会津八一 鹿鳴集・震余(八首)
                                     大正十二年九月
大震 いはゆる大正(1923)の震災なり。九月一日、恰(あたか)も午飯を喫し居る時、俄かに強く揺れ出したれば、庭に飛び下りしも、震動烈しくつづきて、地上に立つこと能(あた)わず。しばらく四つ匍(ば)ひになりたるまま、前後を打ち見るに、睡蓮を植ゑたる数鉢の水は、泥とともに飛び散り、屋根の瓦は大半落ちつくさんとす。余震はしばしば到りて、書棚は悉(ことごと)く倒れて畳の上に重なり合ひ、家の中には安んじて入りがたければ、戸袋より雨戸を引き出し来りて、邸内の杉の林の中に、所を選びて之を敷き並べ、客間の広き敷きものを剝ぎ来り、細紐にてその四隅を杉の林の梢に釣りて、これを以て雨除けとし、蚊取り線香にて夜の蚊を防ぎなどして、ここにて数日送るに、夜半に至りて、何者とも知れず、邸外より大声にて法外なる流言を伝え、甚しきは、垣根越しに窺ひ寄りて、ピストルを連発するものさえありき。かかることありきと、今も思い出すことあり。                        (自註鹿鳴集より)
   


 関東大震災の時に詠んだ8首である。言い表すことができないほどの惨事を歌を以て追体験するばかりである。
 八一は震災の後の絶望的な状況の中で、全唐詩を手任せに読んでいるうちに、その中の絶句31文字を和歌に訳そうと言う大胆な試みをした。それが鹿鳴集最後にある「印象」(9首)である。
 
 関東大震災
 1923年(大正12)9月1日午前11時58分、関東地方南部を襲った大震災。
最大震度7、規模はM7.9。5日までに人体に感じた余震は936回、各地に津波が襲来した。被災者は約340万人、死者9万1344人、行方不明1万3275人、重傷1万6514人、軽傷3万5560人、全焼38万1090世帯、全壊8万3819世帯、半壊9万1232世帯、損害額は推定約55億円余。
                                     会津八一の歌 索引

1 九月一日大震にあひ庭樹の間に遁れて(第1首)
         おほとの も のべ の くさね も おしなべて
                   なゐ うちふる か かみ の まにまに   
歌の解説
2 九月一日大震にあひ庭樹の間に遁れて(第2首)
         うちひさす みやこおほぢ も わたつみ の
                   なみ の うねり と なゐ ふり やまず  
歌の解説
3 九月一日大震にあひ庭樹の間に遁れて(第3首)
         あたらしき まち の ちまた の のき の は に
                   かがよふ はる を いつ と か またむ
        
歌の解説
4 後数月にして熱海の双柿舎(そうししゃ)を訪はむとするに汽車
  なほ通ぜず舟中より伊豆山を望みて  
         すべ も なく くえし きりぎし いたづらに
                   かすみ たなびく なみ の ほ の へ に       
歌の解説
5 被服廠(ひふくしよう)の跡にて(第1首)
         あき の ひ は つぎて てらせど ここばく の
                   ひと の あぶら は つち に かわかず  
歌の解説
6 被服廠(ひふくしよう)の跡にて(第2首)
         みぞがは の そこ の をどみ に しろたへ の
                   もの の かたち の みゆる かなしさ       
歌の解説
7 山口剛に
         うつくしき ほのほ に ふみ は もえ はてて
                   ひと むくつけく のこり けらし も     
歌の解説
8 淡島寒月老人に
         わが やど の ペルウ の つぼ も くだけたり
                   な が パンテオン つつが あらず や   
歌の解説
inserted by FC2 system