会津八一(あいづ・やいち) 目次へ 1881~1956。新潟の生れ。号 秋艸道人(しゅうそうどうじん)。早稲田で学んだのち、坪内逍遥の招きで早稲田中学校教員となる。その後文学部教授に就任、美術史を講じた。 古都奈良への関心が生み出した歌集『南京新唱(なんきょうしんしょう)』にその後の作歌を加えた『鹿鳴集』がある。奈良の仏像は八一の歌なしには語れない。歌人としては孤高の存在であったが、独自の歌風は高く評価されている。鹿鳴集に続いて『山光集』『寒燈集』を発表している。 書にも秀で、今では高額で売買される。生涯独身で通したが、慕う弟子達を厳しく導き、多くの人材を育てた。 会津八一の生涯・年表 新潟市會津八一記念館 早稲田大学會津八一記念博物館 |
夜雪(第3首) ながき よ の まど に さやりて ふる ゆき を きき つつ もとな いね がて に す も (長き夜の窓に障りて降る雪を聞きつつもとな寝がてにすも)
歌意 長い夜の窓にふれて降る雪の音を聞きながら、わけもなくなかなか眠れないのだ。 故郷を中心にした生活を始めた八一、思いがいろいろとあったのだろう。眠れない雪の夜を過ごす。
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やがて紀元節も近づきければ古事記の 中巻なる神武天皇の条を読みて(第5首)
なか つ くに ゆきて やはす と あもり こし
たち の とよみ に めざめ まし けむ (中つ国行きて和すと天降りこし太刀の響みに目覚めましけむ)
歌意 葦原の中つ国に行って平定するために天上の高天原から降ってきた太刀の響きによって神武天皇は目覚められたであろう。 古事記の逸話を詠んだもの。この太刀については注参照。歌はこの太刀の話を背景にして詠んでいる。第18首から第32首までは戦後一度削除し、後に復活したものである。 注 (古事記より) 熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの太刀を持って来ると、神武天皇はすぐに目が覚めた。そしてその太刀の力で熊野を平定する。 太刀の言われは以下である。「葦原の中つ国は騒然としており、私の御子たちは悩んでいる。お前は天降って手助けしなさい」天照大神と高木神の二神が建御雷(タケミカヅチ)に命じた。彼は「葦原の中つ国平定に使った太刀を降ろしましょう」と答えた。その太刀が高倉下から神武天皇に渡った。 ここから、太刀が降ってきた響きを新たに創造して歌を作った。
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北満の戦陣にある若き人々に寄す(第1首) な が まもる とほき とりで に のぼる ひ の いや あか からし さむき あさけ を (汝が守る遠き砦に昇る日のいや赤からし寒き朝明を)
歌意 君が守る遠い砦に昇る朝日はとても赤く輝いているだろう、寒い北満州の地の夜明けでは。 日中戦争から更に米英との戦い(太平洋戦争)に突入したなかで、既に満州の地に出征した教え子を思って詠う。極寒の地では寒さゆえ朝日はより赤いであろうと印象的に詠う。
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あるあしたクエゼリンの戦報に音羽侯の将士とともにみうせたまひける よし聞きて(第4首)
なげき つつ いぬれば ちかき あかつき を
その をたけび の おもほゆ らく に (嘆きつつい寝れば近き暁をその雄叫びの思ほゆらくに)
歌意 戦死の報を聞いて嘆いて寝ているとすぐに暁となり、戦火の中の雄叫びが自然に浮かび思われることなのだなあ。 音羽侯爵のクェゼリン環礁での戦死を詠む4首の第4首。皇室への思いが深かったこと、戦況に対する憂いがこの4首を詠わせたであろうが、戦争末期の軍指導部の指導力の無さ、退廃は後に明らかにされる。戦争のない平和な時代には理解しがたい歌である。 注 日本ニュース(1944・4・20) 去る2月、クェゼリン環礁守備部隊6500名の勇士とともに、尊き御身をもって南海の果てに散華させたもうた侯爵、音羽正彦少佐のご英霊は、4月12日、御父君朝香宮鳩彦王殿下、御兄君孚彦王殿下をはじめ奉り、軍代表参列して御迎え申し上げるうちを、○○空港に無言の凱旋(がいせん)を遊ばされました。ご英霊は同期生ショウジ隊員に奉持(ほうじ)され、国民挙げて哀悼のうちに一路横須賀へと向かわせられました。
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鐘楼(第1首) 三月十四日二三子とともに東大寺に詣づ客殿の廊下より望めば焼きて日なほ浅き嫩草山(わかくさやま)の草の根わづかに青みそめ陽光やうやく熙々たらむとすれども梢をわたる野風なほ襟に冷かにしてかの洪鐘の声また聞くべからずことに寂寞の感ありよりて鐘楼に到り頭上にかかれる撞木を撫しつつこの歌を作る な つき そ と かかれる かね を あふぎ みて うで さしのべつ なに す とも なく (な撞きそと書かれる鐘を仰ぎ見て腕さしのべつ何すともなく)
歌意 撞いてはいけないと書いてある東大寺の鐘を仰ぎ見て、腕を差し伸べて触ってみた、何をするというわけでもなく。 大仏讃歌10首を献納した八一は戦時の音響管制のため撞くことを禁じられている鐘への思いを詠う。奈良の町に鳴り響いた懐かしい音を思い出しながらそっと鐘を撫でる。そこには寂しさと愛情が重なっている。 写真は鹿鳴人提供(2014・5・24)の東大寺鐘楼。
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塩原温泉途上 なづみ きて のべ より やま に いる みち の みみ に さやけき みづ の おと かな (なづみ来て野辺より山に入る道の耳にさやけき水の音かな)
歌意 野辺を苦労して歩いて来てやっと山路に入るところで耳に清々しく聞こえる谷川の水音よ。 早稲田中学在任中(30~43歳)の歌と思われる。中学遠足は日光、箱根、塩原だったと言う。生徒たちを引率し、長い野辺の道のりが終わるところで谷川の清らかな音が聞こてきた。目には見えないその一瞬の感動を詠う。
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土くれ(第5首) 十月の末つかたなりけむ喜多武四郎予が胸像を作り持ち来りて示すを見るに頗る予が意を獲たり乃ち喜多が携へたる鉄の箆をとりてその背に秋艸道人の四字を刻す なづみ こし ひとよ はるけし つくり きて ひと の しめせる おもかげ を みて (なづみ来し一世はるけし作り来て人の示せる面影を見て)
歌意 貧しく苦労して歩んできた私の半生がはるかに思い起こされる、友人が作って見せてくれた私の塑像を見ていると。 貧しい中で学問に打ち込んできた八一はこの時64歳、学徒出陣で大学は機能を停止していた。目の前にある他人が己を写し取った胸像の中に、感無量の思いでこれまでの半生を追想する。 注 なづみこしひとよはるけし (自註鹿鳴集) 酸寒にして苦楚多かりし半生を追懐してかくいへり。 (“酸寒” 貧乏で辛いこと “苦楚” 苦しく辛いこと)
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国葬の日に(第2首) なにびと か けふ の はふり に ぬかづきて きみ が みたま に なか ざらめ や も (何人か今日の葬りにぬかづきて君がみ魂に泣かざらめやも)
歌意 何びとが今日の国葬にぬかづいて、あなたのみ魂に泣かないでいられようか。 戦死した山本五十六連合艦隊司令長官への最大級の送る言葉である。
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奈良より東京の友に
なべて よ は さびしき もの よ くさまくら たび に あり とも なに か なげかむ (なべて世は寂しきものよ草枕旅にありとも何か嘆かむ)
歌意 全てこの世に生きていることは寂しいことなのだ。旅にあるからと言ってとりわけ寂しいと嘆くことがあろうか、そうではない。 歌そのものを理解するには、山中高歌から放浪唫草にいたる八一の行動と歌を詠み込む必要がある。放浪唫草(63首)の62首目に掲げたこの歌は、心身ともに危機にあった状態からの脱却を表す。人生の本質は寂しいものなのだ。寂しさが旅の途中だからとか八一個人のものだからなのではない。その真理の中でどう生きていくかが問題になると八一は悟ったに違いない。
植田重雄は「會津八一の生涯」でこう書いている。「(旅から帰ると)・・・すべては何事も変わっていなかった。・・・捨身の思いで旅だった道人は、大自然や、古代の美術のおおらかな精神にふれながら、いつしか心の中の懊悩煩悶は消え去った。異常なまでに疲労し衰弱していた腎臓障害、神経痛からも解放され、心身ともに新鮮で充実した生気がよみがえった」 危機を脱した八一は迷うことなく「奈良の美術の研究」に打ち込んでいくのである。
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自性寺(じしようじ)の大雅堂にて(第3首)
なほざり に ゑがきし らん の ふで に みる たたみ の あと の なつかしき かな (なほざりに描きし蘭の筆に見る畳の跡のなつかしきかな)
歌意 気楽に描かれた蘭の絵の中に畳の目の跡が残っていて、あなたの奔放で力強い筆さばきを懐かしく思うことですよ。 書道家としての視点であり、模倣を嫌い独特な基礎訓練を経て高いレベルでのオリジナルな書を確立した八一ならでは評価である。
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観心寺の本尊如意輪観音を拝して(第2首)
なまめきて ひざ に たてたる しろたへ の
ほとけ の ひぢ は うつつ とも なし (なまめきて膝に立てたる白妙の仏の肘はうつつともなし)
歌意 なまめかしく膝の上に立てられている白い肘はとても美しく、まるで現実を越えた夢のようである。 開かれた厨子の中の仏は、ほどよい灯りの中に座している。豊満で官能的な顔と調和するように右肘は白く浮かび上がり、頬を受けているその手の小指は微妙な曲線を描いている。八一は「白い肘」と表現したが、思惟するこの右手全体を詠っているようだ。開帳に参集していた人々の中に出現した仏は、まさしく夢のような姿であった。(09・04・18 観心寺にて) 第1首 注 観心寺如意輪観音(鹿鳴集歌解より 吉野秀雄著) 像高三尺六寸、木造五彩の設色、思惟の相を呈す。広額豊頬、眼に叡智を秘め、唇辺に慈悲を宿し、右膝を立てて半跏を組み、左右に三臂づつを生じ、右の第一手は屈して頬を受け、第二手は宝珠を持ち、第三手は垂れて数珠を下ぐ。左の第一手は地に安んじ、第二手は蓮華を捧げ、第三手は指頭に金輪を支ふ。宝髻の外に宝珠と霊形の透彫金箔置の宝冠を、臂と腕には金属製の釧(くしろ)をつく。光背・台座等の荘厳具も、全身の彩色もよく保存されてゐる。
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その寺の金堂に入りて(第1首) なみ たたす ほとけ ともしみ いくとせ を つぎて き に けむ やま の たをり に (並み立たす仏ともしみ幾年を継ぎて来にけむ山のたをりに)
歌意 室生寺金堂に並び立っておられる仏たちに心引かれたから、何年も何年も続けてこの室生山の撓りにやってきたのだ。 日本を代表する美しい室生寺金堂の仏たち、何度観ても飽き足らないこの寺を学生たちとまた訪れた八一の思いと喜びが伝わってくる。 植田重雄の“最後の奈良見学旅行3” 注 なみたたすほとけ (自註鹿鳴集) 室生寺の金堂には、本尊釈迦の左に文殊、十一面観音あり、右に薬師、地蔵あり。いづれも平安時代の佳作なれば、並び立ちたまへるさまは誠に目もあやなり。この配列は絶えて経軌に見ざるところなるも、春日神社の五柱の祭神、すなはち本殿の四座及び若宮の一座の本地に当る仏菩薩を、一堂のうちに一列に安置したるものならむと説く者あり。或は然らむ。
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ならざか の いし の ほとけ の おとがひ に
こさめ ながるる はる は き に けり (奈良坂の石の仏の頤に小雨流るる春は来にけり)
歌意 奈良坂の道のほとりにある石の仏さんのあごから、小雨が流れている。ああ、春になったのだな~。
滝坂の道を八一の歌を導きに歩いた時、やがてはこの歌の石仏に会いたいと思っていた。その思いが実り、友人達と奈良坂を5月末に訪れた。ただ、八一の時代や会津八一の名歌(和光慧著)に書かれた古き良き奈良坂と石仏の情景は今では失われているようだ。和光慧が言うように「豊かな美的想像力が加わって、見たままの事実を超えた高次の美的形象をとって生まれた」歌であるなら、夕日地蔵の前で目を閉じて、 奈良の小雨降る春を想うといいだろう。
注1 奈良の友人(鹿鳴人)から般若寺にある歌碑(昭和45年建立)の 写真が届いた。 (10・03・07掲載) 注2 奈良の友人(鹿鳴人)から届いた春の雨の写真と文を掲載する。 「夕日地蔵の地蔵のおとがひの写真送ります。 うっすら濡れているようにも見えます」 (14・03・24掲載)
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奈良を去る時大泉生へ(第2首) ならざか を じやうるりでら に こえむ ひ は みち の まはに に あし あやまち そ (奈良坂を浄瑠璃寺に越えむ日は道のまはにに足あやまちそ)
歌意 奈良坂を越えて浄瑠璃寺に行くときは、路の滑りやすい赤土に足を取られて転ばないように気をつけたまえ。 第1首に続いて、教え子に赤土の粘土質の道に足を取られないようにとやさしい心を詠う。先年、浄瑠璃寺から奈良坂の般若寺と夕日地蔵へと移動したが、今は車を使うので「まはに」の中を歩くことは少なくなった。
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三日榛名湖畔にいたり旅館ふじやといふに投ず(第2首) なら の は は いま を はるび と わが たてる つか の あひだ も のび やま ざらむ (楢の葉は今を春日と我が立てる束の間も伸び止まざらむ)
歌意 楢の若葉は今こそ成長する春の日だとばかり、私が立っている間の僅かの時間にもどんどん伸びていくであろう。 草木が盛んに成長する晩春から初夏の山の風情を楢の若葉で表現する。
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十四日奈良帝室博物館にいたり富楼那の像を見て(第2首) ならやま の かぜ さむ からし みんなみ の べんしや が かた に うすき ころもで (奈良山の風寒からし南の弁者が肩に薄き衣手)
歌意 奈良の山々から吹き下ろす風は寒いことだろう、暖かい南の国からやってきた弁舌家富楼那の肩には薄い袖がかかっているだけなので。 釈迦の弟子・富楼那の写実的な彫像を見事に描写し、暖かい気持ちで詠う。 興福寺にある富楼那画像 植田重雄の“最後の奈良研究旅行”
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奈良の宿にて(第2首) ならやま の したは の くぬぎ いろ に いでて ふるへ の さと を おもひ ぞ わが する (奈良山の下端の櫟いろに出でてふるへの里を思ひぞ我する)
歌意 奈良の山のふもとの櫟(くぬぎ)が色づいてきた。それを見ていると古家のある故郷が思われる。 第1首「をじか なく ふるき みやこ の さむき よ を いへ は おもはず いにしへ おもふ」に続く歌であることから「ならやま の したは」は日吉館の近くの奈良公園あたりと解した方がわかりやすい。「したは」は下葉とも解釈できるが、「ならやまの下端=麓」とした方が情景が広がり、浮かんでくる故郷新潟への思いが深い。 八一の言葉は難しいものが沢山ある。言葉(大和言葉)を吟味し、そのためには1首に何年もの歳月をかけている。それゆえ、古希を超えた最晩年、難解な自らの歌の解説を「自註鹿鳴集」として著し、その3年後に76歳で世を去った。 しかし「註をつけると歌が面白くなくなる」とか「解説は簡潔をよしとする」などと言うようなことを書いているように、自註はそれほど詳しくはない。
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東京にかへりて後に ならやま を さかりし ひ より あさ に け に みてら みほとけ おもかげ に たつ (平城山を離りし日より朝に日にみ寺み仏面影に立つ)
平城山を越えて奈良を離れた日から、東京にいても、朝に昼に寺々や仏たちの姿が、ありありと目の前に浮かんでくる。 第1首「春日野にて」に始まる南京新唱はこの歌で完結する。全99首、奈良を寺や仏を中心にして詠った八一の処女歌集であり、また代表作である南京新唱の最後を飾るにふさわしい歌である。
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新潟にて「夕刊ニヒガタ」を創刊するとて(第2首)
にぎみたま めざめ ざらめ や ふるさと の ひろの に かよふ みづ の ひびき に (和御魂目覚めざらめや故郷の広野に通ふ水の響きに)
歌意 平和で柔和な魂が目覚めないはずがない、故郷新潟の広野に流れる清らかな水の響きに。 敗戦で荒廃した人の心を癒してくれるのは故郷の自然である。夕刊ニイガタの開設を祝い、新しい平和な時代の到来を確信して詠った。
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観音堂(第6首) には あれて はえ ひろごれる やまぶき の えだ さし しのぐ はぎ の はなぶさ (庭荒れて生え広ごれる山吹の枝さし凌ぐ萩の花房)
歌意 手入れしてない庭は荒れ放題で山吹が生え広がっている。その山吹の枝を押し分けて萩が伸び、花が咲いているのが見える。 第5首で詠った「高々と咲く花」をここでは具体的に山吹を凌ぐ萩の花と表現する。きい子死後、時は移りいつしか秋になった。7首に萩の花は白とある。荒れた庭の緑の草木に白い花を捉えて深い悲しみが静かな抒情歌となっている。
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東京なる旧廬の跡をたづねそのさまを人の報じこしたるを 読みて(第2首) にはぐさ の ひとむらみどり いちじるく やけたる つち に もゆ とふ もの を (庭草のひとむら緑いちじるく焼けたる土に萌ゆとふものを)
歌意 庭草のひとかたまりがもうはっきりとした緑色をして、焼けた土の中に芽を出しているということなのに。 焼け落ちた秋艸堂の草は焼け土の中でもう緑色に芽吹いている。生き物の生命力の逞しさに驚く。しかし、帰京を願う我が身は疎開した新潟にある。そんな気持ちが含まれているだろう。 ただ、この時(6月)、東京で厄介になろうとした知人宅が焼け、早大文学部の研究室も焼けていたと言う。さらに、きい子の病状(咽頭結核)が悪化、観音堂へ転居し彼女を看取ることになる。
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閑庭(第25首) にはなか の しば に しみ たつ はぎ の め を ゆり もて わたる はつなつ の かぜ (庭中の芝にしみ立つ萩の芽を揺りもてわたる初夏の風)
歌意 庭の芝生の中に生い茂っている萩の若芽を揺り動かして初夏の風が吹き渡っていく。 若々しい緑の萩の芽を揺り動かす初夏の風、何もかもが快い季節である。余談だが万葉集では萩が一番多く詠われている花である。
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丹呉氏の炉辺にて(第3首)
ぬばたまの くらき ゐろり に より ふして よま ざる ふみ の ここだ ひさし も (ぬばたまの暗き囲炉裏に寄り伏して読まざる書のここだ久しも)
歌意 薄暗い囲炉裏に臥せるように身をかがめて座り、読書をしなくなって何と長い時間が過ぎたことだ。 幼いころから読書にいそしみ、学者として活動してきた八一は罹災し疎開するに当って、坪内逍遥の書簡しか持たなかったという。書物も無い新潟の冬の薄暗い囲炉裏辺の悲しさが切々と伝わってくる。
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泰山木(第2首) ねそべりて もの かく あさ を かたはら に たいさんぼく の か に にほひ つつ (寝そべりてもの書く朝を傍らに泰山木の香に匂ひつつ)
歌意 寝そべって文章を書いている朝、かたわらの瓶に挿した泰山木の花が良い香りを放っている。 近所から蕾でもらった泰山木が一夜明けて花開いた。寝そべって仕事をする側で花が良い香りを放って咲いている。戦時ながら、静かな朝と平穏な八一の心が浮かんでくる。 八一の「寝そべる」は有名で、坪内逍遥の熱海の別邸・双柿舎でも、逍遥の前で寝そべることがあったという。 泰山木目次 寒燈集・泰山木(第2首) (2014・8・24) |
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十一月二十一日奈良より帰り來りその夜より病みふして立つ 能はざること五箇月に及べりそのいとまいとまに詠める歌(第3首) ねむり きて けふ を いくひ の あかつき を ゆめ の ごとく に かゆ くらひ をり (眠り来て今日を幾日の暁を夢のごとくに粥食らひをり) 歌意 ずっと眠り続けて来て何日目かわからない早朝に夢のような心地で粥を食べている。 やっと粥を食べられるほどに回復した。危うさから脱したその時を“夢のごとく”と表現した。
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観音堂(第5首) のきした に たちたる くさ の たかだかと はな さき いでぬ ひとり すめれば (軒下に立ちたる草の高々と花咲き出でぬ一人住めれば)
歌意 庭の手入れをしないので、軒下に伸び立った草が高々と花を咲かせ始めた。一人寂しく暮らしていると。 きい子の死後、一人で暮らす観音堂の周辺の季節は移っていく。雑草は伸び放題で、秋の花を咲かせている。人は変わり、悲しみは深まっていくのに、自然はお構いなしに季節通りに動いていく。そうであればあるほど、養女の死の悲しみと独居の八一の寂しさが増していくのだ。
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閑庭(第38首) のき の は に かかれる むべ の しげりは の おと も さやかに あきづき に けり (軒の端に掛かれるむべの繁り葉の音もさやかに秋づきにけり)
歌意 軒の端に掛かっているむべの木の繁っている葉の風にそよぐ音がはっきりと澄んで聞える。秋になったのだな。 風にそよぐむべの木の葉の澄んで快い音に秋の到来を感じる。秋艸堂と名付け、秋艸道人と号した八一の好む秋である。 注 むべのしげりは(自註鹿鳴集) 「むべ」は古名「うべ」、漢名野木瓜。あけび科の常緑藤本。庭園に栽植せらる。最も木通(あけび)に似たり。
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菩薩戒会(ぼさつかいえ)の唐招提寺にて(第2首) のき ひくき さか の みだう に ひと むれて
には の まさご に もるる ともしび (軒低き釈迦のみ堂に人群れて庭の真砂に洩るる灯火)
歌意 軒の低い釈迦を安置したお堂に戒会の人々が集まって、その洩れた灯火が寺の庭の真砂を照らしている。 動的な礼堂の戒会の情景を洩れる灯火に浮かぶ庭の真砂を対象として詠いあげる。それゆえに、巨大な唐招提寺全体の夜の静けさと暗さが浮かび上がる。
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奈良を去る時大泉生へ(第1首) のこり なく てら ゆき めぐれ かぜ ふきて ふるき みやこ は さむく あり とも (残りなく寺ゆき巡れ風吹きて古き都は寒くありとも)
歌意 私が奈良を去った後も全ての寺々をめぐり訪ねなさい。たとえ古都に木枯らしが吹いて寒くなろうとも。 八一は早大文学部の学生のみならず、多くの学生や教え子を連れて学習、研究のため何度も古都奈良を訪ねた。その教え子の一人に残した歌である。第2首とともに八一の奈良に対する思い入れが強く詠われる。私の思いとともに寺々を廻りなさいと言う中に、学問への真摯な姿勢と教え子たちへの深い愛情を感じることができる。
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奈良博物館即興(第4首) のち の よ の ひと の そへたる ころもで を かかげて たたす ぢこくてんわう (後の世の人の添へたる衣手をかかげて立たす持国天王)
歌意 後の世の人の補修で添えられた袖を身にまとって立っておられる持国天王であることよ。 作者は後世の拙い修理のため「衣袂(いべい)ますます重苦しげに見ゆる」と解説する。現代のような科学技術が発達していない時代では、修理・補修に不備が多い。学者(東洋美術史)としての観点がうかがえる。
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達磨大師をゑがきてその上に千古万古空しく相憶ふといふこころを
のち の よ を こぞりて ひと の しのぶ とも ふたたび あはむ われ なら なく に (後の世をこぞりて人の偲ぶとも再び会はむ我ならなくに)
歌意 後の世の人々がこぞって私を偲んでくれても、二度とふたたび会うことはないのだ。 達磨大師を描き、そこに“千古万古空しく相憶ふ”の心を歌として表現した。場所を離れ、時が立てば達磨も私も偲んでくれる人には会えないのだと言う。
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村荘雑事(第6首)
の の とり の には の をざさ に かよひ きて あさる あのと の かそけく も ある か (野の鳥の庭の小笹に通ひきてあさる足の音のかそけきもあるか)
歌意 野鳥たちが庭の笹の所にやってきて餌を漁っている、その足音のなんとかすかなことであろう。 坪内逍遥宅でもよく寝そべっていたと言う八一、きっと下落合秋艸堂の縁側で横になりながら消え入りそうなまでのかすかな鳥の足音を聞いていたのだろう。音もまた歌になるのである。
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汽車より善光寺をのぞみて(第2首) の の はて の てら の ともしび のぞみ きて みち は やまべ に いらむ と する も (野の果ての寺の灯火望み来て道は山辺に入らむとするも)
歌意 野のはるか彼方の善光寺の灯火を見ながら汽車は走ってきたが、その平野が終わって新潟への山路に入ろうとしている。 東京から新潟へは16時間の旅だった。若い八一は故郷へ向かいながらいろいろな事を思ったであろう。俳句、短歌、学業、いろいろなことが浮かんでは消えた。そして浮かび上がる善光寺の灯火、この情景が2首になった。
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閑庭(第15首) の の はて の ゆき の たかね に かがやきて かたむく ひかげ み つつ かなし も (野の果ての雪の高嶺に輝きて傾く日影見つつかなしも)
歌意 野の果ての雪を頂いている山の高嶺に輝いて傾いている入日を見ていると心が強く引かれることだ。 武蔵野から眺める富士の高嶺に赤く輝きながら落ちて行く夕日、その深い感動を表現する。
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笠置山にのぼりて のびやかに みち に より ふす この いは の ひと なら まし を われ をろがまむ (のびやかに道に寄り伏すこの岩の人ならましを我をろがまむ)
歌意 のびのびと道に横たわっているこの岩が、もし人であったなら私は拝もうと思う。 八一が1人で笠置山に登った時に、道にのんびりと横たわっている岩を見て詠んだ歌である。笠置山は、古くからの修験道場、信仰の山とされており、花崗岩から成る山中には奇岩や怪石が数多く神秘的なムードが漂う。そんな雰囲気が「をろがまん」を呼びだしたのであろう。
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十八日延暦寺の大講堂にて(第1首) のぼり きて しづかに むかふ たびびと に まなこ ひらかぬ てんだい の そし (登り来て静かに向かふ旅人に眼開かぬ天台の祖師)
比叡山に登ってきて、静かに御像に対面する旅人の私に、瞑目された御眼をお開きにならない天台宗の祖師、伝教大師・最澄さまであることよ。 この歌から伝教大師の穏やかで奥深い姿が伝わってくる。縁あって、関東を行脚する伝教大師の若い頃の像を彫った。布教の意思の強さがにじみ出るものだが、創作することにより伝教大師への思い、そしてこの八一の歌への理解が深くなる。
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桜桃(第6首)
のぼり ゐて わが はく たね の ひとつ づつ くさ に かくるる あうたう の えだ (登りゐて我が吐く種の一つづつ草に隠るる桜桃の枝)
歌意 桜桃の高い枝に登ってさくらんぼを摘んで食べ、種を吐き出すと下の草むらに隠れていくよ。 全く少年の様な八一である。敗戦、きい子の死から立ち直りつつある明るい姿である。既にこの時「夕刊ニイガタ」の社長就任が決まっていた。
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