会津八一に関するブログ 7
2013年1~4月

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南京続唱(会津八一)第12首 2013・1月2日(水)

 春日野にて(第2首)    解説

  をとめら が ものがたり ゆく の の はて に   
          みる に よろしき てら の しらかべ    

  (乙女らが物語りゆく野の果てに見るによろしき寺の白壁)



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南京続唱 2013・1・5(土)

 昭和3~5年(会津八一48~50歳)に作られた南京続唱14首の会津八一ページでの解説を先月終わった。
 故植田重雄教授は南京続唱についてこう記している。
 「昭和三年秋十月に、美術史研究のために奈良の諸寺を訪れ、十三首ほど生まれた。今までとはちがい学問考証に没頭し、歌は余滴のように詠まれている。・・・・以前の抒情的、パセティックな作品とちがい、一首一首が歌域(かいき)をひろめ、言葉が緊密な構造力をもっている。
  (注 パセティック 哀れをさそうさま。また、感動的なさま)


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南京続唱(会津八一)第13首 2013・1・5(土)

 春日野にて(第3首)  解説

  うつくしき ひと こもれり と むさしの の    
         おくか も しらず あらし ふく らし
      
  (美しき人こもれりと武蔵野の奥かも知らず嵐吹くらし)

南京続唱(会津八一)第14首 完 

 述懐   解説

  ふるてら の みだう の やみ に こもり ゐて   
         もだせる こころ ひと な とひ そ ね 
   
  (古寺のみ堂の闇に籠りゐて黙せる心人な問いそね)



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赤べこ 2013・1・8(火)

 福島県会津地方の郷土玩具。807年、柳津町の徳一大師が円蔵寺の虚空蔵堂を建立する際、牛の群れが現れて手伝い、最後まで働いたのが赤色の牛だったという伝説がある。そのことから、赤べこが作られた。赤は魔避けを表す。
 会津八一は30歳の時、坪内逍遥の招きで早稲田中学の英語教員になる。その頃、新渡戸稲造を中心にした郷土史研究会の一員になり、郷土玩具の収集に熱中し、600点余集めた。その中に「会津の赤べこ」があったがどうかは定かではない。
 星野富弘さんの1,2月を飾る詩と絵は「赤べこ」


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観仏三昧(会津八一)第1首 2013・1・10(木)

 新たに鹿鳴集の中の観仏三昧・28首を紹介する。昭和14年10月の作である。早大文学部芸術科の学生を連れた奈良見学旅行の時の作で、冒頭に八一はこう記す。「観仏三昧 仏像の研究と鑑賞に専念すといふこと

 十五日二三子を伴ひて観仏の旅に東京を出(い)づ  解説

  やまと には かの いかるが の おほてら に    
           みほとけ たち の まちて いまさむ      

  (大和にはかの斑鳩の大寺にみ仏たちの待ちていまさむ)



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観仏三昧(会津八一)第2首 2013・1・12(土)

 十七日東大寺にて(第1首)   解説

  おほてら の ひる の おまえ に あぶら つきて    
             ひかり かそけき ともしび の かず
      
   (大寺の昼のお前に油尽きて光かそけき灯火の数)



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観仏三昧(会津八一)第3首 2013・1・14(月)

 十七日東大寺にて(第2首)  解説

  おほてら の ひる の ともしび たえず とも     
         いかなる ひと か とは に あらめ や 
   
 (大寺の昼の灯火絶えずともいかなる人か永久にあらめや)

 人間の命の有限を詠う。限りある命ならどう生きるかが問われる。八一の生涯を想う。



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「大和路」(堀辰雄)と会津八一12 2013・1・18(金)

 「十月二十六日、斑鳩の里にて」は続く。
 「僕は漸(ようや)く心がしずかになってから夢殿のなかへはいり、秘仏を拝し、そこを出ると、再び板がこいの傍をとおって、いかにも虔(つつ)ましげに、中宮寺の観音を拝しにいった。・・・・
 それから約三十分後には、僕は何か赫(かがや)かしい目つきをしながら、村を北のほうに抜け出し、平群(へぐり)の山のふもと、法輪寺(ほうりんじ)や法起寺(ほっきじ)のある森のほうへぶらぶらと歩き出していた。


 関連する八一の歌を引用する。

   みほとけ の あご と ひぢ とに あまでら の 
             あさ の ひかり の ともしきろ かも   
解説
   くわんおん の しろき ひたひ に やうらく の
             かげ うごかして かぜ わたる みゆ   
解説
   みとらし の はちす に のこる あせいろ の 
             みどり な ふき そ こがらし の かぜ  
解説


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「大和路」(堀辰雄)と会津八一13 2013・1・20(日)

 「古墳」の中で柿本人麻呂の挽歌を扱う。會津八一との関連はないが、愛する人がまだ山中に生きてさ迷っていると詠う人麻呂の歌が好きだ。
 「――自分のひそかに通っていた軽(かる)の村の愛人が急に死んだ後、或る日いたたまれないように、その軽の村に来てひとりで懊悩(おうのう)する、そのおりの挽歌でありますが、その長歌が「……軽(かる)の市にわが立ち聞けば、たまだすき畝傍(うねび)の山に鳴く鳥の声も聞えず。たまぼこの道行く人も、ひとりだに似るが行かねば、すべをなみ、妹(いも)が名呼びて袖ぞ振りつる」と終わると、それがこういう二首の反歌でおさめられてあります。

 秋山(あきやま)の黄葉(もみぢ)を茂しげみ迷まどはせる妹(いも)を求めむ山路(やまぢ)知らずも
 もみぢ葉ばの散りゆくなべにたまづさの使(つかひ)を見れば逢(あひ)し日思おもほゆ

 丁度、晩秋であったのでありましょう。彼がそうやって懊悩しながら、軽の村をさまよっていますと、おりから黄葉がしきりと散っております。ふと見上げてみると、山という山がすっかり美しく黄葉している。それらの山のなかに彼の愛人も葬られているのにちがいないが、それはどこいらであろうか。そんな山の奥ぶかくに、彼女がまだ生前とすこしも変らない姿で、なんだか道に迷ったような様子をしてさまよいつづけているような気もしてならない。だが、それが山のどこいらであるのか全然わからないのだ。


 私事だが、今日の早朝義姉のお母さんが94歳で亡くなられた。とてもお母さんを大事にした義姉にこの人麻呂の歌を捧げたい。



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観仏三昧(会津八一)第4首 2013・1・21(月)

 三月堂にて      解説

  びしやもん の おもき かかと に まろび ふす
       おに の もだえ も ちとせ へ に けむ 

    (毘沙門の重き踵にまろびふす鬼のもだえも千年経にけむ)

            


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観仏三昧(会津八一)第5首 2013・1・25(金)

 十九日室生寺に至らむとて桜井の聖林寺に十一面観音の端厳を拝す 旧知の老僧老いてなほあり   解説

  さく はな の とわ に にほへる みほとけ を    
         まもりて ひと の おい に けらし も
      
  (咲く花の永遠ににほへるみ仏を守りて人の老いにけらしも)

 聖林寺の十一面観音は素晴らしい。古寺巡礼(和辻哲郎)の「七 疲労――奈良博物館――聖林寺十一面観音」は必読! 



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観仏三昧(会津八一)第6首 2013・1・28(月)

 浄瑠璃寺(第1首)

 二十日奈良より歩して山城国浄瑠璃寺にいたる。寺僧はあたかも奈良に買ひものに行きしとて在らず 赤きジャケツを着たる少女一人留守をまもりてたまたま来るハイキングの人々に裏庭の柿をもぎて売り我等がためには九体阿弥陀堂の扉を開けり 予ひとり堂後の縁をめぐれば一基の廃機ありこれを見て詠じて懐を抒(の)ぶ。   解説

  やまでら の みだう の ゆか に かげろひて 
        ふりたる はた よ おる ひと なし に
   
 (山寺のみ堂の床にかげろひて古りたる機よ織る人なしに)



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観仏三昧(会津八一)第7首 2013・1・30(水)

 浄瑠璃寺(第2首)    解説

  あしびき の やま の みてら の いとなみ に 
         おり けむ はた と みる が かなしさ    

  (あしびきの山のみ寺の営みに織りけむ機と見るが悲しさ)



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観仏三昧(会津八一)第8首 2013・1・31(木)

 浄瑠璃寺(第3首)    解説

  やまでら の ほふし が むすめ ひとり ゐて 
        かき うる には も いろづき に けり    

   (山寺の法師が娘一人ゐて柿売る庭も色づきにけり)
 
 紅葉し始めた浄瑠璃寺、赤い柿を売る少女、眼を閉じて情景を思い浮かべてみる。



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観仏三昧(会津八一)第9首 2013・2・1(金)

 浄瑠璃寺(第4首)   解説

  みどう なる 九ぼん の ひざ に ひとつ づつ 
          かき たてまつれ はは の みため に
     
     (み堂なる九品の膝に一つづつ柿奉れ母のみために)

 浄瑠璃寺の横一列に並ぶ九体の阿弥陀仏に柿をお供えしなさい。亡き母のために。


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観仏三昧(会津八一)第10首 2013・2・2(土)  

 この日奈良坂を過ぎ佐保山の蔚々(うつうつ)たるを望む 聖武天皇の南陵あり 傍(かたわら)に光明皇后を葬りて東陵といふ  解説 

   さほやま の こ の した がくり よごもり に
            もの うちかたれ わがせ わぎもこ    

  (佐保山の木の下がくり夜ごもりにものうち語れ我背吾妹子)

 御陵を拝しながら、憧憬する古代への想いをおおらかに詠っており、天皇と皇后に対する暖かい心根がしみじみと伝わってくる。過日、この二つの御陵を親切なタクシーに案内してもらって訪れたことがある。その時、池に咲いていた“こうほね”の花が印象に残っている。   



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赤膚焼 2013・2・4(月)

 赤膚焼は桃山時代に大和郡山城主が五条村赤膚山に開窯した。赤みを帯びた器に乳白色の萩釉を掛け、奈良絵と呼ばれる絵付けを施した物がよく知られる。

観仏三昧(会津八一)第11首 

二十二日唐招提寺薬師寺を巡りて赤膚山(あかはだやま)正柏が窯(かま) に立ちよりて息(いこ)ふ       解説

  あかはだ の かま の すやき に もの かく と
          いむかふ まど に ちかき たふ かな    

   (赤膚の窯の素焼きに物書くとい向かふ窓に近き塔かな)


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観仏三昧(会津八一)第12首 2013・2・6(水)

二十二日唐招提寺薬師寺を巡りて赤膚山(あかはだやま)正柏が窯(かま) に立ちよりて息(いこ)ふ(第2首)    解説

  もの かきて すやき の さら を ならべたる
        ゆか の いたま に とぶ いなご かな   

    (物書きて素焼きの皿を並べたる床の板間に飛ぶ蝗かな)



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「大和路」(堀辰雄)と会津八一14(完) 2013・2・9(土)

 「浄瑠璃寺の春」で馬酔木の花を印象深く語り、寺の娘を描写する。
 『阿弥陀堂へ僕たちを案内してくれたのは、寺僧ではなく、その娘らしい、十六七の、ジャケット姿の少女だった。・・・・妻はその寺の娘とともに堂のそとに出て、陽あたりのいい縁さきで、裏庭の方かなんぞを眺めながら、こんな会話をしあっている。
「ずいぶん大きな柿の木ね。」妻の声がする。
「ほんまにええ柿の木やろ。」少女の返事はいかにも得意そうだ。
「何本あるのかしら? 一本、二本、三本……」
「みんなで七本だす。七本だすが、沢山に成りまっせ。九体寺の柿やいうてな、それを目あてに、人はんが大ぜいハイキングに来やはります。あてが一人で捥(も)いで上げるのだすがなあ、そのときのせわしい事やったらおまへんなあ。


 この娘は八一も鹿鳴集・観仏三昧の浄瑠璃寺4首に出てくる娘である。

 浄瑠璃寺(第1首)
 二十日奈良より歩して山城国浄瑠璃寺にいたる。寺僧はあたかも奈良に買ひものに行きしとて在らず 赤きジャケツを着たる少女一人留守をまもりてたまたま来るハイキングの人々に裏庭の柿をもぎて売り我等がためには九体阿弥陀堂の扉を開けり 予ひとり堂後の縁をめぐれば一基の廃機ありこれを見て詠じて懐を抒(の)ぶ。

 第3首と4首を下記に

  やまでら の ほふし が むすめ ひとり ゐて 
        かき うる には も いろづき に けり  
解説

  みどう なる 九ぼん の ひざ に ひとつ づつ 
        かき たてまつれ はは の みため に
  解説

 以上で「大和路と会津八一」を終わる。奈良をめぐって文人たちが影響し合い、また交流したことを思いながら。



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観仏三昧(会津八一)第13~14首 2013・2・13(水)

二十二日唐招提寺薬師寺を巡りて赤膚山(あかはだやま)正柏が窯(かま) に立ちよりて息(いこ)ふ  

 (第3首)
   もの かきし すやき の をざら くれなゐ の 
         かま の ほむら に たきて はやみむ   
解説
    (物書きし素焼きの小皿くれなゐの窯の炎に焚きてはや見む)

 (第4首)
   さきだちて さら や くだけむ もの かきし 
         われ や くだけむ よ の なか の みち 
解説
    (先立ちて皿や砕けむ物書きし我や砕けむ世の中の道)
 

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観仏三昧(会津八一)第15首 2013・2・17(日)

二十四日奈良を出て宇治平等院黄檗山万福寺を礼す(第1首)  解説

 わうばく に のぼり いたれば まづ うれし 
      もくあん の れん いんげん の がく      

    (黄檗に登り至ればまづうれし木庵の聯隠元の額)

 この歌に詠まれる黄檗山萬福寺の中国僧・隠元隆琦(いんげんりゅうき)がいんげん豆(隠元豆)の名前のもとになっている。明から日本に帰化した隠元禅師が、はじめて日本にこの豆を持ち込んだことに由来して”隠元豆”と呼ばれるようになったと言われる。


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観仏三昧(会津八一)第16首 2013・2・20(水)

二十四日奈良を出て宇治平等院黄檗山万福寺を礼す(第2首) 解説

  みそら より みなぎる たき の しらたま の 
       とどめ も あへぬ ふで の あと かな     

   (み空よりみなぎる滝の白玉のとどめもあへぬ筆の跡かな)

 書についてほとんど人をほめなかった八一には珍しく評価している。


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観仏三昧(会津八一)第17首 2013・2・26(火)

 二十四日奈良を出て宇治平等院黄檗山万福寺を礼す(第3首) 解説

  しやかむに を めぐる 十はちだいらかん 
       おのも おのもに あき しずか なり       

  (釈迦牟尼をめぐる十八大羅漢おのもおのもに秋静かなり)


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観仏三昧(会津八一)第18首 2013・2・28(木)

 万福寺仏殿の用材は故国より筏(いかだ)に編みて曳き来りしとて柱に貝殻の着きし跡あり 開山の鴻図(こうと)を憶(おも)はしむ    解説

 ひむがし の うみ に うかびて いくひ に か 
       この しきしま に よ は しらみ けむ 
    
 (ひむがしの海に浮かびていく日にかこの敷島に夜は白みけむ)

 「開山 隠元を開山とす。中国福州の人。承応三年(1654)日本に着したる時、すでに六十三歳なりしといふ。その年齢恰(あたか)も天平時代に来朝したる鑑真のそれと同じ。当時の日本人には、この年齢にて海外に航してかくの如き新事業に着手せんとするものは、たえて無かりしならむ。」(自註鹿鳴集)



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観仏三昧(会津八一)第19首 2013・3・2(土)

 この日醍醐を経て夕暮に京都に出で教王護国寺に詣づ 平安の東寺にして空海に賜(たま)ふところなり講堂の諸尊神怪を極む(第1首)  解説

  たち いれば くらき みだう に ぐんだり の 
       しろき きば より もの の みえ くる
     
  (たち出れば暗きみ堂に軍荼利の白き牙より物の見えくる)

 
 軍荼利夜叉明王は五大明王の一。一面三目八臂(はっぴ)で武器を持ち、憤怒(ふんぬ)の相をなし、蛇を瓔珞(ようらく)とする姿に表される。




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観仏三昧(会津八一)第20首 2013・3・4(月)

 この日醍醐を経て夕暮に京都に出で教王護国寺に詣づ 平安の東寺にして空海に賜(たま)ふところなり講堂の諸尊神怪を極む(第2首)   解説

  ひかり なき みだう の ふかき しづもり に 
         をたけび たてる 五だいみやうわう     

  (光なきみ堂の深きしづもりに雄叫びたてる五大明王)

 平安京の左京と右京を守る王城鎮護の為、また東国と西国とを守る国家鎮護の寺として、「東寺」と「西寺」が建立された。その後西寺は早い時期に衰退したが、東寺は823年に嵯峨天皇から真言宗の宗祖である弘法大師空海へ下賜され、そこからは国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場となった。五大明王は講堂に安置されている。



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観仏三昧(会津八一)第21首 2013・3・5(火)

 東寺の塔頭(たつちゆう)観智院にて   解説

  むかし きて やどりし ひと を はりまぜ の 
       ふるき びやうぶ に かぞへ みる かな
   
   (昔来て宿りし人を貼り混ぜの古き屏風に数へ見るかな)  

 よく似た歌に以下がある。

  海龍王寺にて(第2首) 解説     
 
   ふるてら の はしら に のこる たびびと の 
        な を よみ ゆけど しる ひと も なし
 
    (古寺の柱に残る旅人の名を読み行けど知る人もなし)



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観仏三昧(会津八一)第22首 2013・3・6(水)

 二十五日大原に三千院寂光院を訪ふ(第1首)  解説

  まかり きて ちやみせ に たてど もんゐん を 
        かたりし こゑ の みみ に こもれる     

  (まかり来て茶店に立てど門院を語りし声の耳にこもれる)

 平家物語の最後で語られる建礼門院の話を思い出しながら、大原を訪れたのは二十歳前、その頃を思い出しながら八一の歌を味わう。  


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観仏三昧(会津八一)第23首 2013・3・8(金)

 二十五日大原に三千院寂光院を訪ふ(第2首) 解説 

  おほはら の ちやみせ に たちて かき はめど 
          かきもち はめど バス は みえ こず

   (大原の茶店に立ちて柿食めどかき餅食めどバスは見えこず)

 柿を詠う滝坂の歌が好きである。


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観仏三昧(会津八一)第24首 2013・3・11(月)

 この日修学院(しゆがくいん)離宮を拝す 林泉は後水尾(ごみずのお)法皇の親(みずか)ら意匠して築かしめたまふところといふ  解説

  ばんじよう の そん もて むね に ゑがかしし 
        みその の もみぢ もえ いでむ と す
   
   (万乗の尊もて胸に描かししみ園の紅葉燃え出でむとす)

 修学院離宮は1655年から1659年にかけて江戸幕府が造営した離宮である。後水尾上皇が女中に変装して輿に乗り、造営中の離宮を自ら訪れて造営の指図をしたというが、真偽のほどは定かでない。



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観仏三昧(会津八一)第25首 2013・3・12(火)

 二十六日山内義雄に導かれて嵯峨に冨田渓仙の遺室を弔(とむら)ふ 第1首 解説

  きうきよだう の すみ の すりかけ さしおける 
           とくおう の ふで さながらに して    

  (鳩居堂の墨の磨りかけさし置ける得応の筆さながらにして)

 冨田渓仙の遺室が生前そのままに目の前の現れたことを詠む。



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観仏三昧(会津八一)第26首 2013・3・13(水)

 二十六日山内義雄に導かれて嵯峨に冨田渓仙の遺室を弔(とむら)ふ 第2首 解説

  ここ にして きみ が ゑがける みやうわう の 
         ほのほ の すみ の いまだ かわかず   

    (ここにして君が描ける明王の炎の墨のいまだ乾かず)

 不動明王の背景の火炎が墨でえがかれている。その墨が生々しく今も乾かないように見えると詠む。



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観仏三昧(会津八一)第27首 2013・3・17(日)

 二十六日山内義雄に導かれて嵯峨に冨田渓仙の遺室を弔(とむら)ふ 第3首 解説

  ぶつだん に とぼし たつれば すがすがし 
         あすかぼとけ の たちて います も 
    
  (仏壇に灯火立つればすがすがし飛鳥仏の立ちていますも)

 仏教が伝来した538年から大化の改新の645年、あるいはその後20年くらいまでを仏教美術史的に「飛鳥時代」という。飛鳥仏はその頃の仏像。



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観仏三昧(会津八一)第28首 2013・3・21(木)

 二十八日高尾神護寺にいたる  解説

  あきやま の みづ を わたりて いまだしき 
       もみじ の みち を われ ひとり ゆく

    (秋山の水を渡りて未だしき紅葉の道を我一人行く)

 この歌で会津八一が仏像や寺を詠んだ歌の解説を終わる。引き続いて、八一の挽歌(養女・きい子へ)を紹介していきたい。 



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激減する猿沢池の柳 2013・3・22(金)

 報道によると「1980年代半ば、緑のすだれが隙間なく囲んでいるように見えた奈良公園・猿沢池のシダレヤナギが枯れて3分の1に激減した」とある。いろいろ対策をしているが、めぼしい効果が今のところないそうだ。
 あの有名な「衣掛柳」も枯れて、新たに植えられたようだと言う。この柳だけは無くなって欲しくない。 
 天皇を思慕する采女が寵愛が薄れたのを悲しみ、つらさに堪えかねて猿沢池に入水自殺をした時に衣をかけた柳は会津八一にとっては記念すべき柳だった。失恋の痛手を胸に秘めて、28才の八一が初めて訪れた奈良で詠んだ思い入れの深い柳であるからだ。

 猿沢池にて   解説

  わぎもこ が きぬかけ やなぎ みまく ほり 
        いけ を めぐり ぬ かさ さし ながら    

   (吾妹子が衣掛け柳みまくほり池をめぐりぬ傘さしながら


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会津八一の挽歌 2013・3・28(木)

 昭和20年7月10日、八一の身の回りの世話をした養女・きい子を疎開先の新潟で亡くす。その時詠んだ山鳩21首は挽歌中でも屈指のものである。続く観音堂10首、柴売6首と合わせて、八一64歳の代表歌である。
 順次、歌の解説を紹介していきたいが、その前に会津八一の生涯と年表を書いておきたい。

 會津八一の生涯 

 会津八一は1881年(明治14)8月1日に新潟市古町通五番町に生まれる。“八一”と言う名は生まれた日による。1946年(昭和31)11月21日新潟で永眠(75歳)。美術史家、歌人、書家で、号は秋艸道人(しゅうそうどうじん)、八朔(はっさく)、渾斎(こんさい)等である。
 1906年(明治39)早稲田大学文学部を卒業、1931年(昭和6)早稲田大学文学部教授になる。独自の歌、書で世に知られる。奈良美術研究のかたわら南都に取材して盛んに短歌をつくり、1924年(大正13)に歌集「南京新唱(なんきょうしんしょう)」を上梓(じょうし)する。その後南京新唱を含む「鹿鳴集(ろくめいしゅう)」「山光集(さんこうしゅう)」「寒燈集(かんとうしゅう)」を出版、生涯に千首余の歌を詠む。オリジナリティに富んだ書は独自の世界を切り開き、ファンが多い。
 学者としては1933年(昭和8)「法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究」で学位を受け、美術史を早大で教える。
 1945年(昭和20年)戦災で東京から新潟に移った後は、夕刊新潟社の社長、後に新潟日報社の社賓となり、新潟の文化向上のためにも尽くした。   生涯と年表のページへ



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会津八一の挽歌「山鳩 序」 2013・3・30(土)

 きい子は八一の実弟高橋戒三夫人の妹、20歳で身の回りの世話に入り、33歳で八一の養女になるが、昭和20年7月10日34歳結核で死去。
 このきい子については小説や舞台劇にもなっている。
 八一はきい子を悼んで山鳩21首を詠むが、その序は涙なしに読むことができない。文語で句読点が無いので、読みづらいが是非味わってほしい。

 寒燈集・山鳩 序

きい子もと高橋氏二十歳にして予が家に来り養うて子となすよく酸寒なる書生生活に堪へ薪水のことに當ること十四年内助の功多かりしはその間予が門に出入せしものの齊しく睹るところなるべしもとより蒲柳の質なりしを幾度か予の重患に侍し遂に疲労を以て病因をなしたるが如し今春臥して痾褥に在るに當り一夜たちまち戦火を被りわづかに身一つを以て免れ予とともに越後に歸り・・・」  序 全文へ



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山鳩・第1首(会津八一) 2013・4・5(金)  解説

 いとのきて けさ を くるし と かすか なる 
       その ひとこと の せむ すべ ぞ なき   

 (いとのきて今朝を苦しとかすかなるその一言のせむすべぞなき)

 咽頭結核の養女・きい子は昭和20年7月7日の朝早く、苦しいと言って八一を起こす。どうすることもできないなか、10日未明、か細い声で、また苦しいと言って八一を起こしたきい子は夕方眠るように死についた。看病で疲れ切りまどろんでいた八一の傍らで!


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山鳩・第2首(会津八一) 2013・4・9(火)   解説

 やまばと の とよもす やど の しづもり に 
     なれ は も ゆく か ねむる ごとく に 
   
   (山鳩のとよもす宿のしづもりになれはも逝くか眠る如くに)  

 きい子が病臥する観音堂は、山鳩が繰り返し鳴いている。鳴き声のみが聞こえる静かさの中で、きい子は逝ってしまう。「なれ は も ゆく か」は八一の悲痛な叫びである。


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山鳩・第3首(会津八一) 2013・4・12(金)  解説

 あひ しれる ひと なき さと に やみ ふして 
        いくひ きき けむ やまばと の こゑ     

  (相知れる人無き里に病み伏して幾日聞きけむ山鳩の声)

 病臥のきい子は来る日も来る日も悲しげな山鳩の鳴き声を聞く。思いに浸り、日記を書いた。それは悲しい生の最後の記録であった。万感の思いできい子を見送った八一も山鳩の声を聞きながら涙するのである。


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山鳩・第4首(会津八一) 2013・4・15(月)  解説

 やすらぎて しばし いねよ と わが こと の 
       とは の ねむり と なる べき もの か  
    
 (安らぎてしばしいねよとわが言の永遠の眠りとなるべきものか)  

 安心して眠りなさいと言った八一の言葉にきい子は静かな寝息と共に眠りについた。疲れている八一も同時にまどろんだのだ。だが、彼が眠っているうちにきい子は逝く。愛するものをたった一人で旅立させてしまった八一の心を思う。


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山鳩・第5首(会津八一) 2013・4・19(金)  解説

 いたづき を ゆきて やわせ と ふるさと の 
     いなだ の かぜ を とめ こし もの を  
  
(いたづきを行きてやわせと故郷の稲田の風をとめこしものを)

 戦火の都ではなく、稲田を吹き渡る風がこころよい故郷の環境に希望を持って親子は疎開した。だが、それも空しくきい子は帰らぬ人になった。「とめこしものを」に八一の深い思いが込められている。


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山鳩・第6首(会津八一) 2013・4・22(月)  解説

 やみ ほそる なが て とり もち まがつひ に 
      もえ たつ やど を いでし ひ おもほゆ

(病み細る汝が手取り持ちまがつひに燃えたつ宿を出でし日思ほゆ)

 昭和20年4月13日、八一ときい子が住む東京目白文化村の家(滋樹園秋艸堂)は空襲で全焼する。疎開のためにきい子が手配(18日発送予定)した荷物も全て燃えてしまう。きい子の手をとって猛火をくぐって逃れ出たその日を八一は思い起こしているのである。


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山鳩・第7首(会津八一) 2013・4・25(木)  解説

 ふみ よむ と ただに こもれる わが いほ に
          はべりて すぎし ひとよ かなし も 
    
  (文読むとただに籠れるわが庵に侍りて過ぎし一世悲しも)

 学者八一は学問と芸術のために一人部屋に籠ることが多かった。その東京での生活の身の廻りを14年間支えたのはきい子である。亡くなってから初めて気がついたことは、きい子の献身であり、また彼女の心根だった。



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山鳩・第8首(会津八一) 2013・4・29(月)  解説

 うつしよ の ひかり ともしみ わかき ひ を
        わが やど いかに さびし かり けむ      

 (うつしよの光ともしみ若き日をわが宿いかに寂しかりけむ)
 
 新潟から20歳で八一のもとにやってきた若いきい子だが、学者の質素な生活の身の回りの世話だけをした。そこには若い娘らしいことはなく、出入りする門下生との交流も八一の為にしか考えなかった。
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