南京新唱 自序  
 もし歌は約束をもて詠むべしとならば、われ歌は詠むべからず。もし、流行に順(したが)ひて詠むべしとならば、われまた歌を詠むべからず。
 吾(われ)は世に歌あるを知らず、世の人また吾に歌あるを知らず。吾はまたわが歌の果たしてよき歌なりや否やを知らず。
 たまたま今の世に巧なりと称せらるる人の歌をみることあるも、巧なるがために吾これを好まず、奇なるを以て称せらるるものを見るも、奇なるがために吾これを好まず。新しいといはるるもの、強しといはるるもの、吾またこれを好まず。吾が真に好める歌とては、己が歌あるのみ。
 採訪散策の時、いつとなく思い泛(うか)びしを、いく度(たび)もくりかえし口ずさみて、おのづから詠み据ゑたるもの、これ吾(わ)が歌なり。さればにや、一人にて遠き路を歩きながら、声低くこれを唱ふるとき、わが歌の、ことに吾に妙味あるを覚ゆ。
  われ奈良の風光と美術とを酷愛して、其間(そのかん)に徘徊(はいかい)することすでにいく度ぞ。遂(つい)に或(あるい)は骨をここに埋めんとさへおもへり。ここにして詠じたる歌は、吾ながらに心ゆくばかりなり。われ今これを誦(じゆ)すれば、青山たちまち遠く繞(めぐ)り、緑樹甍(いらか)に迫りて、恍惚(こうこつ)として、身はすでに舊都の中に在(あ)るが如(ごと)し。しかもまた、伽藍寂寞(がらんじやくまく)、朱柱たまたま傾き、堊壁(あへき)ときに破れ、寒鼠(かんそ)は梁上に鳴き、香煙は床上に絶ゆるの状を想起して、愴然(そうぜん)これを久しうす。おもふに、かくの如き佛國の荒廢は、諸經もいまだ説かざりしところ、この荒廢あるによりて、わが神魂の遠く此間に奪ひ去らるるか。
 西国三十三番の霊場を巡拝する善男善女は、ゆくゆく御詠歌を高唱して、覊旅(きりよ)の辛労を忘れんとす。各々その笠に書して同行二人(どうぎようににん)といふ。蓋(けだ)し行住つねに大慈大悲の加護を信ずるなり。しかるにわが世に於(お)けるや、実に乾坤(けんこん)に孤筇(こきよう)なり。独往して独唱し、昂々(こうこう)として顧返することなし。しかも歩々今やうやく蹉跎(さだ)、まことに廃墟の荒草を践(ふ)むが如し。ああ行路かくの如くにして、吾が南京の歌の、ますますわれに妙味あるか。
 わが郷さきに沙門(しやもん)良寛を出(いだ)せり。菴を国上(くがみ)の山下に結び、風狂にして世を終ふ。われその遺作を欽賞することここに二十余年、この頃やうやく都門に其名を知る者あるを見る。その示寂(じじやく)以後実に九十四年なり。良寛常にいへらく、平生書家の書と歌人の歌とを好まずと。われ亦(ま)た少しく翰墨(かんぼく)に学び、塗鴉(とあ)いささか怡(よろこ)ぶ。遂に一の能(よ)くするなしといへども、また法家の余臭を帯びざるを信ず。ただ平素詳(つまびら)かに花壇の消息を知らず。徒(いたずら)に当世作家の新奇と匠習とを排すといへども、良寛をしてわが歌を地下に聞かしめば、しらず果たして何の評を下すべきかを。又しらず、今より百年の後、北国更に一風狂子を出し、其人垢衣(こうい)にして被髪し、野処して放歌し、吾等をして地下に耳を欹(そばだ)てしむべきもののありや否やを。

       大正十三年九月東京下落合の秋艸堂にて
                                             会 津 八 一
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