ペットロス(つれあいにモノ申す) 2012・2・29(水)~3・2(金)
 愛犬が亡くなって、涙、涙の私に「オレが死んでも、そんなに泣かんやろ」と夫。アタリ!です。    (夫には癒されない妻・55歳)
 素空と子犬・くるみをそっと天秤にかけてみた。
南京余唱第17首(八一) 
 奈良博物館即興(第1首)   
  たなごごろ うたた つめたき ガラスど の 
         くだらぼとけ に たち つくす かな       解説
   (たなごごろうたた冷たきガラス戸の百済仏に立ちつくすかな)
偉い人(つれあいにモノ申す) 
 「あいつはバカだ。こいつもバカだ。ろくなやつはおらん」。いつもあなたの話を聞いていると、「私、そんな偉い人と一緒にいていいかしら」と思うわ。
                  (もったいない妻・69歳)
 若干、耳が痛いところもあるが、それにしても昨今の政治家にはこれくらい言ってもいいような気がする。
高村光太郎10 2012・2・28(火)
 鋼鉄の武器を失へる時
 精神の武器おのずから強からんとす
 真と美と到らざるなき我等未来の文化こそ
 必ずこの号泣を母胎として其の形相を孕まん (一億の号泣より) 
 
 戦争中、軍国青年だった吉本隆明は、終戦で拠り所にした全ての思想を失って一からの出直し、新しい思想の拠り所を模索し始めた。その為、尊敬し影響を受けた高村光太郎が敗戦に出会っても旧来のイデオロギーで詩を発表したことに違和感を感じた。
 以下は吉本隆明「高村光太郎」(1957年7月1日)より引用
 戦争に負けたら、アジアの植民地は解放されないという天皇制ファシズムのスローガンを、わたしなりに信じていた。
 敗戦は突然であった。
 翌日から、じぶんが生き残ってしまったという負い目にさいなまれた。
 わたしは、影響をうけてきた文学者たちは、いま、どこでなにをかんがえ、どんな思いでいるのか、しきりにしりたいとおもった。
 そんな日、高村光太郎の「一億の号泣」は発表されたのである。
 わづかではあるが、わたしは、はじめて高村光太郎に異和感をおぼえた。
南京余唱第16首(八一) 2012・2・27(月)
 豊浦にて
  ちよろづ の かみ の いむ とふ おほてら を 
         おして たて けむ この むら の へ に    解説
    (ちよろづの神の忌むとふ大寺をおして建てけむこの村の辺に)

          (“私の水彩画”更新される 平安神宮神苑) 
みちひらきの神 2012・2・26(日)
 伊勢神社内宮近くの猿田彦神社は「みちひらきの神」と言う。猿田彦神は日本神話で天照大神の孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が神として初めて地上に降りた時に先導した神である。そのため、物事の最初に現れ、良い方向へみちびく神として、道の神、道案内の神とされる。
 同神社内には天岩戸前の踊りで有名な天宇受売命(あめのうずめのみこと)を祭る佐瑠女神社があり、芸能、鎮魂の神とされている。
 桂三枝がこの猿田彦神社で「桂文枝襲名披露公演成功祈願」をしたのは理由があったのだ。お陰でこの神社に初めて入ることができたし、タクシーでの“珍道中”をネタにした抱腹絶倒の三枝の神前落語も招待席で間近に聞けた。
 帰路、タクシーの運転手に「三枝の落語はタクシーをネタにしていた」と言って、あらましを言おうとしたら、「わたしも外で聞いていましたよ」と返事が帰ってきた。
美人薄命(つれあいにモノ申す・中日新聞) 2012・2・25(土)
 有名人の訃報をテレビが伝えていた。奥さまは四十代で亡くなられたとか。「きれいな嫁は早く死ぬなあ。その点、おまえは長生きするぞ」と夫。憎まれっ子、世にはばかるって言うから、あんたも長生きするよ。
                  (厚顔長命妻・70歳)
 落語では嫁がきれいだと亭主が早死にすると言う「長命」と名付けられた噺があるけどね。
高村光太郎9 2012・2・24(金)
 終戦の時の歌も大事なのでここに掲載する。

   一億の号泣

 論言一たび出でて一億号泣す
 昭和二十年八月十五日正午
 われ岩手花巻町の鎮守
 島谷崎神社々務所の畳に両手をつきて
 天上はるかに流れ来る
 玉音の低きとゞろきに五体をうめる
 五体わななきてとゞめあへず
 玉音ひゞき終りて又音なし
 この時無声の号泣国土に起り
 普天の一億ひとしく宸極に向ってひれ伏せるを知る
 微臣恐惶ほとんど失語す
 ただ眼を凝らしてこの事実に直接し
 荀も寸豪も曖昧模糊をゆるさゞらん
 鋼鉄の武器を失へる時
 精神の武器おのずから強からんとす
 真と美と到らざるなき我等未来の文化こそ
 必ずこの号泣を母胎として其の形相を孕まん
サラリーマン川柳 2012・2・23(木)
 今年も恒例のサラリーマン川柳が100首発表された。ここから投票でベストテンを選ぶ。
 去年の一位は「久しぶり~ 名が出ないまま じゃあまたね~   シーゲ」
 今年の100首をざっと見て目が行ったのは以下である。その内の1首を投票したが、ベストテンに入るかどうかが楽しみだ。

風物詩 年に一度の 首相決め 一応社員
携帯に やっと慣れたら 皆スマホ まめまろ
オレ流を 通して職場 戦力外 わが道
胃カメラじゃ 決して見えない 腹黒さ レントゲン
想定外 言い訳する時 よく使う 読み人知られたがらず
イケメンも 飼い慣らされて 今イクメン 多面族
「宝くじ 当たれば辞める」が 合言葉 事務員A
元カノに 名前聞かれる 同窓会 メタボリアン
マジやばい!! 良いの悪いの どっちなの 五十路母
立ち上がり 目的忘れ また座る 健忘術数
南京余唱第15首(八一)  2012・2・22(水)
 聖林寺にて
  あめ そそぐ やま の みてら に ゆくりなく
           あひ たてまつる やましな の みこ     解説
     (雨そそぐ山のみ寺にゆくりなく会ひたてまつる山階の皇子)

 昨日は南部丘陵公園に梅見に出かけたが全く咲いていなかった。今年は寒いので開花が遅れている。
誕生日が同じ 2012・2・20(月)
 桂三枝の大名跡「桂文枝」襲名披露開始は7月16日からだが、これは彼の誕生日である。この日は偶然、兄の誕生日でもある。
 先のスキーツアー・ブランシュたかやまで一緒だったSさんとYさんが誕生日が同じだと話題になっていたが、帰ってから聞いたら、その日は素空の誕生日だった。初めて一緒に滑った男3人が同じ誕生日という偶然にはとても驚いた。もし、来年も一緒に滑るなら、誕生日兄弟?として楽しくなりそうだ。しかし、この年になると誕生日が近付くのはそれ程歓迎しない。

         (スキー更新   ダイナランド&高鷲スノーパーク
                   
(明日第3火曜日は独り言を休みます)
カルチャーショック(朝日新聞・いわせてもらお) 2012・2・19(日)
 関西出身で今は東京在住の私、先日、仕事で「丸ビル」に向かった。東京駅からすぐのはずが見つからず、交番で尋ねると、「目の前」と指さされた。「なんで四角いねん?」と驚くと、「丸の内ビルディングの略だから」
       (東京都調布市・大阪マルビルは円柱形やで!40歳)
 東京に住んだことがあるが、いつも丸の内と反対の八重洲口ばかり利用、丸ビルがどこにあるかも分からない。  
桂三輝(かつらさんしゃいん)  2012・2・18(土)
 吉本興業・エリアプロジェクト三重担当の小林さんから突然連絡があり、商店街の理事長や諏訪神社の宮司と一緒に話を聞いた。元々吉本にいる同級生の口利きだが、東日本大震災のため日延べになっていた。
 小林さんと二人三脚で三重を担当する落語家は桂三枝の弟子でカナダ出身の桂三輝、11年前に来日し落語(動画)は3年目である。今後はこの落語家と提携して、四日市の活性化に取り組む。全ては諏訪西組合のNさん(理事長)にお願いした。素空はもっぱら落語を楽しむ方に回る。
 ところで、桂三枝は大名跡「桂文枝」を襲名し7月16日から襲名披露に入る。そのために「桂文枝襲名披露公演成功祈願」として2月22日に伊勢の猿田彦神社で「祈願、お祓い、祝詞、奉納落語」が行われる。なんとここへ招待してくれると言う。商店街と橋渡ししたご褒美かな?
 小林さんにはついでに大阪の繁盛亭へのツアーを春になったら企画したいのでよろしくと言っておいた。
南京余唱第14首(八一)  2012・2・17(金)
 山田寺の址にて(第2首)    
  やまでら の さむき くりや の ともしび に 
          ゆげたち しらむ いも の かゆ かな     解説
      (山寺の寒き厨の灯火に湯気たち白む芋の粥かな)
ファナティシズム 2012・2・16(木)
 昭和7年の随筆で、寺田寅彦は「ファナティシズム」と言う語を使っている。意味は「心酔、熱狂、狂信」である。前年に日本は満州事変を起し、わずか5ヶ月で満州全土を占領して14年にわたる戦争に突入して行く。寺田がファシズムを危惧したかどうかは定かではないが、時代を反映した用語選択だったようだ。
 今の大阪市長に対する人気の中にファナティシズムを感じる人は少なからずあるだろう。政治家になる前に、テレビでろくでもない発言を繰り返していた人物がと唖然とする。とりわけ、光市事件での彼の「弁護団の懲戒請求呼びかけ」などは、法律家としてはめちゃくちゃなものだった。
 現在、大阪の教育改革を条例化して行おうとしているが、「権力で教育を左右してはだめ」(梶田叡一元中教審副会長)と言う方が正しいだろう。
 民主党が政権を取った時は、旧来の自民党政治(政官財癒着による弊害)の一掃に期待した人が多かったが、現状の民主党政権は破れた風船のように無体なものである。ある程度経験を積んだ政治家たちの集団がこんなものであるのだから、中身が乏しくスタンドプレーが目立つ大阪市長の行く末はみえている。政治への一時的な劇薬になるかもしれないが、その先に広がる荒廃を憂う。
作りは同じ(朝日新聞・いわせてもらお) 2012・2・15(水)
 友人(60)からつややかでおいしそうな柿が贈られてきた。添えられたメモには一言。「最近、我が家の姉が色づき始めました」。柿の間違いでは?と思ったが、案の定、それを聞いた友人の姉は激怒していた。
              (東京都新宿区・違いの分かる男・65歳)
 最近、字を書かなくなったせいか、漢字がすっと出てこない時があるのでこういう間違いをするかもしれない。我が家に姉はいないが、「姉」と「柿」では大違い!笑い話で済んでいる間はいいけれど。

                 (琴将更新  バレンタインとお雛様
高村光太郎8 2012・2・14(火)
 先の戦争、それは本質的には市場を求めて膨張する資本主義国家間の争いだったと言えるが、当事者の多くの日本人にはそんなことは分からなかった。皇国史観とナショナリズムで固めた教育を背景にした国家体制は、アジアに対する侵略戦争に反対するなどと言うことは許さなかった。戦争に反対するものは投獄(死につながった)され、事実を冷静に見抜いていた識者は沈黙するか消極的な協力をするしかなかった。
 会津八一もこんな歌を詠んでいるが、歌集では削除している。
  苛烈なる戰況をききて 1944・7・16 毎日新聞 (全歌集拾遺より)
   いちおくのひとこぞりたていにしえゆいまだきかざるくにのあゆみに
  學徒をいましむ     1945・1・01 読書新聞 (全歌集拾遺より)
   いきのをにふるへわかびとわれさへやかぶとかかぶりたたんとす
 高村光太郎の戦争翼賛の詩も戦後、抹殺に近い扱いになった。
 八一は古代へ憧憬、天皇崇拝の念は強かったが、熱狂的に戦争を支持したわけではなく、むしろ学徒として出陣する教え子に「生きて帰れ、そして学問の道に戻れ」を説いている。戦後は淡々として国家の復興を新しい文化の中で図れと故郷新潟で語っている。
 しかし、戦争に積極的に協力した芸術家や文学者の多くは十分な反省抜きに「戦後民主主義」の下で「平和」や「民主主義」の旗振りをするという醜悪な行動に出るのである。
 そんな中で「みんなが戦争中の発言を変えて堕落していく中で、高村さんだけが人間らしく生きるとは何かを教えてくれた」と学者・北川太一が書いている。高村光太郎はどう変わったのであろう。
高村光太郎7 2012・2・13(月)
 「道程」の求道的でヒューマニズムにあふれた詩や智恵子への感動的な愛を詠んだ高村光太郎は、太平洋戦争中に大政翼賛会中央会議の委員や文学報国会詩部会長を務め、多くの戦争賛美の詩を積極的に書いた。

  太平洋戦争中の詩

 十二月八日
 記憶せよ、十二月八日
 この日世界の歴史あらたまる。
 アングロ サクソンの主権、
 この日東亜の陸と海とに否定さる。
 否定するものは我等ジャパン、
 眇たる東海の国にして、
 また神の国たる日本なり。
 そを治(しろ)しめたまふ明津(あきつ)御神(みかみ)なり

 世界の富を壟断するもの、
 強豪米英一族の力、
 われらの国において否定さる。
 われらの否定は義による。
 東亜を東亜にかへせといふのみ。
 彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。
 われらまさに其の爪牙を摧かんとす。
 われら自ら力を養いてひとたび起つ。
 老若男女みな兵なり。
 大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。
 世界の歴史を両断する。
 十二月八日を記憶せよ。

  真珠湾の日

 宣戦布告よりもさきに聞いたのは
 ハワイ辺で戦があつたといふことだ。
 つひに太平洋で戦ふのだ。
 詔勅をきいて身ぶるひした。
 この容易ならぬ瞬間に
 私の頭脳はランビキにかけられ、
 昨日は遠い昔となり、
 遠い昔が今となつた。
 天皇あやふし。
 ただこの一語が
 私の一切を決定した。
 子供の時のおぢいさんが、
 父が母がそこに居た。
 少年の日の家の雲霧が
 部屋一ぱいに立ちこめた。
 私の耳は祖先の声でみたされ、
 陛下が、陛下がと
 あへぐ意識に眩(めくるめ)いた。
 身をすてるほか今はない。
 陛下をまもらう。
 詩をすてて詩を書かう。
 記録を書かう。
 同胞の荒廃を出来れば防がう。
 私はその夜木星の大きく光る駒込台で
 ただしんけんにさう思ひつめた。
大真面目(朝日新聞・いわせてもらお) 2012・2・12(日)
 緊急用の住所を上司に提出したら、「おい、真面目に書かんか!」と注意された。何のことか分からずに目をぱちくりさせていると、「ちゃんと漢字で書かんか!」とまた叱られた。でも、昨年、町から市になった時、平仮名表記になったんですが・・・・・・。
    (愛知県みよし市・知らないんですか?とは言えず・・・・・・35歳)
 三重県では平成15年に員弁郡の北勢町、員弁町、大安町、藤原町が合併し、いなべ市が誕生している。
うららの浮き彫り 2012・2・11(土)
 うららが急逝して半年になる。妹・くるみが元気に走り回っているので、寂しさは半減しているが、思い立って浮彫を作ってみた。
 銀杏の板の中心部の濃い茶色の模様を利用してうららを表現して見た。なんとか顔はうららに似ているので、連れ合いには及第点をもらった。円空風の仏像は要望に応じて手渡しているが、この浮彫は大事に我が家に飾っておくつもりだ。
        
南京余唱第13首(八一) 2012・2・10(金)
 山田寺の址にて    
  くさ ふめば くさ に かくるる いしずゑ の 
           くつ の はくしゃ に ひびく さびしさ      解説
     (草ふめば草に隠るる礎の靴の拍車にひびく悲しさ)
庚申(こうしん) 2012・2・9(木)
 岐阜の美並ふるさと館に「庚申」と名付けられた円空仏がある。体を弓なりに傾けて微笑んでいる像である。一説に円空の母親がモデル、あるいは円空自身がモデルだと言われる。また「円空の庚申さんはマリアっぽい」と評されることもある。
 庚申像は庚申会(こうしんえ)・庚申待(こうしんまち)に安置されるもので一般には青面金剛神である。なぜこの柔和な円空像が庚申とよばれるのか、とても不思議である。
 60日に一度の庚申の日の夜、人のお腹の中の「 三尺(さんし)の虫 」が、人々が寝静まってから体から抜けだし、その人がしてきた悪事を天帝に告げる。告げられた人間は命を縮めると思われたので、庚申会として集まり、この日は眠らずに過ごすようになった。この徹夜する行事が後には社交の場になったと言う。
 この円空の庚申さんを彫ってみた。
   
おとぎ話(朝日新聞・あのね から) 2012・2・8(水)
 5歳の息子と買い物に行く途中、息子が煙突の煙を指さして言った。「あそこで雲、作ってるよ。お空に雲が少なくなったら、作るんだよ」。生まれて初めてすてきに見えた、ごみ処理場だった。
        (奈良市・いつまでも夢を大事にしてほしい母・34歳)
 公害で苦しんだ四日市に住んでいる。この子のような発想は今まで全く湧かなかったが、雲を作る煙突と思って、コンビナートの煙を眺めてみた。

                (スキー更新   めいほうスキー場
高村光太郎6 2012・2・7(火)
 愛の歌は永久に人の心に響くものだ。

 智恵子抄を味わってみよう。 2 

  千鳥と遊ぶ智恵子(1937年7月)

 人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の
 砂にすわつて智恵子は遊ぶ。
 無数の友だちが智恵子の名をよぶ。
 ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
 砂に小さな趾(あし)あとをつけて
 千鳥が智恵子に寄つて来る。
 口の中でいつでも何か言つてる智恵子が
 両手をあげてよびかへす。
 ちい、ちい、ちい――
 両手の貝を千鳥がねだる。
 智恵子はそれをぱらぱら投げる。
 群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。
 ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
 人間商売さらりとやめて、
 もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の
 うしろ姿がぽつんと見える。
 二丁も離れた防風林の夕日の中で
 松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す。

        (“私の水彩画”更新される 丹波路福知山城
南京余唱第12首(八一) 2012・2・6(月)
 畝傍山をのぞみて   
  ちはやぶる うねびかみやま あかあかと
        つち の はだ みゆ まつ の このま に     解説
   (ちはやぶる畝傍神山あかあかと土の膚見ゆ松の木の間に)
念持仏 2012・2・5(日)
 念持仏は持仏とも言い、平生身につけたり、私室に安置したりして信仰する仏像のことである。立派な仏像は彫れないが、円空風の簡単な7cmほどの手のひらサイズの薬師如来(仏界の東方を治め、医薬を司り、人々の病気を治し安楽を与える)を心をこめて彫り、病気の人など渡したいと思っている。
      
絵画展 2012・2・4(土)
 友人Yの最新作「東大寺南大門」を「安濃町パレットクラブ絵画展」(NHK津ギャラリー、~2月5日)で見てきた。ネット上で見るのとは違い、実物は迫力がある。彼の特色である緻密に描きあげた作品は、構図がよく彩色も素晴らしい。「津のまちを描く」(津リージョンプラザ、2月14日~19日)にも作品を出展するので、また見に行くつもりだ。
 「安濃町パレットクラブ絵画展」鑑賞後、昨年5月に開館した川喜多半泥子の新・石水博物館の所蔵名品展にYと出かけた。第1展示室に入ると八一の扁額「獨往」「鳴穂堂」がすぐに目に入ってきた。実物が見れるのは嬉しい。戦後、新潟と三重で八一と半泥子は交流した。書と陶器の交換が度々行われている。
 井戸、志野、唐津など半泥子の茶陶は味わいがある。こじんまりした新しい石水博物館はちょっとした穴場と言える。津まで出かけたら、また寄ってみたいところである。
成田山新勝寺 2012・2・3(金)
 素空が習う仏像作りの安達先生が師事した故松久宗琳仏師は成田山新勝寺に五大明王や五智如来を納め、成田山新勝寺大仏師の称号を与えられていた。いつかは訪れたいと思っていたら、息子一家が出かけたとチビーズからメールで写真が届いた。
寝ると痩せる 2012・2・2(木)
 スキーに出かける日はいつもより6時間ほど早く起きる。というよりほとんど睡眠1~2時間で出かける。人間のお腹は困ったことに、起きていると空いてくるので食事が1回余分になって4回になる。必然的に肥満の原因になり血糖値にも良くない。
 「ダイエットは睡眠を多く取ることですよ。寝ていれば、食事をとらないから」と医者が言う。なるほど、上記のことから良くわかる。「でも、年をとると睡眠時間が少なくなるから、睡眠でダイエットは難しいですね」と言うと「高齢者を見てみなさい。日向で昼寝をしたり、食後に居眠りをしているでしょう。人間の睡眠時間はそんなに変わらないのですよ」 
南京余唱第11首(八一) 2012・2・1(水)
 香具山にのぼりて(第5首)   
  いにしへ を ともらひ かねて いき の を に 
           わが もふ こころ そら に ただよふ     解説
       (古をともらひかねて息の緒に我が思ふ心空に漂ふ)

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