会津八一の歌
  会津八一(あいづ・やいち)                             目次へ
 1881~1956。新潟の生れ。号 秋艸道人(しゅうそうどうじん)。早稲田で学んだのち、坪内逍遥の招きで早稲田中学校教員となる。その後文学部教授に就任、美術史を講じた。
 古都奈良への関心が生み出した歌集『南京新唱(なんきょうしんしょう)』にその後の作歌を加えた『鹿鳴集』がある。奈良の仏像は八一の歌なしには語れない。歌人としては孤高の存在であったが、独自の歌風は高く評価されている。鹿鳴集に続いて『山光集』『寒燈集』を発表している。
 書にも秀で、今では高額で売買される。生涯独身で通したが、慕う弟子達を厳しく導き、多くの人材を育てた。 

   会津八一の生涯・年表  新潟市會津八一記念館  早稲田大学會津八一記念博物館
                                                   ら行の歌
同じ日唐招提寺にいたり長老に謁して斎をうく(第1首) 

 りつゐん の そう さへ いでて このごろ は 
               はた つくる とふ その には の へ に
             

           (律院の僧さへ出でてこの頃は畑作るとふその庭の辺に)
       
唐招提寺 「奈良市五条町にある鑑真が建立した南都六宗の1つである律宗の総本山」
「とき。寺院で出される食事」
りつゐん 「律院。律宗の寺院、律寺」
りつゐんのそう 「“律院の僧は、本来須く持戒謹厳なるべく、或は勤行し、或は安居するに、ただ信徒の布施供養を受くべく、一切生産の業のために労役すべきにあらざるべし。”自註鹿鳴集」
とふ 「・・・と言う。“といふ”の変化したもの」

歌意
 律宗の唐招提寺の僧でさえ、このごろの戦時の食糧難に寺院の庭に出て畑を耕しているという。

 敗色濃い戦時下、全ての物資が乏しかった。食糧難は厳しく、学校でも寺社でも畑を作って食料を補った。この律宗の総本山でさえと八一は驚くのだった。
 随分前に唐招提寺を訪れた時、この歌が頭にあったので、草花が植えられた寺庭の一部を畑のように眺めたことを思い出す。               植田重雄の“最後の奈良研究旅行
西の京目次

山光集・西の京(第4首) (2014・6・12)
閑庭(第19首)

 るす の と に ひと の きて うつ どら の ね に 
               かど の かれき の くれ わたる ころ

           (留守の戸に人の来て打つ銅鑼の音に門の枯木の暮れ渡るころ)  

閑庭 「かんてい。もの静かな庭。ここでは下落合秋艸堂のことを言う。“この林荘のことは、かつて『鹿鳴集』の例言の中に述ぶるところありたり。併せ見るべし。後にこの邸を出でて、同じ下落合にてほど近き目白文化村といふに移り住みしなり。”自註鹿鳴集」
るすのと 「留守の家(秋艸堂を言う)」
どらのね 「銅鑼の音。“入口の軒下に大なる銅鑼を懸けて、ベルに代へて訪客をして打たしむ。第三六一頁にもこの銅鑼をうたひし歌あり。”自註。この歌は閑庭45首に続く銅鑼5首のことである」

歌意
 留守にしている家に人が訪ねてきて打つ銅鑼の音とともに、門のあたりの枯木が夕闇に包まれようとしている。

 八一の帰宅途上の歌であろう。銅鑼の音と冬の夕暮れの描写が、しみじみとした情感を醸し出している。来客用のこの銅鑼はベルにはない情緒があり、八一を慕う若者たちは集い来てこの銅鑼を鳴らした。
閑庭目次

寒燈集・閑庭(第19首) (2014・9・20)
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