山光集  例 言  
 さきに『鹿鳴集』を出したる後、今日にいたる四年間の和歌二百十八首に旧作「斑鳩」十二首を添へて、この書を成せり。題して『山光集』といふは偶然巻頭に出でたる「榛名」の一聯に因みてなり。
 編次はおほむね製作の順序によれり。ただ、「斑鳩」は大正十四年八月の作にして、時代としては、まさに『鹿鳴集』に入るべくして脱漏したるものなれば、最近に作れる他の諸篇とやや趣を異にするところもあるべし。是を以て最後に加へたり。
 この集に載するところは、殆どみな、さきに新聞雑誌の類に発表せしことあるもののみなるも、今収録するに当りて、悉くその字句に推敲を加へ、或は全く抹殺し或は標題を訂正したるものあり。
 さきに一般新聞又は綜合雑誌の読者のために、漢字入にて発表したる歌も、この集に入るるに当りては、『南京新唱』以来の慣習にしたがひ、殆ど皆平仮名のみに綴り改めたり。読者の判読に依頼し得べしと信じたればなり。詩歌はもと口にてうたひ、耳にて聞かしめしに始まり、後発達して文字の芸術になれり。今にして原始の状態に還らしむる必要は無かるべくも、もし今の世に、詩歌の音韻声調を軽視せんとする風あらば、その本質上、ゆゆしき曲事とならざるべからず。著者が常に仮名にて歌を綴るは、深くこの間に思ところあればなり。されど元来世上の流風を知らず、また関与するところもなければ、何をか人に索めむ。これを記して自ら警めむのみ。
 著者の歌は、ややもすれば難解の評あり。この故にさらに『鹿鳴集』の註釈をものし、『渾斎随筆』と名づけて世に送りたるが、今この集にありても、博物、地理、縁起、経典、造像等にわたりて、初学の玩賞に資せむがために、自ら小註六十三条を草し、これを巻末に加へたり。中にはあらずもがなと思ひつつも、身辺些末の私事のわたりたるふし無きにあらず。かかる事にても、好みてわが歌を読むまむほどの人のためには、何程か参考に値する日あらむかと為せるなり。もとより識者の目にしたまふべきにあらざるなり。
 集中の歌の、古蹟古美術に関するもの多きをおもひ、旅中の検出に便ならしめむがために、索引を作りて巻末に添へたり。
 校正は著者自らこれに当れり。

  昭和十九年五月十二日


  山光集  改版に当りて  
 本集の初版は東京なる製本者の手にありて、戦火を蒙ること二回。焼失の数八千部に及び世に布き得たるは甚だ少ければ、ここに版を改めて増刷することとなせり。
 この機会に当りて、時勢の著しき展開に鑑みて内容に増減を加へ、また字句に修正を加へたるところあり。人もし比校せば著者が意の在るところおのづから明らかなるべし。
 鉛活の印行を以てあきららずとし、著者の筆蹟を見んことを欲する人近来稍多し。この版にて新たに影印三四葉を挿入したるはこれに応ぜんとするなり。その中一葉は新薬師寺庭上の歌碑なり。時たまたま大寒に近づき碑石は鉄よりも冷かなるに、著者のために特に行きて塌拓せられたる増田恵一君の労を多とせざるを得ず。
 初版の題扉は原本烏有に帰したるが故に、疎開先なる新潟県北蒲原郡中条町西条の丹呉康平君の邸に於て、新たにこれを為せり。

  昭和二十一年一月                                    著 者
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