会津八一(あいづ・やいち) 目次へ 1881〜1956。新潟の生れ。号 秋艸道人(しゅうそうどうじん)。早稲田で学んだのち、坪内逍遥の招きで早稲田中学校教員となる。その後文学部教授に就任、美術史を講じた。 古都奈良への関心が生み出した歌集『南京新唱(なんきょうしんしょう)』にその後の作歌を加えた『鹿鳴集』がある。奈良の仏像は八一の歌なしには語れない。歌人としては孤高の存在であったが、独自の歌風は高く評価されている。鹿鳴集に続いて『山光集』『寒燈集』を発表している。 書にも秀で、今では高額で売買される。生涯独身で通したが、慕う弟子達を厳しく導き、多くの人材を育てた。 会津八一の生涯・年表 新潟市會津八一記念館 早稲田大学會津八一記念博物館 |
桜桃(第3首)
あうたう の えだ に こもりて わが ききし さつき の をだ の をとめら が うた (桜桃の枝に籠りて我が聞きし五月の小田の乙女らが歌)
歌意 桜桃の木に登って枝に籠っているとき、私が聞いた五月の田の乙女たちの田植歌よ。 桜桃の木の上から聞いた若い娘たちの田植歌、敗戦後の暗い時期を乗り越えた新しい季節と時の到来を告げている。
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桜桃(第4首)
あうたう の えだ に のぼれば きこえ くる みづた の はて の やまばと の こゑ (桜桃の枝に登れば聞こえくる水田の果ての山鳩の声)
歌意 桜桃の木の枝に登ると聞えてくる、はるかに続く水田の果てから山鳩の声が。 良く晴れた6月の空のもと、水田の向うから山鳩の声がする。心地よい季節である。病臥するきい子と八一だけの寂しい観音堂で聞いた山鳩の鳴き声とは違う。時間は八一の悲しみも癒していくのである。
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桜桃(第5首)
あうたう の えだ の たかき に のぼり ゐて はるけき とも の おもほゆる かも (桜桃の枝の高きに登りゐてはるけき友の思ほゆるかも)
歌意 桜桃の高い枝に登っているとはるかに遠い友人たちのことが思われることだ。 昭和21年はまだ敗戦の混乱のさ中で、友人たちの消息もほとんどわからなかった。木の上の少年の様な八一には遠い昔の友も浮かんでいたかもしれない。
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また風竹の図に
あきかぜ の ひ に け に ふけば ひさかたの みそら に なびく ひともと の たけ (秋風の日にけに吹けば久方のみ空になびくひともとの竹)
歌意 秋風が日ごとに吹くと遥かな空に揺れなびいている一本の竹であることよ。 秋風に大きく揺れ動く竹を描いた。絵の中の竹がいかにも動いているようだと歌う。
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うみなり(第5首) 昨春四月東京をのがれて越後に來り中条町西条なる丹呉氏に寄りしがことし(昭和二十一年)七月の末よりはじめてわが故郷なる新潟の市内に移り南浜通といふに住めり十一月十五日の夜海鳴の音のはげしきに眠る能はず枕上に反側してこの数首を成せり あきかぜ の ふき の すさみ を ほのぼのと しらみ も ゆく か いね がてぬ よ を (秋風の吹きの荒みをほのぼのと白みも行くか寝ねがてぬ夜を)
歌意 秋風が吹き荒れる中をほのぼのと明けて行くのだろうか、眠られない夜が。 激しい秋風と海鳴りの中で、いろいろなことが思い浮かび、眠れないままに朝を迎えようとしている。その思いは己の過去であり、またこれから故郷新潟で生きて行く上でのことであろう。
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松の雪(第5首) あさ に け に とり は わたれど ふるさと を ふたたび いでむ われ なら なく に (朝に日に鳥は渡れど故郷を再び出でむ我ならなくに)
歌意 朝夕いつも鳥は渡ってきて移って行くが、この故郷・新潟を再び出て行く私ではもうないのだ。 既に“夕刊ニイガタ”の社長になり、早稲田大学からの要請を断って新潟に本拠地を移した八一であるが、東京への断ちがたい想いが内に秘められている。後に(昭和23年5月)早大の名誉教授を受けた。当時、名誉教授は退職した後の勤続功労の称号ではなく真に実力のある教授に送られたという。
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榾の火(第1首)
あさひ さす ほた の ほ の へ の つるしがき ほの しろみ かも とし は きぬ らし (朝日さす榾の火の上の吊るし柿ほの白みかも年は来ぬらし)
歌意 朝日が差し込む囲炉裏の榾の火の上にある吊るし柿がほの白く見える。新年が来るのだなあ。 年の瀬も丹呉家の囲炉裏に座る孤独な八一、雪を避けて室内に吊るされた柿の色を眺めながら、目的を失い何もすることの無い我が身にも新しい年がやってくると詠う。寂しい年末である。
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予罹災ののち西条に村居し一夜大いなる囲炉裏のほとりにて よめる歌これなり(第6首) あさ ゆきて まなびし ふみ の からうた を ひとり ずし つつ いねし よ も あらむ (朝行きて学びし書の唐歌を一人誦しつつ寝ねし夜もあらむ)
歌意 朝、塾へ行って学んだ書物にある漢詩を一人口ずさみながら寝た夜もあったであろう。 学ぶ者にとって、当時の学問の中心である漢詩(漢文)を習い、声に出して覚えることは普通であり、八一自身もそうしただろう。父の同じ姿を想像しながら親しみをこめて詠う。
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山歌(第3首) 昨秋天皇陛下この地に巡幸したまひし時県吏まづ来りて予にもとむるに良寛禅師に関する一席の進講を以てす予すなはちこれを快諾したるも期に及びてにはかに事を以てこれを果すことを得ず甚だこれを憾(うら)みとせり今その詠草を筐底(きょうてい)に見出でてここに録して記念とす あしびきの やま の ほふし が ふるうた の ひびき すがし と よみし たまはむ (あしびきの山の法師が古歌の響きすがしと嘉したまはむ)
歌意 山の法師・良寛禅師の古歌の響きはすがすがしいと天皇はおほめになるであろう。 きっと天皇も良寛の歌を評価されるであろうと詠む。八一の真情であり、願いである。
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榾の火(第2首)
あなごもる けもの の ごとく ながき よ を ほた の ほかげ に せぐくまり をり (穴ごもる獣の如く長き夜を榾の火影にせぐくまりをり)
歌意 穴に入って冬眠する獣のようにこの長い夜を榾の火かげで背を丸めてかがんでいる。 |
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うみなり(第3首) 昨春四月東京をのがれて越後に來り中条町西条なる丹呉氏に寄りしがことし(昭和二十一年)七月の末よりはじめてわが故郷なる新潟の市内に移り南浜通といふに住めり十一月十五日の夜海鳴の音のはげしきに眠る能はず枕上に反側してこの数首を成せり あらうみ に たゆたふ さど の しまやま の かげ さへ くらく ゆめ に みえ くる (荒海にたゆたふ佐渡の島山の影さへ暗く夢に見えくる)
歌意 荒海の中にゆらゆらと揺れ動く佐渡の島山の姿が暗く夢の中に見えてくる。 浅い眠りの中で、荒海の向こうの佐渡島が揺れ動いている暗く重い姿が夢に見えると詠む。眠れない夜の脳裏に浮かぶ佐渡の姿なのか夢なのか、混然として読むものに迫ってくる。
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良寛禅師をおもひて(第4首) あり わびて わが よむ うた を うつしみ に ききて ほほゑむ きみ なら まし を (あり侘びて我が詠む歌をうつしみに聞きてほほゑむ君ならましを)
歌意 この世を住みにくいと思いながら私が詠む歌を、あなたが今の世にいて聞いてほほえんでくださるとよいのに。 私の詠む歌を敬慕する良寛が今の世にいてほほえみながら認めてくれたらと思う。八一にはそれだけの自信もあったであろう。
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予罹災ののち西条に村居し一夜大いなる囲炉裏のほとりにて よめる歌これなり(第4首) あるとき は くりや の のき に をの ふりて まき わらし けむ ふぶき する ひ を (ある時は厨の軒に斧振りて薪割らしけむ吹雪する日を)
歌意 ある時は台所の軒の下で斧を振って薪を割ったであろう、吹雪の日に。 孤児になり丹呉家で養われていた若い頃の父の苦労を偲ぶ。病臥していたきい子と2人暮らした観音堂では日常のことを八一が行った。父の昔と重なってくるのだ。
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歳暮新潟の朝市に鉢植の梅をもとめて(第5首) いくとせ を こころ の ままに ゆがみ きて はち に おい けむ あはれ この うめ (幾年を心のままに歪み来て鉢に老いけむあはれこの梅)
歌意 何年もの間、自分の思うままに曲がったり歪んだりして鉢の中で老いてしまった、ああこの梅よ。 梅を擬人化して詠むが、その姿は八一そのものの姿と言ってよい。70歳の時「痴頑古稀」の刻印を作っている。それは愚かで頑固な生涯を貫いた事への自負であるが、同時に軽い自嘲の意味もある。
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新村博士奈良新薬師寺にやどりて歌よみて寄せられしに 答へて(第2首) いしぶみ の うた くちずさみ たち いづる きみ が たもと の しらはぎ の はな (碑の歌口ずさみ立ち出づる君が袂の白萩の花)
歌意 私の歌碑の歌を口ずさみながら、新薬師寺の門を出るあなたの服の袂にふれるように白萩の花が咲いているだろう。 |
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榾の火(第5首)
いづく に か したたる みづ の きこえ きて ゐろり は さびし ゆきて はや ねむ (いづくにか滴る水の聞えきて囲炉裏は寂し行きてはやねむ)
歌意 どこからか水の滴る音が聞こえてきて、一人座っている囲炉裏は寂しい、行って早く寝よう。 冬の深夜、一人うずくまる炉辺ほど寂しいものはない。どこからともなく水の滴る音は寂しさを倍増する。「ゆきてはやねむ」、これ以上の孤独感はない。印象に残る歌である。
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丹呉氏の炉辺にて(第1首)
いづく ゆ も ふき いる かぜ ぞ ゐろりべ の くらき に ゆるる ほしがき の かず (いづくゆも吹き出る風ぞ囲炉裏辺の暗きに揺るる干し柿の数)
歌意 どこから吹き込んでくる風だろう、囲炉裏のあたりの暗い中に天上から吊るされた干し柿が揺れている。 たった1人暗い中で囲炉裏に座っている八一、その中でどこからともなく来る風で干し柿が揺れる。疎開、きい子の死からくる八一の孤独な姿が浮かび上がってくる。
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応挙の犬の絵に良寛禅師が狗子仏性の賛語を着し給ひしを 学びて戯にみづから描きたる小犬の図に題す いぬころ は うつつ なき こそ たふとけれ ほとけごころ は か にも かく にも (犬ころはうつつ無きこそ尊けれ仏心はかにもかくにも)
歌意 犬ころは人間と違って、犬として自然そのものなので尊いのだ。そこに仏性があるかないかはともかくとして。 “狗子仏性”と言う禅宗の教えとそれに関連した内容の良寛の応挙の絵への讃(賛語)の逸話を想定し、自らの犬の絵に題した。下記、注 自註。(寒燈集212首終わり)
注 狗子仏性・無門関の一相に、「趙州因僧問。狗子還有二仏性一否。州云無。」とあり。良寛かつて西蒲原郡与板町の三輪家に一泊し、床の間にかけられたる円山応挙の狗児の図に興じて、覚えず筆を執り、その上に「趙州問レ有答レ有、問レ無答レ無。君問レ有也不レ答。問レ無也不レ答。不重言。作麼生。也不レ答。」と題したる後、この家の秘蔵のものなるに気づき、主人の立腹せんことを恐れ、夜の明くるを待たずして、ひそかに同家を抜け出で、馳せ帰りたるよし。その幅、今は東京日本橋の小倉常吉氏の手に帰し居るといふ。 (応挙の絵に良寛が書いた内容は、趙州に「犬に仏性があるか」と問うたら、有ると答え、また別では無いと答えた。君がそのことで有るか?と私に聞いても答えない。無いかにも答えない。わからないのかと言われても答えない)
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夜雪(第6首) いね がて に はなてば まど の ともしび の こぼれて しろし まつ の あわゆき (寝ねがてに放てば窓の燈のこぼれて白し松の淡雪)
歌意 なかなか眠れないので窓を開けると灯火が外にこぼれて松に積った淡雪が白く浮かんでくる。 眠れぬ夜、窓外の淡雪が灯りを受けて白く浮かぶ。いつになく感情の高揚した八一の夜の雪を詠んだ6首である。続いて松の雪5首を詠う。
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夜雪(第4首) いね がて に わが する まど の ともしび を みち ゆく ひと の み まく しも よし (寝ねがてに我がする窓の燈を道行く人の見まくしもよし)
歌意 私がなかなか眠れないでいる部屋の窓の灯りを道行く人が見る様な事があってもかまわない。 当時、伊藤文吉の持ち家であった邸内の洋館を借りて、八一は1階を書斎と応接室、2階を寝室としていた。(現在の北方文化博物館新潟分館)
道路に面した2階の寝室で、いろいろな思いで深夜まで眠れぬ日があった。まだ深夜の灯りを慎まなければいけない終戦後だった。
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うみなり(第6首) 昨春四月東京をのがれて越後に來り中条町西条なる丹呉氏に寄りしがことし(昭和二十一年)七月の末よりはじめてわが故郷なる新潟の市内に移り南浜通といふに住めり十一月十五日の夜海鳴の音のはげしきに眠る能はず枕上に反側してこの数首を成せり いね がて に わが よる まど の あかつき を いや さかり ゆく うみなり の おと (寝ねがてに我が寄る窓の暁をいやさかり行く海鳴の音)
歌意 眠れないで私が寄りかかっている窓に夜明けがやってきて、いよいよ遠ざかっていく海鳴りの音。 夜明けとともに海鳴りの音は遠ざかっていく。いろいろな思いに眠れなかった八一の心も穏やかになっていく。
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天皇を迎へて(一)(第3首) いね かる と たなか に たてる をとめら が うちふる そで も みそなはし けむ (稲刈ると田中に立てる乙女らがうち振る袖もみそなはしけむ)
歌意 稲を刈るために田の中に立っている乙女たちが、歓迎のため振っている袖も天皇はご覧になっておられるでしょう。 うち振る袖とご覧になる天皇、新潟の田園へ巡幸された時ののどかな風景として詠出した。古代の風景を想像させる。 第1首〜第3首の歌は一つの石碑に彫られて、新潟の市島邸(新発田市天王1563)にある。
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良寛禅師をおもひて(第3首) いま の よ に いまさば いかに うちなびき なげかむ きみ ぞ やま の かりほ に (今の世にいまさばいかにうちなびき嘆かむ君ぞ山の仮庵に)
歌意 良寛禅師が今の世にいらっしゃったら、お伏せになりながらどのように嘆かれたであろう、山の庵で。 戦前と戦後の価値観の大きな転換の中で世の中は混乱していた。良寛はどう思うだろうと考えながら、八一自身がどのように時代に対処していくか、悩んでいた時である。
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桜桃(第2首)
うらには の あさ の こぬれ に さぐり えし わが たなぞこ の くれなゐ の たま (裏庭の朝の木末に探り得し我がたなぞこの紅の玉)
歌意 朝、裏庭の桜桃の木の梢を探してもぎ取った私の手のひらにある赤い玉よ。 少年のように木に登ってさくらんぼの実を探した。手に入れた赤い実は八一の心にささやかな感動を与えたのである。
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予罹災ののち西条に村居し一夜大いなる囲炉裏のほとりにて よめる歌これなり(第7首) えうえう たる しんしん たり と のち さへ も たまたま ちち の うたひ まし けり (夭夭たる蓁蓁たりと後さへもたまたま父の歌ひましけり)
歌意 “夭夭たる蓁蓁たり”と漢詩を後になっても時々父は歌ったものだ。 この時代に漢詩を歌うことは珍しくは無かったが、思い出の中にある父の朗詠は格別であっただろう。最近ではなかなか見られない風景である。 注 えうえうたるしんしんたり 自註 詩経、周南、桃夭三章のうち最後に「桃之夭夭。其葉蓁蓁。之子于帰。宜二其家人一」とあり。父は老後も好みて国風を愛誦せられたり。 “桃の夭夭(ようよう)たる。其の葉蓁蓁(しんしん)たり。之(こ)の子于(ゆ)き帰(とつ)がば。其の家人に宜(よ)ろしからん”(桃夭夭、葉蓁蓁のようなこの娘が嫁いだら、その家の人と仲良くできるでしょう)ー嫁ぐ娘を祝福する歌ー
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歳暮新潟の朝市に鉢植の梅をもとめて(第4首) おい はてて えだ なき うめ の ふたつ みつ つぼみて はる を またず しも あらず (老い果てて枝無き梅の二つ三つ蕾みて春を待たずしもあらず)
歌意 老木になって枝さえ無い梅だが、それでも二つ三つ蕾を持って、春を待たないというわけではない。 我が身に引き寄せて詠む。戦争で無一物になり、しかも年老いてしまったが、まだまだ先を見つめているというのだ。
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錦衣(第2首)
おしなべて くに は も むなし とり いでて わが ふるぶみ を たれ に なげかむ (おしなべて国はも空し取り出でて我が古書を誰れに嘆かむ)
歌意 国中の物が全て亡くなってしまった。そんな中で、取りたてて私の燃えてしまった大切な古書のことを誰に向かって嘆く事ができよう。 為政者が起した戦争と敗北、とても大切にしてきた書物の消滅を怒りを持って詠う。
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新潟にて「夕刊ニヒガタ」を創刊するとて(第1首)
おしなべて はる こそ きたれ みこしぢ の はて なき のべ に もゆる をぐさ に (おしなべて春こそ来たれみ越路の果てなき野辺に萌える小草に)
歌意 全ての所に春はやってきたのだ。この新潟の果ても無く広い野辺に萌える小草に。 夕刊ニイガタ発刊を喜び祝う歌だが、八一自身の生き生きとした心根が伝わってくる。この夕刊によって作りだされる新しく豊かなものが新潟の全てにゆき渡って欲しいと願う。
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閑庭(第9首) おろかなる あるじ こもりて ふみ よむ と このま の つぐみ ささやく が ごと (愚かなる主こもりて書読むと木の間のつぐみ囁くがごと)
歌意 愚かな主人が家に籠って書物を読んでいると木の間のつぐみが囁いているように聞こえる。 鳥たちの囁きが書物を読む八一を「愚かな」と言っているように聞こえる、と自分を卑下しているようだが、むしろ、“賢者は知恵を隠す”と取りたい。鳥の声を解釈できるのは秋艸堂の生活に慣れ、充実してきたあかしである。
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