8月の終わりに 2015・8・31(月)
 暑い日が続いたが少し温度が下がり秋の気配が見えてきた。8月は原爆と敗戦が多く取り上げられるのでいつも平和を考える。とりわけ、今年は戦後70年という節目であること、さらに安倍政権が集団的自衛権の行使を可能にする安保法制を意図するので、多くの報道で平和について取り上げられていた。
 もちろん、戦争を容認し平和をないがしろにすることは絶対に反対だ。自分ひとりの力は微々たるもので力の無さを悔むが、安保法制に“否”と言わなかった人の顔だけは忘れないでおこうと思っている。
枕草子(三十二段)・小白河といふ所は 2015・8・30(日) 
 小一条の大将の邸(小白河殿)で結縁の八講(三十一段参照)があった。庭に立てた車の中から見たり聞いたりしたその時の様子を描写する。
 講座の始まる前の上達部(公卿)の素晴らしい装いや立ち居振舞いを描く一方、後から来て遠くに停めた女車に上達部が使いを出して無視される話を書く。清少納言は暑いし他の仕事があって帰ったりしたが、ずっと4日間、車を立てて静かに聴聞した人は素晴らしいと言う。
 この話は彼女がまだ宮仕えしていない頃の見聞。 原文( 32段)
出張続きで(朝日新聞・あのね) 2015・8・29(土)
 出張続きで週末以外、家になかなか帰れないパパに「もうお父さん、仕事辞めて! お金はスーパーで買って来てよ!」。
            (横浜市 ヴェッツェル吉田龍壱〈りゅうい〉・4歳)

落語・天狗さしにこんな笑いがある。
 もぉ、お前の銭儲けの話ちゅうのは去年懲りてんねん、あら一生よぉ忘れんでわしゃ。ちょ~ど今時分やったかなぁ、去年の……「銭儲けのえぇ話がある」言ぅて来たんや「何や?」ちゅうたら「十円札を九円で仕入れて、十一円に売ったら儲かりまっしゃろ」ちゅたなぁ……、よぉあんな不思議なこと考えたなぁお前。
小泉八雲と3男・清 2015・8・28(金)
 「怪談」の著者としてしか知らなかった小泉八雲・ラフカディオ=ハーン(1850~1904)の随筆「知られざる日本の面影」の解説をテレビで見た。そこで初めて生い立ちその他を知った。
 アイルランド人の父と、ギリシャ人の母との間に生まれたが、父母の離婚により、アイルランドに住む大叔母の元へ。16歳の時に左目を失明(このため彼の写真は右からの横顔しかない)、大叔母の破産などの不幸の後、19歳でアメリカへ。新聞記者や翻訳などを手がける。1890年に来日、日本が気にいり定住し、妻・セツとの間に4人の子供をもうけた。島根県尋常中学校及び師範学校の英語教師を皮きりに、1896年に東京大学、1904年3月に早稲田大学に勤務したが同年9月に狭心症で亡くなる(54歳)。
 また、八雲は會津八一とも関連があった。そのことは會津八一記念館に簡単に紹介されているが、補足すると東大を追われるように退官した八雲を他の教師たちと運動して早大に招聘したのは八一だった。また、子供達の教師(早稲田中学時代)として八雲亡き後も面倒を見たのは八一である。とりわけ3男・清(画家)は八一を師と仰いだ。
 テレビから八一や小泉清の事を思い出したが、八一の死(1956年)の6年後糟糠の妻・静子(1961年死亡)の後を追うように清はガス自殺する。遺書にある「血が複雑すぎたのだろう」から八雲の生い立ちを想った。
 「浅草の善光寺でもどこでもよいから骨は、ママと一緒に葬ってくれ。意志の力ではどうにでも出来ないわたしのことについて、何も弁解することはできないのだ。要するにアブノーマルな男としての自分の生涯だけであった。これはどうにもならぬ宿命だった。血が複雑すぎたのだろう。みんな生き抜く立派な力を以って、らん子、閏、一枝、ゴーディ、仲よく愛し合って人生を肯定して生きてくれ。この上もない迷惑ばかりかけつづけた」
南京余唱・第40首(會津八一) 2015・8・27(木)
   鹿の鳴くをききて(第2首)                    解説
   しか なきて なら は さびし と しる ひと も 
            わが もふ ごとく しる と いはめ や も

 これほどまでに古都への哀傷を詠った歌は無い。八一の奈良への愛情を深く感じる。 

                        私の水彩画・近隣の風景1(Masanori.Y)
鈴虫の鳴き声 2015・8・26(水)
 営業所で鈴虫がリンリンリーンと美しい音色で鳴いている。鳴くのは3匹の雄。若い子が「良いですね~、有線ですか、録音ですか?」と聞いたので、その場にいる皆が大笑い。なかなか聞けない鳴き声なので分からないことは無いが、その発想は面白く楽しい。
 3匹だけど人によってはうるさいと思う人もあるから、人それぞれである。自宅の鈴虫の雄は数百匹いるのでその合唱はシャーという轟音に聞こえる。毎日数匹づつ庭に放してやるが、優雅に鳴いているのは2,3日、トカゲなどの餌食になってしまう。
 ところで人間の声の周波数に合わせてある電話は、周波数の高い鈴虫の鳴き声は伝わらないと言う。この合唱する鈴虫の鳴き声はいくら大きくても電話では伝わらないのだろうね。
笑えない話(朝日新聞・いわせてもらお) 2015・8・25(火)
 母(67)と私は、自動車を共有している。先日、出かけようとしたら、車庫に車がなかった。ところが、母は居間でテレビを見ている。「車はどうしたの?」。問いただされて、「あっ!」と思い出した母。なんと、普段は歩いて行くスーパーに車で出かけて、駐車場に忘れてきたんですって。
         (東京都東大阪市・おどろいたのは私です・49歳)

 冷蔵庫の閉め忘れ、引き出しの開けっ放し、今日も連れ合いに叱られた。「気が付いたら、締めたら!」と言ったら、余計に叱られた。
                              永源寺(ノブ君ハイキング)
會津八一の歌碑建立 2015・8・24(月)
 昭和20年7月10日に咽頭結核で亡くなった養女きい子への八一の挽歌・山鳩(21首)の第二首を刻んだ歌碑が先月新潟県胎内市の柴橋庵に建立された。きい子の命日である7月10日に除幕式が行われた。
   やまばと の とよもす やど の しづもり に         解説
                なれ は も ゆく か ねむる ごとく に
      (山鳩のとよもす宿のしづもりになれはも逝くか眠る如くに)
 この建立計画については去年のブログ「きい子を追悼する歌の碑」で書いた。改めてこの歌に接すると八一の代表作、古都奈良を叙景的に読んだ「南京新唱」との大きな違いを実感する。
 最愛の養女・きい子への挽歌・山鳩は、八一の悲しみの心を静かに抒情的に詠いあげる。山鳩21首を味わってもらいたいが、その前に歌に関する彼の序(大意)を読んで欲しい。 
楽しい聞き間違い(朝日新聞・いわせてもらお) 2015・8・23(日)
 孫娘(2)が外を見ながら「かれし、いないよ~」と言った。「まだ、早いよ」と笑った私は、はたと思い出した。そういえば彼女、この間はカラスがいるのを見て驚いていたっけ。とんだ聞き間違いに、みんな大笑いでした。
                  (横浜島市・彼氏はカラスでした・64歳)

 若いころ「かのじょ、いないよ~」と叫んで、さらに「生涯独身!」を宣言した。でも仲間内で一番早く結婚した。
枕草子(三十一段)・菩提といふ寺に 2015・8・22(土)
 仏道に縁を結ぶ法華八講(法華経八巻を朝夕一巻ずつ講じ、四日間で全巻を講義)で、説法に感動した時に「早く帰っておいで」と言われたが、断りに詠んだ歌(千載集などにある)を得意げに披露する。
  もとめてもかゝる蓮の露ををきて憂世に又はかへる物かは
    “自ら求めても濡れたいありがたい蓮の露(仏縁につながりたい)を
     さしおいて、嫌なことが多い俗世に再び帰るものですか”
(三十一段)
菩提(ぼだい)といふ寺(てら)に、結縁(けちゑん)の八講(かう)せしにまうでたるに、人のもとより「とく帰給(かへりたまひ)ね。いとさうざうし」といひたれば、蓮(はす)のはなびらに、
  もとめてもかゝる蓮(はちす)の露をを(お)きて憂世(うきよ)に又はかへる物かは
とかきてやりつ。誠にいとたう(ふ)とく哀(あはれ)なれば、やがてとまりぬべくおぼゆるに、さうちうが家の人のもどかしさも忘れぬべし。

菩提という寺で結縁の八講が催されたのでお参りしたところが、ある人から「速くお帰りを、あなたがいないととてもつまらない」という手紙がきたので、蓮の葉の裏に、
 自ら求めても濡れたいありがたい蓮の露(仏縁につながりたい)をさしおいて、嫌なことが多い俗世に再び帰るものですか。
と書いて送った。非常に尊い説法で感動したので、そのまま出家したいような気持ちなので、あの家路を忘れた湘中老師(そうちゅうろうし)のように、私の帰りを待っている家人の非難を忘れてしまいそうになった。
火花(芥川賞) 2015・8・21(金)
 連れ合いが借りてきたので読んだ。読後の感想は「わからない」である。
 漫才を含むお笑い芸人の番組をほとんど見ないので、その世界に疎いところもあり、物語は主人公(漫才師)と先輩の間で展開して行くが、ところどころわからないところがある。先輩との間で繰り広げられる対話や行動は興味深く面白いのだが、心を奪われるような所は無く、これが芥川賞(純文学)?と思ってしまった。と言って、大きな欠点があるわけではない。で、「わからない」と言うしかないのだ。
 今、朝日新聞で連載されている夏目漱石の「それから」を読んでいるが、これはインテリジェンスが高く難し過ぎる。こんな本を若い時に読んだかと思うと不思議である。小説に埋没した時期もあるのだが、素空には向いていないのかもしれない。
南京余唱・第39首(會津八一) 2015・8・20(木)
   鹿の鳴くをききて(第1首)                   解説
   しか なきて かかる さびしき ゆふべ とも 
            しらで ひともす なら の まちかど

 古都奈良を愛した八一は寺や仏像の荒廃した姿を背景にして寂寥感を持って詠う。
                              白いご飯大好き(くるみ) 
日録 20世紀(1928・昭和3年) 2015・8・19(水)
 1928年のグラビアは
  ◦ アムステルダム五輪で日本初の金!
  ◦ 闇に葬られた「張作霖爆殺事件」の真相
  ◦ 空前の規模!昭和の「即位大礼」挙行
  ◦ ディズニーの「ミッキーマウス」デビュー!
 オリンピック参加16年目で初の金メダル2個、三段跳びの織田幹雄、200m平泳ぎの鶴田義行だった。日本は選手43名、役員13名で参加している。ちなみに2012年ロンドンオリンピックの日本は選手293名、役員225名だった。
 張作霖事件は、満州支配を画策した関東軍の河本大作陸軍大佐が満州軍閥・張作霖を列車ごと爆死させた事件(6月4日)である。関東軍は“蒋介石の北閥軍の怪しい中国人2人を発見射殺した”と発表している。事実は隠蔽され、1937年の日中戦争(支那事変)、1941年の太平洋戦争へと突き進んで行く。
 「即位大礼」(11月10日)とは昭和天皇が、皇位を継承したことを内外に示す儀典で、諸外国における戴冠式にあたる。この時、天皇は「永く世界の平和を保ち、あまねく人類の福祉を益せんことをこいねがう」と宣言している。その言葉とは裏腹に軍部の台頭の中で戦争への道を突き進んで行くのである。
 8月14日に発表された安倍談話は主語が無いあいまいな形で過去の戦争への反省を述べ、「法の支配を尊重し、力の行使では無く平和的・外交的に(紛争)を解決すべき」と己の考えを隠して宣言する。
 言葉とは便利であり、また信用ならないものでもあると痛切に思う。
もの忘れ(朝日新聞・いわせてもらお) 2015・8・17(月)
 加齢のせいか、前にも聞いた話を、初めてのように話す友達が増えた。さも初めて聞いたかのように「へぇ、そうなんや」と返事しているけれど、「ひょっとして、私も?」。不安になって「前にも言ったかもしれないけど……」と、前置きしてから話すようになりました。
          (兵庫県三木市・言ったことは忘れます・20歳)

 仲間も自分も物忘れがひどくなってきた。中には、話したことが無いことでも以前に聞いたと相づちを打つ人がいる。これは不思議!

                   (明日第3火曜日は独り言を休みます)
              おちょぼさんー月見の里南濃(道の駅)-カインズ
永遠の0 2015・8・16(日)
 録画して見た。最初に驚いたのは「0」がゼロ戦(零式艦上戦闘機)の事だったこと。無知だと言えばそうだが、世間で騒がれているので、0の哲学的な意味(無とか無限)を主題にした物語かと思っていた。
 映画は終戦間際の神風特攻隊員の主人公と家族、そして同じ特攻隊員たちを中心にした人間味あふれるドラマである。ただ、この映画は戦争を肯定し、特攻隊やゼロ戦を賛美した上に成り立っている。何度も途中で見るのをやめようと思ったが、確認のため最後まで見た。
 敗戦間近、もはや勝ち目のない状況だった日本が敢行した人間爆弾(250kg爆弾を抱いて敵に体当たり)と言っていいゼロ戦による特攻隊、死者を心から悼むが決して美化できる頃では無い。むしろ、その当時の指導者や戦争を憎む。
 こんな映画(本)がヒットするなんてと思う。戦争で死んでいった人、怪我した人、残された人達、そんな多くの人達の願いを込めて戦後の平和(国家)が70年続いてきた。随分年を取ったが、生きている間に日本の戦争を決して見たいとは思わない。
南京余唱・第38首(會津八一) 2015・8・15(土)
   東大寺の某院を訪ねて                      解説
   おとなへば そう たち いでて おぼろげに 
            われ を むかふる いしだたみ かな 

 出迎えた東大寺・観音院の僧のおぼろげな顔(誰なんだろう?)をとらえ、その一瞬を詠う。 
中村久子 2015・8・14(金)
      手足なき 身にしあれども 生かさるる
                いまのいのちは たふとかりけり

 我家の床の間に掛かっている中村久子の歌で、随分前に高山の照蓮寺にある彼女の生涯を紹介する常設展示場で連れ合いが手に入れたものである。
 中村 久子(1897-1986年)は、両手・両足の切断というハンデにも拘らず自立した生活を送った女性として知られる。若い時、自立するために「だるま娘」として興行芸人になる。芸人をやめて、昭和12年ヘレン・ケラーに会い「私より不幸な人、そして、私より偉大な人」と言われる。
 その後、執筆活動・講演活動・各施設慰問活動を始め、全国の身障者および健常者に大きな生きる力と光を与えた。
 障害のおかげで強く生きられる機会を貰ったとして「『無手無足』は仏より賜った身体、生かされている喜びと尊さ(を感じる)」と言い、「人間は肉体のみで生きるのではなく、心で生きるのだ」と語っている。
 掛け軸と同じ時に手に入れたビデオ「生きる力を求めて」を再度見て、彼女の素晴らしさを改めて思った。ビデオのケースは口で縫物をする彼女の写真で飾られている。
枕草子(三十段)・説経の講師は顔よき 2015・8・13(木)
 出だしで、説経(経典の意味を説いて聞かせる)は顔の良い僧の方がいい、醜い僧では集中できないと清少納言らしい書き方で意表を突く。中身は説経聴聞の際の役を退いた蔵人の俗物ぶりを批判し、対照的に身分の高い貴公子の程よい態度を評価して書く。
 ところで蔵人はもと皇室の文書や道具類を管理する役であったが、その後、朝廷の機密文書の保管や詔勅の伝達、宮中の行事・事務のすべてに関係するようになった。    文と訳はこのページへ
 新聞の経済欄のコラムで“「イケメン」は、生涯所得で2700万円も得をする”(美貌格差ー生れつき不平等の経済学)と紹介されていたが、この40年に日本企業の最高責任者(CEO)にイケメンはほとんどいないとも書いてあった。
(三十段冒頭)
「説経の講師(こうじ)は顔(かほ)よき。講師の顔をつとまもらへたるこそ、その説(と)くことのたう(ふ)とさも覚ゆれ。ひが目(め)しつればふと忘るゝに、にくげなるは罪や得(う)らむと覚ゆれ。・・・」
説経の講師は美男子なのがよい。講師の顔に見とれて見守っていればこそ、その説き聞かせる仏法のありがたみも分かる。よそ見していると、聞いたことをすぐに忘れてしまうので、顔の悪い講師の説法を聞くのは、説法をちゃんと聞けずに罪を犯してしまうような気分になる。
財布のひも(中日新聞・つれあいにモノ申す) 2015・8・12(水)
 月の初めに一カ月の生活費を渡してくれる夫。物価が上がる折、「(一万円札を)一枚多くしてくれると、あなたもいい男」とおだてる作戦を決行したが「悪いでいいから一枚減らさせて」。案外、しっかりしてるのね。
                             (敵もさるもの・74歳)

 財布は連れ合いが握っている。滅多にないが機嫌がいい時に「お金いる?」と言ってくる。この時は“菩薩”に見える。
ヘレン・ケラー 2015・8・11(火)
 1968年6月に亡くなったヘレン・ケラーは衝撃的は人だった。一部、時代を共有した彼女に強い影響を受けた。孫・ココロ(小学4年生)は知っていたが、それ程の臨場感は無いようだった。映画・子ぎつねヘレンを見て、彼女のことを想った。
 映画・奇跡の人は、3重苦のヘレン・アダムス・ケラー(1880-1968 年)と家庭教師アン・サリヴァン(通称アニー)を感動的に描いている。
 ヘレン・ケラーは彼女の良き教師、また友人として支えるサリヴァンと共に成長し活躍した。ハーバード大学を卒業し、法学博士、人文学博士という学位も得て教育家、社会福祉活動家、著作家となる。平和運動や社会福祉の面で世界各国で数千回の講演し、日本にも3度訪れている。昭和12年に来日した時、ヘレン・ケラーは中村久子(両腕・両足切断の身で波乱万丈の一生を生き抜き、日本のヘレンケラーと言われる)に会い、「私を世界の人たちは奇跡の人と言うけれど、あなたこそ、真の奇跡の人です」と語っている。
 三重苦という絶望的な状況から蘇生して活躍したヘレン・ケラーから、努力すること、そして差別は絶対にいけないことを学んだ。
南京余唱・第37首(會津八一) 2015・8・10(月)
   奈良の町をあるきて                        解説
   まち ゆけば しな の りはつ の ともしび は 
            ふるき みやこ の つち に ながるる

 古都奈良の夜の一風景、味わいのあるよい歌である。
映画「子ぎつねヘレン」 2015・8・9(日)
 先月、帰省する孫たちのためにと「子ぎつねヘレン」を録画して見た。
 北海道の獣医に預けられた太一少年が、母親からはぐれた視覚・聴覚・嗅覚を失った子ぎつねを拾い、ヘレンと名付けて懸命に育てる話だ。
 動物好きの素空には無条件で素晴らしい映画だった。名の「ヘレン」を単なる名称だと思っていたが、ヘレン・ケラーの話を聞いた太一少年が命名したところでさらに映画に没入した。
 まわりの人達に見守られながら、ヘレンを懸命に育てる少年、そうした中で新しい人間関係(きずな)が作られていく。子ぎつねは死んで行く運命にあったが、そこで扱われたものは大きくて重い。
 幼い頃、子供の捨て猫を拾って来ては死なせてしまったが、好きなだけで面倒見は悪かったし、まわりも生き物を飼うような環境は整っていなかった。そんなことを思い出しながら、目を潤ませていた。

                         月下美人 2輪(計28輪) 咲く 
枕草子(二十九段)・檳榔毛“びらうげ”は 2015・8・8(土)
 檳榔毛(びろうげ)の車とは檳榔樹の葉を裂いて飾った車で、皇族以下の上流人の正式の乗り物。そうした車は格式ばってゆっくりと走らせるのが似合っている。普通の車は早い方がいい。ゆっくりだと見栄えがしないと言う。その見方が面白い。
 ところで、富士山があっという間に過ぎて行く新幹線、風情も何も無さそうなリニアモーターカー、どんな人にも似合わない。利益追求に忙しい企業と人にはわずかにマッチするかな?
(二十九段)
「檳榔毛(びらうげ)はのどかにやりたる。いそぎたるはわろく見ゆ。
網代(あじろ)ははしらせたる。人の門の前(まへ)などよりわたりたるを、ふと見(み)やるほどもなく過(すぎ)て、ともの人ばかりはしるを、誰(たれ)ならんと思(おも)ふこそお(を)かしけれ。ゆるゆると久(ひさ)しくゆくは、いとわろし。」

檳榔毛の車(上流の正式の車)は、ゆっくりと走らせたほうが重々しく見える。急いで走らせてしまうと、不体裁だ。
(格式ばらない)網代の車(竹や檜で編んだ板で葺いた車)は走らせたほうが良い。家の門の前を通っていった車が、ゆっくり眺める間もなく通り過ぎてしまい、お供の従者たちの姿だけが見える。いったい今の車は誰の車なのかしらと思うのが面白いのだ。そこで時間をかけてゆっくりと通り過ぎるなんていうのは、あまりに風情がない。
                         月下美人 2輪(計26輪) 咲く 
染められたのはどっち?(中日新聞・つれあいにモノ申す)
                              
2015・8・7(金)
 結婚して四十五年。「やっと俺色に染まってきたなあ」。感慨深そうに言うけれど、手のひらで回っていたのはあなたよ。すっかり私色に染まっていますよ。                       (一枚上手な妻・65歳)

 若い時は「自分の色に染まってきたな」と思っていたが、今考えると反対なのが良く分かる。ただ、染まらなかったのは「強さ?」かな。
お墓の怪 2015・8・6(木)
 我が家には代々の仏教の墓と亡母が建てたキリスト教の墓がある。先月、墓参りをするとキリスト教の巻石に囲まれた墓地が雑草も無く、きれいになっている。 まわりの墓(母の友人や知人の墓など)の関係者が?と思ったが、どの墓も雑草が生えている。そればかりでは無く、墓地がコンクリートで固められその上に飛石がきれいに置かれていた。
 同行した兄や義兄、息子達も不思議そうにしていた。代々の墓の方は親類の人がきれいにしてくれることはあるが、キリスト教の墓にはほとんど来ない。
 実は、遠方に住む一人息子に二つの墓(連れ合いの実家の墓をいれると三つ)を託すのは大変なので、素空の代で一つにしたいと思っている。それを知って亡父母が、「そんなことはしないでおくれ!」と墓をきれいにしたのかもしれないと後になって考えた。
 信心が薄く、合理的に考えたいと日頃から思っているが、こんな不思議なことに出くわすといろいろと想像してしまう。
南京余唱・第36首(會津八一) 2015・8・5(水)
   東伏見宮大妃殿下も来り観たまふ(第2首)         解説  
   まつ たかき みくら の には に おり たたす 
             ひがしふしみのみや の けごろも

 毛皮のコートを着た宮の姿が印象的だった。皇室への深い尊敬の念があった八一は直立不動でお迎えしたのだろう。
御馳走 2015・8・4(火)
 御馳走とは豪華な食事などを言うが、それを作ったり、出したりする人への敬意がこもった言葉だ。もちろん御馳走は嬉しいが、
血糖値が高くなってからは食事に対する欲望は影をひそめ、健康のための食事と考えるようになった。その上、間食をしないせいか、食事に出てきたものはすべて美味しく食べる。
 また、とても空腹のときに食べる食事は、簡単なものでも、その時の自分にとっては「御馳走」と思える経験は何度もしてきた。
 ところで豪華な食事をなぜ御馳走というのだろうと思って調べると「馳走」とは「ある目的を達成するために方々を走り回る」ことで、昔は客の食事を用意する時に馬を走らせ、食材を用意したことから来ていると言う。
 先日、来客にインスタント食品を出した時、「御馳走様」と言われたが語源を知ってしまうと恐縮する。
誰に言った?(朝日新聞・いわせてもらお) 2015・8・3(月)
 米粒を置いた塀の上に、3匹のスズメが来て食べ散らかしていた。それを見て「こぼさないで食べなさい」と言ったら、隣の夫(75)がテーブルの下をのぞき込んだ。「スズメに言ったのよ、私」 
                 (宇都宮市・相棒はお行儀が悪い・72歳)

 愛犬・くるみは連れ合いの膝の上で食事する。時々「こぼさないで食べなさい」と叱られているが、その言葉は最近よくこぼすようになった素空の胸に突き刺さる。
枕草子(二十八段)・心ゆく物 2015・8・2(日)
 心ゆくとは胸がすっとし、心地よいこと。いろいろ書いているが、程よくしかも的確に話しする来客や法師、禰宜が良いと言う。
 ちょっと面白いのは「調食(てうばみ)」、双六で二つの賽が同じ目を出す(ぞろ目)を争う遊びの事。調(ぞろ目)が多く出る快感を書く。ゲームは昔も今も楽しい。夜起きて飲む水も良いと言う。深酒の目覚めの水は美味しいものだが、清少納言が酒を飲んで書いたとは思えない。
(二十八段)
「心ゆく物  よく書(か)いたる女絵(ゑ)の、ことばお(を)かしうつづけておほかる。物見のかへさに、のりこぼれて、お(を)のこどもいと多く、牛よくやるものの車走らせたる。しろくきよげなる陸奥紙(みちのくにがみ)に、いといとほそう書くべくはあらぬ筆してふみ書(か)きたる。うるはしき糸(いと)のねりたる、あはせぐりたる。調食(てうばみ)に、調(てう)おほくうちいでたる。物よくいふ陰陽師(おんやうじ)して、河原(かはら)にいでて、呪詛(ずそ)のはらへしたる。よる寝(ね)起きてのむ水。
つれづれなる折に、いとあまりむつまじくもあらぬまらうとの来(き)て、世の中の物語この比(ごろ)ある事の、お(を)かしきも、にくきも、あやしきも、これかれにかかりて、おほやけわたくしおぼつかなからず、きゝきよき程に語(かたり)たる、いと心ゆく心ちす。
神寺などにまうでて物申さするに、寺(てら)は法師(ほうし)、社(やしろ)は禰宜(ねぎ)などの、くらからず、さはやかに、思ふほどにもすぎてとゞこほらずきゝよう申(まうし)たる。」
満足するもの  上手く描いている女絵で、気の利いた注釈の言葉が多く付けられているもの。見物の帰りがけに、車から衣裳を出して、車添いの大勢の家来の男たちが従って、牛の取り扱いに慣れた従者が、牛車を速く走らせている様子。真っ白で清らかな陸奥紙に、非常に細い文字で、ほとんど文字が書けないくらいの細筆で手紙を書けた時。綺麗な練糸を、二筋合わせて繰ったもの。てうばみに、調目を多く打ち出した時。よく喋る陰陽師を雇って川原にでて、呪詛のお祓いをしてもらった時。夜に目覚めた時に飲む水。
することもなくて退屈な時に、それほど親しくもないお客さんがやって来て、世の中の雑談をしていく。最近起こった面白い話でも、イライラする話でも、奇妙な話でも、あれこれと話し続けて、宮中の公の話題でも個人的な話題でも、とても情報が豊富であり、こちらが聞きやすいように配慮して話してくれるのは、本当に気持ちが良いものである。
社寺にお参りして、お願い事をお祈りしてもらう時に、寺なら法師、神社なら禰宜といった人たちが、予想していた以上に分かりやすくはっきりと淀みなく、こちらの願意(願っている事柄)を申してくれた時。

                            
鈴虫が鳴き始めた。
8月のはじめに 2015・8・1(土)
 8月の自然としてネットに以下が紹介されていた。 
   
入道雲 雲の峰 山滴る 残暑 夕立ち 土用波 行き合いの空
 「山滴る(したたる)」とは、夏山が青葉でみずみずしい様子。ちなみに春は「山笑う」、 秋は「山粧う(よそおう)」、 冬は「山眠る」。  
 「行き合い(ゆきあい)の空」とは、夏から秋に移る頃の暑気と冷気が行き合う空のこと。牽牛と織女が出会う七夕の空も「行き合いの空」と言う。
 先日、親戚の家で黒い皮のスイカをもらった。夏はスイカがいいね。皮は鈴虫が喜んで食べる。今年は成長が遅くまだ鳴きだしていない。
     

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