会津八一(あいづ・やいち) 目次へ 1881~1956。新潟の生れ。号 秋艸道人(しゅうそうどうじん)。早稲田で学んだのち、坪内逍遥の招きで早稲田中学校教員となる。その後文学部教授に就任、美術史を講じた。 古都奈良への関心が生み出した歌集『南京新唱(なんきょうしんしょう)』にその後の作歌を加えた『鹿鳴集』がある。奈良の仏像は八一の歌なしには語れない。歌人としては孤高の存在であったが、独自の歌風は高く評価されている。鹿鳴集に続いて『山光集』『寒燈集』を発表している。 書にも秀で、今では高額で売買される。生涯独身で通したが、慕う弟子達を厳しく導き、多くの人材を育てた。 会津八一の生涯・年表 新潟市會津八一記念館 早稲田大学會津八一記念博物館 |
東大寺の戒壇院にて(第2首) かいだん の まひる の やみ に たち つれて
ふるき みかど の ゆめ を こそ まもれ (戒壇の真昼の闇に立ち連れて古き天皇の夢をこそ守れ)
歌意 戒壇院の真昼でも暗い堂の中の四隅に四天王は立ち並んで、遠い昔の天皇の夢を守っている。 「こそまもれ」と係り結びを使って四天王の姿を力強く詠う。第一首で四天王が「なにをかもみる」と問うたことへの明確な答えである。 うつろひし みだう に たちて ぬばたまの いし の ひとみ の なに を か も みる(第1首)
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高畑にて(第2首) かうやくし わが をろがむ と のき ひくき ひる の ちまた を なづさひ ゆく も (香薬師わが拝むと軒低き昼の巷をなづさひ行くも)
歌意 香薬師を拝もうと真昼の(高畑の)軒の低い家が並ぶ道をなつかしさを感じながら(新薬師寺)へと歩んでいるよ。 「旅人の目に痛きまで緑なる築地の隙の菜畑のいろ」と詠んだ高畑のひなびた道を美しい香薬師に会うために心躍らせながら歩む作者、思いが溢れるようである。 香薬師について作者は自註でこう説明している。『おもふに、わが「香薬師」は、本来この堂(香山堂)に祀られるを、何故かこの堂は早く荒廃して、この像は「新薬師寺」に移され、その後はその記念のために「香」の一時を仏名の上に留めたるなるべく、寺そのものも、この像あるがために、・・・・「香薬寺」といふ別名を得るに至りしなるべし』 写真は新薬師寺本堂、盗難にあった香薬師は寺内の薬師堂に安置されていた。
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北満の戦陣にある若き人々に寄す(第4首) かがやきて かかる ほくと の ながき え を うちあふぎ つつ まもる よ も あらむ (輝きて架かる北斗の長き柄をうち仰ぎつつ守る夜もあらむ)
歌意 輝いて大空に架かっている北斗七星の大きく長い柄を仰ぎ見ながら守りについている夜もあるだろう。 大陸で夜空の星を眺めている教え子たちの姿を想像し詠う。星を仰ぎ見る若き兵士たちの心をも八一は思っているだろう。
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錦衣(第5首)
かがやきて かへり こし とふ いにしへ の ひと の にしき の おもほゆる かも (輝いて帰り来しとふ古の人の錦の思ほゆるかも)
歌意 立身出世して故郷に錦を飾ったという古の人の錦のことが思われることだ。 “錦衣故郷に帰る”とは全く違う無一物になって故郷に帰った己を嘆くのである。ただ、八一の学問上、あるいは歌、書の素晴らしさは無くなるものではなく、この後、新潟で十分に力を発揮して活動した。
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やがて紀元節も近づきければ古事記の 中巻なる神武天皇の条を読みて(第6首)
かがやきて そら に さきだつ とりかげ に
いくひ こえ けむ くず の いはむら (輝きて空に先立つ鳥影に幾日超えけむ国巣の岩群)
歌意 光り輝いて空を飛びながら先導する八咫烏のおかげで神武天皇は幾日かかって越えたのだろう、吉野の山奥の国巣の岩山を。 古事記の逸話を詠んだもの。第18首から第32首までは戦後一度削除し、後に復活したものである。
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予罹災ののち西条に村居し一夜大いなる囲炉裏のほとりにて よめる歌これなり(第2首) かかる ひ も みゆき ふみ わけ まなび す と きやうせんせい を とひし ちち は も (かかる日もみ雪踏み分け学びすと郷先生を訪ひし父はも)
歌意 このような雪の降る日も父は雪を踏み分けて学問をしようと郷先生を訪ねたのだ。 幼い時に丹呉家に身を寄せた父の学ぶ姿を想像して詠う。学ぶ事に努力した父の意思は八一そのものに受け継がれたのである。
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良寛禅師をおもひて(第2首) かかる よ を しば をり くべて ゐろりべ に もの もひ けらし うつら うつらに (かかる夜を柴折りくべて囲炉裏辺にもの思ひけらしうつらうつらに)
歌意 このように雪の降り続く夜に、柴を折って囲炉裏にくべ、良寛禅師は物思いにふけっていたのであろう、うとうととしながら。 雪の夜に敬慕するありし日の良寛の姿を思い描く。国上山の五合庵でゆったりと過ごす良寛に己の今を重ねながら。
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十一月十日学生を伴ひ奈良に向ふとて汽車の窓より 東方の海上を望みて(第3首) かき たらす かみ の ぬぼこ の ね も さやに なり いで に けむ あきつしまやま (掻き垂らす神の瓊矛の音もさやに鳴り出でにけむ秋津島山)
歌意 海の中にさし下ろして掻きまわす神の矛の出す音がさわやかに鳴って出来たのであろうこの秋津島山、日本の国は。 第2首に続いて、国生みの神話をもとに窓外に見える海を詠む。
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滝坂にて(第1首) かき の み を になひて くだる むらびと に いくたび あひし たきさか の みち (柿の実を担いて下る村人に幾たび会いし滝坂の道)
歌意 赤く熟れた沢山の柿の実をかついで下りてくる村人達に、何度も何度も出会った滝坂の道であることよ。 八一は、紅葉の名所と知られる秋の滝坂を南京新唱「滝坂にて」で5首、「地獄谷にて」で1首詠んでいる。さらに放浪唫草で「石切峠にて」を1首あげている。この歌はその第1首、収穫した柿の実を担う村人達を詠みこんで、季節感ある大和の風物を印象的に表現した。 7月、緑美しい滝坂で元気に下りてくる年配のご夫婦にお会いした。八一は「むらびと」を「たびびと」とも詠み替えている。 注 放浪唫草(ほうろうぎんそう) 「唫草 『唫』は『吟』の古字。『吟草』にて、『詠草』といふに同じ。」(鹿鳴集自註)
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閑庭(第31首) かきもと に まぎれ こし いぬ にはぐさ に より ふす われ を いぶかしみ たつ (垣もとにまぎれ来し犬庭草に寄り臥す我をいぶかしみ立つ)
歌意 垣根の下に迷い込んできた犬が庭の草に寝そべっている私を不審そうに見て立っている。 八一は寝そべる癖があった。寝ながら鹿や薬師寺東塔を詠んだ名歌がある。坪内逍遥宅でもよく横臥していたと言う。ゆったりとした武蔵野にある庭、そこに平然と寝そべっている八一を見て、犬は不審に思いながらもその雰囲気に溶け込んだと勝手に想像してみても面白い。
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閑庭(第16首) かきもと に わが たく けぶり をちかた の をか の をばな に かた なびき つつ (垣もとに我が焚く煙をちかたの岡の尾花にかたなびきつつ)
歌意 垣根のほとりで私が焚く火の煙が向うの岡のすすきの方に片寄ってなびいていく。 秋艸堂の向こうの岡まで煙がなびいていくと詠う。谷を越えた遠くの群生するすすきに煙がなびいていく壮大な晩秋の風景である。
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歌碑(第6首) 「ちかづきてあふぎみれどもみほとけのみそなはすともあらぬさびしさ」といふは新薬師寺香薬師を詠みしわが旧作なりちか頃ある人の請(こい)にまかせて自らこれを書しこれを石に刻ましめその功もまさに畢(おわ)りたれば相知る誰彼を誘ひ行きてこれを堂前に立てむとするに遽(にわか)に病を得て発するを得ずたまたま寺僧の拓して送れる墨本を草廬の壁上にかかげしめわづかにその状を想像して幽悶を慰むるのみいよいよ感應の易(やす)からざるをさとれり かきもと の これ の いしぶみ たまたまに あひしる ひと の みつつ しぬばむ (垣もとのこれの碑たまたまにあひ知る人の見つつ偲ばむ)
歌意 新薬師寺の垣根のほとりのこの歌碑を偶然に知り合いが見たら、きっと私のことを懐かしく思い出してくれるだろう。 初めての歌碑に対して心がいろいろに動く。友人知人が見たならば、私を偲んでくれるだろう。それは嬉しいことだが、そのことは自らがこの世を去った後かもしれない。それは悲しいことだ。
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閑庭(第18首) かきもと の たに の かやふ に をとり す と ひ に け に きたる た が いへ の をぢ (垣もとの谷のかやふにおとりすと日にけに来たる誰が家のをぢ)
歌意 垣根のあたりに続く谷間の茅の茂みに囮をかけて、獲物をとろうと毎日やって来るのは何処のおじさんだろう。 この頃は多くの人が野原に囮を置いて、小鳥などを捕えたと言う。ありし日の武蔵野の風景である。
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閑庭(第37首) かきもと の たに の さはべ の ほたるび の このごろ とばず とき さり に けり (垣もとの谷の沢辺の蛍火のこの頃飛ばず時去りにけり)
歌意 垣根の所から下がって谷になっている沢の辺りで飛んでいた蛍の光もこの頃は飛ばなくなった、季節が移ったのだなあ。 武蔵野の谷にある沢で光っていた蛍火、気がつくともう飛んでいない。季節の移り変わりを敏感にとらえて詠んだしみじみとした歌である。
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山中高歌(第2首) かぎり なき みそら の はて を ゆく くも の
いかに かなしき こころ なる らむ (限りなきみ空の果てを行く雲のいかに悲しき心なるらむ)
歌意 限りのない大空の果てを流れていく雲はどんなにか悲しい心を持っていることだろう。 八一の歌にしては珍しくセンチメンタルである。だが、背景にある八一の状況と決意を考えるとそんな生やさしいものではない。山中高歌10首中6首が雲の歌である。雲こそが八一そのものであると言ってよい。早稲田中学での内紛、持病のリウマチで疲れた心身を癒すためだけの温泉ではなかった。教職を辞す覚悟さえ持った旅であり、その心を雲に託した。学校にはとどまったが、このころを境にして、八一が歌人、学者として大成していくのである。 この歌の歌碑がこの時泊まった山田温泉・湊屋旅館(現風景館)前にある。
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除夜の銀座に出でて(第2首)
かぎり なく ゆき かふ ひと の いづれ より われ おい けらし みち の ちまた に (限りなく行き交う人のいづれより我老いけらし道の衢に)
歌意 大晦日の賑わう銀座の多くの人を見ていると誰よりも私は老いてしまったようだ。この東京の町に暮らして。 明けて還暦を迎える八一の率直な心境が詠われる。この時代(昭和14年)の60歳は高齢である。生涯独身を通した八一の孤独が垣間見れる。
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柿若葉(第1首) 新潟市はわがためには故郷なれども今はたよるべき親戚も無ければ北蒲原郡西条なる丹呉氏の宗家をたづねて身を寄すすでに亡きわが父も幼時この家に扶養を受けられたることなどしみじみ思ひ出でて眼に触るるものすべてなつかし かきわかば もゆる にはべ の しろすな に あさ を あふるる みぞがは の みづ (柿若葉萌ゆる庭辺の白砂に朝を溢るる溝川の水)
歌意 柿の若葉が萌える庭の白砂に溢れるばかりに流れる朝の溝川の清らかな水よ。 清らかに澄んだ水が庭を流れて行く。それは自然の素晴らしい姿であり、空襲で苦しんだ都会にはなかったものである。この疎開生活を9首詠み、自然や生命への深い思いに触れながら心を癒していく。
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雁来紅(第15首) かく の ごと かける かまづか とりげ とも かや とも みらめ ひと の まに まに (かくのごと描けるかまづか鳥毛とも萱とも見らめ人のまにまに)
歌意 このように私が描いた葉鶏頭を、見る人は思いのままに鳥毛とも萱とも見るであろう。 人がどのように見ようがかまわないと言って許容力も示し、また「主観の芸術は往々にして形似に拘泥せざることあり」として強い自信を示している。 注1 とりげともかやともみらめひとのまにまに (自註) 主観の芸術は往々にして形似に拘泥せざることあり。倪雲林かつて自作の墨竹に題して 以中毎愛余画竹。余之竹聊以写胸中逸気耳。豈復較其似与非、葉之繁与疎、枝之斜与直哉。 塗抹久之、他人視以為麻為蘆、僕亦不能強弁為竹。其没奈覧者何。但不知以中視為何物耳。 と云えり。今この自作の歌に対して、忽ちこれを想起するがままに記す。 (漢文、返り点省略) 注2 上記の和訳を山光集歌解(西世古柳平著)から転載する。 以中はいつも私の描く竹を愛好している。私の竹はいささか胸中に湧いた気分を写すだけであって、それが竹に似ているか似ていないか、葉が繁っているか疎らであるか、枝が斜であるか真直ぐであるか、などを比較したってはじまらない。墨を長いこと塗ったくっていると、他人はこれを見て、麻だと言ったり蘆だと言ったりするが、自分もまたこれは竹だと強弁することができない。こんなふうに見る人をどうしようもないからである。ただし、以中は何物を描いたと思っているかわからないけれども 注3 倪雲林(げいうんりん) 元代の画家。元末四大家の一人。江蘇省無錫の人。名は瓚、字は元鎮、別号に荊蛮民・幻霞生等がある。文人の逸気にあふれた画風で、特に山水画では「蕭散体」と呼ばれる簡遠な平遠山水の様式を確立した。洪武7年(1347)歿、73才。
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香具山にのぼりて(第2首) かぐやま の かみ の ひもろぎ いつしかに まつ の はやし と あれ に けむ かも (香具山の神の神籬いつしかに松の林と荒れにけむかも)
歌意 香具山の神の神籬もいつの間にか松林になって荒れ果ててしまったらしい。 大正14年頃、香具山が松の林ばかりになって、神の神籬も無いに等しかった様子を歎きと共に詠っている。古代への憧憬が強くその研究に励む八一にとって香具山の現状はとても悲しいものだった。ひしひしとその心情が伝わってくる。 「春過ぎて夏来るらし白妙の衣干したり天の香具山」(持統天皇)で有名なこの神山も当時は訪れる人も少なかったが、近年は旅行ブームなどで沢山の人の登頂があるようだ。
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香具山にのぼりて(第3首) かぐやま の こまつ かり ふせ むぎ まく と をの うつ ひと の あせ の かがやき (香具山の小松刈り伏せ麦蒔くと斧打つ人の汗の輝き)
歌意 香具山の小松を切り倒し、その後に麦を撒こうと斧をふるう人の汗の輝いていることよ。 香具山の神性も歴史にも関係なく、ただただ農作のために斧をふるう人の労働と流れる汗に触発されて詠む。己の求める歴史性を秘める香具山とのギャップを感じながらも「あせのかがやき」と目の前の労働を直感的に評価したと言えるだろう。
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滝坂にて(第3首) かけ おちて いは の した なる くさむら の つち と なり けむ ほとけ かなし も (欠け落ちて岩の下なる草むらの土となりけむ仏かなしも)
歌意 岩に刻まれてみ仏が長い年月の間に欠け落ちて、草むらの土になったのもあるだろう。哀しく、いとおしいことだ。 7月、滝坂を登った。少し行くと東海自然歩道の標識の上に「寝仏」の表示がある。八一は自註で「俗に『寝仏』と名付けて、路傍に顚落して、そのまま横たわり居るものあるなり」と書いている。 原型を止めず、土になってしまった仏達は沢山あるだろう。それを八一は「かなしも」と抒情的に詠んだ。
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閑庭(第33首) かけ つれし ときあらひぎぬ しまらく を いちご の わら に したたり やまず (掛け連れし解洗衣しまらくを苺の藁にしたたり止まず)
歌意 竿にかけ連ねて干した糸を解いて洗った着物から、しずくがしばらく苺の敷き藁のうえにしたたり落ちて止まない。 着物を解き洗いする風景は今では想像できないが、この当時は日常の生活、情景であった。かすかなしずくの動きをとらえてこまやかに詠った。
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やがて紀元節も近づきければ古事記の 中巻なる神武天皇の条を読みて(第14首)
かしはら の みや の うたげ の とよみき に
みか うち ならし まひし た が こ ぞ (橿原の宮の宴の豊御酒にみか打ちならし舞ひし誰が子ぞ)
歌意 橿原の宮殿での祝賀の宴の美酒を飲んで甕(かめ)を叩いて舞ったのは何処の若者だろうか。 国家誕生を宴を詠った。第18首から第32首までは戦後一度削除し、後に復活したものである。
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春日野にて(第1首) かすがの に おしてる つき の ほがらかに あき の ゆふべ と なり に ける かも (春日野におし照る月のほがらかに秋の夕べとなりにけるかも)
歌意 春日野にくまなく照っている月の光はあかるく澄み渡っている。まさに秋の夜になったのだ。 春日野(興福寺) 右掲載の歌碑は春日大社神苑(万葉植物園)にある。 (建立は昭和18年秋) 南京新唱の巻頭歌である。古都の秋の月夜を平易に調べ豊かに歌いあげる。奈良への第一歩を古調で歌うこの一首は、巻頭歌としてとてもふさわしい。おおらかにゆったりとした調べに誘われて、心静かに奈良の風物と八一の歌の世界に入っていくことが出来る。 八一書入り茶器(新宿中村屋)
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春日野にて(第7首) かすがの に ふれる しらゆき あす の ごと けぬ べく われ は いにしへ おもほゆ (春日野に降れる白雪あすのごと消ぬべく我はいにしえ思ほゆ)
歌意 春日野に降り積もっている白雪は明日にも解けてしまうだろう。その雪が消えてゆくように、わが身わが心も消え入らんばかりなほどにいにしえを想っている。 南京新唱の冒頭「春日野にて」の第七首。八一は明治の末、春日野の淡い春の雪を序に使いながら、「けぬべく」と言う言葉で古代への情熱を詠んだ。仏教美術に傾倒した熱い思いが伝わってくる。「けぬべく」とは全身全霊をかけるため、わが身が無く消えてしまうほどだということ。 新春の歌としてもふさわしい。
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十一日まづ東大寺に詣でまた春日野にいたる同行の学生に て近く入営せむとするもの多く感に堪へざるが如しすなはち そのこころを思ひて(第3首) かすがの の かみ の やしろ に たらちね と たづさはり きて ひと の をろがむ (春日野の神の社にたらちねとたづさはり来て人のおろがむ)
歌意 春日神社に父母と連れだって来て拝んでいる人もある。 親と一緒に春日大社(神社)でお参りする人の姿に八一の心は動く。きっと出征する若い人と両親であっただろう。共に奈良を訪れた学生たちの置かれた姿と同じだと心を痛めるのだ。 植田重雄の“最後の奈良見学旅行”
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十一日まづ東大寺に詣でまた春日野にいたる同行の学生に て近く入営せむとするもの多く感に堪へざるが如しすなはち そのこころを思ひて(第6首) かすがの の こぬれ の もみぢ もえ いでよ また かへらじ と ひと の ゆく ひ を (春日野の木末の紅葉燃え出でよまた帰らじと人の征く日を)
歌意 春日野の紅葉の梢よ、赤く燃え出でておくれ。二度と生きて帰らないと学生たちが決意して戦地に出て行く日に。 死を覚悟した学生たちをただ送りだすしかない八一、せめて真っ赤に燃え出でて送って欲しいと紅葉に語りかける。あれもこれも心に秘めた八一の心情を思う。 植田重雄の“最後の奈良見学旅行”
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春日野にて かすがの の しか ふす くさ の かたより に わが こふ らく は とほ つ よ の ひと (春日野の鹿伏す草のかたよりに我が恋ふらくは遠つ世の人)
歌意 春日野の鹿が伏した後の草が一方に靡き傾いているのと同じように、私の心がひたすら傾いて恋焦がれるのは遠き世の人々だ。 上二句までを序にして「かたよりに」を引き出し、古代へ傾倒する己の心を表現する。「かたよりに」を八一は万葉集から「秋の田の穂向きのよれる片よりに吾は物思ふ」を引用して説明しているが、この語が見事に前後を繋いでいる。
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春日野にて(第2首)
かすがの の みくさ をり しき ふす しか の つの さえ さやに てる つくよ かも (春日野のみ草折り敷き伏す鹿の角さえさやに照る月夜かも)
歌意 春日野の草を折り敷いて寝ている鹿の角がはっきりと見えるほどに、冴え渡った秋の夜の月であることよ。 南京新唱の巻頭第2首。鹿の角に焦点を当てて、古都の秋の冴え渡った月夜を読み込む。サ行音7個を使った調べが、秋の澄み渡った清らかな情景を浮かび上がらせている。 今年の中秋の名月は9月18日、古都奈良では猿沢池のそばの采女神社での神事のあと、2艘の観月船で采女を乗せて月夜の猿沢池を回るお祭が行われる。
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十九日高野山を下る熱ややたかければ学生のみ河内観心寺に遣り われひとり奈良のやどりに戻りて閑臥す(第3首) かすがの の もり の こぬれ を つたひ きて さる なく らし も やど の ふるには (春日野の森の木末を伝ひ来て猿鳴くらしも宿の古庭)
歌意 春日野の森の木々の梢を伝って来て猿が鳴いているらしい、この宿の古庭で。 耳元に聞こえた一声(第2首)は猿の鳴き声だった。それも宿・日吉館の庭である。奈良なので鹿の鳴き声には慣れていたが、猿の鳴き声には驚いたのだろう。ぼんやりと一人寝する八一には心動かす出来事だった。猿の歌は第4、5首と続く。 植田重雄の“最後の奈良研究旅行4”
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春日野のやどりにて かすがの の よ を さむみ かも さをしか の まち の ちまた を なき わたり ゆく (春日野の夜を寒みかもさ牡鹿の街の巷を鳴き渡りゆく)
歌意 春日野の夜が寒いからであろうか、牡鹿が街中を鳴きながら渡っていくようだ。 奈良の常宿・日吉館で、早春の夜の寒い街中を鳴き渡る鹿の声を八一は聞いていた。「奈良の鹿には、特定の寝所あれど、其処には赴かずして、ひとり群を離れて、夜半に市街をさまよふものあるなり。」と自註鹿鳴集で書いている。ひとりさまよう鹿の声を歌う事によって、奈良の夜の静寂と旅先での寂寥感を見事に表現している。1925年(大正14年)3月の作である。 注 日吉館 奈良公園の国立博物館に面した東大寺近くの登大路町にある。会津八一、亀井勝一郎、和辻哲郎、広津和郎などが常宿とした。上記の歌は日吉館の庭に歌碑として立っていた。宿の看板も会津八一の揮毫によるが、今は廃業し建物も無い。名物女将・田村きよのさんは1998年に亡くなった。 追記 二つある歌碑について (2007・04・2) 『・・・昭和四十九(七四)年、宿の裏の前栽に建てられた。・・・(田村きよのさんは)「歌碑の彫りが気に入らん」とつぶやく。・・・平成三(九一)年一月一五日、洗面所前の坪庭に新碑が設置された。「会津先生が頭をひょいと下げて便所から出てきて楊枝(歯ブラシ)を使うてはった」場所である。きよのさんは平成十(九八)年に亡くなり、歌碑は東側の仏像写真ギャラリー飛鳥園(奈良市登大路)に移転された。』 (「会津八一と奈良 ー没後50年 特別展に寄せてー ㊥ 富田敏子」新潟日報 2006・10・5より) 飛鳥園の二つの歌碑(鹿鳴人提供) 追記2 日吉館跡 (2012・03・18) 会津八一の奈良での定宿・日吉館は老朽化を理由に2009年に取り壊された。奈良の友人・鹿鳴人にその後を問い合わせたら、すぐに写真と共に返事が届いた。 「日吉館の持ち主の子孫のひとが、貸し家を建てしばらくテナント募集をしていると聞くが、借り手がつくだろうか。なかなか難しいと思う。なぜもっと以前の日吉館であったことを特徴にしなかったのだろうか。できれば会津八一記念館イン奈良を作って欲しかったという声も強い」 彼の言うように八一ファンとしては、日吉館跡には失望する。
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十月三十一日朝奈良の宿をいでて高畑なる新薬師寺にいたらむとて かすがの の をばな かたまけ おく つゆ の おもき こころ を わが いかに せむ (春日野の尾花かたまけ置く露の重き心を我がいかにせむ)
歌意 春日野のすすきを傾けるほどの重い露のように、この重い心を私はどうしたらよいのだろう。 学生を引率した奈良の旅での歌、上3句は「おもき」の序詞になっている。八一は心に重くのしかかる悩みをどうすることもできないと詠うがその中身はわからない。しかし、日中戦争に入って3年、翌年は日米開戦に至るこの時代の悩みであろう。弟子たちの出征、引率する学生たちの行く末を案じた「重き心」と解したい。
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同じ日ひとり春日の森にて かすがやま しみ たつ すぎ の なかぞら に こゑ はるか なる とび の ひとむら (春日山茂立つ杉の中空に声はるかなる鳶の一群)
歌意 春日山の茂り立つ杉の中空にはるか遠くに鳴き声がして鳶の一群が飛んでいる。 戦地に向かう学生たちと来た春日の森はいつものように静かな古都奈良の自然である。かすかに聞こえる鳶の鳴き声に見上げると鳶が舞っていた。一人になった八一の哀感が漂う。 植田重雄の“最後の奈良見学旅行”
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習志野(ならしの)にて馬に乗り習ふころ かすみ たつ のべ の うまや の こぼれむぎ いろ に いづ べく もえ に ける かも (霞立つ野辺の馬屋のこぼれ麦色に出づべく燃えにけるかも)
歌意 霞が立っている習志野の馬屋の周りのこぼれ麦が育って、青々と萌えていることよ。 馬屋のそばで芽吹いたこぼれ麦の瑞々しさに驚き詠う。時は春、しかも快い早朝であっただろう。中国大陸での研究のため、乗馬の練習に通った頃の歌である。村荘雑事(第11首)参照。
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望郷(第5首)
かすみ たつ はま の まさご を ふみ さくみ か ゆき かく ゆき おもひ ぞ わが する (霞立つ浜の真砂を踏みさくみか行きかく行き思ひぞ我がする)
歌意 霞が立ちこめている浜の真砂を強く踏みしめ、行きつ戻りつしながら私は深い物思いにひたっている。 多くの歌人、詩人、思想家が砂浜を歩きながら思索にふけり、作品を創造したであろう。八一も新潟に帰省した折にそうした思いで浜を行きつ戻りつして思索した。それは新潟にいた若き日の浜辺の物思いと重なっていたのかもしれない。
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村荘雑事(第4首)
かすみ たつ をちかたのべ の わかくさ の しらね しぬぎて しみず わく らし (霞立つをちかた野辺の若草の白根しぬぎて清水湧くらし)
歌意 春霞が立っている遠くの野原の若草の白い根を押し分けて清水が湧いているだろう。 下落合秋艸堂周辺は武蔵野の面影を残していた。その垣根から遠くをじっと眺め、清水湧く春先の自然の躍動を感じたであろう。「しらね しぬぎて しみず」の「し」の連続は、清水を連想させる作者の工夫である。
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山中高歌(第8首) かぜ の むた そら に みだるる しらくも を
そこ に ふみ つつ あさかは わたる (風のむた空に乱るる白雲を底に踏みつつ朝川渡る)
歌意 風が吹くとともに白雲が乱れている。その白雲が写る川底を踏みながら朝の川を渡っている。 この川底に写る情景は18世紀のイギリスの詩人、ワーズワースの「序曲」にある「静謐(せいひつ)な湖畔の底深くに映る あの不安定な大空」から連想したものであろう。坪内逍遥に送ったこの歌の初案「風のむたそらにみだるゝしらくものかげしづかなる山かげのいけ」からわかる。 また、「あさかはわたる」は万葉集の大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)の挽歌(長歌)の「佐保川を 朝川渡り 春日野を そがひに見つつ あしひきの 山辺をさして 夕闇と 隠りましぬれ」からきているのだろう。 こうした東西の深い文化に裏打ちされた歌は味わい深い。憂患の八一にとって白雲は一つの象徴であったであろうし、挽歌に詠われていた朝川と言う言葉は悲しみを含んでいる。 注 ワーズワース 18世紀のイギリスの代表的なロマン派詩人であり、湖水地方をこよなく愛し、純朴であると共に情熱を秘めた自然讃美の詩を書いた。
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鎌倉長谷のさるかたに宿りて かぜ の むた ほとけ の ひざ に うちなびき なげく が ごとき むらまつ の こゑ (風のむた仏の膝にうちなびき嘆くが如き叢松の声)
歌意 お座りになっている大仏の膝の上を風と共になびきながら、嘆き悲しんでいるように聞こえる松林の音である。 松の鳴る音が風と共に大仏の膝の上を流れていくと言う。流れる風と音を作者は見えるかのように詠む。嘆き悲しんでいるような音は同時に作者の心の投影であろう。ただ、壮年期の歌で、きい子を亡くした晩年(65歳)に詠んだ寒燈集・松濤第2首とは趣が違う。 くりやべ に ひと なき よは を ふき あれて うしほ に まがふ むらまつ の こゑ (人のいなくなった台所で夜更け、潮の音と間違うほどに鳴り響く叢松の音だ) 解説
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柿若葉(第6首) 新潟市はわがためには故郷なれども今はたよるべき親戚も無ければ北蒲原郡西条なる丹呉氏の宗家をたづねて身を寄すすでに亡きわが父も幼時この家に扶養を受けられたることなどしみじみ思ひ出でて眼に触るるものすべてなつかし かぜ の よ は さびし かりき と いくたび か ちち の のらしし むらまつ の こゑ (風の夜は淋しかりきと幾度か父ののらしし群松の声)
歌意 風の夜は淋しかったと何度も父が語っていた、その風が群松を吹き鳴らす音が聞こえる。 父、会津政次郎は実母を亡くして、幼いころ丹呉家で育てられた。その頃の夜の風は幼時にはとても淋しかった。その風は東京を着の身着のままで疎開した八一の心にも吹いている。
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観音堂(第2首) かたはら に もの かき をれば ほし なめし うどん の ひかげ うつろひ に けり (かたわらにもの書きをれば干し並めしうどんの日影移ろひにけり)
歌意 観音堂の板の間に並べて干してあるうどんの傍らで一心にものを書いているといつしか日差しが移ってしまっている。 観音堂で一人ものを書いていると知らぬ間に時間が経って夕方になっている。下句のなかの「うつろひ」から八一の老齢と独り居の深い悲しみが伝わってくる。八一の悲しみの心も移ろい漂っていたであろう。
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奈良に向かふ汽車の中にて (第1首) かたむきて うちねむり ゆく あき の よ の ゆめ にも たたす わが ほとけ たち (かたむきてうち眠りゆく秋の夜の夢にも立たすわが仏たち)
歌意 奈良に行く汽車の中で傾いて眠ってしまう秋の夜の私の夢の中にもお立ちになるみ仏たちよ。 車中の仮眠の夢の中にもみ仏たちが現れる。八一の深い思いがすんなりと読む者に伝わってくる。長年かかわってきた奈良の仏たちと八一は一体化していると言える。 吉野秀雄はこう解説する。 『「わがほとけたち」は楽にいひ出されてゐるが、また作者にしてはじめてなし得る句で、即ち「ほとけたち」はすでに物としての仏像ではなく、生きの緒に摂取されたいのちある仏躯と化してゐるのだ』
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観音堂(第3首) かどがは の いし に おり ゐて なべぞこ の すみ けづる ひ は くれむ と する も (門川の石に降りゐて鍋底の墨削る日は暮れむとするも)
歌意 門の近くの小川の石の洗い場に降りて鍋底の墨を削っているともう一日が暮れようとしている。 日の暮れていく小川での詠嘆、きい子健在ならばと繰り返し思っただろう。過去には無い体験を詠うこの歌から寂しさと悲しみが静かに伝わってくる。 洗い場での体験は長くは無かったようだが、その一点をとらえて悲しみを詠みあげる力はさすがだ。
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柿若葉(第2首) 新潟市はわがためには故郷なれども今はたよるべき親戚も無ければ北蒲原郡西条なる丹呉氏の宗家をたづねて身を寄すすでに亡きわが父も幼時この家に扶養を受けられたることなどしみじみ思ひ出でて眼に触るるものすべてなつかし かどには に なみ たつ ひば の こもりば の しづえ の かれ を をり くらし つつ (門庭に並み立つ檜葉の隠り葉のしづえの枯れを折り暮らしつつ)
歌意 門の辺りの庭に並んで立っている檜の繁った葉の内側の枯れた下枝を折って私は暮らしている。 着の身着のままで東京を逃れた八一には読むべき本も無かった。丹呉家の世話になるので、庭の手入れなどで協力したのかもしれない。この時、八一のカバンにあったのは恩師・坪内逍遥の書簡の束だけだったので、その整理をしていたと日記にある。
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柿若葉(第5首) 新潟市はわがためには故郷なれども今はたよるべき親戚も無ければ北蒲原郡西条なる丹呉氏の宗家をたづねて身を寄すすでに亡きわが父も幼時この家に扶養を受けられたることなどしみじみ思ひ出でて眼に触るるものすべてなつかし かどには の いしゐ の しみづ あさ に け に くみ けむ ちち の わかき ひ を おもふ (門庭の石井の清水朝に日に汲みけむ父の若き日を思ふ)
歌意 門の辺りの庭の石井戸の水を朝に昼に汲んでいたであろう父の若き日のことを思う。 幼いころ丹呉家で育てられたありし日の父の姿を思って詠う。60才の半ばになり、また都から疎開した郷里で肉親の事が自然に思われる。
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三月二十八日報ありちか頃その寺に詣でて拝観するに香薬師像の たちまち何者にか盗み去られて今はすでにおはしまさずといふを 聞きて詠める(第5首) かど の へ の たかまどやま を かれやま と そう は なげかむ こゑ の かぎり を (門の辺の高円山を枯れ山と僧は嘆かむ声の限りを)
歌意 新薬師寺の門に近い高円山を枯れ山にしてしまうほどに僧は嘆き悲しむだろう。声の限りに泣きて。 須佐之男命の故事の解説が無いと難しい歌である。号泣が山を枯らすほどの悲嘆が故事を知ると迫力をもって迫ってくる。 今年は平城遷都1300年を記念して、新薬師寺は香薬師のレプリカを公開しているが、レプリカはレプリカである。本物の出現を渇望している。 (左の写真は素空作の香薬師像)
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山鳩(第21首) かなしみて いづれば のき の しげりは に たまたま あかき せきりう の はな (悲しみて出づれば軒の茂り葉にたまたま赤き石榴の花)
歌意 悲しみにくれながら観音堂を出ると軒に近い茂った緑の葉のなかに、真っ赤な石榴の花がちょうど目に入ってきた。 山鳩・21首を締めくくる歌である。山鳩が「き なき とよもす」(第18首)観音堂でただ一人きい子の死を悼み、鎮魂の歌を詠む。山鳩の鳴き声が象徴する観音堂の静けさの中で、八一は悲しみに沈みながら21首の挽歌を完成させた。その最後の「あかき せきりう の はな」のなんと印象的なことか。この挽歌を質の高い詩的世界へと押し上げたと言ってよいだろう。
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山中にて(第3首) かの みね の いはほ を ふみて をのこ やも かく こそ あれ と をたけび に けむ (かの峰の巌を踏みて男やもかくこそあれと雄叫びにけむ)
歌意 あの峰の巌を踏んで男たるものこうでなければならぬ(天下を取る)と叫んだのであろう、将門は! 山中にて第2首・注に記載した将門の雄叫び「壮んなるかな、大丈夫此に宅(を)るべからざるかと叫んで反を謀り・・・」を思い描いて、作者の心も熱を帯びている。 現在の四明獄には将門の荒々しい伝説などなかったように、美しい花が咲き乱れる「ガーデンミュージアム比叡」がある。
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予罹災ののち西条に村居し一夜大いなる囲炉裏のほとりにて よめる歌これなり(第3首) かはぞひ に のら に いづれば こゑ あげて うたひましけむ そんじゆく の みち (川沿いに野良に出づれば声あげて歌ひましけむ村塾の道)
歌意 川沿いの野に出ると、父は声を上げて漢詩などを歌いながら村塾までの道を歩いたであろう。 父は塾への道で学習のためにいろいろなものを声を出して歩いただろう。とりわけ、漢詩の素読による暗唱などを試みたのだ。それは八一の幼いころと同じだったのだろう。
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木葉(このは)村にて(第2首)
かはら やく おきな が には の さむしろ の かぜ に ふかるる さにぬり の さる (瓦焼く翁が庭のさ莚の風に吹かるるさ丹塗りの猿)
歌意 瓦を焼くことを生業にしている老人の家の庭の莚の上に、素焼き前の乾燥のために置かれて風に吹かれている赤く塗られた猿たちよ。 粘土で成形された焼き上げる前の木葉猿たち、郷土玩具や陶芸に愛着のある八一の暖かいまなざしが感じられる。八一は玩具作りには手を出さなかったようだが、自ら書を書いた陶器を作っている。
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奈良博物館にて(第3首) かべ に ゐて ゆか ゆく ひと に たかぶれる
ぎがく の めん の はな ふり に けり (壁にゐて床ゆく人にたかぶれる伎楽の面の鼻古りにけり)
歌意 壁にかけられて、床を歩く拝観者を見下ろして、高ぶっているように見える伎楽の面の高い鼻も古びてしまったなあ。 東大寺展で伎楽の面を見た。昔、会津八一が対峙した同じ場に立って感慨深いものがあった。 この歌に続いて「いかでわれ これらのめんに たぐひゐて ちとせののちの よをあざけらむ」と詠い、自分もこの面の仲間に入って千年の後に人を見下ろしてみたいという。どう感じるかはいろいろだが、「怪異な面、高ぶる」のなかに自己の気持ちに忠実に孤高を保つ自負心がにじみ出ていると思う。
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夜雪(第1首) かへり きて もの なき やど の のき の は に つみて ぞ しろき ふるさと の ゆき (帰り来てもの無き宿の軒の端に積みてぞ白き故郷の雪)
歌意 帰ってきた故郷の何も無い今の住まいの軒の端に白く雪が積もっている、これこそ故郷の雪なのだ。 八一は自分が生まれ育った生家からそう遠くない所に家を借りた。大学に入学して以来43年、大学に勤めて35年、ほとんどを東京で過ごした。今、故郷新潟に帰りここを終の棲家とする。きい子の死の悲しみから立ち直り、新潟での活動に軸を移した八一は静かに故郷の雪を詠む。
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うみなり(第1首) 昨春四月東京をのがれて越後に來り中条町西条なる丹呉氏に寄りしがことし(昭和二十一年)七月の末よりはじめてわが故郷なる新潟の市内に移り南浜通といふに住めり十一月十五日の夜海鳴の音のはげしきに眠る能はず枕上に反側してこの数首を成せり かへり きて ゆめ なほ あさき ふるさと の まくら とよもす あらうみ の おと (帰り来て夢なほ浅き故郷の枕とよもす荒海の音)
歌意 (故郷新潟に)帰って来たばかりで、まだ現実感がなく、眠りが浅い枕の辺りに鳴り響く冬の荒海の音が聞えてくる。 生家に近い新しい住居は日本海に近い場所である。何十年ぶりかで聞く海鳴りは、故郷へ帰ったという強い思いを抱かせる。感情が高ぶって眠れずに詠む6首である。
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雁来紅(第3首) かまづか の あけ の たりは の しげりは を いはひ かくろひ いなご すむ みゆ (かまづかの朱の垂り葉の繁り葉をい這ひ隠ろひいなご住む見ゆ)
歌意 葉鶏頭の赤く垂れ下がった繁った葉の中を這ったり隠れたりして住んでいるいなごが見える。 「の」の続く3句までで、伸びやかに自然に葉鶏頭を描写し、その後にいなごの営みを歌う。生きとし生けるものに愛情を注いだ八一の心情がにじみ出る。大切に育てた葉鶏頭、そこで生きるいなごたち。
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雁来紅(第12首) かまづか の あけ の ひとむら ゑがかむ と われ たち むかふ ふで も ゆらら に (かまづかの朱の一叢描かむと我立ち向かふ筆もゆららに)
歌意 葉鶏頭の真っ赤に色づいたひとかたまりを描こうと私は立ち向かっている。ゆったりと筆をかまえながら。 20年にわたって精魂こめて作り、知り尽くした葉鶏頭を歌に詠み、水墨画に描く。対象への気迫を籠め、筆を持つ手はゆったりとして。
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雁来紅(第8首) かまづか の したてる まど に ひぢ つきて よ を あざけらむ とごころ もなし (かまづかの下照る窓に肘つきて世をあざけらむとごころもなし)
歌意 葉鶏頭が赤く美しく照り映える窓に肘をついて、世間を嘲笑うような鋭いしっかりした心は今の私にはない。 鮮やかに咲く葉鶏頭に対比した老境(61歳)の作者の心境が伝わってくる。この歌は「奈良博物館にて(第4首)」(48歳)の「あざけらむ」を想定して詠まれている(注1参照)。老境に入り穏やかになったと思われるが、「当時の世相、世情を見て慨嘆、罵倒すべきこと多いときの鬱屈した気持の吐露」(植田重雄)と思われる。 注1 自註より かつて奈良博物館にて東大寺の伎楽面を観て 解説 いかでわれこれらのめんにたぐひゐてちとせののちのよをあざけらむ と詠みしことあり。思ひ合わすべし。 注2 会津八一の文学(宮川寅雄)より この作品は山光集の「雁来紅」に所収されているが、この歌の自嘲的感懐は彼みずからこの歌を愛吟し、死に至るまでしばしば揮ごうし、時には繚乱とした墨画を添え、時には自画像を付して発表したものであった。彼は日頃この花を愛し、永年栽培し続け、その丈高く、色あくまで紅いその枝を誇っていた。
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雁来紅(第9首) かまづか の まど に より ゐて おもは ざりし ひとつ の おもひ たへ ざらむ と す (かまづかの窓に寄りゐて思はざりし一つの思ひ耐へざらむとす)
歌意 葉鶏頭が美しく照り映える窓に寄りかかって、思ってみなかった一つの思いが浮かび、そのことに耐えがたい気持ちになった。 窓辺に鮮やかに咲く葉鶏頭を眺めながら、思いはいろいろと起こる。前句のように「あざけらむとごころなし」と現在の心境を詠うこともあれば、この句のように過去の悔恨を思うこともあった。
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雁来紅(第13首) かまづか は あけ に もゆる を ひたすらに すみ もて かきつ わが こころ かな (かまづかは朱に燃ゆるをひたすらに墨持てかきつ我心かな)
歌意 葉鶏頭は真っ赤に燃えているが、私は黒い墨でひたすら描いたのだ。心の底から。 燃えるような赤という鮮やかな色彩を墨の濃淡で表現する。それは簡単なことではない。長年の芸への努力が必要であり、また取り組む心の持ち方が問われる。
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雁来紅(第4首) かまづか は たけ に あまれり わが まきて きのふ の ごとく おもほゆる ま に (かまづかは丈に余れりわが蒔きて昨日のごとく思ほゆる間に)
歌意 葉鶏頭は人の背丈を越えるほどに大きくなっている。種を蒔いたのはつい昨日のように思っている間に。 八一が自ら種をまき丹精して育てた葉鶏頭があっという間に大きく育った。永年、栽培しその高さその色鮮やかさは素晴らしかったと言う。
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六月一日吉野秀雄の案内にて多胡の古碑を観たる後伊香保にいたり 千明仁泉亭に入る翌二日裏山の見晴に登り展望す(第9首) かみつけ の くに の かぎり と たつ くも の ひま にも しろき ほたかね の ゆき (かみつけの国の限りと立つ雲の暇にも白き武尊嶺の雪)
歌意 上州(群馬県)の北の境を示すように立ち広がっている雲の隙間に、武尊山山頂の真白な雪がはっきりと見える。 前作で伊香保温泉の北東に見た日光男体山を詠い、ここでは北に眼を転じ、新潟との県境を意識しながら武尊山の雪景色をとらえる。雲の場所を「国の限り」と詠う広大な光景の中に武尊山の雪が鮮明に表現されている。
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山中高歌(第10首) かみつけ の しらね の たに に きえ のこる
ゆき ふみ わけて つみし たかむな (かみつけの白根の谷に消え残る雪踏み分けて摘みしたかむな)
歌意 上州(群馬県)の白根山の谷間にまだ残っている雪を踏み分けて摘んだ筍ですよ。 恩師坪内逍遥への土産は山田温泉で手に入れた筍だったと言う。「憂患」の山田温泉での時を契機に、早稲田中学教頭辞任(大正11年)を心に決めた八一は学校運営から学術の道に軸足を移していく。それが古代への想いとして奈良への陶酔となっており、学術研究と歌の創造に結実していく。
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六月一日吉野秀雄の案内にて多胡の古碑を観たる後伊香保にいたり 千明仁泉亭に入る翌二日裏山の見晴に登り展望す(第10首) かみつけ の そら の みなか に かがよへる くも は しづけし いにしへ も かく (かみつけの空のみ中に輝よへる雲は静けし古もかく)
歌意 上州(群馬県)の空の真ん中で輝いている雲はとても静かだ。ずっと昔もこのようであっただろう。 群馬の大自然の中の輝く雲をなんと静かなことかと詠い、悠久の昔もそうであっただろうと感慨にふける。そこには作者の自然を前にした静かで落ち着いた心が投影されている。そして、古代への憧憬が深い八一を遠い昔へと誘っている。
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豊後海上懐古
かみ の よ は いたも ふりぬ と ひむがし に くに を もとめし おほき すめろぎ (神の世はいたも古りむと東に国を求めし大き天皇)
歌意 神の時代に日向の地はもう古くなったと東方にある大和へ新しい国をつくるために進まれたのは偉大な神武天皇であられたことよ。 この時代(明治、大正)、日本神話は当然のことと受け止められていたし、古代への憧憬の強かった八一には自然な「懐古」なのである。八一は合理的な思考の持ち主だったし、安易に大勢に流されない姿勢を貫いたが、天皇に対する思慕は並ではなかった。
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やがて紀元節も近づきければ古事記の 中巻なる神武天皇の条を読みて(第15首)
かみ の よ を ひと の うつつ に あき つ よ と
おして さだめし おほき すめろぎ (神の代を人の現にあきつ代とおして定めし大き天皇)
歌意 神の代だった時代を人が実際に支配し治める現実の世界へと力で推し進めた偉大な天皇である、神武天皇は。 神武天皇をたたえて詠った。第18首から第32首までは戦後一度削除し、後に復活したものである。
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やがて紀元節も近づきければ古事記の 中巻なる神武天皇の条を読みて(第3首)
かめ の せ の かみ のぼり きて おほふね の
みを の つかさ と さもらひ に けり (亀の背の神登り来て大船の水脈の司とさもらひにけり )
歌意 亀の背に乗った神があらわれて神武天皇の大船の水先案内の役人となってお仕えした。 古事記の逸話を詠んだもの。第18首から第32首までは戦後一度削除し、後に復活したものである。
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奈良博物館即興(第3首) ガラスど に ならぶ 四はう の みほとけ の ひざ に たぐひて わが かげ は ゆく (ガラス戸に並ぶ四方のみ仏の膝にたぐひて我が影はゆく)
歌意 ガラスケースの中に並ぶ四方四仏の膝のあたりを私の影が沿うように動いていく。 大正14年、訪れる人も少ない博物館内はひっそりと静かだったに違いない。静かな館内で自らの影が動くことに着目し歌に詠んだところが非凡である。八一は奈良の仏像を風の動きやさしこむ光などと共に詠んできた。ここでは「ひざにたぐひてわがかげ」と自らの影を詠んで、仏像を浮き上がらせて見事だ。
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その他(第1首) ガラスど の たな に ならびて おのも おのも いりひ かがよふ しやり の おんたふ (ガラス戸の棚に並びておのもおのも入日輝よふ舎利の御塔)
歌意 博物館のガラスケースに並んでそれぞれが入日を受けて輝いている舎利の塔よ。 夕陽にそれぞれの舎利塔が輝いている様を詠んだ。それぞれが重みを持つ舎利塔がくっきりとガラスケースの中で立ち並ぶ博物館の光景である。 植田重雄の“最後の奈良研究旅行” 注 しやりのおんたふ 自註 仏陀の遺骨を舎利と称して尊拝す。我が国四天王寺、法隆寺、薬師寺等の諸塔も、その基底の礎石の中に、もとみな舎利を納蔵したり。天に聳ゆる諸塔の構造も、実はただ、この舎利の存在を遠近に標識せむがために過ぎずといひつべし。されど特に舎利塔と名づけて数寸乃至数尺を出でざる一類の小塔あり。奈良博物館には、西大寺、海龍王寺等より出陳せる数基あり。歌はこれらを詠めるなり。
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雁来紅(第11首) からすみ を いや こく すりて かまづか の この ひとむら は ゑがく べき かな (唐墨をいや濃く磨りてかまづかのこの一叢は描くべきかな)
歌意 唐墨を充分に濃く磨って、葉鶏頭のこのひとかたまりは描くべきである。 雁来紅第11~16首までは水墨画の歌である。真っ赤に燃える葉鶏頭を墨一色で燃え立つように書こうとした。 宮川寅雄が「会津八一の文学」で“死に至るまでしばしば揮ごうし、時には繚乱とした墨画を添え”と書いた葉鶏頭である。(雁来紅第8首注2参照)
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法華寺温室懐古(第2首) からふろ の ゆげ たち まよふ ゆか の うへ に
うみ に あきたる あかき くちびる (から風呂の湯気たちまよふ床の上に膿に飽きたる赤き唇)
歌意 蒸風呂の湯気が漂い充満する床の上に、沢山の癩病患者の膿を吸ってお疲れになった皇后の美しい赤き唇がある。 第1首で千人の施浴を実行する皇后の行為を詠んだ八一は、この歌(第2首)で本堂・十一面観音の唇を皇后の赤き唇に重ねる。「うみにあきたる」赤き唇の皇后の一瞬の光景を想像し、怪奇的とも言える妖艶さを再現する。遠き昔を想像力と言葉の力で眼前に生々しく表出する八一に圧倒される。すざましいとも言えるこの歌は、伝説(仏の出現)を詠った第3首をもって「温室懐古」として穏やかに完成される。
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法華寺温室懐古(第3首) からふろ の ゆげ の おぼろ に ししむら を
ひと に すはせし ほとけ あやし も (から風呂の湯気のおぼろにししむらを人に吸わせし仏あやしも)
歌意 蒸風呂の湯気が立ち込めぼんやりした中で、癩病患者になって皇后に膿を吸わせた仏の行いは人知でははかりしれないとても不思議なことであるよ。 本尊十一面観音の歌を背景に法華寺温室懐古3首はこの歌で統一性を持って完成する。第1首の皇后の千人の施浴の紹介から第2首の赤き唇に象徴される怪奇的とも言える情景が、この第3首で仏の行為(教え)として詠われることによって、穏やかな世界として統一・完成する。「赤き唇」の鮮烈なイメージを中心にした一連の作は、あやしく美しいものとして当時の法華寺の世界を浮かび上がらせる。 「赤き唇」が会津のエロだという批判に答え、官能的とも言える仏の表現について八一が言ったことを要約する。 仏にすがって詠むのではなく、その時代を背景に美術的な観点からも考えて仏を詠えば、この十一面観音そのものに官能的な持ち味があるから自然にそうなり、新薬師寺の香薬師如来にはその仏の醸し出す「さびしさ=寂寥」があるから、あのように詠いだされる。
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軽井沢にて からまつ の はら の そきへ の とおやま の あをき を みれば ふるさと おもほゆ (落葉松の原のそきへの遠山の青きを見れば故郷おもほゆ) そきへ 「退き方。遠く離れた方」 歌意 (軽井沢の)落葉松林の遠く隔たった彼方の空に遠山のくっきりと青く聳えている姿を見ると故郷(新潟)が偲ばれることだ。 明治の末、夏の軽井沢で故郷を詠んだ。「の」の連続による流れるような調べが素晴らしい。澄み渡った自然と故郷への思いが溢れるこの歌は、盛夏(お盆)にふさわしい。
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伐柳(第5首) 新潟の市中には多く柳を植ゑ特異の景観をなせり旧幕の頃河村瑞軒来りてこの地に町奉行をつとめたる時遠く人を浙江の西湖に派しその苗を求めしめて植ゑたるに始まると伝ふ十一月十五日の夕予ひとり家を出でて市中を行くに残柳の枝間にところどころ人影ありてしきりに鉈を揮ふを見る かり すてし やなぎ の えだ の か に にほふ まち の ちまた の たそがるる ころ (刈り捨てし柳の枝の香に匂ふ街の巷のたそがるる頃)
歌意 刈り捨てた柳の枝の香りがあたりにただよっている街の通りのたそがれる頃よ。 切り落とした柳から出る樹液の甘酸っぱい匂いがあたりにただよう故郷特有の晩秋の夕暮は昔と変わらなかったであろう。
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伐柳(第4首) 新潟の市中には多く柳を植ゑ特異の景観をなせり旧幕の頃河村瑞軒来りてこの地に町奉行をつとめたる時遠く人を浙江の西湖に派しその苗を求めしめて植ゑたるに始まると伝ふ十一月十五日の夕予ひとり家を出でて市中を行くに残柳の枝間にところどころ人影ありてしきりに鉈を揮ふを見る かり そけて つち に みだるる はやなぎ の えだ ひき あそぶ ふるさと の こら (刈りそけて土に乱るる葉柳の枝引き遊ぶ故郷の子ら)
歌意 刈り落とされて土の上に散らばっている柳の枝を引っ張って遊ぶ故郷の子供達よ。 刈り落とされた枝で遊ぶ子供達を嬉しそうに眺める八一、自らの子供時代を懐かしく思い出していたであろう。
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三月十五日大鹿卓とともに平城の宮址に遊び大極の芝にて(第4首) かれくさ に わかくさ まじり みだれ ふす
おほみやどころ ふめば くるし も (枯草に若草混じり乱れ伏す大宮処踏めば苦しも)
歌意 枯草に若草が混じって乱れ伏している荒れ果てた大極殿の址を踏むのは心が痛む。 戦争中の1943年(昭和18年)3月、八一は平城京跡を訪れ平城宮址13首を詠む。国中で民族意識が高揚するなか、古代への想いを吐露する。 また、天智天皇が都とした大津の宮の荒れた様子を見て詠んだ万葉集の長歌(作者: 柿本人麻呂) 「・・・大宮は ここと聞けども 大殿(おほとの)は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日の霧(き)れる ももしきの 大宮ところ 見れば悲しも」(万葉集巻一 0029) を八一は想定していたと思われる。 2010年(平成22年)、平城宮跡に第一次大極殿が実物大で復元された。八一が存命なら、どのような歌を詠んだかと思う。 春日野(八一と健吉の合同書画集より)
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浄瑠璃寺にて(第2首) かれわたる いけ の おもて の あし の ま に かげ うちひたし くるる たふ かな (枯れわたる池の面の葦の間に影うち浸し暮るる塔かな)
歌意 冬枯れの葦の間の池の水面に、塔の影を浸しながら暮れていく三重の塔よ。 第一首で「じやうるり の な を なつかしみ みゆき ふる はる の やまべ を ひとり ゆく なり」と詠んで、期待して訪れた浄瑠璃寺は冬枯の風景の中で暮れていこうとしていた。まだ寒い初春の静かな寺内に八一は一人ゆったりと浸っていたのである。 歌人・原田清は解説でこう書いている。 「かげうちひたしくるるたふかな」が春の到来を告げているような響きを持つ。作品の調べによる。 堀辰雄の「大和路・信濃路」(浄瑠璃寺の春)を以下に引用する。 この春、僕はまえから一種の憧れをもっていた馬酔木(あしび)の花を大和路のいたるところで見ることができた。 そのなかでも一番印象ぶかかったのは、奈良へ著(つ)いたすぐそのあくる朝、途中の山道に咲いていた蒲公英(たんぽぽ)や薺(なずな)のような花にもひとりでに目がとまって、なんとなく懐かしいような旅びとらしい気分で、二時間あまりも歩きつづけたのち、漸(や)っとたどりついた浄瑠璃寺の小さな門のかたわらに、丁度いまをさかりと咲いていた一本の馬酔木をふと見いだしたときだった。
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二十六日山内義雄に導かれて嵯峨に冨田渓仙の遺室を 弔(とむら)ふ(第1首) きうきよだう の すみ の すりかけ さしおける とくおう の ふで さながらに して (鳩居堂の墨の磨りかけさし置ける得応の筆さながらにして)
歌意 鳩居堂の墨の磨りかけ、描いている時にそのまま置いた得応軒の筆、冨田渓仙が生前のままであることよ。 書家であった八一は真っ先に墨と筆に目が行ったのだろう。早大の親しい同僚の山内義雄の案内で訪れた日本画家・冨田渓仙を偲ぶ歌、3首の初めである。 第1首 第2首 第3首
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村荘雑事(第1首)
きく うう と おり たつ には の このま ゆ も たまたま とほき うぐいす の こゑ (菊植うと降り立つ庭の木間ゆもたまたま遠きうぐいすの声)
歌意 菊を植えようと庭に降り立つと木々の間からちょうどその時鶯の遠い鳴き声が聞こえてきた。 悩み多く体調もすぐれなかった時代を山中高歌、放浪唫草を経ることによって克服し、武蔵野の名残を残す広大な敷地の下落合秋艸堂に移り住んだ八一が淡々と自然を詠う。庭仕事の中で偶然に遠くの鶯の声を聞く、奈良の歌とは違う自然の中の八一が浮かび上がってくる。 八一は菊作りでは専門家に近かった。後に「菊の作り方」と言う絵入りの巻物を作っている。
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村荘雑事(第2首)
きく うう と つち に まみれて さにはべ に われ たち くらす ひと な とひ そね (菊植うと土にまみれてさ庭辺に我立ち暮らす人な問ひそね)
歌意 菊を植えようと土まみれになって庭で働いている。誰も訪れてくれないようにと願っている。 下落合秋艸堂に移り住んで得た落ち着いた生活である。「ひとなとひそね」と言う八一、その環境を壊す訪問を嫌っただけで、実際は多くの門下生や学生が出入りする。
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東京なる旧廬の跡をたづねそのさまを人の報じこしたるを 読みて(第1首) きざめりし わが な のこりて たまたまに かど の はしら に ひと の たつ とふ (刻めりし我が名残りてたまたまに門の柱に人の立つとふ)
歌意 家は全て燃えたが石の門柱だけが燃えずに、そこに彫った私の名だけが残った。時々その前に尋ねてきた人が立つということだ。 秋艸堂は石の門だけが残り、そこを訪れる人達がいると新潟に疎開した八一の耳に入った。友人や門下生の顔を思い出しながら詠んだことであろう。
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三日榛名湖畔にいたり旅館ふじやといふに投ず(第6首) きし ゆけば あさ の まさご に おほき なる こひ しにて あり やま の みづうみ (岸行けば朝の真砂に大きなる鯉死にてあり山の湖)
歌意 朝、山の湖の岸辺を散歩していると砂の上に大きな鯉が死んでいた。 朝のさわやかな自然の中で鯉の死という珍しい光景に遭遇する。初夏の生き生きとした自然の中の死が八一の心を動かし、歌になった。
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法隆寺東院にて(第2首) ぎそ の ふで たまたま おきて ゆふかげ に おりたたし けむ これ の ふるには (義疏の筆たまたま置きて夕光に下り立たしけむこれの古庭)
歌意 義疏をお書きになる筆を時おり置かれて、この夕方の光がさしこむ夢殿の古庭に下りてお立ちになられたのだろう。 八一の聖徳太子への思慕の念が、庭にたたずむ太子を浮かびあがらせた。大正末期の訪れる人がほとんどない夢殿と当時の強い太子崇拝を思うと静かな夢殿の庭の情景が良く理解できる。 八一は自註鹿鳴集で義疏を「ぎそ」と表現した理由を書いている。 『・・・仏家にては「疏」に字を「シヨ」と読む習はしなるも、作者は「シヨ」の音調のやや硬きを避けて、特に「ソ」と読めり。恰もこの集中にて「釈迦」を、ことさらに「サカ」と読めるところあると同じなり。特にこれを註す。』八一は音調を大事にした。そのために作歌の途中で何度も何度も音読している。びるばくしやの歌を参照。 第1首へ
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泰山木(第1首) きぞ の よひ さして いねたる ひとえだ の たいさんぼく は さき いで に けり (昨夜の宵挿して寝ねたる一枝の泰山木は咲き出でにけり)
歌意 昨日の夜、瓶に挿して寝た一枝の泰山木の蕾が今朝は咲きだしている。 昨夜、蕾を挿して寝た泰山木が白く大きな花を咲かせた。その朝の驚きを詠む。秋艸堂(目白文化村)の斜め向かいに住んでいた日本画家・大沢恒躬(つねみ)の家で、はじめて二つ着けた蕾の一つである。病気のきい子と老齢の八一をなぐさめようと切ってくれたものである。
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うみなり(第4首) 昨春四月東京をのがれて越後に來り中条町西条なる丹呉氏に寄りしがことし(昭和二十一年)七月の末よりはじめてわが故郷なる新潟の市内に移り南浜通といふに住めり十一月十五日の夜海鳴の音のはげしきに眠る能はず枕上に反側してこの数首を成せり きそひ たつ なみ の ほ の ま を ゆく うを の いろこ も みえつ ゆめ の うつつ に (競ひ立つ波の穂の間を行く魚のいろこも見えつ夢のうつつに)
歌意 競い立つような波がしらの間を泳いでゆく魚の鱗まで見えてくるのだ、夢うつつの中に。 浅い眠りの中で、揺れ動く佐渡島を見た八一は(第3首)、さらに波間を泳ぐ魚の鱗さえ見えてくると詠う。その情景が夢なのか現実なのかわからないと詠うほど海鳴りの激しい夜だった。
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鞆の津にて
きてき して ふね は ちかづく とものつ の あした の きし に あかき はた たつ (汽笛して船は近付く鞆の津の朝の岸に赤き旗立つ)
歌意 汽笛を鳴らしながら船は鞆の津の港に近づいてゆく。朝の港の岸辺には沢山の赤い旗が立っている。 瀬戸内海航路の要所、鞆の浦(鞆の津)に船が近づいていく。ここは瀬戸内海の潮の流れが変わる場所で、潮の満ち引きを待つ船が集った。潮待ち港とも呼ばれ、多くの船が停泊していた。そんな光景を音と色彩で表現する。
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十一月二十一日奈良より帰り來りその夜より病みふして立つ 能はざること五箇月に及べりそのいとまいとまに詠める歌(第1首) きのふ みし やま の もみぢば くれなゐ に め には もえ つつ やみ ふす われ は (昨日見し山のもみぢ葉紅に眼にも燃えつつ病み臥す我は)
歌意 昨日見た奈良の山々の紅葉が真っ赤に眼前に燃えているのに、私は今病んで臥しているのだ。 学生を連れた最後の奈良旅行で体調を崩し、東京へ帰って病臥した八一は命の危険に陥った。きい子や廻りの人の献身的な看病が続いた中で詠んだ歌。詞書は6首に及び病間は41首ある。
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その夜家にかへりておもふ(第3首)
きみ が ため ふるさとびと の まゐり こむ みてら の かど の ゆき は つむ らし (君がため故郷人の参りこむみ寺の門の雪は積むらし)
歌意 あなたとの別れのために故郷の人々が訪れるであろう菩提寺の門のあたりに雪は降り積もるであろう。 東京から故郷新潟の菩提寺に移った叔父の魂に多くの人が別れを告げに来る。ここ東京に雪が降ったが、告別式のある新潟の雪は沢山降り積もるだろう。八一は故郷新潟の印象を青空の奈良に比して、曇天と深雪であると語っている。
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尾張篠島をおもふ(第2首) きみ と みし しま の うらわ の むし の ひ の まなこ に ありて ととせ へ に けり (君と見し島の浦曲の虫の火の眼にありて十年経にけり)
歌意 君と見た篠島の曲がりくねった海岸の夜光虫の光の素晴らしい光景がずっと眼に残っていて、あれから十年の歳月が経ってしまった。 「素樸愛すべし」(第1首参照)と表現した漁業のみの鄙びた小島で八一が印象的だったのが夜光虫のおびただしい光だった。それは10年経っても脳裏から消えない印象的な出来事だった。夜の浜を散歩すれば、夜光虫やウミホタルの織り成す幻想的な世界を見る事が出来ると案内があるが、昨日は日中だけの篠島訪問だったので見ることはできなかった。
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清水寺にて(第1首) きよみづ の やね の ひはだ の まだらに も つゆ を ふくめる こけ の いろ かな (清水の屋根の檜皮のまだらにも露を含める苔の色かな)
歌意 清水寺の屋根の檜皮をまだらにして秋の露を含んだ苔の色が鮮やかである。 檜皮葺きの清水寺の屋根の苔が露を含んで緑色が一層鮮やかになったと詠い、苔のまだら模様が印象的だと捉える。
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薬師寺東塔(第1首) くさ に ねて あふげば のき の あをぞら に すずめ かつ とぶ やくしじ の たふ (草に寝て仰げば軒の青空に雀かつ飛ぶ薬師寺の塔)
歌意 草に寝転んで美しい塔を仰ぎ見ていると軒に迫る秋空を雀が飛びまわっている。 大空にそびえる東塔の美しさを、飛び交う雀の動きで際立たせている。「くさにねて」作者はどっしりとした視点からゆったりとした時の流れに漂うているようだ。 境内には「すいえんの・・」(八一)の石碑とともに佐佐木信綱の有名な石碑がある。 行く秋の 大和の国の 薬師寺の 塔の上なる ひとひらの雲
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銅鑼(第1首) はじめて草盧に奈良美術研究会を開きしより今にして二十年にあまれり身は遂に無眼の一村翁たるに過ぎずといへども当時会下の士にして後に世に名を成せるもの少からずこれを思へば老懐いささか娯むところあらむとす くさ の と に こもごも のき の どら うちて とほく とひ こし わかびと の とも (草の戸にこもごも軒の銅鑼打ちて遠く訪ひ来し若人の友)
歌意 草深い粗末な秋艸堂の軒の銅鑼をかわるがわる鳴らして、遠くから訪ねてきた若い友人たちよ。 秋艸堂には珍しく来客用に銅鑼が掛けてあった。敗戦間近、今は訪れる人さえいない孤独の中で、20年前に希臘(ぎりしゃ)学会を解消して作った奈良美術研究会に集った若者たちを思い起こして詠う。この会は八一の奈良美術への第一歩だった。
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山田寺の址にて(第1首)
くさ ふめば くさ に かくるる いしずゑ の くつ の はくしゃ に ひびく さびしさ (草ふめば草に隠るる礎の靴の拍車にひびく淋しさ)
歌意 何も残っていない山田寺の草原を踏み分けていくと草に隠れた礎石に乗馬靴の拍車があたって鋭い響きが出る。嗚呼!なんと淋しい響きだろう。 蘇我倉山田石川麻呂は蘇我氏一族であったが、入鹿とは敵対し大化改新では娘婿の中大兄皇子に加担した。その石川麻呂が造営を始めたのが山田寺。だが649年謀反の疑いをかけられた無実の石川麻呂はこの寺で自害した。この悲劇的な山田寺跡を会津八一が詠んだ。 声を出して読み込むと、か行音の繰り返しで音が響いてくるようだ。(くさ くさ かく くつ はく ひびく)
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下山の途中に(第1首) くだり ゆく たに の さぎり と まがふ まで まつ の こずゑ に しろき みづうみ (下りゆく谷のさ霧とまがふまで松の梢に白き湖)
歌意 下山してゆくと谷の霧と見間違えるばかりに、松の梢に琵琶湖の水が白い。 比叡山から坂本に下る途中で詠んだ歌。車で下山すると所々で琵琶湖を景観できる場所に出る。山道に現れ消える琵琶湖の景色は誰もが感嘆の声をあげる。八一は美しい湖を霧の白さと対比させて表出した。 注 自註鹿鳴集より引用 しろき 下山の途すがら、樹梢の間に琵琶湖の水を望むなり。最澄の作れりといふ『叡岳(えいがく)相輪塔銘』といふものに、「叡岳ハ秀聳(しゅうしょう)ニシテ、朝ハ北部ニ謁シ、神獄ハ嵯峨トシテ、夕ニ東湖ニ臨ム」とあり。前に掲げたる即非の詩には、「殿ハ山影ヲ低ウシテ合シ、門ハ湖光ニ対シテ開ク」の句あり。地勢まさにかくに如きなり。
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紀元節 くに とほく しま の むろや に けふ の ひ を うちことほぐ か わかびと の とも (国遠く島の室屋に今日の日をうち寿ぐか若人の友)
歌意 日本を遠く離れた戦場となっている島の岩窟のような土屋のなかで今日の紀元節を祝っているのだろうか、私の若い友人たちは。 敗戦間近の紀元節に、出征し遠くの戦場にいる教え子たちの苦難を思うが、戦時では紀元節を祝っているだろうかとしか表現できなかった。それほど、国家の統制はきつかった。古代への憧憬が強い八一にとっては自然な形に見えるが、詠いたかった若者たちへの思いを歌の奥底に読みとるしかない。
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大仏讃歌(第6首) 天平十三年四月聖武天皇諸国に詔して国分寺を建てしめ十五年十月東大寺廬舎那の大像を創めしめたまふその義華厳梵網の所説に拠りたまへるものの如し予しばしば此寺に詣で金容遍満の偉観を瞻仰してうたた昔人の雄図に感動せずんばあらずかつて和歌一首を成せり曰く「おほらかにもろてのゆびをひらかせておほきほとけはあまたらしたり」と今日また来りてその宝前に稽首し退いてさらに十首を詠じ以て前作の意を広めむとす邦家いまや四海に事多し希くは人天斉しく照鑑してこの聖皇の鴻願をして空しからざらしめむことを 昭和十八年三月十一日 くに の むた てら は さかえむ てら の むた くに さかえむ と のらせ けむ かも (国のむた寺は栄えむ寺のむた国栄えむとのらせけむかも)
歌意 国と共に寺は栄えるであろう、同時に寺とともに国は栄えるであろうと聖武天皇はおっしゃったのだ。 「くに」「てら」「むた」「さかえむ」の反復が快いリズムを作っている。自註によると聖武天皇の勅文の中の言葉を参考にしたとある。
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天皇を迎へて(一)(第2首) くにみ す と めぐり いまして しなさかる こし の あらぬ に たたす けふ かも (国見すと巡りいましてしなさかる越の荒野に立たす今日かも)
歌意 戦後の各地の様子を見るために巡幸されて、遠いこの新潟の野に天皇がお立ちになる今日である。 天皇の戦後の巡幸を古代の天皇の国見と同じとして詠う。荒野は新潟の平原と言う意味、へりくだって表現した。
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やがて紀元節も近づきければ古事記の 中巻なる神武天皇の条を読みて(第10首)
くぶつち の たち ひき そばめ うかがひし
とよ の あかり の ともしび の かげ (頭椎の太刀ひきそばめ窺ひし豊の明りの灯火の光)
歌意 (料理人達は土雲八十健を討とうと)頭椎の太刀を身に引き寄せて好機が訪れるのを待っていた大宴会の灯火の光よ。 古事記の逸話を詠んだもの。第18首から第32首までは戦後一度削除し、後に復活したものである。
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山鳩(第14首) くみ いでて ひと に すすめし ひとつき の ちや に さへ こめし なが こころ かも (汲み出でて人に勧めし一杯の茶にさえこめし汝が心かも)
歌意 来客に入れてお出しした一杯のお茶にさえおまえの心がこもっていたのだなあ。 来客や門下生に出す茶にも心をこめて出していたきい子、そんな日常の中の誠実な行為にも八一は感謝し、追想して詠う。ただ一人、きい子の亡骸のかたわらにあって、想い出は尽きない。
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山中高歌(第5首) くも ひとつ みね に たぐひて ゆ の むら の
はるる ひま なき わが こころ かな (雲一つ峰にたぐひて湯の村の晴るる暇なき我心かな)
歌意 一片の雲が峰に連なってこの温泉の村が晴れる時が無いように私の心の憂いも晴れる時が無い。 雲を中心にした情景を序詞的に使って「はるる ひま なき」と我身の憂患を詠う。己の心を素直に表現して読者に迫る。
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十一月四日南大和より奈良に帰らむとて車窓に葛城山上の夕陽を望む くも ふかみ いま か いざよふ あまつひ の ひかり こもらふ かつらぎ の そら (雲深み今かいざよふ天つ日の光こもらふ葛城の空)
歌意 雲が深く覆っているので、今は出ようとしても出られない日の光が籠っている葛城山の空よ。 山上の深い雲とそこに籠っている夕陽の壮大な姿を簡潔に力強く詠む。南京新唱の「二上山をのぞみて」と一緒に観賞するとダイナミックな情景が鮮明になってくる。
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わが右の眼の硝子体に溷濁を生じて(第1首) くもり ある わが まなぞこ を うかがふ と わかき はかせ の こらす いき かな (曇りある我が眼底をうかがうと若き博士の凝らす息かな)
歌意 曇りのある私の眼底を診察しようとしている若い医学博士のこらす息よ。 真剣に診察する若い医師の息を凝らす一瞬をとらえて詠う。眼病に悩む連作6首の第1首である。
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わが右の眼の硝子体に溷濁を生じて(第3首) くもり なき ふたつ の まなこ たまひたる わが たらちね は すでに いまさず (曇りなき二つの眼たまひたる我がたらちねは既にいまさず)
歌意 曇りのないこの素晴らしい二つの眼を与えてくれた私の父母はもうこの世にはおられないのだ。 眼に疾患が起こって、その眼(さらに身体髪膚)を与えてくれた父母をしみじみと思い出し、しかし今はもういないことを寂しくも思う。 八一の母(イク)を詠った歌はなく、両親を詠ったものはこの1首だと思われる。父(政次郎)を追憶する歌は寒燈集・炉辺として14首(昭和20年12月)ある。また、八一に文学的感化を与えた叔父(友次郎)への挽歌10首が鹿鳴集・春雪(昭和15年2月)である。
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明王院(第5首) くりから の たがみ に まける たつのを の かぐろき ひかり うつつ とも なし (倶利迦羅のたがみに巻ける竜の尾のか黒き光ううつともなし)
歌意 倶利迦羅の剣の柄に巻き付いた竜の尾の黒い光は神秘的で現実のものとは思えないほど素晴らしい。 第4首で不動明王(赤不動)が倶利迦羅を睨みつける白い眼を詠い、ここではその竜の尾の巻き付く倶利迦羅の印象を歌にした。(下記前書を参照) 注 前書 十九日高野山明王院に於て秘宝赤不動を拜すまことに希世の珍なりその図幽怪神異これに向ふものをして舌慄へ胸戦き円珍が遠く晩唐より将来せる台密の面目を髣髴せしむるに足る予はその後疾を得て京に還り病室の素壁に面してその印象を追想し成すところ即ちこの十一首なり。 語句解説
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銅鑼(第4首) はじめて草盧に奈良美術研究会を開きしより今にして二十年にあまれり身は遂に無眼の一村翁たるに過ぎずといへども当時会下の士にして後に世に名を成せるもの少からずこれを思へば老懐いささか娯むところあらむとす くり ひらく ふるき ゑざう に かたむきて まなこ あつめし よひ の ともしび (繰り開く古き絵像に傾きて眼あつめし宵の燈火)
歌意 一枚一枚めくっていく古い絵像に身をかがめながら、夜の燈火の下で眼を集中させたものだ。 若者たちと燈火の下、膝を交え瞳をこらして絵像を見ながら語ったことを思い出す。彼らはほとんど戦場に行ってしまった。
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松濤(第2首)
くりやべ に ひと なき よは を ふき あれて うしほ に まがふ むらまつ の こゑ (厨辺に人無き夜半を吹き荒れて潮に紛うむら松の声)
歌意 台所に人がいなくなった夜ふけに吹き荒れる風の音が潮の音と間違うほどに叢松が鳴り響いている。 誰ひとりいない冬の夜ふけ、松を吹き抜ける風の音は海なりのようだと詠う。孤独な八一には心細く、寂しい夜である。
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芝草(第6首) 十月二十四日ひさしく懈(おこた)りて伸びつくしたる門前の土塀の芝草を刈りて日もやや暮れなむとするに訪ね寄れる若き海軍少尉ありと見れば昨秋我が校を去りて土浦の飛行隊に入りし長島勝彬なり明朝つとめて遠方に向はんとするよしいへば迎へ入るしばししめやかに物語して去れり物ごし静かなるうちにも毅然たる決意の色蔽ふべからずこの夜これを思うて眠成らず暁にいたりてこの六首を成せり くりやべ は こよひ も ともし ひとつ なる りんご を さきて きみ と わかれむ (厨辺は今宵も乏しひとつなる林檎を割きて君と別れむ)
歌意 我家の台所は今夜も食べ物が乏しい。たった一つの林檎を二つに分けて食べ、君と別れよう。 食べ物に不自由する戦争末期だった。たった一つの林檎を別れのために食べた。事実をそのまま詠んだだけだが、八一の心はとても重く、惜別の情が強く心を打つ。別れの名歌である。
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某生の訃(ふ)をききて
くれ かねて いざよふ はる の むさしの の いづれ の そら に きみ を もとめむ (暮れかねていざよふ春の武蔵野のいづれの空に君をもとめむ)
歌意 暮れようとしてまだ明るさのある春の武蔵野のどの辺りの空に君の魂を求めたらいいのだろう。 親しかった知人に送る挽歌である。その魂を広大な武蔵野の空に求めると言うスケールの大きい歌である。詩情に満ちた自然観察で、武蔵野の林間の美をあまねく知らしめた国木田独歩の不朽の名作「武蔵野」が浮かんでくる。
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橘寺にて くろごま の あさ の あがき に ふませたる をか の くさね と なづさひ ぞ こし (黒駒の朝の足掻きに踏ませたる岡の草根となづさひぞ来し)
歌意 聖徳太子が朝、黒い馬に乗って走り、その馬に踏ませたのがこの岡の草だと懐かしく思いながら、心を込めて橘寺のあるこの辺りにやって来た。 黒駒に乗って疾駆する聖徳太子という伝説上の風景を太子への思慕を込めて、歌の上に創出した。初句からの力強い響きと熱い思いを読み取ることができる。 法隆寺の玉虫の厨子などはこの寺にあったという言い伝えがある。太子に対する思慕の念が強かったのは一連の法隆寺を読んだ歌でよく分かる。 右の写真は2003年(H15年)10月、友人達と明日香を訪れた時のもの、万葉文化館などを同時に見学した。 追記 歌碑建立 (2012・11・27記) 2012年11月25日、橘寺(奈良県高市郡明日香村前)に建立された。(写真は鹿鳴人提供)
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奈良博物館にて(第1首) くわんおん の しろき ひたひ に やうらく の
かげ うごかして かぜ わたる みゆ (観音の白き額に瓔珞の影動かして風わたる見ゆ)
歌意 仏の白い額に宝冠より垂れ下がっている瓔珞の影がかすかに動いている。ああ、早春の吹き抜ける風が目に見えるようだ。 観音が安置される法輪寺講堂を訪れた。小さな寺で訪れる人も少なくのんびりとしている。喧騒の法隆寺より北2キロにあるとは思えない。4m弱の巨大な観音は迫力がある。 この歌の素晴らしさは、本来動くはずの無い固定された瓔珞(金属)が動いたとしてそこに微風を見たと歌い上げたところだ。八一の心象が投影された見事な観音の歌である。 大正13年に出版された「南京新唱」では詞書が「法輪寺にて」となっており、十一面観音を読んだか、帝国博物館に法輪寺が出展していた虚空蔵菩薩を読んだのかあいまいなところがある。その間のいきさつについては筆者の随筆、渾齋隨筆・觀音の瓔珞を参照していただきたい。 (歌碑建立は昭和35年11月 法輪寺)
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奈良博物館にて(第2首) くわんおん の せ に そふ あし の ひともと の
あさき みどり に はる たつ らし も (観音の背に副ふ葦のひともとの浅き緑に春立つらしも)
歌意 百済観音の背に添えられている一本の葦の茎のささえにわずかに浅く薄い緑が見える。春が来ているのだなあ。 法隆寺を訪れて、「せにそふあし」を凝視しても色合いが簡単にわかるものではない。八一はそのわずかな薄緑を感受し、春を感じさらに明るい春の到来を読み上げた。非凡だ。八一自身、自著でこう書いている。 「その支柱に微かに残れる白緑の彩色をよすがとして、そぞろに春色の蘇り 出て来たらんことを、希望を込めて詠めるなり」
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観音堂(第1首) くわんおん の だう の いたま に かみ しきて うどん の かび を ひとり ほし をり (観音の堂の板間に紙敷きてうどんのかびを一人干しおり)
歌意 きい子のいない観音堂の板の間に紙を敷いて、かびのはえたうどんを一人で干している。 きい子亡き後の観音堂で独居する八一、日常をさらりと詠っているように見えるが、「ひとりほしおり」には万感の思いがあるのだろう。八一の心の寂しさが伝わってくる。
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清水寺にて(第2首) くわんおん の のき の しとみ の しろじろと ものふり けらし ひと の ひびき に (観音の軒の蔀のしろじろともの古りけらし人のひびきに)
歌意 観音堂の軒の下の蔀が白っぽく色褪せて古くなってしまったようだ。沢山の参詣者がたてるいろいろな物音のために。 蔀が古くなったのは参詣者のいろいろの“音”によると詠む。その発想は面白い。清水寺への参詣者は多く、たしかに言われてみればそんな気がしてくる。
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菊を描きて(第1首)
けさ の あさ ゑがきし きく の しらつゆ の かわき な はて そ とし は へぬ とも (今朝の朝描きし菊の白露の乾きな果てそ年は経ぬとも)
歌意 今朝の夜明けに描いた菊の白露よ、ずっと乾かず生彩をなくさないでおくれ、年が経っても。 水墨画をよく描いた八一、墨一色で描くことは難しい事が多かったであろう。長く絵が生き生きとあって欲しいという願いが強く伝わってくる。
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阿修羅の像に(第2首) けふ も また いくたり たちて なげき けむ あじゆら が まゆ の あさき ひかげ に (今日もまた幾人立ちて嘆きけむ阿修羅が眉の浅き日影に)
歌意 今日もまた何人の人がこの像の前に立ち感動でため息をついたであろう。阿修羅のひそめた眉のわずかな影を見つめながら。 第1首の“ゆくりなきもののおもひ”といい、この歌の“まゆのあさきひかげに”という表現に感心する。この有名な阿修羅像の憂いを秘めた表情を見事に捉えている。 植田重雄の“最後の奈良研究旅行” 注 あじゆら 自註 阿修羅は古代印度の神、後仏法に帰し、天、龍、夜叉、乾闥婆(けんだっぱ)、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、護摩邏迦(ごまらか)とともに八部衆となれり。勇猛なる闘争を以て聞こえたるに、法隆寺五重塔の塑像及び興福寺の此の像は若き婦人の如くつくれり。ことに此の像は情熱を湛へたる顔に、一種の哀愁を泛べたり。阿修羅は三面六臂にして一臂ごとに持物あり。興福寺のこの像今は持物みな失われしのみならず、その手さへ後補の部分あり。上にあげたる二臂はもと日月を挙げたりしものなり。空しく天を指したるにあらず。
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春日野にて(第5首) こがくれて あらそふ らしき さをしか の つの の ひびき に よ は くだち つつ (木隠れて争ふらしき牡鹿の角のひびきに夜はくだちつつ)
木立に隠れて牝鹿を牡鹿たちが争っているようだ。静かな春日野に激しく打ち合う角の音が響きわたり、秋の夜は更けていく。 明治末期荒廃した古都奈良の夜は静かに更けていく。八一は「私の定宿がある登大路(のぼりおほじ)あたりの夜はことに淋しい」と書いている。恋する牡鹿たちの争いの音だけが暗闇の中から響いてくる。角の響きを詠むことによって、古都の静寂を見事に浮き彫りにしている。 また、万葉集で詠まれる鹿の歌はほとんどその鳴き声であったことを述べて「つののひびき」などは近世の新しい詩材とも書いている。そう言えば、万葉集ではないが百人一首の「奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋は悲しき」も鳴き声から秋を詠んでいる。
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閑庭(第32首) こがくれて すめば うれし も なほざりに はなちし とり の のき の は に なく (木隠れて住めば嬉しもなほざりに放ちし鳥の軒の端に鳴く)
歌意 木陰に隠れて見えない住まいというのも嬉しいことだ、不注意で籠から放してしまった鳥が軒の端に止まって鳴いている。 不注意で逃がした鳥が籠に近い軒先で鳴いている。飼い主にとっては鳥が元いた場所を恋しているかのようでとても嬉しいものである。
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八月二十三日友人山口剛を誘いて大塚に小鳥を買ふ(第12首)
こがくれて なけや いかるが あす より は はた の はて なる ひと も きく がに (木隠れて鳴けや斑鳩明日よりは畑の果てなる人も聞くがに)
歌意 広い秋艸堂の木の陰に隠れて声高に鳴きなさい、明日からは畑のはるか遠くの人も聞くように。 八一の広大な「ひとつや・落合秋艸堂」に落ち着いた斑鳩に高らかに鳴けと願う。畑のはるか遠くの人は同時に八一自身でもあり、一人居の私を慰めて欲しいと呼び掛けている。
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閑庭(第44首) こがくれて われ おい けらし あさ に け に そら の あをき を うちあふぎ つつ (木隠れて我老いけらし朝に日に空の青きを打ち仰ぎつつ)
歌意 木に覆われた秋艸堂に住んで私は老いてしまったらしい。長い間、朝に昼に空の青さを仰ぎ見ているうちに。 閑庭・序によると以前住んでいた下落合秋艸堂(大正11年~昭和10年)を訪れたのは昭和18年春、それから20年3月までの間に目白文化村秋艸堂で詠んだのが閑庭45首である。自然豊かな秋艸堂で過ごした八一も65歳(昭和20年)になった。偽らざる心境を詠んだ心に響く歌である。この歌と最後の第45首で“老い”をとり上げて閑庭を完結する。
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わが右の眼の硝子体に溷濁を生じて(第6首) ここだく の くしき ほとけ を をろがみし まなこ くもる と たれ に かたらむ (ここだくの奇しき仏ををろがみし眼曇ると誰に語らむ)
歌意 沢山の優れて霊妙な仏を拝んできた私の眼が曇るなどということをいったい誰に語ることができよう。 幾多の仏像を拝んできた私の眼が曇るなどということはとても理解できない。困惑した気持ちを強く詠って連作6首を終わる。眼病からくるいろいろな思いを詠った一連は読む者の心を動かす。
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二十六日山内義雄に導かれて嵯峨に冨田渓仙の遺室を 弔(とむら)ふ(第2首) ここ にして きみ が ゑがける みやうわう の ほのほ の すみ の いまだ かわかず (ここにして君が描ける明王の炎の墨のいまだ乾かず)
歌意 このアトリエであなたが描いた不動明王の火炎の墨は生々しく今も乾かないように見える。 今だ乾かないかのように見える墨で書いた光背の火炎に感じて、アトリエに残る不動明王の絵を詠う。弔いの歌が、そこに故人が存在するかのような雰囲気を醸し出す。 第1首 第2首 第3首
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六日午後堀の内に送りて荼毘(だび)す(第2首)
ここ にして ひと の かくろふ くろがね の ひとへ の とびら せむ すべ ぞ なき (ここにして人の隠ろふくろがねの一重の扉せむすべぞなき)
歌意 この火葬場で柩に入ったあなたを隠してしまう鉄の一枚の扉を私はどうすることもできない。 火葬炉の鉄の扉が閉ざされて永遠の別れになった。もうその扉を開くことはできないし、死んだ叔父さんに会うこともできない。人が経験する厳粛な一瞬を八一は深い悲しみの中で詠った。
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木葉(このは)村にて(第4首)
こころ なき おい が いろどる はにざる の まなこ いかりて よ の ひと を みる (心なき老が彩る埴猿の眼怒りて世の人を見る)
歌意 素朴な老人が色付けをしている粘土で作った猿は眼を怒らせて世間の人を見ているようだ。 無病息災、子孫繁栄の守り神と言われる木葉猿は自然に神の眼になるのか、それとも八一の心が対象に反映しているのか、猿の目線を捉えた視点が面白い。
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風竹を描きたる上に(第2首)
こころ ゆ も かき に ける かも うらぶれて すさめる ふで と ひと の みむ まで (心ゆも描きにけるかもうらぶれて荒める筆と人の見むまで)
歌意 心をこめて風に揺れる竹を描いたのだ。だが描きあげて見ると、私の心が落ちぶれみすぼらしくなっていて筆が粗雑ですさんでいることが見る人にわかってしまうほどだ。 敗戦、疎開、きい子の死を経た八一の荒んだ心情が絵の上にあらわれているように感じたのだ。
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良寛禅師をおもひて(第5首) こぞ の はる ゆきて わが みし ふるには に ゆき つむ らし も ふむ ひと なし に (去年の春行きて我が見し古庭に雪積むらしも踏む人なしに)
歌意 去年の春、訪ねて行って私が見た五合庵の古い庭に雪が積もっていることだろう。雪を踏む人もなしに。 去年の5月に良寛の遺跡を訪ねたことを思い出しながら、降り続く雪が五合庵にも積っている光景を想像して詠う。
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十七日龍安寺にいたる(第1首) こだち なき には を きづきて しろすな に いは すゑ けらし いにしへ の ひと (木立無き庭を築きて白砂に岩据ゑけらし古の人)
歌意 木が全くない庭を築いて、ただ白砂の上に岩だけを据えただけなのだなあ、古の人は。 有名な龍安寺の石庭で3首詠う。白砂と石だけのこの禅宗の庭が作られた室町時代に思いを馳せる。
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泰山木(第3首) こちたく も にほへる はな か わが やど の かべ に ふるびし ふみ の みなか に (こちたくも匂へる花か我が宿の壁に古びし書のみ中に)
歌意 何とよく匂う泰山木の花だろう、我が家の壁をうずめた古書のまん中で。 白く大きい泰山木の花の香りはとてもきつかった。古びた本で埋まる八一の部屋にはなんとなく不似合いだという気持が感じられる。
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芝草(第4首) 十月二十四日ひさしく懈(おこた)りて伸びつくしたる門前の土塀の芝草を刈りて日もやや暮れなむとするに訪ね寄れる若き海軍少尉ありと見れば昨秋我が校を去りて土浦の飛行隊に入りし長島勝彬なり明朝つとめて遠方に向はんとするよしいへば迎へ入るしばししめやかに物語して去れり物ごし静かなるうちにも毅然たる決意の色蔽ふべからずこの夜これを思うて眠成らず暁にいたりてこの六首を成せり ことあげ せず いで たつ こころ ひたぶるに わが おほきみ に しなむ と す らむ (言挙げせず出で立つ心ひたぶるに我が大君に死なむとすらむ)
歌意 自分の意志や考えを言葉に出して言うこともなく戦場に向かう君はただただひたすらに天皇のために死のうとしているのだ。 自己の考えなどは許されない、そんな不条理な戦争のさなか、天皇のために、お国のためにと言わざるを得なかった。言いたいことは師弟ともどもあるだろうが、「おほきみにしなむ」としか言いようのないその奥底に言い知れない悲しい別れがある。
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若き人々に寄す(第4首) ことあげて あど か も いはめ ひたぶるに なが ちちはは の くに を まもる に (言挙げてあどかも言はめひたぶるに汝が父母の国を守るに)
歌意 言葉に出して何を言うことがあろうか、ただひたすらにあなた達は父母の国を守っているのだから。 言論が厳しく統制された戦時、もっと言いたいことがあっただろうが、“あどかもいはめ”に万感の思いが込められている。
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閑庭(第7首) ことぐさ の つゆけき なか に たち ぬれて あさ を ふよう の しろたへ に さく (こと草の露けき中に立ち濡れて朝を芙蓉の白妙に咲く)
歌意 朝、いろいろな草がしっとりと露を帯びている中で、濡れて真っすぐ立っている芙蓉が白く咲いている。 露を帯びた庭の草々の中で茎をまっすぐに伸ばした芙蓉が濡れながら見事な白い花を咲かせている。芙蓉の特徴をよく捉えた歌である。
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庭上(第1首)
ことごとく しらね はきたる すゐせん の たまね うう べき ひま も あら まし を (ことごとく白根はきたる水仙の球根植うべき暇もあらましを)
歌意 植え時が過ぎて全ての球根から白い根をだしている水仙を植える時間があって欲しい。 この年(昭和14年)、秋に植える水仙の球根は多忙のため時期を逸して根が出てしまった。その球根さえ植える時間がないと嘆く。全てはきい子が倒れて入院したことにある。
昭和10年、目白文化村に転居してきた時、14年間住んだ下落合秋艸堂の庭から薔薇、寒竹、百合、りんどう、水仙、おだまき、野木瓜、忍冬、菊などを運んだと言う。数珠掛け鳩などの小鳥も一緒だった。
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柿若葉(第7首) 新潟市はわがためには故郷なれども今はたよるべき親戚も無ければ北蒲原郡西条なる丹呉氏の宗家をたづねて身を寄すすでに亡きわが父も幼時この家に扶養を受けられたることなどしみじみ思ひ出でて眼に触るるものすべてなつかし こと しげき みやこ いで きて ふるさと の たのも の かぜ に うまい せる かも (事繁き都出で来て故郷の田面の風にうまいせるかも)
歌意 多忙な都から逃れ来て、故郷の田の上を渡って来る快い風にぐっすりと眠ることができた。 かって父が育ったと言う故郷の家の快い春風にやっと平静な生活を取り戻した。
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四月二十七日ふたたび早稲田の校庭に立ちて(第5首) こと たえて おほき すめろぎ あまつひ と たかしり ましつ わが わかき ひ を (言絶えて大き天皇天つ日と高知りましつ我が若き日を)
歌意 言語に絶するほど偉大な明治天皇は太陽のように立派に国を治められていた、私の若い時代は。 明治生れで天皇に対する崇拝の念が強かった八一は、今敗色濃い昭和の戦争のただなかで明治は良かったと回顧する。 この歌をもって山光集246首は終る。
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四月二十七日ふたたび早稲田の校庭に立ちて(第3首) この かど を いづる すなはち な を なして いま は きか ざる わかき ひ の とも (この門を出づるすなはち名を成して今は聞かざる若き日の友)
歌意 この大学の門を出るとすぐに有名になり活躍したが、今はもうその名を聞くことも無くなった若い日の友人たちよ。 第2首に続いて、卒業と同時に華々しく活躍した友人たちは今は音信も絶え、社会でその名も聞かなくなった。同窓の友人たちへの思いを詠う。
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観世音寺の鐘楼にて
この かね の なり の ひびき を あさゆふ に ききて なげきし いにしへ の ひと (この鐘の鳴りの響きを朝夕に聞きて嘆きし古の人)
歌意 この観世音寺の鳴り響く鐘の音を朝夕にお聞きになって大宰府左遷の身をお嘆きになった昔の人よ。 大宰府で失意のうちに三年で亡くなった菅原道真の聞く鐘の音はとても物悲しいものであっただろう。東京(早稲田中学)でのトラブルと病を抱えた八一には相通じるものがあったに違いない。
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木葉(このは)村にて
肥後国木葉村に木葉神社あり 社頭に木葉猿といふものを売る素朴また愛すべし われ旅中にこの猿を作る家これを売る店のさまを見むとて半日をこの村に送りしことあり
このごろ の よる の ながき に はに ねりて むら の おきな が つくらせる さる (この頃の夜の長きに埴練りて村の翁が作らせる猿)
歌意 この頃の夜の長いのを利用して、村の翁が粘土を練ってお作りになった猿ですよ。 戯れに敬語(つくらせる)を使ったと自註に書いているが、絵葉書で「・・・・途中木葉村にて戯歌数首を得候。愚詠近来皆な悲調有之候ところ、戯歌は自分ながらめづらしと存候」と書き、木葉村にて8首のもとになる歌を書き送っている。悲痛な耶馬渓にての歌とは明らかに違う作で、気楽に楽しく鑑賞できる。 もちろん、玩具に対する素地はあった。この歌のころまでに郷土玩具に興味を持ち600点ほど集めていたのだ。ただ、奈良美術研究に軸足を移すと玩具蒐集の熱は冷め、門下生などに与えてしまったと言う。
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観音堂(第4首) このごろ の わが くりやべ の つたなさ を なれ いづく に か み つつ なげかむ (この頃のわが厨辺の拙さをなれ何処にか見つつ嘆かむ)
歌意 この頃の下手な炊事や食事の貧しさをおまえはあの世の何処からか見て嘆いているだろう。 炊事など経験の無かった老いた八一は観音堂でしばらく炊事して暮らす。炊事するたびに秋艸堂の家事全てを切り盛りし、美味しい食事を作ったきい子を思い出すのである。
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斎居(第1首)
このごろ は もの いひ さして なにごと か きうくわんてう の たかわらひ す も (この頃は物言ひ止して何事か九官鳥の高笑いすも)
歌意 この頃は九官鳥が何か物言いかけて途中で止め、何事なのか高笑いする。 歌は平易だが、急激に軍国化し統制が強まるなか、人々が口を閉ざすことへの皮肉を含んでいる。
この歌の詠まれた昭和15年は、「八紘一宇」を掲げて総力戦体制に突入し、2年前に施行された「国家総動員法」が「贅沢は敵だ」の標語とともに強力に押し付けられ、言論が統制され暮らしが規制されていった。 八一は自註鹿鳴集でこう書いている。“この(斎居)三首及び「歳旦」三首は、今にして見れば何事もなき如くなれど、その頃は時勢に対して内心に慨するところありても、固く黙して口に出さざる人多きことを、これらの歌の中に諷(ふう)したれば、その当時は、相当に強き批評を受けたることを記録す。今これを誦(じゆ)すれば感慨多し。”
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予罹災ののち西条に村居し一夜大いなる囲炉裏のほとりにて よめる歌これなり(第13首) この やど に ちち と きたりて いねし よ も とし の よそぢ を すぎ に ける かも (この宿に父と来りて寝ねし夜も年の四十路を過ぎにけるかも)
歌意 この丹呉家に父と一緒に来て泊まった夜は40年以上前だったなあ。 上記自註から八一の20代前半の頃と思われる。一緒に寝た父は既に亡くなり、八一も65歳になった。父のことばかりが浮かぶ寂しい炉辺である。
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この日寺中に泊し夜ふけて同行の学生のために千年の 寺史を説くこれより風邪のきざし著し(第1首) この やま に だいし の ゆかり おはさじ と こと の した より のど はれ に けむ (この山に大師のゆかりおはさじと言の下より喉腫れにけり)
歌意 室生寺の開基は弘法大師と言われるが、大師とは無縁だと学生たちに説いた言葉の下から喉が腫れてしまった。 風邪のため室生寺を訪れる前2日間、日吉館で休養していた八一だった。この後また体調を崩すが、風邪は寺伝に逆らった罰だからとおかしみを持って詠う。 植田重雄の“最後の奈良見学旅行3” 注 だいしのゆかりおはさじと (自註) この寺、女人高野の伝説も行わるれど、その開基は空海にあらで或は興福寺の僧修円にあらずやと推定せらる。
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六月一日吉野秀雄の案内にて多胡の古碑を観たる後伊香保にいたり 千明仁泉亭に入る翌二日裏山の見晴に登り展望す(第3首) この をか の うめ の ふるえだ のび はてて なつ に か むかふ きる ひと なし に (この丘の梅の古枝伸びはてて夏にか向かふ切る人無しに)
歌意 この丘の梅の木は古い枝が伸び放題で夏に向かうのだろうか、枝を切る人もいないままに。 あでやかに咲いていたツツジ(第2首参照)とは対照的に剪定されずに枝が伸び放題の梅の木にも心を動かす。いろいろな自然の姿にきめ細かく対応し、ゆったりと表現している。
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八月二十三日友人山口剛を誘いて大塚に小鳥を買ふ(第5首)
こまどり の なき の まにまに わが とも の かがやく まなこ わらわべ の ごと (駒鳥の鳴きのまにまに我が友の輝く眼童部のごと)
歌意 駒鳥が高い声で美しく鳴くに連れて私の友人の眼は輝き、まるで子供のようである。 前作に続いて友人・山口剛が小鳥たちを前にして子供のように目を輝かす姿を詠む。「読書力旺盛で、才気煥発、学問は秀れているかもしれないが、大塚の鳥屋では友はまるで子供である・・・」(會津八一の芸術 植田重雄著) 小鳥飼いをすすめた八一はこんなに喜んでいる友人に自らも嬉しく思い、優しいまなざしを送るのである。この日、八一は斑鳩を友人は駒鳥を買っている。
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八月二十三日友人山口剛を誘いて大塚に小鳥を買ふ(第9首)
こまどり は きみ が まにまに この はと を おきて かふ べき とり も しら なく に (駒鳥は君がまにまにこの鳩を置きて飼うべき鳥も知らなくに)
歌意 駒鳥を買うことは君の意のままにすればいい。私はこの数珠掛鳩をさし置いて買うべき鳥を知らない。 八一の目的はこの数珠掛鳩・斑鳩だった。鳥屋では、鳥には不慣れな学者・山口剛が子供のようにいろいろと八一に尋ねたであろう。しかし、数珠掛鳩に入れ込む八一は「君の好きなように選びなさい」と友人に言う。鳥屋での楽しい情景が浮かんでくる。
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また二上山を望みて当麻の大曼荼羅をおもふ(第2首) こもり ゐて ほとけ おり けむ ふたがみ の やま の をかべ の かりほ し おもほゆ (籠り居て仏織りけむ二上の山の岡辺の仮庵し思ほゆ)
歌意 中将姫が閉じこもって蓮糸で曼陀羅の仏を織ったであろう二上山の岡のあたりの仮の小屋のことが偲ばれてならない。 中将姫の伝説への想いを寄せる。古代への憧憬が深く、博識に裏打ちされた八一の歌は伝説であっても真実味を帯びて迫って来る。 なお、二上山・当麻寺を詠った八一の南京新唱第77~81首も参考にして欲しい。
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斎居(第2首)
こもり ゐて もだせる われ や こころ なく かたらむ とり に しか ざる な ゆめ (籠りゐて黙せる我や心なく語らむ鳥にしかざるなゆめ)
歌意 家に閉じこもって沈黙している自分よ!意味もなくしゃべる九官鳥の言葉に自らの発言が及ばないことなどあってはならない。 |
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その寺の金堂に入りて(第4首) こんだう の くらき を いでて このま なる くさ の もみぢ に め を はなち をり (金堂の暗きを出でて木の間なる草の紅葉に目を放ちをり)
歌意 室生寺の金堂の中の薄暗いところから出て、木の間の赤く色づいた草に目をやっている。 薄暗い金堂の中で美しい仏たちに心奪われた、その充足感を保ちながら外に出た八一は、境内の草紅葉をぼんやりとしばし眺めたことであろう。 植田重雄の“最後の奈良見学旅行3”
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奈良博物館にて(第6首) こんでい の ほとけ うすれし こんりよう の だいまんだら に あぶ の はね うつ (金泥の仏うすれし紺綾の大曼荼羅に虻の羽根打つ)
歌意 金泥で描かれた仏たちが歳月によって薄れてしまっている紺色の綾織の大曼荼羅、その曼荼羅の前で一匹の虻が羽根を鳴らして飛んでいる。 なんとも想像しにくい歌である。八一はこう書いている。 「この歌が解らないといふ人が多い。けれども實際あの博物館に行って、物を見た人は、苦もなく解る筈である。・・・博物館の最大のケイスでも懸けきらぬほどに大きく長い兩界曼荼羅の畫面に、羽根を鳴らして一つ飛ぶ虻を想像してもらひたい」(渾齋隨筆・自作小註) 8月、模写複製したものと実物が奈良博物館に展示されたので、350cmの大きな曼荼羅の前に立つ事ができた。複製の美しさに助けられながら、この歌を口ずさむ。量感あふれる美しい曼荼羅に見入り没入する八一が、飛び込んできた虻の羽音にはっとする様を思い浮かべてみる。 壮大な曼荼羅の美、うすれた仏に感じられる悠久の時の流れ、静的な曼荼羅を一層鮮明に浮かび上がらせる動的な虻の対置。その上、声調の重厚さが迫力を持って心に響いてくる。 声調の良さから、自然に口ずさむことになるこの歌が、徐々に我が物になってくる。不思議だ。
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