近鉄沿線ハイキング(四日市ー名古屋)

はじめに(近鉄名古屋線を歩く)
 山野では、真ダニや山ヒルの恐れがあるので、四日市から名古屋まで近鉄沿線を歩いてみようと思った。もちろん、電車を使い少しずつである。近鉄名古屋線の四日市から名古屋までは各駅停車だと21駅ある。
 (四日市ー川原町ー 阿倉川ー 霞ヶ浦ー富田ー 川越富洲原ー伊勢朝日ー 益生ー桑名ー
 長島ー弥富ー佐古木ー富吉ー 蟹江ー 戸田ー 伏屋ー八田ー烏森ー黄金ー米野ー名古屋)
 体調不良や猛暑で歩けなかった時もあったので、5月27日に始めて10月27日まで5ヶ月もかかった。出発は川原町駅だが四日市駅の一部のようなもの、いつもこの間は歩いているのであえて記録はしなかった。(近鉄四日市駅の1日の平均乗車人員の数は20,000人ほどである)


近鉄川原町駅(5・27) 2013・6・14(金)
 自宅から川原町駅まであちこち眺めながら歩き、約20分で着いた。駅は立体交差事業が進行中、完成すると4か所の踏切が無くなり踏切による混雑が解消される。
 駅の近くに父方のおばさん2人が住んでいたがもう亡くなっていない。1人は駅横で「みはと」と言う和風料理店を、夫婦で経営していたが今は無い。その同じ場所に「うなぎ 魚文」と言う店があった。そこから50mぐらいの所にもう1人のおばさんの娘夫婦が住んでいる。久しぶりに立ち寄り話しこんだ。従姉は6歳年上、随分前の病気で半身に障害があるが、とても元気だった。「元気な頃にあなたの家まで行き、お母さん(素空の亡母)とよく話をした」と笑顔で話していた。
 目的はもう少し歩くことだったが、従姉宅で予定時間が過ぎてしまった。
  (川原町駅の1日の平均乗車人員は600人余である) 
  


近鉄阿倉川駅(6・13) 2013・6・24(月)
 自宅から阿倉川駅まで30度を超える炎天下を歩いた。ほとんど歩いたことのない道を選んであちこち眺めながら歩くので、距離は長くなり時間も40分ほどかかった。阿倉川町には仲のよい同級生が住んでおり、最近は病気の同級生が近くの山手町に引越してきている。
 利用したことのない阿倉川駅に入ってみたかったが、今日のハイキングの予定は自宅ー阿倉川駅ー川原町駅を歩くことなので写真だけにした。線路沿いを歩くが、すぐに迷ってしまう。用意したスマートフォンの徒歩ナビをオンにしたが、フリーズして役に立たない。
 迷いながら川沿いの「堀川菖蒲園」に出たが、もう花は終わっていた。橋を渡って、もう1人の同級生の家を横目に見ながら川原町駅にたどり着いた。足の裏が痛く、リュックを背負った背中は汗だくである。やってきた各駅列車に乗って四日市駅へ、運賃は150円だった。家を出てから約2時間経っていた。
 東海自然歩道を歩く予定だったが、真ダニが怖いので一時中止、近鉄駅を訪ねるハイキングに変えた。当面の目標は名古屋駅。
  (阿倉川駅の1日の平均乗車人員は2,000人余である)
  
  


近鉄霞ケ浦駅(6・23) 2013・6・29(土)
 阿倉川駅から霞ケ浦駅までのハイキング。自宅から歩いて国道1号線にある四日市橋停留所で三重交通のバスに乗り、出発点の阿倉川駅まで出ることにした。ただ、ずっとバスに乗ったことがないので、ネットでバスの乗り方を学習する。乗客は素空を入れて2人、料金は200円だった。
 阿倉川駅から線路沿いを歩くとしばらくして羽津城跡に出た。ここに昔は羽津駅があったが、霞ケ浦駅と統合されて無くなったと言う。ゆっくり歩いて20分ほどで霞ケ浦駅に出る。霞ケ浦緑地や垂坂公園まで20~30分、1日の平均乗車人員が2,000人弱の駅である。駅には大量の自転車があり、大輪の夾竹桃が咲いていた。
  
 ジュニアが生まれた頃、この駅の近くの借家から名古屋へ車で通勤していた。もう40年ほど前になるが、記憶を頼りに探した。とても懐かしいその家はまだあった。パンクした自転車が置いてあり、誰もいないのかと思ったが電力メーターは動いていた。しばらく、思い出に浸っていたが裏庭を抜けて、次の近鉄富田駅まで歩くことにした。     
  


近鉄富田駅1(6・23) 2013・7・4(木)
 近鉄霞ケ浦駅から線路沿いの田圃路を歩く。稲穂の緑が一面に広がる中を名阪自動車道・四日市東インターにつながる自動車道が通っている。
 しばらくすると茂福城跡が線路の向こうに現れた。調べると羽津城田原氏と茂福城朝倉氏が争った茂福合戦では朝倉氏が勝利したが、織田信長の侵攻で茂福城は落城、朝倉氏は滅亡したとある。
  
 四日市高校の校庭横を通って近鉄富田駅に出た。ここは三岐鉄道富田駅でもある。近鉄富田駅は1日の平均乗車人員が10,000人弱の急行停車駅である。三岐富田駅は4,000人弱。高校時代はこの駅を乗り降りしたが、その当時は三岐鉄道はJR(国鉄)駅の方にあった。
  
 高校生当時は無かった西口がきれいに整備されていた。
  


近鉄富田駅2(6・23) 2013・7・8(月)
 久しぶりに母校・四日市高校の前に立った。卒業後校内に入ったことはないが、門前には何度か行った。「関係者以外立ち入り禁止」と書いてあると入ることに躊躇する。卒業生の扱いは?
   
 高校時代、2年間学校近くに下宿した。そのことを思い出して、校門から西に歩いた。300mほど歩き、変電所の手前を右に曲がって300mあたりにあったはずである。急に降りだした雨の中を探したが見つからない。昔は田畑だった付近は住宅街になっていた。探すのをあきらめた頃にはずぶぬれになっていた。山道用のリュックから沿線ハイキング用に替えたので、雨具が入っていなかった。
 近くのスーパーで雨宿りしていたが、なかなか降り止まない。連れ合いに電話すると「そんな知らない場所には車で行けない」と言う。雨が止むまで待って、富田駅から電車で帰った。

 教訓、ハイキングにはいつも雨具をリュックに!


近鉄川越富洲原駅(7・2) 2013・7・11(木)
 近鉄富田駅から近鉄川越富洲原駅をめざしたが、西寄りを歩いていたら、前回見つからなかった下宿跡に出てしまった。迷いながらJR線、三岐鉄道線、近鉄線をくぐったり、渡ったりして東海道・国道一号線に出て川越富洲原駅にたどり着くまで45分ほどかかった。途中に田村寺があったがどのあたりか分からない。
 あちこち眺めながらのハイキングなので、時間は気にしないが疲労はやってくる。昼食のため休憩するのが丁度良い疲労回復になる。
  
 1日の平均乗車人員が3,000人余の川越富洲原駅は昔は富洲原駅だった。富洲原中学に卓球の試合に行った時に利用しているはずである。ただ、不思議なのは川越は三重郡川越町、富洲原は四日市市富洲原町、二つの名前が合体して今の名前になったことだ。
 いきさつはいろいろあるが、1945年まで四日市市平町にあった富洲原駅が、伊勢電気鉄道川越駅と統合し、現在の川越町豊田地区に移り、その後川越町の要望で2009年に川越富洲原駅に改称した。
 昼食後、昔、会社に勤めていた時の取引先で、よく出入りしたA精工前まで行き、地図に出ている川越町郷土資料館に向かった。
  


近鉄伊勢朝日駅(7・2) 2013・7・23(火)
 伊勢朝日駅までの途中、国道1号線から朝明川を少し下った所にある川越町郷土資料館に立ち寄った。手入れされてない古ぼけた建物で「見学希望の方は申し込みを!」とある。仕方が無いので引き返しかけて、隣に「よつばの里」と看板が出ていることに気がついた。ちょうど、代表のIさんがいて「夏休みに小学生数人を預かるので、ここを借りて準備しているのです」と言う。パソコン講座を受注した時からの付き合いで、定期的に訪問し素空の地蔵菩薩(円空彫り)も寄贈してある。
  
 偶然にびっくりしながら、目標の伊勢朝日駅に向かう。東芝工場の大きな看板「TOSHIBA」が目当である。駅前にある東芝三重工場に子供の頃よく行った。お茶屋の娘だった母がお茶を納品していたからだ。特に夏は社内にある林のセミが取りたくてせがんで行ったものだ。
  
 駅を見学して、すぐ近くの仏像作りを習っている安達先生宅にたどり着いた。
白内障の手術を終えた先生がとても明るい笑顔で歓待してくださり、夫人(洋子先生)は冷たいコーヒーをくださった。
とても美味しく、暑い中を苦労して歩いた後のご褒美と思った。
 伊勢朝日駅は三重郡朝日町大字小向(おぶけ)のある1日の平均乗車人員が2,000人ほどの駅である。


近鉄益生駅(7・11) 2013・8・7(水)
 伊勢朝日駅近くの安達仏像教室の横に車を止めて、東海道を歩く。このあたりは朝日町縄生、なおと読む。員弁川に出て国道一号線の町屋橋を渡って桑名市に入る。
 
 橋を渡ると藤棚で有名な料理旅館「すし清」の横に出る。藤棚を覗きながら、近鉄線の方向に左折して進むがここからは未知の世界。幸い、この日は道ナビがなんとか利用できた。それでも迷い迷い益生駅近くまでくると味噌・醤油の食品メーカー「一、二、三のサンジルシ」があった。社名の由来は、木曾三川(木曽川・揖斐川・長良川)にちなんだものだと言う。
 12時過ぎに流れる汗を拭きながら益生駅に到着、駅前の喫茶店に飛び込んでランチを注文したらカレーだった。猛暑にカレー、店内でも汗は止まらなかった。
 目標を桑名駅までとしていたが、午後は仏像教室の予定があったので益生から電車に乗って伊勢朝日まで戻った。
   
 益生駅は桑名市大字矢田にある旧西桑名駅、1日の平均乗車人員が1,300人ほどの駅である。
 この日の桑名は38.5度、夕方のニュースで聞いてびっくりした。こんな日にハイキングとは気違い沙汰だと周りはみんなあきれていた。
              (猛暑のため、ハイキングはしばらく中止)


西桑名駅・三岐鉄道北勢線(9・22) 2013・9・24(火)
 7月11日、伊勢朝日駅から益生駅まで歩いた。その日は38.5度、こんな日にハイキングとは気違い沙汰だと非難され、その後の体調不良もあって近鉄沿線ハイキングを中止していたが、9月22日にやっと再開した。
 体調を考慮して、益生から桑名を通って長島までと思っていたが、欲張って弥富まで歩いた。あちこち覗きながらなので10kmを大幅に超えていた。弥富の手前、木曽川を渡る尾張大橋(ここで愛知県になる)では疲れが出て後悔したがもう引き返せない。
 この日、益生駅を11時過ぎに出て桑名駅をめざした。益生の特色をと思って辺りを見ながら歩いたが、ほとんどめぼしいものがなく、三岐鉄道北勢線の駅である西桑名駅に着いた。ここまで1kmぐらいである。ここから北へ300mの所に桑名駅(近鉄、JR、養老鉄道)がある。
 桑名駅の東南にありながら「西」桑名駅は不思議だが、理由はいろいろあるらしい。出発した益生駅も1930年頃まで西桑名駅を名乗っていたから面白い。しかも今は西桑名町という町名はないと言う。
 この西桑名駅の1日の平均乗車人員は2,400人ほどである。


桑名駅(9・22) 2013・9・26(木)
 桑名駅には11時半に着き、駅と駅前を写真に撮った。桑名市は人口14万人で、今は名古屋市のベッドタウン化が進むが、機械・金属系を中心とする工業都市でもある。蛤で有名で、ナガシマスパーランド、多度大社、東海道の七里の渡しなどがある。四日市に隣接する町なので、ほとんどの場所は行っている。
 駅を利用することは滅多にないので構内はほとんど印象にない、それよりも知人などを車で迎えるために駅前に駐車する方が多い。
 ここから長島駅まで6kmほどありそうなので、桑名の見学はカットして食事をするところを探しながら、国道1号線を歩くことにした。
 近鉄桑名駅の1日の平均乗車人員は12,000人ほどである。(JRは5,000人 養老鉄道は2,500人)
  
  


木曽三川を渡る(9・22) 2013・10・3(木)
 桑名駅から弥富駅に行くには国道一号線にかかる伊勢大橋(揖斐川、長良川)と尾張大橋(木曽川)を渡る。車でよく走る1号線はできたら歩きたくないが仕方がない。しかし、二つの橋を歩いて渡るのは初めてで楽しかった。伊勢大橋は揖斐川と長良川の合流区域にあり、長さは1,105.8mである。川岸で貝取りをする人達や川下の長良川河口堰を眺めながら、のんびりと渡った。渡り終えると長島(桑名市)に入る。
  
 長島駅を見学して、三重県桑名市から愛知県弥富市を繋ぐ木曽川の尾張大橋(878.8m)へ。休日だったので水上バイクを楽しむ人が沢山いた。乗ったことがないので、いくばくかの乗り賃で相乗りさせてくれないかと思った。
 尾張大橋のまん中には「愛知県境」と標識があり、何となく嬉しくなった。二つの橋を渡る間に近鉄電車が何本も川を渡っていった。
  


長島駅(9・22) 2013・10・6(日)
 桑名駅から伊勢大橋を渡って長島町に入る。ここは木曽三川に囲まれた三角州で輪中の里と知られてきたが、今では長島温泉の方が有名である。
 一号線沿いで食事をし、しばらく歩くと庭に曼珠沙華が咲く又木茶屋があった。ここは画家佐藤昌胤の生前の屋敷を長島町が譲り受け、情報交流施設として運営している。こじんまりとした茶屋内を見学し、長島駅に向かう。のどかな田園と住宅が続く静かな町である。
 今から54年前、伊勢湾台風(9月25日)でこの海抜0m地域は大きな被害を受けた。父が親戚の手助けに行き「舟で2階部分から入った」と言っていた事を思い出しながら歩いた。
 長島駅は桑名市長島町西外面にあり、午後1時半に着く。こじんまりした駅を外国人が写真を撮っていた。まだ時間が早いと思って弥富駅をめざしたが、木曽川手前で「弥富まで4km」と標識が出ていたのでハイキングを延長したのを後悔した。
 長島駅の1日の平均乗車人員は1,700人ほどである。
  


弥富駅(9・22) 2013・10・8(火)
 長島駅を出て尾張大橋(878.8m)を渡りながら、木曽川の水上スキーを眺めている間は良かったが、橋を渡ると疲れが出て、ただただ弥富駅にたどり着きたいという気持ちしかなかった。そうなると周辺をのんびりと眺める余裕はなく、帰ってからも弥富の町の印象は薄い。
 弥富駅には3時前につき、電車に乗って四日市まで帰った。次回は弥富駅から富吉駅(愛知県海部郡蟹江町)まで歩く予定なので、その時弥富をゆっくり歩きたいと思う。
 弥富駅の1日の平均乗車人員は12,000人ほどである。
  


弥富駅2(10・4) 2013・10・11(金)
 弥富駅を写真に撮って、すぐ横を走る1号線を歩きだす。さすが1号線、道路沿いには沢山の店が並んでいる。食堂、喫茶店が随分あるが、金魚店も並んでいる。仲間と2003年に行った弥富金魚市場を探して歩いたが見つけられなかった。弥富市は金魚で有名、文鳥の生産でも知られている。近年は名古屋のベッドタウンとして住宅開発が進んでいて、人口は4万3千人ほどである。
 木曽川の流し出した土砂の堆積に輪中を造る事で成立した村々であったので海抜ゼロメートル地帯が広がり、JR駅は全国で一番低い所にあると言う。
 今日は佐古木駅から富吉駅だったが、1号線はやっぱりつまらないので左折して北へ、近鉄の踏切を越えて右折、線路添いに歩いたら川に出た。川上に歩いて橋を探したが無い。随分歩いてやっと川を渡り、佐古木駅に着いたら1時間半かかっていた。弥富から直線で2kmなのに!
 予定を変更し、佐古木駅で電車に乗って名古屋三越で開催されている日本伝統工芸展に出かけた。
  
                   近鉄弥富駅

         緑の線ならすぐなのに、川に阻まれて赤い線を歩く


佐古木駅(10・4) 2013・10・13(日)
  10月4日、弥富駅から出て途中蛇行した川に阻まれ、佐古木駅(弥富市佐古木6丁目)の到着が遅くなった。弥富、蟹江は東海の水郷と言われているから、思わぬところで川に邪魔される。
 川や田畑、花などを楽しみながら歩いていたが、予定時間を大幅に上回ったので県道109号線を佐古木駅に向かう頃には辺りを観察する余裕がなかった。佐古木駅は簡素な駅だが、名古屋の住宅地化が進んでいて、1日の平均乗車人員は3,000人ほどである。
 駅の近くに「伊勢湾台風時湛水位」の標識が立っていた。あの台風の時、長期にわたって水があった高さを示している。高さは2mほどある。海抜0m地域の被害の記録が残されているのだ。
  
           


富吉駅1(10・9) 2013・10・18(金)
 佐古木駅から富吉駅・蟹江駅をめざす。前回、川に阻まれた事を教訓に1号線を歩いた。案の定、善太川を渡る事になった。ところで佐古木駅は弥富市、1.7km離れた富吉駅は海部郡蟹江町なのに善太川の橋を渡ると愛西市の看板が出てきた。おかしいなと思ったが、ここは旧佐屋町で立田村、八開村、佐織町と合併して愛西市に入ったからだ。
 刈入れ前の稲穂を眺め、養殖池の金魚を見ながら歩くが、天気予報が外れて風と雨の中のハイキングになった。30分ほどで富吉駅に入る。ハイキングを諦めてプラットホームにいたら雨がやんできた。思い直して、駅から出ようとしたら入場出来たPiTaPaカードが出る時は使えないと言う。データを消去してもらってやっとOKになり、蟹江駅に向けて歩きだした。
  
   


富吉駅2(10・9) 2013・10・19(土)
  富吉駅はマンション、アパートに周りをぐるりと囲まれている。駅ビルもアパートとなっているので戸惑い、びっくりした。名古屋線の車両基地・富吉車庫があるので駅の敷地は大きい。名古屋のベッドタウンとして発達し、1日の利用客は6,000人ほどである。 

南口は住宅と併設

北口ビルは住宅

南口横のマンション
 南口、北口を見学し蟹江駅に向かう。1号線に出るとすぐに蟹江警察署がある。愛西市からすぐなので、ここでも戸惑った。蟹江駅近くだと想像していたからだろう。
  


蟹江駅(10・9) 2013・10・24(木)
 蟹江町は海抜ゼロメートル地帯、しかもその4分の1が河川で占められている。富吉駅を出て1号線は日光川、佐屋川、蟹江川を渡る。蟹江川沿いを北に歩き線路を越えて右に行くと近鉄蟹江駅に着く。直線で3kmぐらいだろうか?1時間かかった。
 ここは同級生が住む町で、過去に仲間と何度も来ているのでなじみ深い。人口は36,596人、蟹が多かったからこの名がついたと言われている。蟹江駅の1日の平均乗車人員は13,000人ほどである。
 駅前に観光マップが3種類立っている。マップを見ながら、こことここは行ったなと確認した。富吉駅までの雨で疲れたので、コーヒーを飲んでから帰路についた。
  


戸田駅(10・18) 2013・10・30(水)
 蟹江駅から直線で1,3kmぐらいの戸田駅へ歩きだした。すぐに福田川を渡るが、もうそこは名古屋市中川区だった。ちょっとびっくりする。
 近鉄線南側の田んぼ路を歩く、黄色く実った稲穂の向こうを特急が走っていく。線路の北側は住宅街のようだ。
  
 30分ほどで戸田駅に着いた。名古屋市中川区水里三丁目にある駅で主として通学・通勤用に利用される。1日の平均乗車人員は4,000人ほどである。
  
 戸田駅を過ぎて伏屋駅に向かったが、すぐに「供米田」の標識に出会う。「くまいでん」と読み「熱田神宮に供える米を出す田」から地名は来ているらしい。地名の由来を考えて歩くのも楽しい。戸田は田に関係するのだろうと思い、伏屋の由来は何なのだろうと歩き続ける。


伏屋駅(10・18) 2013・11・2(土)  
 戸田駅から伏屋駅(名古屋市中川区伏屋二丁目)へは戸田川を渡って愛知県道29号線を歩いた。名古屋への幹線道路なので、道の両側には大型店が並ぶ。もう名古屋、都会だと思ったが、左折して伏屋駅をめざすとひっそりとした住宅街だった。
   
 伏屋は“ふせや”ではなく“ふしや”と読む。名前の由来は、ここに伏屋城があり、伏屋氏が居城にしていたことによるらしい。他には、旅人を救う“布施屋”から来たという説もあるようだ。
 駅は戸田駅から直線で2km余、40分ほどで着いた。1日の平均乗車人員は5,500人ほどである。駅の写真を撮って八田駅へ向かった。
  


八田駅(10・18) 2013・11・8(金)  
 伏屋駅から県道29号線に戻り、八田駅をめざす。直線で2,6kmほどである。坂を上って庄内川に出ると視界が広がって名古屋が見渡せる。名古屋駅にあるツインタワーも現れた。その姿に沿線ハイキングもここまで来たかと感慨深いものがある。
  
 庄内川を渡って住宅街の中を八田町に入ると荒子川がある。ほとんど源流になるのか、川幅が狭く小川のようである。荒子の名から、円空で有名な荒子観音堂を思い出し、スマホで場所を確認する。意外に近いが、円空仏開帳の第2土曜日は過ぎているので寄り道はあきらめた。
  
 亡き父母が「ハッタに住んでいた」と幼いころに聞いたことがある。その「ハッタ」がどこなのか兄に問うたが分からないという。四日市にも「八田」はある。そんなことを思いながら近鉄八田駅に着く。
 近鉄八田駅は名古屋市中村区八田町長田(中川区に接する)にあり、1日の平均乗車人員は3,000人余である。ここから、電車に乗って四日市に戻る。次回は最終回、名古屋駅をめざす。
  


烏森駅(10・30) 2013・11・13(水)  
 八田駅を降りて中村区(北側)を歩く。すぐに烏森町になる。ここは古い住宅街だが、新しいマンションやアパートも点在する。線路の南側は中川区である。しばらく歩くと木々が見えたので近づくと禅養寺と天神社があった。アスファルトで固めた町中を歩いている時は寺社に出会うとほっとする。この寺は家康配下の武将が出家して隠棲したところだという。天神社の燈籠に蛇の子供がいた。ちょっとびっくりしたが、生き物好きの素空には嬉しい対面である。
      八田から烏森は約1km、到着して今まで“からすもり”と思っていたが“かすもり”だということに気がついた。地名の由来は、城跡に森があり多くの烏が棲んでいたため「烏(からす)の森」と呼ばれ、略して「烏森(かすもり)」となったという。
 烏森駅(名古屋市中村区牛田通4丁目)の入り口は線路の下にあった。八田駅もそうだったが、歩いてきた今までの駅にはこんな形は無かった。この駅の1日の平均乗車人員は4,500人弱である。
 駅を過ぎて中川区側に出て黄金駅を目指したが、右に巨大なJR関連施設があり、道路を隔てて日清製粉があった。
  


黄金駅(10・30) 2013・11・17(日)  
 烏森駅からJR関連施設と日清製粉の間を歩いて黄金駅近くには来たが、駅舎はJRの関西線とその車両区、あおなみ線と各種引込み線、さらに近鉄線の向こうだった。そこへ行く踏切は見当たらない。しばらく迷ったが、巨大な陸橋の下に登る階段があった。後で調べるとそこは黄金陸橋(黄金跨線橋・こがねこせんきょう)と言い、1,107mの長さでさらにその上を名古屋高速が走っていた。陸橋の上でひと休みして写真を撮った。
  
  
 陸橋を渡り長い階段を下りて少し烏森方面に戻ると黄金駅(名古屋市中村区黄金通8丁目)になる。駅は小さく、黄金と言う名前にはマッチしない。駅前広場のようなものも無く、ごく普通の町並みである。
 烏森駅から700mにあるこの駅は通学・通勤用に利用され、1日の平均乗車人員は2,100人ほどである。写真を撮ってから米野駅へ。
  


米野駅(10・30) 2013・11・23(土)  
 黄金駅からは線路の左、住宅が続く中村区側を歩く。名古屋駅周辺の巨大なビル群が見える割には、線路沿いは雑然とした寂しいところである。
 家の庭にはキンモクセイが咲き、あの甘くて強い香りが漂っていた。今、我が家ではギンモクセイが咲いているが、これほどは匂わない。黄色いミカンもなっている。アスファルトで固められた町中ではその匂いと色彩が心を和ませる。戸田駅あたりの黄金色に色づく稲穂も見あきなかった。
 黄金駅から600mぐらいのところに陸橋があり、ここでも中川区側に行けるようだ。上ると鉄道マニアなのか子供連れの人が数人眺めていた。
  
 1kmほど歩くと米野駅に着く。これが駅?名古屋駅の隣の駅なのかと思うほどの小さな駅である。調べると近鉄駅(323駅)中273位、1日の平均乗車人員は650人弱と書いてある。
    
 黄金駅を過ぎたところに「ささしま米野歩道橋」があったが、八田から歩き続けて疲れたので上がる元気はない。その大きな歩道橋の下の道端に座りこんでお茶を飲んで休憩し、最後の名古屋駅に向けて歩きだした。


名古屋駅(10・18) 2013・11・28(木)  
 地図にある米野駅近くの寺を探したが分からなかった。疲れも出ていたのであきらめて、太閤通りに向かって歩く。もう、大都会・名古屋の町並みで沢山の人だ。若い頃、名古屋市西区に住んでいて、四日市に帰る時はこの太閤通りを越えて走ったことを思い出した。
 太閤通りを東へ、ガードをくぐって笹島交差点に出るとヤマダ電機である。トイレを借りに入ったが、1階が全てスマホと携帯電話なのには驚いた。100mほどで近鉄名古屋駅に着いたが、駅舎の外見は小さく目立たない。この駅は名古屋市中村区名駅一丁目にあり、1日の平均乗車人員は110,000人ほどである。
 駅を超えてジェイアール名古屋タカシマヤにある東急ハンズに行き、そのまま12~13階で食事をしようとしたが、どこも並んでいた。並ぶのは嫌なので、高島屋を出てやっと食事にありついた時は1時半を廻っていた。
 食事をしながら、近鉄沿線ハイキングの目標である名古屋にたどり着いた感慨に浸っていた。達成できた喜びはひとしおである。
 帰路、電車の中から歩いた道を眺め、その時々を思い出していた。
 近鉄名古屋線は名古屋駅ー中川駅なので、四日市駅から中川駅までということもあるが、それは今後の課題である。
  
                   正面改札口 
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