「大和路」(堀辰雄)と会津八一

「大和路」(堀辰雄)と会津八一1 2012・9・30(日)
 会津八一は唐招提寺でこう詠んだ。 
  おほてら の まろき はしら の つきかげ を 
           つち に ふみ つつ もの を こそ おもへ      
    (大寺のまろき柱の月影を土に踏みつつものをこそ思へ) 解説
 堀辰雄は「大和路」冒頭の「10月・夕方、唐招提寺にて」で
 「いま、唐招提寺(とうしょうだいじ)の松林のなかで、これを書いている。
・・・秋の日が一ぱい金堂や講堂にあたって、屋根瓦(やねがわら)の上にも、丹(に)の褪(さ)めかかった古い円柱にも、松の木の影が鮮やかに映っていた。それがたえず風にそよいでいる工合は、いうにいわれない爽(さわ)やかさだ。此処こそは私達のギリシアだ・・・この寺の講堂の片隅に埃(ほこり)だらけになって二つ三つころがっている仏頭みたいに、自分も首から上だけになったまま、古代の日々を夢みていたくなる。・・・」
 鹿鳴集を携えた堀辰雄が上記の八一の歌を思い浮かべていたことは想像に難くない。「古い円柱」「古代の日々を夢みていたくなる」は古代のギリシャや日本への思いであり、それは八一の「ものをこそおもへ(深いもの思いに耽っている)」に通じる。
 しばらく、「大和路」の中に八一を探してみたい。


「大和路」(堀辰雄)と会津八一2 2012・10・8(月)
 「大和路」の「海竜王寺にて」でこう展開する。
 「・・・村の入口からちょっと右に外れると、そこに海竜王寺(かいりゅうおうじ)という小さな廃寺がある。そこの古い四脚門の陰にはいって、思わずほっとしながら、うしろをふりかえってみると、いま自分の歩いてきたあたりを前景にして、大和平(やまとだいら)一帯が秋の収穫を前にしていかにもふさふさと稲の穂波を打たせながら拡がっている。僕はまぶしそうにそれへ目をやっていたが、それからふと自分の立っている古い門のいまにも崩れて来そうなのに気づき、ああ、この明るい温かな平野が廃都の跡なのかと、いまさらのように考え出した。・・・」
 この描写から八一の「秋篠寺にて
  あきしの の みてら を いでて かへりみる 
       いこま が たけ に ひ は おちむ と す
  (秋篠のみ寺を出でてかえり見る生駒ヶ岳に日は落ちんとす)
が浮かんでくる。そして「古い門のいまにも崩れて来そうな」から「ついぢ の ひま」を連想する。「高畑にて
 たびびと の め に いたき まで みどり なる
          ついぢ の ひま の なばたけ の いろ
        (旅人の目に痛きまで緑なる築地の隙の菜畑のいろ)
 初めて海竜王寺を訪ねた時、真っ先に目に入ったのは門前にある古い築地だったのを昨日のように思い出す。


「大和路」(堀辰雄)と会津八一3 2012・10・14(日)
 「大和路」の「海竜王寺にて」は続く
 「・・・私はそれからその廃寺の八重葎(やえむぐら)の茂った境内にはいって往って、みるかげもなく荒れ果てた小さな西金堂(さいこんどう)(これも天平の遺構だそうだ……)の中を、はずれかかった櫺子(れんじ)ごしにのぞいて、そこの天平好みの化粧天井裏を見上げたり、半ば剥落(はくらく)した白壁の上に描きちらされてある村の子供のらしい楽書を一つ一つ見たり、しまいには裏の扉口からそっと堂内に忍びこんで、磚(せん)のすき間から生えている葎までも何か大事そうに踏まえて、こんどは反対に櫺子の中から明るい土のうえにくっきりと印せられている松の木の影に見入ったりしながら、そう、――もうかれこれ小一時間ばかり、此処でこうやって過ごしている。女の来るのを待ちあぐねている古(いにしえ)の貴公子のようにわれとわが身を描いたりしながら。……」
 八一の 「海龍王寺にて」第2首は柱の落書を詠む  
    ふるてら の はしら に のこる たびびと の 
               な を よみ ゆけど しる ひと も なし
        (古寺の柱に残る旅人の名を読み行けど知る人もなし)
 「楽書を一つ一つ見たり」と書く堀はきっとこの歌が頭にあったのだろう。 「大和路」は「海竜王寺にてから「夕方、奈良への帰途」に続く。
 「海竜王寺を出ると、村で大きな柿を二つほど買って、それを皮ごと噛(かじ)りながら、こんどは佐紀山(さきやま)らしい林のある方に向って歩き出した。・・・」
     まめがき を あまた もとめて ひとつ づつ
            くひ もて ゆきし たきさか の みち
        (豆柿をあまた求めて一つづつ食ひもて行きし滝坂の道)
 これは八一の「滝坂にて」第2首である。「噛(かじ)りながら」は「くひ もて」と同じ表現だ。


「大和路」(堀辰雄)と会津八一4 2012・10・20(土)
 「大和路」の「夕方、西の京にて」は
 「秋篠の村はずれからは、生駒山(いこまやま)が丁度いい工合に眺められた」で始まる。
 先に引用した八一の「秋篠寺にて」 が浮かぶ。
    あきしの の みてら を いでて かへりみる 
         いこま が たけ に ひ は おちむ と す
 「・・・ひとりでに西大寺(さいだいじ)駅に出たので、もうこれまでと思い切って、奈良行の切符を買ったが、ふいと気がかわって郡山行の電車に乗り、西の京で下りた。・・・荒れた池の傍をとおって、講堂の裏から薬師寺にはいり、金堂や塔のまわりをぶらぶらしながら、ときどき塔の相輪(そうりん)を見上げて、その水煙(すいえん)のなかに透(す)かし彫(ぼり)になって一人の天女の飛翔(ひしょう)しつつある姿を、どうしたら一番よく捉まえられるだろうかと角度など工夫してみていた。が、その水煙のなかにそういう天女を彫り込むような、すばらしい工夫を凝らした古人に比べると、いまどきの人間の工夫しようとしてる事なんぞは何んと間が抜けていることだと気がついて、もう止める事にした」
 八一は 「薬師寺東塔」で水煙と天女を詠んだ。
    すゐえん の あま つ をとめ が ころもで の 
               ひま にも すめる あき の そら かな
        (水煙の天つ乙女が衣出のひまにも澄める秋の空かな)


「大和路」(堀辰雄)と会津八一5 2012・10・30(火)
 「大和路」の「夕方、西の京にて」は続く。
 「・・・裏手から唐招提寺の森のなかへはいっていった。
 金堂(こんどう)も、講堂も、その他の建物も、まわりの松林とともに、すっかりもう陰ってしまっていた。そうして急にひえびえとしだした夕暗のなかに、白壁だけをあかるく残して、軒も、柱も、扉も、一様に灰ばんだ色をして沈んでゆこうとしていた。
 僕はそれでもよかった。いま、自分たち人間のはかなさをこんなに心にしみて感じていられるだけでよかった。僕はひとりで金堂の石段にあがって、しばらくその吹(ふ)き放(はな)しの円柱のかげを歩きまわっていた。・・・
 僕はきょうはもうこの位にして、此処を立ち去ろうと思いながら、最後にちょっとだけ人間の気まぐれを許して貰うように、円柱の一つに近づいて手で撫でながら、その太い柱の真んなかのエンタシスの工合を自分の手のうちにしみじみと味わおうとした。僕はそのときふとその手を休めて、じっと一つところにそれを押しつけた。僕は異様に心が躍った。そうやってみていると、夕冷えのなかに、その柱だけがまだ温かい。ほんのりと温かい。その太い柱の深部に滲(し)み込(こ)んだ日の光の温かみがまだ消えやらずに残っているらしい。」
 八一の代表作 「唐招提寺にて
   おほてら の まろき はしら の つきかげ を 
            つち に ふみ つつ もの を こそ おもへ
         (大寺のまろき柱の月影を土に踏みつつものをこそ思へ)


「大和路」(堀辰雄)と会津八一6 2012・11・12(月)
 「大和路」の「十月二十一日夕」から
 「・・・午後からはO君の知っている僧侶の案内で、ときおり僕が仕事のことなど考えながら歩いた、あの小さな林の奥にある戒壇院(かいだんいん)の中にもはじめてはいることができた。
 がらんとした堂のなかは思ったより真っ暗である。案内の僧があけ放してくれた四方の扉からも僅かしか光がさしこんでこない。壇上の四隅に立ちはだかった四天王の像は、それぞれ一すじの逆光線をうけながら、いよいよ神々しさを加えているようだ。
 僕は一人きりいつまでも広目天(こうもくてん)の像のまえを立ち去らずに、そのまゆねをよせて何物かを凝視している貌(かお)を見上げていた。なにしろ、いい貌だ、温かでいて烈(はげ)しい。……
・・・僕がいつまでもそれから目を放さずにいると、北方の多聞天(たもんてん)の像を先刻から見ていたA君がこちらに近づいてきて、一しょにそれを見だしたので、「古代の彫刻で、これくらい、こう血の温かみのあるのは少いような気がするね。」と僕は低い声で言った。
 A君もA君で、何か感動したようにそれに見入っていた。が、そのうち突然ひとりごとのように言った。「この天邪鬼(あまのじゃく)というのかな、こいつもこうやって千年も踏みつけられてきたのかとおもうと、ちょっと同情するなあ。」
 僕はそう言われて、はじめてその足の下に踏みつけられて苦しそうに悶(もだ)えている天邪鬼に気がつき、A君らしいヒュウマニズムに頬笑みながら、そのほうへもしばらく目を落した。……」
 八一は 「戒壇院をいでて」で広目天を詠んだ。
   びるばくしや まゆね よせたる まなざし を
            まなこ に み つつ あき の の を ゆく
   (毘楼博叉まゆね寄せたるまなざしを眼に見つつ秋の野を行く)
 天邪鬼についてはこう詠う。
  三月堂にて
   びしやもん の おもき かかと に まろび ふす
            おに の もだえ も ちとせ へ に けむ
   (毘沙門の重き踵にまろび伏す鬼のもだえも千年経にけむ)
   “毘沙門の重い踵に踏まれて転び伏している邪鬼の悶えも、もう千年を
    経たのだなあ。”


「大和路」(堀辰雄)と会津八一7 2012・11・18(日)
 「大和路」の「十月二十四日、夕方」から
 『きのう、あれから法隆寺へいって、一時間ばかり壁画を模写している画家たちの仕事を見せて貰いながら過ごした。これまでにも何度かこの壁画を見にきたが、いつも金堂のなかが暗い上に、もう何処もかも痛いたしいほど剥落(はくらく)しているので、殆ど何も分からず、ただ「かべのゑのほとけのくにもあれにけるかも」などという歌がおのずから口ずさまれてくるばかりだった。――それがこんど、金堂(こんどう)の中にはいってみると、それぞれの足場の上で仕事をしている十人ばかりの画家たちの背ごしに、四方の壁に四仏浄土を描いた壁画の隅々までが蛍光灯のあかるい光のなかに鮮やかに浮かび上がっている。…』
 荒れてしまった壁画を保存する模写の様子を生き生きと堀は描写している。しかし残念なことだが模写中に壁画は燃えてしまう。
 八一の「病中法隆寺をよぎりて(第4首)」 
   ひとり きて めぐる みだう の かべ の ゑ の 
             ほとけ の くに も あれ に ける かも
      (一人来て巡る御堂の壁の絵の仏の国も荒れにけるかも)


「大和路」(堀辰雄)と会津八一8 2012・11・30(金)
 「大和路」の「十月二十四日、夕方」の百済観音の場面は、像を思い出しながらゆっくりと読むと味わいがある。
 『・・・僕の一番好きな百済観音くだらかんのんは、中央の、小ぢんまりとした明かるい一室に、ただ一体だけ安置せられている。こんどはひどく優遇されたものである。が、そんなことにも無関心そうに、この美しい像は相変らずあどけなく頬笑まれながら、静かにお立ちになっていられる。……
 しかしながら、此のうら若い少女の細っそりとしたすがたをなすっていられる菩薩像ぼさつぞうは、おもえば、ずいぶん数奇すきなる運命をもたれたもうたものだ。――「百済観音」というお名称も、いつ、誰がとなえだしたものやら。が、それの示すごとく古朝鮮などから将来せられたという伝説もそのまま素直に信じたいほど、すべてが遠くからきたものの異常さで、そのうっとりと下脹しもぶくれした頬のあたりや、胸のまえで何をそうして持っていたのだかも忘れてしまっているような手つきの神々しいほどのうつつなさ。もう一方の手の先きで、ちょいと軽くつまんでいるきりの水瓶すいびょうなどはいまにも取り落しはすまいかとおもわれる。
 この像はそういう異国のものであるというばかりではない。この寺にこうしてっと落ちつくようになったのは中古の頃で、それまでは末寺の橘寺たちばなでらあたりにあったのが、その寺が荒廃した後、此処に移されてきたのだろうといわれている。その前はどこにあったのか、それはだれにも分からないらしい。ともかくも、流離というものを彼女たちの哀しい運命としなければならなかった、古代の気だかくも美しい女たちのように、此の像も、その女身の美しさのゆえに、国から国へ、寺から寺へとさすらわれたかと想像すると、この像のまだうら若い少女のような魅力もその底に一種の犯し難い品を帯びてくる。……そんな想像にふけりながら、僕はいつまでも一人でその像をためつすがめつして見ていた。どうかすると、ときどき揺らいでいる瓔珞ようらくのかげのせいか、その口もとの無心そうな頬笑みが、いま、そこに漂ったばかりかのように見えたりすることもある。そういう工合なども僕にはなかなかありがたかった。……』
 八一の歌
 ほほゑみて うつつごころ に あり たたす   
            くだらぼとけ に しく ものぞ なき    解説    
     (ほほゑみてうつつ心にあり立たす百済仏にしくものぞなき)
 たなごごろ うたた つめたき ガラスど の 
            くだらぼとけ に たち つくす かな    解説 
     (たなごごろうたた冷たきガラス戸の百済仏に立ちつくすかな)
 くわんおん の しろき ひたひ に やうらく の
            かげ うごかして かぜ わたる みゆ  解説
     (観音の白き額に瓔珞の影動かして風わたる見ゆ)  


「大和路」(堀辰雄)と会津八一9 2012・12・10(月)
 「大和路」の「十月二十四日、夕方」の百済観音の場面は高浜虚子の斑鳩物語の話になる。
 「それから次ぎの室で伎楽面(ぎがくめん)などを見ながら待っていてくれたH君に追いついて、一しょに宝蔵を出て、夢殿のそばを通りすぎ、その南門のまえにある、大黒屋という、古い宿屋に往って、昼食をともにした。
 ・・・夢殿の門のまえの、古い宿屋はなかなか哀れ深かった。これが虚子の「斑鳩物語」に出てくる宿屋。なにしろ、それはもう三十何年かまえの話らしいが、いまでもそのときとおなじ構えのようだ。もう半分家が傾いてしまっていて、中二階の廊下など歩くのもあぶない位になっている。しかしその廊下に立つと、見はらしはいまでも悪くない。大和の平野が手にとるように見える。向うのこんもりした森が三輪山(みわやま)あたりらしい。菜の花がいちめんに咲いて、あちこちに立っている梨の木も花ざかりといった春さきなどは、さぞ綺麗だろう。と、何んということなしに、そんな春さきの頃の、一と昔まえのいかるがの里の若い娘のことを描いた物語の書き出しのところなどが、いい気もちになって思い出されてくる。――しかし、いまはもうこの里も、この宿屋も、こんなにすっかり荒れてしまっている。夜になったって、筬(おさ)を打つ音で旅びとの心を慰めてくれるような若い娘などひとりもいまい。」
 会津八一はこの「筬(おさ)を打つ音」を詠み、自註鹿鳴集で解説する。
 “夢殿に近き「かせや」といへる宿屋にやどりて、夜中村内を散歩して聞きしものなり。高浜虚子君が『斑鳩物語』(イカルガモノガタリ)の中で、同じ機の音を点出されしは、この前年なりしが如し” 
 法隆寺村にやどりて
  いかるが の さと の をとめ は よもすがら 
            きぬはた おれり あき ちかみ かも  解説
     (いかるがの里の乙女は夜もすがら衣機織れり秋近みかも)


「大和路」(堀辰雄)と会津八一10 2012・12・19(水)
 「大和路・十月二十四日夜」で短編・曠野(あらの)の構想を練っている。
 「ゆうがた、浅茅あさぢはらのあたりだの、ついじのくずれから菜畑などの見えたりしている高畑たかばたけの裏の小径こみちだのをさまよいながら、きのうから念頭を去らなくなった物語の女のうえを考えつづけていた。こうして築土ついじのくずれた小径を、ときどき尾花おばななどをかき分けるようにして歩いていると、ふいと自分のまえに女を捜している狩衣かりぎぬすがたの男が立ちあらわれそうな気がしたり、そうかとおもうとまた、何処かから女のかなしげにすすり泣く音がきこえて来るような気がして、おもわずぞっとしたりした。これならば好い。僕はいつなん時でも、このまますうっとその物語の中にはいってゆけそうな気がする。……
 この分なら、このままホテルにいて、ときどきここいらを散歩しながら、一週間ぐらいで書いてしまえそうだ。」
 この文の「ついじのくずれから菜畑などの見えたりしている高畑たかばたけの裏の小径こみちだのをさまよいながら・・・」は會津八一の高畑にての歌そのものである。
   たびびと の め に いたき まで みどり なる
           ついぢ の ひま の なばたけ の いろ   解説
     (旅人の目に痛きまで緑なる築地の隙の菜畑のいろ)
 八一の歌を口ずさみながら、築地のある奈良の小道を堀のように歩く幸せはこの上ない。素空の大好きな歌の一つである。


「大和路」(堀辰雄)と会津八一11 2012・12・29(土)
 「十月二十六日、斑鳩の里にて」では鹿鳴集の歌が引用される。
 「・・・・僕は法隆寺へゆく松並木の途中から、村のほうへはいって、道に迷ったように、わざと民家の裏などを抜けたりしているうちに、夢殿の南門のところへ出た。そこでちょっと立ち止まって、まんまえの例の古い宿屋をしげしげと眺め、それから夢殿のほうへ向った。
 夢殿を中心として、いくつかの古代の建物がある。ここいらは厩戸皇子うまやどのおうじの御住居のあとであり、向うの金堂こんどうや塔などが立ち並んでおのずから厳粛な感じのするあたりとは打って変って、大いになごやかな雰囲気を漂わせていてしかるべき一廓いっかく。・・・・
 そこで僕はときどきその品のいい八角形をした屋根を見あげ見あげ、そこの小ぢんまりとした庭を往ったり来たりしながら、
   ゆめどのはしづかなるかなものもひに
                 こもりていまもましますがごと     解説
   義疏(ぎそ)のふでたまたまおきてゆふかげに
                 おりたたしけむこれのふるには   解説
 そんな「鹿鳴集」の歌などを口ずさんでは、自分の心のうちに、そういった古代びとの物静かな生活をよみがえらせてみたりしていた。」
 八一の夢殿の歌は以下もある。
   あめつち に われ ひとり ゐて たつ ごとき
              この さびしさ を きみ は ほほゑむ  解説


「大和路」(堀辰雄)と会津八一12 2013・1・18(金)
 「十月二十六日、斑鳩の里にて」は続く。

 「僕はようやく心がしずかになってから夢殿のなかへはいり、秘仏を拝し、そこを出ると、再び板がこいの傍をとおって、いかにもつつましげに、中宮寺の観音を拝しにいった。・・・・
 それから約三十分後には、僕は何かかがやかしい目つきをしながら、村を北のほうに抜け出し、平群へぐりの山のふもと、法輪寺ほうりんじ法起寺ほっきじのある森のほうへぶらぶらと歩き出していた。」
 関連する八一の歌を引用する。
   みほとけ の あご と ひぢ とに あまでら の 
             あさ の ひかり の ともしきろ かも    解説
   くわんおん の しろき ひたひ に やうらく の
             かげ うごかして かぜ わたる みゆ   解説
   みとらし の はちす に のこる あせいろ の 
             みどり な ふき そ こがらし の かぜ  解説


「大和路」(堀辰雄)と会津八一13 2013・1・20(日)
 「古墳」の中で柿本人麻呂の挽歌を扱う。会津八一との関連はないが、愛する人がまだ山中に生きてさ迷っていると詠う人麻呂の歌が好きだ。

 「――自分のひそかに通っていたかるの村の愛人が急に死んだ後、或る日いたたまれないように、その軽の村に来てひとりで懊悩おうのうする、そのおりの挽歌でありますが、その長歌が「……かるの市にわが立ち聞けば、たまだすき畝傍うねびの山に鳴く鳥の声も聞えず。たまぼこの道行く人も、ひとりだに似るが行かねば、すべをなみ、いもが名呼びて袖ぞ振りつる」と終わると、それがこういう二首の反歌でおさめられてあります。

 秋山あきやま黄葉もみぢしげまどはせるいもを求めむ山路やまぢ知らずも
 もみぢの散りゆくなべにたまづさの使つかひを見ればひし日おもほゆ

 丁度、晩秋であったのでありましょう。彼がそうやって懊悩しながら、軽の村をさまよっていますと、おりから黄葉がしきりと散っております。ふと見上げてみると、山という山がすっかり美しく黄葉している。それらの山のなかに彼の愛人も葬られているのにちがいないが、それはどこいらであろうか。そんな山の奥ぶかくに、彼女がまだ生前とすこしも変らない姿で、なんだか道に迷ったような様子をしてさまよいつづけているような気もしてならない。だが、それが山のどこいらであるのか全然わからないのだ。」

「大和路」(堀辰雄)と会津八一14(完) 2013・2・9(土)
 「浄瑠璃寺の春」で馬酔木の花を印象深く語り、寺の娘を描写する。

 『阿弥陀堂へ僕たちを案内してくれたのは、寺僧ではなく、その娘らしい、十六七の、ジャケット姿の少女だった。・・・・妻はその寺の娘とともに堂のそとに出て、陽あたりのいい縁さきで、裏庭の方かなんぞを眺めながら、こんな会話をしあっている。
「ずいぶん大きな柿の木ね。」妻の声がする。
「ほんまにええ柿の木やろ。」少女の返事はいかにも得意そうだ。
「何本あるのかしら? 一本、二本、三本……」
「みんなで七本だす。七本だすが、沢山に成りまっせ。九体寺の柿やいうてな、それを目あてに、人はんが大ぜいハイキングに来やはります。あてが一人で※(てへん+宛、第3水準1-84-80)いで上げるのだすがなあ、そのときのせわしい事やったらおまへんなあ。」
 この娘は八一も鹿鳴集・観仏三昧の浄瑠璃寺4首に出てくる娘である。
「浄瑠璃寺(第1首)
 二十日奈良より歩して山城国浄瑠璃寺にいたる。寺僧はあたかも奈良に買ひものに行きしとて在らず 赤きジャケツを着たる少女一人留守をまもりてたまたま来るハイキングの人々に裏庭の柿をもぎて売り我等がためには九体阿弥陀堂の扉を開けり 予ひとり堂後の縁をめぐれば一基の廃機ありこれを見て詠じて懐を抒(の)ぶ。」
 第3首と4首を下記に
   やまでら の ほふし が むすめ ひとり ゐて 
             かき うる には も いろづき に けり   解説
   みどう なる 九ぼん の ひざ に ひとつ づつ 
             かき たてまつれ はは の みため に   解説
 以上で「大和路と会津八一」を終わる。奈良をめぐって文人たちが影響し合い、また交流したことを思いながら。
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