海 ゆ か ば
2016・6・28

海ゆかば1
 居酒屋で二十歳前に集団で歌った歌の中には軍歌があった。平和憲法のもと、民主教育で育ったが軍歌にそれほどの違和感はなかった。ただ、二十歳前後から平和や人の命の貴さを考えるなかで軍歌は自らの中では最も悪しきものとなった。
 その後、先輩が「海ゆかば」を歌っているのを初めて聞いて、その歌詞に驚いた。なぜなら、戦争で死ぬことを前提にしており、死ぬことが己のためでも家族友人恋人のためでもない、天皇のためだというのだ。

    海(うみ)行(ゆ)かば 水(み)漬(づ)く屍(かばね)
    山(やま)行(ゆ)かば 草(くさ)生(む)す屍(かばね)
    大(おお)君(きみ)の 辺(へ)にこそ死(し)なめ
    かへりみはせじ


     (海を行くなら水に漬かる屍ともなろう 
      山を行くなら草の生える屍ともなろう
      天皇のおそばにこそ死のう
      一身を顧みはしない)

 先の戦争で多くの人がこの歌とともに戦死した。


海ゆかば2 
 恩師・故植田重雄先生は自らの出征前を描いた「最後の奈良見学旅行」で「海ゆかば」などの軍歌を歌う学生の姿を書き、会津八一の歌を紹介している。
 最後の奈良見学旅行6  
 聖林寺を出たあと、桜井から近鉄に乗り、室生寺口に至り、大野磨崖仏をわきに見ながら、室生寺渓谷の山道を遠足でもするように一行は歩いていった。谷合の夕暮れは早い。やがて室生寺にたどりつく頃は、激しい川水がひびくのみである。
 室生寺の沿革について道人は講話した。それは空海ではなく、興福寺の賢憬(けんきょう)と修円によるものではないかということであった。夜更けて、たれやらが村にいって買ってきた酒を、渓川のあたりで、會津先生をお呼びして別離の宴にしようといい出した。
 「海ゆかば水漬くかばね、山ゆかば草むすかばね・・・・・・」の歌がどこからともなくひびき、校歌や軍歌もつぎつぎに歌った。無理をして酒を飲み、川風に吹かれたのがいけなかった。道人は再び風邪をひいたらしい。

 
この時、八一が詠んだ歌が山光集・霜葉の第2、3首である。

  やまがは は しらなみ たてり あす の ごと   
           いで たつ こら が うた の とよみ に   解説

  うみ ゆかば みづく かばね と やまがは の   
           いはほ に たちて うたふ こら は も    解説



海ゆかば3 
 出征前の奈良での別れの情景で歌われた重く悲しいひびきの「海ゆかば」を辺見庸は死へのいざないの歌と言い、「17(イクミナ)」でこう表現する。
 「・・・1937年十月十三日、NHKは「国民唱歌」の放送を開始するが、その第一回が「海ゆかば」だった。この歌はその後・・・「玉砕」を報じるときにながされるようになるのだが、まるでさいしょからそれを予感していたかのような凄絶(せいぜつ)な「悲歌」の響きがある。これを美しいニッポンの歌だというむきがある。・・・しかし、わたしはいつも、なんという底方(そこい)も知らない暗さだろう、というおもいがある。・・・
 たしかに先輩が歌った「海ゆかば」を聞いたとき、とても暗く悲しい歌で心を揺さぶるものがあると思った。しかしこの歌に騙されてはいけない。
 歌の成立について次回で述べたい。


海ゆかば4 
 この曲は1937年に歌詞を万葉集の大伴家持作の長歌からとり、信時潔がNHKの依頼を受けて作曲したものである。(そのほか、1880年に海軍将官礼式用に東儀季芳が作曲したものもある)
 万葉集の編纂者と言われる大伴家持の作だと言うと何か良さそうに思えるが、ある人は天皇に媚びることが多く、この長歌も「大君」の礼賛だけで歌としての深みはないという。
 しかし問題なのはこの曲が1937年に大日本帝国政府が国民精神総動員強調週間を制定した際の闘意欲高揚を意図したテーマ曲だったこと。その後ラジオ放送が玉砕(大本営発表)を伝える際に、必ず冒頭曲として流さしたことである。
 ”天皇のために無私の精神で戦場で死んで来い”と煽り、死後は葬送歌として、「天皇のために死んだ」ということで死者(個人)の心や周りの悲しみをないがしろにし無視したのだ。


海ゆかば5 
 第二次世界大戦終盤の1943年(昭和18年)、劣勢による兵力不足を補うため、学生を在学途中で徴兵したのが学徒出陣である。(10月1日の在学徴集延期臨時特例による)
 東京の明治神宮外苑競技場で行われた10月21日の第一回出陣学徒壮行会(関東地方の入隊学生を中心に7万人)で歌われたのが「君が代」であり「海ゆかば」だった。早大の学生だった故植田重雄先生は壮行会後の奈良での師・会津八一との別れを「最後の奈良見学旅行(11月11日~)」で書いている。その中でこう言う。
 「・・・昭和十八年の秋のそれは、特別のものであったようにおもう。太平洋各戦域でアメリカは総反攻に転じ、ミッドウウェー海戦、ガダルカナルの激闘、アッツ島の玉砕等々日本は守勢に立たされていた。
 当時、貴族院議員であり、土佐の武市半平太の嗣子なる人が、まだ日本は敗北したわけではない、三十万人の学生の精鋭がいるではないか、これらをして国難に当たらしめ退勢を挽回しようと提案した。戦後は戦争責任を軍部にだけかぶせたが、政治家もなかなか率先してやったものだ。やがて「徴兵猶予の停止」が宣言され、学園の学問や研究の火は消えることになった。いわゆる学徒出陣である。・・・

 運よく生還し、早大で教鞭に立たれた先生は保守的な思想の持ち主だったが、上記のように戦争に対する冷静な目を持っていた。


海ゆかば6(完) 
 辺見庸はこう書いている。『・・・「海ゆかば」は・・・NHKの電波にのり、不思議な磁力で、ただちにニッポンに根づいた。それは天皇ー戦争ー死ー無私・・・の幻想を体内にそびきだし、大君のための死を美化して、それにみちびいていく、あらかじめの「弔歌」でもあったのだ
 「海ゆかば」はフランス革命に代表されるブルジョア革命で、その端緒が開かれた自由や平等(身分制の廃止)、民主主義に真っ向から対立する天皇制ファシズムを象徴する歌である。
 素空が生まれた時にはおばさんばかりで、おじさんはいなかった。たった2人のおじさんは戦死していた。
 亡母は兄の死後に残された母と義姉を詠んでいる。

       子の戦死 その嫁にいかに 知らさむと
                      なやみし母を 今も忘れず
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