会津八一の歌
  会津八一(あいづ・やいち)                             目次へ
 1881~1956。新潟の生れ。号 秋艸道人(しゅうそうどうじん)。早稲田で学んだのち、坪内逍遥の招きで早稲田中学校教員となる。その後文学部教授に就任、美術史を講じた。
 古都奈良への関心が生み出した歌集『南京新唱(なんきょうしんしょう)』にその後の作歌を加えた『鹿鳴集』がある。奈良の仏像は八一の歌なしには語れない。歌人としては孤高の存在であったが、独自の歌風は高く評価されている。鹿鳴集に続いて『山光集』『寒燈集』を発表している。
 書にも秀で、今では高額で売買される。生涯独身で通したが、慕う弟子達を厳しく導き、多くの人材を育てた。 

   会津八一の生涯・年表  新潟市會津八一記念館  早稲田大学會津八一記念博物館
                                                   や行の歌
その翌日わが家の焼けたる跡にいたりて(第6首)

 やけあと に たてば くるし も くだけたる 
               せいじ の かけ の つち に まじりて


           (焼け跡に立てば苦しも砕けたる青磁のかけの土に混じりて)  

せいじ 「青磁。素地や釉(うわぐすり)に微量の鉄分を含み、還元炎で焼成して青緑色に発色させた磁器、また、その色。黄緑色、黄褐色のものもある」
かけ 「欠け。かけら」

歌意
 焼け跡に立つことはとても苦しい。大事にしていた青磁が砕けちって、かけらが土に混じっていて。

 空襲は全ての物を奪い去った。苦しみを抱えて茫然と立つ八一の前にある青磁のかけら、それは大事にしていたもの全てを表す。静かに詠いあげる焦土8首だが、その苦しさがひしひしと伝わってくる。
焦土目次

寒燈集・焦土(第8首) (2014・10・14)
山鳩(第4首)

 やすらぎて しばし いねよ と わが こと の 
                とは の ねむり と なる べき もの か

              (安らぎてしばしいねよとわが言の永遠の眠りとなるべきものか)  

山鳩 「身の回りの世話をし、共に暮らした養女・きい子への挽歌21首。山鳩・序 参照」
きい子 「八一の実弟高橋戒三夫人の妹、20歳で八一の身の回りの世話に入る。33歳、八一の養女になる。昭和20年7月10日結核で死去(34歳)」
いねよ 「寝ねよ。寝なさい」
わがこと 「私の言葉」
ものか 「“か”は反語・詠嘆。そんなはずはないのに」

歌意
 安心してしばらく寝なさいと言った私の言葉を最後に永遠の眠りになろうとは、そんなはずはないのに。

 しばらく寝なさいと言った八一の言葉を最後に、彼の知らない間にきい子は一人旅立っていった。(第2首解説参照)「そんなはずはない」と詠い叫ぶ八一の心情は驚きと悔いと悲しみが入り交じる。
山鳩目次

寒燈集・山鳩(第4首) (2013・1・30)
閑庭(第35首)

 やねうら の ねずみ しば なく くちなは の 
               うかがひ よる か あけ やすき よ を

           (屋根裏のねずみしば鳴くくちなはの窺ひ寄るか明けやすき夜を)  

閑庭 「かんてい。もの静かな庭。ここでは下落合秋艸堂のことを言う。“この林荘のことは、かつて『鹿鳴集』の例言の中に述ぶるところありたり。併せ見るべし。後にこの邸を出でて、同じ下落合にてほど近き目白文化村といふに移り住みしなり。”自註鹿鳴集」
しばなく 屡鳴く、屢鳴く。何度も鳴く、しきりに鳴く
くちなは 「蛇(形が朽ちた縄に似ているところから)」

歌意
 屋根裏のねずみがしきりに鳴いている。蛇が狙って忍び寄っているのであろうか、この明けやすい夏の夜に。

 自然豊かな秋艸堂でねずみを狙う屋根裏の蛇、近頃ではなかなか無い情景である。自然の営みの姿を鳴き声の中から浮かび上がらせる。
閑庭目次

寒燈集・閑庭(第35首) (2014・9・30)
山歌(第2首)
昨秋天皇陛下この地に巡幸したまひし時県吏まづ来りて予にもとむるに良寛禅師に関する一席の進講を以てす予すなはちこれを快諾したるも期に及びてにはかに事を以てこれを果すことを得ず甚だこれを憾(うら)みとせり今その詠草を筐底(きょうてい)に見出でてここに録して記念とす       

 やまかげ の ほふし が うた も きこし めせ 
               くに みそなはす たび の かたみ に


           (山影の法師が歌も聞こしめせ国みそなはす旅のかたみに)  

筐底 「きょうてい。箱の底、箱の中」
やまかげのほふし 「良寛禅師」
きこしめせ 「聞こし召せ。どうぞお聞きになってください」
みそなはす 「見そなはす。ご覧になる。“見る”の尊敬語」
かたみに 「記念に」

歌意
 国上山の山影に住んでいた良寛法師の歌もどうぞお聞きください。御巡幸の記念に。

 八一が評価する同郷の良寛の歌は大正時代以降徐々に知られるようになったが、それほど有名ではなかった。世間に広く知られるようになったのは相馬御風と斎藤茂吉の尽力によるが、正岡子規に紹介したのは八一だった。自らが敬慕し尊敬する良寛の歌を是非聞いて欲しいと願ったのである。
山歌目次

寒燈集以後・山歌(第2首) (2014・12・8)
やがて紀元節も近づきければ古事記の
中巻なる神武天皇の条を読みて(第11首)   

 やまかは の あらぶる かみ を ことむけて 
             たかしり ましつ かしはら の へ に


           (山川の荒ぶる神を言向けて高しりましつ橿原の辺に)

紀元節
「2月11日、神話上の神武天皇の即位日として定めた祭日。1873年~1948年。現在は健康記念日となっている。(1966年~)」
古事記 「日本最古の歴史書で、天皇による支配を正当化しようとしたもの。上巻は神代、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの記事を収める」
神武天皇 「日本神話に登場する人物で、日本の初代天皇(古事記、日本書紀による)」
あらぶるかみ 「荒ぶる神。荒々しく乱暴な神、天皇の支配に服さない神。ここでは神武天皇に反抗する土着民」
ことむけ 「言向け。説き伏せる、服従させる」
たかしり 「高知り。立派に造る、立派に治める」
かしはら 「橿原。奈良県中西部の市。神武天皇は日向を発ち、山や川に住む土着民を服従させて進み、大和の橿原の地で国を作った」

歌意
 山や川辺に住み反抗する土着民を神武天皇は服従させて進み、大和の橿原に国を作って立派に治められた。

 古事記の逸話を詠んだもの。第18首から第32首までは戦後一度削除し、後に復活したものである。
病間目次

山光集 病間(第28首) (2014・7・30)
十七日桜井の聖林寺にいたりつぎに室生寺にいたる(第2首) 

 やまがは は しらなみ たてり あす の ごと   
               いで たつ こら が うた の とよみ に  
             

           (山川は白波立てり明日のごと出で立つ子等が歌の響みに)
       
霜葉 「そうよう。霜で紅や黄に変色した葉」
聖林寺 「しょうりんじ。奈良県桜井市の真言宗室生寺派の寺院。国宝・十一面観音立像で有名」
室生寺 「むろうじ。奈良県宇陀市の真言宗室生寺派大本山の寺院。本尊は釈迦如来。室生川の北岸にある室生山の山麓にある。女人禁制の高野山に対し、女人高野と呼ばれる」
あすのごと 「出征が明日のように早く、ということ」
とよみ 「響み。大きな音が鳴りひびくこと、大声で騒ぐこと、どよめき」

歌意
 山川は白波が立っている。明日にも出征する学生たちの大声で歌う響きによって。

 第2、3首は以下を背景にしている。
 “・・・やがて室生寺にたどりつく頃は、激しい川水がひびくのみである・・・夜更けて、たれやらが村にいって買ってきた酒を、渓川のあたりで、會津先生をお呼びして別離の宴にしようといい出した。
 「海ゆかば水漬くかばね、山ゆかば草むすかばね・・・・・・」の歌がどこからともなくひびき、校歌や軍歌もつぎつぎに歌った”(植田重雄の“最後の奈良見学旅行・秋艸道人会津八一の學藝”より)
 生きて帰ることがないと心に思う学生たちの歌声は八一の心を揺さぶる。その歌声の響きがあたかも川面を波立たせているようだと詠う。
        植田重雄の“最後の奈良見学旅行3
 

霜葉目次

山光集・霜葉(第2首) (2014・6・19)
耶馬渓(やまけい)にて(第2首)
       
 やまくに の かは の くまわ に たつ きり の
               われ に こふれ か ゆめ に みえつる

              (山国の川のくまわに立つ霧の我に恋ふれか夢に見えつる)  

耶馬渓
「大分県中津市にある山国川の渓谷、景勝地として知られる。
“山国川の谿谷。「山」の字を「耶馬」と訓読して、かく命じたるは頼山陽(1780-1832)なり。今日にいたりては、原名の方かへりて耳遠くなれり。”自註鹿鳴集」
くまわ 「曲がりめぐること、また、そのようになっている地形をいう。くまみ(隈廻)と同義、“み”は動詞“み(廻)る”の連用形から」
こふれか 「恋い慕っているのか」
ゆめ 「昔は夢に現れる人が恋していると考えられた」

歌意
 山国川の曲がりくねった所から立ち上がる霧が私に恋い慕っているのだろうか、夢に現れたのは。

 第1首の就寝前の川霧が今度は夢に出てきたという。耶馬渓への思いがそうさせたであろうが、川霧を恋人と仮定すると想像がふくらむ。
放浪唫草目次

鹿鳴集・放浪唫草(第29首) (2013・5・3)
耶馬渓(やまけい)にて(第9首)
       
 やまくに の かは の せ さらず たつ きり の
               たちかえり つつ みむ よし も がも

              (山国の川の瀬さらず立つ霧の立ち返りつつ見むよしもがも)  

耶馬渓
「大分県中津市にある山国川の渓谷、景勝地として知られる。“山国川の谿谷。「山」の字を「耶馬」と訓読して、かく命じたるは頼山陽(1780-1832)なり。今日にいたりては、原名の方かへりて耳遠くなれり。”自註鹿鳴集」
やまくにのかは 「山国川は、大分県と福岡県の県境付近を流れる川。福岡県と大分県を分ける河川として知られて、中流に耶馬渓がある」
「(川の)瀬、浅瀬」
さらず 「離れず、立ち去らず」
たつきりの 「立ちあがる霧のように。“の”は“のように”」
たちかえりつつ 「“上に「たつ」とあるを、音声のそれに近き「たち」を以て受けたり。幾度も来りてといふ意。「つつ」は、さきにも出でし如く、同じことを繰り返す助詞。”自註鹿鳴集
よし 「手段、方法」
がも 「“あれかしと希求の詠嘆。”自註鹿鳴集」

歌意
 山国川の浅瀬を離れずに立ちあがる霧のように何度も立ち返ってきて耶馬渓の景色を見る方法があって欲しい。

 耶馬渓にて第1首で衣服をしっとりと濡らした川霧は、第2首で恋人のように夢に現れ、ここでは再度訪れたいと願う心を導く言葉となっている。霧の耶馬渓は、憂患を抱く孤独な旅人八一の心情にぴったりだったのであろう。
放浪唫草目次

鹿鳴集・放浪唫草(第36首) (2013・5・8)
六月一日吉野秀雄の案内にて多胡の古碑を観たる後伊香保にいたり
千明仁泉亭に入る翌二日裏山の見晴に登り展望す(第2首)   

 やまつつじ うつろふ なべに おにつつじ
                 もゆる たをり に のぼり いで に けり 
             

           (山つつじ移ろふなべに鬼つつじ燃ゆるたをりに登り出でにけり)
       
榛名 「群馬県の中央部にある山。赤城山、妙義山とともに上毛三山と呼ばれる。山頂部には東西に長い長円形のカルデラがあり、その中に榛名湖がある」
詞書 「榛名目次参照
やまつつじ
おにつつじ
「山躑躅。鬼躑躅。“・・・やまつつじ一名あかつつじ。おにつつじ一名きつつじ、かばれんげ。前者は花候やや早し。”自註鹿鳴集
うつろふ 「移ろう。盛りが過ぎる」
なべに 「につれて、と同時に」
たをり 「撓(り)。山の稜線(尾根)のくぼんで低くなっている所。鞍部。たわ」

歌意
 赤い山つつじが盛りを過ぎようとしている時に黄色の鬼つつじが燃え立っている尾根のくぼみに登り出たことだ。

 山の尾根の咲く時期がわずかに違う二つのつつじを一首の中に詠う。赤と黄の色彩の中に快い初夏の尾根が浮かんでくる。 
榛名目次

山光集・榛名(第2首) (2014・2・6)
山田寺の址にて(第2首)

 やまでら の さむき くりや の ともしび に 
                  ゆげたち しらむ いも の かゆ かな

 
               (山寺の寒き厨の灯火に湯気たち白む芋の粥かな)

 山田寺   
「舒明天皇の時代に蘇我倉山田石川麻呂が建立。遺跡は奈良県桜井
          市山田にある」
 山寺      「山寺(山田寺址にある小さな寺)」
 さむきくりや「“ここにさむきといふは、気温の低しといふほかに乏しきといふ意も籠
          めたり。あたかも漢語にて寒厨(かんちゅう)などといふに近し。”自註
          鹿鳴集」

歌意
 小さな山寺の寒さの厳しい貧しい台所の灯火のなかに湯気が立ち上がって芋粥が炊きあがろうとしているのだな~。

 山田寺跡には見逃してしまいそうな小さな寺がある。壮大な山田寺は平安時代になくなった。細々と続いていた寺も明治の廃仏毀釈で荒廃疲弊した。そうした中で仏法を守ってきた僧侶達の姿があった。八一は貧しい芋粥の中に彼らの強い意志を感じていたのかも知れない。
 
 
南京余唱目次

鹿鳴集・南京余唱(第14首) (2003・12・9)
浄瑠璃寺(第3首)

 やまでら の ほふし が むすめ ひとり ゐて 
                かき うる には も いろづき に けり 

              (山寺の法師が娘一人ゐて柿売る庭も色づきにけり)  

浄瑠璃寺 「京都府木津川市加茂町西小札場にある真言律宗の寺院。九体の木造阿弥陀如来像(国宝)を本堂に安置しているため、別名「九体寺」とも呼ばれる。秘仏・吉祥天女立像も有名である」
ほふし 「法師。この寺の住職」
いろづきにけり 「“木々の葉は紅葉し初めたり。”自註鹿鳴集」

歌意
 山寺の住職の娘がたった一人で庭の柿を売っている。この寺の庭も紅葉しはじめたことだな~。

 紅葉し始めた浄瑠璃寺に一人留守番をしながら赤い柿を売る少女、絵になる情景である。そして第4首で亡き母のために柿を供えよと詠う。
        みどう なる 九ぼん の ひざ に ひとつ づつ 
                   かき たてまつれ はは の みため に
    
           
                   浄瑠璃寺  第1首  第2首  第3首  第4首
 観仏三昧目次

鹿鳴集・観仏三昧(第8首) (2012・12・22)
浄瑠璃寺(第1首)
 二十日奈良より歩して山城国浄瑠璃寺にいたる。寺僧はあたかも奈良に買ひものに行きしとて在らず 赤きジャケツを着たる少女一人留守をまもりてたまたま来るハイキングの人々に裏庭の柿をもぎて売り我等がためには九体阿弥陀堂の扉を開けり 予ひとり堂後の縁をめぐれば一基の廃機ありこれを見て詠じて懐を抒(の)ぶ。

 やまでら の みだう の ゆか に かげろひて 
                ふりたる はた よ おる ひと なし に

              (山寺のみ堂の床にかげろひて古りたる機よ織る人なしに)  

浄瑠璃寺 「京都府木津川市加茂町西小札場にある真言律宗の寺院。九体の木造阿弥陀如来像(国宝)を本堂に安置しているため、別名“九体寺”とも呼ばれる。秘仏“吉祥天女立像”も有名である」
九体阿弥陀堂 「9体の仏像を並べる九体阿弥陀堂、藤原時代に多く建立された“九体阿弥陀堂”のうち、浄瑠璃寺本堂は建物と仏像がともに現存する唯一の遺構」
廃機 「壊れた機織(はたおり)器械(織機)」
懐を抒(の)ぶ 「胸中をのべる」
かげろひて 「“陰る”から薄暗いようす」
ふりたる 「古くなった」
はた 「織機」

歌意
 山寺のみ堂の床の薄暗い所に置かれ、もう織る人もいない古くなった織機よ。

 第2次世界大戦が始まり、暗い時代に入っていく昭和14年10月、訪れる人もほとんどない浄瑠璃寺で4首詠う。時代の影響が移りゆくもの、変化するものへの詩情となって現れる。4首で扱われる「山寺」「古くなった織機」「柿を売る娘」「(娘の)母」に若い時には無いこの頃の八一の心情が表れており味わい深い。
                    浄瑠璃寺  第1首  第2首  第3首  第4首
観仏三昧目次

鹿鳴集・観仏三昧(第6首) (2012・12・20)
十八日延暦寺の大講堂にて(第2首)

 やまでら の よ を さむみ か も しろたへ の
                わたかづき せる そし の おんざう


             (山寺の夜を寒みかも白妙の綿かづきせる祖師の御像)

やまでら 「もちろん比叡山延暦寺のこと」
さむみかも 寒さの故であろうか?」
しろたへ 「白色」
わたかづきせる 「わた=綿、かづく=冠る(かぶる)。綿の帽子をおかぶりになっている」
そし 「天台宗の祖師、最澄。諡号(しごう)は伝教大師

歌意
 比叡山の夜は寒いせいであろうか、真白な綿の帽子をおかぶりになっている祖師の御像であることよ。

 八一が自註鹿鳴集で「徳川初期の尋常一様の作と見ゆれども、登り来りて山気の中に之に対すれば、感興おのづから生ず」と述べている大講堂の像は確認できなかったが、比叡山で三体の最澄・伝教大師像を確認した。像は全て帽子(頭巾)をかぶっている。
 下に掲載する伝教大師像は1996年に建てられた萬拝堂内に安置されている。萬拝堂は根本中堂近くにあり、全国の神社仏閣の諸仏諸菩薩諸天善神の分身・分霊を祭り、同時に世界の神々も安置して、日夜平和と人類の平安を祈願する平成の新堂である。
              
比叡山目次

鹿鳴集・比叡山(第2首) (2011・10・24)
汽車中(第1首)

 やまとぢ の るり の みそら に たつ くも は
             いづれ の てら の うへ に か も あらむ


           (大和路の瑠璃のみ空に立つ雲はいづれの寺の上にかもあらむ)

汽車中 「八一自筆の豆本(大正10年)の詞書きでは奈良よりの帰路の歌とある」
るり  「瑠璃。青色の美しい宝石から濃い青色(紺碧・こんぺき)」
かも 「“か”という疑問詞と感嘆詞の“も”」
あらむ 「あるらん、あるのであろう(推量)」 







歌意
 大和路の青く深く澄んだ空の上にある雲は、どこのお寺の上にあるのだろうか。

 豆本の詞書きに「奈良より宇治にいで京都より東にかへる途中奈良のかたをかへりみれば諸仏の寂寞たる御すがたたちまち眼前にありまた思慕にたへがたしすなはちよめるうた」とあり、車窓から見る大和の青空と雲から古寺や諸仏への想いを詠った。
 新潟生まれの八一は「幼児より1年の大半を、常に灰色の曇天をのみ眺めつつ育ちたればにや、畿内、関西の天空の晴朗なるに感嘆する傾向があり。」と自註鹿鳴集で言う。「瑠璃のみ空」に込められた意味の深さを味わいたい。                        
 晩年、気候や地理的条件に影響された新潟の文化の改革と発展に尽力した八一、その気持ちがここに表れている。      第2首へ   
南京新唱目次

鹿鳴集・南京新唱(第90首) (2008・10・19)
十五日二三子を伴ひて観仏の旅に東京を出(い)づ

 やまと には かの いかるが の おほてら に 
                   みほとけ たち の まちて いまさむ  
                 

               (大和にはかの斑鳩の大寺にみ仏たちの待ちていまさむ)

二三子 「にさんし。2,3人の門下生」
いかるがのおほてら 「法隆寺」
観仏三昧 「“仏像の研究と鑑賞に専念すといふこと。”自註鹿鳴集」





歌意

 大和の地ではあの斑鳩にある法隆寺のみ仏たちが私の来るのを待っておられることだろう。

 仏が待っていると詠んだ言葉の裏にあるのは、如何に自らが奈良の仏たちに恋焦がれているか、と言うことである。生涯に35回奈良を訪れた八一にこそ表出できる自然な歌である。「仏が待っている」と思える時が来てほしいものだ。
 同類の歌として下記あり。参照して欲しい。
            かたむきて うちねむり ゆく あき の よ の 
                   ゆめ にも たたす わが ほとけ たち
  解説 

                  
観仏三昧目次

鹿鳴集・観仏三昧(第1首) (2011・06・11)
河内国磯長の御陵にて太子をおもふ

 やまと より ふき くる かぜ を よもすがら 
                やま の こぬれ に きき あかし つつ


           (大和より吹きくる風をよもすがら山の木末に聞きあかしつつ)

河内国 「旧国名の一つ。五畿に属し、現在の大阪府南東部にあたる」
磯長御陵  「しながごりょう。 大阪府南河内郡太子町太子の叡福寺内にある。直径50メートルほどの円墳で、東に聖徳太子、中央に母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)、西に妃・膳部大郎女(かしはでのおおいらつめ)が葬られている」
よもすがら 「夜通し」
やまのこぬれ 「山の樹木のこずえ。こぬれは、“こ(木)のうれ(末)”の音変化」 
ききあかしつつ 「聞きながら夜を明かし続ける」

歌意
 なつかしい大和からやってきて山のこずえを吹き鳴らす風の音を、太子は夜通しお聞きになっておられるだろう。

 磯長御陵は二上山(金剛山地の北部)の西、反対の東には大和の当麻寺などがある。太子、母、妃がここに同時に葬られていることは、法隆寺金堂釈迦像の銘文に書かれている。八一はこの銘文をしっかりした価値あるものとして、授業や学術論文で多く解説している。学問を愛し、極めて論理的に古代史などを解明した八一だが、聖徳太子崇拝、あるいは太子好きは際立っていた。
南京新唱目次

鹿鳴集・南京新唱(第82首) (2008・08・28)
山鳩(第2首)

 やまばと の とよもす やど の しづもり に 
                なれ は も ゆく か ねむる ごとく に

              (山鳩のとよもす宿のしづもりになれはも逝くか眠る如くに)  

山鳩 「身の回りの世話をし、共に暮らした養女・きい子への挽歌21首。山鳩・序 参照」
きい子 「八一の実弟高橋戒三夫人の妹、20歳で八一の身の回りの世話に入る。33歳、八一の養女になる。昭和20年7月10日結核で死去(34歳)」
とよもす 「音や声を響かせる」
しづもり 「静まる」

歌意
 山鳩の鳴き声が響いてくるこの観音堂の静けさの中でおまえは逝ってしまうのだろうか、まるで眠るように。

 看病疲れの八一がまどろんだ時、きい子は亡くなっていたと言う。八一の日記を転載する。
 「七月十日、キイ子薏苡仁(よくいにん)と牛乳一合と卵半個、未明に危篤に陥る。恰も空襲警戒中。午前、八幡の來診を乞ひ、葡萄糖注射の後、顔面一変し、苦悶するにつき、安臥せしめ、余もまどろみ居るところへ、沼垂の人々來る。物音に目をさまして病人を見れば、仰臥のまますでにこときれてあり。午後四時頃なり」
注1 薏苡仁は、ハトムギの種皮を除いた種子を原料にした生薬  
    沼垂(ぬったり)は、かつて新潟県中蒲原郡にあった町 

注2 2015年、この歌を刻んだ歌碑が新潟県胎内市の柴橋庵に建立され、きい子の命日である7月10日に除幕式が行われた。
山鳩目次

寒燈集・山鳩(第2首) (2013・1・28)
山鳩(第18首)

 やまばと は き なき とよもす ひねもす を
                ききて ねむれる ひと も あら なく に 

              (山鳩は来鳴きとよもすひねもすを聞きて眠れる人もあらなくに)  

山鳩 「身の回りの世話をし、共に暮らした養女・きい子への挽歌21首。山鳩・序 参照」
きい子 「八一の実弟高橋戒三夫人の妹、20歳で八一の身の回りの世話に入る。33歳、八一の養女になる。昭和20年7月10日結核で死去(34歳)」
とよもす 「音や声を響かせる」
ひねもす 「一日中」

歌意
 山鳩は今日もやってきて鳴いている。一日中、鳴き声を聞きながら眠っていた人はもういないのに。

 第2首で詠われたこの挽歌を象徴する山鳩、病臥するきい子と八一だけの寂しい観音堂で聞いた鳴き声は一人になった今も以前に変わらず耳に響いてくるのである。それは深い悲しみを助長する以外の何物でもなかった。 
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寒燈集・山鳩(第18首) (2013・2・8)
印象(第7首)

       訪隠者不遇  賈島
     松下問童子 言師採薬去
     只在此山中 雲深不知処

 やま ふかく くすり ほる とふ さすたけの
               きみ が たもと に くも みつ らむ か 


             (山深く薬掘るとふさすたけの君が袂に雲満つらむか)
          
            隠者ヲ訪ウテ遇ハズ  
          松下ニ童子ニ問ヘバ、
          言ク、師ハ薬ヲ採リテ去レリ。
          只ダ此ノ山中ニ在ラン、
          雲深クシテ処ヲ知ラズト。   
           

漢詩
「下記参照」
ほるとふ 「掘ると言う」
さすたけの 「刺竹の。大宮人皇子(みこ)などの宮廷関係の語にかかる枕詞」

歌意
 山中深く薬草を採集していると言うあなたの袂は湧き立つ雲があたりに満ちて、しっとりと濡れているだろう。

 どこにいるかも、いつ帰ってくるかもわからない隠者の幽情を詠う漢詩、その趣をとらえて歌にした妙は素晴らしい。八一が思慕する良寛の雰囲気が漂ってくる。

   隠者ヲ訪(おとの)ウテ遇(あ)ハズ  賈島(かとう)
   松下ニ童子ニ問ヘバ、
   言ク、師ハ薬ヲ採リテ去レリ。
   只ダ此ノ山中ニ在ラン、
   雲深クシテ処ヲ知ラズト。 
  
  松の木下で童子に尋ねると、 先生は薬を採りに行かれましたと言う。 この山中に
  いらっしゃるだろうが、雲が深くて行方はとてもわかりません。

    ・隠者
    ・賈島
俗世との交わりを避けて、ひっそりと隠れ住む人、隠遁者
晩唐の詩人、范陽(北京市)の人、進士。字は浪仙、または閬仙。
苦吟をもって名高く、詩作の時「僧は敲くがいいか、僧は推すがよいか」と悩みながら
歩いていて韓愈の行列に突き当たり、賈島が相談すると、韓愈は「僧は敲く、が良い」
と答えた。これが「推敲」の由来である。  
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鹿鳴集・印象(第7首) (2013・11・4)
三笠山にて

 やま ゆけば もず なき さわぎ むさしの の 
              にはべ の あした おもひ いでつ も
 

         (山ゆけば百舌鳴き騒ぎ武蔵野の庭辺の朝思ひ出でつも)

三笠山

むさしの

にはべ
あした
「ここでは若草山のこと(高さ342m)。注1参照 その形から三笠山と呼ぶが、本当は三笠山・御蓋山は若草山の南、春日大社の後方にある春日山の西峰(282m)を言う」
「武蔵野。東京都と埼玉県にまたがる武蔵野台地で、奈良の武蔵野(春日野)ではない。注2参照」
「八一の自宅は(武蔵野の)下落合にあった。その庭」
「朝」

歌意
 三笠山の山中を行くと百舌が鳴き騒いでいる。その声を聞くにつけても武蔵野にある自宅の朝の庭が思い出される。

 三笠山で聞く百舌の鳴き声は旅先で聞く鳥の声である。その旅情が素直な気持で武蔵野にある自宅・秋艸堂の朝の情景を思い起こさせた。秋艸堂の庭は広く、草木が鬱蒼としていたと言う。鳥たちには絶好の場所であった。

注1 若草山(奈良県公式ホームページより)
 山全体が芝生でおおわれており、三つの笠を重ねたようなので三笠山ともいいます。高さ342m、広さが33haあり、山内のあちらこちらで鹿を見ることができます。春には桜、秋の紅葉、ススキと四季折々の自然を楽しむことができます。山麓、一重目、二重目、山頂(三重目)、鶯塚古墳周辺道などで違った景観をお楽しみ頂けます。(鶯塚古墳周辺道は二重目料金所を北(山頂へ向かって左折)へ進む)約40分前後で山頂へ到着しますので心地よい汗をどうぞ。
注2 奈良の武蔵野・春日野について
 若草山西麓の一帯(春日野)は相当に古い時代から「武蔵野」とも「武蔵ヶ原」とも呼ばれた土地で、武蔵守であった良峯安世(よしみねやすよ)の墓と伝えられる「武蔵塚」が付近の手向山八幡のあたりにあったことから、そのように呼ばれるようになったのだという。(『大和名所記』1681)
 現在ではこの「武蔵塚」のあった場所はわからない。また、『大和名所図会』(1791)で、伊勢物語12段の「武蔵野はけふはな焼きそ若草のつまもこもれり我もこもれり」の歌を引用して武蔵野(春日野)と言う地名が紹介されている。
 このあたりに谷崎潤一郎など文士が良く滞在した和風旅館「むさし野」があるが、その地名からきているのかもしれない。
南京余唱目次

鹿鳴集・南京余唱(第31首) (2012・3・27)
十一月二十一日奈良より帰り來りその夜より病みふして立つ
能はざること五箇月に及べりそのいとまいとまに詠める歌(第4首) 

 やみ ふして ひさしく なりぬ まくらべ の 
               かき さへ うみて ながるる まで に 
             

             (病み臥して久しくなりぬ枕辺の柿さへ熟みて流るるまでに)
       
歌意
 病で臥してから随分時間が経った。枕もとに置かれている柿さえも熟れて流れるほどだ。

 病臥して何日か過ぎ、やっと枕辺を歌に詠めるほどになった。精神的な安定も取り戻した。
病間目次

山光集・病間(第4首) (2014・7・14)
山鳩(第6首)

 やみ ほそる なが て とり もち まがつひ に 
                もえ たつ やど を いでし ひ おもほゆ 

              (病み細る汝が手取り持ちまがつひに燃えたつ宿を出でし日思ほゆ)  

山鳩
「身の回りの世話をし、共に暮らした養女・きい子への挽歌21首。山鳩・序 参照」
きい子 「八一の実弟高橋戒三夫人の妹、20歳で八一の身の回りの世話に入る。33歳、八一の養女になる。昭和20年7月10日結核で死去(34歳)」
なが 「汝が。おまえ(きい子)の」
まがつひ 「禍津日(神)。災害・凶事などを引き起こす神を表すが、ここでは禍つ火と解し、いまわしい禍の火とする」
やど 「目白文化村にあった秋艸堂。14年間住んだ下落合の家(下落合秋艸堂)から昭和10年に目白文化村に移る。名付けて滋樹園秋艸堂、昭和20年4月13日、B29の焼夷弾で燃える」

歌意
 病んで細くなったお前の手を引いて、いまわしい火に燃え上がる家を逃れ出た日が思われてならない。

 亡くなったきい子を前に東京を逃れ出た時のことがありありと思い出される。その困難な日を思いながら、八一は深い悲しみに沈んでいく。
 「會津八一の生涯」(植田重雄著)は、この被災の有様をこう記している。
 『・・・「きい子、危いッ」と道人は、枕許にあった鞄を咄嗟につかむなり、洋傘一つを杖とし、きい子の手をとって猛火をくぐって逃れ出た。どこをどう歩いたか分からない。小高い丘陵の石垣に蹲(うずくま)り、夜の明けるのを待った。悪夢のような一夜であった。・・・』 
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寒燈集・山鳩(第6首) (2013・2・1)
これよりさき奈良の諸刹をめぐる(第1首)

 ゆく として けごん さんろん ほつそう の 
                あめ の いとま を せうだい に いる


             (行くとして華厳三論法相の雨のいとまを招提に入る)

これよりさき 「比叡山に登る前に」
諸刹 「刹(さつ)は寺、寺院。(奈良の)あちこちの寺
ゆくとして 「行くところとして」
けごん 「華厳宗の寺、東大寺や新薬師寺」
さんろん 「三論宗の寺、現在では該当寺院は無いと言われるが、大安寺は三論の祖師・道慈律師の開山忌を行っている」
ほつそう 「法相宗の寺、興福寺や法隆寺、薬師寺」
いとま 「間、ここでは雨が止んだ合間」
せうだい 「奈良の唐招提寺」

歌意
 (比叡山を訪れる前に)奈良の華厳宗や三論宗、法相宗の寺々を廻り、雨の止んでいる合間に唐招提寺に入った。

 八ーは早稲田の学生を連れて奈良研究旅行を度々行った。この昭和13年は奈良から京都まで足を伸ばした。学生を連れた奈良旅行は昭和18年11月、学徒出陣の生徒たちの送別の意味を込めた旅行で幕を閉じる。学問を通じて強く結ばれた師弟の逸話がいろいろと伝えられている。
         
比叡山目次

鹿鳴集・比叡山(第10首) (202011・11・28)
村荘雑事(第7首)

 ゆく はる の かぜ を ときじみ かし の ね の
               つち に みだれて ちる わかば かな 

              (ゆく春の風をときじみ樫の根の土に乱れて散る若葉かな)  

村荘雑事 「会津八一が住んだ下落合秋艸堂(1922-1935年)で自然を詠んだ17首」
ゆくはる 「過ぎていく春、晩春から初夏」
ときじみ 「時節はずれに。(形容詞“ときじ=季節はずれ”の語幹に“み”の付いたもの) 」
かしのね 「樫の根のあるあたり」

歌意
 過ぎていく春の季節はずれの強風に吹き落され、樫の木の根のある土の上に乱れ散っている樫の若葉であることよ。

 初夏の青葉を揺すって吹き渡るやや強い風を青嵐と言う。八一は“まだ軟かき若葉が、風のためにその柄を吹き折られて、樹下の地上に散り布く”(自註鹿鳴集)と書いている。武蔵野の自然は荒々しかった。我家の樫は家に囲まれているからか若葉が散ったことはない。
村荘雑事目次

鹿鳴集・村荘雑事(第7首) (2013・6・23)
阿修羅の像に(第1首) 

 ゆくりなき もの の おもひ に かかげたる 
               うで さへ そら に わすれ たつ らし 
             

           (ゆくりなき物の思ひに掲げたる腕さへ空に忘れたつらし)
       
阿修羅 「あしゅら。元は帝釈天と戦うインドの悪神だったが、仏教にとりいれられて、八部衆に属する仏教の守護神となった。この興福寺の阿修羅像は有名。参照」
ゆくりなき 「思いがけなく、不意に」

歌意
 なにか不意に物思いにふけって、掲げた腕さえ宙に忘れてしまって立っているようだ。

 阿修羅の愁いを含んだまなざしを思いがけない思いにふけっていると捉え、掲げた腕の存在さえ忘れているようだと詠う。八一の感覚の妙である。素空の仏像作りの師・安達正秋は阿修羅像は素晴らし過ぎて摸作しない方がよいと言う。それ程の名品である。       植田重雄の“最後の奈良研究旅行” 

 あじゆら 自註鹿鳴集
阿修羅は古代印度の神、後仏法に帰し、天、龍、夜叉、乾闥婆(けんだっぱ)、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、護摩邏迦(ごまらか)とともに八部衆となれり。勇猛なる闘争を以て聞こえたるに、法隆寺五重塔の塑像及び興福寺の此の像は若き婦人の如くつくれり。ことに此の像は情熱を湛へたる顔に、一種の哀愁を泛べたり。阿修羅は三面六臂にして一臂ごとに持物あり。興福寺のこの像今は持物みな失われしのみならず、その手さへ後補の部分あり。上にあげたる二臂はもと日月を挙げたりしものなり。空しく天を指したるにあらず。 
西の京目次

山光集・西の京(第8首) (2014・6・14)
滝坂にて(第5首)

 ゆふ されば きし の はにふ に よる かに の 
                あかき はさみ に あき の かぜ ふく


               (夕されば岸の埴生による蟹の赤き鋏に秋の風吹く)

ゆうされば  「夕方になると。さるは近づくという意味で昔は使われていた」
はにふ 「埴生。“はに”は赤黄色の粘土、“はにふ”はその“はに”のあるところ」
あかきはさみ 「“胴体小さく、鋏のみ赤き沢蟹は、川岸を駈けめぐること神速にして飛ぶが如し。”自註鹿鳴集

歌意
 夕方になると、滝坂の川の岸辺の埴生に寄ってくる沢蟹の赤い鋏に、秋の風が吹きわたっていく。 

 滝坂にての第5首、真っ赤な蟹の鋏の一点に集中することによって、夕暮れに吹きわたる渓流の秋風を際立たせる。4、5句のア音の頭韻がリズムを作る。
南京新唱目次

鹿鳴集・南京新唱(第28首) (2004・09・08)
鬼の岩屋といふところにて

 ゆふ されば ほとぎ の さけ を かたまけて
               いはや の つき に おに の ゑふ らむ

              (夕さればほとぎの酒をかたまけて岩屋の月に鬼の酔ふらむ)  

放浪唫草
「さすらいの旅で詠った歌の草稿。放浪唫草(ぎんそう)目次参照」
鬼の岩屋 「別府市上人西町北石垣にある古墳時代後期(6世紀後半)の古墳。“かかる名の洞穴別府の海岸にあり”自註鹿鳴集」
ゆうされば 「 夕方になると。夕方がくると」
ほとぎ 「昔、水などを入れた瓦製の器。胴が太く口が小さい壺」
かたまけて 「傾けて」

歌意
 (鬼の岩屋では)夕方になると酒壺を傾けて鬼たちが月を愛でながら酔っているだろう。

 古墳の名前から想像力を膨らませて鬼の酒宴を作りあげた。八一は酒豪であり、見ようによっては鬼を連想させる風貌かもしれない。
放浪唫草目次

鹿鳴集・放浪唫草(第21首)  (2013・4・27)
法隆寺東院にて(第1首)

 ゆめどの は しづか なる かな ものもひ に
                  こもりて いま も まします が ごと 
                 

               (夢殿は静かなるかなもの思ひに籠りて今もましますがごと)

法隆寺東院  「聖徳太子の住居であった斑鳩宮の跡に建立された。回廊で囲まれた中に八角円堂の夢殿がある」
ゆめどの 「本尊は救世観音。夢殿の呼称は、聖徳太子が三経義疏(さんぎょうぎしょ)執筆中に疑問を生じて持仏堂に籠ると、夢に金人(きんじん)が現れて疑義を解いたのによるという。国宝」
ものもひ 「(上記三経義疏執筆中の)物思い。第2首と関連」 
まします 「(聖徳太子が)おられる」









歌意
 夢殿はなんと静かなことであろう。今も聖徳太子が籠って物思いに耽っていらっしゃるかのように。

 この歌は静かなたたずまいの夢殿を聖徳太子への思慕と共に詠う。八一は自註鹿鳴集で、太子の瞑想を「上宮聖徳法王帝説」(12世紀以前)や「聖徳太子伝暦」(平安中期)を引用して述べ、太子への敬慕を表している。その上で“・・・今のいはゆる夢殿が天平十一年頃の造立にして、太子(574-622)在世のものにあらざるは、今にして学者の常識なるも、この歌を作るに当たりては、その区別を問わざることとなせり・・・”と書く。
 
 三経義疏(さんぎょうぎしょ)
 聖徳太子の著したと言われる経典注釈書。法華義疏、維摩(ゆいま)経義疏、勝鬘(しょうまん)義疏。日本人の手になる最初の本格的な注釈書だが、作者は確定しない。      第2首へ 

                    春日野(八一と健吉の合同書画集より)
  
南京余唱目次

鹿鳴集・南京余唱(第32首) (2011・06・07)
法隆寺壁画の作者をおもひて(第4首)

 ゆめ の ごと あり こし てら の かべ の ゑ に 
               なほ さやか なる ふで の あと あはれ 

              (夢のごとありこし寺の壁の絵になほさやかなる筆の跡あはれ)  

彩痕
「色彩のあと、絵画の筆跡」
法隆寺壁画の作者 「“壁画の作者は、往時はこれを、南梁より来りし司馬達等の孫なる止利なりといひ、或は百済の人曇徴なりと云はれしことあるも、確証なきのみならず、画風としては此の二人より稍おくるるものと認むるを常識とすべし。近年、邦人の筆に成れりと主張する人ありしも、予は肯せず。”自註鹿鳴集」
ゆめのごとありこし 「“悠遠なる時代を、奇跡の如く遺在せる寺といふこころ。”自註鹿鳴集 」
さやか 「明か、清か。はっきりしているさま」
あはれ 「感動詞で、ああ、あれ。平安時代における文学の基本的な美的理念。深いしみじみとした感動、情趣をいう 」

歌意
 夢かと思うほどに長い間存在してきた法隆寺の壁画には、今でもなおはっきりとした筆の跡が残っていて素晴らしいことだなあ。

 長い年月、奇跡のように生き残ってきた壁画、しかもその筆の跡が鮮やかに残ることに感動する。八一はこの壁画を愛し、南京新唱で詠い、またその保存にも言及していた。
彩痕目次

寒燈集・彩痕(第4首) (2014・8・15)
奈良博物館にて(第1首)

 ゆゐまこじ むね も あらはに くむ あし の   
               やや に ゆるびし すがた こそ よけれ       

              (維摩居士胸もあらわに組む足のややにゆるびし姿こそよけれ)
  
ゆゐまこじ 「乾漆造りの維摩坐像(法華寺蔵)。維摩居士とは釈迦の在家の弟子(居士とは在家の弟子のこと)で大乗仏教の奥義を極め、菩薩の道を歩んだと言われる。病床での文殊菩薩との問答が有名で、その様子は法隆寺五重塔塑造にある」
ややに 「ややと同じ」
ゆるびし 「“弛みし”と同じ。解けほどけたること。ここではゆったりと自然体である姿」

歌意
 維摩居士が胸をあらわにはだけて、足をゆったりと組んだ姿は自然体でとても素晴らしい。

 維摩坐像(法華寺蔵)が自ら動いて興福寺の方に向いたと言う記録が「南都巡礼記」にある。これに対し八一は自註鹿鳴集で言う。「蓋(けだ)しこれ、仏教の彫刻には、ややもすれば、均整の姿勢に加へて、没表情に近きもの多きに、この像の自然にして柔軟なる姿態より、おのづから生じたる伝説なるべし。」
 在家の人だった維摩居士が仏像とは違う自然な姿で、生身の人間に近く彫られている。そこを捉えて見事に詠っている。仏像彫刻に携わる者には示唆多い歌である。
南京続唱目次

鹿鳴集・南京続唱(第7首) (2012・12・08)
耶馬渓(やまけい)にて(第3首)
       
 よひ に きて あした ながむる むか つ を の
               こぬれ しづか に しぐれ ふる なり 

              (宵に来て朝眺むるむかつをのこぬれ静かに時雨降るなり)  

耶馬渓
「大分県中津市にある山国川の渓谷、景勝地として知られる。
“山国川の谿谷。「山」の字を「耶馬」と訓読して、かく命じたるは頼山陽(1780-1832)なり。今日にいたりては、原名の方かへりて耳遠くなれり。”自註鹿鳴集」
よひ 「夕方」
あした 「朝」
むかつを 「“「を」は峰。向ひの峰。旅館の二階より眺めていへり。「つ」は上下の名詞を連ねて熟語をつくる助詞。「時つ風」「沖つ浪」「国つ神」など。”自註鹿鳴集」
こぬれ 「樹木の先端の部分。こずえ」

歌意
 昨夕到着し、朝になって旅館から眺める向かいの峰の木々のこずえに静かに時雨が降っている。

 耶馬渓の宿から見える自然を詠み込んでいる。八一の対峙した景勝地耶馬渓は紅葉は終わり、昨夕は川霧の中にあり、今日は時雨であった。一人旅の旅愁が漂う。
放浪唫草目次

鹿鳴集・放浪唫草(第30首) (2013・5・4)
その翌日わが家の焼けたる跡にいたりて(第2首)

 よみ さして おきたる きぞ の ふみ さへ も 
               つち の ぬくみ と もえさり に けり


           (読みさして置きたる昨日の書さへも土のぬくみと燃え去りにけり)  

よみさして 「読むのを途中でやめて、よみかけで」
きぞ 「昨日」

歌意
 読みかけで置いておいた昨日の書物も土のあたたかみとなり、燃えて無くなった。

 読みさしの本も燃えてしまった。蔵書の中で最後に触れた本の姿がまざまざとよみがえってきた。
焦土目次

寒燈集・焦土(第4首) (2014・10・12)
菩薩戒会(ぼさつかいえ)の唐招提寺にて

 よもすがら かいゑ の かね の ひびき よる 
                   ふるき みやこ の はた の くさむら      

              (よもすがら戒会の鉦の響きよる古き都の畑の草むら)

菩薩戒会・かいゑ 「菩薩戒とは大乗の菩薩が受持する戒。悪をとどめ、善を修め、人々のために尽くすという三つの面をもつもの。(戒とは深い信仰に根ざした生活を送る決意)この歌にある菩薩戒会は10月19日~26日まで唐招提寺の礼堂で行われた念仏会の間で行われたが、自註鹿鳴集によると当時は授戒はなく、付近の老若が集まり、鉦を鳴らして夜更かししたとある」
よもすがら 「夜通し」
ひびきよる 「響き寄る。“人の打つ鉦の音が、無心の草むらに響き寄ることに感じて詠めるなり。”自註鹿鳴集」
はた 「畑。西の京にある唐招提寺の近くにある畑」

歌意
 戒会の夜通し鳴らす鉦の音が寺近くの古都奈良の畑の草むらに寂しく響いてくる。
 
 昭和3年10月、古都奈良(西の京)の深まる秋を響き寄る鉦の音で表出する。夜更けの暗い畑の草むらの静けさが寂しく響く鉦の音でより浮かび上がってくる。
南京続唱目次

鹿鳴集・南京続唱(第3首) (2012・12・01)
二日飛報あり叔父の病を牛込薬王寺に問ふ
この夜春雪初めていたる (第3首)

 よもすがら さもらひ をれど きみ が め の
               ひとめ も わかぬ われ ならめ や も

              (よもすがら侍ひをれど君が目のひとめもわかぬ我ならめやも)  

叔父
「会津友次郎(会津本家の当主)昭和15年2月3日76歳で没す。八一の少年時代にその才を認め文芸への影響を与えた人。春雪目次参照」
よもすがら 「夜通し」
さもらひ 「候ひ、侍ひ。ようすを見守る。さもらふ、“さ”は接頭語、“もらふ”は“も(守)る”に反復継続の助動詞“ふ”が付いたもの」
ひとめもわかぬ 「人を人として見分けることが出来ない」
われならめやも 「“吾にてはあらざるものを。”自註鹿鳴集」

歌意
 夜通しあなたの枕辺で見守り続けているのに、もうあなたの目は私を見分けることが出来ないのだろうか、いや決してそうでは無いだろうに。

 臨終間近の叔父はもう人を見分ける力もない。一晩中、祈るような気持ちで見守り続ける。叔父にとって私はもう私として認識されていない現実を悲しむ。  
春雪目次

鹿鳴集・春雪(第3首) (2013・10・13)
その他(第2首)

 より たてば はにわ の うま の たてがみ の 
                   あらき くしめ に こころ は いりぬ      

              (寄り立てば埴輪の馬のたてがみの粗き櫛目に心は入りぬ)

その他 「山光集の西の京10~11首の題は“その他”となっていて、奈良博物館のガラスケースの中を詠んでいる」
たてがみ 「馬やくびの背側に生えている長い毛」
くしめ 「櫛目。櫛で髪の毛をすいたあとにできる筋目」
こころはいりぬ 「心が強く惹かれた」

歌意
 ガラスケースに寄り立ってみると埴輪の馬のたてがみの粗い櫛目にとても心が惹かれたことだ。

 埴輪の馬の素朴で粗い櫛目に八一は感動した。粗さが力感を表している古代の遺物に、古代への憧憬が深い彼は強く惹かれたのであろう。         植田重雄の“最後の奈良研究旅行

                    春日野(八一と健吉の合同書画集より)
      
西の京目次

山光集・西の京(第11首)  (2013・11・10)
あるあしたクエゼリンの戦報に音羽侯の将士とともにみうせたまひける
よし聞きて(第1首)   

 より ふして この さよどこ に きく べし や 
              ラヂオ ゆゆしき みんなみ の こと


           (寄り伏してこのさ夜床にきくべしやラヂオゆゆしき南のこと)

クエゼリン 「クェゼリン環礁のこと。マーシャル諸島、ラリック列島にある環礁。委任統治していた日本軍は昭和19年2月、アメリカ軍によって全滅」
音羽侯 「音羽正彦侯爵。昭和11年に皇籍を離脱して侯爵となり、第6根拠地隊参謀として昭和19年クェゼリン島で玉砕。参照」
みうせ 「み失せ。お亡くなりになる」
さよどこ 「さ夜床。夜寝る床、寝床」
ゆゆしき 「由々しき、忌々しき。度がはなはだしい、重大である、容易ならない」

歌意
 病気であるとはいえ、このように夜の寝床に寝たまま聞いていて良いのだろうか、ラジオから流れる重大な南方の敗戦・悲劇を。

 元皇室、音羽侯爵のクェゼリン環礁での戦死を詠む4首の第1首。皇室ゆかりの人が死ぬなどとは思ってみなかったほど、敗戦に進む戦況は隠されていた。その衝撃は大きかっただろうが、今日的には評価する価値がない歌である。

 日本ニュース(1944・4・20)
去る2月、クェゼリン環礁守備部隊6500名の勇士とともに、尊き御身をもって南海の果てに散華させたもうた侯爵、音羽正彦少佐のご英霊は、4月12日、御父君朝香宮鳩彦王殿下、御兄君孚彦王殿下をはじめ奉り、軍代表参列して御迎え申し上げるうちを、○○空港に無言の凱旋(がいせん)を遊ばされました。ご英霊は同期生ショウジ隊員に奉持(ほうじ)され、国民挙げて哀悼のうちに一路横須賀へと向かわせられました。
病間目次

山光集・病間(第33首) (2014・8・1)
越後の中頸城(なかくびき)に住めるころ(第3首)

 よるべ なく おい に し ひと か やまかげ の 
                をだ の はすね を ほり くらし つつ


              (寄る辺なく老いにし人か山影のを田の蓮根を掘り暮らしつつ)

中頸城
「新潟県中頸城郡(なかくびきぐん)板倉村(現在は上越市板倉区)。八一は早大文学部卒業後、ここにある有恒学舎(現県立有恒高等学校)に英語教師として赴任した。明治39~43年、26~30歳の時である」
よるべなく 「頼みとして身を寄せるところや人の無い、身寄りのない」
おいにし 「老いにし」
をだ 「“を”は意味のない接頭語、“だ”は田んぼのこと」
はすね 「蓮根。ハスの地下茎、れんこん」

歌意
 身寄りもない年老いた人であるのだろうか、山影の田んぼで蓮根を掘って暮らし続けている。

 八一は年老いた農民の過重な蓮根掘りの姿に心打たれる。都落ちした八一の心が、農民の姿を身寄りの無い古老としてとらえたのであろう。 
   鹿鳴集・望郷 第6首では、故郷新潟で一生を暮し老いて行く人を詠んでいる。
旅愁目次

鹿鳴集・旅愁(第4首) (2013・8・26)
望郷(第4首)

 よ を こめて あか くみ はなち おほかは の
               この てる つき に ふなで す らし も

              (夜をこめて閼伽汲み放ち大川のこの照る月に船出すらしも)  

望郷
「故郷新潟を詠った。望郷目次参照」
よをこめて 「夜を籠めて。夜がまた深いうちに、夜遅くまで。“こむ”は中にしまう、包み込む。注1参照」
あか 「閼伽。水のこと、ここでは船底にたまった水」
くみはなち 「汲み放ち。(船底の)水をすくって捨てる」
おほかは 「ここでは信濃川をさす」
ふなですらしも 「船出するらしい。“らし”はある事態を推量する意を表す。…らしい。…に違いない。“も”は軽い感動を表す」

歌意
 夜を徹して船底の水を汲みだしていた舟が、明るい月が信濃川を照らす夜明けに船出しようとしていることよ。

 月が照る中、信濃川の河口に船出する姿を夜を徹して働く人の姿と共に詠った力強い歌である。額田王の万葉集の歌(注2)をすぐに思い出すが、八一の深層にもこの歌があったであろう。

 
 夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ  清少納言 (後拾遺集 )
 熟田津に舟乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今漕ぎ出でな  額田王  (万葉集)
望郷目次

 鹿鳴集・望郷(第4首) (2013・7・26)
十二月二十四日遠く征戍にある門下の若き人々をおもひて(第5首)   

 よ を こめて かしぐ あさげ に こほろぎ の 
                 あし まじり ゐて わらふ ひ も ある か     
             

           (夜をこめて炊ぐ朝餉にこほろぎの足混じりゐて笑う日もあるか)
       
征戍
せいじゅ。辺境におもむいて守ること。また、その兵士
よをこめて 夜を籠めて。まだ夜が明けないうちに」
かしぐ 炊ぐ。米や麦などを煮たり蒸したりして飯を作る、飯をたく」
あさげ 「朝餉。朝の食事、あさめし」

歌意
 まだ夜が明けないうちに作る朝ご飯の中に、こおろぎの足が混じっていて笑う日もあるだろう。

 学の途中で従軍した教え子たちを思いやる歌である。昭和16年12月、太平洋戦争突入時は日本・日本軍の内実は別にして、一般には戦争への余裕があり、この歌にもそれが表れている。
 「朝食の中のこうろぎの足」は中尉瀧口宏(後の早大教授、考古学専攻)の私信による、と自註鹿鳴集で書いている。 
望遠目次

山光集・遠望(第5首) (2014・4・20)
弘福寺の僧と談りて

 よ を そしる まづしき そう の まもり こし 
                   この くさむら の しろき いしずゑ


               (世をそしる貧しき僧の守り来しこの草むらの白き礎)


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弘福寺  「ぐふくじ。奈良明日香村にある真言宗のお寺。奈良時代に朝廷の庇護を受け栄えた川原寺(かわはらでら)跡にある。寺前にはかっての広大な川原寺跡を偲ばせる大理石の礎石がある」
よをそしる 「世を誹る。世の中の有様を批判する」
まもりこし 「(盗難や破壊から)寺と寺跡を守ってきた」 
いしずゑ 「(白い)礎石」

歌意
 世の中の有様を批判しながら、貧しい暮らしのなかで住職がずっと守ってきたこの草むらにある(川原寺)の大伽藍の白い礎石であることよ。

 川原寺跡の一角にこじんまりと建っている。八一は「今は衰え果てて、寺院とは見えぬばかりの小屋なり」と書いている。明治の廃仏毀釈でさらに寺院をめぐる環境は悪化した。盗難にあうこともあるし、本尊を売ったり、建物の一部を薪代わりにした僧もいた。そんな背景のなかで頑なに寺を守った老僧を捉え、また古代への想いを歌い上げている秀歌だ。
 2003・10・7弘福寺の僧にお会いした。饒舌な住職だったが言葉の端々に小さな寺の工夫が見受けられた。
 
南京新唱目次

鹿鳴集・南京新唱(第86首) (2003・10・18)
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