伝教大師像

伝教大師1 2010・7・21(水)
 安達工房に1m近い人物像の写真がある。先生が滋賀・坂本で撮った伝教大師像だった。伝教大師とは、天台宗・延暦寺の開祖「最澄」のことだと先生に教わった。
 最澄の略歴を確かめる。滋賀に生まれ、19歳で東大寺の僧となったが、当時の仏教のあり方に不満をいだき、一乗止観院(のちの延暦寺)をたてた。その後、遣唐留学僧として唐にわたり天台宗を学び、日本で天台宗を起こす。「伝教大師」とは死後、朝廷から送られた諡号(しごう)、送り名である。空海(真言宗開祖)の弘法大師と対比される。
 ここまで調べるのは簡単だだったが、坂本の里坊とだけしかわからないこの像の存在場所や作者を探すのにずいぶん時間がかかった。


伝教大師2 2010・7・23(金)
 大師像は何処に?手がかりは、滋賀・坂本の里坊(僧が人里に構える住まい)にあることと写真だけ。ネットで同じ像は浄法寺・群馬と真如堂・京都にあるが、滋賀(坂本)では出てこない。ところが真如堂のHPでこう書いてある。
 『・・・天台宗を開かれた伝教大師最澄さまが東国を巡られ(817)、上野国・下野国に宝塔を建てられた時のお姿をイメージして、平成2年、仏師 西村公朝師が作られた「伝教大師巡錫之像」。これを原型として、群馬県のお寺には大きな同像が造られました。西村師は真如堂第48世純孝貫主の弟子で、ゆかりのある真如堂の、比叡山が見える場所にこの像を建てて欲しいというのが、かねてよりの願いでした。平成11年6月4日の伝教大師の御命日に、比叡山を背にしたこの場所に安置しました』 作者は有名な故西村公朝仏師だったのだ。


伝教大師3 2010・7・25(日)
 大師像のある真如堂に電話をすると愛宕念仏寺に聞いてはどうかとはアドバイスがあった。荒寺であった愛宕念仏寺を復興したのが、仏師として有名な故西村公朝である。大師像は念仏寺にもあった。念仏寺に電話をして息子さんの西村公栄現住職から話を聞いた。
 「坂本の何処かはわかりませんが、(公朝が)山田恵諦座主第253世天台座主)にお願いし、衣と帽子を被っていただきモデルとしたと聞いています。恵諦座主の里坊では?
 坂本の比叡山延暦寺の本坊(総里坊)である滋賀院門跡で聞くと、比叡山の管理部に聞いてくれと言う。山田能裕住職(恵諦座主の息子さん)の里坊・瑞応院に像はありますよ!
 
やっとわかった。後は訪ねて本物を見るだけとなった。ちなみに真如堂第48世純孝貫主の弟子であった西村公朝は、恵諦座主から「天台大仏師法印」号を授与されている。


伝教大師4 2010・7・30(金)
 大師像のある真如堂を訪問した。紅葉の季節以外、訪問者は少ない。大師像を中心に100枚ほどの写真を撮る。訪問者はSUだけだったので丁寧な対応を受ける。この寺を菩提寺にする三井家の建物を移転した本坊書院の庭は素晴らしい。比叡山、東山を借景にした枯山水の「涅槃の庭」をゆっくりと鑑賞する。書院の襖絵のほとんどは丸山応挙の子孫のものだった。とりわけ、訪問した3日前に完成した三井家の四つ目の家紋をモチーフした随縁の庭」は哲学的。『「随縁」とは「随縁真如」の略で、「真理が縁に従って種々の相を生じること」、つまり「真理は絶対不変でも、それが条件によって様々な姿を見せること」をいう仏教の言葉です
 奇しくもこの庭の設計者・重森千青(ちさを)氏は、次に訪れた瑞応院の庭園設計者・
重森三玲(みれい)氏の孫だった。瑞応院の庭園では住職夫人と1時間余り話した。

伝教大師5 2010・8・9(月)
 京都の真如堂から山越えで滋賀・坂本に入る。瑞応院前に車を止めると住職夫人の出迎えがあった。安達先生が6年前に撮った伝教大師像に対面する。ネットと電話で苦労して探した甲斐があったが、住職夫人も写真を頼りにわざわざ来たことを喜んでくれた。
 京都・愛宕念仏寺の住職が(公朝が)故山田恵諦座主(第253世天台座主)にお願いし、衣と帽子を被っていただきモデルとしたと聞いています。と話したのは本当だった。「阿弥陀聖衆25菩薩来迎図」をテーマにした庭園を前にして、「顔は伝教大師だが、手足は恵諦座主そっくりです」と住職夫人は話していた。


伝教大師6 2010・8・16(月)
 瑞応院の庭は「阿弥陀聖衆25菩薩来迎図(参照)」をテーマとしており、写真の中央が坐像の阿弥陀如来を表している。この来迎図はもともと比叡山にあったもので、今は高野山にあると住職夫人は憂いを持って言う。天台と真言は仲がよいわけではない。
 瑞応院訪問の目的は、先生の指示で伝教大師像を木彫りで作るための準備だった。写真からルーツをたどる中で、いろいろなものを得ることができ満足している。大師像は完成後、夫人の要望で瑞応院に納めることになった。
 ( 阿弥陀聖衆来迎図と言い、臨終の信者を極楽浄土へ迎えるため、阿弥陀如来と聖衆が楽器をならしなが  ら天空から降りてくるさま。阿弥陀如来は観音・勢至菩薩の先導のもと、二十五菩薩を従えている

伝教大師7・四日市市教育委員会賞 2011・10・7(金)
 完成した伝教大師像を「伝教大師(でんぎょうだいし)武蔵野を行く」と題して、四日市市美術展覧会に出品したら、上記の賞をもらうことになった。賞など全く予想していなかったので、掲載する写真すら撮ってない。
 稚拙な作なので「出品したくない」と愚図っていたが、安達先生の「出しなさい」の一言で、しぶしぶ出品した。ところが賞をもらえばやっぱり嬉しいものである。先生や友人たちから、おめでとうの言葉をもらって幸福な時間を過ごしている。
 しかし、もともと先生が企画し準備していた作品を、素空が引き受けたもので、その着眼と素空への指導を考えれば、賞は先生のものと言っても過言ではない。先生への感謝の念で一杯である。また制作過程で助言してくれた刻友会の先輩達、共に滋賀・坂本の瑞応院(オリジナルがある)へ同道してくれた同級生たちにお礼を言いたい。
 この作は完成後、瑞応院に納める事になっているので手元から離れる。10月9日(日)〜16日(日)四日市文化会館第一展示室彫刻の部に展示されているので、良ければ鑑賞してください。


伝教大師8・四日市市美術展覧会 2011・10・16(日)
 今日は表彰式と講評があった。「岩座の上にしっかりと立つ2本の足が良い。装飾を抑えたのも魅力的。顔が少し小さいかな?」審査員の言葉は友人2人が指摘したのと同じだった。

伝教大師9・瑞応院へ 2011・10・28(金)
 腰痛が治ったので、伝教大師像を滋賀・坂本の瑞応院に届けた。「随員」は連れ合いと愛犬・くるみである。賞をもらったと報告し、白布を解いて安置すると住職夫人が「7月に見た時と違う、とてもきれいに仕上がっている」と褒めてくださった。山田能裕住職は珍しく洋服を着て現れ、自ら記念写真を撮り、いろいろ楽しい話をしてくださった。
 びっくりするほど美味しいお茶と果物を頂きながら、しばし談笑し、帰ろうとすると先代・故山田恵諦253代天台座主の「色紙」と「楽紫(山田座主をしのんで)」と言う書物を土産に下さった。
 色紙は天台宗の基本理念を表す「忘己利他」だが、ひそかに住職または先代の色紙を望んでいたのでとても嬉しかった。この色紙は一年後の安達正秋・刻友会作品展(四日市市文化会館)に展示する予定である。もちろん、伝教大師像もその時、四日市まで出向いてもらうことになっている。

伝教大師10・伝教大師像のモデル 2011・11・28(月)
 像の制作を依頼された故西村公朝仏師は巡錫(じゅんしゃく)時の服装について困った。瑞応院にでかけ、253代天台座主・故山田恵諦に相談すると『・・・お座主さんは、急に立ち上がって「それは中国に行っておられた時の服装に違いない。私がモデルになってやろう」といわれ、頭上から足先までの一切を、いかにも見ておられたかのように、それは誠に細かく自信たっぷりに説明してくださった。・・・高僧帽・律衣・二十五条袈裟・足きはん・革草履・杖・道中用小型厨子入りの薬師如来像・小巻の法華経八巻を首に懸ける形、などなど一つ一つを説明しながら自ら着装して、縁側の廊下に立ちポーズまでとって下さった。その時のお座主さんは九十三才であった。・・・」
        (伝教大師のモデルはお座主さま 西村公朝)
 “樂紫(ぎょうし) 山田座主をしのんで”に書かれている西村公朝の思い出を読んで、瑞応院に訪れた時のことが次々と浮かんでくる。
 初めて訪れた時「顔は伝教大師だが、手足は恵諦座主そっくりです」と言われた山田能裕住職夫人のこと。同級生と訪問した時、プリントまで配って二十五条袈裟を詳しく説明してくださった山田能裕住職、また完成した像を納めた時、住職は玄関外に繋いだくるみを座敷にあげなさいと言われた。
 公朝仏師や瑞応院の人たちを通して、宗教者・伝教大師最澄は厳しい中に優しさを持った人だったであろうと思っている。

伝教大師11・友の歌
 素空が彫った伝教大師像を友人・鹿鳴人が詠んだ歌。

  友の彫る伝教大師が完成し出展の日を楽しみて待つ
             毎日新聞やまと歌壇・入選句(平成23年10月20日)
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