山光集 後 記  
 『山光集』の編輯を了りてこれを一読するに、まづ気づきたるは、わが作る歌の最近にいたりて多くなりたることなり。この集、『鹿鳴集』の後を受けて、昭和十五年六月以後今春にいたるおほよそ六年にわたることなれば、世上作家の例を以てせば二百十八首はむしろ少きに過ぎたりといふべけむも、わが痩畑の収穫としてはやや多しといふなり。往年初めて出したる『南京新唱』は、明治四十一年より大正十三年にいたるまで、その間十七年にわたれるを、その数わづかに百五十二首に過ぎざりき。すなはち一年十首足らずの割なれば、全く一首も無かりし年もありしならむ。しかるに、いまここに収めたるところ、昨年一年のみにて百五十六首に上れば、われはこれをもて多しといふなり。およそ人は老後に及べば興薄れ想涸れて、歌の数は次第に減少するを常とすれど、中には文字を駆使する技巧に慣れて、いささかの感激も無しと見ゆることを、やすやすと纏め上げ、味もなき白湯のごとく歌ひ出づるその数年齢とともにいよいよ多き人もあるが如し。年ごろこれを人ごとの如く厭ひ居たりしに、わがこの集は他所目には果して如何にかあらむ。まづ心もとなきことなり。
 作歌に聯作といふことあり、同じ時、同じ処にて心に起こりたるを片はしより汲みとるやうにして、一首また一首と詠みつらね行くにて、多くは十首を出づること稀ならず。これ遠きいにしへの作家も時になしたるところなれど、近世には正岡子規子ありて、好みてこれを試みられしより、これに倣ふもの多く、今は誰彼といふことなく広く行ひて、信じて正道の如く思ひなせり。まことに子規子は世のために一新境を劈開せられたりともいふべし。されど予ひそかに思へらく、この法は初学をして無理なる構想を捨て、なだらかに伸びやかなる歌多く作らしむるに利ありて、一種の甘露門なるべきも、かくして出来たる歌は、その一首をとりいづる時は、いとよしと思はるるもの極めて少く、その数いたづらに多きこそまことに煩はしけれと。まことに力こもれる一首をもて、千年の後尚ほ生けるが如く雄視する人『万葉集』には少からず。これ人の十首に分ちてやすやすと歌はむを、ただ一首の中にいひ籠めむとするがために、内容おのづから茂密となり声調また蒼勁を致したるなるべければ、われ等の驁鈍を以て直にこれを倣はむとすといはば、人の嗤となるのみなるべきも、さほどにもあらざるものを多く作りて遺さむを、人の嗤はざるにもあらざるべし。思はざるべけむや。われむかし若くして『南京新唱』を出しし頃は、ひたすらかく思ひつめ居たりしを、今しづかにこの集を見るに、いつしか聯作の傾向いちじるし。わが歌は歌壇の趨勢に関するところなしと、口癖の如く唱へながら、おのづから感染をまぬかれざりしと見ゆ。歌の数とみに多くなりしに驚きしも、この源は或はここにあるにあらざるか。しかあらばますます心もと無きことなり。そもそも歌はすべからくおのが実感衷情を歌ふに終始すべし。何の遑ありてか他を嗤ひ、また他の嗤はむことを恐るべけむ。されどわが家にありては、ひとりこれにて幽懐を暢ぶるを以て足れりとせず、別にまた向上の一助をここに索めたり。しかるにこの道の艱きこと、進み行くに従ひてますます身に沁みて覚えきたり、まことに晴天にのぼらむに比すべし。かるが故にここにこれを記すは敢て人のためにするにあらざるなり。
 またおもふに、従来世に送りたるわが歌には、材を南都の古美術に採れるもの多かりき。評する者は骨董趣味よ名物主義よとこれを指して、わが歌を以て実生活に徹せずとして誹れるもありしも、久しくその間に往来して老の将に至らむとするを顧みざりし、わが半生の労作の副産物なるを、ふかく思ひ到らざりし人もありしが如し。梅を見てはいまだよくその氷姿を味ふに遑なきに、はやくすでに桜の艶色なきを苦にし、桜を見てはその爛漫に酔はざるに、まづ梅の芳芬を闕くを喞つが如きは、由来世上の批評家に常に見るところなれば、今にして怪むべからず。すべてその好むに任すに若かずとするも、わが心中またいささか平かならざるもの無きにあらざりき。しかるに今やわれ等が祖父の国は、未曾有の危急に面し、戦局は苛烈を極め、子弟は挙りて海を越えて遠く出で去り、われ等が朝夕の生活はこれがためにいみじく感動しつつあり。この重大なる生活の中にありて、果して何人か真によくその実情を歌へる。果して何人かこれを歌ひて切実なるを得たる。而して世の批評家といふもの、今の時に当りて果してこれを歌人に索めたるものやある。いまだこれあるを聞かざるはわが固陋の然らしむるところならむか。しかるにいま、この集を閲するに、古美術に対する留心のほか、所謂生活より得来れりと見ゆる歌また若干首ありて、その内容往々にして時局に及べるものあり。その出来映と世評の如何はともかくもあれ、わが家としては、これを以ていささかこの大戦を記念し得て足れりとせむのみ。
 ああ、われ年少にして学に志し、都門に出でて書を読み、この垂老に及びて遂に為すところなく、かへつて平生諷詠するところの短歌によりて少しく人の識るところとなれるのみ。けだし古人もまたこの嘆を同うせむとするもの多かりしならむ。人生の事遂にかくの如きか。夜深うして案頭にこれを憶へば、燈光しきりにわが眼を射るに似たり。

     昭和十九年五月二十日下落合の僑居にて                           著者
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