寒燈集・山鳩  序 

きい子もと高橋氏二十歳にして予が家に来り養うて子となすよく酸寒なる書生生活に堪へ薪水(しんすい)のことに当ること十四年内助の功多かりしはその間予が門に出入せしものの斉(ひと)しく睹(み)るところなるべしもとより蒲柳(ほりゅう)の質なりしを幾度か予の重患に侍し遂に疲労を以て病因をなしたるが如し今春臥して痾褥(あじょく)に在るに当り一夜たちまち戦火を被りわづかに身一つを以て免れ予とともに越後に帰り西条村の丹呉家に寄りしが幾何(いくばく)もなくして病勢大に進みしかば予はその邸を辞し伴ひて村端なる観音堂といふに移れりこは丹呉の祖先某々が剃髪(ていはつ)して余生を送られしところにして今なほ数奇(すうき)の遺構を偲ぶべきあるもその後数代の荒廃を重ね今は窓前草木深く鎖して鬱々(うつうつ)たる四隣の緑陰にはここかしこ蒼白き墓石さへ数ふべくいとわびしきさまなれども閑静にして人事に遠きをめづべしとて来りしなり
もとよりかかる世のさまとて頼むべき人手も無く薬餌(やくじ)にも乏しきを看護に炊事に予みづから迂拙(うせつ)の力を瘁(つく)したるも七月十日といふにここにして白昼遂に永き眠に入れり
きい子は平生学芸を尚び非理と不潔とを好まず絶命に臨みてなほ心境の明清を失はざりしに時恰(あたか)も交通のたよりあしく知る人の来りて枕頭を訪ふもの殆ど(ほとん)無かりしかば予ひとり側にありて衷心の寂莫(じゃくまく)を想うてしきりに流涕(りゅうてい)をとどめかねたり
やがて隣人に援けられて野外に送り荼毘(だび)に附し翌朝ひとり行きて骨を拾うて帰り来りしも村寺の僧は軍役に徴せられて内に在らざるを以て雛尼(すうに)を近里より請じ来るにその年やうやく十余歳わづかに経本をたどりて修證義(しゅしょうぎ)の一章を読み得て去れり
乃(すなわ)ちみづから戒名を撰み授けて素月冷光信女といふ予が家の墓所は新潟市西堀なる瑞光寺にあるも市は今空襲を虞(おそ)れて騒然足りといへば他日の平静を待ち携へ去りてその壙中(こうちゅう)に納めむことを期すされど予すでに老いたるに戦局の帰趨(きすう)また知るべからず今はただこれを記してこの一聯(いちれん)の序に充つるのみ
 昭和二十年八月


  ・きい子 八一の実弟高橋戒三夫人の妹、20歳で八一の身の回りの世話に入る。33歳、八一の養女になる。昭和20年7月10日結核で死去(34歳)  ・酸寒(さんかん) 貧しいこと  ・薪水(しんすい) 炊事  ・斉しく睹る(ひとしくみる) 同じようにしっかり見る  ・蒲柳(ほりゅう) 身体が弱い  ・痾褥(あじょく) 病床  ・数奇(すうき) 風流  ・鬱々たる(うつうつ) 草木が緊密に込み合ったさま  ・薬餌(やくじ) 薬と食事  ・迂拙(うせつ) 世事にうとくおろか  ・瘁したる(すい) 疲労しつくす  ・寂莫(せきばく) ものさびしい  ・流涕(りゅうてい) 涙を流す  ・荼毘(だび) 火葬  ・雛尼(すうに) 幼い尼僧  ・壙中(こうちゅう) 墓の中  ・帰趨(きすう) 行き着くところ  ・一聯(いちれん) 一つながり 山鳩21首

大意
 元高橋姓のきい子は20歳の時、私の家に入り、その後養女にした。貧しい私の書生生活を支えて14年、内助の功は大きい。そのことは私の門下生たちが良く知っている。身体が弱かったのに何度も私の重病の看病をしたことが、きい子の病因になってしまった。今春、倒れて病床にあった時、空襲にあい、身一つで私と共に東京から故郷越後の西条村の丹呉家に疎開したが、病状が進んだので、屋敷を出て村はずれの観音堂に移った。ここは丹後家の祖先が余生を送られたところだが、数代にわたって荒廃を重ねたので、草木がおい茂り、周りは真白な墓石が囲むと言う寂しい場所だ。しかし、静かで人事に煩わされないのを良しとしてやってきた。
 戦時下なので人手もなく、薬や食べ物も乏しかった時に、私一人で面倒を見たが、7月10日昼間、遂に永い眠りについた。
 きい子は普段から学芸を尊び、非道や不潔を好まなかったので、死に際でも心の平静を失わなかった。交通が悪く、弔いに訪れる人はほとんどなかったので、私一人で付き添ったが寂しく、涙はとどまる事がなかった。
 その後、荼毘に付し翌朝一人で骨を拾い帰った。戦争のため僧がいなかったので、10余歳の幼い尼に読経を頼んだ。
 戒名は「素月冷光信女」と私が授けた。私の家の墓がある瑞光寺に納めたいが、戦火のために今は出来ないので、後日納めようと思う。ただ、年老いた私には戦局の行くえが分からないので、今はただこの文を一連の歌の序にあてるのみである。
 昭和20年8月                                   山鳩目次(21首)へ
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