罰について

罰について(1) 2010・6・2(水)
「兄弟たちよ、人々の罪を恐れてはいけない。罪のある人間を愛しなさい。なぜならそれは神の愛の似姿であり、この地上における愛の究極だからだ。神が創られたすべてのものを愛しなさい。その全体も、一粒一粒の砂も。葉の一枚一枚、神の光の一筋一筋を愛しなさい。動物を愛しなさい。植物を愛しなさい。あらゆる物を愛しなさい。あらゆる物を愛すれば、それらの物のなかに、神の秘密を知ることができるだろう。いつかその秘密を知ることができたら、そのときには、日々たゆみなく、ますます深くその秘密を認識するようになるだろう。そしてついに、全世界を全世界的な愛で、まるごと愛するようになるだろう」
        修道院の長老・ゾシマの言葉より (カラマーゾフの兄弟 第2部第6編)

罰について(2) 2010・6・4(金)
 長老・ゾシマは「罪人を愛することは神の愛であり、愛の究極である。(全能でない)人間が神の愛を実践できれば、世界を全世界的な愛で、まるごと愛せるようになる」と言う。
 SUは無宗教で唯物論なので、神がアダムを作ったとは思わない。あえて言えば地球(物質)が人類を産み落としたと思っている。しかし、人間は有限(いつかは死ぬ)で能力に限界があるから、この世のことをいろいろ考えると、(死のない)無限で全知全能の絶対者=神を想定することにやぶさかではない。
 「人とは壊れた神のことである。誰がそういったのだったか、考えていた」「いや、人とは堕落した神のことである、だったか」「人とは狂った神のことかどうか」(「水の透視画法」辺見庸)この言葉は神と人との関係をよくあらわしている。
 無神論者であっても、いろいろな神や仏の語る言葉には謙虚に耳を傾ける方がいい。

罰について(3) 2010・6・7(月)
 表題から逸れるが、「地球(物質)が人類を産み落とした」と書いたのでそのことに触れる。唯物論と言うのは、物質を根本的実在とし、精神や意識を物質に還元してとらえる考えで、その観点から歴史の原動力は人間の意識・観念ではなく、社会の物質的な生産にあるとする。唯物論とへーゲル弁証法から考えだされたマルクスの唯物史観については煩雑になるので説明を省略する。人間の意識・観念は経済を中心にした下部構造に規定されると考えるので、意識・観念の影響を考慮してもすべては下部構造が歴史を動かしてきた。
 神(観念的なもの)による人間の創造を認めないなら、人間も地球も宇宙も物質なので、長い歴史の中で「地球が人類を産み落とした」と言える。しかし、唯物論哲学に造詣の深かった先輩が、「物質の(自己)運動によって歴史は動いたのは確かだけど、宇宙の始まり(ビックバン)のその前は??神が想定されうる」と言っていたのは印象深い。

罰について(4) 2010・6・13(日)
 綽空(しゃくくう 親鸞)はこう考える。    (五木寛之著 親鸞より)
そもそも悪人とても救われる、という教えと、悪人こそ救われるのだ、という説のきわどい境目をどう人に説くのか。・・・・
 殺生(せっしょう)、ということ一つをとってみても、人はほかの命を食することで生きている。 肉食(にくじき)をさけることはよい。しかし、稲(いね)や麦に命はないのか。草にも、木にも、仏性(ぶっしょう)があると比叡山(ひえいざん)でも教えているではないか。
 牛にも、魚にも、鳥にも、そして粟(あわ)や稗(ひえ)にも命があり、生きる本能がある。すべての命が平等だとすれば、わたしはそれを犯して生きざるをえない悪人ではないか。

 親鸞の「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」は長老・ゾシマの「罪人を愛することは神の愛であり、愛の究極である」と相通じるところがある。

罰について(5) 2010・7・1(木)
 太古の小さな共同体の墓地では、大切に埋葬された高齢の不具者の遺骨が発見されるという。このことは小さな共同体において、それ自体が存在し、生き残っていくために全ての人が大事にされたことを示しており、これがホモサピエンスの基本的なスタンスだと考えられる。(この時代に支配・被支配の関係は存在していない)
 それに引き換え、現代社会はとても殺伐で混沌としている。「罪」を犯すものが横行し、「正義」をかざして目の敵のように「罪人」を罰しようとする風潮が蔓延している。「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」あるいは「罪人を愛することは神の愛であり、愛の究極である」という視点は現代社会には通用しないのだろうかと思ってしまう。

罰について(6) 2010・7・13(火)
 法律を基準にして全ての善悪を判断するという考えは誤りだと思う。法は絶対的では無く、相対的なものである。以下の法は現代では理解不能である。
 「(土地を暴力的に収奪され、追放されて都市にでた農民)は浮浪者や貧民になったことを罰せられたのである」(資本論)
 16〜18世紀、ヨーロッパでは都市へ出てきて浮浪者になると鞭打ち禁固、累犯3回で死刑という法があった。これは都市の工場で働くように躾ける(強制)ための「奇妙なテロリスト的法律」(資本論)だった。この法は当時の工場経営者と政府が手を組んで決めたものだが、これが普遍的で絶対的なものとは、現代の人は決して思わないだろう。このことから、現在の法律の中にも悪法や不適切な法があることを見抜いていかなければいけない。

罰について(7) 2010・9・2(木)
 相対的なものだとしても法律や倫理、道徳はそれなりに「正しさ」を表現していると言える。それでは、昨今流行の「世論調査」の信頼性はどうなんだろうか?ランダムに選んだ固定電話に一定の条件(年齢制限や性別)で質問する方法が多い。その上で、調査会社やマスメディアが諸条件を考えて調査結果を修正している。
 だれでもすぐ想定することは、携帯電話を中心にした若者の意見はどう把握しているのか?これだけでも調査の信憑性が揺らぐ。また、電話での問いに対して熟考して回答するのではなく、マスメディアが流す軽薄で表層的な「世論」の受け売りを無意識のうちにしてしまっている場合もあるだろう。
 某紙の記者がこんな趣旨で書いて反省していた。『「世論調査」の結果で記事を書いて「世論」を作り、また「世論調査」に頼って記事を書く。ここには大新聞が確たる主張を掲載し、世の中に貢献していくと言う主体性はない。そのことが恥ずかしい
 相撲問題や政治の世論調査の数値は疑ってかかった方がいい。

罰について(8) 2011・1・20(木)
 前回は「世論調査」の信頼性について書いたが、小沢昭一の「世の中の是は疑え」(週刊ポスト)から抜粋する。現在の危うい風潮に対する警鐘である。
 「徹底的に軍国主義で教育されて・・・戦争に負けたときは驚いた。昨日まで信じて疑わなかったことが、一夜にしてひっくり返されたからだ」次々と押し寄せる戦後の新たな情報、文化のなかで戦中には無かった「自由・・・これからは好きなようにノビノビ生きてもいいんだ」と言うことを知った。そして、焼跡の中での処世観は「世の中の皆が是としていることは疑う」だったと言う。現在は「一つの方向に皆の関心が向いていると感じたら、鼻先で笑って眺めて見向きもしないでいるにかぎる。・・・坂本竜馬が流行ると“こいつはおかしいなあ”と思いはじめてしまう。流行りモノに乗らないというか、乗ることができない
 小沢昭一ほどの確たる考えはないが、坂本竜馬ブームにも現在の厳罰主義の風潮にも組しない。

罰について(9)完 2011・4・3(日)
 厳罰主義の風潮には組しないと書いたが、その理由として人が人を裁くことができるのか?という疑問、さらに宗教的見地から長老・ゾシマや親鸞の言う神や仏の救済の思想も参考にした。一方、法によって人は裁かれるが、そのもとになる法そのものの相対性と時代性を問題にし、絶対的なものでないことを述べた。
 
また、昨今の厳罰主義は判断の基準を「家族の絆」に置いていることが多い。殺人事件で「残された家族の気持ちを考えると・・・」とよく言われるが、そのこと自体は正しいとしても、「家族の絆」を超えた大局的な観点からの判断も重要だと思う。
 裁けば良いわけではない。罰を与えないで良いならそれに越したことはない。
 「未開社会では、・・・〈清祓〉(はらいきよめ)の儀式では行為そのものが〈法〉的な対象であり、ハライキヨメによって犯罪行為にたいする罰は代行され〈人〉そのものは罰を負わないとかんがえられる」(共同幻想論 吉本隆明)
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