会津八一に関するブログ 5
2009~10年

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飛鳥園と八一 2009・1・27(火)

 有名な飛鳥園の店主、故小川晴暘(せいよう)の仏像写真は、会津八一に勧められて大正時代に始まった。昭和28年の八一と亀井勝一郎の対談から以下に抜粋する。
 「・・・奈良の美術というものを新しい写真で写すということは、非常に大切なことで、世界的なことだと思う。君一つやれと言って、私(八一)が勧めたのです。それが当時の小川君(晴暘)ですよ。・・・ところが寺々では喜ばれない。・・・仏像というものは学者の参考品ではなくて、宗教の礼拝の対象ですから・・・許可できないということであった
 2人は仏像を芸術の対象として粘り強く撮影し始める。試みに撮った東大寺三月堂の2枚ばかりの写真が堂内で売られ、当時の寺の欠損を埋めたために、写真撮影が大きく前進したという。奈良に出かけたらぜひ飛鳥園を訪れてほしい。八一の歌碑もある。



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法隆寺と八一 2009・1・28(水)

 『・・・(明治41年、初めて)法隆寺に行ったのは要するに、聖徳太子とそれに関連した史実を見たいという漠然とした気持ちで行ったのです。・・・法隆寺へ私が参ったら、今日はもう遅いから、明日来てくれという。それで宿をとったのです。・・・(翌日)聖徳太子というものを濃厚に頭に描きながら見て歩いた。綱封蔵の中なんかにも行きました。その前であの「みとらしのあづさのまゆみ」という歌が出来たのです。山代大兄王の戦のことなど思い浮べていました。日が暮れてから、私は夢殿へ参りました。』 (会津、亀井対談より)
 敬愛する聖徳太子のこの歌を作ったのは八一28歳の時だった。

  御遠忌近き頃法隆寺村にて(第4首)     解説 

     みとらし の あづさ の まゆみ つる はけて 
              ひきて かへらぬ いにしへ あはれ 

      (みとらしの梓の真弓弦はけて引きて帰らぬいにしへあはれ)


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法隆寺と八一2 2009・1・30(金)

 『前の日に私は不真面目にも酒を飲んで(法隆寺を)見て歩いた。その時、(宿屋の)七十何歳かのお婆さんが、私は貴方の様に酒を呑んで見て歩く人は初めてだと(たしなめて)いう。そして今夜は私と一緒に月見をしてくれというんです。十三夜であった。涼み台を夢殿の近くへ出して・・・。この時、カタンカタンという音がするんですよ。あの音は何だというと、「あれは筬(おさ)の音です。」という。この辺の娘は機(はた)を織りますという。』 会津
 『「南京新唱」にのっている機の歌ですか。』 亀井
 『「いかるがのさとのをとめは」というのはその時出来たのです。』 会津

  法隆寺村にやどりて      解説

    いかるが の さと の をとめ は よもすがら 
           きぬはた おれり あき ちかみ かも

     (いかるがの里の乙女は夜もすがら衣機織れり秋近みかも)

 筬(おさ)の音は機織りで緯糸を筬で引き寄せて、経糸、緯糸をしっかりと組み合わせる時に出る。


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香薬師と八一 2009・2・1(日)

 『私は新薬師寺へ行って香薬師を拝みました。その時「ちかづきてあふぎみれども」という歌を詠んだ。ところが奈良を去って、幾何(いくばく)も無く新聞を見ますと、香薬師さんが盗まれて何処かへ行ってしまった。・・・腕輪のようなものをはめておられたけれども、それが純金でないかということで盗んだ。ところがそれは純金でないということで何処かへ捨ててしまった。それが数日して畑の中から出てきた。・・・何時も私の行った後で盗まれた。それが三度もあった。私も連累ではないかと怪しまれやしないか。』 会津
 『あの仏像を見ていると盗みたくなりますね。』 亀井
 『そうなんです。盗難にあった後、・・・吉井勇が「香薬師もとの御堂に還れよと秋艸道人歌よみたまえ」などと書いている。私は失くなられる度に因縁が深い。』 会津
 今年はこの香薬師を実物大で彫ってみたいと思っている。


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シネラリア(cineraria) 2009・3・5(木)     

 庭前の梅花も散り果てて、梧桐、柘榴の芽も未だ覚束なく、
 百日紅の裸なる幹も目立ちて淋しければとて、アネモネ、
 ネメシア、シネラリア、金盞花など鉢植を置きならべて朝夕に愛玩す

   下り立ちて 紅茶冷めたり シネラリア    
                  八一(大正2年作)

  シネラリア
    和名:フウキギク(富貴菊)・フキザクラ(富貴桜) 、
    花期:春、花屋さんではサイネリアという。 


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お水取り 2009・3・11(水)

 東大寺二月堂のお水取り(お松明)は、とりわけ大きな松明が燃やされる12日が圧巻である。去年、念願の見学を果たした。
 会津八一はなかなか見学の機会がなく、当時親交があった上司海雲(東大寺観音院住職)に手紙で世話を頼んでいる。教え子を連れた八一の奈良での活動を想像する。

 奈良を去る時大泉生へ      解説

   のこり なく てら ゆき めぐれ かぜ ふきて
          ふるき みやこ は さむく あり とも

      (残りなく寺ゆき巡れ風吹きて古き都は寒くありとも)


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まはに  2009・3・21(土)

 「ま」は接頭語、「はに」は黄赤色の粘土、赤土、埴(はに)。
              (會津八一 鹿鳴集評釈 原田清 著 より)
 埴とは粘土のことだが、「まはに」とひらがなで書いてあると難しい。その他は平易な八一の歌を以下に!

 奈良を去る時大泉生へ2       解説

   ならさか を じやうるりでら に こえむ ひ は
         みち の まはに に あし あやまち そ

     (奈良坂を浄瑠璃寺に越えむ日は道のまはにに足あやまちそ)



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會津八一傳  2009・3・28(土)

 会津八一の世界に入ったのは、恩師・故植田重雄の「秋艸道人 会津八一の生涯」(昭和63年)が契機だ。本は難しく、その後再読して八一の世界に魅了された。最初に出版された八一の伝記は、故吉池進の「會津八一傳」(昭和38年)、去年入手して細かい活字の800頁余をやっと読み終えた。膨大な資料とともに八一の生涯が詳細に語られていて貴重な本だが、惜しむらくは誤字が多く、本としての構成にも不備があり、既読の本の中では一番読みづらかった。吉池進は信州戸倉上山田温泉の千曲館二代目、一度はここを訪れたいと思っている。


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観心寺如意輪観音 2009・4・15(水)

 大阪の河内長野にある観心寺の本尊が年に一度開帳される。(今年は4月17,18日) 毎年行き損ねていたが、今年は念願かなって友人たちと一緒に訪れることになった。
 この平安仏について歌人・吉野秀雄(1902年 - 1967年)が自著・鹿鳴集歌解で下記のように表現する。「妖しき生きもの・・・」である如意輪観音を堪能したい。
 弘仁期密教美術の特色とする雄勁な手法と豊麗な様式を遺憾なく発揮したもの。奈良時代のからッとした理想美の世界を出でてここに至ると、何よりも森厳・霊活な、妖しき生きものといふ感に打たれる。像高三尺六寸、木造五彩の設色、思惟の相を呈す。広額豊頬、眼に叡智を秘め、唇辺に慈悲を宿し、右膝を立てて半跏を組み、左右に三臂づつを生じ、右の第一手は屈して頬を受け、第二手は宝珠を持ち、第三手は垂れて数珠を下ぐ。左の第一手は地に安んじ、第二手は蓮華を捧げ、第三手は指頭に金輪を支ふ。宝髻の外に宝珠と霊形の透彫金箔置の宝冠を、臂と腕には金属製の釧(くしろ)をつく。光背・台座等の荘厳具も、全身の彩色もよく保存されてゐる。


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秘仏開帳 2009・4・19(日)
 
 昨日友人たちと秘仏開帳の観心寺に出かけ、八一の歌に読まれているこの如意輪観音にやっと会うことができた。予想をはるかに上回る美しく妖艶な仏像だった。静寂の堂内ではなく、満座の人々の中に浮かび上がる仏を僧の話を聞きながら見るのも別の感慨があった。

  観心寺の本尊如意輪観音を拝して1     解説

   さきだちて そう が ささぐる ともしび に
         くしき ほとけ の まゆ あらは なり

     (さきだちて僧が捧ぐる灯火に奇しき仏の眉あらはなり)

  観心寺の本尊如意輪観音を拝して2     解説

   なまめきて ひざ に たて たる しろたへ の 
         ほとけ の ひぢ は うつつ とも なし

     (なまめきて膝に立てたる白妙の仏の肘はうつつともなし)



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宮川寅雄「秋艸道人随聞」より  2009・4・22(水)

 「・・・かれ(会津八一)が努力し、達成する過程に求めたものは、円満と調和と妥協ではなくて、すこぶる険しい抵抗と反撥の道だった。かれの歩んだ道は、個性的で不羈(ふき)ですらあったことは、すこしでもかれを知るものにとっては周知のところだった。
 会津八一は、いわば圏外の人であり、孤高の道を歩んだ。学問においても、創作においても、つねに非正統をかざして、頑強に時流に抗した。その思想も文学も、きわめて肯定的であり、豊潤をめざしていたにもかかわらず、その形成の径路は、時流に否定的であり、反抗的ですらあった。・・・

 「円満と調和と妥協」の中にいる我が身に無い物を八一はすべて持っていた。全集12巻をやっと読み終えることが出来たのは、彼の全人的な魅力のおかげである。



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レプリカ  2009・4・29(水)

 香薬師像(新薬師寺)は盗難に会い、レプリカでしか見れない。新薬師寺の開帳(レプリカだが)では、厨子の中で正面からしか見れなかった。昭和女子大所有のレプリカは、この春特別展示されたがやはり正面のみ。早大文学部の美術史学専修室にもあり、商用でなければ見学OK、写真撮影も許可が出た。
 仏像作りでは360度全ての角度から手本を見たい。寺では無理だが、国立博物館の特別展(薬師寺・日光月光、興福寺・阿修羅)などでは見ることができ、貴重な機会である。今回の東京行きは、次回作成予定の香薬師像のためだった。


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室生寺の歌 2009・5・9(土)

 昨日の室生寺は降り続いた雨で、シャクヤクは終わっていた。静謐とした寺の塔と仏たちをと思ったが、シャクヤク目当ての観光客の銀座だった。

 室生寺にて(第1首)   解説 

  ささやかに にぬり の たふ の たち すます
       このま に あそぶ やまざと の こら  

  (ささやかに丹塗りの塔の立ちすます木の間に遊ぶ山里の子ら)

 室生寺にて(第2首)   解説

  みほとけ の ひぢ まろら なる やははだ の
       あせ むす まで に しげる やまかな     

  (み仏の肘まろらなる柔肌の汗むすまでにしげる山かな)


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蝦夷(えぞ、えみし、えびす) 2009・5・15(金)

 新潮・現代国語辞典によると、蝦夷(えぞ)はアイヌの旧称、また北海道の古称だが、角川・古語辞典によると、古語としては昔の大和朝廷に服従しなかった北関東以北に住んでいた人々を言い、室町時代以降は北海道、千島、樺太の名称である。
 会津八一は自らを「越の蝦夷」と詠んでいる。

  奈良にて(会津八一)     解説

   いにしへ の なら の みやびと いま あらば
          こし の えみし と あ を ことなさむ
      (古の奈良の宮人今あらば越の蝦夷と吾をことなさむ)


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日吉館 2009・5・17(日)

 会津八一が定宿とし、また多くの文化人が愛した奈良の日吉館が取り壊されることになったと友人のブログに紹介されている。今後は店舗兼用住宅になると書かれている。この地の歴史的な意義を考えて、文化的な施設に変わるといいが、奈良博物館前の一等地で文化庁が現状変更を許可したとなるとそうもいくまい。(日吉館写真)

 春日野のやどりにて     解説

  かすがの の よ を さむみ かも さをしか の
         まち の ちまた を なき わたり ゆく

      (春日野の夜を寒みかも牡鹿の街の巷を鳴き渡りゆく)



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麦秋 2009・5・27(水)

 刈り入れを目前にした黄金色の美しい麦畑が、新聞やテレビで取り上げられている。麦秋(ばくしゅう)とは、麦の収穫期を迎えた梅雨前の初夏を言い、季語でもある。今では農機具が発達したので、刈り入れはコンバインなどで短時間に行われるが、昔は米も麦も植え付けから刈り入れまですべてが手作業だった。以下に八一の早稲の歌。

 汽車中(第2首)      解説
 
   わさだ かる をとめ が とも の かかふり の
          しろき を み つつ みち なら に いる

   (早稲田刈る乙女がとものかかふりの白きを見つつ道奈良に入る)


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6月になって 2009・6・1(月)

 数日前に孵化したと奈良から知らせがあった鈴虫が、我が家でも昨日から生まれだした。虫たちは身の安全のため、慎重に外気温を確かめてから誕生してくる。基準の温度が数日続かないと決して生まれない。自然の不思議、魅力的な所だ。
 紫陽花が咲き始めた。初夏から夏への始まりであり、山の緑が目に鮮やかな季節だ。

  東京にかへるとて         解説
   
    あをによし ならやま こえて さかる とも
         ゆめ に し みえ こ わかくさ の やま

     (あをによし平城山越えて離るとも夢にし見えこ若草の山)


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画家・中村彝(つね) 2009・6・2(火)

 先日出かけた東京国立近代美術館で、結核のため37歳でこの世を去った中村彝の作品に初めて出会った。「エロシェンコ像」である。この画家の名前を知ったのは、会津八一の随筆(渾齋隨筆)の中にある「中村彝君と私」である。
 2人は大正12年に一度だけ会った。八一の歌を愛唱する彝は、翌年12月20日に手紙でその歌を絶賛し4日後に亡くなる。「彝さんはこの方の歌を毎日唱ってゐるうちに、一度に喉がつまって亡くなったのだそうです」と駆け付けた八一が紹介されたと随筆にある。
 その他の八一文献からも知っていた中村彝の作品との出会いは、大好きな関根正二の作品とともに美術館での喜びだった。



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南京新唱(なんきょうしんしょう) 2009・6・13(土)

 会津八一の処女出版である歌集・南京新唱(99首)全ての解説を終えた。下記は終歌である。歌の地を訪れること、オリジナルな解説と写真を掲載することを念頭に、ほぼ7年かかった。その間、メルヘンの仲間や友人達、奈良の鹿鳴人の協力に支えられた。ありがとう。

 東京にかへりて後に          解説

   ならやま を さかりし ひ より あさ に け に
            みてら みほとけ おもかげ に たつ

      (平城山を離りし日より朝に日にみ寺み仏面影に立つ)


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日吉館の由来 2009・8・23(日)             

 八一に師事した安藤更生の随筆に「奈良の美人」がある。その中に日吉館の名の由来が書いてある。「日吉館の先代、松太郎爺さんは、このKの家の山番だった。Kの家では松太郎夫妻が感心によく働いてくれるといふので、今の日吉館の後半部の方を増築して、下宿屋を出させてくれた。爺さんは貧乏な暮らしから、到頭一軒の店がもてるやうに出世したといふので、俺は日吉丸が太閤さまになったようなものだ、といふので、店を日吉館となづけたのである」
 このK家の姉妹が美人で、若い安藤更生や上司海雲が心ときめかした話が書いてある。

安藤更生(あんどう こうせい)
 美術史家。東京生。本名正輝。東京外大卒、早大中退。早稲田中学時代から会津八一に師事。八一と奈良美術研究会を始め、のち奈良に東洋美術研究会を創設。「東洋美術」を創刊。平凡社に入社後、中国滞留を経て早大教授となる。1970年没。

上司 海雲(かみつかさ かいうん)
 奈良市生。龍谷大学英文科卒。昭和14年、東大寺塔頭観音院住職。昭和47年、二百六世東大寺別当、華厳宗管長。名筆家、随筆家としても知られる。文化人サロンを形成し「観音院さん」の名で親しまれた。1975年没。



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奈良の美人 2009・8・24(月)             

 安藤更生らが奈良の美人姉妹に心ときめかしたのは、大正末期、まだ20代前半の頃だが、若い仲間たちの間では「奈良には美人がいない」が通説だった。その話を聞いた先生の会津八一(40代)は「奈良に美人がゐないのは、奈良の男が甲斐性がないからだ。余所から美しいのを連れてくる力もないし、せっかく奈良で生まれた美人もこゝに留めて置く甲斐性がないのだ」と文化論?をぶったと言う。昭和40年頃には奈良で美人をよく見かけるようになったから、八一の説に従えば奈良の男も甲斐性が出てきたかも知れないと安藤は書いている。
 現在、奈良の商業界で活躍するSUの友人が、東京に遊学しその後奈良に帰って余所の美しい人を伴侶にしたのは昭和50年頃、奈良の甲斐性のある男の代表なのだ。



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9月のはじめに 2009・9・1(火) 

 冷夏のように思えた8月だったが、残暑が厳しい9月になった。まだまだ、小犬・うららは冷蔵庫の前でアイスノンを出せと要求する。当分暑さは続きそうだ。
 7、8月と小さな円空仏を作っていて、制作が止まっていた香薬師像に今月は力を入れたい。顔は概ね彫りあげたが、八一が詠んだ「うつらまなこ(うっとりとした、特有の目つき)」を再現するのは難しい。

 香薬師を拝して     解説
  
   みほとけ の うつらまなこ に いにしへ の 
          やまとくにばら かすみて ある らし

     (み仏のうつら眼にいにしへの大和国原かすみてあるらし)


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図書館通い 2009・9・2(水) 

 大学在学中から、文壇の寵児として大活躍していた相馬御風と同郷(新潟)の会津八一は早大文学部時代から親交があった。ただ、八一は生家が経済的苦境に陥ったことなどもあって、在学中は図書館にこもってひたすら勉強するだけだった。卒業後も恵まれず、雪深い新潟の高校・有恒学舎の英語教師の職しかなかった。その後、1910年に坪内逍遙らの尽力で早稲田中学の教師になり、その後の学究の道を開く。
 43歳(1924年)の処女作「歌集・南京新唱」はほとんど売れず、短歌が世間に認められたのは59歳(1940年)の「鹿鳴集」による。だが、早大旧図書館が今では「会津八一記念館」になっているのだから、そこに図書館での学習とその後の学究の素晴らしさが表れている。


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あき ちかみ かも 2009・9・5(土) 

 窓からの風は涼しく、愛犬・うららは気持ちよく椅子の上で寝ている。文珍の落語「まんじゅう怖い」を久しぶりに聞きながら、昨日からの部屋の整理を続ける。観光やゴルフ場案内などの本はネットで代用できるので廃棄することにした。最後に本棚にある色紙の中から、秋の歌を選んで玄関の掛け軸を替えた。

 法隆寺村にやどりて      解説

   いかるが の さと の をとめ は よもすがら 
         きぬはた おれり あき ちかみ かも 

    (いかるがの里の乙女は夜もすがら衣機織れり秋近みかも)


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詩藻/詞藻(しそう) 2009・9・13(日) 

 「 会津八一は、一九四四(昭和十九)年、第三歌集『山光集』を公刊し、ますます深奥の詩境を展開した。書は詩藻の道具である。詩藻の豊かさに比例して、かれの書も老熟を示した」(秋艸道人随聞 宮川寅雄著)
 辞書を引くと詩藻とは「詩や文章、及びそれらを生みだす才能」とある。この随筆は1980年頃までに書かれたものだが、いろいろ知らない言葉が出てくる。勉強不足も恥ずかしいが、「詩を生みだす才能」にまったく欠ける自分には縁のない言葉かもしれない。

宮川寅雄(みやがわとらお)
 1908年~1984年。美術史家・歌人。宮城県出身。早大政経中退。在学中から会津八一に師事。学問・教育・研究・中国との文化交流に取り組む。学芸においては短歌・書・画・陶等に独特の魅力をもつ。また、社会運動にも参加、戦後は北海道化学労働組合委員長に就任。そののち、上京して日中文化交流協会理事長を務め、和光大学創設に参画し、教授として活躍した。



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歌人・吉野 秀雄 2009・9・25(金)

 会津八一の教え子は沢山いたが、吉野秀雄は歌における唯一の門弟だった。八一の歌の良き理解者であるが、独自の歌境を開き昭和歌壇に特異な位置を築く。
 妻はつ子の死に際して性愛を歌いあげた絶唱は、吉野秀雄の名を一躍世に知らしめた。

  真命の極みに堪へてししむらを敢てゆだねしわぎも子あはれ 

吉野秀雄(よしのひでお 1902年-67年)
 群馬県高崎市生まれ。慶大中退。伊藤左千夫・正岡子規らアララギ派の作風に強い影響を受けたが、会津八一の南京新唱に感動し師事する。大学在学中に結核を患い、「病人歌人」としても知られる。戦中に妻はつ子と死別。とみ子(八木重吉の元妻)と再婚。愛飲家、酒豪でもあった。作品に「苔径集」「早梅集」「寒蝉集」「良寛和尚の人と歌」「秋艸道人會津八一」「鹿鳴集歌解」



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阿修羅展 2009・9・29(火)

 東京と九州に9月27日まで出張していた阿修羅像が興福寺に帰った。寺の宝物殿では正面からしか見えないから、博物館で360度から見ることができることは幸せだ。総入場者数は140万人を超えた。
 昭和18年、教え子たちが学徒として出陣することを嘆いて八一が阿修羅を詠んだ。

 阿修羅の像に(第2首)    解説

   けふもまた いくたりたちて なげきけむ 
       あじゆらがまゆの あさきひかげに  

 (今日もまた 幾たり立ちて 嘆きけむ 阿修羅が眉の 浅き日かげに)



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阿修羅展 2009・9・29(火)

 東京と九州に9月27日まで出張していた阿修羅像が興福寺に帰った。寺の宝物殿では正面からしか見えないから、博物館で360度から見ることができることは幸せだ。総入場者数は140万人を超えた。
 昭和18年、教え子たちが学徒として出陣することを嘆いて八一が阿修羅を詠んだ。

 阿修羅の像に(第2首)    解説

   けふもまた いくたりたちて なげきけむ 
       あじゆらがまゆの あさきひかげに  

 (今日もまた 幾たり立ちて 嘆きけむ 阿修羅が眉の 浅き日かげに)


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春日野 2009・11・1(日)

 月が秋の野にくまなく照っている情景は、若草山山麓の奈良の地、春日野であってこそ趣がある。なぜなら、古都奈良の寺々や自然、しかも悠久の昔からの文化の蓄積をこの一言で彷彿とさせるからだ。11月を八一の南京新唱巻頭歌を味わいながら始めたい。

  春日野にて(第1首)  解説

    かすがの に おしてる つき の ほがらかに 
        あき の ゆふべ と なり に ける かも

    (春日野におし照る月のほがらかに秋の夕べとなりにけるかも


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杉本健吉画伯  2009・11・18(水)           

 2004年に亡くなった愛知県出身の杉本健吉は、1954年会津八一との合同書画集「春日野」(図版全21枚)を出版した。最近オークションで手に入れ、壁に飾っている。健吉と八一について新潟の会津八一記念館HPから以下に引用する。

 杉本といふ画家の腕まへほんとに関心いたし候。(「上司海雲宛會津八一書簡 昭和21年4月27日」より)

 秋艸道人の『鹿鳴集』は私のバイブルである。奈良を歩くときは手離さず、その時その場でハミングしてみる。先生の歌は声に出して一層の感銘の度を増す。(「夜半三月堂」より健吉の言葉) 


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師走(しわす)  2009・12・1(火)

 師(先生)が走り回るほど忙しい月だと思っていたがそうではない。師走は「しわす」の当て字で、この言葉の語源は沢山あって確たるものがないようだ。諸説の中で師走に近いのは『12月は仏事のために師(僧)が東西に忙しく走り回るため、師馳(しは)せ、そこから「しわす」となった』説だ。
 円高、株安、デフレに象徴される今年の師走の商店街は残念ながらいつもの活気がない。雨や雪が降る時雨は詩的だが、街としてはありがたくない。

  海竜王寺にて(第1首)     解説

   しぐれ の あめ いたく な ふり そ こんだう の
             はしら の まそほ かべ に ながれむ

       (時雨の雨いたくな降りそ金堂の柱のま赭壁に流れむ) 



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伎楽の面 2009・12・7(月)

 春日野(八一と健吉の合同書画集)に伎楽の面の歌があった。壁に掛けたが、この歌の解説は7年も前だった。伎楽の最初の記録は『日本書紀』西暦612年にある。百済の味摩之が大和の桜井に少年を集めて伎楽を伝習せしめたと書かれている。聖徳太子の時代に盛んだったが、詳細はわからず、平安時代には衰退し、面だけが残っている。
 伎楽の面を奈良博物館で初めて見たが、その後は東京国立博物館法隆寺宝物館でも鑑賞した。滋賀信楽のミホミュージアムでも壁にあった。



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南京新唱・2009年(6) 2009・12・24(木)

 6月、会津八一の第一歌集「南京新唱」(99首)の解説を終えた。最近のメインワークにしていたので、それなりに達成感はある。その間の参考書籍が90冊ほどになった。許された時間に歌の現地を訪れながら、ゆっくりと進めてきたので初期の理解と現在ではずいぶん違っている。現在の立場で、修正等を行おうと思うが、達成後の虚脱なのかまだ手をつけられない。
 散文による奈良の導きの糸が、「大和古寺風物詩」(亀井勝一郎)と「古寺巡礼」(和辻哲郎)だとするなら、詩歌におけるそれは「南京新唱」をおいて他にはない。猿沢の池を通り、鹿たちの春日野を散策し、諸仏に対峙するとき、調べのよい八一の歌が快く浮かんでくる。
 「會津八一と奈良[歌と書の世界]」(西世古柳平 著 入江泰吉 写真 二玄社)や「自註鹿鳴集 」(会津八一 著 岩波文庫)を携えて奈良を訪れることをお勧めする。


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良寛、御風、八一・2009年(9) 2009・12・28(月)

 この三人のことをもう少し詳しく書きたかったが、今日でひとまず終わることにする。
 ともに新潟出身でそれぞれが個性豊かな生活と作品を残した。良寛は万葉調の良寛風と言える詩歌を残した。八一は万葉集、良寛、子規の影響を受け、その上であらゆる流派の影響を拒否し、八一風と言えるオリジナルな孤高の作風を生み出した。文壇の寵児として若き日を送った御風は、突然自己否定し故郷新潟に帰り、良寛研究や詩作を行いながら、平和で穏やかな家庭生活を大切にして暮した。良寛に影響を受けた早大同窓の八一と御風は、それぞれ晩年に良寛の五合庵を訪れている。1946年、八一は病弱だった御風を糸魚川に訪ね、40年来の友情を温めるが、御風は1950年、八一は1956年にこの世を去っている。


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平城宮跡 2010・1・14(木)      

 奈良に都ができて今年は1300年、いろいろな解説

    はたなか の かれたる しば に たつ ひと の 
             うごく とも なし もの もふ らし も

     (畑中の枯れたる芝に立つ人の動くともなしもの思ふらしも) 




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犇々と  2010・1・24(日)

 明治生まれで1969年に没した歌人・吉野秀雄は会津八一に師事し、ただ一人の歌の弟子だった。彼の1940年代に書いた八一や良寛の評論はとても面白いが、漢字の難しさに戸惑う。辞書を引きながらでは文意から遠ざかるので、類推しながら読む。メモをしておいて後から調べるが、この時代の人の語彙力の凄さに圧倒される。
    犇々と  忝く  夾雑  筥  烱々  扨て  
    砥礪  秘鑰  鏤刻  纔か  亘り

 表題は「ひしひしと」と読むが、わずか数ページに上記の字が出てくる。読みは文末に表記するが、意味は辞書で調べてほしい。
    ひしひしと かたじけなく きょうざつ きょ けいけい さて
    しれい ひやく るこく わずか わたり 



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会津八一の教育  2010・1・28(木)

 「先生の教へといふものはどういふものか。先生はいつたい仏典も読み、中国のいろんなものもお読みになる。けれども四書五経みたいな、ああいふ経書といふものはお嫌ひだつたのです。ですから道徳的な話はあまりなさらない、俺はいやだといつて」(吉野秀雄)
 この文章から、道徳的なことが苦手で自由に生きてきた自分が八一を高く評価する意味が、よくわかった。
 明治から昭和を生きた八一は衆愚とは無縁で、深く培われた素養をもとに極めて論理的な思考で教育を行った。芥川賞候補になった「鳩の橋」小笠原忠著(恒文社)は早稲田中学時代の八一の教育者としての像をよくあらわしている。

  (会津八一記念館HPより)
 1910年(明治43)9月、坪内逍遙の推薦で英語教師として勤務。1918年(大正7)より教頭となりましたが、教育方針で対立して教頭辞任後、1925年(大正14)辞職。八一は英語と修身を担当していましたが、型破りな授業は生徒に大変人気があったそうです。授業を越えた全人格的教育には多くの伝説的エピソードが残され、小笠原忠の小説「鳩の橋」でも書かれています。


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1月の終わりに 2010・1・31(日)

 兄や息子達と一緒に新年を迎えることができ、また雪もほどよく降って一年の滑り出しは順調だった。ただ、軽い腰痛になったり腸の調子が悪かったりで養生の時間も必要だった。
 正月と新年会のご馳走は美味しく、少々食べ過ぎたようだ。腹8分目が健康のもとかな?
 今日、壁の書画を掛け替えた。「春日野(八一と健吉の合同書画集)」

  春日野にて(第8首)   解説

   もりかげ の ふぢ の ふるね に よる しか の 
             ねむり しづけき はる の ゆき かな




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養素 2010・2・4(木)        

 道徳教育を嫌った会津八一は生徒や弟子に「養素」が大切だと説いた。なじみの無い言葉だが、吉野秀雄によると「・・・素は素生といひますか、人間の本性と申しますか、さういふものを養つて全きものにするといふことなんですが、もつとそれを広めていへば、要するに根本を養ふといふこと」で、それはダイジェストのような浅薄なものを排して、古典などを深く学ぶこと。広く浅くではなく、根本を深くそして広くすることを目指せということだろう。
 ここのところ、彫刻や短歌、俳句について仲間と話したが、八一の言う「養素」が無ければ、単なる模倣や文字並べに終わってしまう。創作とはきわめて難しいものだとつくづく思う。


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八一の奈良の歌碑 2010・3・2(火)

  奈良坂にて     解説

      ならざか の いし の ほとけ の おとがひ に
            こさめ ながるる はる は き に けり


 3月になると春をあちこちで感じる。しかもここのところとても温かい。友人から、会津八一の奈良の歌碑について問い合わせがあったので、整理して一覧にした。奈良には15基あるが、上記の「奈良坂にて」の歌碑は実際に見ていない。今年は訪れたいと思う。

   現在は20基ある。


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秘仏開帳 2010・3・4(木)

 平城遷都1300年を祝して、奈良では多くの秘仏が開帳されるので楽しみだ。情報の載った新聞を切り抜いてあるので時間を見つけて出かけたいと思っている。ただ、新薬師寺で12月まで開帳されている香薬師如来像はレプリカである。明治時代に2度盗難にあいながらも寺に戻った香薬師像だが、昭和18年3月の3度目の盗難以来発見されていない。

 三月二十八日報ありちか頃その寺に詣でて拝観するに
 香薬師像のたちまち何者にか盗み去られて今はすでに
 おはしまさずといふを聞きて詠める     解説

  をろがみて きのふ の ごとく かへり こし 
      みほとけ すで に なしと いはず やも

  (をろがみて昨日のごとく帰りこしみ仏すでに無しと言はずやも ) 



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「奈良坂にて」の歌碑 2010・3・7(日)

 般若寺にあると言われる会津八一の「奈良坂にて」の歌碑について、友人・鹿鳴人が調べ、写真を撮って送ってくれた。「般若寺の住職の住むやや荒れた庫裏の前庭に歌碑はあった。残念ながら、普通の人が入っては行かないところにある」と添え書きがしてある。
 以前、般若寺を訪れた時に探せなかったのでとてもありがたい。早速、歌の解説のページに使わせてもらった。


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香薬師像 2010・3・11(木)

 3月21日の3番街でのイベントに、最近仕上げた香薬師像を展示しようと思っている。それまでに八一の香薬師関連(一覧)の歌の解説をしたいと思う。今日は以下の歌を解説した。

三月二十八日報あり・・・(第2首)  解説
  (三月二十八日報ありちか頃その寺に詣でて拝観するに
   香薬師像のたちまち何者にか盗み去られて今はすでに
   おはしまさずといふを聞きて詠める)

  みほとけ は いかなる しこ の をのこら が 
        やど にか たたす ゆめ の ごとく に

    (み仏はいかなる醜の男らが宿にか立たす夢のごとくに)   



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新薬師寺の歌碑 2010・3・14(日)

 香薬師を詠んだ歌の代表作であり、最初に出来た八一の歌碑の写真を友人・鹿鳴人が送ってくれた。ちょうどそれに関連する歌の解説をしたので、喜んで写真を使わせてもらった。

  三月二十八日報あり・・・(第3首) 解説  
     (三月二十八日報ありちか頃その寺に詣でて拝観するに
     香薬師像のたちまち何者にか盗み去られて今はすでに
     おはしまさずといふを聞きて詠める)

 みほとけ は いまさず なりて ふる あめ に 
     わが いしぶみ の ぬれ つつ か あらむ

   (み仏は居まさずなりて降る雨に我が碑の濡れつつかあらむ)  



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香薬師像展示  2010・3・20(土)

 「まちかど博物館in四日市三番街アーケード」を明日の10:00~16:00から行う。フクロウなのに8時に出て設営をしなければいけない。強い風が吹きそうなので、仏像が倒れないかとても心配である。SUの香薬師模刻像も展示する。

 三月二十八日報あり・・・(第4首)  解説 
    (三月二十八日報ありちか頃その寺に詣でて拝観するに
     香薬師像のたちまち何者にか盗み去られて今はすでに
     おはしまさずといふを聞きて詠める)

  いでまして ふたたび かへり いませり し 
      みてら の かど に われ たちまたむ
   (出でまして再び帰りいませりしみ寺の門にわれ立ち待たむ)


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やまとくにばら  2010・3・25(木)

 大和の国(大和国原)では、平城遷都1300年を記念して沢山のイベントが行われる。奈良在住の友人によると春のフェアは4月24日からはじまると言う。薦めてきたコースは平城宮跡(大極殿など)の祭を見てから、奈良の街(3条通り、もちいどのセンター街、ならまち)を散策して、新装なった興福寺国宝館へ。あの阿修羅像が待っている。
 今日、壁の書画を掛け替えた。「春日野(八一と健吉の合同書画集)」

  香薬師を拝して      解説

    みほとけ の うつらまなこ に いにしへ の 
           やまとくにばら かすみて ある らし   




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展示場確保  2010・3・28(日)

 新潟市美術館ではカビとクモの発生問題で「奈良の古寺と仏像-會津八一のうたにのせて」展が中止になった。しかし、関係者の努力で新潟県立近代美術館に会場を移して、無事開催されるようだ。同時に、新潟市會津八一記念館で「生涯と業績をたどる」が開催される。
 このカビとクモ事件は、すでに解任されている北川フラム非常勤館長の独断的な運営と人事に起因するらしい。4人いた生え抜きの学芸員3人を異動転出させていることなどは異常だ。ともあれ、開催出来ることになってほっとしている。
 2007年夏、新潟市會津八一記念館まで車で出かけたがとても遠かった。奈良からも新潟は遠い、それ故中宮寺の国宝・菩薩半跏像の「出張」実現は素晴らしい。


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五言絶句と和歌 2010・4・7(水)

 八一は唐の漢詩から歌を作り、鹿鳴集で印象として9首発表している。引用歌は唐の詩からなのに、彼が思慕する良寛の雰囲気が漂ってくる。

  印象(第7首)    解説

   やま ふかく くすり ほる とふ さすたけ の 
        きみ が たもと に くも みつらむ か  
 

       (山中深く薬草を採集していると言うあなたの袂は
        湧き立つ雲があたりに満ちて、しっとりと濡れているだろう)


  隠者を訪うて遇わず  賈島

      松下問童子   (松下に童子に問へば)
      言師採薬去   (言く、師は薬を採りて去れり)
      只在此山中   (只だ此の山中に在らん)
      雲深不知処   (雲深くして処を知らずと)


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黄檗山萬福寺 2010・4・21(水)  

 雨の降る平日の午後、ほとんど参詣する人のいない黄檗山(おうばくざん)萬福寺を訪ねる。整然とした寺宇と庭園が禅宗の寺らしい。黄檗三筆(隠元、木庵、即非)で名高く、随所に聯(れん)と額があるこの寺を八一が詠んでいる。

  二十四日奈良を出で宇治平等院黄檗山万福寺を礼す(第1首)解説

   わうばく に のぼり いたれば まず うれし 
       もくあん の れん いんげん の がく

     (黄檗にのぼり至ればまづうれし木庵の聯隠元の額)

  二十四日奈良を出で宇治平等院黄檗山万福寺を礼す(第3首)解説

   しやかむに を めぐる 十八 だいらかん
       おのも おのも に あき しづか なり

     (釈迦牟尼をめぐる十八大羅漢おのもおのもに秋静かなり)

   ( 聯は相対して柱や壁にかけて飾りとする細長い書画の板)


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平城遷都1300年祭 2010・4・22(木)

 いよいよ24日から平城宮跡で始まる。皇太子が奈良に来て23日の大極殿での式典に出る。内覧会で平城宮跡を訪れた奈良の鹿鳴人がブログで書いている。この紹介ブログはとても丁寧かつアドバイスに富み価値あるものと思う。ぜひ一読して今年は奈良を訪れて下さい。

 ブログ「鹿鳴人のつぶやき」
     いよいよ平城遷都1300年祭 (4月22日)

 会津八一が以下に詠んだ大極芝の上に大極殿が再建された。感慨深いものがある。

  平城京址の大極芝にて(第1首)  解説

   はたなか の かれたる しば に たつ ひと の 
            うごく とも なし もの もふ らし も
 



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号泣が山を枯らすほどの悲嘆 2010・4・28(水)

 香薬師が盗まれて僧の嘆きが高円山を枯らすほどだと八一は詠う。須佐之男命の故事からの連想だと言う。手がけてきた香薬師像(木像)が完成し、八一の香薬師の歌の解説も完了した。

 三月二十八日報あり・・・(第5首)  解説  
  (三月二十八日報ありちか頃その寺に詣でて拝観するに
   香薬師像のたちまち何者にか盗み去られて今はすでに
   おはしまさずといふを聞きて詠める)

   かどのへ の たかまどやま を かれやま と 
        そう は なげかむ こゑ の かぎり を

      (門の辺の高円山を枯れ山と僧は嘆かむ声の限りを)



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はつなつ 2010・5・28(金)
 
 はつなつ(初夏)はやはりこの歌である。み仏が初夏の風を小指の先で感じていると詠う。指先の美しい仏像があれこれと浮かんでくるが、近くは先日の十一面観音(観音寺)の手が印象深い。仏像の安達先生は美しい指を彫るために、上村松園の美人画を何度も訪ねられたという。
 今日、壁の書画を掛け替えた。「春日野(八一と健吉の合同書画集)」

  奈良博物館にて(第5首)     解説
  
   はつなつ の かぜ と なりぬ と みほとけ は 
          をゆび の うれ に ほの しらす らし

   (初夏の風となりぬとみ仏はを指のうれにほの知らすらし)  




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友人からのメール 2010・7・17(土)

 「明日朝9時NHK日曜美術館は会津八一だよ。今、東京の三井記念美術館でやってる“奈良の古寺と仏像・會津八一のうたにのせて”は11月20日から奈良県立美術館でもやる」
 友人・Kから連絡があった。明日の放送「会津八一と戦没学生が見た奈良の仏」(再放送は7月25日夜)を楽しみにしている。恩師・故植田先生も八一の弟子で学徒動員生だった。
 この展覧会のことは春に東京の友人・Yから連絡が来ている。友人はありがたいものだ。来月にはYと三井美術館に行くつもりである。多くの仏像が八一の歌とともに展示される。日曜美術館も展示も多くの人に見てもらいたいと思っている。



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美女 2010・8・6(金)

 30年ほど前に刊行された文芸春秋のグラビア「日本の美女たち」の中に法華寺の十一面観音が載っている。ほとんどが人物の写真や絵であるのに仏像とは珍しい。
 今日、壁の書画を掛け替えた。「春日野(八一と健吉の合同書画集)」

  法華寺本尊十一面観音   解説

   ふぢはら の おほき きさき を うつしみ に 
          あひ みる ごとく あかき くちびる

        (藤原の大き后をうつしみに相見るごとく赤き唇)  




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17基目の八一歌碑 2010・8・20(金)

 新潟で開催された「平城遷都1300年記念 奈良の古寺と仏像 會津八一のうたにのせて」は13万余人の来場者で成功裡に終わったそうだ。会場が八一の故郷であることもさりながら、有名な中宮寺の菩薩半跏像が展示されたことが大きい。
 中宮寺の日野西光尊門跡が新潟に延べ13日滞在し、精力的に活動したことが関係者によって伝えられている。さらに、特筆すべきは門跡が八一の歌碑建立(17基目)を熱望したことだ。その熱意に応えて、800万円の建立資金の募金活動が始まった。

 中宮寺にて     解説 

  みほとけ の あご と ひぢ とに あまでら の 
        あさ の ひかり の ともしきろ かも

     (み仏の顎と肘とに尼寺の朝の光のともしきろかも ) 



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茶室「如庵」と八一の歌 2010・8・28(土)

 三井美術館内には国宝・茶室「如庵」が再現され、普段は茶道具を展示している。「如庵」は織田有楽斎(織田信長の実弟)が京都・建仁寺境内に建てた茶室で、現在は犬山市に移築されている。
 再現された茶室に八一の世界が作られていた。見事な書「学規」は眼前に、奥には歌書「みほとけの」の軸が掛かり、手前に貴重な初版本・南京新唱など歌集が並べられている。仏と八一の作品に囲まれて至福の時を過ごした。

 病閒(第14首) 解説
    また東大寺の海雲師はあさなあさなわがために二月堂の
    千手菩薩に祈誓をささげらるるといふに(第2首)

  みほとけ の あまねき みて の ひとつ さへ  
          わが まくらべ に たれさせ たまへ

   (み仏のあまねきみ手の一つさへわが枕辺にたれさせ給へ )



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喜光寺 2010・11・27(土)

 喜光寺に、會津八一の奈良16基目の歌碑が10月31日に建立された。大正時代に荒廃した喜光寺を訪れて詠んだ歌である。

 菅原の喜光寺にて    解説

   ひとり きて かなしむ てら の しろかべ に
         きしや の ひびき の ゆき かへり つつ 


 八一の南京新唱は奈良導きの歌集と言われるが、廃仏毀釈以降の荒廃した奈良に対峙しながら、古代への憧憬を詠ったものが多い。さらにその背景には失恋による感傷もある。寺が修理され、春に南大門が再建された現在ではとても当時を想像できないが、12月に友人たちと訪ねる時には大正時代に戻ってみたい。
 八一は自註鹿鳴集でこう言う。
作者が、この歌を詠みしは、この寺の屋根破れ、柱ゆがみて、荒廃の状目も当てかねし頃なり。住僧はありとも見えず。境内には所狹きまでに刈稻の束を掛け連ねて、その間に、昼も野鼠のすだくを聞けり。すなはち修繕後の現状とは全くその趣を異にしたりき。
 吉野秀雄は鹿鳴集歌解にこう書いている。
 『かすかな「きしやのひびき」にもほろほろと土をこぼしそうな、古びた崩れかけた白壁の白さの哀愁である。汽車を点出して、少しも不調和でなく、よく渾熟した詩美を醸している。


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中宮寺 2010・11・29(月)

 今日、会津八一の奈良における17基目の歌碑が建立された。その様子を新潟日報が報じている。

  中宮寺にて   解説
 
  みほとけ の あご と ひぢ とに あまでら の 
          あさ の ひかり の ともしきろ かも    


 この仏(半跏思惟像)の前では思わず正座して、その美しさに見とれ時間を忘れる。多くの言葉、沢山の写真で紹介されるとても有名な仏だ。後日訪れて歌碑の歌を味わいながら、仏を拝観したいと思っている。



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会津八一の書 2010・12・2(木)

 初めて見るとびっくりするほど変わった書である。なぜなら、我々が幼いころから「習字」として学習してきた字からは大きくかけ離れているからだ。弟子・故安藤更生(早大教授)が「反抗の書」と言ったのは書道、書道界の常道を踏まなかったことからきている。だが、実際の八一の書は風格のある独創的なものだ。このことこそが彼の書が評価され、愛されてきた所以だろう。実際一作品が何十万円もすることからもわかる。
 この独創の書はどう作られたのか?
 字は伝達の道具であることを八一は強調しながら言う。「・・・字は要するに垂直線である。そうでないところは円の一部のようなものだから、弧のようなものと垂直線と水平線が書ければよろしい。もう一つ必要なことは一定の面積を等しい距離に分割したコンビネーションが一番人のわかる字になる・・・」これは新聞の明朝活字に通じると言う。しかし、書道の常識からは離れている。
 また、膨大な古今の書を収集し眺めながらも真似をしなかった。ある書を見ていてその書の影響を断ち切るために正反対の書を同時に見たと言う。独創はここから生まれた。
 我々が「書道」的に名筆とみなす視点から一度離れて、八一の書を見るとその良さが見えてくるように思う。


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奈良・会津八一展 2010・12・5(日)

 東京三井記念美術館で夏に開催された「会津八一の歌にのせて」は仏像と八一作品のコラボレーションだったが、仏像が重点なので八一ファンには不満な所もあった。その点、奈良会場は真正面からの八一作品展示だったので深い味わいがあった。

 奈良博物館にて     解説

  くわんおん の しろき ひたひ に やうらく の
            かげ うごかして かぜ わたる みゆ  


 棟方志功板画や福岡隆聖画に書かれたこの名歌に間近に接することができ、さらにこの歌の歌碑の拓本が同時に見れると言う贅沢である。あれもこれもと食い入るように見つめ、時間の経つのを忘れた。
 この展示会は友人・鹿鳴人のブログに詳しい。ぜひ読んでいただきたいのと奈良に友人があることを心から感謝している。


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天平倶楽部 2010・12・12(日)

 奈良のレストラン天平倶楽部は、会津八一が初めて奈良を訪れた時の宿、 對山褸の跡地にできた和風レストランで、敷地内には「子規の庭」を持っている。興福寺国宝館を出て、境内の八一の歌碑を見た後、昼食をここで取った。

 興福寺をおもふ     解説

  はる きぬ と いま か もろびと ゆき かへり 
        ほとけ の には に はな さく らし も

      (春来ぬと今かもろ人行き帰り仏の庭に花咲くらしも)  

 八一は對山褸で粗末な奈良案内を手にする。その中の天皇の寵愛を失った采女の入水を読むとすぐに猿沢の池に出かけた。

 猿沢池にて     解説

  わぎもこ が きぬかけ やなぎ みまく ほり 
       いけ を めぐり ぬ かさ さし ながら         

     (吾妹子が衣掛け柳みまくほり池をめぐりぬ傘さしながら) 

 美味しい食事を食べながら、初めて奈良の地に来た八一の心境をこの歌を口ずさんで思い馳せた。



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会津八一の奈良 2010・12・13(月)

 初めて奈良を訪れたのは1908年(明治41年)、その時に詠んだ20首の中に「わぎもこ」の歌がある。この時のことを故植田重雄先生は著書「会津八一の生涯」でこう書いている。
「(新潟から大阪へ・・・)八月六日、大阪からただひとり汽車で奈良に向かった。酷暑の天気が久しぶりに崩れて雨が降っていた。奈良駅につくと、さっそく案内記を買い求め、昼の雨の町すじをたどりながら、東大寺転害門(てがい)の近くの對山褸に宿をとった。宿の二階の廊下で店を出している名物屋の女から、通俗的な名勝案内をもう一冊買った。宿の浴衣に着替え、宿の番傘をさして、この案内書をたよりに雨のけぶる猿沢池を散策した。

 猿沢の池にて    解説

  わぎもこ が きぬかけ やなぎ みまく ほり 
        いけ を めぐり ぬ かさ さし ながら


 天皇の寵を失って悲しみのあまり、この池に身を投じたという采女(うねめ)の伝説が、なぜか身につまされて悲しかったのである。春日野をさまよい、老松の中に鎮(しずま)る朱塗の春日大社をたずねてゆく。さらに、若草山にのぼる。久しぶりの雨に、古都はしっとりと濡れ潤っていた。・・・」
 この對山褸跡地に20年前に作られた天平倶楽部で食事をした。とても嬉しいことだった。



会津八一に関するブログ 189

春日野(八一と健吉の合同書画集) 2010・12・17(金)

 かけてあった十一面観音の書画から久しぶりに薬師寺東塔の書画に取り替えた。もうじきやってくる初春には向かない歌かもしれないが、寒風吹きすさぶ奈良の景色が脳裏に浮かんでくる。この歌や寺の薬師三尊や聖観音が「薬師寺においで!」と言っているようだ。

 薬師寺東塔     解説

  あらし ふく ふるき みやこ の なかぞら の 
        いりひ の くも に もゆる たふ かな  

    (嵐吹く古き都のなかぞらの入日の雲にもゆる塔かな)



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喜光寺の親切 2010・12・20(月)

 先月紹介した喜光寺の会津八一の歌碑を今月3日に見学した。SUも鹿鳴人も建立に寄付しているので思い入れは強い。訪れた午後、強風と冷雨に見舞われ本堂に逃げ込むぐらいだった。歌碑見学後、南大門を出ようとすると受付のある狭い内部に外国人の画家が風雨を避けていた。「境内で写生していた人にあまりの雨と風だったので入っていただいたのですよ」と受付の人が言う。スケッチブックを見せてもらいながら、寺の暖かさを感じた。
 ところで午前中に見学した奈良県立美術館の受付で、いくばくかの質問をしたら学芸員が出張中でお答えできないと言われた。入館者がさほど多くなく忙しそうでもなかったので、「後日返事を」と言う対応でもいいのではないかと思った。努力を怠る公的美術館の末を心配する。
 その質問は新潟の八一記念館に電話で問い合わせて、調べてもらって解決したのだが。
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