会津八一に関するブログ 2
2003~4年

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1月の終わりに 2003・1・31

 あっという間に1月が終わった。注連縄の「どんど焼き」から、一気に月末が来てしまった気がする。雪の季節は時間の経つのが早い。念願の北海道スキーツアーが出来たり、楽しいことが沢山あったので個人的にはいい月だった。
 だけど、その分、別のところは手抜きになる。本業しかり、その他も課題が山済みしている。2月は頑張ろう!と反省するが、よく考えたら雪山が一番いい季節だ。う~~ん、反省がないな!!(Nさんに叱られそう)
 もう一つの反省、会津八一のページを更新できなかったこと。これは時間がかかるのだが、理由のもう一つは心の置き所の問題、心身ともにいつも豊かにしていないといけない。


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奈良の雪景色 2003・2・1

 素敵な画像に載った奈良の雪景色は素晴らしい。セミプロの手による貴重な写真を送ってくれた鹿鳴人に感謝したい。彼は自分のネットワーク網の優秀なメンバーによる情報や写真を随時送ってくれる。そこから、許可を得て「奈良写遊民」の名で掲載している。
 写真を見たとき圧倒された。友人はスキーで滑ってみたいと言っていたが、即座に八一の歌を思い浮かべた。

 春日野にて(第8首)                  解説

  もりかげ の ふぢ の ふるね に よる しか の   
               ねむり しづけき はる の ゆき かな



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春立つらしも 2003・3・30
 
 暖かくなり、市内の桜も咲き始めた。こぶしの花も満開である。入学・入社を迎え、また新しい事業年度を迎え世の中は一気にあわただしくなる。競うように春の草花も咲き乱れるだろう。
 艶やかさの中ではなく、わずかなきざしのなかに季節を感じる喜びがいい。そんな歌を味わってください。

  奈良博物館にて(第2首)                   解説

    くわんのん の せ に そふ あし の ひともと の 
              あさき みどり に はる たつ らし も 
   
      (観音の背に副ふ葦のひともとの浅き緑に春立つらしも)


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たびびとに 2003・5・1

 新緑の美しい5月になった。数年前仲間達と奈良・新薬師寺と白毫寺を訪れた。
 「たびびと の め に いたき まで みどりなる・・・・」(解説)と八一が詠んだ高畑には新薬師寺の薬師如来を囲む十二神将がいた。お堂の中の仏達が射し込む光に浮かび上がっていたのが印象的だった。

  新薬師寺の金堂にて                       解説 
      
     たびびと に ひらく みどう の しとみ より 
               めきら が たち に あさひ さし たり 

         (旅人に開く御堂のしとみより迷企羅が太刀に朝日さしたり)


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香薬師如来 2003・6・16

  香薬師を拝して(第1首)             解説

  みほとけ の うつら まなこ に いにしへ の 
             やまと くにばら かすみて ある らし 
(八一)

      香薬師のうっとりとした眼には古代の大和の国が
                   春の霞にかすんでみえているらしい。

 香薬師は新薬師寺の本尊薬師如来の胎内仏、白鳳仏と言われているが盗難にあって今はない。現存の本尊もこのときのものではない。


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八朔(ハッサク) 2003・8・1

 会津八一は明治14年8月1日新潟に生まれ、誕生日から八一と名づけられた。20歳の時には旧暦の8月1日を意味する「八朔」や「八朔郎」と号して東北日報・俳句欄の選者をしていた。(有名な「秋艸道人」という号は中年以後のもの)挽歌を除いて八一の和歌に夏の名歌はないが8月1日になるとどうしても「八一」が浮かんでくる。
 8月の初めが夏らしい暑さになった。「夏、8月の色はやはり燃える赤だろうか・・・夾竹桃の赤も強い夏の色」と今朝の毎日新聞にある。
 夏、8月はやはり燃える夏祭り、力強い諏訪神輿も強い夏の姿。2日3日と四日市祭りが開催される。     
    「朔(さく)」は陰暦で、月初めの日のこと。ついたち。(Goo辞書より)


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薬師寺東塔 2003・8・26

 『フェノロサが「凍れる音楽」と形容した夢幻的な美しさを秘めた不思議な三重塔(会津八一の名歌・和光慧)』といわれる東塔は現存する白鳳建築物。きらびやかな西塔は昭和56年に再建された。
 会津八一が薬師寺を詠んだころは東塔だけだった。

     大安寺をいでて薬師寺をのぞむ                解説

       しぐれ ふる のずゑ の むら の このま より 
                     みいでて うれし やくしじ の たふ


 佐佐木信綱の詠んだ歌は有名だ。この頃も西塔はなかった。

       行く秋の 大和の国の 薬師寺の 塔の上なる ひとひらの雲

 和光慧は西塔とのアンバランスを述べて、東塔だけの眺めを評価する。七条大池から二塔を眺めた一昨年を思い出しながら、八一の歌の解説を久しぶりに書いた。


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くさ に ねて 2003・9・12

 大安寺をいでて薬師寺をのぞむ      解説

    しぐれ ふる のずゑ の むら の このま より
                      みいでて うれし やくしじ の たふ 

        (時雨降る野末の村の木の間より見出でてうれし薬師寺の塔) 

 視界に現れた薬師寺東塔を喜びとともに詠んだ会津八一は、境内に入り秋空にそびえる塔を歌い上げた。青空に浮き出る塔の軒を想像しながら味わってください。

 薬師寺東塔(第1首)               解説

    くさ に ねて あふげ ば のき の あをぞら に 
                      すずめ かつ とぶ やくしじ の たふ
         (草に寝て仰げば軒の青空に雀かつ飛ぶ薬師寺の塔)


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秋空 2003・10・6

 薬師寺東塔(第2首)          解説

  すゐえん の あまつ をとめ が ころもで の 
                 ひま にも すめる あき の そら かな

            (水煙の天つ乙女が衣出のひまにも澄める秋の空かな)

 薬師寺・東塔の水煙に彫られた天女たち、音楽を奏でて飛翔する彼女たちの衣の袖の間にさえ、美しく澄んだ青い秋の空が見えるではないか。会津八一はイメージの中でこう歌い上げた。
 青空の下での諏訪神輿は絵になった。青く広く澄みわたった秋の空、この時期、この一瞬を逃さないようにと思っている。


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世を誹る 2003・10・18

 弘福寺の僧と談りて               解説

 よ を そしる まづしき そう の まもり こし 
            この くさむら の しろき いしずゑ    

        (世をそしる貧しき僧の守り来しこの草むらの白き礎)

 1972年高松塚古墳の美しく優れた彩色壁画が発見されるまでは明日香は人の訪れない鄙びた所だった。地上には飛鳥時代のものはほとんど残っていなかった。八一が訪れた頃、廃仏毀釈の中で寺院は苦しんでいた。そうした中で読まれた歌のよすがに触れてみたいと10・7明日香に出かけた。


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薬師寺東塔(第3首) 2003・11・29       解説

  あらし ふく ふるき みやこ の なかぞら の 
              いりひ の くも に もゆる たふ かな 
   
        (嵐吹く古き都のなかぞらの入日の雲にもゆる塔かな)

 美しく澄んだ青い秋の空の東塔を前作「すいえん・・」の歌で詠んだ八一は、対比して嵐の中の塔を直裁に歌い上げた。「すいえん・・」の歌と比べると面白い。
 台風(嵐)の頃から落葉の季節を経て、古都も寒い冬に入る。訪れる人も少なくなる。そんな奈良もいいだろう。


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山田寺仏頭 2003・12・9

「仏頭・興福寺」

 白鳳時代を代表する「仏頭」(国宝)と呼ばれる頭部だけの像が興福寺宝物館に収蔵されており、阿修羅像とともに館内で輝いている。この仏頭は山田寺の本尊として685年に開眼供養されたものと言われている。そのため飛鳥美術館には「山田寺仏頭(レプリカ)」として陳列されている。過日(10・7)レプリカを撮影してきた。

 寒々とした山田寺址を八一はこう詠んだ。

  山田寺の址にて(第2首)             解説

      やまでら の さむき くりや の ともしび に 
                ゆげたち しらむ いも の かゆ かな

             (山寺の寒き厨の灯火に湯気たち白む芋の粥かな)


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2004・2・1

       太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ
       次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
   「三好達治」

 会津八一は大学卒業後、望んだ職が無く、雪深い新潟の有恒学舎(高校)の英語教師として赴任する。この時、東京の美人画家との恋を失う。単身赴任、失恋。降り続く深雪のなかで文学活動を再開した八一は初めて奈良を訪れ和歌を詠む。
 後日、坪内逍遥によって早稲田に呼び戻されるが、この時期の若き哀愁が初期作品に影響を与えている。
 遠い山奥でしんしんと降る雪、静かな光景を思い浮かべながら2月を始めよう。


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日々新面目あるへし 2004・3・1

 秋艸道人・会津八一は「学規」を作成し、自ら及び教え子達の範とした。

   学  規    解説

      ふかくこの生を愛すへし    かへりみて己を知るへし
      学芸を以て性を養うへし    日々新面目あるへし

      
 どれも胸に響く言葉だが、特に「日々新面目あるへし」は力強い。昨日までの己に満足せず、いや否定するぐらい日々精進すべきと教えている。SUの尊敬する会津八一のこの言葉を3月春のスタートにしたい。


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ふかくこの生を愛すへし 2004・3・5

 会津八一の「学規」のこの言葉は彼の人生観が凝縮されている。随筆でこう語る。
生命は束の間なれども、藝術は永遠なりなどと云ってみても、つまりは人生あっての藝術にちがいなかろう
 今ある生、生きていることを大事にする。深く人生及び人間を愛することが、芸術や学問の根底になければいけないと教えているのだ。
 進歩という言葉で人間性を無視し、利潤のために人をないがしろにし、正義の名の下に戦争をする。とかくこういう流れになりがちな世の中で「ふかくこの生を愛すへし」は千鈞の重みを持つ。隣家のおじいさんの野辺の送りが「生」を喚起した。


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かへりみて己を知るへし 2004・3・15

 会津八一の学規その2に「かへりみて己を知るへし」とある。もちろん、学び舎における教え子への言葉だが、八一自身への戒めでもある。
 八一は、常に自己を反省し、自分という存在を見据えよと諭す。自己を過大にも過小にも評価してはいけない。自己の現状を正しく把握し、己の未熟を認識しながら、学問における精進と努力をせよと言う。ソクラテスの「汝自身を知れ」とは意味合いが異なるが、人生にとって示唆に富んだ言葉だ。
 明日は第三火曜日(休み)なので、「己を知るべく」雑多な日常を忘れよう。でもきっと「小人閑居して不善をなす」になりそうだ。


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3月の終りに 2004・3・31

 3月は事が多い。週一スキーを目指すが、1回しか行けなかった。反省!?? 反省といえば、メイン講師の不調で明らかになったことは、己のPCの学習度の低さだった。日頃の不勉強が如実に現れた。(でも講師が元気に復帰したので安堵、不勉強が続きそう)

  
          熱海・坪内逍遥宅の八一書の扁額「双柿舎」

 会津八一(秋艸道人)の学規に「学芸を以て性を養うへし」がある。学芸(学問)を自己目的化するのではなく、その過程で「本性・性分・性根」を磨けと諭す。学習だけでもしんどいのに「性を養う」のはほとんど絶望的だ。先人の教えだけをなぞるだけにしておこう。
 学規の紹介に始まった3月が、28日熱海で撮った「双柿舎」(扁額)を最後に掲載できる事はとても嬉しい。明日からの4月を楽しもう。


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関東大震災 2004・4・10

 会津八一が震災後の坪内逍遥宅・双柿舎(熱海)を訪れたのは大正13年、鉄道が不通で小田原から舟で渡ったという。その時、崩れた熱海・伊豆山の断崖を詠んだ。

  後数月にして熱海の双柿舎を訪はむとするに
          汽車なほ通ぜず舟中より伊豆山を望みて    解説

   すべ も なく くえし きりぎし いたづらに 
           かすみ たなびく なみ の ほ の へ に 
 
        (すべもなく崩えし切り岸いたづらに霞たなびく波の秀のへに)

 1923年(大正12年)9月1日の関東大震災は、死者・行方不明者142,807人(地震後の関連する死者数を含む)を出した。
 イラクにおける戦争犠牲者は、現在 1万人を越したと言われる。これは天災ではない、人災なのだ。こんなに人間の命は軽いのだろうか? 


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奈良の鹿 2004・6・1

 友人・鹿鳴人と「奈良の早起き」という言葉から、米朝と円生の落語「鹿政談」を聞きなおした。だからというわけではないが、6月のはじめを八一の歌で始めたい。梅雨の合間の晴れた日を、春日野でゆったりした時間が取れたらどんなに幸せだろう。

  春日野にて          解説

    うち ふして もの もふ くさ の まくらべ を 
             あした の しか の むれ わたり つつ 

         (うち伏してもの思ふ草の枕べを朝の鹿の群れ渡りつつ)

  奈良の早起き
   「鹿を殺した者には、石詰の刑に処す」と言う掟があった。
   自分の家の所で鹿が死んでいると困るので早起きしたと言われる。
  鹿政談(しかせいだん)
   鹿を殺すと死刑という奈良で、豆腐屋さん(善人)が店頭の
    卯の花(おから)を食べている鹿を殺してしまう。
    鹿の守役(悪役)をたしなめながら、奉行が
   「これは鹿ではなく犬である」と言って助ける話。


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大仏開眼 2004・6・29

 今から1252年前、天平勝宝4年(752年)、大仏開眼が行われる。聖武天皇、光明皇后をはじめ文武百官が控え、さらに1万を超える僧侶が集まるという大イベントだった。
 聖武天皇は災害や疫病(天然痘)が多発したため、仏教に深く帰依し、743年に東大寺大仏建立の詔(みことのり)を出した。建立の労役のため人民が苦しんだとも言われるが、詔の気持ちはわかる。とりわけ、イラクの現状を思う時、仏教徒の気持ちは如何にと考える。
 会津八一は大仏と仏教の宇宙観を詠んだ。

 東大寺にて(第1首)         解説

   おほらかに もろて の ゆび を ひらかせて
               おほき ほとけ は あまたらしたり  



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萩 2004・7・13

 思い立って、奈良まで走る。新薬師寺にも立ち寄った。この時期は訪れる人が少ないので静寂の中の薬師如来と十二神将達をじっくり観ることができた。

  香薬師を拝して(第2首)              解説

   ちかづきて あふぎ みれ ども みほとけ の 
                みそなはす とも あらぬ さびしさ


 八一の歌碑が良く伸びた萩の葉に囲まれていた。


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夏休み 2004・7・18

 夏休みのイメージは海、山、遊ぶ、そして自由、かな? この年になると日差しが強い海にはとても順応できない。どうしても涼しい山に惹かれる。街の喧騒から逃れて遠い山奥に行ってみたい。欲を言えば温泉があるといい。
 会津八一は傷ついた心身を癒すために旧暦6月、長野・山田温泉に湯治に出かけた。季節は違うが7月の山々にも良く似合う歌だ。

 山中高歌(第1首)                解説

   みすずかる しなの の はて の むらやま の 
                みね ふき わたる みなつき の かぜ

          (みすずかる信濃のはての群山の嶺吹き渡るみなつきの風)


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滝坂の道 2004・8・2

 7月奈良・滝坂の道を歩いた。原生林の鬱蒼とした中をゆっくり登りながら、自然と石仏を楽しんだ。八一の「滝坂にて」の歌に導かれて!

滝坂にて(第3首)                     解説  

  かけ おちて いは の した なる くさむら の 
               つち と なりけむ ほとけ かな しも

       
       (欠け落ちて岩の下なる草むらの土となりけむ仏かなしも)


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立秋 2004・8・7

 激しい雷雨の立秋だった。雨風のためか幾分気温は和らいだが、まだまだ、猛暑の夏が続く。せめて、立秋にさわやかな秋を思いたい。
 古都奈良の山中の道と赤い柿の実に、やがて来る季節の気配を感じてください。

  滝坂にて(第1首)                  解説
 
    かき の み を になひて くだる むらびと に
                 いくたび あひし たきさか の みち   

         (柿の実を担いて下る村人に幾たび会いし滝坂の道)


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豆柿 2004・8・28

 柿といえば秋、その実の色は秋空にとてもよく似合う。会津八一は豆柿をかじりながら、秋の山道を歩いた。彼は同郷の先輩・良寛を心から尊敬した。良寛は「自然の中に心を遊ばせた」と言う。そんなふうに秋を楽しみたい。

 滝坂にて(第2首)                    解説

  まめがき を あまた もとめて ひとつ づつ
               くひ もて ゆきし たきさか の みち  

          (豆柿をあまた求めて一つづつ食ひもて行きし滝坂の道)


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秋風 2004・9・7

 台風の風が吹き荒れた。でも心は秋の落日を吹きわたる冷たく澄んだ秋風を思う。
 
  滝坂にて(第5首)                  解説

  ゆふ されば きし の はにふ に よる かに の 
           あかき はさみ に あき の かぜ ふく   

             (夕されば岸の埴生による蟹の赤き鋏に秋の風吹く)


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毘慮遮那仏(びるしゃなぶつ) 2004・9・14

 華厳宗では全世界を毘慮遮那仏の顕現ととらえる。東大寺の大仏(毘慮遮那仏)は、それ自身が世界を具現している。会津八一は「おほらかに・・」の歌(31文字)で見事にそのことを表現した。
 その大仏に対面して詠った「東大寺にて第2首」を今日は味わってください!

   あまたたび この ひろまへ に めぐり きて 
              たちたる われ ぞ しる や みほとけ    
解説

        (あまたたびこの広前にめぐり来て立ちたる我ぞ知るやみ仏)


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古都 2004・10・1

 友人鹿鳴人の奈良市民合唱団・演奏会に出かけた。会場へ入る前に秋篠寺へ。
 会津八一(秋艸道人)は古都奈良を京都との対比で南京と言った。ナンキンでは無くナンキョウと読む。処女歌集を「南京新唱」と名づけた。明治初期の廃仏毀釈で荒廃した寺、寂寥感漂う奈良の地を訪れ、豊かな感受性で古都と寺と仏を歌い上げた。

  秋篠寺にて(第1首)                解説

   たかむら に さしいる かげ も うらさびし 
            ほとけ いまさぬ あきしの の さと   

         (竹群にさし入る光もうら淋し仏いまさぬ秋篠の里)


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八一の十四ヶ条 2004・10・5

 身近な人に問われて、短歌を詠む心得を手紙に書いている。
 1  感情を以ってうたふこと。
 2  真に内心から湧き上がる感情無きときは、漫然として歌を作らんと
     思わざるべきこと。
 
 とても我が身を同列に置ける訳ではないが、師の言葉であれば従わないわけにはいかない。真に内心から湧き上がるものがない時は、漫然と独り言を書こうと思ってはいけない。うんうん!書けないことの良い口実が出来た。


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感動 2004・10・6

 イチロー、落合は才能と努力で世間を動かし感動を呼んだ。八一の十四ヶ条の続きを引用する。かなり手厳しい。

 3  世才・文才・常識、そんなものでは、自分も感動してをるにあらず。
   それを以て他人を動かし得ざること当然なり。


 ライブドア、楽天は公開ヒアリングで、日本プロフェッショナル野球組織(NPB)の審査小委員会を動かすことが出来ただろうか?ただ、NPBの審査を通ったとしても真っ当な感動が無ければ、野球ファンを動かし得ざること当然なり。


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単純な感情 2004・10・7

 続けて八一の十四ヶ条より

  4  感情を単純化してうたふべし。
  5  表現も単純にして直裁なるを尚ぶ。徒に曲折せるは、真情の
     流露をさまたぐ。


 「楽天良し!」とする知人がライブドアと楽天、どちらがいいか聞いてきた。近鉄ファンキリンを入れたSU家の感情は単純である。
 楽天が仙台以外を指定したなら良し。仙台指定はハイエナ以下と判断する。よって、SU家は壁を苦労してこじ開けたライブドア球団を応援する。ハイエナ球団は糾弾する。

 難しいが6も以下に紹介する。

  6  詞句の曲折は初学の能くなし得るところにあらざるも、
     老熟してこれを自在になし得るとも、真情の枯渇し居らば、
     かへりて厭うべきなり。


 わが独り言も枯渇寸前に陥る。真情無く、表現力無しと師は見抜いておられようか!


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八一の十四ヶ条

 7 用語は常人の耳に遠からざるものをよしとす。ろくろく学問を
    精しからぬ者が専門家振りて、古語歌謡といふようなるものを
    襲用するは、最も厭う べきことなり。古語を用ふるは、
    やむを得ざる時にのみ限りて許さるべし。

 8 散文にていふに如かざることを歌として歌ふは、根本的に心得ちがいなり。 

 9 和歌は我国のみにあれども、詩歌は如何なる民族にもあり。和歌はその
   一種なりと知るべし。我国の歌人なかまにあらざれば解しがたき如き
    ことを、詩歌の本道とも本質とも認めがたし。外国語に翻訳しても、
    その国の人々によりてたやすく解せらるるやうにてありたし。



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八一の十四ヶ条

10  従って、その辺の歌集をのみひもどき居りて、それで勉強したりと
    おもふは不心得なり。ひろく世界古今の詩歌を味ひみるべし。


  参照 「そもそも予が歌は『万葉集』と良寛と子規子とに啓発せられ、
      後に欧亜の詩文と芸術により培い来りし・・・」(「鹿鳴集 後記」)

八一の十四ヶ条

11  いやしくも歌を作るは容易にあらず。うかうかと濫作して、よき歌の
    出来んことを希ふは無理なり。一方心境を練り詩歌を弘むると
    ともに、真に感興の内に催すをまちて、精細を傾けて歌ひ出すべし。



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八一の十四ヶ条
 12  要するに作歌は、天才と人力とをまちて、 しかも 精進して
    初めて為し得るのみ、漫然たる態度にてたづさはるべきにあらず。


八一の十四ヶ条
 13  右は歌を作る人々が問ひ来たらば先ず答えんとおもふ条々なり。

八一の十四ヶ条
 14  書外は工夫をつみて悟得せらるべし。
  (追記)  音調の朗々としてうたふに勝(た)ふるを要することは、
        毎度申す通りなれば、右には省略したり。


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平城京址 2004・10・15
 近鉄西大寺から奈良への車窓に、復元された平城京址の朱雀門が目に飛び込んでくる。史跡の復元には100年かかると言われている。 
 八一は作歌の十四ヶ条で、感情を持って詠み、感情を単純化して歌う事を、終始強調している。

 平城京址の大極芝にて        解説

   はたなか の かれたる しば に たつ ひと の 
                  うごく とも なし もの もふ らし も

        (畑中の枯れたる芝に立つ人の動くともなしもの思ふらしも)


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平城京址2 2004・10・23

 平城京址に立ち、古を思う八一の歌を斉藤茂吉はこう評する。
 「これは『大極芝』を詠じたものであるが、極めて自然に流露してゐて、しかも無量の哀韻をこもらせてゐるあたりは、詞をやるに達者でなければ能(あた)わぬわざである。ことばが順直に行ってゐるから、一見無造作のやうにおもふが、これまでに達するには、並大抵の修練では出来まい」 (痴人の痴話)

 平城京址の大極芝にて   解説
   はたなか に まひ てり たらす ひとむら の 
          かれたる くさ に たち なげく かな     

     (畑中にま日照り足らす一群の枯れたる草に立ちなげくかな)


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柿 2004・11・11

 富有はあごで食べ、次郎は歯で食べ、たねなしは舌で食べると言う。
  甘柿の代表   富有(岐阜) 次郎(静岡) 西村早生(滋賀)
  渋柿の代表   平核無(新潟) 刀根早生(奈良)

 柿は1000種以上もの品種がある。その一部に以下もある。
  愛秋豊(あいしゅうほう) 筆柿(ふでがき) 太秋(たいしゅう)
  新秋(しんしゅう) 甲州百目(こうしゅうひゃくめ) 市田柿四ツ溝(よつみぞ)

 柿は甘みのある適度な硬さの物が好きだが、好みは八一の柿。

  秋篠寺にて 第2首               解説

     まばら なる たけ の かなた の しろかべ に 
              しだれて あかき かき の み の かず   

          (まばらなる竹の彼方の白壁にしだれて赤き柿の実の数)


会津八一に関するブログ 61

生駒山 2004・11・23

 少女殺害という忌まわしい事件が起こった場所は、奈良県生駒郡平群町。奈良の友人言う。「奈良は犯罪とかには無縁のまほろばの土地だと思っていました。平群は紅葉と秋の風情が感じられる、生駒山のふもとなのです」
 高度成長経済からくる歪み、物質的には満たされてきたが、本当に人間らしく生きるという事がないがしろにされてきたツケが廻ってきたのかもしれない。
 せめて、立ち止まってこの歌のように生駒山を眺める豊かな心を育ててもらいたい。

  秋篠寺にて 第3首                 解説

     あきしの の みてら を いでて かへりみる 
            いこま が たけ に ひ は おちむ と す
  
       (秋篠のみ寺を出でてかえり見る生駒ヶ岳に日は落ちんとす)


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11月のおわりに 2004・11・30

 「暖かいですね!何かが起こりそうで怖いですね」 道端でのちょっとした会話がこんな風に交わされる。天変地異が今にも起こりそうと誰もが危惧するような暖かさが続いた。個人的には奥美濃や長野の山々に雪が降らないのは困る。季節感も狂う。
 新潟、北海道と続く地震は、自然の圧倒的な力と怖さをまざまざと見せつけた。反面、自然は日本固有の美しい四季を与えてくれる。
 明日から12月、季節感あふれる冬の到来を期待したい。11月の終わりに古都の秋の夕暮れをどうぞ!

  法隆寺の金堂にて 第2首                解説

      たち いでて とどろと とざす こんだう の 
             とびら の おと に くるる けふ かな

       (立ち出でてとどろと閉ざす金堂の扉の音にくるる今日かな)


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法隆寺炎上 2004・12・2(木)

 今朝の朝刊によると法隆寺で焼けた最古の寺院壁画片が多数出土した。法隆寺の火災を裏付ける考古遺物が見つかったのは初めてだ。
 会津八一は博士論文を昭和8年に提出し、翌年博士号を授与された。その中の「法隆寺建立年代私考」で文献と実物(建築様式など)から論証して、建立まもない7世紀初頭の炎上を証明している。従って、現存する金堂は7世紀に再建されたものなのだ。

  法隆寺の金堂にて第1首            解説

     おし ひらく おもき とびら の あひだ より 
            はや みえ たまふ みほとけ の かほ 

        (おし開く重き扉の間よりはや見え給ふみ仏のかほ)


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渾齋(こんさい) 2004・12・18(土)

 会津八一の代表的な随筆に渾齋随筆がある。長い間、この渾齋の意味がわからなかったが、八一の解説によるとこれは齋號(さいごう)、では齋號(斎号)とは?
 渾齋とは私の齋號の一つで、秋艸堂とともに・・・・・・
 「齋」と言う字は「書齋」、「畫齋(がさい)」などと言って、文字を書く部屋、畫を書く部屋、又は本を讀む部屋など言ふ意味に用ひ、一階でも二階でも三階でもかまひません。この點は、「樓」が二階でないといけないのとは違います。
 渾齋とは八一の部屋の名から付けられた号だった。号とは雅号(学者・文人・画家などが本名のほかに用いる名)のこと。
 自分の世界の感動を今日は皆さんに勝手におすそ分け。さらに「渾」は老子の「渾トシテ其レ濁レルガ若シ」から来ているが、これは別の機会に押し付けよう!!


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アメブラ 2004・12・23(木)

 「アメブラ頂戴!」「エッ!何なの?アメフトは知っているけど、アメリカのプラモデル?それともブラジャー?」 若い子の言葉はわからない。「ツメシボ取って!」 これもわからない。その上、感覚的に嫌なリズムの言葉だ。
 言語は時代や人によって変化していくから、いたずらに従来の日本語に頑迷にこだわるわけではないが、とても日本語として生き残れないと思われる「造語」は伝達能力もないし、それ以上に不愉快だ。
 ところで上記の語は「アメリカンコーヒーブラック」と「冷たいオシボリ」だった。

アメブラ2 2004・12・24(金)

 「アメリカのプラモデル頂戴!」と得意げに皮肉を込めて今日言われた。困ったことだ!
 会津八一の下記の解説を要約すると
「(優れた古語を尊重しながらも)言語は頑迷に拘るべきものではない。新語・造語には従来の良さを失うことなく、さらに新しい意味を加えよ!」となる。言葉は大事にしたい。

 造語は・・・許さるべきことにもあれば、ひたすら幽遠なる上古の用例にのみ拘泥し、死語廃格を墨守すべきにあらず。新語、新語法のうちに古味を失わず、古語、古法のうちにも新意を出し来るにあらずんば、言語として生命なく、従って文字として価値無きに至るべし。

 西大寺四天堂にて                   解説
 
      まがつみ は いま の うつつ に ありこせ ど 
             ふみし ほとけ の ゆくへ しらず も 
 
        (まがつみは今のうつつにありこせど踏みし仏の行方知らずも)
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