会津八一の歌
  会津八一(あいづ・やいち)                             目次へ
 1881〜1956。新潟の生れ。号 秋艸道人(しゅうそうどうじん)。早稲田で学んだのち、坪内逍遥の招きで早稲田中学校教員となる。その後文学部教授に就任、美術史を講じた。
 古都奈良への関心が生み出した歌集『南京新唱(なんきょうしんしょう)』にその後の作歌を加えた『鹿鳴集』がある。奈良の仏像は八一の歌なしには語れない。歌人としては孤高の存在であったが、独自の歌風は高く評価されている。鹿鳴集に続いて『山光集』『寒燈集』を発表している。
 書にも秀で、今では高額で売買される。生涯独身で通したが、慕う弟子達を厳しく導き、多くの人材を育てた。  

   会津八一の生涯・年表  新潟市會津八一記念館  早稲田大学會津八一記念博物館   
                                                   あ行の歌 2 1へ
桜桃(第3首)
     
 あうたう の えだ に こもりて わが ききし 
               さつき の をだ の をとめら が うた

             (桜桃の枝に籠りて我が聞きし五月の小田の乙女らが歌)  

桜桃・あうたう 「おうとう。セイヨウミザクラの別名、また、その実、さくらんぼ」
さつき 「五月、皐月。陰暦5月のこと、現在は6月頃」
をだ 「小田。田のこと、“を”は接頭語」
       
歌意
 桜桃の木に登って枝に籠っているとき、私が聞いた五月の田の乙女たちの田植歌よ。

 桜桃の木の上から聞いた若い娘たちの田植歌、敗戦後の暗い時期を乗り越えた新しい季節と時の到来を告げている。                                                  
桜桃目次

寒燈集・桜桃(第3首) (2014・11・12)
桜桃(第4首)
     
 あうたう の えだ に のぼれば きこえ くる 
               みづた の はて の やまばと の こゑ

             (桜桃の枝に登れば聞こえくる水田の果ての山鳩の声)  

桜桃・あうたう 「おうとう。セイヨウミザクラの別名、また、その実、さくらんぼ」
みづた 「水田」
やまばと 「山鳩。身の回りの世話をし、共に暮らした養女・きい子への挽歌、山鳩・21首あり。第2首第18首参照」
       
歌意
 桜桃の木の枝に登ると聞えてくる、はるかに続く水田の果てから山鳩の声が。

 良く晴れた6月の空のもと、水田の向うから山鳩の声がする。心地よい季節である。病臥するきい子と八一だけの寂しい観音堂で聞いた山鳩の鳴き声とは違う。時間は八一の悲しみも癒していくのである。
桜桃目次

寒燈集・桜桃(第4首) (2014・11・13)
桜桃(第5首)
     
 あうたう の えだ の たかき に のぼり ゐて 
               はるけき とも の おもほゆる かも

             (桜桃の枝の高きに登りゐてはるけき友の思ほゆるかも)  

桜桃・あうたう 「おうとう。セイヨウミザクラの別名、また、その実、さくらんぼ」
       
歌意
 桜桃の高い枝に登っているとはるかに遠い友人たちのことが思われることだ。

 昭和21年はまだ敗戦の混乱のさ中で、友人たちの消息もほとんどわからなかった。木の上の少年の様な八一には遠い昔の友も浮かんでいたかもしれない。                         
桜桃目次

寒燈集・桜桃(第5首) (2014・11・14)
また風竹の図に
     
 あきかぜ の ひ に け に ふけば ひさかたの 
               みそら に なびく ひともと の たけ

             (秋風の日にけに吹けば久方のみ空になびくひともとの竹)  

自画題歌 「昭和20年〜21年の間に菊、竹、その他の画を題にした歌8首」
風竹 「風に吹かれる竹」
ひにけに 「日に異に。日に日に、日がたつにつれて、日ましに」
ひさかたの 「天に関係のある天、空、雨、月、月夜、日、昼、雲、雪、あられなどにかかる枕詞」
       
歌意
 秋風が日ごとに吹くと遥かな空に揺れなびいている一本の竹であることよ。

 秋風に大きく揺れ動く竹を描いた。絵の中の竹がいかにも動いているようだと歌う。
自画題歌目次

寒燈集・自画題歌(第6首) (2014・11・20)
うみなり(第5首)
昨春四月東京をのがれて越後に來り中条町西条なる丹呉氏に寄りしがことし(昭和二十一年)七月の末よりはじめてわが故郷なる新潟の市内に移り南浜通といふに住めり十一月十五日の夜海鳴の音のはげしきに眠る能はず枕上に反側してこの数首を成せり
     
 あきかぜ の ふき の すさみ を ほのぼのと 
               しらみ も ゆく か いね がてぬ よ を


               (秋風の吹きの荒みをほのぼのと白みも行くか寝ねがてぬ夜を)

うみなり 海鳴(り)。海の方から鳴り響いてくる遠雷のような低い響き、うねりが海岸で砕けるときに空気を巻き込んで発する音
反側 寝返りを打つこと」
ふきのすさみ 吹きの荒み。吹き荒れること」

歌意
 秋風が吹き荒れる中をほのぼのと明けて行くのだろうか、眠られない夜が。

 
激しい秋風と海鳴りの中で、いろいろなことが思い浮かび、眠れないままに朝を迎えようとしている。その思いは己の過去であり、またこれから故郷新潟で生きて行く上でのことであろう。
うみなり目次

寒燈集以後・うみなり(第5首) (2014・12・4)
松の雪(第5首)
     
 あさ に け に とり は わたれど ふるさと を 
               ふたたび いでむ われ なら なく に

             朝に日に鳥は渡れど故郷を再び出でむ我ならなくに)  

あさにけに 朝に日に。朝も昼も、いつも
ならなくに 「・・・ではないのに、・・・ではないのだからなあ。“なら”は断定の助動詞“なり”の未然形。“なくに”は打ち消しの助動詞“ず”のク語法“なく”に助詞“に”の付いたもの」
       
歌意
 朝夕いつも鳥は渡ってきて移って行くが、この故郷・新潟を再び出て行く私ではもうないのだ。

 既に“夕刊ニイガタ”の社長になり、早稲田大学からの要請を断って新潟に本拠地を移した八一であるが、東京への断ちがたい想いが内に秘められている。後に(昭和23年5月)早大の名誉教授を受けた。当時、名誉教授は退職した後の勤続功労の称号ではなく真に実力のある教授に送られたという。
松の雪目次

寒燈集以後・松の雪(第5首) (2014・12・01)
榾の火(第1首)
     
 あさひ さす ほた の ほ の へ の つるしがき 
               ほの しろみ かも とし は きぬ らし

             (朝日さす榾の火の上の吊るし柿ほの白みかも年は来ぬらし)  

「炉やかまどで焚くたきぎ、小枝や木切れなど」
ほたのほのへ 「榾の火の上。囲炉裏の榾が燃え上がった上」
つるしがき 吊るし柿。渋柿の皮をむいてつるし、日に干して甘くしたもの、つりがき、ほしがき
       
歌意
 朝日が差し込む囲炉裏の榾の火の上にある吊るし柿がほの白く見える。新年が来るのだなあ。

 年の瀬も丹呉家の囲炉裏に座る孤独な八一、雪を避けて室内に吊るされた柿の色を眺めながら、目的を失い何もすることの無い我が身にも新しい年がやってくると詠う。寂しい年末である。
榾の火目次

寒燈集・榾の火(第1首) (2014・11・7)
予罹災ののち西条に村居し一夜大いなる囲炉裏のほとりにて
よめる歌これなり(第6首)


 あさ ゆきて まなびし ふみ の からうた を 
               ひとり ずし つつ いねし よ も あらむ
 

           (朝行きて学びし書の唐歌を一人誦しつつ寝ねし夜もあらむ)  

囲炉裏 「いろり。“予が歌ひたるこの丹呉家の炉は方四尺に近けれども、わが父の幼かりし頃は、この炉はさらに五割方大きかりしよし村人は云ひ伝へたり。”自註」
ふみ 「書。書物」
からうた 「唐歌。漢詩(反対語は大和歌)」
ずしつつ 「誦しつつ。(詩歌・経文などを)声を出して唱えながら、口ずさみながら」

歌意
 朝、塾へ行って学んだ書物にある漢詩を一人口ずさみながら寝た夜もあったであろう。

 学ぶ者にとって、当時の学問の中心である漢詩(漢文)を習い、声に出して覚えることは普通であり、八一自身もそうしただろう。父の同じ姿を想像しながら親しみをこめて詠う。             
炉辺目次

寒燈集・炉辺(第6首) (2014・11・2)
山歌(第3首)
昨秋天皇陛下この地に巡幸したまひし時県吏まづ来りて予にもとむるに良寛禅師に関する一席の進講を以てす予すなはちこれを快諾したるも期に及びてにはかに事を以てこれを果すことを得ず甚だこれを憾(うら)みとせり今その詠草を筐底(きょうてい)に見出でてここに録して記念とす       

 あしびきの やま の ほふし が ふるうた の 
               ひびき すがし と よみし たまはむ


           (あしびきの山の法師が古歌の響きすがしと嘉したまはむ)  

筐底 「きょうてい。箱の底、箱の中」
あしびきの 「山の枕詞」
やまのほふし 「山の法師。良寛のこと」
よみしたまはむ 「嘉したまはむ。“嘉し”はほめること。おほめになるだろう」

歌意
 山の法師・良寛禅師の古歌の響きはすがすがしいと天皇はおほめになるであろう。

 きっと天皇も良寛の歌を評価されるであろうと詠む。八一の真情であり、願いである。
 山歌目次

寒燈集以後・山歌(第3首) (2014・12・8)
榾の火(第2首)
     
 あなごもる けもの の ごとく ながき よ を 
               ほた の ほかげ に せぐくまり をり

             (穴ごもる獣の如く長き夜を榾の火影にせぐくまりをり)  

「炉やかまどで焚くたきぎ、小枝や木切れなど」
あなごもるけもの 「穴籠る獣。冬眠で穴に籠っている獣」
ほかげ 火影。火の光、灯火によってできる影。ここでは光をさす」
せぐくまり 「跼まり。背をまるめてかがむ、しゃがむ」
       
歌意
 穴に入って冬眠する獣のようにこの長い夜を榾の火かげで背を丸めてかがんでいる。

 きい子の死、敗戦、老いの中で八一は目指すべき道を喪失していた。“ひとのよ に ひと なき ごとく たかぶれる”と山鳩(第9首)で詠んだ八一の姿はみじんも無い。                
榾の火目次

寒燈集・榾の火(第2首) (2014・11・7)
うみなり(第3首)
昨春四月東京をのがれて越後に來り中条町西条なる丹呉氏に寄りしがことし(昭和二十一年)七月の末よりはじめてわが故郷なる新潟の市内に移り南浜通といふに住めり十一月十五日の夜海鳴の音のはげしきに眠る能はず枕上に反側してこの数首を成せり
     
 あらうみ に たゆたふ さど の しまやま の 
               かげ さへ くらく ゆめ に みえ くる


               (荒海にたゆたふ佐渡の島山の影さへ暗く夢に見えくる)

うみなり 海鳴(り)。海の方から鳴り響いてくる遠雷のような低い響き、うねりが海岸で砕けるときに空気を巻き込んで発する音
反側 寝返りを打つこと」
たゆたふ 揺蕩ふ、猶予ふ。定まる所なく揺れ動く、ゆらゆらと揺れ動く」
かげ 「影。姿、形」

歌意
 荒海の中にゆらゆらと揺れ動く佐渡の島山の姿が暗く夢の中に見えてくる。

 浅い眠りの中で、荒海の向こうの佐渡島が揺れ動いている暗く重い姿が夢に見えると詠む。眠れない夜の脳裏に浮かぶ佐渡の姿なのか夢なのか
、混然として読むものに迫ってくる。
うみなり目次

寒燈集以後・うみなり(第3首) (2014・12・3)
良寛禅師をおもひて(第4首)
     
 あり わびて わが よむ うた を うつしみ に 
               ききて ほほゑむ きみ なら まし を

             あり侘びて我が詠む歌をうつしみに聞きてほほゑむ君ならましを)  

良寛禅師 1758〜1831年。江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家。号は大愚。越後出雲崎生。二十数年間諸国を行脚し、後に新潟県燕市の国上山の五合庵に隠棲した
ありわびて 在り侘びて。生きているのがつらくなる、住みにくく思う」
うつしみ 現身。この世に生きている身
きみならましを 「きみであったらよいのに。“まし”は、もし・・・であったら」
       
歌意
 この世を住みにくいと思いながら私が詠む歌を、あなたが今の世にいて聞いてほほえんでくださるとよいのに。

 私の詠む歌を敬慕する良寛が今の世にいてほほえみながら認めてくれたらと思う。八一にはそれだけの自信もあったであろう。                                 
良寛禅師をおもひて目次

寒燈集以後・良寛禅師をおもひて(第4首) (2014・12・2)
予罹災ののち西条に村居し一夜大いなる囲炉裏のほとりにて
よめる歌これなり(第4首)


 あるとき は くりや の のき に をの ふりて 
               まき わらし けむ ふぶき する ひ を
 

           (ある時は厨の軒に斧振りて薪割らしけむ吹雪する日を)  

囲炉裏 「いろり。“予が歌ひたるこの丹呉家の炉は方四尺に近けれども、わが父の幼かりし頃は、この炉はさらに五割方大きかりしよし村人は云ひ伝へたり。”自註」
くりや 「厨。飲食物を調理する所、台所、廚房」
をの 「斧。木を切ったり割ったりする道具」
まき 「薪。燃料にするため適当な長さに切ったり割ったりした木、たきぎ、わりき」

歌意
 ある時は台所の軒の下で斧を振って薪を割ったであろう、吹雪の日に。

 孤児になり丹呉家で養われていた若い頃の父の苦労を偲ぶ。病臥していたきい子と2人暮らした観音堂では日常のことを八一が行った。父の昔と重なってくるのだ。
炉辺目次

寒燈集・炉辺(第4首) (2014・11・1)
歳暮新潟の朝市に鉢植の梅をもとめて(第5首)
     
 いくとせ を こころ の ままに ゆがみ きて 
               はち に おい けむ あはれ この うめ 

             (幾年を心のままに歪み来て鉢に老いけむあはれこの梅)  

ゆがみきて 「歪み来て。曲がったり歪んだりして来て」
あはれ 「感動詞。ああ、しみじみとわき上がってくる気持ちを表す」
       
歌意
 何年もの間、自分の思うままに曲がったり歪んだりして鉢の中で老いてしまった、ああこの梅よ。

 梅を擬人化して詠むが、その姿は八一そのものの姿と言ってよい。70歳の時「痴頑古稀」の刻印を作っている。それは愚かで頑固な生涯を貫いた事への自負であるが、同時に軽い自嘲の意味もある。
盆梅目次

寒燈集以後・盆梅(第5首) (2014・11・27)
新村博士奈良新薬師寺にやどりて歌よみて寄せられしに
答へて(第2首)
     
 いしぶみ の うた くちずさみ たち いづる 
               きみ が たもと の しらはぎ の はな

             (碑の歌口ずさみ立ち出づる君が袂の白萩の花)  

新村博士 「新村出(しんむらいずる)1876〜1967)。言語学者、京大教授、広辞苑著書」
新薬師寺 「新薬師寺は、奈良市高畑町にある華厳宗の寺院。本尊は薬師如来、開基(創立者)は光明皇后または聖武天皇と伝える。八一は28歳の時、この寺を訪れ、奈良での最初の歌碑になった“ちかづきて”の歌を詠む」
いしぶみ 「碑。石文(いしぶみ)の意、ある事を記念し後世に伝えるためそのことを記しておく石、石碑。この碑に上記“ちかづきて”の八一の歌がある」
       
歌意
 私の歌碑の歌を口ずさみながら、新薬師寺の門を出るあなたの服の袂にふれるように白萩の花が咲いているだろう。

 新薬師寺の萩と楽しそうに歌を口ずさむ新村出の姿が浮かんでくる。歌を送ってくれた彼への親しみを込めた歌である。なお、八一にはこのあたりで詠んだ有名な秋萩の歌がある。
あさつゆ目次

寒燈集以後・あさつゆ(第2首) (2014・11・24)
榾の火(第5首)
     
 いづく に か したたる みづ の きこえ きて 
               ゐろり は さびし ゆきて はや ねむ

             (いづくにか滴る水の聞えきて囲炉裏は寂し行きてはやねむ)  

「炉やかまどで焚くたきぎ、小枝や木切れなど」
ゐろり 「囲炉裏。“予が歌ひたるこの丹呉家の炉は方四尺に近けれども、わが父の幼かりし頃は、この炉はさらに五割方大きかりしよし村人は云ひ伝へたり。”炉辺第1首の自註より」
       
歌意
 どこからか水の滴る音が聞こえてきて、一人座っている囲炉裏は寂しい、行って早く寝よう。

 冬の深夜、一人うずくまる炉辺ほど寂しいものはない。どこからともなく水の滴る音は寂しさを倍増する。「ゆきてはやねむ」、これ以上の孤独感はない。印象に残る歌である。
榾の火目次

寒燈集・榾の火(第5首) (2014・11・8)
丹呉氏の炉辺にて(第1首)
     
 いづく ゆ も ふき いる かぜ ぞ ゐろりべ の 
               くらき に ゆるる ほしがき の かず

             (いづくゆも吹き出る風ぞ囲炉裏辺の暗きに揺るる干し柿の数)  

幽暗 「奥深く暗いこと、さま。昭和20年12月に詠んだ4首」
丹呉氏 「八一が東京で罹災し疎開した郷里・新潟の素封家。父方の遠縁の親戚、当主は丹呉康平で町長を務めていた」
いづくゆ 「どこから。“ゆ”は・・・から。動作・作用の時間的・空間的起点を示す」
ほしがき 「干し柿。新潟では雪に降る季節になると干し柿を屋内に吊るして作った」
       
歌意
 どこから吹き込んでくる風だろう、囲炉裏のあたりの暗い中に天上から吊るされた干し柿が揺れている。

 たった1人暗い中で囲炉裏に座っている八一、その中でどこからともなく来る風で干し柿が揺れる。疎開、きい子の死からくる八一の孤独な姿が浮かび上がってくる。 
幽暗目次

寒燈集以後・幽暗(第1首) (2014・11・21)
応挙の犬の絵に良寛禅師が狗子仏性の賛語を着し給ひしを
学びて戯にみづから描きたる小犬の図に題す
     
 いぬころ は うつつ なき こそ たふとけれ 
               ほとけごころ は か にも かく にも

             (犬ころはうつつ無きこそ尊けれ仏心はかにもかくにも)  

自画題歌 「昭和20年〜21年の間に菊、竹、その他の画を題にした歌8首」
応挙 「円山応挙(1733〜95年)。江戸時代中期〜後期の絵師。円山派の祖であり、写生を重視した親しみやすい画風が特色、西洋画の遠近法を研究して一家を成した。動植物の写生を最も能くする」
良寛禅師 「1758〜1831年。江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家。号は大愚。越後出雲崎生。二十数年間諸国を行脚し、後に新潟県燕市の国上山の五合庵に隠棲した」
狗子仏性 「くしぶっしょう。禅宗の公案の一。狗子(犬)に仏性があるかないかという論議を契機として、有無に対する固定した見方を打破する論。(下記自註参照)」
うつつなき 「正気でない」
かにもかくにも 「とにもかくにも、どうであれ」
       
歌意
 犬ころは人間と違って、犬として自然そのものなので尊いのだ。そこに仏性があるかないかはともかくとして。

 “狗子仏性”と言う禅宗の教えとそれに関連した内容の良寛の応挙の絵への讃(賛語)の逸話を想定し、自らの犬の絵に題した。下記、 自註。(寒燈集212首終わり) 


 狗子仏性・無門関の一相に、「趙州因僧問。狗子還有仏性否。州云無。」とあり。良寛かつて西蒲原郡与板町の三輪家に一泊し、床の間にかけられたる円山応挙の狗児の図に興じて、覚えず筆を執り、その上に「趙州問有答有、問無答無。君問有也不答。問無也不答。不重言。作麼生。也不答。」と題したる後、この家の秘蔵のものなるに気づき、主人の立腹せんことを恐れ、夜の明くるを待たずして、ひそかに同家を抜け出で、馳せ帰りたるよし。その幅、今は東京日本橋の小倉常吉氏の手に帰し居るといふ。
応挙の絵に良寛が書いた内容は、趙州に「犬に仏性があるか」と問うたら、有ると答え、また別では無いと答えた。君がそのことで有るか?と私に聞いても答えない。無いかにも答えない。わからないのかと言われても答えない)
自画題歌目次

寒燈集・自画題歌(第8首) (2014・11・20)
夜雪(第6首)
     
 いね がて に はなてば まど の ともしび の 
               こぼれて しろし まつ の あわゆき

             寝ねがてに放てば窓の燈のこぼれて白し松の淡雪  

いねがてに 寝ねがてに。寝ることができないで、“がてに”は困難でと言う意味
はなてば 窓を開け放つと
あわゆき 「淡雪。うっすらと積もった、やわらかで消えやすい雪」
       
歌意
 なかなか眠れないので窓を開けると灯火が外にこぼれて松に積った淡雪が白く浮かんでくる。

 眠れぬ夜、窓外の淡雪が灯りを受けて白く浮かぶ。いつになく感情の高揚した八一の夜の雪を詠んだ6首である。続いて松の雪5首を詠う。                         
夜雪目次

寒燈集以後・夜雪(第6首) (2014・11・29)
夜雪(第4首)
     
 いね がて に わが する まど の ともしび を 
               みち ゆく ひと の み まく しも よし

             (寝ねがてに我がする窓の燈を道行く人の見まくしもよし)  

いねがてに 「寝ねがてに。寝ることができないで、“がてに”は困難でと言う意味」
みまく 「見まく。見るだろうこと、見ること」
しも 「強調」
       
歌意
 私がなかなか眠れないでいる部屋の窓の灯りを道行く人が見る様な事があってもかまわない。

 当時、伊藤文吉の持ち家であった邸内の洋館を借りて、八一は1階を書斎と応接室、2階を寝室としていた。(現在の北方文化博物館新潟分館)
 道路に面した2階の寝室で、いろいろな思いで深夜まで眠れぬ日があった。まだ深夜の灯りを慎まなければいけない終戦後だった。                                         
夜雪目次

寒燈集以後・夜雪(第4首) (2014・11・29)
うみなり(第6首)
昨春四月東京をのがれて越後に來り中条町西条なる丹呉氏に寄りしがことし(昭和二十一年)七月の末よりはじめてわが故郷なる新潟の市内に移り南浜通といふに住めり十一月十五日の夜海鳴の音のはげしきに眠る能はず枕上に反側してこの数首を成せり
     
 いね がて に わが よる まど の あかつき を 
               いや さかり ゆく うみなり の おと


               (寝ねがてに我が寄る窓の暁をいやさかり行く海鳴の音)

うみなり 海鳴(り)。海の方から鳴り響いてくる遠雷のような低い響き、うねりが海岸で砕けるときに空気を巻き込んで発する音
反側 寝返りを打つこと」
いや 「弥。いよいよ、ますます。程度がはなはだしいさまを表す副詞“や”に接頭語“い”の付いたもの」
さかり 離り。ある地点からはなれる」

歌意
 眠れないで私が寄りかかっている窓に夜明けがやってきて、いよいよ遠ざかっていく海鳴りの音。

 
夜明けとともに海鳴りの音は遠ざかっていく。いろいろな思いに眠れなかった八一の心も穏やかになっていく。                                                    
うみなり目次

 寒燈集以後・うみなり(第6首) (2014・12・4)
天皇を迎へて(一)(第3首)

 いね かる と たなか に たてる をとめら が 
               うちふる そで も みそなはし けむ


               (稲刈ると田中に立てる乙女らがうち振る袖もみそなはしけむ)

みそなはし 見るの尊敬語。ご覧なっておられる

歌意
 稲を刈るために田の中に立っている乙女たちが、歓迎のため振っている袖も天皇はご覧になっておられるでしょう。

 
うち振る袖とご覧になる天皇、新潟の田園へ巡幸された時ののどかな風景として詠出した。古代の風景を想像させる。
 第1首〜第3首
の歌は一つの石碑に彫られて、新潟の市島邸(新発田市天王1563)にある。 
天皇を迎へて(一)目次

寒燈集以後・天皇を迎へて(一)(第3首) (2014・12・5)
良寛禅師をおもひて(第3首)
     
 いま の よ に いまさば いかに うちなびき 
               なげかむ きみ ぞ やま の かりほ に

             今の世にいまさばいかにうちなびき嘆かむ君ぞ山の仮庵に)  

良寛禅師 1758〜1831年。江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家。号は大愚。越後出雲崎生。二十数年間諸国を行脚し、後に新潟県燕市の国上山の五合庵に隠棲した
うちなびき 打ち靡き。横になって、“うち”は接頭語」
かりほ 仮庵。仮に作ったいおり、粗末ないおり
       
歌意
 良寛禅師が今の世にいらっしゃったら、お伏せになりながらどのように嘆かれたであろう、山の庵で。

 戦前と戦後の価値観の大きな転換の中で世の中は混乱していた。良寛はどう思うだろうと考えながら、八一自身がどのように時代に対処していくか、悩んでいた時である
良寛禅師をおもひて目次

寒燈集以後・良寛禅師をおもひて(第3首) (2014・12・2)
桜桃(第2首)
     
 うらには の あさ の こぬれ に さぐり えし 
               わが たなぞこ の くれなゐ の たま

             (裏庭の朝の木末に探り得し我がたなぞこの紅の玉)  

桜桃・あうたう 「おうとう。セイヨウミザクラの別名、また、その実、さくらんぼ」
こぬれ 「木末。“木(こ)の末(うれ)から転じて”梢(こずえ)」
たなぞこ 「手底、掌。てのひら、たなごころ」
       
歌意
 朝、裏庭の桜桃の木の梢を探してもぎ取った私の手のひらにある赤い玉よ。

 少年のように木に登ってさくらんぼの実を探した。手に入れた赤い実は八一の心にささやかな感動を与えたのである。                                                 
桜桃目次

寒燈集・桜桃(第2首) (2014・11・11)
予罹災ののち西条に村居し一夜大いなる囲炉裏のほとりにて
よめる歌これなり(第7首)


 えうえう たる しんしん たり と のち さへ も 
               たまたま ちち の うたひ まし けり
 

           (夭夭たる蓁蓁たりと後さへもたまたま父の歌ひましけり)  

囲炉裏 「いろり。“予が歌ひたるこの丹呉家の炉は方四尺に近けれども、わが父の幼かりし頃は、この炉はさらに五割方大きかりしよし村人は云ひ伝へたり。”自註」
えうえうたる 「夭夭たる。樹木の若々しさを言う。参照」
しんしんたり 「蓁蓁たり。草木の盛んに茂るさま。参照」

歌意
 “夭夭たる蓁蓁たり”と漢詩を後になっても時々父は歌ったものだ。

 この時代に漢詩を歌うことは珍しくは無かったが、思い出の中にある父の朗詠は格別であっただろう。最近ではなかなか見られない風景である。 

 えうえうたるしんしんたり  自註
 詩経、周南、桃夭三章のうち最後に「桃之夭。其葉蓁蓁。之子于帰。宜其家人」とあり。父は老後も好みて国風を愛誦せられたり。
 “桃の夭夭(ようよう)たる。其の葉蓁蓁(しんしん)たり。之(こ)の子于(ゆ)き帰(とつ)がば。其の家人に宜(よ)ろしからん”(桃夭夭、葉蓁蓁のようなこの娘が嫁いだら、その家の人と仲良くできるでしょう)ー嫁ぐ娘を祝福する歌ー
炉辺目次

寒燈集・炉辺(第7首) (2014・11・4)
歳暮新潟の朝市に鉢植の梅をもとめて(第4首)
     
 おい はてて えだ なき うめ の ふたつ みつ 
               つぼみて はる を またず しも あらず 

             (老い果てて枝無き梅の二つ三つ蕾みて春を待たずしもあらず)  

つぼみて 「蕾みて。蕾をつけて」
またずしもあらず 「待たないというわけではない」
       
歌意
 老木になって枝さえ無い梅だが、それでも二つ三つ蕾を持って、春を待たないというわけではない。

 我が身に引き寄せて詠む。戦争で無一物になり、しかも年老いてしまったが、まだまだ先を見つめているというのだ。                                                   
盆梅目次

寒燈集以後・盆梅(第4首) (2014・11・26)
錦衣(第2首)
     
 おしなべて くに は も むなし とり いでて 
               わが ふるぶみ を たれ に なげかむ

             (おしなべて国はも空し取り出でて我が古書を誰れに嘆かむ)  

錦衣 「きんい。にしきの衣服、美しい着物。“錦衣故郷に帰る”他郷で立身出世して故郷に帰る、故郷へ錦を飾る」
おしなべて 「全体にわたって、すべて一様に」
くにはもむなし 「国中のものが亡び無くなった。“「も」は意を強めていふ助辞。国中の物すべて亡びざるはなしといふことを強く云い放ちたるなり。”自註」
ふるぶみ 「古書」
       
歌意
 国中の物が全て亡くなってしまった。そんな中で、取りたてて私の燃えてしまった大切な古書のことを誰に向かって嘆く事ができよう。

 為政者が起した戦争と敗北、とても大切にしてきた書物の消滅を怒りを持って詠う。     
錦衣目次

寒燈集・錦衣(第2首) (2014・11・16)
新潟にて「夕刊ニヒガタ」を創刊するとて(第1首)
     
 おしなべて はる こそ きたれ みこしぢ の 
               はて なき のべ に もゆる をぐさ に

             (おしなべて春こそ来たれみ越路の果てなき野辺に萌える小草に)  

夕刊ニヒガタ 「坂口献吉・新潟日報社長(1895−1966)は、1946年に夕刊ニイガタを新設し、八一に社長就任を懇請した」
おしなべて 「一様に、すべて、みな同じく」
みこしぢ 「み越路。越路は北陸道の古称、越の国(福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部)へ行く道。ここでは新潟をいう」
をぐさ 「小草」
       
歌意
 全ての所に春はやってきたのだ。この新潟の果ても無く広い野辺に萌える小草に。

 夕刊ニイガタ発刊を喜び祝う歌だが、八一自身の生き生きとした心根が伝わってくる。この夕刊によって作りだされる新しく豊かなものが新潟の全てにゆき渡って欲しいと願う。              
をぐさ目次

寒燈集以後・をぐさ(第1首) (2014・11・22)
閑庭(第9首)

 おろかなる あるじ こもりて ふみ よむ と 
               このま の つぐみ ささやく が ごと

           (愚かなる主こもりて書読むと木の間のつぐみ囁くがごと)  

閑庭 「かんてい。もの静かな庭。ここでは下落合秋艸堂のことを言う。“この林荘のことは、かつて『鹿鳴集』の例言の中に述ぶるところありたり。併せ見るべし。後にこの邸を出でて、同じ下落合にてほど近き目白文化村といふに移り住みしなり。”自註」
ふみ 「書。文字で書きしるしたもの、文書、書物」
つぐみ 「鶫。 ヒタキ科ツグミ属、全長約24センチくらい。シベリアで繁殖、秋に大群で日本に渡来し越冬。以前はかすみ網で捕殺し食用とされた」

歌意
 愚かな主人が家に籠って書物を読んでいると木の間のつぐみが囁いているように聞こえる。

 鳥たちの囁きが書物を読む八一を「愚かな」と言っているように聞こえる、と自分を卑下しているようだが、むしろ、“賢者は知恵を隠す”と取りたい。鳥の声を解釈できるのは秋艸堂の生活に慣れ、充実してきたあかしである。                                                
閑庭目次

寒燈集・閑庭(第9首) (2014・9・14)
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