゑ (森かげの宿の長屋に一人寝し枕に近きものの一声)
歌意 森かげの宿の長屋に一人寝ていると枕の近くで何かものの声がした。 春日野の森かげの静かな宿で熱を出しておとなしく伏せていた八一には突然の“もののひとこゑ”は異常に大きく聞こえたであろう。鹿の声だろうか?第3首で明らかになる。 植田重雄の“最後の奈良研究旅行4”
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閑庭(第10首) もろごゑ に つぐみ なき つれ とび さりし かき の ほつえ の ゆれ やまず けり (諸声につぐみ鳴き連れ飛び去りし柿のほつ枝の揺れ止まずけり)
歌意 群をなし、互いに鳴きながらつぐみが飛び去っていった後の柿の木の上の方の枝は、ずっと揺れ続けている。 前作で「おろかな主人は籠って本を読んでいる」とつぐみが鳴いて言っていると詠んだ。その鳥たちは、互いに鳴きながら一斉に飛び立って行った。揺れ続ける柿の枝に焦点を当てて、武蔵野の自然を浮かび上がらせる。
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若き人々に寄す(第2首) もろともに そら うちあふげ くれなゐ に もえ わたる ひ を こころ なぐさ に (諸共に空うち仰げ紅に燃え渡る日を心なぐさに)
歌意 若い人々よ、共に空を仰ぎなさい。真っ赤に燃えて空を渡る太陽を心の慰めにして。 大空の太陽を仰いで心を慰め、この難局を若者とともに乗り切りたいと心から思う。
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