高村光太郎

高村光太郎1 2012・1・8(日)
    道 程       (1914年2月)
 僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出来る
 ああ、自然よ
 父よ
 僕を一人立ちにさせた広大な父よ
 僕から目を離さないで守る事をせよ
 常に父の気魄(きはく)を僕に充たせよ
 この遠い道程のため
 この遠い道程のため                 詩集・道程より

 高村光太郎「1883(明治16)年~1956(昭和31)年」は彫刻家・高村光雲の長男として生まれ、詩人・彫刻家として活躍した。彼の詩を味わいながら、終戦後全ての活動を停止した7年間の岩手での隠遁生活の意味を問い直してみたい。
 「道程」は大正3年に刊行された第1詩集で、明治43年から大正3年までの詩を収めている。前半はデカダンスに染まっているが、後半は上記の詩・道程などで明らかなように求道的でヒューマニズムにあふれたものになっている。

高村光太郎2 2012・1・11(水)
   冬が来た     (1913年12月)
 きつぱりと冬が来た
 八つ手の白い花も消え
 公孫樹(いてふ)の木も箒になつた

 きりきりともみ込むやうな冬が来た
 人にいやがられる冬
 草木に背(そむ)かれ、虫類に逃げられる冬が来た

 冬よ
 僕に来い、僕に来い
 僕は冬の力、冬は僕の餌食(ゑじき)だ

 しみ透れ、つきぬけ
 火事を出せ、雪で埋めろ
 刃物のやうな冬が来た                詩集・道程より 

高村光太郎3 2012・1・18(水)
    ぼろぼろな駝鳥       (1928年2月)
 何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。
 動物園の四坪半のぬかるみの中では、
 脚が大股過ぎるぢやないか。
 頸があんまり長過ぎるぢやないか。
 雪が降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢやないか。
 腹がへるから堅パンも食ふだろうが、
 駝鳥の眼は遠くばかり見てゐるぢやないか。
 身も世もない様に燃えてゐるぢやないか。
 瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢやないか。
 あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆(さか)まいてゐるぢやないか。
 これはもう駝鳥ぢゃないぢやないか。
 人間よ、
 もう止せ、こんな事は。            
           高村光太郎詩集・「道程」以後より -岩波文庫-
 高村光太郎の大正3年に刊行した第1詩集「道程」から昭和16年の「智恵子抄」までの間の未収作品を、「道程」以後として上記の詩集はまとめており、編者奥平英雄は以下のように書いている。
 「この時期の詩は、自然の美しさ、人生の真実に寄せる感動が深い愛と善意にみたされ、ときには祈りにも似た感動の表現となり、また求道者的な叫びともなって高く響いている。・・・それだけにまた、人生、自然の真実に背反するものに対する怒り、悲しみ、孤独感がひとしお燃え上っている・・・」
 「道程」の求道的でヒューマニズムにあふれた詩作は智恵子への愛と共にさらに深められていくのである。

高村光太郎4 2012・1・26(木)
 昭和16年に出版された第2詩集「智恵子抄」はどの詩も愛の思いの深さで人の心を打つものがあり、現代詩(愛の歌・相聞)の代表と言える。智恵子と結婚する以前から彼女の死後までの30年間の詩29篇、その他を収めている。「智恵子抄」は以下の詩で始まる。

  人   に     (1912年7月)

 いやなんです
 あなたのいつてしまふのが――

 花よりさきに実(み)のなるやうな
 種子(たね)よりさきに芽の出るやうな
 夏から春のすぐ来るやうな
 そんな理窟に合はない不自然を
 どうかしないでゐて下さい
 型のやうな旦那さまと
 まるい字をかくそのあなたと
 かう考へてさへなぜか私は泣かれます
 小鳥のやうに臆病で
 大風(おおかぜ)のやうにわがままな
 あなたがお嫁にゆくなんて

 いやなんです
 あなたのいつてしまふのが――
 なぜさうたやすく
 さあ何といひませう――まあ言はば
 その身を売る気になれるんでせう
 あなたはその身を売るんです
 一人の世界から
 万人の世界へ
 そして男に負けて
 無意味に負けて
 ああ何といふ醜悪事でせう
 まるでさう
 チシアンの画いた絵が
 鶴巻町へ買物に出るのです
 私は淋しい かなしい
 何といふ気はないけれど
 ちやうどあなたの下すつた
 あのグロキシニヤの
 大きな花の腐つてゆくのを見る様な
 私を棄てて腐つてゆくのを見る様な
 空を旅してゆく鳥の
 ゆくへをぢつとみてゐる様な
 浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ
 はかない 淋しい 焼けつく様な
 ――それでも恋とはちがひます
 サンタマリア
 ちがひます ちがひます
 何がどうとはもとより知らねど
 いやなんです
 あなたのいつてしまふのが――
 おまけにお嫁にゆくなんて
 よその男のこころのままになるなんて

高村光太郎5 2012・1・29(日)
 智恵子抄を味わってみよう。

  樹下の二人   (1923年3月)
  ――みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ――

 あれが阿多多羅山(あたたらやま)、
 あの光るのが阿武隈川(あぶくまがわ)。

 かうやつて言葉すくなに坐つてゐると、
 うつとりねむるやうな頭(あたま)の中に、
 ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります。
 この大きな冬のはじめの野山の中に、
 あなたと二人静かに燃えて手を組んでゐるよろこびを、
 下を見てゐるあの白い雲にかくすのは止しませう。

 あなたは不思議な仙丹を魂の壺にくゆらせて、
 ああ、何といふ幽妙な愛の海ぞこに人を誘ふことか、
 ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は、
 ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり。
 無限の境に烟るものこそ、
 こんなにも情意に悩む私を清めてくれ、
 こんなにも苦渋を身に負ふ私に爽かな若さの泉を注いでくれる、
 むしろ魔もののやうに捉へがたい
 妙に変幻するものですね。

 あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川。

 ここはあなたの生れたふるさと、
 あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫(さかぐら)。
 それでは足をのびのびと投げ出して、
 このがらんと晴れ渡つた北国(きたぐに)の木の香(か)に満ちた空気を
 吸はう。
 あなたそのもののやうなこのひいやりと快い、
 すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。
 私は又あした遠く去る、
 あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、
 私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。
 ここはあなたの生れたふるさと、
 この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。
 まだ松風が吹いてゐます、
 もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい。

 あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川。

高村光太郎6 2012・2・7(火)
 愛の歌は永久に人の心に響くものだ。

 智恵子抄を味わってみよう。 2 

  千鳥と遊ぶ智恵子(1937年7月)

 人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の
 砂にすわつて智恵子は遊ぶ。
 無数の友だちが智恵子の名をよぶ。
 ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
 砂に小さな趾(あし)あとをつけて
 千鳥が智恵子に寄つて来る。
 口の中でいつでも何か言つてる智恵子が
 両手をあげてよびかへす。
 ちい、ちい、ちい――
 両手の貝を千鳥がねだる。
 智恵子はそれをぱらぱら投げる。
 群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。
 ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
 人間商売さらりとやめて、
 もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の
 うしろ姿がぽつんと見える。
 二丁も離れた防風林の夕日の中で
 松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す。

高村光太郎7 2012・2・13(月)
 「道程」の求道的でヒューマニズムにあふれた詩や智恵子への感動的な愛を詠んだ高村光太郎は、太平洋戦争中に大政翼賛会中央会議の委員や文学報国会詩部会長を務め、多くの戦争賛美の詩を積極的に書いた。

  太平洋戦争中の詩

 十二月八日
 記憶せよ、十二月八日
 この日世界の歴史あらたまる。
 アングロ サクソンの主権、
 この日東亜の陸と海とに否定さる。
 否定するものは我等ジャパン、
 眇たる東海の国にして、
 また神の国たる日本なり。
 そを治(しろ)しめたまふ明津(あきつ)御神(みかみ)なり

 世界の富を壟断するもの、
 強豪米英一族の力、
 われらの国において否定さる。
 われらの否定は義による。
 東亜を東亜にかへせといふのみ。
 彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。
 われらまさに其の爪牙を摧かんとす。
 われら自ら力を養いてひとたび起つ。
 老若男女みな兵なり。
 大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。
 世界の歴史を両断する。
 十二月八日を記憶せよ。

  真珠湾の日

 宣戦布告よりもさきに聞いたのは
 ハワイ辺で戦があつたといふことだ。
 つひに太平洋で戦ふのだ。
 詔勅をきいて身ぶるひした。
 この容易ならぬ瞬間に
 私の頭脳はランビキにかけられ、
 昨日は遠い昔となり、
 遠い昔が今となつた。
 天皇あやふし。
 ただこの一語が
 私の一切を決定した。
 子供の時のおぢいさんが、
 父が母がそこに居た。
 少年の日の家の雲霧が
 部屋一ぱいに立ちこめた。
 私の耳は祖先の声でみたされ、
 陛下が、陛下がと
 あへぐ意識に眩(めくるめ)いた。
 身をすてるほか今はない。
 陛下をまもらう。
 詩をすてて詩を書かう。
 記録を書かう。
 同胞の荒廃を出来れば防がう。
 私はその夜木星の大きく光る駒込台で
 ただしんけんにさう思ひつめた。

高村光太郎8 2012・2・14(火)
 先の戦争、それは本質的には市場を求めて膨張する資本主義国家間の争いだったと言えるが、当事者の多くの日本人にはそんなことは分からなかった。皇国史観とナショナリズムで固めた教育を背景にした国家体制は、アジアに対する侵略戦争に反対するなどと言うことは許さなかった。戦争に反対するものは投獄(死につながった)され、事実を冷静に見抜いていた識者は沈黙するか消極的な協力をするしかなかった。
 会津八一もこんな歌を詠んでいるが、歌集では削除している。
  苛烈なる戰況をききて 1944・7・16 毎日新聞 (全歌集拾遺より)
   いちおくのひとこぞりたていにしえゆいまだきかざるくにのあゆみに
  學徒をいましむ     1945・1・01 読書新聞 (全歌集拾遺より)
   いきのをにふるへわかびとわれさへやかぶとかかぶりたたんとす
 高村光太郎の戦争翼賛の詩も戦後、抹殺に近い扱いになった。
 八一は古代へ憧憬、天皇崇拝の念は強かったが、熱狂的に戦争を支持したわけではなく、むしろ学徒として出陣する教え子に「生きて帰れ、そして学問の道に戻れ」を説いている。戦後は淡々として国家の復興を新しい文化の中で図れと故郷新潟で語っている。
 しかし、戦争に積極的に協力した芸術家や文学者の多くは十分な反省抜きに「戦後民主主義」の下で「平和」や「民主主義」の旗振りをするという醜悪な行動に出るのである。
 そんな中で「みんなが戦争中の発言を変えて堕落していく中で、高村さんだけが人間らしく生きるとは何かを教えてくれた」と学者・北川太一が書いている。高村光太郎はどう変わったのであろう。

高村光太郎9 2012・2・24(金)
 終戦の時の歌も大事なのでここに掲載する。

   一億の号泣

 論言一たび出でて一億号泣す
 昭和二十年八月十五日正午
 われ岩手花巻町の鎮守
 島谷崎神社々務所の畳に両手をつきて
 天上はるかに流れ来る
 玉音の低きとゞろきに五体をうめる
 五体わななきてとゞめあへず
 玉音ひゞき終りて又音なし
 この時無声の号泣国土に起り
 普天の一億ひとしく宸極に向ってひれ伏せるを知る
 微臣恐惶ほとんど失語す
 ただ眼を凝らしてこの事実に直接し
 荀も寸豪も曖昧模糊をゆるさゞらん
 鋼鉄の武器を失へる時
 精神の武器おのずから強からんとす
 真と美と到らざるなき我等未来の文化こそ
 必ずこの号泣を母胎として其の形相を孕まん

高村光太郎10 2012・2・28(火)
 鋼鉄の武器を失へる時
 精神の武器おのずから強からんとす
 真と美と到らざるなき我等未来の文化こそ
 必ずこの号泣を母胎として其の形相を孕まん (一億の号泣より) 
 
 戦争中、軍国青年だった吉本隆明は、終戦で拠り所にした全ての思想を失って一からの出直し、新しい思想の拠り所を模索し始めた。その為、尊敬し影響を受けた高村光太郎が敗戦に出会っても旧来のイデオロギーで詩を発表したことに違和感を感じた。
 以下は吉本隆明「高村光太郎」(1957年7月1日)より引用
 戦争に負けたら、アジアの植民地は解放されないという天皇制ファシズムのスローガンを、わたしなりに信じていた。
 敗戦は突然であった。
 翌日から、じぶんが生き残ってしまったという負い目にさいなまれた。
 わたしは、影響をうけてきた文学者たちは、いま、どこでなにをかんがえ、どんな思いでいるのか、しきりにしりたいとおもった。
 そんな日、高村光太郎の「一億の号泣」は発表されたのである。
 わづかではあるが、わたしは、はじめて高村光太郎に異和感をおぼえた。

高村光太郎11 2012・3・13(火)
 吉本隆明は終戦時の高村光太郎の「一億の号泣」を読んで、はじめて高村光太郎に異和感をおぼえた。なぜなら、それまで2人が信奉してきた価値観、とりわけ天皇制ファシズムが崩壊した中で彼は新たな立脚点になる思想的拠り所を模索し始めていたからである。
 しかし、高村は「一憶の号泣」後、全ての活動を停止し「戦争責任」を自問して7年間岩手での隠遁生活をする。そのため吉本は彼を評価することになる。(ただ高村の反省に疑問を呈する人もいるが)
 高村はこう語った。「何も偉いことはありません。この通りの生活をしています。私は戦時中戦争に協力しました。文学の方面や美術の方面などで。戦争に協力した人は追放になっています。私には追放の指令が来ませんが、自分自ら追放、その考えでこう引込んでいるのです」。
 そして1947年7月に以下の詩を作っている。
「わが詩をよみて人死に就けり」
 爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
 電線に女の太腿がぶらさがつた。
 死はいつでもそこにあつた。
 死の恐怖から私自身を救ふために
 「必死の時」を必死になつて私は書いた。
 その詩を戦地の同胞がよんだ。
 人はそれをよんで死に立ち向つた。
 その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送つた
 潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

高村光太郎13(完) 2012・3・29(木)
 高村光太郎について書き出したのは、彼の詩集を読み終えたのが端緒である。だが、詩集を読みだしたのは吉本隆明の「高村光太郎」による。3月16日吉本は亡くなり、その存在が大きくマスコミで取り上げられていることは何かの因縁があるかもしれない。団塊の世代の多くは吉本に大きな影響を受けたと言えるが、各種報道の底の浅さを見ていると現在の少し若いと思われる報道関係者にはもう彼の思想を捉える力は無さそうだ。
 そのことはさておいて、高村と吉本の終戦時における挫折とその後の姿勢を今回は明らかにしたかった。戦後、崩壊した自らの立脚点(思想)を借り物の思想で置き変えることなく、考え抜くことによって新たな思想や道筋を作りだしたことを評価する。
 そうしたことを知り得たからこそ、若い時に接した高村の「道程」や「智恵子抄」が新たな視点から内容豊かに迫って来るのである。
 また、彼らの生き様は素空自らにも跳ね返ってくる。遠い昔の挫折を「借り物の思想」で置き換えはしなかったが、残念ながら自らが自前の思想を紡ぐほどの能力も努力もなかったことを悔いている。
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