会津八一 山光集・春日野(七首)
                               昭和十八年十一月
  山 光 集  「昭和15年6月から昭和19年4月に至る4年間に詠まれた246首。
         戦争時代を色濃く反映した作品も含まれる。戦中、戦後の価値観の
         転換によりこの集は3度出版され、歌の取捨が行われている」
  春 日 野  「学徒出陣が始まり、次々と教え子が戦場に向かう時、学生を連れた
         最後の奈良旅行を行った。春日野7首からはじまり50首詠む。春日野
         は下記序の如く、出征する学生たちの心を思って作られた。その時の
         様子はこの旅行に参加した植田重雄の“最後の奈良見学旅行”(秋艸
         道人会津八一の學藝)に詳しい。一部を最下段に引用する
                                        会津八一の歌 索引
1 十一日まづ東大寺に詣でまた春日野にいたる同行の学生にて近く入営せむ
   とするもの多く感に堪へざるが如しすなはちそのこころを思ひて(第1首)
    いで たたむ いくひ の ひま を こぞり きて 
                 かすが の のべ に あそぶ けふ かな       
歌の解説
2 十一日まづ東大寺に詣でまた春日野にいたる同行の学生にて近く入営せむ
   とするもの多く感に堪へざるが如しすなはちそのこころを思ひて(第2首)
    いにしへ の おほみいくさ に いでましし 
                 かみ の やしろ と をろがみ たつ も      
歌の解説
3 十一日まづ東大寺に詣でまた春日野にいたる同行の学生にて近く入営せむ
   とするもの多く感に堪へざるが如しすなはちそのこころを思ひて(第3首)
    かすがの の かみ の やしろ に たらちね と 
                 たづさはり きて ひと の をろがむ        
歌の解説
4 十一日まづ東大寺に詣でまた春日野にいたる同行の学生にて近く入営せむ
   とするもの多く感に堪へざるが如しすなはちそのこころを思ひて(第4首)
    ちはやぶる かみ の みやゐ に たらちね と 
                 ぬかづく みれば ふるさと おもほゆ
歌の解説
5 十一日まづ東大寺に詣でまた春日野にいたる同行の学生にて近く入営せむ
   とするもの多く感に堪へざるが如しすなはちそのこころを思ひて(第5首)
    うつしみ は いづく の はて に くさ むさむ 
                 かすが の のべ を おもひで に して       
歌の解説
6 十一日まづ東大寺に詣でまた春日野にいたる同行の学生にて近く入営せむ
   とするもの多く感に堪へざるが如しすなはちそのこころを思ひて(第6首)
    かすがの の こぬれ の もみぢ もえ いでよ 
                 また かへらじ と ひと の ゆく ひ を
    
歌の解説
7 同じ日ひとり春日の森にて
    かすがやま しみ たつ すぎ の なかぞら に 
                 こゑ はるか なる とび の ひとむら  
歌の解説



     
    最後の奈良見学旅行1
                 
(秋艸道人会津八一の學藝・植田重雄著)より

 會津八一(秋艸道人)先生は、毎年美術科・史学科の学生のために、大和の寺や古美術の見学の旅行を行ってきた。しかし昭和十八年の秋のそれは、特別のものであったようにおもう。太平洋各戦域でアメリカは総反攻に転じ、ミッドウウェー海戦、ガダルカナルの激闘、アッツ島の玉砕等々日本は守勢に立たされていた。
 当時、貴族院議員であり、土佐の武市半平太の嗣子なる人が、まだ日本は敗北したわけではない、三十万人の学生の精鋭がいるではないか、これらをして国難に当たらしめ退勢を挽回しようと提案した。戦後は戦争責任を軍部にだけかぶせたが、政治家もなかなか率先してやったものだ。やがて「徴兵猶予の停止」が宣言され、学園の学問や研究の火は消えることになった。いわゆる学徒出陣である。雨の降る明治神宮外苑球場での、東條英機総理のもと、閲兵分列の壮行会が行われたのは十月十五日である。
 奈良見学旅行は、いろいろな行事を避けたためにおくれ、ようやく十一月十一日に行われることになった。芸術科の学生だけでなく、奈良美術に興味を持つ学生はだれでも参加してよいということである。それは間もなく入隊し、戦地に赴く学生たちに、美の故郷である奈良とその仏像を観てほしいという、會津先生のおもいやりであったとおもう。しかし、あわただしい入営間近の旅行である。郷里に帰り、身辺を整理したり、親戚知人への別れの挨拶もひかえていた者にとって、全日程をこなすことはむつかしかった。だから、十一日から二十二日までの全日程を、はじめから終りまで旅行したのは、ごく少数で、大方は五、六日、あるいは三、四日、道人の一行に加わり、途中で別の自分の選んだ寺社を旅する者、随時参加して道人に別れの挨拶をして帰郷するものなどまちまちであった。それも時局の厳しさを反映するものである。
 道人と学生たちの泊まった宿は、言うまでもなく登大路の日吉館である。まず、東大寺大仏殿、三月堂、戒壇院、新薬師寺が十一月十一日の一日目である。その後十六日の毎日新聞に、「春日野にて」と題して掲載されている歌はつぎのごとくである。
 ・・・(ここで“春日野”の序と歌3首を紹介)
 春日野に立って、入隊間近の学生たちの感慨をおもいやっての歌である。これらの作品について今更論評する必要はない。明治四十一年、はじめて奈良を訪れ、春日野にたたずんだときの古代美への憧れと、恍惚とした想い、唯美の境地と何というちがいであろうか。                 
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