会津八一(あいづ・やいち) 目次へ 1881~1956。新潟の生れ。号 秋艸道人(しゅうそうどうじん)。早稲田で学んだのち、坪内逍遥の招きで早稲田中学校教員となる。その後文学部教授に就任、美術史を講じた。 古都奈良への関心が生み出した歌集『南京新唱(なんきょうしんしょう)』にその後の作歌を加えた『鹿鳴集』がある。奈良の仏像は八一の歌なしには語れない。歌人としては孤高の存在であったが、独自の歌風は高く評価されている。鹿鳴集に続いて『山光集』『寒燈集』を発表している。 書にも秀で、今では高額で売買される。生涯独身で通したが、慕う弟子達を厳しく導き、多くの人材を育てた。 会津八一の生涯・年表 新潟市會津八一記念館 早稲田大学會津八一記念博物館 |
その翌日わが家の焼けたる跡にいたりて(第6首) やけあと に たてば くるし も くだけたる せいじ の かけ の つち に まじりて (焼け跡に立てば苦しも砕けたる青磁のかけの土に混じりて)
歌意 焼け跡に立つことはとても苦しい。大事にしていた青磁が砕けちって、かけらが土に混じっていて。 空襲は全ての物を奪い去った。苦しみを抱えて茫然と立つ八一の前にある青磁のかけら、それは大事にしていたもの全てを表す。静かに詠いあげる焦土8首だが、その苦しさがひしひしと伝わってくる。
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山鳩(第4首) やすらぎて しばし いねよ と わが こと の とは の ねむり と なる べき もの か (安らぎてしばしいねよとわが言の永遠の眠りとなるべきものか)
歌意 安心してしばらく寝なさいと言った私の言葉を最後に永遠の眠りになろうとは、そんなはずはないのに。 しばらく寝なさいと言った八一の言葉を最後に、彼の知らない間にきい子は一人旅立っていった。(第2首解説参照)「そんなはずはない」と詠い叫ぶ八一の心情は驚きと悔いと悲しみが入り交じる。
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閑庭(第35首) やねうら の ねずみ しば なく くちなは の うかがひ よる か あけ やすき よ を (屋根裏のねずみしば鳴くくちなはの窺ひ寄るか明けやすき夜を)
歌意 屋根裏のねずみがしきりに鳴いている。蛇が狙って忍び寄っているのであろうか、この明けやすい夏の夜に。 自然豊かな秋艸堂でねずみを狙う屋根裏の蛇、近頃ではなかなか無い情景である。自然の営みの姿を鳴き声の中から浮かび上がらせる。
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山歌(第2首) 昨秋天皇陛下この地に巡幸したまひし時県吏まづ来りて予にもとむるに良寛禅師に関する一席の進講を以てす予すなはちこれを快諾したるも期に及びてにはかに事を以てこれを果すことを得ず甚だこれを憾(うら)みとせり今その詠草を筐底(きょうてい)に見出でてここに録して記念とす やまかげ の ほふし が うた も きこし めせ くに みそなはす たび の かたみ に (山影の法師が歌も聞こしめせ国みそなはす旅のかたみに)
歌意 国上山の山影に住んでいた良寛法師の歌もどうぞお聞きください。御巡幸の記念に。 八一が評価する同郷の良寛の歌は大正時代以降徐々に知られるようになったが、それほど有名ではなかった。世間に広く知られるようになったのは相馬御風と斎藤茂吉の尽力によるが、正岡子規に紹介したのは八一だった。自らが敬慕し尊敬する良寛の歌を是非聞いて欲しいと願ったのである。
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やがて紀元節も近づきければ古事記の 中巻なる神武天皇の条を読みて(第11首)
やまかは の あらぶる かみ を ことむけて
たかしり ましつ かしはら の へ に (山川の荒ぶる神を言向けて高しりましつ橿原の辺に)
歌意 山や川辺に住み反抗する土着民を神武天皇は服従させて進み、大和の橿原に国を作って立派に治められた。 古事記の逸話を詠んだもの。第18首から第32首までは戦後一度削除し、後に復活したものである。
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十七日桜井の聖林寺にいたりつぎに室生寺にいたる(第2首) やまがは は しらなみ たてり あす の ごと いで たつ こら が うた の とよみ に (山川は白波立てり明日のごと出で立つ子等が歌の響みに)
歌意 山川は白波が立っている。明日にも出征する学生たちの大声で歌う響きによって。 第2、3首は以下を背景にしている。 “・・・やがて室生寺にたどりつく頃は、激しい川水がひびくのみである・・・夜更けて、たれやらが村にいって買ってきた酒を、渓川のあたりで、會津先生をお呼びして別離の宴にしようといい出した。 「海ゆかば水漬くかばね、山ゆかば草むすかばね・・・・・・」の歌がどこからともなくひびき、校歌や軍歌もつぎつぎに歌った”(植田重雄の“最後の奈良見学旅行・秋艸道人会津八一の學藝”より) 生きて帰ることがないと心に思う学生たちの歌声は八一の心を揺さぶる。その歌声の響きがあたかも川面を波立たせているようだと詠う。 植田重雄の“最後の奈良見学旅行3”
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耶馬渓(やまけい)にて(第2首)
やまくに の かは の くまわ に たつ きり の われ に こふれ か ゆめ に みえつる (山国の川のくまわに立つ霧の我に恋ふれか夢に見えつる)
歌意 山国川の曲がりくねった所から立ち上がる霧が私に恋い慕っているのだろうか、夢に現れたのは。 第1首の就寝前の川霧が今度は夢に出てきたという。耶馬渓への思いがそうさせたであろうが、川霧を恋人と仮定すると想像がふくらむ。
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耶馬渓(やまけい)にて(第9首)
やまくに の かは の せ さらず たつ きり の たちかえり つつ みむ よし も がも (山国の川の瀬さらず立つ霧の立ち返りつつ見むよしもがも)
歌意 山国川の浅瀬を離れずに立ちあがる霧のように何度も立ち返ってきて耶馬渓の景色を見る方法があって欲しい。 耶馬渓にて第1首で衣服をしっとりと濡らした川霧は、第2首で恋人のように夢に現れ、ここでは再度訪れたいと願う心を導く言葉となっている。霧の耶馬渓は、憂患を抱く孤独な旅人八一の心情にぴったりだったのであろう。
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六月一日吉野秀雄の案内にて多胡の古碑を観たる後伊香保にいたり 千明仁泉亭に入る翌二日裏山の見晴に登り展望す(第2首) やまつつじ うつろふ なべに おにつつじ もゆる たをり に のぼり いで に けり (山つつじ移ろふなべに鬼つつじ燃ゆるたをりに登り出でにけり)
歌意 赤い山つつじが盛りを過ぎようとしている時に黄色の鬼つつじが燃え立っている尾根のくぼみに登り出たことだ。 山の尾根の咲く時期がわずかに違う二つのつつじを一首の中に詠う。赤と黄の色彩の中に快い初夏の尾根が浮かんでくる。
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山田寺の址にて(第2首)
やまでら の さむき くりや の ともしび に
ゆげたち しらむ いも の かゆ かな (山寺の寒き厨の灯火に湯気たち白む芋の粥かな) 山田寺 「舒明天皇の時代に蘇我倉山田石川麻呂が建立。遺跡は奈良県桜井 市山田にある」 山寺 「山寺(山田寺址にある小さな寺)」 さむきくりや「“ここにさむきといふは、気温の低しといふほかに乏しきといふ意も籠 めたり。あたかも漢語にて寒厨(かんちゅう)などといふに近し。”自註 鹿鳴集」 歌意 小さな山寺の寒さの厳しい貧しい台所の灯火のなかに湯気が立ち上がって芋粥が炊きあがろうとしているのだな~。 山田寺跡には見逃してしまいそうな小さな寺がある。壮大な山田寺は平安時代になくなった。細々と続いていた寺も明治の廃仏毀釈で荒廃疲弊した。そうした中で仏法を守ってきた僧侶達の姿があった。八一は貧しい芋粥の中に彼らの強い意志を感じていたのかも知れない。
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浄瑠璃寺(第3首) やまでら の ほふし が むすめ ひとり ゐて
かき うる には も いろづき に けり (山寺の法師が娘一人ゐて柿売る庭も色づきにけり)
歌意 山寺の住職の娘がたった一人で庭の柿を売っている。この寺の庭も紅葉しはじめたことだな~。 紅葉し始めた浄瑠璃寺に一人留守番をしながら赤い柿を売る少女、絵になる情景である。そして第4首で亡き母のために柿を供えよと詠う。 みどう なる 九ぼん の ひざ に ひとつ づつ かき たてまつれ はは の みため に 浄瑠璃寺 第1首 第2首 第3首 第4首
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浄瑠璃寺(第1首) 二十日奈良より歩して山城国浄瑠璃寺にいたる。寺僧はあたかも奈良に買ひものに行きしとて在らず 赤きジャケツを着たる少女一人留守をまもりてたまたま来るハイキングの人々に裏庭の柿をもぎて売り我等がためには九体阿弥陀堂の扉を開けり 予ひとり堂後の縁をめぐれば一基の廃機ありこれを見て詠じて懐を抒(の)ぶ。 やまでら の みだう の ゆか に かげろひて
ふりたる はた よ おる ひと なし に (山寺のみ堂の床にかげろひて古りたる機よ織る人なしに)
歌意 山寺のみ堂の床の薄暗い所に置かれ、もう織る人もいない古くなった織機よ。 第2次世界大戦が始まり、暗い時代に入っていく昭和14年10月、訪れる人もほとんどない浄瑠璃寺で4首詠う。時代の影響が移りゆくもの、変化するものへの詩情となって現れる。4首で扱われる「山寺」「古くなった織機」「柿を売る娘」「(娘の)母」に若い時には無いこの頃の八一の心情が表れており味わい深い。 浄瑠璃寺 第1首 第2首 第3首 第4首
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十八日延暦寺の大講堂にて(第2首) やまでら の よ を さむみ か も しろたへ の わたかづき せる そし の おんざう (山寺の夜を寒みかも白妙の綿かづきせる祖師の御像)
比叡山の夜は寒いせいであろうか、真白な綿の帽子をおかぶりになっている祖師の御像であることよ。 八一が自註鹿鳴集で「徳川初期の尋常一様の作と見ゆれども、登り来りて山気の中に之に対すれば、感興おのづから生ず」と述べている大講堂の像は確認できなかったが、比叡山で三体の最澄・伝教大師像を確認した。像は全て帽子(頭巾)をかぶっている。 下に掲載する伝教大師像は1996年に建てられた萬拝堂内に安置されている。萬拝堂は根本中堂近くにあり、全国の神社仏閣の諸仏諸菩薩諸天善神の分身・分霊を祭り、同時に世界の神々も安置して、日夜平和と人類の平安を祈願する平成の新堂である。
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汽車中(第1首) やまとぢ の るり の みそら に たつ くも は
いづれ の てら の うへ に か も あらむ (大和路の瑠璃のみ空に立つ雲はいづれの寺の上にかもあらむ)
歌意 大和路の青く深く澄んだ空の上にある雲は、どこのお寺の上にあるのだろうか。 豆本の詞書きに「奈良より宇治にいで京都より東にかへる途中奈良のかたをかへりみれば諸仏の寂寞たる御すがたたちまち眼前にありまた思慕にたへがたしすなはちよめるうた」とあり、車窓から見る大和の青空と雲から古寺や諸仏への想いを詠った。 新潟生まれの八一は「幼児より1年の大半を、常に灰色の曇天をのみ眺めつつ育ちたればにや、畿内、関西の天空の晴朗なるに感嘆する傾向があり。」と自註鹿鳴集で言う。「瑠璃のみ空」に込められた意味の深さを味わいたい。 晩年、気候や地理的条件に影響された新潟の文化の改革と発展に尽力した八一、その気持ちがここに表れている。 第2首へ
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十五日二三子を伴ひて観仏の旅に東京を出(い)づ
やまと には かの いかるが の おほてら に
みほとけ たち の まちて いまさむ (大和にはかの斑鳩の大寺にみ仏たちの待ちていまさむ)
歌意 大和の地ではあの斑鳩にある法隆寺のみ仏たちが私の来るのを待っておられることだろう。 仏が待っていると詠んだ言葉の裏にあるのは、如何に自らが奈良の仏たちに恋焦がれているか、と言うことである。生涯に35回奈良を訪れた八一にこそ表出できる自然な歌である。「仏が待っている」と思える時が来てほしいものだ。 同類の歌として下記あり。参照して欲しい。 かたむきて うちねむり ゆく あき の よ の ゆめ にも たたす わが ほとけ たち 解説
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河内国磯長の御陵にて太子をおもふ やまと より ふき くる かぜ を よもすがら
やま の こぬれ に きき あかし つつ (大和より吹きくる風をよもすがら山の木末に聞きあかしつつ)
歌意 なつかしい大和からやってきて山のこずえを吹き鳴らす風の音を、太子は夜通しお聞きになっておられるだろう。 磯長御陵は二上山(金剛山地の北部)の西、反対の東には大和の当麻寺などがある。太子、母、妃がここに同時に葬られていることは、法隆寺金堂釈迦像の銘文に書かれている。八一はこの銘文をしっかりした価値あるものとして、授業や学術論文で多く解説している。学問を愛し、極めて論理的に古代史などを解明した八一だが、聖徳太子崇拝、あるいは太子好きは際立っていた。
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山鳩(第2首) やまばと の とよもす やど の しづもり に なれ は も ゆく か ねむる ごとく に (山鳩のとよもす宿のしづもりになれはも逝くか眠る如くに)
歌意 山鳩の鳴き声が響いてくるこの観音堂の静けさの中でおまえは逝ってしまうのだろうか、まるで眠るように。 看病疲れの八一がまどろんだ時、きい子は亡くなっていたと言う。八一の日記を転載する。 「七月十日、キイ子薏苡仁(よくいにん)と牛乳一合と卵半個、未明に危篤に陥る。恰も空襲警戒中。午前、八幡の來診を乞ひ、葡萄糖注射の後、顔面一変し、苦悶するにつき、安臥せしめ、余もまどろみ居るところへ、沼垂の人々來る。物音に目をさまして病人を見れば、仰臥のまますでにこときれてあり。午後四時頃なり」 注1 薏苡仁は、ハトムギの種皮を除いた種子を原料にした生薬 沼垂(ぬったり)は、かつて新潟県中蒲原郡にあった町 注2 2015年、この歌を刻んだ歌碑が新潟県胎内市の柴橋庵に建立され、きい子の命日である7月10日に除幕式が行われた。
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山鳩(第18首) やまばと は き なき とよもす ひねもす を ききて ねむれる ひと も あら なく に (山鳩は来鳴きとよもすひねもすを聞きて眠れる人もあらなくに)
歌意 山鳩は今日もやってきて鳴いている。一日中、鳴き声を聞きながら眠っていた人はもういないのに。 第2首で詠われたこの挽歌を象徴する山鳩、病臥するきい子と八一だけの寂しい観音堂で聞いた鳴き声は一人になった今も以前に変わらず耳に響いてくるのである。それは深い悲しみを助長する以外の何物でもなかった。
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印象(第7首) 訪隠者不遇 賈島 松下問童子 言師採薬去 只在此山中 雲深不知処 やま ふかく くすり ほる とふ さすたけの きみ が たもと に くも みつ らむ か (山深く薬掘るとふさすたけの君が袂に雲満つらむか) 隠者ヲ訪ウテ遇ハズ 松下ニ童子ニ問ヘバ、 言ク、師ハ薬ヲ採リテ去レリ。 只ダ此ノ山中ニ在ラン、 雲深クシテ処ヲ知ラズト。
歌意 山中深く薬草を採集していると言うあなたの袂は湧き立つ雲があたりに満ちて、しっとりと濡れているだろう。 どこにいるかも、いつ帰ってくるかもわからない隠者の幽情を詠う漢詩、その趣をとらえて歌にした妙は素晴らしい。八一が思慕する良寛の雰囲気が漂ってくる。 注 隠者ヲ訪(おとの)ウテ遇(あ)ハズ 賈島(かとう) 松下ニ童子ニ問ヘバ、 言ク、師ハ薬ヲ採リテ去レリ。 只ダ此ノ山中ニ在ラン、 雲深クシテ処ヲ知ラズト。 松の木下で童子に尋ねると、 先生は薬を採りに行かれましたと言う。 この山中に いらっしゃるだろうが、雲が深くて行方はとてもわかりません。
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三笠山にて やま ゆけば もず なき さわぎ むさしの の にはべ の あした おもひ いでつ も (山ゆけば百舌鳴き騒ぎ武蔵野の庭辺の朝思ひ出でつも)
歌意 三笠山の山中を行くと百舌が鳴き騒いでいる。その声を聞くにつけても武蔵野にある自宅の朝の庭が思い出される。 三笠山で聞く百舌の鳴き声は旅先で聞く鳥の声である。その旅情が素直な気持で武蔵野にある自宅・秋艸堂の朝の情景を思い起こさせた。秋艸堂の庭は広く、草木が鬱蒼としていたと言う。鳥たちには絶好の場所であった。 注1 若草山(奈良県公式ホームページより) 山全体が芝生でおおわれており、三つの笠を重ねたようなので三笠山ともいいます。高さ342m、広さが33haあり、山内のあちらこちらで鹿を見ることができます。春には桜、秋の紅葉、ススキと四季折々の自然を楽しむことができます。山麓、一重目、二重目、山頂(三重目)、鶯塚古墳周辺道などで違った景観をお楽しみ頂けます。(鶯塚古墳周辺道は二重目料金所を北(山頂へ向かって左折)へ進む)約40分前後で山頂へ到着しますので心地よい汗をどうぞ。 注2 奈良の武蔵野・春日野について 若草山西麓の一帯(春日野)は相当に古い時代から「武蔵野」とも「武蔵ヶ原」とも呼ばれた土地で、武蔵守であった良峯安世(よしみねやすよ)の墓と伝えられる「武蔵塚」が付近の手向山八幡のあたりにあったことから、そのように呼ばれるようになったのだという。(『大和名所記』1681) 現在ではこの「武蔵塚」のあった場所はわからない。また、『大和名所図会』(1791)で、伊勢物語12段の「武蔵野はけふはな焼きそ若草のつまもこもれり我もこもれり」の歌を引用して武蔵野(春日野)と言う地名が紹介されている。 このあたりに谷崎潤一郎など文士が良く滞在した和風旅館「むさし野」があるが、その地名からきているのかもしれない。
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十一月二十一日奈良より帰り來りその夜より病みふして立つ 能はざること五箇月に及べりそのいとまいとまに詠める歌(第4首) やみ ふして ひさしく なりぬ まくらべ の かき さへ うみて ながるる まで に (病み臥して久しくなりぬ枕辺の柿さへ熟みて流るるまでに) 歌意 病で臥してから随分時間が経った。枕もとに置かれている柿さえも熟れて流れるほどだ。 病臥して何日か過ぎ、やっと枕辺を歌に詠めるほどになった。精神的な安定も取り戻した。
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山鳩(第6首) やみ ほそる なが て とり もち まがつひ に もえ たつ やど を いでし ひ おもほゆ (病み細る汝が手取り持ちまがつひに燃えたつ宿を出でし日思ほゆ)
歌意 病んで細くなったお前の手を引いて、いまわしい火に燃え上がる家を逃れ出た日が思われてならない。 亡くなったきい子を前に東京を逃れ出た時のことがありありと思い出される。その困難な日を思いながら、八一は深い悲しみに沈んでいく。 「會津八一の生涯」(植田重雄著)は、この被災の有様をこう記している。 『・・・「きい子、危いッ」と道人は、枕許にあった鞄を咄嗟につかむなり、洋傘一つを杖とし、きい子の手をとって猛火をくぐって逃れ出た。どこをどう歩いたか分からない。小高い丘陵の石垣に蹲(うずくま)り、夜の明けるのを待った。悪夢のような一夜であった。・・・』
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これよりさき奈良の諸刹をめぐる(第1首) ゆく として けごん さんろん ほつそう の あめ の いとま を せうだい に いる (行くとして華厳三論法相の雨のいとまを招提に入る)
(比叡山を訪れる前に)奈良の華厳宗や三論宗、法相宗の寺々を廻り、雨の止んでいる合間に唐招提寺に入った。 八ーは早稲田の学生を連れて奈良研究旅行を度々行った。この昭和13年は奈良から京都まで足を伸ばした。学生を連れた奈良旅行は昭和18年11月、学徒出陣の生徒たちの送別の意味を込めた旅行で幕を閉じる。学問を通じて強く結ばれた師弟の逸話がいろいろと伝えられている。
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村荘雑事(第7首)
ゆく はる の かぜ を ときじみ かし の ね の つち に みだれて ちる わかば かな (ゆく春の風をときじみ樫の根の土に乱れて散る若葉かな)
歌意 過ぎていく春の季節はずれの強風に吹き落され、樫の木の根のある土の上に乱れ散っている樫の若葉であることよ。 初夏の青葉を揺すって吹き渡るやや強い風を青嵐と言う。八一は“まだ軟かき若葉が、風のためにその柄を吹き折られて、樹下の地上に散り布く”(自註鹿鳴集)と書いている。武蔵野の自然は荒々しかった。我家の樫は家に囲まれているからか若葉が散ったことはない。
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阿修羅の像に(第1首) ゆくりなき もの の おもひ に かかげたる うで さへ そら に わすれ たつ らし (ゆくりなき物の思ひに掲げたる腕さへ空に忘れたつらし)
歌意 なにか不意に物思いにふけって、掲げた腕さえ宙に忘れてしまって立っているようだ。 阿修羅の愁いを含んだまなざしを思いがけない思いにふけっていると捉え、掲げた腕の存在さえ忘れているようだと詠う。八一の感覚の妙である。素空の仏像作りの師・安達正秋は阿修羅像は素晴らし過ぎて摸作しない方がよいと言う。それ程の名品である。 植田重雄の“最後の奈良研究旅行” 注 あじゆら 自註鹿鳴集 阿修羅は古代印度の神、後仏法に帰し、天、龍、夜叉、乾闥婆(けんだっぱ)、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、護摩邏迦(ごまらか)とともに八部衆となれり。勇猛なる闘争を以て聞こえたるに、法隆寺五重塔の塑像及び興福寺の此の像は若き婦人の如くつくれり。ことに此の像は情熱を湛へたる顔に、一種の哀愁を泛べたり。阿修羅は三面六臂にして一臂ごとに持物あり。興福寺のこの像今は持物みな失われしのみならず、その手さへ後補の部分あり。上にあげたる二臂はもと日月を挙げたりしものなり。空しく天を指したるにあらず。
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滝坂にて(第5首) ゆふ されば きし の はにふ に よる かに の
あかき はさみ に あき の かぜ ふく (夕されば岸の埴生による蟹の赤き鋏に秋の風吹く)
歌意 夕方になると、滝坂の川の岸辺の埴生に寄ってくる沢蟹の赤い鋏に、秋の風が吹きわたっていく。 滝坂にての第5首、真っ赤な蟹の鋏の一点に集中することによって、夕暮れに吹きわたる渓流の秋風を際立たせる。4、5句のア音の頭韻がリズムを作る。
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鬼の岩屋といふところにて
ゆふ されば ほとぎ の さけ を かたまけて いはや の つき に おに の ゑふ らむ (夕さればほとぎの酒をかたまけて岩屋の月に鬼の酔ふらむ)
歌意 (鬼の岩屋では)夕方になると酒壺を傾けて鬼たちが月を愛でながら酔っているだろう。 古墳の名前から想像力を膨らませて鬼の酒宴を作りあげた。八一は酒豪であり、見ようによっては鬼を連想させる風貌かもしれない。
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法隆寺東院にて(第1首)
ゆめどの は しづか なる かな ものもひ に
こもりて いま も まします が ごと (夢殿は静かなるかなもの思ひに籠りて今もましますがごと)
歌意 夢殿はなんと静かなことであろう。今も聖徳太子が籠って物思いに耽っていらっしゃるかのように。 この歌は静かなたたずまいの夢殿を聖徳太子への思慕と共に詠う。八一は自註鹿鳴集で、太子の瞑想を「上宮聖徳法王帝説」(12世紀以前)や「聖徳太子伝暦」(平安中期)を引用して述べ、太子への敬慕を表している。その上で“・・・今のいはゆる夢殿が天平十一年頃の造立にして、太子(574-622)在世のものにあらざるは、今にして学者の常識なるも、この歌を作るに当たりては、その区別を問わざることとなせり・・・”と書く。 注 三経義疏(さんぎょうぎしょ) 聖徳太子の著したと言われる経典注釈書。法華義疏、維摩(ゆいま)経義疏、勝鬘(しょうまん)義疏。日本人の手になる最初の本格的な注釈書だが、作者は確定しない。 第2首へ 春日野(八一と健吉の合同書画集より)
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法隆寺壁画の作者をおもひて(第4首) ゆめ の ごと あり こし てら の かべ の ゑ に なほ さやか なる ふで の あと あはれ (夢のごとありこし寺の壁の絵になほさやかなる筆の跡あはれ)
歌意 夢かと思うほどに長い間存在してきた法隆寺の壁画には、今でもなおはっきりとした筆の跡が残っていて素晴らしいことだなあ。 長い年月、奇跡のように生き残ってきた壁画、しかもその筆の跡が鮮やかに残ることに感動する。八一はこの壁画を愛し、南京新唱で詠い、またその保存にも言及していた。
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奈良博物館にて(第1首) ゆゐまこじ むね も あらはに くむ あし の
やや に ゆるびし すがた こそ よけれ (維摩居士胸もあらわに組む足のややにゆるびし姿こそよけれ)
歌意 維摩居士が胸をあらわにはだけて、足をゆったりと組んだ姿は自然体でとても素晴らしい。 維摩坐像(法華寺蔵)が自ら動いて興福寺の方に向いたと言う記録が「南都巡礼記」にある。これに対し八一は自註鹿鳴集で言う。「蓋(けだ)しこれ、仏教の彫刻には、ややもすれば、均整の姿勢に加へて、没表情に近きもの多きに、この像の自然にして柔軟なる姿態より、おのづから生じたる伝説なるべし。」 在家の人だった維摩居士が仏像とは違う自然な姿で、生身の人間に近く彫られている。そこを捉えて見事に詠っている。仏像彫刻に携わる者には示唆多い歌である。
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耶馬渓(やまけい)にて(第3首)
よひ に きて あした ながむる むか つ を の こぬれ しづか に しぐれ ふる なり (宵に来て朝眺むるむかつをのこぬれ静かに時雨降るなり)
歌意 昨夕到着し、朝になって旅館から眺める向かいの峰の木々のこずえに静かに時雨が降っている。 耶馬渓の宿から見える自然を詠み込んでいる。八一の対峙した景勝地耶馬渓は紅葉は終わり、昨夕は川霧の中にあり、今日は時雨であった。一人旅の旅愁が漂う。
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その翌日わが家の焼けたる跡にいたりて(第2首) よみ さして おきたる きぞ の ふみ さへ も つち の ぬくみ と もえさり に けり (読みさして置きたる昨日の書さへも土のぬくみと燃え去りにけり)
歌意 読みかけで置いておいた昨日の書物も土のあたたかみとなり、燃えて無くなった。 読みさしの本も燃えてしまった。蔵書の中で最後に触れた本の姿がまざまざとよみがえってきた。
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菩薩戒会(ぼさつかいえ)の唐招提寺にて よもすがら かいゑ の かね の ひびき よる
ふるき みやこ の はた の くさむら (よもすがら戒会の鉦の響きよる古き都の畑の草むら)
歌意 戒会の夜通し鳴らす鉦の音が寺近くの古都奈良の畑の草むらに寂しく響いてくる。 昭和3年10月、古都奈良(西の京)の深まる秋を響き寄る鉦の音で表出する。夜更けの暗い畑の草むらの静けさが寂しく響く鉦の音でより浮かび上がってくる。
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二日飛報あり叔父の病を牛込薬王寺に問ふ この夜春雪初めていたる (第3首) よもすがら さもらひ をれど きみ が め の ひとめ も わかぬ われ ならめ や も (よもすがら侍ひをれど君が目のひとめもわかぬ我ならめやも)
歌意 夜通しあなたの枕辺で見守り続けているのに、もうあなたの目は私を見分けることが出来ないのだろうか、いや決してそうでは無いだろうに。 臨終間近の叔父はもう人を見分ける力もない。一晩中、祈るような気持ちで見守り続ける。叔父にとって私はもう私として認識されていない現実を悲しむ。
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その他(第2首) より たてば はにわ の うま の たてがみ の
あらき くしめ に こころ は いりぬ (寄り立てば埴輪の馬のたてがみの粗き櫛目に心は入りぬ)
歌意 ガラスケースに寄り立ってみると埴輪の馬のたてがみの粗い櫛目にとても心が惹かれたことだ。 埴輪の馬の素朴で粗い櫛目に八一は感動した。粗さが力感を表している古代の遺物に、古代への憧憬が深い彼は強く惹かれたのであろう。 植田重雄の“最後の奈良研究旅行” 春日野(八一と健吉の合同書画集より)
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あるあしたクエゼリンの戦報に音羽侯の将士とともにみうせたまひける よし聞きて(第1首)
より ふして この さよどこ に きく べし や
ラヂオ ゆゆしき みんなみ の こと (寄り伏してこのさ夜床にきくべしやラヂオゆゆしき南のこと)
歌意 病気であるとはいえ、このように夜の寝床に寝たまま聞いていて良いのだろうか、ラジオから流れる重大な南方の敗戦・悲劇を。 元皇室、音羽侯爵のクェゼリン環礁での戦死を詠む4首の第1首。皇室ゆかりの人が死ぬなどとは思ってみなかったほど、敗戦に進む戦況は隠されていた。その衝撃は大きかっただろうが、今日的には評価する価値がない歌である。 注 日本ニュース(1944・4・20) 去る2月、クェゼリン環礁守備部隊6500名の勇士とともに、尊き御身をもって南海の果てに散華させたもうた侯爵、音羽正彦少佐のご英霊は、4月12日、御父君朝香宮鳩彦王殿下、御兄君孚彦王殿下をはじめ奉り、軍代表参列して御迎え申し上げるうちを、○○空港に無言の凱旋(がいせん)を遊ばされました。ご英霊は同期生ショウジ隊員に奉持(ほうじ)され、国民挙げて哀悼のうちに一路横須賀へと向かわせられました。
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越後の中頸城(なかくびき)に住めるころ(第3首) よるべ なく おい に し ひと か やまかげ の をだ の はすね を ほり くらし つつ (寄る辺なく老いにし人か山影のを田の蓮根を掘り暮らしつつ)
歌意 身寄りもない年老いた人であるのだろうか、山影の田んぼで蓮根を掘って暮らし続けている。 八一は年老いた農民の過重な蓮根掘りの姿に心打たれる。都落ちした八一の心が、農民の姿を身寄りの無い古老としてとらえたのであろう。 鹿鳴集・望郷 第6首では、故郷新潟で一生を暮し老いて行く人を詠んでいる。
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望郷(第4首)
よ を こめて あか くみ はなち おほかは の この てる つき に ふなで す らし も (夜をこめて閼伽汲み放ち大川のこの照る月に船出すらしも)
歌意 夜を徹して船底の水を汲みだしていた舟が、明るい月が信濃川を照らす夜明けに船出しようとしていることよ。 月が照る中、信濃川の河口に船出する姿を夜を徹して働く人の姿と共に詠った力強い歌である。額田王の万葉集の歌(注2)をすぐに思い出すが、八一の深層にもこの歌があったであろう。 注 1 夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ 清少納言 (後拾遺集 ) 2 熟田津に舟乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今漕ぎ出でな 額田王 (万葉集)
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十二月二十四日遠く征戍にある門下の若き人々をおもひて(第5首) よ を こめて かしぐ あさげ に こほろぎ の あし まじり ゐて わらふ ひ も ある か (夜をこめて炊ぐ朝餉にこほろぎの足混じりゐて笑う日もあるか)
歌意 まだ夜が明けないうちに作る朝ご飯の中に、こおろぎの足が混じっていて笑う日もあるだろう。 学の途中で従軍した教え子たちを思いやる歌である。昭和16年12月、太平洋戦争突入時は日本・日本軍の内実は別にして、一般には戦争への余裕があり、この歌にもそれが表れている。 「朝食の中のこうろぎの足」は中尉瀧口宏(後の早大教授、考古学専攻)の私信による、と自註鹿鳴集で書いている。
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弘福寺の僧と談りて よ を そしる まづしき そう の まもり こし
この くさむら の しろき いしずゑ (世をそしる貧しき僧の守り来しこの草むらの白き礎)
歌意 世の中の有様を批判しながら、貧しい暮らしのなかで住職がずっと守ってきたこの草むらにある(川原寺)の大伽藍の白い礎石であることよ。 川原寺跡の一角にこじんまりと建っている。八一は「今は衰え果てて、寺院とは見えぬばかりの小屋なり」と書いている。明治の廃仏毀釈でさらに寺院をめぐる環境は悪化した。盗難にあうこともあるし、本尊を売ったり、建物の一部を薪代わりにした僧もいた。そんな背景のなかで頑なに寺を守った老僧を捉え、また古代への想いを歌い上げている秀歌だ。 2003・10・7弘福寺の僧にお会いした。饒舌な住職だったが言葉の端々に小さな寺の工夫が見受けられた。
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