最後の奈良見学旅行
秋艸道人 會津八一の学藝・補遺二 2005年(植田重雄著)

最後の奈良見学旅行1  2014・7・18(金)
 恩師・故植田重雄先生の「會津八一の生涯」(1988年)を読んだのが、會津八一との出会いである。先生の本はほとんど読んだが学術書で難しい。そうした中で、感情が表に出て、情感豊かに書かれている「最後の奈良見学旅行」(秋艸道人 會津八一の学藝・補遺二 2005年)は印象に残った。そこには生身の先生がいたからである。
 最近、會津八一の第二歌集・山光集の歌の解説を進めているが、この補遺二と関連する。学徒出陣間際(昭和18年)の学生たちを連れたこの「最後の奈良見学旅行」を数回に分けて紹介する。現在の戦争への道を開こうとする愚かな選択を憂いながら。

 會津八一(秋艸道人)先生は、毎年美術科・史学科の学生のために、大和の寺や古美術の見学の旅行を行ってきた。しかし昭和十八年の秋のそれは、特別のものであったようにおもう。太平洋各戦域でアメリカは総反攻に転じ、ミッドウウェー海戦、ガダルカナルの激闘、アッツ島の玉砕等々日本は守勢に立たされていた。
 当時、貴族院議員であり、土佐の武市半平太の嗣子なる人が、まだ日本は敗北したわけではない、三十万人の学生の精鋭がいるではないか、これらをして国難に当たらしめ退勢を挽回しようと提案した。戦後は戦争責任を軍部にだけかぶせたが、政治家もなかなか率先してやったものだ。やがて「徴兵猶予の停止」が宣言され、学園の学問や研究の火は消えることになった。いわゆる学徒出陣である。雨の降る明治神宮外苑球場での、東條英機総理のもと、閲兵分列の壮行会が行われたのは十月十五日である。



最後の奈良見学旅行2  2014・7・22(火)
 愚かな戦争は未来を担う学生たちも戦場に駆り出した。「戦後は戦争責任を軍部にだけかぶせたが、政治家もなかなか率先してやったものだ」植田先生の眼は鋭い。
 最後の奈良旅行は戦地に赴く学生たちとの別れともいえる。多くの学生は八一の鹿鳴集を携えて出征したと言う。

 奈良見学旅行は、いろいろな行事を避けたためにおくれ、ようやく十一月十一日に行われることになった。芸術科の学生だけでなく、奈良美術に興味を持つ学生はだれでも参加してよいということである。それは間もなく入隊し、戦地に赴く学生たちに、美の故郷である奈良とその仏像を観てほしいという、會津先生のおもいやりであったとおもう。しかし、あわただしい入営間近の旅行である。郷里に帰り、身辺を整理したり、親戚知人への別れの挨拶もひかえていた者にとって、全日程をこなすことはむつかしかった。だから、十一日から二十二日までの全日程を、はじめから終りまで旅行したのは、ごく少数で、大方は五、六日、あるいは三、四日、道人の一行に加わり、途中で別の自分の選んだ寺社を旅する者、随時参加して道人に別れの挨拶をして帰郷するものなどまちまちであった。それも時局の厳しさを反映するものである。



最後の奈良見学旅行3  2014・7・28(月)
 道人と学生たちの泊まった宿は、言うまでもなく登大路の日吉館である。まず、東大寺大仏殿、三月堂、戒壇院、新薬師寺が十一月十一日の一日目である。その後十六日の毎日新聞に、「春日野にて」と題して掲載されている歌はつぎのごとくである。
  いで たたむ いくひ の ひま を こぞり きて 
           かすが の のべ に あそぶ けふ かな   解説
  うつしみ は いづく の はて に くさ むさむ 
           かすが の のべ を おもひで に して    解説  
  かすがの の こぬれ の もみぢ もえ いでよ 
           また かへらじ と ひと の ゆく ひ を    解説
 春日野に立って、入隊間近の学生たちの感慨をおもいやっての歌である。これらの作品について今更論評する必要はない。明治四十一年、はじめて奈良を訪れ、春日野にたたずんだときの古代美への憧れと、恍惚とした想い、唯美の境地と何というちがいであろうか。

 植田先生が言うはじめて春日野を詠んだ歌は、鹿鳴集の冒頭を飾る。
  かすがの に おしてる つき の ほがらかに 
           あき の ゆふべ と なり に ける かも    解説
  かすがの の みくさ をり しき ふす しか の 
              つの さえ さやに てる つくよ かも    解説 


最後の奈良見学旅行4  2014・8・2(土)
 十二日には法隆寺、法輪寺、中宮寺などを訪ねたが、しかし道人は歌碑のことで県の役人との面談のため、学生だけとなった。翌十三日には、学生たちと薬師寺、唐招提寺、西大寺、喜光寺、秋篠寺などを巡拝した。つぎの歌は、薬師寺の東塔である。
  うかび たつ たふ の もごし の しろかべ に 
           あさ の ひ さして あき はれ に けり    解説
 東塔は元来三重の塔であるが、各層を補強するために、裳階(もこし)をつけ、六重のように見える。晴れわたった秋の空に裳階の白壁が、朝日に映え鮮やかであるという意である。
 さらに東院堂の聖観音が詠まれている。
  みほとけ の ひかり すがしき むね の へ に 
           かげ つぶらなる たま の みすまる      解説
 薬師寺の金銅仏は、みな磨き上げられて光沢を発している。とくにこの仏像は若々しい理想の青年像として荘厳、清浄をきわめる。胸にかがやく宝珠に焦点をあてて讃嘆した一首である。
 十四日、平城宮址、海龍王寺、奈良博物館を訪れた。平城宮址の冷たい風に吹かれたためか、極度の緊張と、疲労が重なったせいか、道人は風邪を訴え、翌十五日は日吉館で休養をとり、学生だけで浄瑠璃寺、岩船寺を訪れた。翌十六日は自由行動で、学生たちは好みの寺や神社を訪れ、道人は二日の休養をとり体力が回復し、十七日には元気よく桜井の聖林寺に向かった。

 
植田先生が薬師寺東院堂の聖観音を表現した「この仏像は若々しい理想の青年像として荘厳、清浄をきわめる」は全くその通りだと思う。仏像作りを始めたころ、この聖観音に身震いしたことを思い出す。 


最後の奈良見学旅行5  2014・8・6(水)
 仏像あるいは芸術的な対象への対応を学生に教える八一、他の本でも取り上げられている有名な場面である。

 聖林寺の十一面観音は、和辻哲郎の『古寺巡礼』でも取り上げているように、元々、三輪神社の御輪寺(おほみわでら、だいごりんじ)という神仏習合の神宮寺にあった仏像である。現在は特別に観音堂を設けて安置しているが、当時は本堂本尊の傍らに置かれていた。扉を閉めたままの暗い本堂にはいると、学生の一人が懐中電灯をつけて見ようとした。すると、
 「懐中電灯など照らしたって、仏像は見えはせんぞ」
 道人が怒鳴った。
 やがて住職が手燭をともして差し出すと、それを受けて道人は、ぐりぐりと抉るように、観音の顔、胸、手などを照らし出して、
 「この観音様の光背は、昔のままではない。はじめどのような光背であったかを想い浮かべなければならない。この仏さんを祀っていたお堂は、はじめどんなお堂であったかも想像しながらよく見るのだ」
 「何度もいうごとく、仏さんを前にしてどうあるべきか、それぞれ自分自身で納得、解決することだ」
 道人がかかげる手燭に照らし出される観音は、全世界をおおうような、やさしく悲しいお顔をしていた。


最後の奈良見学旅行6  2014・8・13(水)
 聖林寺を出たあと、桜井から近鉄に乗り、室生寺口に至り、大野磨崖仏をわきに見ながら、室生寺渓谷の山道を遠足でもするように一行は歩いていった。谷合の夕暮れは早い。やがて室生寺にたどりつく頃は、激しい川水がひびくのみである。
 室生寺の沿革について道人は講話した。それは空海ではなく、興福寺の賢憬(けんきょう)と修円によるものではないかということであった。夜更けて、たれやらが村にいって買ってきた酒を、渓川のあたりで、會津先生をお呼びして別離の宴にしようといい出した。
 「海ゆかば水漬くかばね、山ゆかば草むすかばね・・・・・・」の歌がどこからともなくひびき、校歌や軍歌もつぎつぎに歌った。無理をして酒を飲み、川風に吹かれたのがいけなかった。道人は再び風邪をひいたらしい。

 この時、八一が詠んだ歌が山光集・霜葉の第2、3首である。
  やまがは は しらなみ たてり あす の ごと   
           いで たつ こら が うた の とよみ に   解説
  うみ ゆかば みづく かばね と やまがは の   
           いはほ に たちて うたふ こら は も    解説


最後の奈良見学旅行7  2014・8・21(木)
 翌朝、よく晴れたよい秋日和、住職の厚意で金堂、講堂の密教美術の粋を拝むことができた。
 わくらご は あな うつくし と みほとけ の 
           みどう の やみ に こゑ はなち つつ   解説
 道人は金堂でも手燭を点して、沢山ならぶ仏たちをゆっくり、しずかに見せてくれた。「わくらご」とは、若い学生たちを古風に呼んだ。思わず「美しいなあ」と溜息のような声がこだましたが、わたしもその一人だった。かって大正十一年(1921)八月のさ中、道人ははじめて室生寺を訪ねたときの感動と陶酔を、若い学生たちに味わせたかったのだろう。室生寺は道人が奈良美術の研究を手がける出発点だった。最初に世に出したのは『室生寺大観』であった。そして最後に残しておいた研究テーマでもあった。金堂には釈迦・薬師如来の立像がが立ち、文殊・地蔵菩薩、さらに十一面観音の五体が安置されている。
 しよく とりて むかへば あやし みほとけ の 
           ただに います と おもほゆる まで     解説
 この歌は十一面観音立像である。手燭をとって近づけば、うら若く、あやしいまでに女性のお姿である。薬師寺の東院堂の聖観音と同じように、しばしば理想の男性像、女性像で仏身を表現する


 室生寺の金堂には五体の仏像(本尊釈迦の左に文殊、十一面観音、右に薬師、地蔵)が並び立ち、その手前に十二神将立像がある。何度でも訪れたいところであり、とりわけ十一面観音立像は素晴らしい
                          

最後の奈良見学旅行8  2014・8・27(水)
 途中でおくれて参加をゆるされたわたしは、独りでよくみるべきもの、もう一度見たいものがあって、道人に挨拶して室生寺川の道を、一足さきに急いで戻っていった。独りになったとき、悲壮な孤独感におそわれた。入営の間近さが一層、心をたかぶらせたのであろう。わたしはつぎのような和歌を詠んだ。
 青空にしきりに紅葉舞ひ上る秋のをはりの室生寺の川
 わが世には再びは見じ流れゆく室生寺川の瀬々の紅葉は
 もう一度聖林寺の十一面観音に逢いたくて訪れると、やさしい老僧がどうぞといってくれ、本堂に上がらせてもらった。すると、小さな蝋燭をともしてこもっている老母が合掌し、観音さまにしきりにつぶやいている。村の人々に日の丸を振って歓呼の声でおくられ、わたしも旗をふってわが子を見送ったが、どうかわが子が無事であるようお守り下さいと、涙ながらにいっている。これで三度目の召集であるという。仏さまが眼の前に在(いら)っしゃっているように、訥々と老母が語っているのだ。慈悲のまなざしで観音さまは蓮をかざしておられる。
 みほとけのみ手のはちすのいつしかも人の心に咲きてあれこそ
 こう願い、このように歌わずにはいられない想いに駆られて詠んだ一首である。
 わたしは三輪神社に詣でた。晩秋の木枯らしが三輪の御山を吹いていた。拝殿や古い神杉のあたりには人影はなく、白髪の老翁が長い箒で、しずかに掃ききよめている。しかし、夕日の射すあたりに、杉の古枝が丸い塊りになって、ばさっばさっと落ちてくる。それを意に介せぬように翁は落着いていて黙々と掃いている。その有様が何とも清浄で、たかぶっていたわたしの心は、はじめて落ちついていった。嬉しいような心定まる想いであった。
 みやしろのみ前しづかに掃く翁見つついつしか心定まる
 こがらしに杉の古枝落ちしきり翁黙々と掃き浄めゐる


 「わが世には再びは見じ・・・」と詠み「たかぶっていたわたしの心は、はじめて落ちついていった」と言う出征前の植田先生の心を想う。


最後の奈良見学旅行9  2014・9・3(水)
 十八日、道人は當麻寺から高野山金剛峰寺にゆき、明王院に泊った。山中は、はや雪が積り、疲労と寒さで風邪をこじらせたらしいが、十九日の朝、秘宝赤不動を拝して感動の十一首が生まれた。
 うつせみ の ちしほ みなぎり とこしへ に 
            もえ さり ゆく か ひと の よ の ため に 
 あかふどう わが をろがめば ときじく の 
            こゆき ふり く も のき の ひさし に 
 この見学旅行は、たんに仏像や古寺を巡る旅ではなく、戦争の動乱の中で大学が解体、学問を停止し、師弟が最後の別離、みほとけとのお別れであったから、悲愴な想いが道人の歌にもこもっている。

 上記二首は、山光集・明王院の前書に「十九日高野山明王院に於て秘宝赤不動を拜すまことに希世の珍なりその図幽怪神異これに向ふものをして舌慄へ胸戦き円珍が遠く晩唐より将来せる台密の面目を髣髴せしむるに足る予はその後疾を得て京に還り病室の素壁に面してその印象を追想し成すところ即ちこの十一首なり」と書いた八一の赤不動を詠んだ力作である。


最後の奈良見学旅行10  2014・9・10(水)
  別れにあたり、わたしはおそるおそる一首を差し出し、「先生、今日でお別れします。これをお読み下さい。日の丸もお願いします」と日章旗を前に出した。その歌はつぎのような歌である。
 みいくさに出征(いで)たつわれや大和路のもゆる夕日をいつかまた見む
 道人はしばらく黙っていたが、
「植田、どんな戦場に行こうとも必ず歌を詠め、どんなことがあっても歌をわすれるな」
 と激しい声でわたしに向かって叫ばれた。日の丸に「祈武運長久 植田重雄君」、墨痕淋漓と書いて下さった。憔悴して苦しそうだった道人は、墨のかわく間じっと眼をつむっていたが、
「戦争はいつまでもつづくというものではない。戦争は終る。その時は研究をつづけるのだ」
 といわれた。有難いことであった。わたしも郷里の家に帰らなければならない。あわてて身支度をととのえ、お別れした。しかし、心の中でもうお別れですと暗然と呟いた。
 みほとけのきみがみ歌を口ずさみ大和路をゆく今日をかぎりに
 師と別れいそぎ故郷に帰りたり荒寥として独り行く道

 師弟ともに出征を望んでいるわけではない。「歌を詠め」「研究を続けるのだ」八一の声が聞えてくる。植田先生は戦後、大学に戻り宗教倫理学をメインにしながら、會津八一研究の労作を出版した。


最後の奈良見学旅行11(完)  2014・9・17(水)
 郷里に帰ると、待ちかねていた家族、親戚、知人、友人と別れの挨拶をするのに忙しく、どのようにして入隊前の日々を過ごしたか分からない。沢山の護符や、千人針の腹巻きをもらった。十二月一日、中部三部隊(旧歩兵第三十四連隊)に入営すべく、幾人かの人々と一しょに郷里の方々に見送られ、藤相鉄道の相良駅の車窓に立った。発車前、さかんに別れと励ましの言葉を受け、万歳の声とともに小旗が一せいに振られた。やがて、軽便が動き出すと、駅の隅で、祖母が小旗を持ってじっと見ていた。
 わたしは四歳のとき、母を亡くしているので、祖母が母代りをしてくれていた。
 二十一日、會津先生は人々に扶けられ、ようやく東京に戻ることができたが、肺炎で危篤となり、五ヶ月も病床に臥し、生涯でもっとも大きい病気となった。また眼の病いにも犯された。その間、献身的に看病したのが、養女のきい子さんである。きい子さんも過労で結核に犯され、ついに『山鳩』『観音堂』の悲劇となる。やがて、昭和二十年、六十歳以上の人々は大学を辞職し、疎開の準備に取り掛かる。その時、空襲に遭い、万巻の書籍、資料を焼失し、故郷新潟に帰り、最晩年を過ごされた。
 この昭和十八年、学徒出陣の折の奈良見学旅行が、會津先生にとっても学生にとっても最後の旅行となった。


 「最後の奈良見学旅行」は以上で終わる。會津八一は1956年(昭和31年)11月16日永眠。植田重雄は2006年(平成18年)5月14日に亡くなった。同年6月3日のお別れ会(早稲田教会)に参列し、師に感謝とお別れをしてきた。
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