会津八一に関するブログ 6
2011~12年

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春日野(八一と健吉の合同書画集) 2011・4・6(水)

 かけてあった薬師寺東塔の書画から久しぶりに若草山の書画に取り替えた。八一が初めて奈良を訪れた時の作だが、緑の若草山が眼に飛び込んでくるようだ。冬が終わり春が来ると自然に奈良に行きたくなる。まずは昨年、中宮寺に建立された八一の歌碑と半跏思惟像に会いに行きたい。

 東京にかへるとて      解説

  あをによし ならやま こえて さかる とも 
       ゆめ に し みえ こ わかくさ の やま

     (あをによし平城山越えて離るとも夢にし見えこ若草の山)

 中宮寺にて         解説

  みほとけ の あご と ひぢ とに あまでら の 
        あさ の ひかり の ともしきろ かも
 
     (み仏の顎と肘とに尼寺の朝の光のともしきろかも )



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中宮寺・歌碑 2011・4・8(金)

 奈良に会津八一の17基目の歌碑が建ったのは中宮寺門跡・日比野光尊さんの熱い願いだった。中宮寺は「奈良の古寺と仏像―會津八一のうたにのせて―」新潟展へ本尊の菩薩半跏像の出展を断っていたが、たび重なる災害に苦しむ新潟県民のためにと門跡が許可し、また門跡自身が新潟展開催中に新潟市、佐渡市、長岡市の講演など精力的に活動した。
 そんな中、門跡は半跏像と共に飾られた八一の歌の軸装に惚れ、所望されたそうだが、これは会津八一記念館所蔵の大切なものだからもちろん断られた。それなら、この歌の歌碑を中宮寺に建てたいと願ったことが建立につながった。沢山の人が賛同、寄付し7月8日建立の会発足会議から5カ月弱、11月29日には除幕式が行われた。この除幕式に出席できなかったことは残念なので、早めに中宮寺には出かけたいと思っている。

 中宮寺にて    解説

  みほとけ の あご と ひぢ とに あまでら の 
          あさ の ひかり の ともしきろ かも
 
      (み仏の顎と肘とに尼寺の朝の光のともしきろかも )



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救世観音  2011・4・16(土)

 法隆寺夢殿の秘仏救世観音像(飛鳥時代)は聖徳太子等身と伝えられている。明治17年 、この絶対秘仏を開扉させたのがアメリカ人・フェノロサである。
 「もしこれを見なば仏罰たちどころに至り地震たちまち全寺を毀(こぼ)つであろうと抗(あらが)う寺僧を説き伏せて開扉せしめた話は有名である」(吉野秀雄)
 巻かれていた白布を取り除いた東洋美術史家のフェノロサは言う。「飛散する塵埃(じんあい)に窒息する危険を冒しつつ、凡そ五百ヤードの木綿を取り除きたりと思ふとき、最終の包皮落下し、此の驚嘆すべき世界無二の彫像は忽ち吾人の眼前に現れたり」(有賀長雄訳)
 この秘仏が5月18日まで開帳されている。また、救世観音を詠んだ会津八一の歌碑が法隆寺近くの個人の家に建っている。夢殿を訪れこの歌碑に会いに行きたい。

 夢殿の救世観音に   解説

   あめつち に われ ひとり ゐて たつ ごとき
          この さびしさ を きみ は ほほゑむ

   (天地にわれ一人ゐて立つごときこの寂しさを君はほほゑむ)


  この歌碑は現在法隆寺に移転されている。



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救世観音2 2011・4・24(日)

 4月16日に書いた救世観音は聖観音と同じ意味だが、日本にだけある名前だ。「くぜかんのん」と会津八一は書いているが、「くせ」「ぐせ」「ぐぜ」どの呼び名でも良いようだ。
 喜多 上(文芸評論家)は開帳されている法隆寺夢殿の秘仏救世観音について、フェノロサや八一の言葉を引用して語っている。秋艸会報31号から以下に転載。
 “この像は正面から見ると気高くはないが、側面ではギリシャ初期(アルカイック)の美術の高みに達していよう。(中略)しかし、最高に美しい形は横顔の見えにある。鼻は漢人のように高く、額は真直ぐで聡明である。唇は黒人に似てやや分厚く、静かで神秘的な微笑みが漂う(フェノロサ) 動の正面より静の側面を評価し、横顔の神秘の微笑みを絶賛しています。・・・この側面への着目が以後の仏像の見方を変えたといっても過言ではありません。・・・八一もフェノロサの先駆的な仕事を評価し、こう続けています。 “昔の日本人は仏教に対する信仰から、真正面より仏像を礼拝して其有難さも美しさも同時に感じたらしい。然し吾々としてはそれ程の信仰は無いから、側面から見て此像が何程美しくあり得るかを、今一度見なほす余地があるかも知れぬ” (卓話 會津八一の今日 喜多 上 12月21日 新潟・瑞光寺) 



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法隆寺再建論争 2011・5・9(月)

 法隆寺は飛鳥時代の姿を現在に伝える、聖徳太子ゆかりの世界最古の木造建築寺院である。創建は推古天皇15年(607年)とされ、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されているが、現存する法隆寺が焼失後再建されたという再建論者と建築様式の分析から(伝承どおり)創建のままであるとする人たちとの間で激しい論争が明治時代より行われてきた。会津八一は文献と実物(瓦など)の検証を唱えながら再建説をとり、独自の説を展開した。今では、聖徳太子当時のものであると考えられる前身伽藍・若草伽藍が1939年に発掘され、再建説が主流になっている。
 現在では木材の科学的な分析等により、607年創建ではなく7世紀後半が定説になっており、またスーパーヒーローと言える聖徳太子は当時の厩戸皇子のことで、太子の名は後の人が創作したことは定説化されている。
 近々、寺を訪れる予定だが遠い昔のことを想いながら歩いてみたい。


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原家の歌碑 2011・5・13(金)

 夢殿の救世観音を詠んだ会津八一の歌碑は原家の庭に立っている。仲間たちと今日訪れ、やっと見る事が出来た。(生駒郡斑鳩町法隆寺北1丁目10番)

  夢殿の救世観音に   解説

   あめつち に われ ひとり ゐて たつ ごとき
         この さびしさ を きみ は ほほゑむ   


 歌碑の裏にはこう記されている。

      昭和五十四年五月十六日
                玉泉  原  與司明
                        光  子      建立
          撰 并 書        宮川 寅雄
          刻   工         太田 重喜
          用   石         神鍋山麓萬劫石

 歌碑の詳細が分からなかったが、今回知り得たことを表記しておく。

  この原家の歌碑は法隆寺に移転された。(2014・11・7)
   夢殿の近くに建立されている。


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夢殿と救世観音 2011・5・15(日)

 会津八一の歌碑を見て夢殿に入る。夢殿は厩戸皇子(聖徳太子)を偲んで天平11年(739)に建てられた。中央に聖徳太子等身と伝えられる秘仏救世観音像が安置されている。
 修学旅行生の途切れる事のない列に押されてじっくりと見る事ができなかったのが残念だが、飛鳥仏としての特徴的な正面鑑賞用の仏と言える姿を脳裏に焼き付けた。金堂の釈迦三尊像(飛鳥仏)と共にアルカイックスマイルの面長の顔は特徴的である。その後見た白鳳仏である夢違観音との違いは大きい。夢違など白鳳仏は二面的=立体的で、かつそのおもざしが青年を想わせるリアルなものになっている。
 恩師・植田先生は著書でこう言う。「道人(八一)にとって伝説の救世観音が聖徳太子と等身であり、太子は観音の化身だった。小主観、小自在を拒絶して、完璧な澄みきった一首が生まれるためには、絶対者としてのみほとけと人間との出会いにすべてが賭けられているのであろう」大正時代、閑散とした法隆寺で救世観音に対峙した八一の心境には遠く及ばない。 


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中宮寺・歌碑2 2011・5・19(木)

 昨年11月29日建立の歌碑、その実現までの門跡・日比野光尊さんの活躍は4月8日に書いた。5月13日、友人達と一緒に中宮寺に出かけた。訪れるたびに新たな感動を呼び起こしてくれる本尊・木造菩薩半跏像を前に本堂でゆっくりした時間を過ごした。

 中宮寺にて   解説

  みほとけ の あご と ひぢ とに あまでら の 
          あさ の ひかり の ともしきろ かも


 この仏と共に八一の歌碑があることが嬉しい。


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中宮寺・歌碑3 2011・5・21(土)

 会津八一はこの寺で「み仏の顎と肘のあたりにこの尼寺のかすかな朝の光が射し、なつかしく心ひかれることだ」という意味の歌を詠んだ。この歌はひっそりとした尼寺の淡い朝の光の中にある漆塗りのような黒い半跏思惟像が対象だが、現在の本堂では歌の良さが失われている。なぜなら、幾多の苦難の道(何度かの火事や移転等)を歩んだ中宮寺の本堂は1968年建立の耐火建造物で、歌の中の尼寺とは大きく違っている。その上、本堂から我々が想像するのは如来像なのに、如意輪観音あるいは弥勒菩薩と言われる仏が置かれていることにも違和感は否めない。本尊の脇侍であったであろうこの像には小さくて静寂なお堂が似合う。
 そうではあるが、この像に対座して八一の歌を味わうときは目を閉ざし、100年ほど前の尼寺を想ってみると良い。だれもが歌の素晴らしさと半跏思惟像の魅力に捕らわれてしまう。
 『この姿態柔婉な像が尼寺の尼達に護られかしづかれてゐることはいかにもふさわしいが、してみると、「あまでらの」という句も、尼寺だから尼寺といったといふ以上の趣致を一首に添えてゐることに気附く』   (吉野秀雄  鹿鳴集歌解)


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百済観音  2011・5・27(金)

 中宮寺から法隆寺大宝蔵院・百済観音堂に行く。会津八一は百済観音を詠んだ。

  奈良博物館にて(第2首)   解説

   くわんおん の せ に そふ あし の ひともと の 
          あさき みどり に はる たつ らし も
  

  奈良博物館にて(第3首)   解説

   ほほゑみて うつつごころ に あり たたす 
           くだらぼとけ に しく ものぞ なき


 いつ見ても細身の八頭身に驚き“これが八頭身なのだ!”と内心で叫んでしまう。そして、今にも落としそうな風情で水瓶を持つ左手に視線が行く。
 観音の光背を支える葦のほとんど見えない緑に春を感じ取った八一の感受性の深さに脱帽する。そして、うつつとも夢ともなき心地で立っておられると詠んだ第二首は観音礼賛の極致と言える。素晴らしい像と歌、良い時間を仲間達と過ごすことができた。


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夢違観音  2011・5・29(日)

 法隆寺大宝蔵院では真っ先に白鳳仏の代表・夢違観音が迎えてくれた。端正で若々しい顔立ちと立体的な姿は前時代の平板的な飛鳥仏(金堂の釈迦三尊像や夢殿の救世観音)とは大きく違う。飛鳥時代は大化の改新を経て白鳳時代になるが、この仏たちの変貌の経緯は興味ある所だ。以前に彫った香薬師像も白鳳仏、青年のような顔は夢違観音に似通っている。
 夢違はかって「ゆめたがい、ゆめたがえ」だったが、今は「ゆめちがい」と呼ばれる。法隆寺が「ゆめちがい」と言い始めてかららしいが、なぜ呼び名が変わったのかも興味あるところだ。


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富本憲吉記念館 2011・6・4(土)

 奈良に会津八一の歌碑を訪ねた日、最後に富本憲吉記念館に立ち寄り、静かなたたずまいの展示室で係の人の親切な解説を聞いた。代表作は「色絵金彩羊歯文(しだもん)大飾壺」。ネット上に奈良県の作った映像「近代陶芸の巨匠 富本憲吉」(5分間)あり。
 後日、友人・鹿鳴人から八一の鹿鳴集に富本憲吉を詠った歌があると教えられたので、早速八一ページに解説を加えた。

  大和安堵村なる富本憲吉の工房に立ちよりて   解説

   いかるが の わさだ の くろ に かりほ して
          はに ねらす らむ ながき ながよ を
 

  この記念館は平成24年5月31日に閉館した。 


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法隆寺の歌 2011・6・11(土)

 会津八一の法隆寺の歌は19首ある。残っていた3首(17,18,19)の解説をし、一覧にまとめた。19首目で“み仏たちが私を待っている”と断定的に詠む。平易な歌だが“私も恋焦がれるが相手(み仏たち)も私を待っているのだ”と言い切れる所に八一の心情の深さを垣間見る事が出来る。

 十五日二三子を伴ひて観仏の旅に東京を出づ  解説

    やまと には かの いかるが の おほてら に 
          みほとけ たち の まちて いまさむ

      (大和にはかの斑鳩の大寺にみ仏たちの待ちていまさむ)



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夢殿の書画 2011・6・17(金)

 杉本健吉と会津八一の書画集・春日野から夢殿の作品を壁にかけた。先日、夢殿を訪れた時のことが鮮明に浮かんでくる。

 法隆寺東院にて    解説

   ゆめどの は しづか なる かな ものもひ に
           こもりて いま も まします が ごと    




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歌の数 2011・6・23(木)

 プロの歌人は生涯数千から数万首の歌を詠む。当然だが駄作も沢山あるだろう。会津八一は886首しか詠んでいない。調べを大事にし、推敲を繰り返したので長い年月をかけて作ったものが多い。友人から問い合わせがあったので、整理してページを作った。

     会津八一 歌の数


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 聖林寺にて(八一) 2011・7・8(金)  解説

   あめ そそぐ やま の みてら に ゆくりなく
           あひ たてまつる やましな の みこ

 
 参照 桜井の聖林寺へ(鹿鳴人のつぶやき)



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大安寺をいでて薬師寺をのぞむ(八一) 2011・7・16(土) 解説

  しぐれ ふる のずゑ の むら の このま より 
          み いでて うれし やくしじ の たふ  


 参照  雨の大安寺へ   鹿鳴人のつぶやき


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薬師寺東塔(八一) 2011・7・22(金)    解説

 すゐえん の あま つ をとめ が ころもで の 
       ひま にも すめる あき の そら かな


 参照 奈良ソムリエのバスガイドUさんと薬師寺
                     鹿鳴人のつぶやき 


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東大寺にて(八一) 2011・8・7(日)  解説

 おほらかに もろて の ゆび を ひらかせて
       おほき ほとけ は あまたらしたり    


 参照 東大寺法華堂、二月堂へ  鹿鳴人のつぶやき


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書 八一と魯山人 2011・8・9(火)

 八一は魯山人の書を「縁日芸人が、見学の鼻先で剣舞するが如し」(『魯山人の作品評』)と評し、魯山人は「あんなヘナヘナのもの、字じゃないよ」と八一の書に反発しあっていました。ーーー秋艸会報 第32号より


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戦時の歌(八一) 2011・8・15(月)

 芝草(第6首)    解説

 くりやべ は こよひ も ともし ひとつ なる
        りんご を さきて きみ と わかれむ   


(我家の台所は今夜も乏しい。せめて一つだけあるりんごを分けて、きみと別れよう)

『(昭和十八年)十月二十四日、秋艸堂の垣根の芝を刈っていると、若き士官が訪ねてきた。去年早稲田を卒業し、海軍航空隊にはいった長島勝彬という青年である。ラバウル戦域への赴任に際し、訣別に来たのである。その夜、道人は眠りをなしがたく、「芝草六首」を詠じた。
        ー秋艸道人・会津八一の生涯(植田重雄著)よりー



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学徒出陣と出征1 2011・8・17(水)

 (昭和十八年秋)早稲田大学では六千名の学生たちのために、まず壮行会が安部球場でひらかれた。「祝学徒出陣壮行会」ののぼりがひるがえっていた。これは道人の大書したものである。壮行会がおわったあと、文学部長の日高只一は文学部玄関に学生をあつめて挨拶をした。それはまことに変わった一場の挨拶だった。「わたしは英文学の研究家で、戦争のことはよく分からない。しかし、一介の素人としての感想をのべたい。かってわたしはアメリカに留学し、フォードの自動車工場、ゼネラルモータースの工場を見学したことがある。厖大な規模その生産力は霞んでいるように広い工場内でたちまち組み立てられ、出口にはもう走るくるまとなって出てくるのである。そのような生産力と技術をもつ国と日本は戦っている。とても勝目のない戦さである。戦場に赴かねばならぬ君達が可哀想でならぬ。どうか、身体を大切にしてくれ」とハンケチで目頭を拭いて途切れとぎれに語った。
          ー秋艸道人・会津八一の生涯(植田重雄著)よりー


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学徒出陣と出征2 2011・8・18(木)

 (「・・・文学部長の日高只一は・・・戦場に赴かねばならぬ君達が可哀想でならぬ。どうか、身体を大切にしてくれ」とハンケチで目頭を拭いて途切れとぎれに語った)学生たちはよくも分らず戸惑う者もいたし、その言葉を噛みしめる者もいた。
 やがて、都下各大学の出陣学徒は明治神宮外苑の球場に集合して、雨の降る中を泥濘を踏みちらして行進し、国の危急に赴くことになった。
 もとより、生還を期すことなき青年たちの中には、多くの悩みをもちながら戦死したものもいた。戦後編纂された戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』『雲流るる涯に』などは、これらの還らざる青年ののこした魂の記録である。
            ー秋艸道人・会津八一の生涯(植田重雄著)よりー

 植田先生も出陣学徒として会津八一教授と最後の奈良旅行で別れをした1人である。
               (会津八一の学藝・補遺二 植田重雄著 参照)

 紅日 (新に召に応ずる人に 第3首)  八一  解説

  いくとせ の いのち まさきく この かど で
        きみ を し またむ われ おいぬ とも   

 
(何年ものこの戦争で、死ぬことなく無事還ってくる君をこの門で待っていよう。たとえ、私が老いてしまっていても)


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盧舎那仏(るしゃなぶつ) 2011・8・28(日)

 東大寺の大仏は盧舎那仏、正式には毘盧舎那如来(びるしゃなにょらい)という仏だが、密教では大日如来を言う。どんな仏と問われても答えが難しいが、全ての世界、宇宙全体を表す仏と思っている。だから、全ての仏を統合していると言えるかもしれない。
 その仏を詠った会津八一の歌と杉本健吉の書画を壁にかけた。

  東大寺にて(第1首)  解説

   おほらかに もろて の ゆび を ひらかせて
           おほき ほとけ は あまたらしたり





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斉藤茂吉 2011・9・13(火)
 
 会津八一は若き日に正岡子規に会い、60代(1945年)になってから斉藤茂吉と酒を酌み交わしている。八一の処女歌集・南京新唱(1924年)がほとんど評価されない時代に、その歌を高く評価したのが茂吉である。
 茂吉は子規の「有(あり)の儘(まま)に写す(写生)」を学んだが、自身の特異な感覚や心理がにじみ出た初期の代表作「赤光」(24~32歳)を発表、「短歌は直ちに『生(いき)のあらわれ』でなければならぬ。従ってまことの短歌は自己さながらのものでなければならぬ」と語った。

  めん鶏(どり)ら砂あび居(ゐ)たれひっそりと
          剃刀研人(かみそりとぎ)は過ぎ行きにけり

  のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて
          足乳根(たらちね)の母は死にたまふなり


 1920年(39歳)「短歌における写生の説」で「実相に観入して自然、自己一元の生を写す。これが短歌上の写生である」と説く。写生とは自然と自己の同一化であり、万物(自然)の命を感受し表現することであるとした。

  最上川逆白波(さかしらなみ)のたつまでに
          ふぶくゆふべとなりにけるかも


 上記は斉藤茂吉歌集(岩波文庫)読後の覚書だが、茂吉が戦争時代及び終戦時にどう詠んだのか、あるいは今の素空と同年代にどう詠んだのか、などにも興味を持って読んだ。



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伝教大師の歌 2011・10・2(日)

 十八日延暦寺の大講堂にて(第1首)  解説 

  のぼり きて しづかに むかふ たびびと に
         まなこ ひらかぬ てんだい の そし

       (登り来て静かに向かふ旅人に眼開かぬ天台の祖師)

 若き日の伝教大師・最澄を彫った。


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魯山人展 2011・10・3(月)

 パラミタミュージアムで北大路魯山人展(~11・28)が始まった。知ってはいたが彼の作品を見るのは初めてだった。吉兆庵美術館の収蔵品から書画・陶芸・漆芸などの優品80余点が並び、魯山人の「人を感動に導く料理は立派な芸術。器は料理の着物である」に基づいて、器に料理が盛ってあるものもある。書は一点だけ惹かれるものがあったが、多岐にわたる陶芸は迫力があり、展示作品だけからでも精力的で多芸なのが良くわかる。しかし、気にいったものは数点だった。
 彼は会津八一と同時代を生き、互いに書に秀でたが交流は無かった。また、互いを認めることも無かった。
 新潟会津八一記念館では現在「會津八一VS北大路魯山人 ~傲岸不遜の芸術家~ 」(~11・16)を開催している。見てみたいが新潟までは遠すぎる。この表題「傲慢不遜の芸術家」は2人を良くとらえていると思う。ともに激しい毀誉褒貶にあってきた。魯山人の評価はもう少し見てみないと自分にはできない。
 以下は「千夜千冊」(松岡正剛)からの転載である。
 「・・・魯山人が、あたるところかまわずに、世の芸術品をなぎ倒していった。とくに陶芸・書芸・料理についてはうるさかった。それも魯山人がたんに批評家であるなら、それもありうることなのであるが、魯山人はまるで自分のつくるものが最高で、他のものはくだらないという立場を強固に押し出したようなところがあった・・・



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伝教大師の歌・2 2011・10・27(木)

 十八日延暦寺の大講堂にて(第2首)  解説

   やまでら の よ を さむみ か も しろたへ の
           わたかづき せる そし の おんざう   

     (山寺の夜を寒みかも白妙の綿かづきせる祖師の御像)

 「わたかづきせる」とは綿の帽子をかぶっていること。比叡山は標高843.3m、とても寒かっただろう。


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観音堂・第8首(八一) 2011・11・10(木)  解説

 ひそみ きて た が うつ かね ぞ さよ ふけて  
         ほとけ も ゆめ に いり たまふ ころ   

  (ひそみきて誰が打つ鐘ぞさ夜更けて仏も夢に入り給ふころ)

 昭和20年7月10日、東京から八一とともに新潟に疎開した養女・きい子(開放性結核)が亡くなる。その時詠んだ山鳩21首観音堂10首柴売6首は涙なしには読むことのできない八一の名歌である。



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比叡山第3首(八一) 2011・11・19(土) 
  
 根本中堂の前に二株の叢竹あり 開山大師が唐の台岳より移し植うるところといふ(第1首)        解説

  あき の ひ は みだう の には に さし たらし 
            せきらんかん の たけ みどり なり   

       (秋の日は御堂の庭にさしたらし石欄杆の竹緑なり)

 石欄杆。石で造られた柵で比叡山には一対の石の欄干があり、その中に竹が植えられていると詠んでいるが、訪れた当時外からそれらしきものを写真に撮った。


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比叡山第4首(八一) 2011・11・21(月)

 根本中堂の前に二株の叢竹あり 開山大師が唐の台岳より移し植うるところといふ(第2首)   解説

  ふたむら の この たかむら を みる なべに 
         たう の みてら を おぼし いで けむ    

    (二むらのこの竹群を見るなべに唐の御寺をおぼしいでけむ)
 
 この寺は最澄が教えを受けた天台山国清寺、中国浙江省の天台山にある仏教寺院。天台宗の中心的な寺で、円珍、円載、重源、栄西らが訪れている。


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比叡山第5首(八一) 2011・11・23(水)

 山中にて(第1首)   解説

   あのくたら みほとけ たち の まもらせる 
      そま の みてら は あれ に ける かも     

  (阿耨多羅御仏たちの守らせる杣の御寺は荒れにけるかも)

 語句が難しい。「あのくたら」は無上の正しい悟り(を持つ)、「そま」は木の杣だが最澄の歌(新古今集)から比叡山をさしている。


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比叡山第6首(八一) 2011・11・25(金)

 山中にて(第2首)    解説

  さいちょう の たちたる そま よ まさかど の 
          ふみたる いは よ こころ どよめく   

      (最澄の立ちたる杣よ将門の踏みたる岩よ心どよめく)

  将門の伝説
 将門、藤原純友と相携えて比叡山に登り、王城を俯瞰して、壮んなるかな、大丈夫此に宅(を)るべからざるかと叫んで反を謀り、純友に向かって、他日志を得なば我は王族、まさに天子となり、公は藤原氏、能くわが関白になれと謂ったといふ伝説がある。(吉野秀雄・鹿鳴集歌解より)


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比叡山第7首(八一) 2011・11・29(火)

 山中にて(第3首)   解説

 かの みね の いはほ を ふみて をのこ やも 
         かく こそ あれ と をたけび に けむ     

   (かの峰の巌を踏みて男やもかくこそあれと雄叫びにけむ)

 「をのこ やも かく こそ あれ」とは「男たるものこうでなければいけない(天下を取る)」と叫んだ平将門の言葉。(将門の伝説)


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比叡山第8首(八一) 2011・12・1(木)

 下山の途中に(第1首)    解説

  くだり ゆく たに の さぎり と まがふ まで 
         まつ の こずゑ に しろき みづうみ    

    (下りゆく谷のさ霧とまがふまで松の梢に白き湖)

 伝教大師像作りと八一の歌に導かれて比叡山に出かけたのは去年の9月、帰路、比叡山ロープウェイの所々で車を止めて、琵琶湖を眺めた。


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比叡山第9首(八一) 2011・12・5(月)

 下山の途中に(第2首)     解説

  あきやま の みち に すがりて しのだけ の
          うぐひすぶゑ を しふる こら かも    

      (秋山の道にすがりて篠竹の鶯笛を強ふる子らかも)

 この歌は昭和13年に詠まれた。物を売る子供の姿を戦後生まれの素空はほとんど見たことがない。「うぐひすぶゑ(鶯笛)」は青竹の管でつくった笛で、指で管の両端を押さえ、その指の頭で風口の開き加減を調節しながら吹いて、ウグイスの鳴き声に似た音色を出す。古くからあった笛で、最初はウグイスの鳴き合わせの訓練用だったが、のちに子供用の玩具として売られた。


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比叡山第10首(八一) 2011・12・7(水)

 これよりさき奈良の諸刹をめぐる(第1首)    解説

  ゆく として けごん さんろん ほつそう の 
       あめ の いとま を せうだい に いる    

  (行くとして華厳三論法相の雨のいとまを招提に入る)

 八一は学生を連れて奈良をたびたび巡った。この時は京都の比叡山に登る前に奈良にある寺々を訪れたが、雨の合間に唐招提寺に入ったと詠う。


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比叡山第11首(八一) 2011・12・10(土)

 これよりさき奈良の諸刹をめぐる(第2首)    解説

  いかで かく ふり つぐ あめ ぞ わが ともがら 
         わせだ の こら の もの いはぬ まで    


 (いかでかく降り継ぐ雨ぞわがともがら早稲田の子らのもの言わぬまで)


 学生たちとの奈良旅行は次を参照   
   古都宿帳―早稲田大学奈良研修旅行―

 また、最後の奈良旅行は次を参照   
   最後の奈良見学旅行


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比叡山12首(会津八一) 2011・12・13(火)

 昭和13年、会津八一は新設の早大文学部芸術学専攻科の主任教授になり、同年10月、専攻科の学生を引率して奈良と京都・比叡山の見学旅行を行う。その時の作品が鹿鳴集にある比叡山12首である。
 前年、盧溝橋事件を契機に日中戦争が始まり、言論や研究の自由を圧迫する暗い時代へと向かっていた。東大の矢内原忠雄や早大の津田左右吉辞職などが起こっている。

  これよりさき奈良の諸刹をめぐる(第2首)    解説

   いかで かく ふり つぐ あめ ぞ わが ともがら 
           わせだ の こら の もの いはぬ まで 


 恩師・故植田教授は「戦況の見通しは暗く、泥濘を歩むような様相を呈していった」とこの第2首に時代の影響を敏感に感じ取っている。
 全12首に時代性や政治性を読み取ることは難しいが、そんな時代に八一は「学問は新しい資料や事実があらわれれば、今までの説や研究は時代おくれとなる。しかし、藝術はその人のものであるから、新旧はない」と短歌や書に力を発揮して行く。
 比叡山12首が飛びぬけて秀でた歌とは思わないが、時代と八一の心意気をもとに鑑賞すれば一つの世界が開けてくる。
 素空にとって比叡山の歌は、自身における伝教大師像完結のためのものでもあった。以下の12首目をもって比叡山12首の解説を終わる。

  法隆寺福生院に雨やどりして大川逞一にあふ    解説

   そうばう の くらき に のみ を うちならし 
          じおんだいし を きざむ ひと かな    

    (僧坊の暗きに鑿をうち鳴らし慈恩大師を刻む人かな)  


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南京余唱(なんきょうよしょう) 2011・12・18(日)

 南京余唱 大正十四年の作。前半二十七首は同年三月に、後半十五首は同年十一月に詠まれた。「新唱」に対する余唱である。(鹿鳴集歌解・吉野秀雄より) 
 全42首、新たに八一の歌の解説を始めた。

 吉野北六田の茶店にて      解説 
 
  みよしの の むだ の かはべ の あゆすし の 
         しほ くちひびく はる の さむき に 
   
    (み吉野の六田の川辺の鮎鮨の塩口ひびく春の寒きに)

 八一45歳、1925年(大正14年)3月、春に奈良を訪れて詠んだ第1首である。この年、早稲田中学教員を辞し、早稲田大学付属高等学院教授となる。
 中国大陸の石仏調査するためとこの頃乗馬の練習をしていたので、乗馬服姿で奈良を訪れたと言う。


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南京余唱第2首(八一) 2011・12・22(木)

 吉野塔尾御陵にて     解説  

  すめろぎ の こころ かなし も ここ にして 
        みはるかす べき のべ も あら なく に
  
 (すめろぎの心かなしもここにして見晴るかすべき野辺もあらなくに)


 塔尾御陵(とうのおのみささぎ)前で詠んだ。後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇で、南朝の初代天皇。



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南京余唱第3首(八一) 2011・12・26(月)

 吉野の山中にやどる(第1首)   解説

  はる さむき やま の はしゐ の さむしろ に 
         むかひ の みね の かげ のより くる    

     (春寒き山の端居のさ莚に向かひの峰の影のよりくる)

 吉野の山の宿に滞在して4首詠う。春とは言えまだ山中は寒い。夕陽と共に動く山影が近寄ってくる情景は寂しい。山の早春の夕べが静かに詠われる。


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南京余唱第4首(八一) 2011・12・30(金)

 吉野の山中にやどる(第2首)     解説 

  みよしの の やままつがえ の ひとは おちず 
        またま に ぬく と あめ は ふる らし    

  (み吉野の山松が枝の一葉落ちずま玉に貫くと雨は降るらし)

 「降る雨がすべての松の葉に雨の滴を玉(珠)として貫き留めようとしている」と言うことだが、用語その他が難しい。 



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南京余唱第5首(八一) 2012・1・5(木)

 吉野の山中にやどる(第3首)    解説

  あまごもる やど の ひさし に ひとり きて
         てまり つく こ の こゑ の さやけさ   

   (雨ごもる宿の廂に一人来て手毬つく子の声のさやけさ)

 故植田重雄先生はこう書いている。
 「早春の雨に降りこめられ、宿屋の廂(ひさし)に、所在なげに手まりをつく少女の声に、山の深い静寂を聴いている。・・・透徹したこの感覚性が、一首で一つの世界を完結させている」



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南京余唱第6首(八一) 2012・1・13(金)

 吉野の山中にやどる(第4首)   解説

  ふるみや の まだしき はな の したくさ の 
      をばな が うれ に あめ ふり やまず      

   (古宮のまだしき花の下草の尾花がうれに雨降りやまず)

 吉野の山中で生涯を終えた後醍醐天皇の悲哀、その宮址で南北朝の昔をあわれむ八一の心が、まだ咲かない桜、残っているススキに降り続く早春の冷たい雨であらわされている。



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南京余唱第7首(八一)2012・1・14(土) 

 香具山にのぼりて(第1首)    解説

  はにやま と ひと は なげく を ふみ さくむ 
        わが うげぐつ に かみ は さやらず

  (はにやまと人は嘆くを踏みさくむ我がうげぐつに神はさやらず)

 大正15年、八一は香具山に登って5首詠う。畝傍山、耳成山とともに大和三山と呼ばれた香具山は「春過ぎて夏来るらし~」(持統天皇)など古来からいろいろと詠われている。


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南京余唱第8首(八一) 2012・1・19(木)

 香具山にのぼりて(第2首)   解説

  かぐやま の かみ の ひもろぎ いつしかに
      まつ の はやし と あれ に けむ かも
    
  (香具山の神の神籬いつしかに松の林と荒れにけむかも)

 ひもろぎ(神籬)とは、神事で神霊を招き降ろすために、清浄な場所に榊(さかき)などの常緑樹を立て、周りを囲って神座としたもの。その神座も無くなって荒れている香久山を悲しんで詠んだ。


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南京余唱第9首(八一) 2012・1・23(月)

 香具山にのぼりて(第3首)    解説   

  かぐやま の こまつ かり ふせ むぎ まく と
        をの うつ ひと の あせ の かがやき 

    (香具山の小松刈り伏せ麦蒔くと斧打つ人の汗の輝き)

 古代への憧憬が強くその研究に励む八一だが、ここでは現実の姿をありのままに詠っている。
 香具山と言うと万葉集第1巻13の中大兄皇子の大和三山の歌を思い出す。幼い頃によくその話を母に聞かされた。万葉仮名の読みようによって解釈が変わるが、大和三山の恋争いの歌として以下に書いておく。
 香具山は 畝火を愛(を)しと 耳梨と 相あらそひき 神代より 斯(か)くにあるらし 古昔(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)を あらそふらしき
 (香具山は、畝火山を愛して耳梨山と争った、神代からそうであったらしい、昔からそうであったのだから、今の世においても人々は妻を争うのだろう)


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南京余唱第10首(八一) 2012・1・28(土)

 香具山にのぼりて(第4首)   解説

   はる の の の こと しげみ か も やまかげ の 
          くは の もとどり とかず へ に つつ  
  
   (春の野のこと繁みかも山影の桑のもとどり解かず経につつ)

 「くはのもとどり(桑の髻)」を八一は自註鹿鳴集ではこう書く。“桑の枝を束ねたるを、人の頭髪の髻(もとどり)に比して戯にかく詠みたるなり


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南京余唱第11首(八一) 2012・2・1(水)

 香具山にのぼりて(第5首)   解説
 
  いにしへ を ともらひ かねて いき の を に 
          わが もふ こころ そら に ただよふ     

     (古をともらひかねて息の緒に我が思ふ心空に漂ふ)

 湧き上がってきた八一の古代への憧憬がほとばしり出て、それを抑えきれずに心が空に漂うと言う。この歌で香具山5首を終わる。



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南京余唱第12首(八一) 2012・2・6(月)

 畝傍山をのぞみて       解説
 
  ちはやぶる うねびかみやま あかあかと
     つち の はだ みゆ まつ の このま に 
   
 (ちはやぶる畝傍神山あかあかと土の膚見ゆ松の木の間に)
 
 大和三山の一つで畝傍とは「火がうねる」の意味、古代人がこの山を火山と認識していたと思われる。また、田の畝のようにくねくねした尾根を多く持つことから名付けられたともいわれる。標高199M、付近に天皇や古代豪族の陵墓が多い。天香久山、耳成山とともに大和三山と呼ばれ、2005年(平成17年)に他の二山とともに国の名勝に指定された。
 八一はその山肌の露出した風景を古代への思いを背景に詠った。



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南京余唱第13首(八一) 2012・2・10(金)

 山田寺の址にて(第1首)       解説

  くさ ふめば くさ に かくるる いしずゑ の 
        くつ の はくしゃ に ひびく さびしさ      

     (草ふめば草に隠るる礎の靴の拍車にひびく悲しさ)

 山田寺跡(明日香)を友人たちと訪ねたのは2003年10月7日だった。上野誠奈良大学教授にいろいろ解説していただいたことが懐かしい。


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南京余唱第14首(八一)  2012・2・17(金)

 山田寺の址にて(第2首)    解説

  やまでら の さむき くりや の ともしび に 
        ゆげたち しらむ いも の かゆ かな
    
      (山寺の寒き厨の灯火に湯気たち白む芋の粥かな)

 山田寺跡に小さな寺がある。貧しくともそこで仏法を守ってきた僧たちの姿を描写する。そこには山田寺及びその後の古代からの長い歴史への八一の思いが秘められている。


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南京余唱第15首(八一)  2012・2・22(水)

聖林寺にて      解説

 あめ そそぐ やま の みてら に ゆくりなく
        あひ たてまつる やましな の みこ     

 (雨そそぐ山のみ寺にゆくりなく会ひたてまつる山階の皇子)

 高貴な身分の方に偶然あった感動を素直に詠んだ。
 聖林寺は国宝・十一面観音で有名、「最後の奈良見学旅行5」(植田重雄著)で八一はこの観音の見方を生徒たちに語っている。 


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南京余唱第16首 2012・2・27(月)

 豊浦にて        解説

  ちよろづ の かみ の いむ とふ おほてら を 
       おして たて けむ この むら の へ に
   
  (ちよろづの神の忌むとふ大寺をおして建てけむこの村の辺に)

 仏教が伝来し、わが国最初の寺「おほてら」は豊浦寺だった。蘇我氏と物部氏の対立、仏教と神教の対立は最終的に物部氏の滅亡につながった。そうしたことを背景においてこの歌は詠まれている。


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南京余唱第17首(八一) 2012・2・29(水) 

 奈良博物館即興(第1首)     解説
 
 たなごごろ うたた つめたき ガラスど の 
      くだらぼとけ に たち つくす かな       

(たなごごろうたた冷たきガラス戸の百済仏に立ちつくすかな)

 百済観音はこの時は奈良博物館のガラス張りのケースに入っていた。現在は法隆寺百済観音堂に安置されている。
 像の高さ2.09m、八頭身の長身にスリムな美しいプロポーションのこの仏を法隆寺に出かけて鑑賞するといい。



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南京余唱第18首(八一) 2012・3・4(日)

 奈良博物館即興(第2首)    解説
 
 あせたる を ひと は よし とふ びんばくわ の
         ほとけ の くち は もゆ べき ものを     

  (褪せたるを人は良しとふ頻婆果の仏の口は燃ゆべきものを)

 仏像は色褪せたものが良いと人々は言うが、仏像の唇は真っ赤に燃えているべきだと詠う。



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南京余唱第19首(八一) 2012・3・8(木)

 奈良博物館即興(第3首)     解説 

  ガラスど に ならぶ 四はう の みほとけ の 
       ひざ に たぐひて わが かげ は ゆく    

    (ガラス戸に並ぶ四方のみ仏の膝にたぐひて我が影はゆく)

 仏像を眺めながら歩いていくと仏像の膝にあたっている自らの影が動いていくと詠んだ。


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南京余唱第20首(八一) 2012・3・12(月)

 奈良博物館即興(第4首)   解説
 
  のち の よ の ひと の そへたる ころもで を 
            かかげて たたす ぢこくてんわう   

   (後の世の人の添へたる衣手をかかげて立たす持国天王)

 後世に修理されているが下手だと解説で言っている。仏像彫刻をてがける(下手な)素空には耳が痛い話。



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南京余唱第21首(八一) 2012・3・15(木)

 春日野にて     解説 

  かすがの の しか ふす くさ の かたより に 
       わが こふ らく は とほ つ よ の ひと     

  (春日野の鹿伏す草のかたよりに我が恋ふらくは遠つ世の人)

 鹿が伏した草は傾いている。それと同じように思慕する古代の人に自分の心が強く傾捨ていると詠う。


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南京余唱第22首(八一) 2012・3・19(月)

 春日野のやどりにて    解説

  かすがの の よ を さむみ かも さをしか の
          まち の ちまた を なき わたり ゆく  
   
   (春日野の夜を寒みかもさ牡鹿の街の巷を鳴き渡りゆく)

 会津八一の奈良での定宿・日吉館は老朽化を理由に2009年に取り壊された。奈良の友人・鹿鳴人にその後を問い合わせたら、すぐに写真と共に返事が届いた。
 「日吉館の持ち主の子孫が、貸し家を建てテナント募集をしているが、借り手がつくかどうか、難しいと思う。 なぜもっと以前の日吉館であったことを特徴にしなかったのか、疑問を感じる。会津八一会館イン奈良を作ればよかったと思う」
 彼の言うように八一ファンとしては、現在の日吉館跡には失望する。


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南京余唱第23首(八一) 2012・3・22(木)

 またある日(第1首)   解説

  あまごもる なら の やどり に おそひ きて 
         さけ くみ かはす ふるき とも かな     

  (雨ごもる奈良の宿りに襲ひ来て酒酌み交はす古き友かな)

 大学同期で互いに「心友」と呼び合った大阪の伊達俊光との酒席、彼には恋の悩み、失恋の手紙を送っている。手紙は600通あった。


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南京余唱第24首(八一) 2012・3・24(土)

 またある日(第2首)   解説

  いにしへ に わが こふ らく を かうべ に こ 
           おほさか に こ と しづこころ なき 
    
   (古に我が恋ふらくを神戸に来大阪に来としづこころなき)

 せっかく奈良にいて古代の研究をしているのに、邪魔をするように神戸や大阪へ来いと友人が言うと詠むが、本当はその誘いが嬉しいのだ。


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南京余唱第25首(八一) 2012・4・1(日)

 たはむれに東京の友に送る   解説

  あをによし なら の かしうま たかければ
      まだ のらず けり うま は よけれど
     
 (あをによし奈良の貸馬高ければまだ乗らずけり馬はよけれど)

  当時、中国大陸に行く計画を持っていたが、交通は馬無しには考えられなかった。そのため乗馬の練習をしていたが、結局は海外へ行くことはなかった。


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明日香2(橘寺) 2012・4・2(月)
 三重刻友会で訪れた明日香・橘寺は聖徳太子が建立したと言われる七大寺の一つだが、ほとんどの建物は火事で消失し、現存するものは江戸時代に再建されたものである。橘寺の付近には聖徳太子が誕生したとされる場所があり、そのためか本尊として聖徳太子像が本堂に安置されている。本堂には「一隅を照らす・・・」の掛け軸があり、天台宗の寺だとわかる。橘寺という名は、不老不死の果物として橘の実を植えたことに由来する。
 聖徳太子を慕う会津八一はこの寺で歌を詠んでいる。

  橘寺にて    解説

    くろごま の あさ の あがき に ふませたる 
          をか の くさね と なづさひ ぞ こし  

    (黒駒の朝の足掻きに踏ませたる岡の草根となづさひぞ来し)



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南京余唱第27首(八一) 2012・4・7(土)

 笠置山にのぼりて      解説

  のびやかに みち に より ふす この いは の 
           ひと なら まし を われ をろがまむ    

(のびやかに道に寄り伏すこの岩の人ならましを我をろがまむ)

 京都・木津川の南岸にある笠置山は、古くからの修験道場、信仰の山として、また、歴史上のさまざまなドラマの舞台になっている。花崗岩から成る山中には奇岩や怪石が数多く、神秘的なムードを漂わせている。    



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南京余唱第26首(八一) 2012・4・13(金)

 木津川の岸に立ちて      解説

  み わたせば きづ の かはら の しろたへ に 
          かがやく まで に はる たけ に けり   

   (見渡せば木津の川原の白妙に輝くまでに春たけにけり)

 一昨年5月、京田辺市の観音寺に向かう途中、木津川に沿って車を走らせた。新緑の頃の美しい景観を思い出す。


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南京余唱第28首(八一) 2012・4・21(土)

 奈良に向かふ汽車の中にて (第1首)    解説

  かたむきて うちねむり ゆく あき の よ の 
        ゆめ にも たたす わが ほとけ たち    

 (かたむきてうち眠りゆく秋の夜の夢にも立たすわが仏たち)

 車中にあっても夢に仏がお立ちになると詠う。長年、仏たちに注いできた思いが夢の中に現実として現れている。


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南京余唱第29首(八一) 2012・4・27(金)

 奈良に向かふ汽車の中にて (第2首)   解説

  あさひ さす いなだ の はて の しろかべ に    
           ひとむら もみぢ もえ まさる みゆ  
 
  (朝日さす稲田のはての白壁にひとむら紅葉燃えまさる見ゆ)

 黄色の稲田、白壁、赤い紅葉、汽車から見える情景を美しい色彩で表現して絵のようである。


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南京余唱第30首(八一) 2012・5・3(木)

 春日神社にて  解説 

  みかぐら の まひ の いとま を たち いでて
         もみじ に あそぶ わかみや の こら    

    (み神楽の舞ひの暇に立ち出でて紅葉に遊ぶ若宮の娘ら)

 友人に案内されて若宮の巫女の舞いを見たことがあるが、その時はこの歌を知らなかった。


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道風記念館と会津八一1 小野道風 2012・5・7(月)

 愛知県春日井市松河戸町に同市出身と伝わる書道家・小野道風の記念館がある。道風は平安時代中期の能書家で、藤原行成、藤原佐理とともに「三蹟」と言われるが、雨中、しだれ柳に蛙が何度も飛びつき成功する姿をみて、書の上達に励んだという故事で良く知られている。
 このこじんまりした「書道美術館」に初めて訪れたのは、春の特別展「独往の人 會津八一」があり、昨日は講演「會津八一の美学」(新潟市會津八一記念館館長・神林恒道)があったからだ。
 余談だが、蛙と道風を描いている花札を日本の伝統文化として眺めてみると趣がある。賭けごとの道具としての一面からくる悪いイメージを脇に置いて鑑賞すると、花札の絵柄はとても楽しく美しいものである。


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道風記念館と会津八一2 オリジナリティ 2012・5・9(水)

 「三蹟」、「書道の神」と言われる小野道風の書風は、楷書、行書、草書など各書体にわたって巧みで、力強く懐の大きい豊潤さを持ち、さらに道風が開拓した独自性を持つ。彼の書は中国東晋時代に書聖と呼ばれた王羲之の書法を基としており「王羲之の再生」と在世中には言われていた。
 王羲之が後世の書人に及ぼした影響は絶大で、日本においても奈良時代から手本とされており、行書の「蘭亭序」が最も有名である。素空らが習った書の手本はこの「蘭亭序」から出ていると言っても過言ではない。
 會津八一は書の独自性を第一にし、模倣を嫌い排したが、実際には蘭亭序など多くの法帖や金石文の拓本を専門家以上に見ている。しかし、模倣ではダメで、達意の字の間に自らの持ち味を出すべきだと言い、書におけるオリジナリティの大切さを説いた。
 記念館2階の展示室兼会議室を満員にした講演「會津八一の美学」で會津八一記念館館長・神林恒道は、少し照れくさそうに最近の「書の三家」は誰だと思いますかと問うた。答は會津八一、高村光太郎、中川一政で、「昭和の三大能筆」と言われるらしい。


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道風記念館と会津八一3 古典への思い 2012・5・13(日)

 神林恒道(會津八一記念館館長)は會津八一の古代奈良への酷愛に象徴される古典主義について解説してこう言う。「19世紀以降の文明が分業主義による総体性の喪失により奇形化し醜くなったことに失望し、古代ギリシャや日本の古代の全人間的な表現を評価したことによる」
 28歳の時、八一は親友の伊達俊光への手紙でこう書いている。
 「Humanity as a wholeを美とも真とも神ともして、個人に於ける人間性の完全完備を希求するのが、僕が半生の主張である。僕が希臘生活をよろこぶのも、古事記の神代の巻を愛するのも、この故である。僕が19世紀の文明に対してあきたらぬところあるは、僕の見解が氷の如く冷ややかなるが為めではない。分業主義の余弊として、deformityにみちみちたる此の世のあはれなる光景に対する悲憤の熱涙が、往々皮肉家の冷笑と混同されるのである」
 実際、早稲田大学ではギリシャ美術を講義し、その後奈良美術史や東洋美術史を担当する。教え子には分業主義を戒め、「個人に於ける人間性の完全完備」を説いた。
 古代奈良の酷愛や奈良の歌はこうした八一の芸術観を背景にして生まれている。
    注  Humanity as a whole   全体としての人間性
       deformity 形が損なわれていること、奇形


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道風記念館と会津八一4 八一の奈良歌 2012・5・18(金)

 神林恒道(會津八一記念館館長)も言っているが、八一の奈良へのかかわりは失恋を背景したセンチメンタル・ジャーニーから始まった。それが「猿沢の池にて」の歌である。

  わぎもこ が きぬかけ やなぎ みまく ほり 
      いけ を めぐり ぬ かさ さし ながら     
解説

 しかし、八一の古代への憧憬と芸術、学問への探求心が奈良歌を中心にした歌集・鹿鳴集を生み、また高いレベルの奈良に関する学術論文として結実していく。
 八一が初めて奈良を訪れた明治41年は、あの廃仏毀釈による仏教施設の破壊により荒涼としていた。処女歌集・南京新唱はそうした奈良の姿への「ため息」を詠んだ奈良歌であると神林恒道は強調し、「酷愛する奈良への捧げもの」であると言う。
 余談だが、奈良を35回訪れた八一の骨が唐招提寺にもあるということを初めて知った。墓は新潟市・瑞光寺にあり、東京(練馬)・法融寺に分骨されている。


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道風記念館と会津八一5(完) 八一と道風 2012・5・24(木)

 友人Nと書道が「蘭亭序」(王義之)に大きく影響されていることなどを話し、書の良し悪しについて語った。オーソドックスな書を信奉する彼は「(八一が言うような)オリジナルな書は良いか悪いかの判断が難しい」と言う。たしかに芸能人などの独特の字などの判定は難しい。
 會津八一は小野道風の書を評価した。厳しく排したのは道風などの字を無批判的にただ真似ること。八一は言う「字の趣味といふものは自分が相当の域に達した時に自ら湧いて流れでるところのものである。謂はばその人の体臭の如きものである・・・」「(だから)王義之の趣味、顔眞卿の趣味、小野道風の趣味といっていくらその人の字を真似てみたところで、生れつき違ふものが何になるか、そんなことは声色の稽古と同じことである」「自分で気がつかないうちに自ら湧き出て来るのが、その人の持味であると私は考へた・・・」そして独自の書のための基礎訓練を経て高いレベルでのオリジナルな八一の書を確立した。
 書の良し悪しは難しいが、それを芸術として見る限りは「美」を中心に据えて鑑賞するのみだと思う。鑑賞眼の良し悪しも問われるが、俗っぽく言えば一軸何十万円もする八一の書は評価されているのだろう。

  道風記念館と会津八一 全文へ


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南京余唱第32首(八一) 2012・5・14(月)

 法隆寺東院にて 第1首   解説

  ゆめどの は しづか なる かな ものもひ に
         こもりて いま も まします が ごと     

  (夢殿は静かなるかなもの思ひに籠りて今もましますがごと)

 “・・・今のいはゆる夢殿が天平十一年頃の造立にして、太子(574-622)在世のものにあらざるは、今にして学者の常識なるも、この歌を作るに当たりては、その区別を問わざることとなせり・・・”



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南京余唱第33首(八一) 2012・5・23(水)

 法隆寺東院にて 第2首   解説

  ぎそ の ふで たまたま おきて ゆふかげ に
          おりたたし けむ これ の ふるには
     
  (義疏の筆たまたま置きて夕光に下り立たしけむこれの古庭)

 八一が思慕する聖徳太子が書を書く手を止めて、夢殿の庭に下り立たれた情景を詠う。この句における音調の工夫を味わってほしい。



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南京余唱第34首(八一) 2012・6・4(月)

 正倉院の曝涼に参じて 解説

  とほ つ よ の みくら いで きて くるる ひ を  
          まつ の こぬれ に うちあふぐ かな    

   (遠つ代のみ倉出で来て暮るる日を松の木末にうち仰ぐかな)

 曝涼(ばくりょう)とは毎年11月に行われた虫干しのこと。曝涼への参加は非常に難しかったが、許可された八一はその鑑賞を終えたのち、戸外へ出た時の感動を詠った。


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南京余唱第35首(八一) 2012・6・14(木)

 東伏見宮大妃殿下も来り観たまふ (第1首) 解説

  あさ さむき みくら の には の しば に ゐて
          みや を むかふる よきひと の とも

    (秋寒きみ倉の庭の芝にゐて宮を迎ふるよき人のとも)


 この大妃殿下は依仁(よりひと)親王妃周子(かねこ)で、岩倉具視の孫にあたる。また加山雄三にとって大伯母になる。


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南京余唱第36首(八一) 2012・6・29(金)

 東伏見宮大妃殿下も来り観たまふ (第2首) 解説

  まつ たかき みくら の には に おり たたす 
           ひがしふしみのみや の けごろも

      (松高きみ倉の庭に下りたたす東伏見宮の毛衣)

 大妃殿下(依仁親王妃周子)は美しい人で皇族として活躍した。毛皮のコートを着た姿を八一は素晴らしいと思った。


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南京余唱第37首(八一) 2012・7・3(火)

 奈良の町をあるきて 解説

  まち ゆけば しな の りはつ の ともしび は 
         ふるき みやこ の つち に ながるる

    (町行けば支那の理髪の灯火は古き都の土に流るる)

 古都・奈良の夜、中国人の経営する床屋の灯りが通りを照らしていると詠む。古都、中国人、夜の灯り、何とも言えない取り合わせは魅力的でとても好きな一首である。
 

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南京余唱第38首(八一) 2012・7・5(木)

 東大寺の某院を訪ねて 解説

  おとなへば そう たち いでて おぼろげに    
       われ を むかふる いしだたみ かな

   (おとなへば僧立ち出でておぼろげに我を迎ふる石畳かな)

 最初の歌集「南京新唱」刊行(大正13年・1924年)の翌々年に詠まれている。画期的な名歌集(南京新唱)にもかかわらず、ほとんど売れなかったと言う。無名であったためか、東大寺によく出入りしたにもかかわらず、僧は誰なのだろうと言う顔をしたのだろう。


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南京余唱第39首(八一) 2012・7・7(土)

 鹿の鳴くをききて(第1首) 解説

  しか なきて かかる さびしき ゆふべ とも         
         しらで ひともす なら の まちかど

 (鹿鳴きてかかる寂しき夕べとも知らで灯ともす奈良の街角)

 古都奈良への情熱は時間が経つにつれて静かに深い境地を作り出していた。廃仏毀釈による古寺、仏像の荒廃は激しい。そうしたことへの寂寥感が漂っている。


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南京余唱第40首(八一) 2012・7・13(金)

 鹿の鳴くをききて(第2首) 解説

  しか なきて なら は さびし と しる ひと も    
       わが もふ ごとく しる と いはめ や も

  (鹿鳴きて奈良は寂しと知る人も我が思ふごとく知ると言はめやも)

 私が思っているほどに寂しさを感じている人はいないと断言するほどに奈良への思いは深かった。


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南京余唱第41首(八一) 2012・7・18(水)

 太秦の広隆寺の宝庫にて 解説

  あさひ さす しろき みかげ の きだはし を
         さきて うづむる けいとう の はな

   (朝日さす白き御影のきだはしを咲きて埋むる鶏頭の花)  

 八一は葉鶏頭を愛し「雁来紅の作り方」という文章を作り、歌16首を詠んでいる。


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南京余唱第42首(八一)完 2012・7・20(金)

 嵐山      解説

  だいひかく うつら うつら に のぼり きて 
      をか の かなた の みやこ を ぞ みる

  (大悲閣うつらうつらに登り来て丘の彼方の都をぞ見る)

 南京余唱、最後の作である。嵐山中腹から眺める京都の町を詠んだ。 


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南京余唱・會津八一 2012・7・2(月)

 南京余唱42首(大正14年)の解説を終わった。順次紹介しているが一覧ページを参照してほしい。代表作・南京新唱99首(明治41年~大正13年)は八一の哀愁を含む青春の歌であり、とりわけ仏像の歌は官能的感覚的な把握を通して豊かにおおらかに詠まれている。そうしたことが多くの人の共感を呼んだ。
 南京新唱に続く南京余唱は早稲田中学教師から早大高等学院教授となった大正14年に詠まれた。この時期は奈良美術研究会を作ったり、また写真家・小川晴暘(飛鳥園)と作った写真集「室生寺大観」を出版するなどして、奈良美術(史)の学者として充実した時間を過ごしていた。
 この年の春、中国大陸の石仏調査のため乗馬の練習をしていた八一は乗馬服姿で奈良に行っている。その時、吉野へも足を延ばして歌を詠んだ。同年秋の奈良と京都で作った歌を加えた42首を南京余唱と名づけ、昭和11年に第2歌集として出版した。新唱に比べると平淡な中に深みが増した歌が多く、鹿鳴を通して人生の深い寂寥を感じさせる秀歌も収録されている。
 さらに、奈良の歌を詠んだ歌として昭和3年に13首作り、南京続唱としてを発表している。 


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挽歌 2012・8・5(日)

  「萬代の橋より夜半の水の面に涙おとしてわが去らんとす
                            吉野秀雄

 昭和31年11月、會津八一の葬儀後、“新潟の萬代橋(ばんだいばし)から悲しみの涙を落して去った”と詠む。八一のただ一人の短歌の門弟・吉野秀雄の深い悲しみの歌である。弟子といってもただの弟子ではない。八一が多くの弟子の中でたった一人歌人として認めた歌の友である。
 この歌の歌碑を新潟市に建立する案内が届いた。彼の歌碑は各地にあるが、新潟市では2基目となる。1基目は

  「枝堀にもやふ肥船ほとほとに朽ちしが上に柳散るなり

吉野秀雄(よしのひでお 1902年-67年)
 群馬県高崎市生まれ。慶大中退。伊藤左千夫・正岡子規らアララギ派の作風に強い影響を受けたが、会津八一の南京新唱に感動し師事する。大学在学中に結核を患い、「病人歌人」としても知られる。戦中に妻はつ子と死別。とみ子(八木重吉の元妻)と再婚。愛飲家、酒豪でもあった。作品に「苔径集」「早梅集」「寒蝉集」「良寛和尚の人と歌」「歌秋艸道人會津八一」「鹿鳴集歌解」


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香薬師如来 2012・8・14(火)

香薬師を拝して(会津八一)   解説

  みほとけ の うつらまなこ に いにしへ の   
          やまとくにばら かすみて ある らし

 歌意
  香薬師のうっとりとした眼には古代の大和の国が春の霞にかすんでみえているらしい。 

 香薬師の歌十一首

 盗難にあった香薬師の右手が発見されたと今話題になっている。「香薬師の右手 失われたみほとけの行方」貴田 正子 (著) 2016/10/13
 素空はこの仏像を模作して自宅に安置している。


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高倉健と会津八一 2012・9・11(火)

 9月8日のNHKの番組「高倉健73分スペシャル」を見た兄から「会津八一の歌が放送で出てきた」と電話があり、翌日録画を届けてくれた。

 夢殿の救世観音に(会津八一)  解説

  あめつち に われ ひとり ゐて たつ ごとき
         この さびしさ を きみ は ほほゑむ   

   (天地にわれ一人ゐて立つごときこの寂しさを君はほほゑむ)

 高倉健の台本の最後にこの歌が大事に貼り付けてあるのだ。数分前に彼が「心を研ぎ澄ます」と言うようなことを語ったことと関係あるのだろう。


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萩 2012・9・13(木)  解説

 あきはぎ は そで には すらじ ふるさと に 
       ゆきて しめさむ いも も あら なく に 
 

 会津八一は萩を失恋を背景にしてこう歌った。
 星野富広さんの9,10月を飾る詩と絵は「支えられて(ハギ)」、同じ詩歌でもこうも違うものだ。
   


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堀辰雄と会津八一 2012・9・19(水)

 最近手に入れた岩津資雄著の「會津八一」で八一の歌と「大和路」(堀辰雄)の関連が書かれていた。
 私の古都奈良への関心は「古寺巡礼」(和辻哲郎・1919年)と「大和古寺風物誌」(亀井勝一郎・1943年)だったが、堀辰雄の「大和路・信濃路」(1943年)にも影響を受けている。
 上記以外に会津八一の「鹿鳴集」(1940年)が多くの人の古都奈良への導きの書になっている。
 しかし、当時は会津八一を全く知らず、「大和路」が鹿鳴集に大きく影響を受けていることを読み落としていた。早速読み返してみて、鹿鳴集を手に奈良を歩く堀の姿が鮮明に浮かび上がってきた。
 「大和路」の中で触れているが、その時書いた小説が「曠野」(1941年)、早速、ネットの青空文庫で探して読んだ。短編なので関心のある方はどうぞ。王朝物の悲恋。(青空文庫・曠野へ


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「大和路」(堀辰雄)と會津八一1 2012・9・30(日)

 會津八一は唐招提寺でこう詠んだ。 

  おほてら の まろき はしら の つきかげ を 
       つち に ふみ つつ もの を こそ おもへ      

    (大寺のまろき柱の月影を土に踏みつつものをこそ思へ) 解説

 堀辰雄は「大和路」冒頭の「10月・夕方、唐招提寺にて」で
 「いま、唐招提寺(とうしょうだいじ)の松林のなかで、これを書いている。
・・・秋の日が一ぱい金堂や講堂にあたって、屋根瓦(やねがわら)の上にも、丹(に)の褪(さ)めかかった古い円柱にも、松の木の影が鮮やかに映っていた。それがたえず風にそよいでいる工合は、いうにいわれない爽(さわ)やかさだ。此処こそは私達のギリシアだ・・・この寺の講堂の片隅に埃(ほこり)だらけになって二つ三つころがっている仏頭みたいに、自分も首から上だけになったまま、古代の日々を夢みていたくなる。・・・

 鹿鳴集を携えた堀辰雄が上記の八一の歌を思い浮かべていたことは想像に難くない。「古い円柱」「古代の日々を夢みていたくなる」は古代のギリシャや日本への思いであり、それは八一の「ものをこそおもへ(深いもの思いに耽っている)」に通じる。
 しばらく、「大和路」の中に八一を探してみたい。


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「大和路」(堀辰雄)と會津八一2 2012・10・8(月)

 「大和路」の「海竜王寺にて」でこう展開する。
 「・・・村の入口からちょっと右に外れると、そこに海竜王寺(かいりゅうおうじ)という小さな廃寺がある。そこの古い四脚門の陰にはいって、思わずほっとしながら、うしろをふりかえってみると、いま自分の歩いてきたあたりを前景にして、大和平(やまとだいら)一帯が秋の収穫を前にしていかにもふさふさと稲の穂波を打たせながら拡がっている。僕はまぶしそうにそれへ目をやっていたが、それからふと自分の立っている古い門のいまにも崩れて来そうなのに気づき、ああ、この明るい温かな平野が廃都の跡なのかと、いまさらのように考え出した。・・・
 この描写から八一の

  秋篠寺にて     解説

  あきしの の みてら を いでて かへりみる 
     いこま が たけ に ひ は おちむ と す

  (秋篠のみ寺を出でてかえり見る生駒ヶ岳に日は落ちんとす)

が浮かんでくる。そして「古い門のいまにも崩れて来そうな」から「ついぢ の ひま」を連想する。

  高畑にて      解説

  たびびと の め に いたき まで みどり なる
        ついぢ の ひま の なばたけ の いろ

      (旅人の目に痛きまで緑なる築地の隙の菜畑のいろ)

 初めて海竜王寺を訪ねた時、真っ先に目に入ったのは門前にある古い築地だったのを昨日のように思い出す。


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「大和路」(堀辰雄)と會津八一3 2012・10・14(日)

 「大和路」の「海竜王寺にて」は続く
 「・・・私はそれからその廃寺の八重葎(やえむぐら)の茂った境内にはいって往って、みるかげもなく荒れ果てた小さな西金堂(さいこんどう)(これも天平の遺構だそうだ……)の中を、はずれかかった櫺子(れんじ)ごしにのぞいて、そこの天平好みの化粧天井裏を見上げたり、半ば剥落(はくらく)した白壁の上に描きちらされてある村の子供のらしい楽書を一つ一つ見たり、しまいには裏の扉口からそっと堂内に忍びこんで、磚(せん)のすき間から生えている葎までも何か大事そうに踏まえて、こんどは反対に櫺子の中から明るい土のうえにくっきりと印せられている松の木の影に見入ったりしながら、そう、――もうかれこれ小一時間ばかり、此処でこうやって過ごしている。女の来るのを待ちあぐねている古(いにしえ)の貴公子のようにわれとわが身を描いたりしながら。……

 八一の 「海龍王寺にて」第2首は柱の落書を詠む    解説

  ふるてら の はしら に のこる たびびと の 
        な を よみ ゆけど しる ひと も なし
 
     (古寺の柱に残る旅人の名を読み行けど知る人もなし)

 「楽書を一つ一つ見たり」と書く堀はきっとこの歌が頭にあったのだろう。「大和路」は「海竜王寺にてから「夕方、奈良への帰途」に続く。
 「海竜王寺を出ると、村で大きな柿を二つほど買って、それを皮ごと噛(かじ)りながら、こんどは佐紀山(さきやま)らしい林のある方に向って歩き出した。・・・

  まめがき を あまた もとめて ひとつ づつ
        くひ もて ゆきし たきさか の みち

    (豆柿をあまた求めて一つづつ食ひもて行きし滝坂の道)

 これは八一の「滝坂にて」第2首である。(解説)「噛(かじ)りながら」は「くひ もて」と同じ表現だ。


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観音堂第9首(会津八一) 2012・10・17(水)

 10月15日(月)、奈良の友人・鹿鳴人夫妻に素空の彫った八一の書画を寄贈した。会津八一が好きで、奈良まほろばソムリエとして活躍する彼のもとにあれば、奈良を酷愛した八一も喜んでいるだろう。

 観音堂(第9首)     解説

  ひそみ きて た が うつ かね ぞ さよ ふけて  
          ほとけ も ゆめ に いり たまふ ころ  

   (ひそみきて誰が打つ鐘ぞさ夜更けて仏も夢に入り給ふころ)


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「大和路」(堀辰雄)と會津八一4 2012・10・20(土)

 「大和路」の「夕方、西の京にて」は
 「秋篠の村はずれからは、生駒山(いこまやま)が丁度いい工合に眺められた」で始まる。
 先に引用した八一の「秋篠寺にて」 が浮かぶ。

  秋篠寺にて     解説

   あきしの の みてら を いでて かへりみる 
     いこま が たけ に ひ は おちむ と す


 「・・・ひとりでに西大寺(さいだいじ)駅に出たので、もうこれまでと思い切って、奈良行の切符を買ったが、ふいと気がかわって郡山行の電車に乗り、西の京で下りた。・・・荒れた池の傍をとおって、講堂の裏から薬師寺にはいり、金堂や塔のまわりをぶらぶらしながら、ときどき塔の相輪(そうりん)を見上げて、その水煙(すいえん)のなかに透(す)かし彫(ぼり)になって一人の天女の飛翔(ひしょう)しつつある姿を、どうしたら一番よく捉まえられるだろうかと角度など工夫してみていた。が、その水煙のなかにそういう天女を彫り込むような、すばらしい工夫を凝らした古人に比べると、いまどきの人間の工夫しようとしてる事なんぞは何んと間が抜けていることだと気がついて、もう止める事にした
 八一は 「薬師寺東塔」で水煙と天女を詠んだ。  解説

   すゐえん の あま つ をとめ が ころもで の 
        ひま にも すめる あき の そら かな

     (水煙の天つ乙女が衣出のひまにも澄める秋の空かな)


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18基目の奈良の歌碑(会津八一) 2012・10・24・(水)

 会津八一の奈良における18基目の歌碑が2012年9月9日に建立された。場所は法隆寺正門近くの斑鳩町観光協会・法隆寺iセンター前である。
 10月15日に出かけ写真を撮ろうとしたら、子供が歌碑を読み始めた。平仮名書きなので読みやすい。「も」と「なる」に首をかしげ、省略された濁点は読めなかったが、素空が手伝って最後まで読むことができた。
 歌碑については鹿鳴人のブログを、歌の解説はこちらで!


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「大和路」(堀辰雄)と會津八一5 2012・10・30(火)

 「大和路」の「夕方、西の京にて」は続く。
 「・・・裏手から唐招提寺の森のなかへはいっていった。
 金堂(こんどう)も、講堂も、その他の建物も、まわりの松林とともに、すっかりもう陰ってしまっていた。そうして急にひえびえとしだした夕暗のなかに、白壁だけをあかるく残して、軒も、柱も、扉も、一様に灰ばんだ色をして沈んでゆこうとしていた。
 僕はそれでもよかった。いま、自分たち人間のはかなさをこんなに心にしみて感じていられるだけでよかった。僕はひとりで金堂の石段にあがって、しばらくその吹(ふ)き放(はな)しの円柱のかげを歩きまわっていた。・・・
 僕はきょうはもうこの位にして、此処を立ち去ろうと思いながら、最後にちょっとだけ人間の気まぐれを許して貰うように、円柱の一つに近づいて手で撫でながら、その太い柱の真んなかのエンタシスの工合を自分の手のうちにしみじみと味わおうとした。僕はそのときふとその手を休めて、じっと一つところにそれを押しつけた。僕は異様に心が躍った。そうやってみていると、夕冷えのなかに、その柱だけがまだ温かい。ほんのりと温かい。その太い柱の深部に滲(し)み込(こ)んだ日の光の温かみがまだ消えやらずに残っているらしい。


 八一の代表作 「唐招提寺にて」    解説

  おほてら の まろき はしら の つきかげ を 
      つち に ふみ つつ もの を こそ おもへ
 
   (大寺のまろき柱の月影を土に踏みつつものをこそ思へ)


会津八一に関するブログ 290

法起寺(ほうきじ) 2012・11・1(木)

 会津八一の奈良における18基目の歌碑(法隆寺前)を見て、近くの法起寺、法輪寺を回る。
 八一は53歳の時に「法隆寺、法起寺、法輪寺建立年代の研究」を学位請求論文として提出し、翌年1933年に文学博士の学位を受けている。1931年には「法起寺塔露盤銘文考」を発表し、三重塔の建立時期に一石を投じた。その三重塔をコスモス畑を前景に大勢の人達(写真教室の人?)が写真を撮っていた。一緒に写真を撮って、法輪寺へ。もちろん、八一の名歌を思い起こしながら。

 奈良博物館にて(第1首)   解説

  くわんおん の しろき ひたひ に やうらく の
          かげ うごかして かぜ わたる みゆ

     (観音の白き額に瓔珞の影動かして風わたる見ゆ)   


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「大和路」(堀辰雄)と会津八一6 2012・11・12(月)

 「大和路」の「十月二十一日夕」から
 「・・・午後からはO君の知っている僧侶の案内で、ときおり僕が仕事のことなど考えながら歩いた、あの小さな林の奥にある戒壇院(かいだんいん)の中にもはじめてはいることができた。
 がらんとした堂のなかは思ったより真っ暗である。案内の僧があけ放してくれた四方の扉からも僅かしか光がさしこんでこない。壇上の四隅に立ちはだかった四天王の像は、それぞれ一すじの逆光線をうけながら、いよいよ神々しさを加えているようだ。
 僕は一人きりいつまでも広目天(こうもくてん)の像のまえを立ち去らずに、そのまゆねをよせて何物かを凝視している貌(かお)を見上げていた。なにしろ、いい貌だ、温かでいて烈(はげ)しい。……
 ・・・僕がいつまでもそれから目を放さずにいると、北方の多聞天(たもんてん)の像を先刻から見ていたA君がこちらに近づいてきて、一しょにそれを見だしたので、「古代の彫刻で、これくらい、こう血の温かみのあるのは少いような気がするね。」と僕は低い声で言った。
 A君もA君で、何か感動したようにそれに見入っていた。が、そのうち突然ひとりごとのように言った。「この天邪鬼(あまのじゃく)というのかな、こいつもこうやって千年も踏みつけられてきたのかとおもうと、ちょっと同情するなあ。」
 僕はそう言われて、はじめてその足の下に踏みつけられて苦しそうに悶(もだ)えている天邪鬼に気がつき、A君らしいヒュウマニズムに頬笑みながら、そのほうへもしばらく目を落した。……


 八一は 「戒壇院をいでて」で広目天を詠んだ。 解説

  びるばくしや まゆね よせたる まなざし を
      まなこ に み つつ あき の の を ゆく

   (毘楼博叉まゆね寄せたるまなざしを眼に見つつ秋の野を行く)

 天邪鬼についてはこう詠う。

 三月堂にて                 解説

   びしやもん の おもき かかと に まろび ふす
        おに の もだえ も ちとせ へ に けむ

   (毘沙門の重き踵にまろび伏す鬼のもだえも千年経にけむ)

 “毘沙門の重い踵に踏まれて転び伏している邪鬼の悶えも、もう千年を経たのだなあ。”


会津八一に関するブログ 292

「大和路」(堀辰雄)と會津八一7 2012・11・18(日)

 「大和路」の「十月二十四日、夕方」から
 『きのう、あれから法隆寺へいって、一時間ばかり壁画を模写している画家たちの仕事を見せて貰いながら過ごした。これまでにも何度かこの壁画を見にきたが、いつも金堂のなかが暗い上に、もう何処もかも痛いたしいほど剥落(はくらく)しているので、殆ど何も分からず、ただ「かべのゑのほとけのくにもあれにけるかも」などという歌がおのずから口ずさまれてくるばかりだった。――それがこんど、金堂(こんどう)の中にはいってみると、それぞれの足場の上で仕事をしている十人ばかりの画家たちの背ごしに、四方の壁に四仏浄土を描いた壁画の隅々までが蛍光灯のあかるい光のなかに鮮やかに浮かび上がっている。…
 荒れてしまった壁画を保存する模写の様子を生き生きと堀は描写している。しかし残念なことだが模写中に壁画は燃えてしまう。

 八一の「病中法隆寺をよぎりて(第4首)」   解説 

  ひとり きて めぐる みだう の かべ の ゑ の 
        ほとけ の くに も あれ に ける かも
 
    (一人来て巡る御堂の壁の絵の仏の国も荒れにけるかも)


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南京続唱(會津八一)第1首 2012・11・27(火)

 鹿鳴集の中で南京新唱(99首)、南京余唱(42首)に対応する南京続唱(14首)の解説を始める。

 唐招提寺にて    解説

  せきばく と ひ は せうだい の こんだう の
         のき の くま より くれ わたり ゆく
      
     (寂寞と日は招提の金堂の軒の隈より暮れわたりゆく)

 11月25日、奈良明日香の橘寺に八一の20基目の歌碑が建立された。いち早く写真が鹿鳴人から届いたので歌のページにアップした。

 橘寺にて      解説

  くろごま の あさ の あがき に ふませたる 
         をか の くさね と なづさひ ぞ こし

 

会津八一に関するブログ 294

「大和路」(堀辰雄)と會津八一8 2012・11・30(金)

 「大和路」の「十月二十四日、夕方」の百済観音の場面は、像を思い出しながらゆっくりと読むと味わいがある。
 『・・・僕の一番好きな百済観音(くだらかんのん)は、中央の、小ぢんまりとした明かるい一室に、ただ一体だけ安置せられている。こんどはひどく優遇されたものである。が、そんなことにも無関心そうに、この美しい像は相変らずあどけなく頬笑まれながら、静かにお立ちになっていられる。……
 しかしながら、此のうら若い少女の細っそりとしたすがたをなすっていられる菩薩像(ぼさつぞう)は、おもえば、ずいぶん数奇(すき)なる運命をもたれたもうたものだ。――「百済観音」というお名称も、いつ、誰がとなえだしたものやら。が、それの示すごとく古朝鮮などから将来せられたという伝説もそのまま素直に信じたいほど、すべてが遠くからきたものの異常さで、そのうっとりと下脹(しもぶくれ)した頬のあたりや、胸のまえで何をそうして持っていたのだかも忘れてしまっているような手つきの神々しいほどのうつつなさ。もう一方の手の先きで、ちょいと軽くつまんでいるきりの水瓶(すいびょう)などはいまにも取り落しはすまいかとおもわれる。
 この像はそういう異国のものであるというばかりではない。この寺にこうして漸(や)っと落ちつくようになったのは中古の頃で、それまでは末寺の橘寺(たちばなでら)あたりにあったのが、その寺が荒廃した後、此処に移されてきたのだろうといわれている。その前はどこにあったのか、それはだれにも分からないらしい。ともかくも、流離というものを彼女たちの哀しい運命としなければならなかった、古代の気だかくも美しい女たちのように、此の像も、その女身の美しさのゆえに、国から国へ、寺から寺へとさすらわれたかと想像すると、この像のまだうら若い少女のような魅力もその底に一種の犯し難い品を帯びてくる。……そんな想像にふけりながら、僕はいつまでも一人でその像をためつすがめつして見ていた。どうかすると、ときどき揺らいでいる瓔珞(ようらく)のかげのせいか、その口もとの無心そうな頬笑みが、いま、そこに漂ったばかりかのように見えたりすることもある。そういう工合なども僕にはなかなかありがたかった。……


 八一の歌

  ほほゑみて うつつごころ に あり たたす    
        くだらぼとけ に しく ものぞ なき 
 解説 
   (ほほゑみてうつつ心にあり立たす百済仏にしくものぞなき)

  たなごごろ うたた つめたき ガラスど の    
        くだらぼとけ に たち つくす かな   
解説  
   (たなごごろうたた冷たきガラス戸の百済仏に立ちつくすかな)

  くわんおん の しろき ひたひ に やうらく の  
       かげ うごかして かぜ わたる みゆ   
解説 
   (観音の白き額に瓔珞の影動かして風わたる見ゆ)  


会津八一に関するブログ 295

南京続唱(会津八一)第2首 2012・12・7(金)

 唐招提寺にて(第2首)    解説

  あまぎらし まだき も くるる せうだい の
       には の まさご を ひとり ふむ かな   

  (雨霧らしまだきも暮るる招提の庭の真砂を一人踏むかな)


会津八一に関するブログ 296

「大和路」(堀辰雄)と會津八一9 2012・12・10(月)

 「大和路」の「十月二十四日、夕方」の百済観音の場面は高浜虚子の斑鳩物語の話になる。
 「それから次ぎの室で伎楽面(ぎがくめん)などを見ながら待っていてくれたH君に追いついて、一しょに宝蔵を出て、夢殿のそばを通りすぎ、その南門のまえにある、大黒屋という、古い宿屋に往って、昼食をともにした。
 ・・・夢殿の門のまえの、古い宿屋はなかなか哀れ深かった。これが虚子の「斑鳩物語」に出てくる宿屋。なにしろ、それはもう三十何年かまえの話らしいが、いまでもそのときとおなじ構えのようだ。もう半分家が傾いてしまっていて、中二階の廊下など歩くのもあぶない位になっている。しかしその廊下に立つと、見はらしはいまでも悪くない。大和の平野が手にとるように見える。向うのこんもりした森が三輪山(みわやま)あたりらしい。菜の花がいちめんに咲いて、あちこちに立っている梨の木も花ざかりといった春さきなどは、さぞ綺麗だろう。と、何んということなしに、そんな春さきの頃の、一と昔まえのいかるがの里の若い娘のことを描いた物語の書き出しのところなどが、いい気もちになって思い出されてくる。――しかし、いまはもうこの里も、この宿屋も、こんなにすっかり荒れてしまっている。夜になったって、筬(おさ)を打つ音で旅びとの心を慰めてくれるような若い娘などひとりもいまい。


 会津八一はこの「筬(おさ)を打つ音」を詠み、自註鹿鳴集で解説する。
 “夢殿に近き「かせや」といへる宿屋にやどりて、夜中村内を散歩して聞きしものなり。高浜虚子君が『斑鳩物語』(イカルガモノガタリ)の中で、同じ機の音を点出されしは、この前年なりしが如し” 
 
 法隆寺村にやどりて     解説

  いかるが の さと の をとめ は よもすがら 
        きぬはた おれり あき ちかみ かも  

 (いかるがの里の乙女は夜もすがら衣機織れり秋近みかも)


会津八一に関するブログ 297

南京続唱(会津八一)第3首 2012・12・13(木)

 菩薩戒会(ぼさつかいえ)の唐招提寺にて  解説  

  よもすがら かいゑ の かね の ひびき よる 
         ふるき みやこ の はた の くさむら  

   (よもすがら戒会の鉦の響きよる古き都の畑の草むら)


会津八一に関するブログ 298

「大和路」(堀辰雄)と会津八一10 2012・12・19(水)

 「大和路・十月二十四日夜」で短編・曠野(あらの)の構想を練っている。
 「ゆうがた、浅茅あさぢが原はらのあたりだの、ついじのくずれから菜畑などの見えたりしている高畑たかばたけの裏の小径こみちだのをさまよいながら、きのうから念頭を去らなくなった物語の女のうえを考えつづけていた。こうして築土ついじのくずれた小径を、ときどき尾花おばななどをかき分けるようにして歩いていると、ふいと自分のまえに女を捜している狩衣かりぎぬすがたの男が立ちあらわれそうな気がしたり、そうかとおもうとまた、何処かから女のかなしげにすすり泣く音がきこえて来るような気がして、おもわずぞっとしたりした。これならば好い。僕はいつなん時でも、このまますうっとその物語の中にはいってゆけそうな気がする。……
 この分なら、このままホテルにいて、ときどきここいらを散歩しながら、一週間ぐらいで書いてしまえそうだ。

 この文の「ついじのくずれから菜畑などの見えたりしている高畑たかばたけの裏の小径こみちだのをさまよいながら・・・」は会津八一の高畑にての歌そのものである。

 高畑にて(第1首)     解説

  たびびと の め に いたき まで みどり なる
         ついぢ の ひま の なばたけ の いろ 

     (旅人の目に痛きまで緑なる築地の隙の菜畑のいろ)

 八一の歌を口ずさみながら、築地のある奈良の小道を堀のように歩く幸せはこの上ない。素空の大好きな歌の一つである。


会津八一に関するブログ 299

南京続唱(會津八一)第4首 2012・12・21(金)

 菩薩戒会(ぼさつかいえ)の唐招提寺にて(第2首) 解説

  のき ひくき さか の みだう に ひと むれて  
         には の まさご に もるる ともしび     

    (軒低き釈迦のみ堂に人群れて庭の真砂に洩るる灯火)


会津八一に関するブログ 300

南京続唱(會津八一)第5首 2012・12・22(土)

 東大寺の戒壇院にて  解説

  うつろひし みだう に たちて ぬばたまの  
    いし の ひとみ の なに を か も みる
   
  (うつろひしみ堂に立ちてぬばたまの石の瞳の何をかも見る)


会津八一に関するブログ 301

南京続唱(會津八一)第6首 2012・12・24(月)

 東大寺の戒壇院にて(第2首)  解説

  かいだん の まひる の やみ に たち つれて   
        ふるき みかど の ゆめ を こそ まもれ

  (戒壇の真昼の闇に立ち連れて古き天皇の夢をこそ守れ)


会津八一に関するブログ 302

南京続唱(會津八一)第7首 2012・12・25(火)

 奈良博物館にて   解説

  ゆゐまこじ むね も あらはに くむ あし の    
      やや に ゆるびし すがた こそ よけれ     

 (維摩居士胸もあらわに組む足のややにゆるびし姿こそよけれ)


会津八一に関するブログ 303

南京続唱(会津八一)第8首 2012・12・26(水)

 奈良博物館にて(第2首)  解説

  あき の ひ は ぎえん が ふかき まなぶた に    
           さし かたむけり ひと の たえま を 
     
   (秋の日は義淵が深きまなぶたにさし傾けり人の絶え間を)


会津八一に関するブログ 304

南京続唱(会津八一)第9首 2012・12・27(木)

 奈良博物館にて(第3首)    解説

  かべ に ゐて ゆか ゆく ひと に たかぶれる    
        ぎがく の めん の はな ふり に けり     

 (壁にゐて床ゆく人にたかぶれる伎楽の面の鼻古りにけり)


会津八一に関するブログ 305

南京続唱(会津八一)第10首 2012・12・28(金)

 奈良博物館にて(第4首)  解説

  いかで われ これら の めん に たぐひ ゐて    
         ちとせ の のち の よ を あざけらむ     

   (いかで我これらの面にたぐひゐて千年の後の世をあざけらむ)


会津八一に関するブログ 306

「大和路」(堀辰雄)と会津八一11 2012・12・29(土)

 「十月二十六日、斑鳩の里にて」では鹿鳴集の歌が引用される。
 「・・・・僕は法隆寺へゆく松並木の途中から、村のほうへはいって、道に迷ったように、わざと民家の裏などを抜けたりしているうちに、夢殿の南門のところへ出た。そこでちょっと立ち止まって、まんまえの例の古い宿屋をしげしげと眺め、それから夢殿のほうへ向った。
 夢殿を中心として、いくつかの古代の建物がある。ここいらは厩戸皇子(うまやどのおうじ)の御住居のあとであり、向うの金堂(こんどう)や塔などが立ち並んでおのずから厳粛な感じのするあたりとは打って変って、大いになごやかな雰囲気を漂わせていてしかるべき一廓(いっかく)。・・・・
 そこで僕はときどきその品のいい八角形をした屋根を見あげ見あげ、そこの小ぢんまりとした庭を往ったり来たりしながら、

  ゆめどのはしづかなるかなものもひに
           こもりていまもましますがごと      解説

  義疏(ぎそ)のふでたまたまおきてゆふかげに
            おりたたしけむこれのふるには    解説

 そんな「鹿鳴集」の歌などを口ずさんでは、自分の心のうちに、そういった古代びとの物静かな生活を蘇よみがえらせてみたりしていた。


 八一の夢殿の歌は以下もある。

  あめつち に われ ひとり ゐて たつ ごとき
        この さびしさ を きみ は ほほゑむ
   解説



会津八一に関するブログ 307

南京続唱(会津八一)第11首 2012・12・30(日)~31(月)

 春日野にて(第1首)   解説 

  をとめら は かかる さびしき あき の の を   
            ゑみ かたまけて ものがたり ゆく    

  (乙女らはかかる寂しき秋の野を笑みかたまけて物語りゆく)


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