会津八一(あいづ・やいち) 目次へ 1881~1956。新潟の生れ。号 秋艸道人(しゅうそうどうじん)。早稲田で学んだのち、坪内逍遥の招きで早稲田中学校教員となる。その後文学部教授に就任、美術史を講じた。 古都奈良への関心が生み出した歌集『南京新唱(なんきょうしんしょう)』にその後の作歌を加えた『鹿鳴集』がある。奈良の仏像は八一の歌なしには語れない。歌人としては孤高の存在であったが、独自の歌風は高く評価されている。鹿鳴集に続いて『山光集』『寒燈集』を発表している。 書にも秀で、今では高額で売買される。生涯独身で通したが、慕う弟子達を厳しく導き、多くの人材を育てた。 会津八一の生涯・年表 新潟市會津八一記念館 早稲田大学會津八一記念博物館 |
十六日真葛原にて たいがだう ここ に ありき と ひとひら の いしぶみ たちて こだち せる かも (大雅堂ここにありきとひとひらの碑立ちて木立せるかも)
歌意 大雅堂・池大雅がここに住んでいたという一つの石碑が立って、木立が繁っている。 独自性を大事にし独往の人だった八一だが、池大雅は評価した。石碑を前にいろいろ想いに浸ったであろう。大雅を詠んだ「自性寺(じしょうじ)の大雅堂にて(1首、2首、3首、4首)」(鹿鳴集・放浪唫草39~42首)参照。
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嵐山 だいひかく うつら うつら に のぼり きて をか の かなた の みやこ を ぞ みる (大悲閣うつらうつらに登り来て丘の彼方の都をぞ見る)
歌意 大悲閣までぼんやりとして登ってきたが、ここに立つと丘の彼方に京の都が一望できるではないか。 ぼんやりとしながら山道を登ってたどり着いた大悲閣・千光寺から見る絶景の感動が伝わってくる。南京余唱42首、最後の作である。
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桜桃(第1首)
たうゑ す と ひと こぞる ひ を ひとり きて われ こもり をり あうたう の えだ に (田植えすと人こぞる日を一人来て我籠りをり桜桃の枝に)
歌意 田植えをすると家中の人がそろって出かけた日に一人屋敷に来て、私は桜桃の木に登って隠れるように籠っている。 終戦の翌年、新潟に活動の場を移して桜桃8首を詠む。木にのぼる八一はまるで少年のようである。明るさを取り戻した彼は敗戦ときい子の死を克服していくのである。
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同日等持院にいたる影堂には足利氏累代の像あり(第4首) たかうぢ の ざう みて いづる えいだう の のき に はるけき あき の そら かな (尊氏の像見て出づる影堂の軒にはるけき秋の空かな)
歌意 尊氏の像を見て出ようとすると御影堂の軒のはるかに秋の空が澄みわたっている。 足利尊氏の像を見た喜びがよりさわやかに秋の空を感じさせたのだろう。 太平記は皇国史観のもと南北朝時代を、足利尊氏を逆臣、楠正成を忠臣として書いている。それが戦前戦中の皇国史観を強化している。 推測にすぎないが、八一は歴史上の逸材・足利尊氏像の消失を懸念していたかもしれない。 蛇足だが、筆者はそれまでの足利尊氏のイメージを一新した私本太平記(吉川英治)を子供の頃に読み(終戦後)、忠臣として楠正成が賛美されるいろいろな読み物にその時一定の疑問を抱いた。
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歌碑(第4首) 「ちかづきてあふぎみれどもみほとけのみそなはすともあらぬさびしさ」といふは新薬師寺香薬師を詠みしわが旧作なりちか頃ある人の請(こい)にまかせて自らこれを書しこれを石に刻ましめその功もまさに畢(おわ)りたれば相知る誰彼を誘ひ行きてこれを堂前に立てむとするに遽(にわか)に病を得て発するを得ずたまたま寺僧の拓して送れる墨本を草廬の壁上にかかげしめわづかにその状を想像して幽悶を慰むるのみいよいよ感應の易(やす)からざるをさとれり たがね うつ いし の ひびき に みだれ とぶ ひばな の すゑ に なり いで に けむ (鏨打つ石の響きに乱れ飛ぶ火花の末に成り出でにけむ)
歌意 たがねを打って石を刻む響きとともに乱れ飛んだ火花の末に私の歌碑はできたのであろう。 石を刻む音と火花の中から文字・歌碑が浮かび上がる。幻想的で神秘的な物語りを想像する。
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印象(第6首) 送霊澈上人 劉長卿 蒼蒼竹林寺 杏杏鐘声晩 荷笠帯斜陽 青山独帰遠 たかむら に かね うつ てら に かへり ゆく きみ が かさ みゆ ゆふかげ の みち (竹叢に鐘打つ寺に帰りゆく君が笠見ゆ夕影の道) 霊澈上人ヲ送ル 蒼蒼タル竹林ノ寺。 杏杏トシテ鐘声晩ル。 笠ヲ荷ウテ斜陽ヲ帯ブ。 青山独リ帰ルコト遠シ。
歌意 青々とした竹叢の中で鐘を鳴らす寺へ夕暮れにあなたは帰っていく。夕日が差している寂しい道に遠ざかるあなたの笠が見えている。 夕暮れに僧を見送る漢詩、そこには作者自身の孤独感が色濃く表れている。また、色彩も有効に使われている。これを全て和歌の中に表現することは難しいが、八一は簡潔に和歌として表現している。 注 霊澈(れいてつ)上人ヲ送ル 劉長卿(りゅうちょうけい) 蒼蒼(そうそう)タル竹林ノ寺。 杏杏(ようよう)トシテ鐘声晩(ク)ル。 笠ヲ荷(にの)ウテ斜陽ヲ帯ブ。 青山独(ひと)リ帰ルコト遠シ。 鬱蒼と茂った竹林の中の竹林寺、日暮れの鐘が遠くかすかに響いてくる。今、あなたは笠を 背負って夕陽をまとい、青々とした山へ一人帰っていく。その後ろ姿はしだいに遠のいていく。 ・霊澈上人 中唐の著名な詩僧 ・劉長卿 中唐の詩人、河間(河北省滄州市)の人。 733年、進士に合格。五言句を得意とし、「五言の長城」と称せられた。字は文房 ・蒼蒼 青々と茂った、まっさおなさま ・杏杏 暗くはっきりしないさま、遠くかすかなさま
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秋篠寺にて(第1首) たかむら に さし いる かげ も うらさびし
ほとけ いまさぬ あきしの の さと (竹群にさし入る光もうら淋し仏いまさぬ秋篠の里)
歌意 竹林に差し込む日の光も心淋しく感じられる。(寺を離れて)御仏がおられないこの秋篠の里では。 当時(明治)の激しい廃仏毀釈の旋風の中で、仏は博物館の預けられ、寺は荒廃していた。八一が訪れた時は年老いた僧一人だったと言う。もちろん、平成2年以降の秋篠宮(礼宮)ブームによる喧騒などからは全く想像できないうら淋しい世界だった。サ行音の多用から醸し出される調べの中に秋深い村里を訪れた彼の感傷を味わいたい。 注 秋篠寺
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若き人々に寄す(第1首) たからかに こころ かかげよ あをぐも の たなびく はて を うちあふぎ つつ (高らかに心掲げよ青雲の棚引く果てをうち仰ぎつつ)
歌意 高らかに志を掲げなさい。青雲の棚引く空の果てを仰ぎながら。 昭和20年4月、孤独の中にあった八一は祖国の難局を打開し未来を築くのは若者たちの力だと叫ばずにはいられなかった。
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滝坂にて(第4首) たきさか の きし の こずゑ に きぬ かけて
きよき かわせ に あそびて ゆかな (滝坂の岸の梢に衣かけて清き川瀬に遊びて行かな)
歌意 滝坂を流れる渓流の岸辺の木の梢に服をかけて、清らかな川の流れの中で遊んでゆきたいものだ。 歌が詠まれた大正10年ごろは豊かな渓流だったと思われるが、今はわずかな水量になっている。八一は秋の滝坂を楽しみながら、樹木と渓流を詠み込んだ。そこには尊敬する良寛の「自然の中に心を遊ばせる」が生き生きと受け継がれている。 この歌の調べは八一の以下の自註を参照 この歌偶然にも「カ」行の音多く、「カ」四、「キ」五、「コ」あり。幾分音調を助け居るが如し。後に法隆寺金堂の扉の音を詠みたる歌の音調の説明を参照すべし。 注 掲載歌は南京新唱から、「豆本」では「こずゑ」が「もみぢ」になっている。 この「豆本」は袖珍(しゅうちん そでに入るくらいに小型なもの)の和歌帖、縦8.9cm横7.5cm の折本になっている。大正11年に作られ、市島春城に送られたもの。その当時の見事な書跡を 見ることが出来る。 (会津八一記念館・新潟 蔵書)
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五月二十二日山本元帥の薨去をききて(第3首) たぐひ なき くに つ みたま の のぼり く と やすのかはら に かむつどひ せむ (たぐひなき国つみ魂の昇り来と安の河原に神集ひせむ)
歌意 比べるるものがないほど優れた国の守護神であるみ魂が昇ってくると安の河原に天の神々が集まることであろう。 天の岩戸の神話を背景に、山本五十六連合艦隊司令長官の天での姿を詠う。
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風竹を描きたる上に(第1首)
たけ ゑがく ふで の した より ふき いでて みそら に かよふ あきかぜ の おと (竹描く筆の下より吹き出でてみ空に通ふ秋風の音)
歌意 竹を描いている筆の下から吹き出して空に吹きあがる秋風の音が聞こえるようだ。 心を集中して風にゆれる竹を描いていると筆先より秋風が吹きでてその音まで聞こえると詠う。絵の中に想像し、浮かんでくる風音が現実であるかのようである。
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閑庭(第20首) たそがるる はた の ほそみち かへり きて たち いる かど の すぎ の をばやし (たそがるる畑の細道帰り来て立ち入る門の杉のを林)
歌意 夕暮れの畑の中の細道を帰って来て、私は家の門がある杉の林の中に入っていく。 家は静かな杉林の中にあった。夕暮れに一人帰っていく広大な庭の中にある秋艸堂の生活は寂しかったかもしれないが、学究にとっては最適の場所だった。
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法隆寺の金堂にて(第2首) たち いでて とどろと とざす こんだう の とびら の おと に くるる けふ かな (立ち出でてとどろと閉ざす金堂の扉の音にくるる今日かな)
歌意 金堂から表に出ると案内人の扉を閉ざす音がひっそりとした境内に大きく響き、その音と共に今日も暮れていく。 ひっそりとした法隆寺の夕暮れ、金堂の重い扉を閉ざす音が「とどろ」に響きわたった。悠久の時の流れと現存する法隆寺の只中で八一の詩情が大きく揺り動かされた。「とどろ」という音から、静謐の世界を浮立たせ、さらに11あるタ行音の音韻効果で律動的な調べを作った。 現在の法隆寺では望むべくもないが、この歌を口ずさみながら金堂の前に目を閉じてたたずめば、喧騒の世界とは全く違う世界に誘われる。 注1 参照 法隆寺の金堂にて 第1首
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四月二十七日ふたたび早稲田の校庭に立ちて(第2首) たち いでて とやま が はら の しばくさ に かたりし とも は あり や あらず や (立ち出でて戸山ヶ原の芝草に語りし友はありやあらずや)
歌意 学生時代、構内から出て戸山ヶ原の芝草の上で共に語りあった友人たちは今も生きているだろうか、死んでしまったのだろうか。 卒業後長い月日が経った。そればかりではない敗色濃い戦時下で友人たちの多くは音信不通である。病後でもあった八一は気弱であり、ありし日の学友たちへの感傷的な歌を詠む。
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閑庭(第39首) たち いでて みづ くむ さよ の ともしび を はち の かすむる ふるゐど の はた (立ち出でて水汲むさ夜の燈火を蜂のかすむる古井戸の端)
歌意 庭に出て行って水を汲んでいると夜の燈火を蜂がかすめるように飛んでいる、古井戸の端で。 次の歌(第40首)によると井戸端の蜂の群れは多かったようだ。燈火に群がり、かすめるように飛び交う蜂を的確に詠んでいる。
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この日醍醐を経て夕暮に京都に出で教王護国寺に詣づ 平安の東寺にして空海に賜(たま)ふところなり講堂の諸尊神怪を極む(第1首) たち いれば くらき みだう に ぐんだり の しろき きば より もの の みえ くる (たち入れば暗きみ堂に軍荼利の白き牙より物の見えくる)
歌意 暗いみ堂に立ち入るとまず最初に軍荼利明王の白い牙が浮かび上がり、その後から次第に他のいろいろな物が見えてくる。 まず白い牙が見え、その後ゆっくりと全体が見えてくる。とても印象的で表現が素晴らしい。密教の寺の雰囲気を見事に表現した名歌で、忘れがたい歌である。この歌を暗誦しながら、東寺に軍荼利明王を見に行ったのは随分昔のことである。 第1首 第2首
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車中肥後の海辺にて
たち ならぶ はか の かなた の うなばら を ほぶね ゆき かふ ひご の はまむら (立ち並ぶ墓の彼方の海原を帆船行きかふ肥後の浜村)
歌意 立ち並んでいる墓の彼方の海原を帆船が行ったり来たりしているのどかな肥後の浜の村であることよ。 車窓に広がる船の行きかう海辺の村の風景、それが墓石の向こうに見えると言う。絵画的な表現だが、立ち並ぶ墓は何かを考えさせる。
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別府にて(第4首)
たちばな の こぬれ たわわ に ふく かぜ の やむ とき も なく いにしへ おもほゆ (橘の木末たわわに吹く風の止む時もなく古おもほゆ)
歌意 橘の枝が撓むばかり実がついている梢に吹いている風が止む時がないように私は常に古代のことを思っている。 この頃、八一の関心は古代ギリシャから古都奈良の美術(東洋美術)へと移っていく。現に自らが設立した希臘学会(ギリシャ)をこの旅行を終えた後、大正13年3月に解消した。この歌で詠われた「いにしへおもほゆ」はまだ漠然としているが、古代への憧憬は古代ギリシャへの想いを継承しつつ、奈良美術を中心として日本の古代へと向かって行く。そして名歌「おほてらのまろきはしら・・・」に結実したと言ってよい。
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小園(第1首)
たち わたす かすみ の なか ゆ とり ひとつ こまつ の うれ に なき しきる みゆ (たちわたす霞の中ゆ鳥一つ小松のうれに鳴きしきる見ゆ)
歌意 庭園を一面におおう霞の中より一羽の鳥が松の梢でしきりに鳴いている姿が見える。 春霞がたなびく広い秋艸堂の庭園で鳴き続ける一羽の鳥をとらえて詠う。絵になる風景であり、八一の鳥好きがうかがえる。
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六月一日吉野秀雄の案内にて多胡の古碑を觀たる後伊香保にいたり 千明仁泉亭に入る翌二日裏山の見晴に登り展望す(第6首) たなぐも を そがひ に なして あまそそる あかぎ の ねろ は まなかひ に たつ (棚雲をそがひになして天そそる赤城の嶺ろはまなかひに立つ)
歌意 たなびく雲を後ろに天高くそびえたつ赤城山の峰は今まさしく私の眼前に立っている。 眼前に広がる赤城山の姿を簡潔に力強く表現する。古代から人々に眺められてきた山の雄大な姿に心を動かすのである。あちこちの山に出かけてそこから見える伊吹山、立山、御岳などを眺めた時の感動が重なる。
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奈良博物館即興(第1首) たなごごろ うたた つめたき ガラスど の くだらぼとけ に たち つくす かな (たなごごろうたた冷たきガラス戸の百済仏に立ちつくすかな)
歌意 手のひらに触れるガラスのケースはますます冷たさを増すが、百済観音に見入っていつまでも立ちつくし、立ち去ることができない。 ガラスケースの冷たさとは対照的に八一の観音に見入る姿勢は熱く、我を忘れるほどである。和辻が亀井がそして八一が没入した百済観音は美しい。
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八月二十三日友人山口剛を誘いて大塚に小鳥を買ふ(第7首)
たな の うえ の ちひさき かご の とまりぎ に むね おしならべ ねむる はと かな (棚の上の小さき籠の止まり木に胸押し並べ眠る鳩かな)
歌意 棚の上の小さい籠の中の止まり木に胸を押し並べるようにして眠っている鳩たちであることよ。 真白な鳩たちが身を寄せ合って静かに眠っている。その姿は鳥好きの八一にはたまらなく愛おしいのである。生き物が大好きな素空には詠われた鳩たちの姿がありありと眼前に浮かんでくる。
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耶馬渓(やまけい)にて(第11首)
たにがは の きし に かれ ふす ばら の み の たまたま あかく しぐれ ふる なり (谷川の岸に枯れ伏すバラの実のたまたま赤く時雨降るなり)
歌意 谷川の岸に枯れ伏している野バラの実が思いがけなく真っ赤に色づいていて、そこに時雨が降り注いでいる。 耶馬渓を立ち去ろうとする八一の目に飛び込んできたのは印象的な赤いバラの実、そして降り続く冬の雨は八一の心そのものであっただろう。耶馬渓にてはこの第11首で終わる。 八一の歌で使われる「あか」は印象深い。以下数首掲載する。 滝坂にて ゆふ されば きし の はにふ に よる かに の あかき はさみ に あき の かぜ ふく 法華寺本尊十一面観音 ふぢはら の おほき きさき を うつしみ に あひ みる ごとく あかき くちびる 秋篠寺にて まばら なる たけ の かなた の しろかべ に しだれて あかき かき の み の かず 山鳩 かなしみて いづれば のき の しげりは に たまたま あかき せきりう の はな
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山中高歌(第9首) たにがは の そこ の さざれ に わが うま の
ひづめ も あをく さす 日かげ かな (谷川の底のさざれに我が馬の蹄も青く射す日かげかな)
歌意 谷川の底の小石を踏んで渡る私の馬の蹄も青く見えるほどに日の光が射しこんでいる。 心身ともに疲弊して出かけた山田温泉で過ごした時間は八一を癒し、その1ヶ月後、学術旅行で奈良へ行く足場となった。心境の変化が初夏の太陽と川の流れを素直な感覚でとらえている。ダイナミックな自然界の白雲、日ざし、水の流れが山中高歌10首の世界を作っている。
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わが右の眼の硝子体に溷濁を生じて(第4首) たのめりし ふたつ の まなこ くもる とも こころ さやけく すみ わたり なむ (たのめりし二つの眼曇るとも心さやけく澄みわたりなむ)
歌意 頼りとしてきた二つの眼がたとえ曇ったとしても、心だけはすがすがしく澄みわたって欲しいものだ。 眼が悪くなっても澄んだ心でいたいと失意の中でも強く願う。かって、「戒壇院をいでて」の歌で仏像のまなざしを印象的に詠んだ八一にとって眼の疾患はいかばかりのものであっただろうか。
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その夜家にかへりておもふ(第1首)
たび にして はふれる たま や ふるさと に こよひ かよはむ そら の ながて を (旅にして葬れる魂や故郷に今宵通わむ空の長手を)
歌意 旅先で亡くなり荼毘に付されたあなたの魂は故郷に今宵帰っていくだろう。空の長い道のりを通って。 東京での葬送後、故郷へ帰るであろう叔父の魂について帰宅して思いを巡らす。叔父は新潟の会津本家の当主であった。“空の長手を魂が帰郷する”、人は自然とそう発想するし、そうあって欲しいと願う。雨月物語には、牢内で切腹して霊魂となって故郷に帰っていく話がある。
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新薬師寺の金堂にて
たびびと に ひらく みどう の しとみ より めきら が たち に あさひ さし たり (旅人に開く御堂のしとみより迷企羅が太刀に朝日さしたり)
歌意 訪れた旅人の私のために、開かれた本堂の蔀からさし込む朝日が迷企羅大将のかざす太刀に輝いている。 昔は訪れる旅人に乞われて、蔀を開けて外光を入れたという。今でもその風情が残っているが現住職がステンドグラスを導入するという話を聞いてからは行ったことがない。この寺には有名な仏像で盗難にあった「香薬師」があった。小説の材料になったりしている。 香薬師の歌
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高畑にて(第1首) たびびと の め に いたき まで みどり なる ついぢ の ひま の なばたけ の いろ (旅人の目に痛きまで緑なる築地の隙の菜畑のいろ)
歌意 奈良の旧跡を訪ねて遠くからやってきた旅人の私の目に沁みて痛いほどに、崩れた築地の間に見える萌え立つ緑の菜の色であることよ。 作者はこう記している。「奈良の築地の破れは、伊勢物語以来、あはれ深いものであるが、ただ見た目にも、これほど旅人の胸を打つものは少ない」 だだの荒廃ではない、長い歴史の重みがある古都の風景を「目に痛きまで」の緑の鮮やかさの中で詠んでいる。その味わいと「の」の効果的な使い方による調べの良さを楽しんで貰いたい。 八一は新薬師寺にある美しい香薬師に会うために、高畑でこの歌を詠んだ。 第2首参照
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閑庭(第42首) たび ゆきて かへれば かど に たかき ひ を みみ に したしき かひどり の こゑ (旅行きて帰れば門に高き日を耳に親しき飼鳥の声)
歌意 旅に出て帰ってくるとまだ門の上に日は高く、耳に親しい聞きなれた小鳥たちの鳴き声が聞こえる。 動植物に深い関心と情をかけた八一は、とりわけ小鳥を飼って日々を過ごした。帰宅した自分を迎えるかのように鳴いている鳥たちへの思いがあらわれている。
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芝草(第1首) 十月二十四日ひさしく懈(おこた)りて伸びつくしたる門前の土塀の芝草を刈りて日もやや暮れなむとするに訪ね寄れる若き海軍少尉ありと見れば昨秋我が校を去りて土浦の飛行隊に入りし長島勝彬なり明朝つとめて遠方に向はんとするよしいへば迎へ入るしばししめやかに物語して去れり物ごし静かなるうちにも毅然たる決意の色蔽ふべからずこの夜これを思うて眠成らず暁にいたりてこの六首を成せり たまたまに しばくさ かりし わが かど に あす は ゆかむ と ひと の とひ くる (たまたまに芝草刈りし我が門に明日は征かむと人の訪ひ来る)
歌意 たまたま芝草を刈っていた門前に明日は出征すると人が訪ねてきた。 出征前の教え子を詠む歌6首、敗戦濃き中での別れは悲しいものである。時代の影響を受けた空虚な作と言える偶感5首や山本元帥7首とは全く違うこころの通う戦時下での別れの歌である。
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六月一日吉野秀雄の案内にて多胡の古碑を観たる後伊香保にいたり 千明仁泉亭に入る翌二日裏山の見晴に登り展望す(第1首) たまたまに やま を し ふめば おのづから やま の いぶき の あやに かなし も (たまたまに山をし踏めば自づから山の息吹のあやにかなしも)
歌意 たまたまこうして山の土を踏むと自然と山の息吹が伝わってきて何ともいえずいとしく、心が惹かれるのである。 初夏の山は瑞々しく心を湧き立たせるものである。大自然の中で足下から伝わる感動を明るく詠んでいる。山光集の名はこの榛名の一連の歌から付けられている。 昭和15年に出版した「鹿鳴集」の評判が高く、いろいろの所から歌を求められることが多くなったが、戦時下と言う状況でその影響を受けた歌も収録されている。有名になったための多作、戦争の影響を受けた作、八一にとって本意でなかった物も含まれる。その事情については榛名目次注2参照。
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閑庭(第43首) たれこめて ねむれる あさ を ね も さやに むかひ の をか に もず なき しきる (たれこめて眠れる朝を音もさやに向かひの丘に百舌鳴きしきる)
歌意 家に閉じこもった眠っている朝に、はっきりとしてよく聞こえる声で向かいの丘で百舌がしきりに鳴いている。 百舌は長い尾を振りながらキイキイキチキチと鋭い声で高鳴きをするという。百舌がよく鳴く晩秋の武蔵野の情景である。 閑庭目次 寒燈集・閑庭(第43首) (2014・10・4) |
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香薬師を拝して(第2首)
ちかづきて あふぎ みれども みほとけ の みそなはす とも あらぬ さびしさ (近づきて仰ぎ見れどもみ仏のみそなはすともあらぬ淋しさ)
歌意 (うっとりとした眼の)香薬師に近づいて仰ぎ見るのだが、はるか彼方を見られているようで、私をご覧になっているようには思えないこの寂しさよ。 作者は自分を無視しているかのように見えて「さびしい」と表現しているが自著の解説で「あのうっとりとした、特有の目つきからも来てゐる」と書いている。香薬師の目そのものの「さびしさ」でもあると言うのだ。ここから、もう少し広義な意味での「さびしさ=寂寥」を歌い上げたと言ってもいい。 この仏像は3度の盗難に会い、今は見ることが出来ないが作者自身が「自筆の碑は、今は空しくその堂の前に立てり」と述べているように本堂西に八一の数ある石碑の最初として置かれている。過日、友人達と新薬師寺を訪れたのはこの歌碑(建立は昭和7年4月)が目的の一つだった。 香薬師を拝して 第1首へ
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除夜の銀座に出でて(第1首)
ちかづけば きみ に います と たち よりて いたはる とも を かなしむ われ は (近づけば君にいますと立ち寄りていたはる友を悲しむ我は)
歌意 近づいて見れば先生(八一)でしたかと立ち寄ってきてなぐさめてくれる友人たち、心遣いは嬉しいが悲しく寂しさも感じる私だ。 きい子(入院中)のいない八一は大晦日に銀座に出た。若い友人たちが声をかけてくれるが、第2首で「われ おい けらし」と自らの老い(還暦)を感じ、表現しているように寂寥感が漂う。
「(この時)口々に声をかけて寄ってきたのは、歌人の都築省吾、岩津資雄、浅見淵などの若い友人たちである。」(會津八一の生涯・植田重雄著より)
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錦衣(第3首)
ちちはは の くに に きたれ ど ちちはは も すでに いまさず もの なし われ は (父母の国に来たれど父母もすでにいまさず物無し我は)
歌意 父母の国、郷里に帰って来たけれども、父母はすでに亡くなっており、私は無一物なのだ。 焼け出されて帰ってきた故郷にはもう父母はいない。しかも自分は身一つなのだ。錦衣の題が八一の無念を表現する。
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予罹災ののち西条に村居し一夜大いなる囲炉裏のほとりにて よめる歌これなり(第11首) ちち わかく いませる ころ も ほた の ひ は いま も みる ごと もえ つぎ に けむ (父若くいませる頃も榾の火は今も見るごと燃えつぎにけむ)
歌意 父が若い時の囲炉裏の榾の燃える火も今私が見ているように燃え続けていたであろう。 独り寂しく囲炉裏の火を見つめる八一に、ありし日の父の炉辺の姿が炎の中に浮かんでくる。孤独に年老いて、思うのは昔の事である。
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予罹災ののち西条に村居し一夜大いなる囲炉裏のほとりにて よめる歌これなり(第8首) ちち わかく ひ に かよはしし そんじゆく の かど も こだち も ゆくへ しらず も (父若く日に通はしし村塾の門の木立も行くへ知らずも)
歌意 父が若い日に毎日通った村塾は今は門も木立も無くなって跡かたも無い。 村塾はどこかへ行ってしまって跡かたも無い。ただあるのはここへ通った父への思いである。
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予罹災ののち西条に村居し一夜大いなる囲炉裏のほとりにて よめる歌これなり(第9首) ちち を しる ひと も いまさず そんじゆく の こだち も あらず ふるさと の むら (父を知る人もいまさず村塾の木立もあらず故郷の村)
歌意 父を知る人もいなくなり、村塾の木立も無くなって当時の面影が全く無くなった故郷の村であることよ。 一世代が過ぎ、また戦争を経て故郷の村は父の面影を偲ばせるよすがが全く無くなった。目の前の現実を詠い、その事実を受け入れるのみである。
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五重塔をあふぎみて ちとせ あまり みたび めぐれる ももとせ を
ひとひ の ごとく たてる この たふ (千年あまり三度めぐれる百年を一日のごとく立てるこの塔)
歌意 千年を超えて千三百年という長い年月を、まるで一日であるかのようにこの五重塔は静かにたっている。 歌が詠まれた大正10年の春、聖徳太子千三百年忌(4月11日)を前に寺も斑鳩村もある種の活気があったと言う。太子への思慕を背景に、上の句で表現した塔の長い年月を下の句で一日のごとくと言い表すことによって悠久の歴史の中にたたずむ五重塔を見事に歌い上げた。 上の句 「ちとせ あまり みたび めぐれる ももとせ を」 は最初、全く意味が分からなかったが、解説を読み理解するにつれて歌の素晴らしさが分かった。 八一の薬師寺の塔の歌(すいえんの・・・ あらしふく・・・)と共に味わっていただきたい。
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畝傍山をのぞみて ちはやぶる うねびかみやま あかあかと つち の はだ みゆ まつ の このま に (ちはやぶる畝傍神山あかあかと土の膚見ゆ松の木の間に)
歌意 神の山、畝傍山の松の木の間に日がさして赤々と山肌がみえることよ。 香具山に登った後、畝傍山に対峙して、山肌があらわになっているようすを詠う。その山肌の露出した風景を八一はこんな気持ちで眺めた。 「日のさして、松の木の間に、あからさまに見ゆ。先にも云へる、上代の三山求婚の争ひのことなど聯想して、木の間より見ゆる山の地膚なども、何となく哀れに思わるるといふなり。」(自註鹿鳴集)
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十一日まづ東大寺に詣でまた春日野にいたる同行の学生に て近く入営せむとするもの多く感に堪へざるが如しすなはち そのこころを思ひて(第4首) ちはやぶる かみ の みやゐ に たらちね と ぬかづく みれば ふるさと おもほゆ (ちはやぶる神の宮居にたらちねと額づく見れば故郷思ほゆ)
歌意 春日神社に両親と一緒に額づいて熱心にお参りする人の姿を見ると故郷のことが思われる。 親と一緒に春日大社(神社)でお参りする人の姿をみて、故郷を思い出す。きっと両親とともに過ごした幼いころを思い出したのであろう。 植田重雄の“最後の奈良見学旅行”
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豊浦にて ちよろづ の かみ の いむ とふ おほてら を おして たて けむ この むら の へ に (ちよろづの神の忌むとふ大寺をおして建てけむこの村の辺に)
歌意 日本の全ての神々が忌み嫌う大寺を反対を押し切って建てたのだなあ、この村のあたりに。 豊浦の地に立って、仏教伝来当時を回顧して詠んだ。今は無き豊浦寺を前にして、蘇我氏と物部氏の歴史的な抗争を思い起しながら、それらを三十一文字に抒情化した八一の力量は素晴らしい。
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錦衣(第1首)
つかさびと こと あやまりて ひとひら の やけの と やきし くに ぞ くやしき (つかさ人こと誤りてひとひらの焼野と焼きし国ぞ悔しき)
歌意 国の指導者たちが政治を誤って、一片の焼け野原のように焼いてしまったこの国のことが残念でならない。 敗戦後、軍人、官僚、政治家などの愚かで無責任な戦争遂行を明確に認識し、当然のように批判した。ただ、その怒りは焼け出されて無一文に近い形で故郷に帰った我が身を悲嘆することから生れている。「錦衣」と言う題は、“錦衣故郷に帰る”ではない八一の状況を表している。
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観世音寺の鐘楼にて(第4首)
つき はてて くだる しゆろう の いしだん に かれて なびかふ はた の あらくさ (撞き果てて下る鐘楼の石段に枯れて靡かふはたの荒草)
歌意 鐘を撞き終わって降りる鐘楼の階段のあたりに茂った雑草が枯れて靡くように横たわっている。 生い茂った雑草が枯れて冬の鐘つき堂の周りに靡いている。それ以外には殺風景な景色である。菅公の悲哀、沈みがちな八一の心が雑草をことさら注視させるのである。
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別府にて(第7首)
つきよみ の かげ は ふたたび みつれども たび なる われ は しる ひと も なし (つきよみの影は再び満つれども旅なる我は知る人もなし)
歌意 旅に出て月の姿は2度目の満月を迎えたけれども旅を続ける私を知っている人はいない。 旅は1ヶ月近くになろうとしている。故郷新潟、住まいする東京から遠く離れた九州での旅愁が孤独感と共に詠われている。時の流れの表現がユニークで素晴らしい。
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印象(第1首) 懐瑯琊二釈子 韋応物 白雲埋大壑 陰崖滴夜泉 応居西石室 月照山蒼然 つくよ よし たに を うづむる しらくも の な が いはむろ に つゆ と ながれむ (月夜よし谷を埋むる白雲の汝が岩室の露と流れむ) 瑯琊ノ二釈子ヲ懐フ 白雲ハ大壑ヲ埋メ、 陰崖ハ夜泉ヲ滴ラス。 応ニ西ノ石室ニ居ルベシ。 月照ヲシテ山ハ蒼然。
歌意 月夜は素晴らしく、谷を埋める白雲は夜露となってあなたの住む岩室に流れているでしょう。 全唐詩を読んでいて和歌に訳してみようと思った第1首。難しい挑戦である。 注 瑯琊(ろうや)ノ二釈子ヲ懐(おも)フ 韋応物(いおうぶつ) 白雲ハ大壑(たいがく)ヲ埋メ、 陰崖ハ夜泉ヲ滴(したた)ラス。 応(まさ)ニ西ノ石室ニ居ルベシ。 月照ヲシテ山ハ蒼然。 瑯琊に住む二釈子のことを懐う 白雲が大きな谷を埋め、岩陰は流れる夜露に濡れている。きっとあなたは西の岩室に居るのだろう。 月が照らす山・瑯琊は青くぼんやりとして風情に満ちている。 ・韋応物 中国・中唐の詩人、京兆(陝西省西安)の人。陶淵明に心酔、自然詩人として、 王維・孟浩然・柳宗元と並び称される。 ・瑯琊 山の名 ・釈子 釈迦の弟子、僧のこと ・大壑 大きな谷 ・陰崖 岩陰 ・夜泉 夜露 ・応に…べし 当然…すべきである、きっと…だろう ・蒼然 あおあおとしているさま
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雁来紅(第7首) つくり こし この はたとせ を かまづか の もえ の すさみ に われ おい に けむ (作り来しこの二十年をかまづかの燃えのすさみに我老いにけむ)
歌意 葉鶏頭を作ってきた二十年、燃えるような美しさに心を奪われ、愛でている間に私は老いを迎えてしまったようだ。 20年の歳月を使って見事な葉鶏頭を咲かせるようになったが、花の前で老いが近づいたことにふと気付いた。八一、61歳の作である。
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やがて紀元節も近づきければ古事記の 中巻なる神武天皇の条を読みて(第9首)
つちぐも が ゑひ の すさみ に くだつ よ を
やそかしはで は とき まち に けり (土雲が酔ひのすさみにくだつ夜を八十膳夫は時待ちにけり)
歌意 神武天皇に敵対する土着の土雲たちが酒に酔って気ままに油断している夜更け、多くの料理人は土雲を打つ天皇の命令を待っていた。 古事記の逸話を詠んだもの。第18首から第32首までは戦後一度削除し、後に復活したものである。
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土くれ(第6首) 十月の末つかたなりけむ喜多武四郎予が胸像を作り持ち来りて示すを見るに頗る予が意を獲たり乃ち喜多が携へたる鉄の箆をとりてその背に秋艸道人の四字を刻す つちくれ の この おもかげ を なつかしみ わが な きざみつ その かた の へ に (土くれのこの面影を懐かしみ我が名刻みつその肩の辺に)
歌意 私の姿を彫ったこの塑像を懐かしく思って、肩のあたりに私の名を刻んだ。 自らを写し取った胸像に親しみを感じ、感謝をこめて肩のあたりに「秋艸道人」と名前を刻んだ。
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土くれ(第2首) 十月の末つかたなりけむ喜多武四郎予が胸像を作り持ち来りて示すを見るに頗る予が意を獲たり乃ち喜多が携へたる鉄の箆をとりてその背に秋艸道人の四字を刻す つつみ きて ひらけば しろき つちくれ の われ に にる こそ かなし かり けれ (包み来て開けば白き土くれの我に似るこそかなしかりけれ)
歌意 包んできた風呂敷を広げると白い塑像が私に似ていて、なんといとおしく思われることだ。 自らを再現した胸像の素晴らしい出来栄えに心動かされる。深くいとおしいとその喜びを強調する。
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奈良博物館にて(第4首) つと いれば あした の かべ に たち ならぶ
かの せうだい の だいぼさつ たち (つと入れば朝の壁に立ち並ぶかの招堤の大菩薩たち)
歌意 さっと博物館に入ると、清らかな朝の光の中に壁を背にしてあの唐招提寺の菩薩たちが立っておられることよ。 博物館に入ると同時に立ち並ぶ仏像に出会う。その迫力を平易な状況表現のみで表している。仏像が贅沢に並ぶ東大寺の3月堂や室生寺の金堂を思ってみればいい。「つと」入った時の感動はだれもが共有できる。 この歌は「奈良博物館にて」6首中にある八一の代表的な仏像の歌(4首)を俯瞰するような位置にある。仏像を信仰の対象と言う次元から離れて、仰ぎ見た時の美的感動を高い次元で詠ったこれら4首は代表的な日本の仏像の歌と言ってよい。以下に4首を付記する。 奈良博物館にて くわんのん の しろき ひたひ に やうらく の かげ うごかして かぜ わたる みゆ 第1首 くわんのん の せ に そふ あし の ひともと の あさき みどり に はる たつ らし も 第2首 ほほゑみて うつつごころ に ありたたす くだらぼとけ に しく もの ぞ なき 第3首 はつなつ の かぜ と なりぬ と みほとけ は をゆび の うれ に ほの しらす らし 第5首 注 八一自註より ・・・作者この歌を詠みしころは、博物館のホールに入りたるばかりの処に、雪白の堊壁を背にして、唐招提寺のみにあらず、薬師寺、大安寺などの等身大の木彫像林立して頗(すこぶ)る偉観を呈したり。
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春日野にて(第4首) つの かる と しか おふ ひと は おほてら の
むね ふき やぶる かぜ に かも にる (角刈ると鹿追ふ人は大寺の棟ふき破る風にかも似る)
歌意 鹿の角切りをするために鹿を追い込み捕まえる勢子たちの荒々しさは、まるで大寺の棟を吹き破る強い風に似ているようだ。 今年は10月9日~16日に行われた。八一は自註で、手荒い作業を見て鹿に同情して詠んだと言っている。変わった比喩を使い、八一にしては遊び心がある。 注 自註鹿鳴集より 鹿は本来柔和の獣なれども、秋更(ふ)けて恋愛の時期に入れば、牡はやや粗暴となり、 時にはその角を以て人畜を害することあり。これを恐れて、予(あらかじ)め之を一所に 追ひ集めて、その角を伐(か)るに春日神社の行事あり。この行事に漏れて、角ありて 徘徊するものを誘い集め、捕へてその角を伐ること行はる。ある日奈良公園にて散策中に 之に遭ひし作者は、この伐り方の甚だ手荒なるを見て、やや鹿に同情したる気分にて、 かく詠(よ)めるなり。
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その翌日わが家の焼けたる跡にいたりて(第3首) つみ おきて よまざりし ふみ いくたび か よみたる ふみ と ゆくへ しらず も (積み置きて読まざりし書幾度か読みたる書と行方知らずも)
歌意 積んでおいてまだ読んでない書物も何度も読み返した書物と一緒になって行方がわからなくなった。 まだ読んでいない書物にも読み返した書物にも愛着があった。それが一瞬の内に燃えて無くなった。学究として書物に対する思いは人一倍強かった。
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新村博士奈良新薬師寺にやどりて歌よみて寄せられしに 答へて(第1首) つゆ すでに あさな あさな を ふか からし しんやくしじ の には の くさむら (露すでに朝な朝なを深からし新薬師寺の庭の草むら)
歌意 朝な朝な露はすでに深く降りているだろう。新薬師寺の庭の草むらには。 秋萩が咲こうとする時期、寺の庭草は露に濡れているだろうと想像する。新薬師寺は八一と切っても切れぬ縁がある。奈良での最初の歌碑がここで建立され、また八一が病気に臥す時は新薬師寺が快癒を願って祈祷した。
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国葬の日に(第1首) つらね うつ はう は も かなし いづく に か ききて ゑまさむ きみ も あら なく に (連ね打つ砲はも悲しいづくにか聞きて笑まさむ君もあらなくに)
歌意 連射する葬送の弔砲はなんと悲しく響くことか。どこかでこの音を聞いて微笑んでいる君がいるというわけでもないのに。 国葬の歌を以下合わせて3首詠う。連合艦隊司令長官の山本五十六の死は当時衝撃的な事だったが、敗戦への序章でもある。
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東大寺観音院にいたり前住稲垣僧正をおもふ(第2首) てらには の ひる は しづけし みづ みてて いし に すゑたる みんげい の かめ (寺庭の昼は静けし水満てて石に据ゑたる民芸の瓶)
歌意 この観音院の庭の昼はとても静かだ。水を満たした民藝の瓶が石の上にしっかりと据えてあって。 去りがたく思った(第1首)この観音院の昼の庭は静かだった。前住職への面影を追いながら、水の満ちた民藝の瓶の存在感に心惹かれる。
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十八日室生を出で当麻を経て高野山に登り明王院に入る かねて風邪の心地なりしを翌朝目さむれば薄雪降りしきて 塔廟房舎みな白し我が齢も大師を過ぐることすでに一歳 なればおもひ更に深し(第1首) とき も なく ふり くる ゆき か くさまくら たび の ころも は あつ から なく に (時もなく降り来る雪か草枕旅の衣は厚からなくに)
歌意 いつという定めもなく降ってくる雪なのだろうか、私の旅の服は厚いものではないのに。 学生を連れた最後の奈良旅行は高野山で終わる。体調を崩していた八一にとってこの雪と寒さは辛かったであろう。この時、62歳である。 植田重雄の“最後の奈良研究旅行4”
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開山堂なる鑑真の像に とこしへ に ねむりて おはせ おほてら の
いま の すがた に うちなかむ よ は (とこしへに眠りておはせ大寺の今の姿にうちなかむよは)
歌意 ずっといつまでも安らかに眼を瞑ったままでおいでください。今の世の唐招提寺や仏教の姿をみてお泣きになるよりは。 「とこしへ に ねむりて おはせ」と鑑真座像に呼びかける上二句が、全体の倒置法と相まって強く鑑真を浮かび上がらせ、さらに歌そのものは廃仏毀釈後の今の寺や天平仏教の衰えに対する八一自身の嘆きを表出する。八一の深い嘆きはこの歌の重々しさを嫌が上にも増している。 八一は鹿鳴集自註で鑑真に関する長文の解説を書いている。簡潔で的確な文章に感動する。ここには引用できないが機会があれば読んでほしい。 なお、この御影堂の近くには有名な芭蕉の句碑「若葉して御めの雫拭はばや」がある。
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つらつら世情をみてよめる(第3首) とこよ なす をぐらき のべ と あれぬ とも ひと ある ところ みち なか らめ や (とこよなすを暗き野辺と荒れぬとも人ある所道なからめや)
歌意 永遠に夜が続く暗闇の野辺となって荒れ果てようとも、人が存在するところには進むべき道が無いわけではない。 困難な状況でも人の進むべき道は必ず存在すると強調する。人々に呼び掛けるとともに最悪の状態にある己を鼓舞していると言える。
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閑庭(第41首) とし あまた いはひ もとほり いたづらに ぶだう の つる の くさ に こもれる (年あまたいはひもとほりいやづらに葡萄の蔓の草にこもれる)
歌意 何年もの間、葡萄の手入れがしてないので蔓が無駄に土の上を這いまわって草にこもっている。 第40首でもふれたが、葡萄は相当の手入れが必要である。放置され続けた状態を古語をいれて詠み、陶淵明風の鄙びた田園を想定したかもしれない。
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閑庭(第11首) としどし を つき の ふるは の うづみ こし ささ の ね ふかく むし ぞ なく なる (年年を槻の古葉の埋み来し笹の根深く虫ぞ鳴くなる)
歌意 毎年毎年、欅の落ち葉が埋めてきた笹の根の深いところで虫が鳴いている。 欅の大木の落ち葉に埋まる笹、そこから虫の音が聞えると言う。かすかな虫の声を大きくゆったりとした自然の中にとらえる。
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歳暮新潟の朝市に鉢植の梅をもとめて(第1首) とし ゆく と ののしる いち の はて にして うめ うる をぢ が しろき あごひげ (年行くと罵る市の果てにして梅売るをじが白きあごひげ)
歌意 年末の売り出しの大声で騒がしい市、そのはずれで静かに梅の鉢植を売るおやじの白いあごひげよ。 賑わう市のはずれで静かに鉢植を売る白ひげのおやじを浮かび上がらせ、詞書にあるように梅の鉢を買う。そして、5首にわたってこの梅と己の心を重ねて詠う。
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六月一日吉野秀雄の案内にて多胡の古碑を観たる後伊香保にいたり 千明仁泉亭に入る翌二日裏山の見晴に登り展望す(第5首) とね いまだ うらわか からし あしびき の やま かたづきて しろむ を みれば (利根いまだうら若からしあしびきの山かたづきて白むを見れば)
歌意 山から見える利根川の上流はまだ若く初々しい。山に接する流れが川面を波立たせて白いのを見れば。 利根川の源流の波立つ若々しさを詠んだ秀作である。「かたづきて」が山に接して流れると言う意味が分かれば、一気に詠まれた世界が広がってくる。倒置的に使われた下の句の実景が美しい。
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正倉院の曝涼に参じて とほ つ よ の みくら いで きて くるる ひ を まつ の こぬれ に うちあふぐ かな (遠つ代のみ倉出で来て暮るる日を松の木末にうち仰ぐかな)
歌意 遠く過ぎ去った時代の正倉院から出て来て、松の梢に暮れてゆく日を仰ぎ見たことだなあ。 暗い正倉院の中での鑑賞を終えて出てきた時の一首だが、八一によると「倉内は窓なく、小さき入口より射し入る日光のみなれば、双手に懐中電灯を持ち、その焦点を集中してわづかに品物を見るを得るばかりなりき」と言う状況だった。また、曝涼への参加は「従来は勲位または学芸ある人々のみ」許可されたと自註鹿鳴集に書いている。とりわけ東大を中心にした官立系が優遇された時代で私立である早大の八一にはなかなか許可が下りなかった。 それゆえ、許可され参加できた八一の感動は大きかった。暗い倉内で緊張して鑑賞し、明るい戸外にでた一瞬を満ち足りた気持ちで詠っている。
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閑庭(第6首) ともしび に には の まつむし のぼり きて ほとほと なく か さよ ふくる までに (燈火に庭の松虫登り来てほとほと鳴くかさ夜更くるまで)
歌意 飛んできて部屋の燈火に登ってきた松虫がほとほとと鳴いている、夜の更けるまで。 自然に囲まれた下落合秋艸堂の実景である。“漢詩・燈火草虫鳴”を思い起こして、その詩的環境を喜び、楽しんでいる。 注 ともしびににはのまつむしのぼりきて 自註 王摩詰に「燈火草虫鳴」の句あり、いづくにても、田舎住ひにはありがちのことならむも、予が歌は実況なり。
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菊を描きて(第2首)
ともしび の かげ の さむき に ひとり みる けさ ゑがきたる しらぎく の はな (燈火の影の寒きに一人見る今朝描きたる白菊の花)
歌意 夜の燈火の光の寒々としたなかで一人で見ている、今朝描いた白菊の花の絵を。 昭和20年晩秋から書や絵を再開した八一、朝描いて瑞々しさを願った白菊の絵を夜の薄明かりの中でながめる。
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歌碑(第8首) 「ちかづきてあふぎみれどもみほとけのみそなはすともあらぬさびしさ」といふは新薬師寺香薬師を詠みしわが旧作なりちか頃ある人の請(こい)にまかせて自らこれを書しこれを石に刻ましめその功もまさに畢(おわ)りたれば相知る誰彼を誘ひ行きてこれを堂前に立てむとするに遽(にわか)に病を得て発するを得ずたまたま寺僧の拓して送れる墨本を草廬の壁上にかかげしめわづかにその状を想像して幽悶を慰むるのみいよいよ感應の易(やす)からざるをさとれり とも と わが おり たつ てら の には の へ に せまりて あをき たかまど の やま (友と我が下り立つ寺の庭の辺に迫りて青き高円の山)
歌意 友人と私が共に下り立った新薬師寺の庭に迫ってくるような緑鮮やかな高円山であることよ。 新薬師寺は高円山の麓にある。八一にとってこの寺と山は一体であり、また滝坂の道への入り口でもある。東京から想像して詠んだこの第8首で歌碑は終わる。 (高円山の歌へ)
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四月二十四日早稲田の校庭を踏みつつ(第5首) ともに ゐて まなびし とも は ふるさと に いま か おゆらむ おのも おのもに (共にゐて学びし友は故郷に今か老ゆらむおのもおのもに)
歌意 若い日に共に大学で学んだ友達は今は故郷にあってそれぞれに老いていることだろう。 自らの老いを感じた八一は共に学んだ学友たちの今日を思う。この頃、葬式で会った同級生たちの老いの目立つ姿を見て、己の老いを見つめなおしたようだ。ただ、学究としての意欲、意思は強靭で、76歳で亡くなるまで絶えることは無かった。
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八月二十三日友人山口剛を誘いて大塚に小鳥を買ふ(第1首)
とりかご を て に とり さげて とも と わが とり かひ に ゆく おほつかなかまち (鳥籠を手に取り下げて友と我鳥買ひに行く大塚仲町)
歌意 鳥籠を手に下げて友達と私が小鳥を買いに行く、大塚仲町へ。 友人山口剛と大塚中町へ小鳥を買いに行った時の歌12首の初歌。まずは事実を詠い、第2首以降の八一の心温かい山口剛へのまなざし、鳥たちへの思いがこもった歌へと繋ぐ。 山口剛は南京新唱の序を書いている。
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十九日高野山を下る熱ややたかければ学生のみ河内観心寺に遣り われひとり奈良のやどりに戻りて閑臥す(第4首) とりはてて ひとつ の かき も なき には の なに に しぬびて あそぶ さる かな (取り果てて一つの柿も無き庭の何に忍びて遊ぶ猿かな)
歌意 取り尽くして柿の実は一つもない庭なのに何に忍び隠れて遊んでいるのだろう、猿たちは。 何も食べるものが無い宿の庭で猿たちはなぜ遊ぶのだろうと考える。病身で弱った心は鳴きながら遊ぶ猿たちの活動を羨んでいたかもしれない。 植田重雄の“最後の奈良研究旅行4”
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霜余(第5首) とり はてて もの なき はた に おく しも の はだらに あをき にんどう の かき (取り果ててもの無き畑に置く霜のはだらに青き忍冬の垣)
歌意 取り尽くして何も無い畑に霜が降りているが、垣根には緑をまだらに残した忍冬・スイカズラが見える。 戦時下の霜の降りる冬の秋艸堂の畑は何も無い。ただその向こうにまだ緑を残した忍冬の垣が見える。老齢と時代の影響で庭や畑の荒れたさまを“まだらな緑”に焦点を合わせて詠む。 注 便化 便化とは自然形態を素材にして精密描写し、それをベースに便宜変化させ単位化した図形を創作すること。
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