鹿鳴集 後 記  
 予の郷里は越後の新潟なり。父母は久しく叔父が継ぎたる本家に同居し、我等(われら)兄弟は其所(そこ)にて生れ、また人となれり。しかるに叔父は幼時より秀才を以て称せられし人にて、田舎には珍しきに、一応和漢洋の学に通じ、読書力もあり、筆蹟も唐様(からよう)にて美しかりき。その頃新潟の鎮守なる白山神社の禰宜(ねぎ)に日野資徳といふ人あり。叔父はこの人に就(つ)きて和歌を学び、その社中の高足(こうそく)なりしかば、予は小学校への途中に、しばしば詠草を携(たずさ)へて其(その)門に遣(つか)はされしことあり。そもそも予が中学に入りし頃より、何かといと懇(ねんご)ろに文学の方向に導きくれしは、この叔父なれば、今に至りても深く心に銘記して感謝し居(お)れど、当時叔父が熱心に凝(こ)り居(おり)たるその桂園(けいえん)風の和歌には、子供心ながら少しも興味を覚えざりき。
 しかるに明治三十二年四月、中学五年級に進み、国語教科書として課せられたる三上、高津の『日本文学小史』の中に、作例として挙げたる記紀万葉の古歌を読むに及び、不思議とも云(い)ひつべきほどに強き感動を覚え来りしかば、先(ま)ず当時は、大阪積善館の刊本にて専(もつぱ)ら世に行はれ居たりし『略解』を求め、遂にはその頃この地方にては高等女学校の図書室ならでは蔵するもの無かりし「古義」を、わざわざ人を介して折々借り出し来り、日夜に読み耽(ふけ)りて、忽(たちま)ち俄(にわ)か作りの万葉学者となり、毎週教場にて、国語の先生に向ひて質問戦の先鋒をつとむるを聊(いささ)か得意となし居たり。これよりさき我等は郷党の高僧としてまた奇人として良寛禅師の逸話に耳慣れ居たりしが、禅師の歌と聞きしものは、みな云い知れず懐しき響きありて、我等が幼時教え込まれし『小倉百人一首』の類とは、いたく調子の異(ことな)れるものあるをかねて怪(あやし)み居たりしに、これぞ『万葉集』の調子なりけるよと初めて悟りしことも深き歓(よろこび)の一つなりき。
 しかるに、此(こ)の年の早春より予はたまたま俳句を始め、『ホトトギス』『日本』などを愛読しつつ句作に熱中し居たりければ、同じく『万葉集』を宗とする正岡子規子等の作歌に接する機会もしばしばなるにつれて、忽ち其主張流風に傾倒し、俳句のはたはら歌をも作り始めたり。もとより素養も無き少年の、一口に歌を作るといひてもなかなか容易のことにあらず。最初佐佐木氏の『詠歌自在』といふものを求めみたるも、これにて自在に歌の出来得べしとも思はれず。後には物集(もずめ)氏、草野氏の辞典類のほかに「冠辞考」「冠辞例」「冠辞例歌集」などいふものを机の上下に備えおき、大体は俳句にて覚えたる手心にて作れり。かくて出来たる歌は、子規氏等の手もとに送りて選評を受くるに至らざりしも、その都度(つど)地方新聞の文苑に掲載せしめ居たり。しかるにこの頃一二年下級なる友人のうちには、例の日野氏の家塾に通ひて『枕草子』『源氏物語』などの講義を聞くこと流行せしに、ある日、日野氏は慨然として一同に向ひ、近来何者か万葉体の歌を作りて折々新聞に出すものあるも、そもそも『万葉』は遠き世の私集にして、中には漁礁田夫(ぎよしようでんぷ)の作さえ載せたれば、後世の勅撰集の風雅に比すべくもあらず。もとより今にして鑑と為(な)すべきにあらず。さても世に不心得なる者もあるものかなと、深く誡(いまし)められしよし、たまたま聴講のために席末にありし予が妹は、帰り来たりてゆゆしげに物語れり。この日野氏は、万葉学にかけては相当の造詣ありて、木村正辞翁などと文通を交はし居られし様子なるも、万葉体の作歌は少しも喜ばざりしものと見ゆ。されど老国学者のかかる非難こそ、かへりて我等の心には逆効果を齎(もたら)し、一入(ひとしお)熱中を煽(あお)るのみなりき。かくて当時の『日本』紙上に発表されし根岸短歌会の歌は、常に予等が興奮の種となれり就中(なかんずく)伊藤左千夫氏の

   元の使者すでに斬られて鎌倉の山の草木も鳴り震ひけむ

といふ一首の如きは、久しき間予は殆ど口癖の如く繰返し繰返し諷誦(ふうじゆ)して止まざりしものなり。
 その翌年三月、予は中学を卒業して東京に出でしも、ほどなく病に罹(かか)りて、七月に郷里に帰れり。帰るに先立ちて、六月の某日、根岸庵に子規子を訪ひ、初めて平素景慕の渇(かつ)を医するを得たり。この日、俳句和歌につきて、日頃の不審を述べて親しく教を受けしが、梅雨の煙るが如き庭上の青葉を、ガラス戸越に眺めながら、午後の静かなる庵中にて、ひとりこの人に対坐して受けたる強き印象は、今にして昨日の如く鮮(あざや)かなり。その時乞ふがままに五枚の色紙短冊を書き与えられしが、そのうち二枚は俳句にして、三枚は左の歌なり。

   橘の花酒にうけうたげする夜くだち鳴かぬ山ほととぎす
   ほととぎすその一声の玉ならば耳輪にぬきてとはに聞かまし
     朝顔画讃
   あかつきの起きのすさみに筆とりて描きし花の藍うすかりき

 この日予は子規子に向ひて、我が郷の良寛禅師を知りたまふやとただしたるに、否と答えられたり。ここを以て帰郷するや先(ま)ずその歌集一部を求めて贈れり。そは同じく我が郷里にて戊辰の志士の一人なりし村山半牧が、万葉仮名もて草体に書きし美濃紙判の木版本なりき。この本今も稀に市上に見ることあり。かくて予は良寛禅師の名が子規子の筆によりて広く世上に紹介せらるべき日を待ち居たるに、同年の秋にいたりて、『ホトトギス』誌上の随筆に、禅師につきて記さるるところあり。予は之を見て大に喜びしも、そはただ一瞬時のみなりき。けだし子規子が禅師生涯の佳作として挙げられしは、ただ二首のみなるに、そのうち

   山笹に、霰たばしる、音はさらさら、さらりさらり
   さらさらとせし、心こそよけれ

といふ旋頭歌は、実は古き琴唄にて、禅師の作にはあらざりければなり。禅師はただ興に任せてそを書きつけたまひけむを、半牧が心無く収め入れたるなりけり。この行きちがひは、子規子を経て、次なる左千夫氏にまで及びたるを思へば、両公に対し、ことにまた禅師に対して、予は責任の大半を負わざるを得ずと、今も痛切に感じ居るなり。
 東京より帰りたる後、予は養痾のかたはら、二種の地方新聞の客員として俳句の選者となり、一方には、なほ中学に通ひ居たる若き人々を語らひ、小さき文学雑誌を出したるが、その人々は、後に政治家、実業家、或(あるい)は官吏となりて名を出したるもあるが中に、ここには特に山崎良平君を挙ぐべし。この人、後に第一高等学校に入り、野上臼川氏等と校友会雑誌の委員となるや、良寛禅師を宣揚せむために長編の論文を草し、雑誌一冊を全く一人にて書きつぶして、他の一切の原稿のために少しも余白を与えざりしを以て、先づ四周を驚倒したる人なり。又その頃、我等の雑誌のために遥に稿を寄せて応援したる人には、当時なほ一高の生徒なりし桜井天壇君あり。その紹介にて山岸光宣、石倉小三郎、内ヶ崎作三郎の諸君ありき。
 かく予は凡(およ)そ地方文学青年が為すべき仕事は一応為さざるはなく、二年の間は前後を忘れ居たりしも、思へば身はやうやく二十歳の若さなれば、この乏しさのままにて果つべきにもあらず。かつ家運もやうやく傾き来りしかば、今のうちに将来生活の途も講じおかざるべからずと、その事しきりに心にかかり来りければ、三十五年四月には、殆ど此等(これら)一切の仕事を打ち捨て、新たに志を立てて再び上京し、その頃はまだ東京専門学校と称したる早稲田大学に入り、英文学哲学などを学ぶこととなれり。しかるに、たまたま此年の入学者には、片上天弦、白松南山、秋田雨雀、相馬御風、生方敏郎、白柳秀湖の如き面々なほ多く、上級には小川未明、高須梅渓、吉江孤雁、村岡典嗣の諸君あり、教場の内外なかなか賑(にぎ)はしく、新気運の萌(きざ)し見えそめて、互に来往して談論応酬頗(すこぶ)る盛なりしも、予が家の財力はますます衰へ、予は辛うじて月々の下宿代をこそ払ひ得たれ、新聞の購読すら易(やす)からざるほどの窮乏のうちに在りしかば、予は殆ど何人とも交際らしきこともせず、ひそかに学内の図書館に通ひて、己が好める数十冊の古書を読みしくらゐのことにて、平々凡々として三十九年七月に卒業し、九月には越後頸城(くびき)なる有恒学舎といふに、英語教師として赴任せり。最も華やかなるべき大学生時代も、かく幽独に堪へたる閉戸読書の時代なりしなり。
 されどかく、薄給ながら自ら生計を立つるに至りて、心は再び文芸に蘇り来り、四十一年の暑中休暇には、初めて奈良地方に遊び、古蹟を巡り、美術を賞して感興浅からず、その間に短歌を詠ずること二十首にして帰れり。俳人一茶の研究に手を染めしもこの頃なり。その後、四十三年には、この地を辞して再び早稲田に戻り、初めは中学校に英語を、後には大学に英文学を教ふることとなりしが、いつしか奈良文化の研究に身を入るるようになりてより、次第に俳句には遠ざかりしも、極めて寡作ながら、和歌は今日に至るまで、前後四十余年の間作りつづけ来れるなり。されど、最初より歌壇といふものには全く交渉なく、ことに東京に落ちつきて後は、身辺に同好の友もなかりしかば、真に一人にて作り、一人にて楽み居たるなり。されば曾(かつ)て大正二年頃かと覚ゆ、伊藤左千夫氏に書を致して画帖に揮毫(きごう)を請ひしに、氏は

   まづしさにたへつついくるなどおもひ
   はるさむきあさをこにははくなり

の一首を書き贈られたり。後にて気づけば、これ人も知る氏が特色ある最晩年の作風なりしを、当時予はただ格調の変化著しきに眼を瞠(みは)りて打ち驚くのみなりき。その後三四年にして、相馬御風君は、東京を見限りてか、郷里糸魚川に隠れ去られしに、たまたま、かの山崎良平君、同地の中学校に教師として赴任し、それより後相馬君の良寛研究は始まれるやに聞けり。
 大正十三年にに至れば、かつて山崎君とともに我等が雑誌の同人なりし式場益平といふ人上京し、己が年来の歌稿を纏(まと)めて携え来り、東京にて出版したしとて、一切の世話を頼みて去りしかば、体裁などの参考にもせむとて、牛込辺のある書店の棚より、手にまかせて四五種の歌集をもとめ来り、数日の間これを眺めもし読みもするうちに、予は初めて朧(おぼろ)げながら少しく世上の歌のさまを知れり。秦の乱を避けて山に入りし周末の遺民が、遂に漢晋あるを知らざりしに似たりと云ひつべし。とにかく、かかることにて俄に世心のつきしものか、同じ年の十二月、人のすといふ歌集といふものを我もして見むとてか、『南京新唱』一巻を上梓したるなり。
 しかるに、これよりさき予が英文学の師、坪内逍遥先生は、大正八年五月、還暦を迎へられ、これを機として和歌を作り始めらる。この時人を派し、また書を寄せて、いとも丁寧に作歌の批評を需(もと)められしかば、予は謹(つつし)みて之を引き請けたり。このことは後に『南京新唱』のために与えられし先生の序にも見ゆれども、なほその中に、そもそも予の歌を作ること、これより始まるやにものしたまへるは、述べて稍(やや)精(くわ)しからざるを憾(うら)みとすべし。蓋(けだ)しこれ、最も恩遇を受けて久しく親交を辱(かたじけな)くしたるこの先生にさへ、一度も我が歌を披露せしことの無かりしかば、かくは思い込みたまへるなるべし。されば又香取秀真氏の『天之真榊』のうち、大正十三年の条に、『南京新唱』の寄贈を受けて初めて予が名を知られしよし、さる歌の詞書の中に記されたるも、当然のことと云ふべし。
 その後予は『南京余唱』といふ小冊子を出したるも世上知る人少かるべし。後『新万葉集』の企あるや、編輯の諸公何をか思ひ過ごしけむ。幾度か足を門に運びて懇願やまざりければ、遂にもだしがたく、三十首の旧製を手録して之に応じたることあり。また需(もと)められるままに『遍路』『はたれ』『作歌』『槻の木』など流派傾向とりどりなる短歌雑誌に題簽(だいせん)を与へしこともあり、斎藤、相馬、窪田、折口の諸家より、予が歌に同情ある批評を恵まれしこともあり、ことに斎藤茂吉氏が、幾度か推輓(すいばん)の筆を執られたるは感激に堪へざるところなるも、予が心はなほ極地の氷雪の如く、依然として遠く斯壇(しだん)と隔絶しつつ今日に及べり。
 されど歌壇以外にありて、予が歌に興味を動かしたる人は決して少からず。ことに浜田清陵君が論文集の典麗なる表紙に、予が歌を刻みつけて得々たりし、また中村彜(つね)君が臨終の数日を、予が歌を唱(うた)ひ暮らしたる、而(しか)もこの二人は遂にまた相見るを得ざる、今や余をして徒(いたずら)に寂しく微笑せしむるのみなるも、そもそも予が歌は、『万葉集』と良寛と子規に啓発せられ、後に少しく欧亜の詩文と芸術とによりて培(つちか)ひ来りしばかりにて、もとより、素人とて、所詮(しょせん)素人向に出来居る筈なれば、素人の間にこそ予が知音(ちいん)はなほ有らば有るべけれ、たまたま専門匠家の風尚(ふうしよう)に合わざるものありとも、今さら何の不思議もなく、又何の遺憾(いかん)も無かるべきなり。
 されどもまた、余りに物を識らざるも不便なればとて、昨年十二月の末おしせまりて、初めて短歌を志す人々のために、さる人々のものされし一二の作法指南の書を読みしに、その中にて、つぶさに現代大家の歌集の名を知り得たれば、只今はぽつぽつそれ等を購(あがな)ひ読みて、一冊は一冊ごとに、想わぬ空に眼界を拡めゆく心地して、今にして年来の固陋を悔いつつあれど、老後の学修とて、進歩まことに遅々たるに、うたた歎息しつつあるなり。

  昭和十五年二月二日
                                                   著  者
inserted by FC2 system