剣闘士

剣闘士 2012・8・19(日)
 友人にギリシャローマ神話を読んでいると話したら、彼の奥さんから「剣闘士」と言う本が届いた。その名も知らなかったこの本を読み終えたが、未だによくわからない。殺し合うということに強度のアレルギーを持っているので、そもそも受け付けないのかもしれない。
 剣闘士についてネットを参考に以下に書いておく。
 紀元前後のローマにおいて、見世物として剣闘士試合で戦った。多くは奴隷である。共和政ローマやローマ帝国の多くの都市に円形競技場があり、そこで剣闘士同士、あるいは剣闘士と猛獣などとの戦いが繰り広げられた。剣闘士試合では競技者が死ぬのを見て歓呼したと言う。紀元500年頃まで各地で続けられた。

剣闘士2・生かすか殺すか 2012・8・24(金)
 剣闘士試合は一方の剣闘士が傷つき倒れた時点で勝敗がつき、勝った剣闘士は観客や皇帝に、破れた剣闘士を生かすか殺すかを仰いだ。10人に1人が殺されたという。
 剣闘士はもともとは死者を弔う為に始められた儀式だったが、時代とともに見世物となった。その隆盛の背景にはローマ時代のある種の軍国主義精神の発揚的な側面もあったようだが、単なる殺し合いになっていったこと、キリスト教の台頭などで紀元500年頃に衰退する。
 「生かすか殺すか」を観衆に委ねるなどは全くばかげたことで、今日ではとても考えられないことだ。 


剣闘士3・デキマティオ 2012・8・26(日)
 ローマ帝国にはデキマティオと呼ぶ残酷な制度があった。戦闘部隊が命令に従わなかったり、臆病な行動をした時、罰として兵士10人の中からくじ引きで選んだ1人を残りの9人に処刑させると言うものだった。昔の日本軍にも良く似た行為があったが、惨殺するまでには行かなかったようだ。円形競技場の剣闘士試合はこのデキマティオの影響を受けている。
 こんな制度があれば戦闘部隊は強化されるだろうが、そこは理性ある人間が存在する場所ではない。
 近頃、領土問題などでナショナリズムが鼓舞されて、諸外国への対抗意識が醸成されている。そこには危惧すべき「力の論理」が垣間見える。戦争を知らない世代がほとんどになった今、いとも簡単に軍隊が容認されていることを心配する。先の戦争から学んだ平和は護って行きたい。


剣闘士4(完)・スパルタクス 2012・8・30(木)
 スパルタクスは紀元前73年、「見物人の慰み物になるよりは自由のために闘おう」と剣闘士奴隷養成所を脱出し、古代ローマで蜂起した。剣闘士・奴隷の解放をめざしたが2年後に破れる。この第三次奴隷戦争を「スパルタクスの反乱」と言う。九万の奴隷軍がイタリア半島を席捲したと言う。自由と解放を求めた闘いは、彼の名とともに今日に至るまで有名で多くの人が知っている。
 歴史家の評価、あるいは映画などで何となく彼を英雄視してきたが、もっとも心を打つものは「自由と解放」と言う言葉かもしれない。ただ、今回疑問に思ったのは用語の問題である。「奴隷戦争」の戦争は対等だが、「スパルタクスの反乱」の反乱は、あくまで逆賊扱いである。スパルタクスは勝利していたらどう呼ばれたのだろう。
 その昔の「学園闘争」は「学園紛争」、「安保闘争」は「安保紛争」と今日では呼ばれる。そんなことに疑問を感じながら「剣闘士」の話を終る団塊の世代である。
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