会津八一の歌
  会津八一(あいづ・やいち)                             目次へ
 1881~1956。新潟の生れ。号 秋艸道人(しゅうそうどうじん)。早稲田で学んだのち、坪内逍遥の招きで早稲田中学校教員となる。その後文学部教授に就任、美術史を講じた。
 古都奈良への関心が生み出した歌集『南京新唱(なんきょうしんしょう)』にその後の作歌を加えた『鹿鳴集』がある。奈良の仏像は八一の歌なしには語れない。歌人としては孤高の存在であったが、独自の歌風は高く評価されている。鹿鳴集に続いて『山光集』『寒燈集』を発表している。
 書にも秀で、今では高額で売買される。生涯独身で通したが、慕う弟子達を厳しく導き、多くの人材を育てた。 

   會津八一の生涯・年表  新潟市會津八一記念館  早稲田大学會津八一記念博物館
                                                   た行の歌
十六日真葛原にて   

 たいがだう ここ に ありき と ひとひら の  
                 いしぶみ たちて こだち せる かも
             

           (大雅堂ここにありきとひとひらの碑立ちて木立せるかも)
       
真葛原 「まくずがはら。京都市東山区、東山山麓の円山公園あたり一帯の地名 」
たいがだう 「大雅堂。池大雅(1723~1776)の画号、また住居をいう。池大雅は少年時代より書を学び、南画を研究した。30歳頃祇園茶店の娘、町(玉瀾)と結婚し、真葛原に草庵を結んだ。江戸中期の書画にすぐれた南画家」
ひとひら 「一片。ひとつ」
いしぶみ 「碑。丸山公園音楽堂西南の一隅にある“大雅堂址”と記した石碑」

歌意
 大雅堂・池大雅がここに住んでいたという一つの石碑が立って、木立が繁っている。

 独自性を大事にし独往の人だった八一だが、池大雅は評価した。石碑を前にいろいろ想いに浸ったであろう。大雅を詠んだ「自性寺(じしょうじ)の大雅堂にて(1首2首3首4首)」(鹿鳴集・放浪唫草39~42首)参照。   
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山光集・京都散策(第2首) (2014・3・30)
嵐山

  だいひかく うつら うつら に のぼり きて 
              をか の かなた の みやこ を ぞ みる
 

              (大悲閣うつらうつらに登り来て丘の彼方の都をぞ見る)

だいひかく


うつらうつら
「大悲閣。京都市西京区嵐山山腹にある黄檗宗の寺、千光寺の山号。角倉了以(すみのくらりょうい)の建立で、源信の作と伝えられる千手観音を本尊とする。嵐山の中腹にあり、京洛を一望する絶景の山寺として有名である」
「浅い眠りにひきこまれるさまを表す。ここでは心がぼんやりしているさま」

歌意
 大悲閣までぼんやりとして登ってきたが、ここに立つと丘の彼方に京の都が一望できるではないか。

 ぼんやりとしながら山道を登ってたどり着いた大悲閣・千光寺から見る絶景の感動が伝わってくる。南京余唱42首、最後の作である。         
          
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鹿鳴集・南京余唱(第42首) (2012・6・26)
桜桃(第1首)
     
 たうゑ す と ひと こぞる ひ を ひとり きて 
               われ こもり をり あうたう の えだ に

             (田植えすと人こぞる日を一人来て我籠りをり桜桃の枝に)  

桜桃・あうたう 「おうとう。セイヨウミザクラの別名、また、その実、さくらんぼ」
こぞる 「挙る。残らずにそろう、みんな集まる」
こもりをり 「桜桃の木に登って枝の中に籠っている」
       
歌意
 田植えをすると家中の人がそろって出かけた日に一人屋敷に来て、私は桜桃の木に登って隠れるように籠っている。

 終戦の翌年、新潟に活動の場を移して桜桃8首を詠む。木にのぼる八一はまるで少年のようである。明るさを取り戻した彼は敗戦ときい子の死を克服していくのである。   
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寒燈集・桜桃(第1首) (2014・11・11)
同日等持院にいたる影堂には足利氏累代の像あり(第4首)   

 たかうぢ の ざう みて いづる えいだう の  
                 のき に はるけき あき の そら かな
             

           (尊氏の像見て出づる影堂の軒にはるけき秋の空かな)
       
等持院 「とうじいん。京都市北区にある臨済宗天龍寺派の寺院。14世紀に足利尊氏が夢窓疎石を招いて建立。石足利氏の菩提寺であり、足利尊氏の墓所としても知られる」
影堂・えいだう 「一宗・一寺の開祖、また一家の祖先の影像や位牌を祭る堂。御影堂(みえいどう)」
足利氏 「室町幕府初代将軍・足利尊氏の一族」
たかうじ 「室町幕府初代将軍・足利尊氏」

歌意
 尊氏の像を見て出ようとすると御影堂の軒のはるかに秋の空が澄みわたっている。

 足利尊氏の像を見た喜びがよりさわやかに秋の空を感じさせたのだろう。
 太平記は皇国史観のもと南北朝時代を、足利尊氏を逆臣、楠正成を忠臣として書いている。それが戦前戦中の皇国史観を強化している。
 推測にすぎないが、八一は歴史上の逸材・足利尊氏像の消失を懸念していたかもしれない。
 蛇足だが、筆者はそれまでの足利尊氏のイメージを一新した私本太平記(吉川英治)を子供の頃に読み(終戦後)、忠臣として楠正成が賛美されるいろいろな読み物にその時一定の疑問を抱いた。
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山光集・京都散策(第11首) (2014・4・7)
歌碑(第4首)   
「ちかづきてあふぎみれどもみほとけのみそなはすともあらぬさびしさ」といふは新薬師寺香薬師を詠みしわが旧作なりちか頃ある人の請(こい)にまかせて自らこれを書しこれを石に刻ましめその功もまさに畢(おわ)りたれば相知る誰彼を誘ひ行きてこれを堂前に立てむとするに遽(にわか)に病を得て発するを得ずたまたま寺僧の拓して送れる墨本を草廬の壁上にかかげしめわづかにその状を想像して幽悶を慰むるのみいよいよ感應の易(やす)からざるをさとれり

 たがね うつ いし の ひびき に みだれ とぶ 
                 ひばな の すゑ に なり いで に けむ
             

           (鏨打つ石の響きに乱れ飛ぶ火花の末に成り出でにけむ)
       
たがね
「鑿。金工・石工用の工具、のみ」
ひばなのすゑ 「火花の末」
なりいでにけむ 「でき上がったのであろう」

歌意
 たがねを打って石を刻む響きとともに乱れ飛んだ火花の末に私の歌碑はできたのであろう。

 石を刻む音と火花の中から文字・歌碑が浮かび上がる。幻想的で神秘的な物語りを想像する。

歌碑目次

山光集・歌碑(第4首) (2014・5・4)
印象(第6首)

       送霊澈上人  劉長卿
     蒼蒼竹林寺 杏杏鐘声晩
     荷笠帯斜陽 青山独帰遠

 たかむら に かね うつ てら に かへり ゆく
               きみ が かさ みゆ ゆふかげ の みち 


             (竹叢に鐘打つ寺に帰りゆく君が笠見ゆ夕影の道)
          
            霊澈上人ヲ送ル  
          蒼蒼タル竹林ノ寺。
          杏杏トシテ鐘声晩ル。
          笠ヲ荷ウテ斜陽ヲ帯ブ。
          青山独リ帰ルコト遠シ。  
           

漢詩
「下記参照」
たかむら 「竹叢、篁。竹が群がって生えている所、たけやぶ」

歌意
 青々とした竹叢の中で鐘を鳴らす寺へ夕暮れにあなたは帰っていく。夕日が差している寂しい道に遠ざかるあなたの笠が見えている。

 夕暮れに僧を見送る漢詩、そこには作者自身の孤独感が色濃く表れている。また、色彩も有効に使われている。これを全て和歌の中に表現することは難しいが、八一は簡潔に和歌として表現している。

   霊澈(れいてつ)上人ヲ送ル  劉長卿(りゅうちょうけい)
   蒼蒼(そうそう)タル竹林ノ寺。
   杏杏(ようよう)トシテ鐘声晩(ク)ル。
   笠ヲ荷(にの)ウテ斜陽ヲ帯ブ。
   青山独(ひと)リ帰ルコト遠シ。
  
  鬱蒼と茂った竹林の中の竹林寺、日暮れの鐘が遠くかすかに響いてくる。今、あなたは笠を
  背負って夕陽をまとい、青々とした山へ一人帰っていく。その後ろ姿はしだいに遠のいていく。

    ・霊澈上人 中唐の著名な詩僧  ・劉長卿 中唐の詩人、河間(河北省滄州市)の人。
     733年、進士に合格。五言句を得意とし、「五言の長城」と称せられた。字は文房
    ・蒼蒼 青々と茂った、まっさおなさま  ・杏杏 暗くはっきりしないさま、遠くかすかなさま
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鹿鳴集・印象(第6首) (2013・11・3)
秋篠寺にて(第1首)  

 たかむら に さし いる かげ も うらさびし 
                 ほとけ いまさぬ あきしの の さと


             (竹群にさし入る光もうら淋し仏いまさぬ秋篠の里)

秋篠寺  「奈良市西部秋篠の里にある奈良朝最後の官寺。下記参照」
竹群 「竹林」
さし入るかげ 「差し込む日の光」
うらさびし 「うらは心、なんとなく淋しい」
ほとけいまさぬ 「明治初期の廃仏毀釈の嵐で、諸仏は奈良博物館に置かれていた」
   
歌意
 竹林に差し込む日の光も心淋しく感じられる。(寺を離れて)御仏がおられないこの秋篠の里では。
 
 当時(明治)の激しい廃仏毀釈の旋風の中で、仏は博物館の預けられ、寺は荒廃していた。八一が訪れた時は年老いた僧一人だったと言う。もちろん、平成2年以降の秋篠宮(礼宮)ブームによる喧騒などからは全く想像できないうら淋しい世界だった。サ行音の多用から醸し出される調べの中に秋深い村里を訪れた彼の感傷を味わいたい。
                                     
 
 
 秋篠寺
 奈良時代の末期(780年)光仁天皇の発願(ほつがん)により僧善珠が開いたと言われる。焼失により鎌倉時代に再建された本堂は簡素で奈良の古刹の穏やかな趣がある。重厚で御仏の宝庫ともいえる東大寺三月堂と対比するなら、堂と御仏が程よいこの本堂は違った意味で魅力的だ。
 堀辰雄が称賛した伎芸天(ぎげいてん)はふっくらと美しく、一見の価値あり。頭部のみ天平時代の乾漆造でそれ以外は後年補修された。
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鹿鳴集・南京新唱(第47首) (04・9・29)
若き人々に寄す(第1首)

 たからかに こころ かかげよ あをぐも の 
               たなびく はて を うちあふぎ つつ

           (高らかに心掲げよ青雲の棚引く果てをうち仰ぎつつ)  

こころ 「心。人間の体の中にあって、広く精神活動をつかさどるもとになると考えられるもの、ここでは志」
あをぐも 「青雲。青みを帯びた雲、または青空」
たなびく 「棚引く。雲や霞などが横に薄く長く引くような形で空にただよう」

歌意
 高らかに志を掲げなさい。青雲の棚引く空の果てを仰ぎながら。

 昭和20年4月、孤独の中にあった八一は祖国の難局を打開し未来を築くのは若者たちの力だと叫ばずにはいられなかった。      
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寒燈集・若き人々の寄す(第1首) (2014・10・9)
滝坂にて(第4首)  

 たきさか の きし の こずゑ に きぬ かけて 
                きよき かわせ に あそびて ゆかな


             (滝坂の岸の梢に衣かけて清き川瀬に遊びて行かな)

たきさかのきし 「滝坂の渓流の岸」
こずゑ 「渓流のほとりの木の梢」
きぬ 「衣服」
ゆかな 「ゆきたい。”な”は願望の助詞」

歌意
 滝坂を流れる渓流の岸辺の木の梢に服をかけて、清らかな川の流れの中で遊んでゆきたいものだ。
 
 歌が詠まれた大正10年ごろは豊かな渓流だったと思われるが、今はわずかな水量になっている。八一は秋の滝坂を楽しみながら、樹木と渓流を詠み込んだ。そこには尊敬する良寛の「自然の中に心を遊ばせる」が生き生きと受け継がれている。
 この歌の調べは八一の以下の自註を参照
 この歌偶然にも「カ」行の音多く、「カ」四、「キ」五、「コ」あり。幾分音調を助け居るが如し。後に法隆寺金堂の扉の音を詠みたる歌の音調の説明を参照すべし。    

 掲載歌は南京新唱から、「豆本」では「こずゑ」が「もみぢ」になっている。
    この「豆本」は袖珍(しゅうちん そでに入るくらいに小型なもの)の和歌帖、縦8.9cm横7.5cm
    の折本になっている。大正11年に作られ、市島春城に送られたもの。その当時の見事な書跡を
    見ることが出来る。
                (会津八一記念館・新潟 蔵書) 
南京新唱目次

鹿鳴集・南京新唱(第27首) (04・8・31)
五月二十二日山本元帥の薨去をききて(第3首)   

 たぐひ なき くに つ みたま の のぼり く と 
                  やすのかはら に かむつどひ せむ   
             

           (たぐひなき国つみ魂の昇り来と安の河原に神集ひせむ)
       
山本元帥 「昭和18年4月18日に南太平洋上空で戦死した山本五十六(いそろく)連合艦隊司令長官。八一と同郷、新潟出身」
薨去 「こうきょ。皇族または三位以上の公卿(後に武士も)が死去した場合に使用される表現。天皇・皇后・皇太后・太皇太后の場合は“崩御”と表現」
たぐひなき 「類無き。比べるものがない」
くにつみたま 「国つみ魂。国土に宿り、土地の豊饒・興廃にかかわると信じられた神霊、守護神」
やすのかはら 「安の河原。記紀によると、アマテラスが石屋戸に隠れたあと、神々は安の河原に集合して、アマテラスを石屋戸から出す方策を練った」
かむつどひ 「神集ひ。神々が集まる」

歌意
 比べるるものがないほど優れた国の守護神であるみ魂が昇ってくると安の河原に天の神々が集まることであろう。

 天の岩戸の神話を背景に、山本五十六連合艦隊司令長官の天での姿を詠う。  
山本元帥目次

山光集・山本元帥(第3首) (2014・5・29)
風竹を描きたる上に(第1首)
     
 たけ ゑがく ふで の した より ふき いでて 
               みそら に かよふ あきかぜ の おと

             (竹描く筆の下より吹き出でてみ空に通ふ秋風の音)  

自画題歌 「昭和20年~21年の間に菊、竹、その他の画を題にした歌8首」
風竹 「風に吹かれる竹」
       
歌意
 竹を描いている筆の下から吹き出して空に吹きあがる秋風の音が聞こえるようだ。

 心を集中して風にゆれる竹を描いていると筆先より秋風が吹きでてその音まで聞こえると詠う。絵の中に想像し、浮かんでくる風音が現実であるかのようである。    
自画題歌目次

寒燈集・自画題歌(第3首) (2014・11・19)
閑庭(第20首)

 たそがるる はた の ほそみち かへり きて 
               たち いる かど の すぎ の をばやし 

           (たそがるる畑の細道帰り来て立ち入る門の杉のを林)  

閑庭 「かんてい。もの静かな庭。ここでは下落合秋艸堂のことを言う。“この林荘のことは、かつて『鹿鳴集』の例言の中に述ぶるところありたり。併せ見るべし。後にこの邸を出でて、同じ下落合にてほど近き目白文化村といふに移り住みしなり。”自註」
たそがるる 「夕暮れ」
をばやし 「を林。“を”は語の調子を整えたり、変えたりする接頭語で意味は無い」

歌意
 夕暮れの畑の中の細道を帰って来て、私は家の門がある杉の林の中に入っていく。

 家は静かな杉林の中にあった。夕暮れに一人帰っていく広大な庭の中にある秋艸堂の生活は寂しかったかもしれないが、学究にとっては最適の場所だった。     
閑庭目次

寒燈集・閑庭(第20首) (2014・9・21)
法隆寺の金堂にて(第2首)

 たち いでて とどろと とざす こんだう の 
              とびら の おと に くるる けふ かな

        
             (立ち出でてとどろと閉ざす金堂の扉の音にくるる今日かな)

たちいでて
とどろととざす
「(金堂の拝観を終えて)表に出ると」
「轟き響くような音と共に扉を閉ざす。第1首の自註で言う。“扉は・・・甚だ重きものなり。これを閉ざす音に悠古の響きあり。四五十年前は一人の拝観者ありても、その一人のために、一々これを開閉したれども、今はその響を知らざる人多かるべし。”」

歌意
 金堂から表に出ると案内人の扉を閉ざす音がひっそりとした境内に大きく響き、その音と共に今日も暮れていく。

 ひっそりとした法隆寺の夕暮れ、金堂の重い扉を閉ざす音が「とどろ」に響きわたった。悠久の時の流れと現存する法隆寺の只中で八一の詩情が大きく揺り動かされた。「とどろ」という音から、静謐の世界を浮立たせ、さらに11あるタ行音の音韻効果で律動的な調べを作った。
 現在の法隆寺では望むべくもないが、この歌を口ずさみながら金堂の前に目を閉じてたたずめば、喧騒の世界とは全く違う世界に誘われる。

注1 参照 法隆寺の金堂にて 第1首
南京新唱目次

鹿鳴集・南京新唱(第65首) (2004・11・30)
四月二十七日ふたたび早稲田の校庭に立ちて(第2首) 

 たち いでて とやま が はら の しばくさ に 
               かたりし とも は あり や あらず や

       

            (立ち出でて戸山ヶ原の芝草に語りし友はありやあらずや)

とやまがはら 「戸山ヶ原。東京都新宿区にあった原。旧陸軍が練兵場などに使用。現在は住宅・文教地区。その当時の戸山ヶ原は現在の早大文学部辺りから西は大久保界隈まで、南は新宿の歌舞伎町一帯を含む広大な原野だった」

歌意 
 学生時代、構内から出て戸山ヶ原の芝草の上で共に語りあった友人たちは今も生きているだろうか、死んでしまったのだろうか。
          
 卒業後長い月日が経った。そればかりではない敗色濃い戦時下で友人たちの多くは音信不通である。病後でもあった八一は気弱であり、ありし日の学友たちへの感傷的な歌を詠む。   
校庭目次

山光集・校庭(第7首) ( 2014・8・6)
閑庭(第39首)

 たち いでて みづ くむ さよ の ともしび を 
               はち の かすむる ふるゐど の はた

           (立ち出でて水汲むさ夜の燈火を蜂のかすむる古井戸の端)  

閑庭 「かんてい。もの静かな庭。ここでは下落合秋艸堂のことを言う。“この林荘のことは、かつて『鹿鳴集』の例言の中に述ぶるところありたり。併せ見るべし。後にこの邸を出でて、同じ下落合にてほど近き目白文化村といふに移り住みしなり。”自註」
さよ 小夜。夜、“さ”は接頭語
かすむる 「掠むる。かすめる、すれすれに通り過ぎる」

歌意
 庭に出て行って水を汲んでいると夜の燈火を蜂がかすめるように飛んでいる、古井戸の端で。

 次の歌(第40首)によると井戸端の蜂の群れは多かったようだ。燈火に群がり、かすめるように飛び交う蜂を的確に詠んでいる。           
閑庭目次

寒燈集・閑庭(第39首) (2014・10・3)
この日醍醐を経て夕暮に京都に出で教王護国寺に詣づ 平安の東寺にして空海に賜(たま)ふところなり講堂の諸尊神怪を極む(第1首)

 たち いれば くらき みだう に ぐんだり の 
                しろき きば より もの の みえ くる

              (たち出れば暗きみ堂に軍荼利の白き牙より物の見えくる)  

醍醐
「京都市伏見区の東部の広域地名で、豊臣秀吉が豪勢な花見を行ったことで知られる醍醐寺に発する」
教王護国寺 「京都市南区九条町にある東寺真言宗の総本山。平安遷都直後、平安京鎮護のため羅城門左に建立に着手した。通称名は東寺」
空海 「平安時代、高野山金剛峰寺を建立した真言宗開祖。教王護国寺(東寺)を真言道場として後進の育成に努めた。835年に高野山で入滅、齢63歳。醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られた」
ぐんだり 「五大明王の一つで、南方に配置される軍荼利夜叉明王のこと。一面八臂(はっぴ)の姿で武器を持ち、憤怒の相をなしている」
もののみえくる 「“密閉したる真言宗寺院の堂内に立ち入る時は、暫くは視力を失ひたる如く、やうやくにして物の見え来るを常とす。その時軍荼利明王の牙の白きより堂内の諸物は見え初め来れりと詠めるなり。”自註鹿鳴集」

歌意
 暗いみ堂に立ち入るとまず最初に軍荼利明王の白い牙が浮かび上がり、その後から次第に他のいろいろな物が見えてくる。

 まず白い牙が見え、その後ゆっくりと全体が見えてくる。とても印象的で表現が素晴らしい。密教の寺の雰囲気を見事に表現した名歌で、忘れがたい歌である。この歌を暗誦しながら、東寺に軍荼利明王を見に行ったのは随分昔のことである。         第1首  第2首    
観仏三昧目次

鹿鳴集・観仏三昧(第19首) (2013・1・5)
車中肥後の海辺にて
     
 たち ならぶ はか の かなた の うなばら を
               ほぶね ゆき かふ ひご の はまむら 

             (立ち並ぶ墓の彼方の海原を帆船行きかふ肥後の浜村)  

肥後 「現在の熊本県。 明治時代までの令制国としての地名」
肥後の海辺 「“これは何所なりしかを記憶せざるも、作者の知れるある人、九州の旅より帰り来り、まさにこの歌の如きを風景を車窓にて見たるよし談(かた)れり。”自註鹿鳴集
はまむら 「海辺の村」

歌意
 立ち並んでいる墓の彼方の海原を帆船が行ったり来たりしているのどかな肥後の浜の村であることよ。

 車窓に広がる船の行きかう海辺の村の風景、それが墓石の向こうに見えると言う。絵画的な表現だが、立ち並ぶ墓は何かを考えさせる。     
放浪唫草目次

鹿鳴集・放浪唫草(第51首) (2013・5・30)
別府にて(第4首)

 たちばな の こぬれ たわわ に ふく かぜ の
               やむ とき も なく いにしへ おもほゆ

              (橘の木末たわわに吹く風の止む時もなく古おもほゆ)  

放浪唫草 「さすらいの旅で詠った歌の草稿。放浪唫草(ぎんそう)目次参照」
別府 「別府市は、大分県の東海岸の中央にある市。温泉が市内各地で湧出し、別府温泉として全国的に知られる」
たちばな 「橘、ミカン科の常緑低木。“わが宿りし旅館の前庭にも多くこれを植ゑたり。”自註鹿鳴集」
こぬれ 「木末、“こ(木)のうれ(末)”の音変化、樹木の先端の部分。梢(こずえ)」 
たわわに 「“その果実累々として枝も撓(たわ)むばかりに。”自註鹿鳴集」

歌意
 橘の枝が撓むばかり実がついている梢に吹いている風が止む時がないように私は常に古代のことを思っている。

 この頃、八一の関心は古代ギリシャから古都奈良の美術(東洋美術)へと移っていく。現に自らが設立した希臘学会(ギリシャ)をこの旅行を終えた後、大正13年3月に解消した。この歌で詠われた「いにしへおもほゆ」はまだ漠然としているが、古代への憧憬は古代ギリシャへの想いを継承しつつ、奈良美術を中心として日本の古代へと向かって行く。そして名歌「おほてらのまろきはしら・・・」に結実したと言ってよい。
放浪唫草目次

鹿鳴集・放浪唫草(第17首) (2013・4・24)
小園(第1首)
     
 たち わたす かすみ の なか ゆ とり ひとつ
               こまつ の うれ に なき しきる みゆ 

             (たちわたす霞の中ゆ鳥一つ小松のうれに鳴きしきる見ゆ)  

小園 「会津八一が住んだ下落合秋艸堂(1922-1935年)の庭園」
たちわたす 「(霧、雲、霞などが)一面にかかる。一面におおう
「より(助詞)」
うれ 「末。草の葉や茎、木の枝の先端。梢」
なきしきる 「鳴き頻る。しきりに鳴く、続けて鳴く」

歌意
 庭園を一面におおう霞の中より一羽の鳥が松の梢でしきりに鳴いている姿が見える。

 春霞がたなびく広い秋艸堂の庭園で鳴き続ける一羽の鳥をとらえて詠う。絵になる風景であり、八一の鳥好きがうかがえる。        
小園目次

鹿鳴集・小園(第1首) (2013・9・13)
六月一日吉野秀雄の案内にて多胡の古碑を觀たる後伊香保にいたり
千明仁泉亭に入る翌二日裏山の見晴に登り展望す(第6首)   

 たなぐも を そがひ に なして あまそそる
              あかぎ の ねろ は まなかひ に たつ 
             

           (棚雲をそがひになして天そそる赤城の嶺ろはまなかひに立つ)
       
榛名 「群馬県の中央部にある山。赤城山、妙義山とともに上毛三山と呼ばれる。山頂部には東西に長い長円形のカルデラがあり、その中に榛名湖がある」
詞書 「榛名目次参照
たなぐも 「棚雲。横に長く引いている雲、たなびく雲」
そがひ 「背向。後ろ向き、背中合わせ、後ろに」
あまそそる 「天聳る。天高くそびえ立つ、そそり立つ」
あかぎ 「赤城山、群馬県東部にある二重式火山、海抜1882m。榛名山、妙義山とともに上毛三山と呼ばれる」
ねろ 「嶺ろ。“ろ”は接尾語、峰のこと(上代東国方言)」
まなかひ 「目交い、眼間。(目と目が交わってできる空間の意) 目の前、まのあたり」

歌意
 たなびく雲を後ろに天高くそびえたつ赤城山の峰は今まさしく私の眼前に立っている。

 眼前に広がる赤城山の姿を簡潔に力強く表現する。古代から人々に眺められてきた山の雄大な姿に心を動かすのである。あちこちの山に出かけてそこから見える伊吹山、立山、御岳などを眺めた時の感動が重なる。       
榛名目次

山光集・榛名(第6首) (2014・2・14)
奈良博物館即興(第1首)   

 たなごごろ うたた つめたき ガラスど の 
               くだらぼとけ に たち つくす かな 
             

           (たなごごろうたた冷たきガラス戸の百済仏に立ちつくすかな)
       
奈良博物館 「“この地方に旅行する人々は、たとへ美術の専攻者にあらずとも、毎日必ずこの博物館にて、少なくとも一時間を送らるることを望む。上代に於ける祖国美術の理想を、かばかり鮮明に、また豊富に、我らのために提示する所は、再び他に見出しがたかるべければなり。”自註鹿鳴集」
たなごころ  「掌。手のひら」
うたた 「いよいよ、ますます」
ガラスど 「百済観音は現在は法隆寺百済観音堂に安置されているが、当時は、寄託されて奈良博物館中央のガラス張りの大ケースにあった」
くだらぼとけ 「百済観音。法隆寺にある飛鳥時代の国宝の木造観音菩薩像である。和辻哲郎の『古寺巡礼』、亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』で有名」

歌意
 手のひらに触れるガラスのケースはますます冷たさを増すが、百済観音に見入っていつまでも立ちつくし、立ち去ることができない。

 ガラスケースの冷たさとは対照的に八一の観音に見入る姿勢は熱く、我を忘れるほどである。和辻が亀井がそして八一が没入した百済観音は美しい。       
南京余唱目次

鹿鳴集・南京余唱(第17首) (2012・1・21)
八月二十三日友人山口剛を誘いて大塚に小鳥を買ふ(第7首)

 たな の うえ の ちひさき かご の とまりぎ に
               むね おしならべ ねむる はと かな

              (棚の上の小さき籠の止まり木に胸押し並べ眠る鳩かな)  

斑鳩
「斑鳩12首 目次参照
山口剛 (たけし)八一の親友。1880-1932、 茨城県生まれ、早稲田大学教授(国文学者)。『山口剛著作集』全6巻(中央公論社) 震余第7首参照

歌意
 棚の上の小さい籠の中の止まり木に胸を押し並べるようにして眠っている鳩たちであることよ。

 真白な鳩たちが身を寄せ合って静かに眠っている。その姿は鳥好きの八一にはたまらなく愛おしいのである。生き物が大好きな素空には詠われた鳩たちの姿がありありと眼前に浮かんでくる。  
斑鳩目次

鹿鳴集・斑鳩(第7首) (2013・8・13)
耶馬渓(やまけい)にて(第11首)
       
 たにがは の きし に かれ ふす ばら の み の
               たまたま あかく しぐれ ふる なり

              (谷川の岸に枯れ伏すバラの実のたまたま赤く時雨降るなり)  

耶馬渓
「大分県中津市にある山国川の渓谷、景勝地として知られる。“山国川の谿谷。「山」の字を「耶馬」と訓読して、かく命じたるは頼山陽(1780-1832)なり。今日にいたりては、原名の方かへりて耳遠くなれり。”自註鹿鳴集」
たまたま 図らずも、思い掛けなくも、珍しくも」

歌意
 谷川の岸に枯れ伏している野バラの実が思いがけなく真っ赤に色づいていて、そこに時雨が降り注いでいる。

 耶馬渓を立ち去ろうとする八一の目に飛び込んできたのは印象的な赤いバラの実、そして降り続く冬の雨は八一の心そのものであっただろう。耶馬渓にてはこの第11首で終わる。
 八一の歌で使われる「あか」は印象深い。以下数首掲載する。
    滝坂にて
      ゆふ されば きし の はにふ に よる かに の 
                      あかき はさみ に あき の かぜ ふく
    法華寺本尊十一面観音
      ふぢはら の おほき きさき を うつしみ に 
                      あひ みる ごとく あかき くちびる
    秋篠寺にて
      まばら なる たけ の かなた の しろかべ に 
                      しだれて あかき かき の み の かず
    山鳩
      かなしみて いづれば のき の しげりは に 
                      たまたま あかき せきりう の はな   
放浪唫草目次

鹿鳴集・放浪唫草(第38首) (2013・5・9)
山中高歌(第9首)

 たにがは の そこ の さざれ に わが うま の
                ひづめ も あをく さす 日かげ かな

 
           (谷川の底のさざれに我が馬の蹄も青く射す日かげかな)

さざれ 「細石(さざれいし)の略。こまかい石、小石」
ひかげ 「日影。太陽の光、日ざし」

歌意
 谷川の底の小石を踏んで渡る私の馬の蹄も青く見えるほどに日の光が射しこんでいる。
 
 心身ともに疲弊して出かけた山田温泉で過ごした時間は八一を癒し、その1ヶ月後、学術旅行で奈良へ行く足場となった。心境の変化が初夏の太陽と川の流れを素直な感覚でとらえている。ダイナミックな自然界の白雲、日ざし、水の流れが山中高歌10首の世界を作っている。  
山中高歌目次

鹿鳴集・山中高歌(第9首) (2013・4・2)
 
わが右の眼の硝子体に溷濁を生じて(第4首)   

 たのめりし ふたつ の まなこ くもる とも 
                 こころ さやけく すみ わたり なむ          
             

           (たのめりし二つの眼曇るとも心さやけく澄みわたりなむ)
       
硝子体 「しょうしたい。俗に“ガラス体”ともいう。眼の中の正面からみて水晶体より奥で眼底、網膜へ達するまでの空間を満たす物質」
溷濁 「こんだく。いろいろなものがまじって濁ること」
たのめりし 「頼りにしてきた」
さやけく 「すがすがしく、きよく澄んで」
すみわたりなむ 「澄みわたって欲しい。“なむ”は終助詞で…てほしい、…てもらいたい」

歌意
 頼りとしてきた二つの眼がたとえ曇ったとしても、心だけはすがすがしく澄みわたって欲しいものだ。

 眼が悪くなっても澄んだ心でいたいと失意の中でも強く願う。かって、「戒壇院をいでて」の歌で仏像のまなざしを印象的に詠んだ八一にとって眼の疾患はいかばかりのものであっただろうか。   
溷濁目次

山光集・溷濁(第4首) (2014・4・29)
その夜家にかへりておもふ(第1首)

 たび にして はふれる たま や ふるさと に 
               こよひ かよはむ そら の ながて を 

              旅にして葬れる魂や故郷に今宵通わむ空の長手を  

はふれるたま 「葬れる魂。“火葬に附したる後の魂。”自註鹿鳴集」
かよはむ 「通はむ。帰るだろう。“む”は推量の助動詞、…だろう」
ながて 「長手。長い道のり、遠路。“君が行く道のながてを繰り畳(たた)ね焼き滅ぼさむ天(あめ)の火もがも”万葉集巻15・3724」

歌意
 旅先で亡くなり荼毘に付されたあなたの魂は故郷に今宵帰っていくだろう。空の長い道のりを通って。

 東京での葬送後、故郷へ帰るであろう叔父の魂について帰宅して思いを巡らす。叔父は新潟の会津本家の当主であった。“空の長手を魂が帰郷する”、人は自然とそう発想するし、そうあって欲しいと願う。雨月物語には、牢内で切腹して霊魂となって故郷に帰っていく話がある。    
春雪目次

鹿鳴集・春雪(第8首) (2013・10・20)
新薬師寺の金堂にて

 たびびと に ひらく みどう の しとみ より 
                めきら が たち に あさひ さし たり


       (旅人に開く御堂のしとみより迷企羅が太刀に朝日さしたり)

新薬師寺 「奈良市高畑町にある華厳宗の別格本山。聖武天皇の病気平癒のため光明皇后が建立したと言われている。薬師如来は目が大きく眼病に効くと言う信仰がある。薬師寺とは全く別の寺である」
みどう 「御堂。本堂のこと」
しとみ 「蔀。雨戸のこと、上下2枚あり、上を開けて光を取り入れる」
めきら 迷企羅大将。十二神将のひとつ、国宝」 

歌意
 訪れた旅人の私のために、開かれた本堂の蔀からさし込む朝日が迷企羅大将のかざす太刀に輝いている。

 昔は訪れる旅人に乞われて、蔀を開けて外光を入れたという。今でもその風情が残っているが現住職がステンドグラスを導入するという話を聞いてからは行ったことがない。この寺には有名な仏像で盗難にあった「香薬師」があった。小説の材料になったりしている。     香薬師の歌  
南京新唱目次

鹿鳴集・南京新唱(第20首) (03・05・01)
高畑にて(第1首)

 たびびと の め に いたき まで みどり なる
               ついぢ の ひま の なばたけ の いろ


            
(旅人の目に痛きまで緑なる築地の隙の菜畑のいろ)

高畑 「奈良市高畑町、春日大社を抜けた新薬師寺のあたり」
ついぢ 「築泥(ツイヒジ)から、築地(ツイジ)。壁土の堀の上に瓦で屋根を葺いた物。それが荒廃し、その先の家屋も無くなって畑になっている」
ひま 「隙。あいだ」

歌意
 
奈良の旧跡を訪ねて遠くからやってきた旅人の私の目に沁みて痛いほどに、崩れた築地の間に見える萌え立つ緑の菜の色であることよ。

 作者はこう記している。「奈良の築地の破れは、伊勢物語以来、あはれ深いものであるが、ただ見た目にも、これほど旅人の胸を打つものは少ない
 だだの荒廃ではない、長い歴史の重みがある古都の風景を「目に痛きまで」の緑の鮮やかさの中で詠んでいる。その味わいと「の」の効果的な使い方による調べの良さを楽しんで貰いたい。
 八一は新薬師寺にある美しい香薬師に会うために、高畑でこの歌を詠んだ。
                                    第2首参照
南京新唱目次

鹿鳴集・南京新唱(第18首) (02・05・18)
閑庭(第42首)

 たび ゆきて かへれば かど に たかき ひ を 
               みみ に したしき かひどり の こゑ

           (旅行きて帰れば門に高き日を耳に親しき飼鳥の声)  

閑庭 「かんてい。もの静かな庭。ここでは下落合秋艸堂のことを言う。“この林荘のことは、かつて『鹿鳴集』の例言の中に述ぶるところありたり。併せ見るべし。後にこの邸を出でて、同じ下落合にてほど近き目白文化村といふに移り住みしなり。”自註」
かひどり 飼鳥。飼っている鳥。八一は小鳥が好きでいろいろ飼った。鳥を詠んだ歌に鹿鳴集・斑鳩12首がある

歌意
 旅に出て帰ってくるとまだ門の上に日は高く、耳に親しい聞きなれた小鳥たちの鳴き声が聞こえる。

 動植物に深い関心と情をかけた八一は、とりわけ小鳥を飼って日々を過ごした。帰宅した自分を迎えるかのように鳴いている鳥たちへの思いがあらわれている。    
閑庭目次

寒燈集・閑庭(第42首) (2014・10・4)
芝草(第1首)   
十月二十四日ひさしく懈(おこた)りて伸びつくしたる門前の土塀の芝草を刈りて日もやや暮れなむとするに訪ね寄れる若き海軍少尉ありと見れば昨秋我が校を去りて土浦の飛行隊に入りし長島勝彬なり明朝つとめて遠方に向はんとするよしいへば迎へ入るしばししめやかに物語して去れり物ごし静かなるうちにも毅然たる決意の色蔽ふべからずこの夜これを思うて眠成らず暁にいたりてこの六首を成せり     

 たまたまに しばくさ かりし わが かど に 
                あす は ゆかむ と ひと の とひ くる     
             

           (たまたまに芝草刈りし我が門に明日は征かむと人の訪ひ来る)
       
たまたま
「偶然に、ちょうどその時」
かど 「門」
あすはゆかむ 「明日出征する」

歌意
 たまたま芝草を刈っていた門前に明日は出征すると人が訪ねてきた。

 出征前の教え子を詠む歌6首、敗戦濃き中での別れは悲しいものである。時代の影響を受けた空虚な作と言える偶感5首や山本元帥7首とは全く違うこころの通う戦時下での別れの歌である。 
芝草目次

山光集・芝草(第1首) (2014・6・1)
六月一日吉野秀雄の案内にて多胡の古碑を観たる後伊香保にいたり
千明仁泉亭に入る翌二日裏山の見晴に登り展望す(第1首)   

 たまたまに やま を し ふめば おのづから
                 やま の いぶき の あやに かなし も 
             

           (たまたまに山をし踏めば自づから山の息吹のあやにかなしも)
       
榛名 「群馬県の中央部にある山。赤城山、妙義山とともに上毛三山と呼ばれる。山頂部には東西に長い長円形のカルデラがあり、その中に榛名湖がある」
吉野秀雄 「1902年ー67年。群馬県高崎市生まれ。慶大中退。アララギ派の作風に強い影響を受けたが、会津八一の南京新唱に感動し師事、唯一の門弟となる。作品に“苔径集”“早梅集”“寒蝉集”“良寛和尚の人と歌”“秋艸道人會津八一”“鹿鳴集歌解”」
多胡の古碑 「群馬県高崎市吉井町池字御門にある古碑(金石文)」
伊香保 「群馬県渋川市伊香保町、ここでは伊香保温泉のこと」
千明仁泉亭 「ちぎらじんせんてい。群馬県渋川市伊香保町伊香保45にある旅館」
たまたま 「偶然に、ちょうどその時」
あやに 「奇に。言いようがないほど、不思議なまでに、むしょうに」
かなし 「愛し。いとしい、心が惹かれる」

歌意
 たまたまこうして山の土を踏むと自然と山の息吹が伝わってきて何ともいえずいとしく、心が惹かれるのである。

 初夏の山は瑞々しく心を湧き立たせるものである。大自然の中で足下から伝わる感動を明るく詠んでいる。山光集の名はこの榛名の一連の歌から付けられている。
 昭和15年に出版した「鹿鳴集」の評判が高く、いろいろの所から歌を求められることが多くなったが、戦時下と言う状況でその影響を受けた歌も収録されている。有名になったための多作、戦争の影響を受けた作、八一にとって本意でなかった物も含まれる。その事情については榛名目次注2参照。 
榛名目次

山光集・榛名(第1首) (2014・2・4)
閑庭(第43首)

 たれこめて ねむれる あさ を ね も さやに 
               むかひ の をか に もず なき しきる

           (たれこめて眠れる朝を音もさやに向かひの丘に百舌鳴きしきる)  

閑庭 「かんてい。もの静かな庭。ここでは下落合秋艸堂のことを言う。“この林荘のことは、かつて『鹿鳴集』の例言の中に述ぶるところありたり。併せ見るべし。後にこの邸を出でて、同じ下落合にてほど近き目白文化村といふに移り住みしなり。”自註」
たれこめて 垂れ籠めて。簾(すだれ)や帳(とばり)をおろして室内にこもって。閉じこもって」
ねもさやに 音も清に、音も明に。鳴き声がはっきりと
もず 百舌。モズ科の鳥、全長約20cm。秋になると、獲物(小動物)を木の枝などに突き刺しておく習性がある」

歌意
 家に閉じこもった眠っている朝に、はっきりとしてよく聞こえる声で向かいの丘で百舌がしきりに鳴いている。

 百舌は長い尾を振りながらキイキイキチキチと鋭い声で高鳴きをするという。百舌がよく鳴く晩秋の武蔵野の情景である。
                                             閑庭目次

                        寒燈集・閑庭(第43首) (2014・10・4)
香薬師を拝して(第2首)

クリックを


 ちかづきて あふぎ みれども みほとけ の 
                 みそなはす とも あらぬ さびしさ


          (近づきて仰ぎ見れどもみ仏のみそなはすともあらぬ淋しさ)

あふぎみれども 「高く安置された仏を敬いながら見上げて拝す」
みそなはす 「見るの尊敬語。ご覧なっておられる」
あらぬ 「無い」

歌意
 (うっとりとした眼の)香薬師に近づいて仰ぎ見るのだが、はるか彼方を見られているようで、私をご覧になっているようには思えないこの寂しさよ。

 作者は自分を無視しているかのように見えて「さびしい」と表現しているが自著の解説で「あのうっとりとした、特有の目つきからも来てゐる」と書いている。香薬師の目そのものの「さびしさ」でもあると言うのだ。ここから、もう少し広義な意味での「さびしさ=寂寥」を歌い上げたと言ってもいい。
 この仏像は3度の盗難に会い、今は見ることが出来ないが作者自身が「自筆の碑は、今は空しくその堂の前に立てり」と述べているように本堂西に八一の数ある石碑の最初として置かれている。過日、友人達と新薬師寺を訪れたのはこの歌碑(建立は昭和7年4月)が目的の一つだった。 香薬師を拝して 第1首へ    

南京新唱目次

鹿鳴集・南京新唱(第22首) (03・06・19)
除夜の銀座に出でて(第1首)
     
 ちかづけば きみ に います と たち よりて 
               いたはる とも を かなしむ われ は 

             (近づけば君にいますと立ち寄りていたはる友を悲しむ我は)  

九官鳥 「人や動物の声真似、鳴き真似が上手で音程や音色だけでなく声色も真似する。名の由来は、九官と名乗る中国人が“この鳥は吾の名を言う”と説明したものが、誤って名前にされた。八一は大阪の知人からもらってしばらく飼った」
きみにいます 「あなた(會津先生)ではありませんか」
いたはる なぐさめる」
かなしむ “いたましく思ふ。”自註鹿鳴集」

歌意
 近づいて見れば先生(八一)でしたかと立ち寄ってきてなぐさめてくれる友人たち、心遣いは嬉しいが悲しく寂しさも感じる私だ。

 きい子(入院中)のいない八一は大晦日に銀座に出た。若い友人たちが声をかけてくれるが、第2首で「われ おい けらし」と自らの老い(還暦)を感じ、表現しているように寂寥感が漂う。
 「(この時)口々に声をかけて寄ってきたのは、歌人の都築省吾、岩津資雄、浅見淵などの若い友人たちである。」(會津八一の生涯・植田重雄著より)
       
九官鳥目次

鹿鳴集・九官鳥(第3首) (2013・9・29)
錦衣(第3首)
     
 ちちはは の くに に きたれ ど ちちはは も 
               すでに いまさず もの なし われ は

             (父母の国に来たれど父母もすでにいまさず物無し我は)  

錦衣 「きんい。にしきの衣服、美しい着物。“錦衣故郷に帰る”他郷で立身出世して故郷に帰る、故郷へ錦を飾る」
ちちははのくに 「故郷・新潟をさす」
ものなしわれは 「罹災して全てを失った己を言う」
       
歌意
 父母の国、郷里に帰って来たけれども、父母はすでに亡くなっており、私は無一物なのだ。

 焼け出されて帰ってきた故郷にはもう父母はいない。しかも自分は身一つなのだ。錦衣の題が八一の無念を表現する。      
錦衣目次

寒燈集・錦衣(第3首) (2014・11・16)
予罹災ののち西条に村居し一夜大いなる囲炉裏のほとりにて
よめる歌これなり(第11首)
     
 ちち わかく いませる ころ も ほた の ひ は 
               いま も みる ごと もえ つぎ に けむ

             (父若くいませる頃も榾の火は今も見るごと燃えつぎにけむ)  

囲炉裏 「いろり。“予が歌ひたるこの丹呉家の炉は方四尺に近けれども、わが父の幼かりし頃は、この炉はさらに五割方大きかりしよし村人は云ひ伝へたり。”自註」
ほた 「榾。炉やかまどで焚くたきぎ、小枝や木切れなど

歌意
 父が若い時の囲炉裏の榾の燃える火も今私が見ているように燃え続けていたであろう。

 独り寂しく囲炉裏の火を見つめる八一に、ありし日の父の炉辺の姿が炎の中に浮かんでくる。孤独に年老いて、思うのは昔の事である。   
炉辺目次

寒燈集・炉辺(第11首) (2014・11・5)
予罹災ののち西条に村居し一夜大いなる囲炉裏のほとりにて
よめる歌これなり(第8首)


 ちち わかく ひ に かよはしし そんじゆく の 
               かど も こだち も ゆくへ しらず も
 

           (父若く日に通はしし村塾の門の木立も行くへ知らずも)  

囲炉裏 「いろり。“予が歌ひたるこの丹呉家の炉は方四尺に近けれども、わが父の幼かりし頃は、この炉はさらに五割方大きかりしよし村人は云ひ伝へたり。”自註」
そんじゆく 「村塾。“隣村築地村に、肥田野築村の家塾ありしに、父はこれに通学して素読を受けられしよし。”第2首自註」

歌意
 父が若い日に毎日通った村塾は今は門も木立も無くなって跡かたも無い。

 村塾はどこかへ行ってしまって跡かたも無い。ただあるのはここへ通った父への思いである。 
炉辺目次

寒燈集・炉辺(第8首) (2014・11・4)
予罹災ののち西条に村居し一夜大いなる囲炉裏のほとりにて
よめる歌これなり(第9首)


 ちち を しる ひと も いまさず そんじゆく の 
               こだち も あらず ふるさと の むら
 

           (父を知る人もいまさず村塾の木立もあらず故郷の村)  

囲炉裏 「いろり。“予が歌ひたるこの丹呉家の炉は方四尺に近けれども、わが父の幼かりし頃は、この炉はさらに五割方大きかりしよし村人は云ひ伝へたり。”自註」
そんじゆく 「村塾。“隣村築地村に、肥田野築村の家塾ありしに、父はこれに通学して素読を受けられしよし。”第2首自註」

歌意
 父を知る人もいなくなり、村塾の木立も無くなって当時の面影が全く無くなった故郷の村であることよ。

 一世代が過ぎ、また戦争を経て故郷の村は父の面影を偲ばせるよすがが全く無くなった。目の前の現実を詠い、その事実を受け入れるのみである。     
炉辺目次

寒燈集・炉辺(第9首) (2014・11・4)
五重塔をあふぎみて

 ちとせ あまり みたび めぐれる ももとせ を 
                ひとひ の ごとく たてる この たふ


           (千年あまり三度めぐれる百年を一日のごとく立てるこの塔)

五重塔  「法隆寺五重塔」
ちとせあまり 「千年を超えて」
みたびめぐれる
ももとせ
「ももとせは百年、それを三回で三百年。ちとせあまりと合わせて千三百年を表す。ここでは聖徳太子千三百年忌を意味する」
ひとひのごとく 「まるで一日のように」

歌意
 千年を超えて千三百年という長い年月を、まるで一日であるかのようにこの五重塔は静かにたっている。
 
 歌が詠まれた大正10年の春、聖徳太子千三百年忌(4月11日)を前に寺も斑鳩村もある種の活気があったと言う。太子への思慕を背景に、上の句で表現した塔の長い年月を下の句で一日のごとくと言い表すことによって悠久の歴史の中にたたずむ五重塔を見事に歌い上げた。
 上の句 「ちとせ あまり みたび めぐれる ももとせ を」 は最初、全く意味が分からなかったが、解説を読み理解するにつれて歌の素晴らしさが分かった。

 
八一の薬師寺の塔の歌すいえんの・・・ あらしふく・・・と共に味わっていただきたい。 

追記
 歌碑建立
 平成26年11月7日、法隆寺に歌碑建立、除幕式が行われた。同時に原家にあった“あめつちに・・・”の歌碑も境内に移された。

 左の写真は除幕式に出席した鹿鳴人提供。(写真のクリックを) 
                                  (2014・11・7)


南京新唱目次

鹿鳴集・南京新唱(第66首) (2005・7・7)
                





 
畝傍山をのぞみて   

 ちはやぶる うねびかみやま あかあかと
              つち の はだ みゆ まつ の このま に
             

           (ちはやぶる畝傍神山あかあかと土の膚見ゆ松の木の間に)
       
畝傍山  「畝傍山は天香久山、耳成山とともに大和三山と呼ばれる奈良県橿原市にある山。畝傍とは火がうねる”の意、ここでは畝傍山を神の山として畝傍神山と詠む」
ちはやぶる 「神にかかる枕詞」
あかあかと 「日がさして、赤々とした(山肌がみえる)」
まつのこのまに 「畝傍山に生えている松と松の間に」

歌意
 神の山、畝傍山の松の木の間に日がさして赤々と山肌がみえることよ。

 香具山に登った後、畝傍山に対峙して、山肌があらわになっているようすを詠う。その山肌の露出した風景を八一はこんな気持ちで眺めた。
 「日のさして、松の木の間に、あからさまに見ゆ。先にも云へる、上代の三山求婚の争ひのことなど聯想して、木の間より見ゆる山の地膚なども、何となく哀れに思わるるといふなり。」(自註鹿鳴集)  
          
南京余唱目次

鹿鳴集・南京余唱(第12首) (2012・1・18)
十一日まづ東大寺に詣でまた春日野にいたる同行の学生に
て近く入営せむとするもの多く感に堪へざるが如しすなはち
そのこころを思ひて(第4首)   

 ちはやぶる かみ の みやゐ に たらちね と 
               ぬかづく みれば ふるさと おもほゆ           
             

           (ちはやぶる神の宮居にたらちねと額づく見れば故郷思ほゆ)
       
ちはやぶる 「千早振る。神および神を含む語にかかる枕詞」
みやゐ 「宮居。神が鎮座すること、その住まいとするもの、神社」
たらちね 「垂乳根。母または親」
ぬかづく 「額づく。額(ひたい)を地や床につけて、お辞儀や礼拝をする」

歌意
 春日神社に両親と一緒に額づいて熱心にお参りする人の姿を見ると故郷のことが思われる。

 親と一緒に春日大社(神社)でお参りする人の姿にみて、故郷を思い出す。きっと両親とともに過ごした幼いころを思い出したのであろう。        植田重雄の“最後の奈良見学旅行”  
春日野目次

山光集・春日野(第4首) (2014・6・7)
豊浦にて   

 ちよろづ の かみ の いむ とふ おほてら を 
              おして たて けむ この むら の へ に
             

           (ちよろづの神の忌むとふ大寺をおして建てけむこの村の辺に)
       
豊浦  「とゆら、とよら。奈良県高市郡明日香村豊浦で、豊浦宮(とゆらのみや・推古天皇の宮)があったと推定される場所。蘇我氏と物部氏が仏教をめぐって争った当時、蘇我氏によってこの地に建てられたのが、現在の向原寺の前身である豊浦寺である。我が国最古の尼寺」
ちよろづ 「千万、限りなく多い数。無数」
かみのいむとふ 「(沢山)の神様が忌み嫌われたと言う」
おほてら 「大寺。ここでは豊浦寺」
おして 「(神々の反対する寺を)強いて建てた。仏教に対する反目の中で」

歌意
 日本の全ての神々が忌み嫌う大寺を反対を押し切って建てたのだなあ、この村のあたりに。

 豊浦の地に立って、仏教伝来当時を回顧して詠んだ。今は無き豊浦寺を前にして、蘇我氏と物部氏の歴史的な抗争を思い起しながら、それらを三十一文字に抒情化した八一の力量は素晴らしい。
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鹿鳴集・南京余唱(第16首) (2012・1・20)
錦衣(第1首)
     
 つかさびと こと あやまりて ひとひら の 
               やけの と やきし くに ぞ くやしき

             (つかさ人こと誤りてひとひらの焼野と焼きし国ぞ悔しき)  

錦衣 「きんい。にしきの衣服、美しい着物。“錦衣故郷に帰る”他郷で立身出世して故郷に帰る、故郷へ錦を飾る」
つかさびと 「官人。官職にある人、官吏、役人」
ことあやまりて 「することを誤って。国家の指導者たちが政治を誤って国を荒廃させた」
ひとひら 「一片、一枚」
       
歌意
 国の指導者たちが政治を誤って、一片の焼け野原のように焼いてしまったこの国のことが残念でならない。

 敗戦後、軍人、官僚、政治家などの愚かで無責任な戦争遂行を明確に認識し、当然のように批判した。ただ、その怒りは焼け出されて無一文に近い形で故郷に帰った我が身を悲嘆することから生れている。「錦衣」と言う題は、“錦衣故郷に帰る”ではない八一の状況を表している。  
錦衣目次

寒燈集・錦衣(第1首) (2014・11・16)
観世音寺の鐘楼にて(第4首)
     
 つき はてて くだる しゆろう の いしだん に 
               かれて なびかふ はた の あらくさ 

             (撞き果てて下る鐘楼の石段に枯れて靡かふはたの荒草)  

観世音寺 「福岡県太宰府市観世音寺5丁目にある天台宗の寺院。続日本紀によると、天智天皇が亡き母斉明天皇の菩提と弔うために発願した寺である。菅原道真をおもひての“とふろう”解説中にある観音寺はこの寺のこと」
つきはてて 鐘を撞き終わって
しゆろう 鐘楼、寺院内にあって梵鐘をつるす建造物。鐘つき堂。“ある時は「鐘楼」の二字を「しようろう」と読まず、かく読む”自註鹿鳴集」
なびかう 「“「かふ」は「く」の延音。靡く”自註鹿鳴集
はた 傍、端。、そば、かたわら」

歌意
 鐘を撞き終わって降りる鐘楼の階段のあたりに茂った雑草が枯れて靡くように横たわっている。

 生い茂った雑草が枯れて冬の鐘つき堂の周りに靡いている。それ以外には殺風景な景色である。菅公の悲哀、沈みがちな八一の心が雑草をことさら注視させるのである。  
放浪唫草目次

鹿鳴集・放浪唫草(第58首) (2013・6・8)
別府にて(第7首)

 つきよみ の かげ は ふたたび みつれども
               たび なる われ は しる ひと も なし

              (つきよみの影は再び満つれども旅なる我は知る人もなし)  

放浪唫草
「さすらいの旅で詠った歌の草稿。放浪唫草(ぎんそう)目次参照」
別府 「別府市は、大分県の東海岸の中央にある市。温泉が市内各地で湧出し、別府温泉として全国的に知られる」
つきよみのかげ 「月の光、姿。“月の光。天照大神の弟に月夜見尊(ツクヨミノミコト)ありて、月光照耀く(しようよう)の世界を司(つかさど)るといふ。”自註鹿鳴集」
みつれども 「満つれども、満月になった。ここでは旅中に2度の満月を迎えたことを言う」
われは 「“「我を」といふこと。”自註鹿鳴集」

歌意
 旅に出て月の姿は2度目の満月を迎えたけれども旅を続ける私を知っている人はいない。

 旅は1ヶ月近くになろうとしている。故郷新潟、住まいする東京から遠く離れた九州での旅愁が孤独感と共に詠われている。時の流れの表現がユニークで素晴らしい。  
放浪唫草目次

鹿鳴集・放浪唫草(第20首) (2013・4・26)
印象(第1首)

          懐瑯琊二釈子  韋応物
      白雲埋大壑 陰崖滴夜泉
      応居西石室 月照山蒼然

 つくよ よし たに を うづむる しらくも の
               な が いはむろ に つゆ と ながれむ 


             (月夜よし谷を埋むる白雲の汝が岩室の露と流れむ)  

           瑯琊ノ二釈子ヲ懐フ  
          白雲ハ大壑ヲ埋メ、
          陰崖ハ夜泉ヲ滴ラス。
          応ニ西ノ石室ニ居ルベシ。
          月照ヲシテ山ハ蒼然。  


漢詩
「下記参照」

歌意
 月夜は素晴らしく、谷を埋める白雲は夜露となってあなたの住む岩室に流れているでしょう。

 全唐詩を読んでいて和歌に訳してみようと思った第1首。難しい挑戦である。  

  瑯琊(ろうや)ノ二釈子ヲ懐(おも)フ  韋応物(いおうぶつ)
   白雲ハ大壑(たいがく)ヲ埋メ、
   陰崖ハ夜泉ヲ滴(したた)ラス。
   応(まさ)ニ西ノ石室ニ居ルベシ。
   月照ヲシテ山ハ蒼然。 

    瑯琊に住む二釈子のことを懐う
   白雲が大きな谷を埋め、岩陰は流れる夜露に濡れている。きっとあなたは西の岩室に居るのだろう。
   月が照らす山・瑯琊は青くぼんやりとして風情に満ちている。

    ・韋応物 中国・中唐の詩人、京兆(陝西省西安)の人。陶淵明に心酔、自然詩人として、
           王維・孟浩然・柳宗元と並び称される。   ・瑯琊 山の名 
    ・釈子 釈迦の弟子、僧のこと   ・大壑 大きな谷  ・陰崖 岩陰  ・夜泉 夜露
    ・応に…べし 当然…すべきである、きっと…だろう  ・蒼然  あおあおとしているさま
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鹿鳴集・印象(第1首) (2013・10・27)
雁来紅(第7首)

 つくり こし この はたとせ を かまづか の 
              もえ の すさみ に われ おい に けむ  
             

              (作り来しこの二十年をかまづかの燃えのすさみに我老いにけむ)
       
雁来紅 「雁来紅(がんらいこう)は漢名で、雁が飛来してくる秋になると、その葉が美しい紅色に染まるのでこの名がある。和名は葉鶏頭(はげいとう)、鎌柄(かまつか、かまづか)など。かまづかとは、鎌の柄になる木ということ」
はたとせ 「二十年」
かまづか 「上記、雁来紅参照」
すさみ 「遊み、進み、荒み。心がおもむくこと、乗り気になること、慰みとする」

歌意
 葉鶏頭を作ってきた二十年、燃えるような美しさに心を奪われ、愛でている間に私は老いを迎えてしまったようだ。

 20年の歳月を使って見事な葉鶏頭を咲かせるようになったが、花の前で老いが近づいたことにふと気付いた。八一、61歳の作である。      
雁来紅目次

山光集・雁来紅(第7首) (2014・3・14)
やがて紀元節も近づきければ古事記の
中巻なる神武天皇の条を読みて(第9首)   

 つちぐも が ゑひ の すさみ に くだつ よ を 
             やそかしはで は とき まち に けり


           (土雲が酔ひのすさみにくだつ夜を八十膳夫は時待ちにけり)

紀元節
「2月11日、神話上の神武天皇の即位日として定めた祭日。1873年~1948年。現在は健康記念日となっている。(1966年~)」
古事記 「日本最古の歴史書で、天皇による支配を正当化しようとしたもの。上巻は神代、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの記事を収める」
神武天皇 「日本神話に登場する人物で、日本の初代天皇(古事記、日本書紀による)」
つちぐも 「土雲、土蜘蛛。神武天皇が忍坂(おさか)の大室に着いた時、土着民・土雲八十健(つちぐもやそたける)は天皇を討とうとかまえていた。天皇は八十健に馳走して油断させ、多くの料理人に刀を持たせ、合図の歌で八十健を打ちとらせた」
ゑひ 「酔ひ。酒に酔う」
すさみ 「荒み、遊み。気まぐれ、気まま」
くだつ 「降つ。日が傾き夕方に近づく。また、夜半が過ぎて明け方へ向かう」
やそかしはで 「八十膳夫。大勢の料理人」

歌意
 神武天皇に敵対する土着の土雲たちが酒に酔って気ままに油断している夜更け、多くの料理人は土雲を打つ天皇の命令を待っていた。

 古事記の逸話を詠んだもの。第18首から第32首までは戦後一度削除し、後に復活したものである。
病間目次

山光集・病間(第26首) (2014・7・29)
土くれ(第6首)
十月の末つかたなりけむ喜多武四郎予が胸像を作り持ち来りて示すを見るに頗る予が意を獲たり乃ち喜多が携へたる鉄の箆をとりてその背に秋艸道人の四字を刻す

 つちくれ の この おもかげ を なつかしみ 
               わが な きざみつ その かた の へ に

              (土くれのこの面影を懐かしみ我が名刻みつその肩の辺に)  

土くれ 「八一の胸像(塑像)“塑像なれば、かくいひなしたり。”自註
喜多武四郎 「彫刻家(1897-1970)戸張孤雁(とばりこがん)に師事、日本美術院同人」
なつかしみ 「懐かしく思って、親しみを感じて」
       
歌意
 私の姿を彫ったこの塑像を懐かしく思って、肩のあたりに私の名を刻んだ。

 自らを写し取った胸像に親しみを感じ、感謝をこめて肩のあたりに「秋艸道人」と名前を刻んだ。 
土くれ目次

寒燈集・土くれ(第6首) (2014・8・31)
土くれ(第2首)
十月の末つかたなりけむ喜多武四郎予が胸像を作り持ち来りて示すを見るに頗る予が意を獲たり乃ち喜多が携へたる鉄の箆をとりてその背に秋艸道人の四字を刻す

 つつみ きて ひらけば しろき つちくれ の 
               われ に にる こそ かなし かり けれ

              (包み来て開けば白き土くれの我に似るこそかなしかりけれ)  

土くれ 「八一の胸像(塑像)“塑像なれば、かくいひなしたり。”自註
喜多武四郎 「彫刻家(1897-1970)戸張孤雁(とばりこがん)に師事、日本美術院同人」
かなし 「愛し。しみじみとかわいい、いとしい、すばらしく心が引かれる」
こそ・・けれ 「係り結び(強意、強調)で間の“かなし”を強める」
       
歌意
 包んできた風呂敷を広げると白い塑像が私に似ていて、なんといとおしく思われることだ。

 自らを再現した胸像の素晴らしい出来栄えに心動かされる。深くいとおしいとその喜びを強調する。 
土くれ目次

寒燈集・土くれ(第2首) (2014・8・30)
奈良博物館にて(第4首)

 つと いれば あした の かべ に たち ならぶ 
               かの せうだい の だいぼさつ たち

  
             (つと入れば朝の壁に立ち並ぶかの招堤の大菩薩たち)

つと  「さっと、突然にと同じ。自註では“卒然としてといふに同じ”と解説」
あした  「朝」
かの 「あの」
せうだい 招堤は仏教では寺院、道場を言う。ここでは唐招提寺のこと。759年鑑真によって建立された律宗の総本山」
だいぼさつたち 「大菩薩達。当時は沢山の仏像が博物館に展示されていた。参照」

歌意 
 さっと博物館に入ると、清らかな朝の光の中に壁を背にしてあの唐招提寺の菩薩たちが立っておられることよ。

 博物館に入ると同時に立ち並ぶ仏像に出会う。その迫力を平易な状況表現のみで表している。仏像が贅沢に並ぶ東大寺の3月堂や室生寺の金堂を思ってみればいい。「つと」入った時の感動はだれもが共有できる。
 この歌は「奈良博物館にて」6首中にある八一の代表的な仏像の歌(4首)を俯瞰するような位置にある。仏像を信仰の対象と言う次元から離れて、仰ぎ見た時の美的感動を高い次元で詠ったこれら4首は代表的な日本の仏像の歌と言ってよい。以下に4首を付記する。   

 奈良博物館にて
    くわんのん の しろき ひたひ に やうらく の 
                   かげ うごかして かぜ わたる みゆ        第1首
    くわんのん の せ に そふ あし の ひともと の
                    あさき みどり に はる たつ らし も       第2首
    ほほゑみて うつつごころ に ありたたす 
                    くだらぼとけ に しく もの ぞ なき        第3首
    はつなつ の かぜ と なりぬ と みほとけ は
                    をゆび の うれ に ほの しらす らし      第5首

 
      
 八一自註より
 ・・・作者この歌を詠みしころは、博物館のホールに入りたるばかりの処に、雪白の堊壁を背にして、唐招提寺のみにあらず、薬師寺、大安寺などの等身大の木彫像林立して頗(すこぶ)る偉観を呈したり。
南京新唱目次

鹿鳴集・南京新唱(第15首) (06・08・16)
春日野にて(第4首)

 つの かる と しか おふ ひと は おほてら の 
               むね ふき やぶる かぜ に かも にる

  
              (角刈ると鹿追ふ人は大寺の棟ふき破る風にかも似る)

つのかる  「鹿の角は春先に自然に落ちる。4月頃から生え始め秋に完成する。この頃角切りを行う。勢子が、鹿を角切り場に追い込んで捕まえ、神官が角を切る」
むねふきやぶる  「お寺の棟(屋根)を吹き破るほどの強い風」

歌意 
 鹿の角切りをするために鹿を追い込み捕まえる勢子たちの荒々しさは、まるで大寺の棟を吹き破る強い風に似ているようだ。
              
 今年は10月9日~16日に行われた。八一は自註で、手荒い作業を見て鹿に同情して詠んだと言っている。変わった比喩を使い、八一にしては遊び心がある。   

 自註鹿鳴集より
    鹿は本来柔和の獣なれども、秋更(ふ)けて恋愛の時期に入れば、牡はやや粗暴となり、
   時にはその角を以て人畜を害することあり。これを恐れて、予(あらかじ)め之を一所に
   追ひ集めて、その角を伐(か)るに春日神社の行事あり。この行事に漏れて、角ありて
   徘徊するものを誘い集め、捕へてその角を伐ること行はる。ある日奈良公園にて散策中に
   之に遭ひし作者は、この伐り方の甚だ手荒なるを見て、やや鹿に同情したる気分にて、
   かく詠(よ)めるなり。

南京新唱目次

鹿鳴集・南京新唱(第4首) (05・10・25)
その翌日わが家の焼けたる跡にいたりて(第3首)

 つみ おきて よまざりし ふみ いくたび か 
               よみたる ふみ と ゆくへ しらず も


           (積み置きて読まざりし書幾度か読みたる書と行方知らずも)  

ふみ 「書。書物のこと」

歌意
 積んでおいてまだ読んでない書物も何度も読み返した書物と一緒になって行方がわからなくなった。

 まだ読んでいない書物にも読み返した書物にも愛着があった。それが一瞬の内に燃えて無くなった。学究として書物に対する思いは人一倍強かった。    
焦土目次

寒燈集・焦土(第5首) (2014・10・12)
新村博士奈良新薬師寺にやどりて歌よみて寄せられしに
答へて(第1首)
     
 つゆ すでに あさな あさな を ふか からし 
               しんやくしじ の には の くさむら

             (露すでに朝な朝なを深からし新薬師寺の庭の草むら)  

新村博士 「新村出(しんむらいずる)1876~1967)。言語学者、京大教授、広辞苑著書」
新薬師寺 「新薬師寺は、奈良市高畑町にある華厳宗の寺院。本尊は薬師如来、開基(創立者)は光明皇后または聖武天皇と伝える。八一は28歳の時、この寺を訪れ、奈良での最初の歌碑になった“ちかづきて”の歌を詠む」
       
歌意
 朝な朝な露はすでに深く降りているだろう。新薬師寺の庭の草むらには。

 秋萩が咲こうとする時期、寺の庭草は露に濡れているだろうと想像する。新薬師寺は八一と切っても切れぬ縁がある。奈良での最初の歌碑がここで建立され、また八一が病気に臥す時は新薬師寺が快癒を願って祈祷した。    
あさつゆ目次

寒燈集以後・あさつゆ(第1首) (2014・11・24)
国葬の日に(第1首)   

 つらね うつ はう は も かなし いづく に か 
                ききて ゑまさむ きみ も あら なく に    
             

           (連ね打つ砲はも悲しいづくにか聞きて笑まさむ君もあらなくに)
       
つらねうつはう 「連ね打つ砲。葬送の弔砲。“つらねうつはうはかなし・実際国葬の日に行われたるは小銃の斎射にして「砲(はう)」といふべからざるも、この歌の声調としては、今にして「じゆう」又は「つつ」ともなしがたし。よりてこれを改めず。”自註」
はも 「感動・詠嘆を表す。…だなあ」
ゑまさむ 「笑まさむ。ほほえむ」
あらなくに 「いないのに」

歌意
 連射する葬送の弔砲はなんと悲しく響くことか。どこかでこの音を聞いて微笑んでいる君がいるというわけでもないのに。

 国葬の歌を以下合わせて3首詠う。連合艦隊司令長官の山本五十六の死は当時衝撃的な事だったが、敗戦への序章でもある。     
山本元帥目次

山光集・山本元帥(第5首) (2014・5・29)
東大寺観音院にいたり前住稲垣僧正をおもふ(第2首)   

 てらには の ひる は しづけし みづ みてて  
              いし に すゑたる みんげい の かめ 
             

           (寺庭の昼は静けし水満てて石に据ゑたる民芸の瓶)
       
観音院 「東大寺塔頭観音院。塔頭(たっちゅう)とは個別の寺院。塔頭は元来は高僧の墓のことで、その近くに小庵を建てて弟子たちがそこを守っていた。その小庵が明治以降に寺として独立したもの。観音院目次参照」
みんげいのかめ 「“現住上司海雲は民藝の陶瓶を蒐集して甚だ富めり。”自註」

歌意
 この観音院の庭の昼はとても静かだ。水を満たした民藝の瓶が石の上にしっかりと据えてあって。

 去りがたく思った(第1首)この観音院の昼の庭は静かだった。前住職への面影を追いながら、水の満ちた民藝の瓶の存在感に心惹かれる。    
観音院目次

山光集・観音堂(第2首) (2014・4・12)
十八日室生を出で当麻を経て高野山に登り明王院に入る
かねて風邪の心地なりしを翌朝目さむれば薄雪降りしきて
塔廟房舎みな白し我が齢も大師を過ぐることすでに一歳
なればおもひ更に深し(第1首) 

 とき も なく ふり くる ゆき か くさまくら 
               たび の ころも は あつ から なく に    
             

           (時もなく降り来る雪か草枕旅の衣は厚からなくに)
       
明王院 「みょうおういん。高野山真言宗の寺院。寺伝によれば816年、空海・弘法大師が自ら刻んだ五大明王を安置し開創したという。日本三不動のひとつ“赤不動(絹本着色不動明王二童子像 )”で有名」
大師 「空海・弘法大師」
ときもなく 「いつという定めももなく」
くさまくら 「旅にかかる枕詞」

歌意
 いつという定めもなく降ってくる雪なのだろうか、私の旅の服は厚いものではないのに。

 学生を連れた最後の奈良旅行は高野山で終わる。体調を崩していた八一にとってこの雪と寒さは辛かったであろう。この時、62歳である。        植田重雄の“最後の奈良研究旅行4 
白雪目次

山光集・白雪(第1首) (2014・6・27)
開山堂なる鑑真の像に

 とこしへ に ねむりて おはせ おほてら の 
             いま の すがた に うちなかむ よ は

  
            (とこしへに眠りておはせ大寺の今の姿にうちなかむよは)

開山堂 「かって鑑真和上座像が安置されていた。今は昭和38年(1964)に境内の北側に作られた御影堂に像はある」
鑑真  「753年に来日、東大寺戒壇院で正式の授戒をし、その後唐招提寺を建立。
鑑真リンク
鑑真和上座像 「鑑真和上の乾漆夾紵像(かんしつきょうちょぞう)。この国宝は毎年6月6日を中心に前後3日間開扉されている」
とこしへに 「永遠に」
ねむりておはせ 「座像は失明した鑑真の姿。その姿を眠っていると表現し、目をつむったままでと呼びかける」
おほてら 「ここでは唐招提寺を言う」
いまのすがた 「往時(天平時代)の勢いに比べ、廃仏毀釈等で衰えた今の寺の姿」
うちなかむよは 「お泣きになるよりは。“うち”は接頭語、“よ”はよりの古語」

歌意 
 ずっといつまでも安らかに眼を瞑ったままでおいでください。今の世の唐招提寺や仏教の姿をみてお泣きになるよりは。


 「とこしへ に ねむりて おはせ」と鑑真座像に呼びかける上二句が、全体の倒置法と相まって強く鑑真を浮かび上がらせ、さらに歌そのものは廃仏毀釈後の今の寺や天平仏教の衰えに対する八一自身の嘆きを表出する。八一の深い嘆きはこの歌の重々しさを嫌が上にも増している。
 八一は鹿鳴集自註で鑑真に関する長文の解説を書いている。簡潔で的確な文章に感動する。ここには引用できないが機会があれば読んでほしい。
 なお、この御影堂の近くには有名な芭蕉の句碑「若葉して御めの雫拭はばや」がある。
南京新唱目次

鹿鳴集・南京新唱(第54首) (2007・07・28)
つらつら世情をみてよめる(第3首)

 とこよ なす をぐらき のべ と あれぬ とも 
               ひと ある ところ みち なか らめ や
 

           (とこよなすを暗き野辺と荒れぬとも人ある所道なからめや)  

つらつら 「熟熟。つくづく、よくよく」
とこよ 常夜。夜ばかりで昼がないこと、いつも夜であること」
をぐらき 「を暗き。“を”は意味の無い接頭語、暗き」
なからめや 「ないわけではない」

歌意
 永遠に夜が続く暗闇の野辺となって荒れ果てようとも、人が存在するところには進むべき道が無いわけではない。

 困難な状況でも人の進むべき道は必ず存在すると強調する。人々に呼び掛けるとともに最悪の状態にある己を鼓舞していると言える。       
一路目次

寒燈集・一路(第3首) (2014・10・29)
閑庭(第41首)

 とし あまた いはひ もとほり いたづらに 
               ぶだう の つる の くさ に こもれる

           (年あまたいはひもとほりいやづらに葡萄の蔓の草にこもれる)  

閑庭 「かんてい。もの静かな庭。ここでは下落合秋艸堂のことを言う。“この林荘のことは、かつて『鹿鳴集』の例言の中に述ぶるところありたり。併せ見るべし。後にこの邸を出でて、同じ下落合にてほど近き目白文化村といふに移り住みしなり。”自註」
いはひもとほり 「這い回って。“「いはひ」は「這ひ」、「もとほり」は「回り」の意。万葉集に「ししじもの、いはひふしつつ」「ししこそは、いはひをろがめ」「うづらなす、いはひもとほり」などあり。もと動物の匍匐(ほふく)するに用ゐたるを、ここには葡萄の蔓のことに用ゐたり。”自註
いたづらに 「無駄に」

歌意
 何年もの間、葡萄の手入れがしてないので蔓が無駄に土の上を這いまわって草にこもっている。

 第40首でもふれたが、葡萄は相当の手入れが必要である。放置され続けた状態を古語をいれて詠み、陶淵明風の鄙びた田園を想定したかもしれない。   
閑庭目次

寒燈集・閑庭(第41首) (2014・10・4)
閑庭(第11首)

 としどし を つき の ふるは の うづみ こし 
               ささ の ね ふかく むし ぞ なく なる

           (年年を槻の古葉の埋み来し笹の根深く虫ぞ鳴くなる)  

閑庭 「かんてい。もの静かな庭。ここでは下落合秋艸堂のことを言う。“この林荘のことは、かつて『鹿鳴集』の例言の中に述ぶるところありたり。併せ見るべし。後にこの邸を出でて、同じ下落合にてほど近き目白文化村といふに移り住みしなり。”自註」
つき 「槻。欅(けやき)古名。“槻・けやきの一種”自註」

歌意
 毎年毎年、欅の落ち葉が埋めてきた笹の根の深いところで虫が鳴いている。

 欅の大木の落ち葉に埋まる笹、そこから虫の音が聞えると言う。かすかな虫の声を大きくゆったりとした自然の中にとらえる。      
閑庭目次

寒燈集・閑庭(第11首) (2014・9・15)
歳暮新潟の朝市に鉢植の梅をもとめて(第1首)
     
 とし ゆく と ののしる いち の はて にして 
               うめ うる をぢ が しろき あごひげ

             (年行くと罵る市の果てにして梅売るをじが白きあごひげ)  

ののしる 「罵る。わめき立てる、大声で言い騒ぐ」
をじ 「小父。他人である年輩の男性をいう語」
       
歌意
 年末の売り出しの大声で騒がしい市、そのはずれで静かに梅の鉢植を売るおやじの白いあごひげよ。

 賑わう市のはずれで静かに鉢植を売る白ひげのおやじを浮かび上がらせ、詞書にあるように梅の鉢を買う。そして、5首にわたってこの梅と己の心を重ねて詠う。   
盆梅目次

寒燈集以後・盆梅(第1首) (2014・11・25)
六月一日吉野秀雄の案内にて多胡の古碑を観たる後伊香保にいたり
千明仁泉亭に入る翌二日裏山の見晴に登り展望す(第5首)   

 とね いまだ うらわか からし あしびき の
              やま かたづきて しろむ を みれば 
             

           (利根いまだうら若からしあしびきの山かたづきて白むを見れば)
       
榛名 「群馬県の中央部にある山。赤城山、妙義山とともに上毛三山と呼ばれる。山頂部には東西に長い長円形のカルデラがあり、その中に榛名湖がある」
詞書 「榛名目次参照
とね 「利根。利根川のこと」
うらわかからし 「(川の上流なので) 若く初々しいからであろう」
あしびきの 「山にかかる枕詞」
かたづきて 「片付きて、偏付きて。(あるものに)片側が接して」

歌意
 山から見える利根川の上流はまだ若く初々しい。山に接する流れが川面を波立たせて白いのを見れば。

 利根川の源流の波立つ若々しさを詠んだ秀作である。「かたづきて」が山に接して流れると言う意味が分かれば、一気に詠まれた世界が広がってくる。倒置的に使われた下の句の実景が美しい。
榛名目次

山光集・榛名(第5首) (2014・2・12)
正倉院の曝涼に参じて

 とほ つ よ の みくら いで きて くるる ひ を  
              まつ の こぬれ に うちあふぐ かな
 

         (遠つ代のみ倉出で来て暮るる日を松の木末にうち仰ぐかな)

正倉院


曝涼
とほつよ
みくら
こぬれ
「奈良の東大寺大仏殿の裏手にある校倉作りの大倉庫。756年、聖武天皇没後光明皇后が天皇遺愛の品を中心に六百数十点を東大寺寄進、それらを中心に数千の宝物が収蔵されている。歴代天皇が管理したが、太平洋戦争後に国に移譲される」
「ばくりょう。虫干しのこと。毎年11月に行われ、この時に奈良博物館で正倉院展を行う」
「遠く過ぎ去った時代」
「み倉。ここでは正倉院そのもの」

「“こ(木)のうれ(末)”の音変化、樹木の先端の部分。梢(こずえ)」

歌意
 遠く過ぎ去った時代の正倉院から出て来て、松の梢に暮れてゆく日を仰ぎ見たことだなあ。

 暗い正倉院の中での鑑賞を終えて出てきた時の一首だが、八一によると「倉内は窓なく、小さき入口より射し入る日光のみなれば、双手に懐中電灯を持ち、その焦点を集中してわづかに品物を見るを得るばかりなりき」と言う状況だった。また、曝涼への参加は「従来は勲位または学芸ある人々のみ」許可されたと自註鹿鳴集に書いている。とりわけ東大を中心にした官立系が優遇された時代で私立である早大の八一にはなかなか許可が下りなかった。
 それゆえ、許可され参加できた八一の感動は大きかった。暗い倉内で緊張して鑑賞し、明るい戸外にでた一瞬を満ち足りた気持ちで詠っている。   
南京余唱目次

鹿鳴集・南京余唱(第34首) (2012・4・16)
閑庭(第6首)

 ともしび に には の まつむし のぼり きて 
               ほとほと なく か さよ ふくる まで

           (燈火に庭の松虫登り来てほとほと鳴くかさ夜更くるまで)  

閑庭 「かんてい。もの静かな庭。ここでは下落合秋艸堂のことを言う。“この林荘のことは、かつて『鹿鳴集』の例言の中に述ぶるところありたり。併せ見るべし。後にこの邸を出でて、同じ下落合にてほど近き目白文化村といふに移り住みしなり。”自註」
まつむし 「松虫。淡褐色で体長2センチで秋に鳴く。“ともしびに~のぼりきて”は下記参照」
ほとほと 「とんとん、こつこつ、こんこん、かんかん。戸などをたたく音や、斧で木を切る音などを表すが、八一は虫の声をそのような音色ととらえたのであろう」
さよ 「小夜。夜のこと、“さ”は意味のない接頭語」
ふくる 「更くる。更ける、夜中に近くなる、夜が深まる」

歌意
 飛んできて部屋の燈火に登ってきた松虫がほとほとと鳴いている、夜の更けるまで。

 自然に囲まれた下落合秋艸堂の実景である。“漢詩・燈火草虫鳴”を思い起こして、その詩的環境を喜び、楽しんでいる。     

 ともしびににはのまつむしのぼりきて 自註
王摩詰に「燈火草虫鳴」の句あり、いづくにても、田舎住ひにはありがちのことならむも、予が歌は実況なり。
閑庭目次

寒燈集・閑庭(第6首) (2014・9・12)
菊を描きて(第2首)
     
 ともしび の かげ の さむき に ひとり みる 
               けさ ゑがきたる しらぎく の はな

             (燈火の影の寒きに一人見る今朝描きたる白菊の花)  

自画題歌 「昭和20年~21年の間に菊、竹、その他の画を題にした歌8首」
ともしびのかげ 「“「かげ」は「ひかり」といふこと。・・・(以下略)”自註」
       
歌意
 夜の燈火の光の寒々としたなかで一人で見ている、今朝描いた白菊の花の絵を。

 昭和20年晩秋から書や絵を再開した八一、朝描いて瑞々しさを願った白菊の絵を夜の薄明かりの中でながめる。   
自画題歌目次

寒燈集・自画題歌(第2首) (2014・11・19)
歌碑(第8首)   
「ちかづきてあふぎみれどもみほとけのみそなはすともあらぬさびしさ」といふは新薬師寺香薬師を詠みしわが旧作なりちか頃ある人の請(こい)にまかせて自らこれを書しこれを石に刻ましめその功もまさに畢(おわ)りたれば相知る誰彼を誘ひ行きてこれを堂前に立てむとするに遽(にわか)に病を得て発するを得ずたまたま寺僧の拓して送れる墨本を草廬の壁上にかかげしめわづかにその状を想像して幽悶を慰むるのみいよいよ感應の易(やす)からざるをさとれり

 とも と わが おり たつ てら の には の へ に 
                  せまりて あをき たかまど の やま   
             

           (友と我が下り立つ寺の庭の辺に迫りて青き高円の山)
       
あをき
「青き。緑いろ。歌碑第1首の“あを”は白と黒の間の広い範囲の色をさしたが、ここでは山の緑を言う」
たかまどのやま 「高円山。奈良、新薬師寺、白毫寺の東、主峰は標高432メートル。白毫寺山の別称がある。聖武天皇の離宮があったところ」

歌意
 友人と私が共に下り立った新薬師寺の庭に迫ってくるような緑鮮やかな高円山であることよ。

 新薬師寺は高円山の麓にある。八一にとってこの寺と山は一体であり、また滝坂の道への入り口でもある。東京から想像して詠んだこの第8首で歌碑は終わる。  (高円山の歌へ)  
歌碑目次

山光集・歌碑(第8首) (2014・5・6)
四月二十四日早稲田の校庭を踏みつつ(第5首)

 ともに ゐて まなびし とも は ふるさと に 
              いま か おゆらむ おのも おのもに
             

              (共にゐて学びし友は故郷に今か老ゆらむおのもおのもに)
       
ともにゐて 「昔、共に在学して(学んだ)」
おのもおのも 「各も各の。おのおの、各個それぞれであること」

歌意
 若い日に共に大学で学んだ友達は今は故郷にあってそれぞれに老いていることだろう。

 自らの老いを感じた八一は共に学んだ学友たちの今日を思う。この頃、葬式で会った同級生たちの老いの目立つ姿を見て、己の老いを見つめなおしたようだ。ただ、学究としての意欲、意思は強靭で、76歳で亡くなるまで絶えることは無かった。     
校庭目次

山光集・校庭(第5首) (2014・8・5)
八月二十三日友人山口剛を誘いて大塚に小鳥を買ふ(第1首)

 とりかご を て に とり さげて とも と わが
               とり かひ に ゆく おほつかなかまち

              (鳥籠を手に取り下げて友と我鳥買ひに行く大塚仲町)  

斑鳩
「斑鳩12首 目次参照
山口剛 (たけし)八一の親友。1880-1932、 茨城県生まれ、早稲田大学教授(国文学者)。『山口剛著作集』全6巻(中央公論社) 震余第7首参照
おほつかなかまち 「大塚仲町は昭和41年まで東京都文京区にあった町名。合併で町名変更、現在の文京区大塚4丁目あたり」

歌意
 鳥籠を手に下げて友達と私が小鳥を買いに行く、大塚仲町へ。

 友人山口剛と大塚中町へ小鳥を買いに行った時の歌12首の初歌。まずは事実を詠い、第2首以降の八一の心温かい山口剛へのまなざし、鳥たちへの思いがこもった歌へと繋ぐ。  
斑鳩目次

鹿鳴集・斑鳩(第1首) (2013・8・1)
十九日高野山を下る熱ややたかければ学生のみ河内観心寺に遣り
われひとり奈良のやどりに戻りて閑臥す(第4首) 

 とりはてて ひとつ の かき も なき には の 
               なに に しぬびて あそぶ さる かな
             

             (取り果てて一つの柿も無き庭の何に忍びて遊ぶ猿かな)
       
河内観心寺 「大阪府河内長野市にある高野山真言宗の寺院。開基は実恵、本尊は如意輪観音。この素晴らしい国宝・如意輪観音像は毎年4月17・18日に開扉される」
やどり 「宿り。旅先で宿をとること、また、その場所」
閑臥 「かんが。静かに(病気で)横になる」
しぬびて 「忍んで」

歌意
 取り尽くして柿の実は一つもない庭なのに何に忍び隠れて遊んでいるのだろう、猿たちは。

 何も食べるものが無い宿の庭で猿たちはなぜ遊ぶのだろうと考える。病身で弱った心は鳴きながら遊ぶ猿たちの活動を羨んでいたかもしれない。       植田重雄の“最後の奈良研究旅行4 
 白雪目次

山光集・白雪(第8首) (2014・6・30)
霜余(第5首)

 とり はてて もの なき はた に おく しも の 
               はだらに あをき にんどう の かき

              (取り果ててもの無き畑に置く霜のはだらに青き忍冬の垣)  

霜余 「そうよ。霜の残っている様子」
はだら 「斑。まだら、まばら」
にんどう 「忍冬。 スイカズラの別名、冬でも葉がしおれないのでいう。“忍冬、また葱苳とも書くことあり。便化して、ひろく東西の古美術に用ゐられたれば、学生等の参考に示さんために、裏庭の垣根に植ゑおきしなり。”自註 参照」
       
歌意
 取り尽くして何も無い畑に霜が降りているが、垣根には緑をまだらに残した忍冬・スイカズラが見える。

 戦時下の霜の降りる冬の秋艸堂の畑は何も無い。ただその向こうにまだ緑を残した忍冬の垣が見える。老齢と時代の影響で庭や畑の荒れたさまを“まだらな緑”に焦点を合わせて詠む。 

 便化
 便化とは自然形態を素材にして精密描写し、それをベースに便宜変化させ単位化した図形を創作すること。
霜余目次

寒燈集・霜余(第5首) (2014・9・6)
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