会津八一に関するブログ 4
2007~8年

会津八一に関するブログ 108

鹿の声 2007・1・11(木)

 鹿の声はいろいろある。牡鹿の求愛の声、縄張りの声、牝鹿の声など。会津八一は定宿・日吉館に一人投宿して、深夜の鹿の声を聞きながら深い思いに沈む。

  奈良の宿にて       解説

    をじか なく ふるき みやこ の さむき よ を 
          いへ は おもはず いにしへ おもふ に

         (牡鹿鳴く古き都の寒き夜を家は思わず古思ふに)


会津八一に関するブログ 109

奈良山の 2007・2・14(水)

 会津八一が定宿・日吉館で、故郷を思う。久しぶりに八一の歌を解説した。

  奈良の宿にて(第2首)      解説  

     ならやま の したは の くぬぎ いろ に いでて
          ふるへ の さと を おもひ ぞ わが する
 
     (奈良山の下端の櫟いろに出でてふるへの里を思ひぞ我する)


会津八一に関するブログ 110
    
三輪の金屋 2007・3・15(木)

 2月に紹介した「金屋の石仏」を詠んだ八一の歌の解説をあげた。秋の歌だが、訪れたのは暖冬の2月、歌と季節が合っていなかったが、歌そのものは十分に味わうことが出来た。

 三輪の金屋にて路傍の石仏を村媼(そんおう)の礼するを見て 解説 

   みみ しふ と ぬかづく ひと も みわやま の 
         この あきかぜ を きか ざらめ や も
 
    (耳しふとぬかづく人も三輪山のこの秋風を聞かざらめやも)


会津八一に関するブログ 111

東大寺懐古 2007・3・30(金)

 会津八一は聖武天皇が1250年前に東大寺へ夜の行幸をした時のことを詠んだ。大仏殿前で行われている現在のライブなどとイメージだけをダブらせて見てはどうだろうか? 

 東大寺懐古      解説
  
    おほてら の ほとけ の かぎり ひともして  
         よる の みゆき を まつ ぞ ゆゆしき

     (大寺の仏の限り灯ともして夜の行幸を待つぞゆゆしき)


会津八一に関するブログ 112

3月の終わりに 2007・3・31(土)   

 孫・琴音が一歳になった。両家のジジババが揃ってお祝いした。新しい生命はみずみずしくすがすがしい。この子の成長が楽しみだ。
 雪不足だったが、今日を入れて延べ18日ゲレンデに立った。新記録かな?まだ行きたいが、雪不足には勝てない。スキーに目を奪われて、興福寺で今日行われた八一石碑の除幕式を忘れていた。詳しくは4月1日の「鹿鳴人のつぶやき」参照。

  興福寺をおもふ     解説
   
    はる きぬ と いま か もろびと ゆき かへり 
        ほとけ の には に はな さく らし も

      (春来ぬと今かもろ人行き帰り仏の庭に花咲くらしも)


会津八一に関するブログ 112-2
   (2007・4・2~2007・12・28まで、一括で掲載する)

飛鳥園の二つの歌碑 2007・4・2(月)
 会津八一「春日野のやどりにて」の歌碑が飛鳥園になぜ二つもあるのか疑問だった。いろいろの手違いで、飛鳥園で聞く機会が持てなかったが、鹿鳴人から届いた資料と写真で謎が氷解した。「春日野のやどりにて・解説」に追記した。なお、奈良には八一の歌碑が15ある。
    かすがの の よ を さむみ かも さをしか の
                まち の ちまた を なき わたり ゆく
    八一
 『・・・昭和四十九(七四)年、宿の裏の前栽に建てられた。・・・(田村きよのさんは)「歌碑の彫りが気に入らん」とつぶやく。・・・平成三(九一)年一月一五日、洗面所前の坪庭に新碑が設置された。「会津先生が頭をひょいと下げて便所から出てきて楊枝(歯ブラシ)を使うてはった」場所である。きよのさんは平成十(九八)年に亡くなり、歌碑は東側の仏像写真ギャラリー飛鳥園(奈良市登大路)に移転された。』  (「会津八一と奈良 ㊥ 富田敏子」より) 


八重桜 2007・4・20(金)
 ソメイヨシノが散りつくし、新聞の桜だよりが無くなった。散る桜花と一緒になって叔母は行ってしまった。静かにあっけなく、医者は突然死のようなものと言う。もう少しと思うが、享年90、あの世で叔父さんが待ち焦がれているだろうから、今頃手を取り合っているかもしれない。
 お別れの場所から足を伸ばして興福寺の八一の歌碑を友人・鹿鳴人と訪ねる。奈良の街ではあちこちで八重桜が咲いて、ピンクの花が叔母の葬送に花を添えているようだった。


喜光寺 2007・4・23(月)
 夢キューブを後にして、奈良市菅原町にある喜光寺(別称菅原寺)を訪れる。八一が荒れ果てたこの寺を詠んでいるからである。ただ、薬師寺副住職の山田法胤さんが喜光寺住職になられたからか、寺内はよく手入れされており、200余の蓮の鉢が所狭しと並んでいた。菅原道真生誕の地と言われる菅原神社に隣接する。
  菅原の喜光寺にて   
        ひとり きて かなしむ てら の しろかべ に 
               きしや の ひびき の ゆき かへり つつ
  八一
         (一人来て悲しむ寺の白壁に汽車の響きのゆきかへりつつ)


法華寺 2007・4・24(火)
 光明皇后が聖武天皇と亡き父母の冥福を祈って、藤原不比等(父)の邸宅を総国分尼寺としたのが奈良の法華寺。本尊は八一が官能的に詠った豊麗甘美な十一面観音である。
 光明皇后伝説で有名な浴室(からふろ)を見学した。平成15年改修で美しくなってはいたが、前回のように内部を見ることは出来なかった。
  光明皇后伝説
 
浴室(からふろ)で千人の垢を流す願を立てた光明皇后に、全身ただれた千人目の病人が、ウミを吸ってくれと言う。迷わず実行すると、病人は「実は自分は仏(阿閦如来・あしゅくにょらい)である」と告げて去る。


植田重雄著「秋艸道人 会津八一の生涯」(仏像の話3) 2007・6・20(水)
 1988年、植田先生は上記の大著出版を手紙で書いてこられた。会津八一の名は知っていたが、その他の知識は無かったので、SUには大変難しい本だった。家族で年越しをした湯ノ山温泉で、やっと最後を読んでいたのを覚えている。その後、1994年に先生は「秋艸道人 曾津八一の芸術」を出版。この2冊が八一との出会いであり、仏像との交流の始まりである。
  奈良博物館にて   
   はつなつ の かぜ と なりぬ と みほとけ は 
                 をゆび の うれ に ほの しらす らし
  八一
 季節の移り変わりを仏の小指の先に凝縮する。こんな仏像を、そしてその手のひらを見てみたいという衝動に駆られないではおられなかった。


会津八一の歌碑と墓碑 2007・6・26(火)
 先月、歌碑と墓碑がある東京練馬の法融寺を訪れた。

    村荘雑事(第17首)   
        むさしの の くさ に とばしる むらさめ の
                いや しくしく に くるる あき かな 
 八一
          (武蔵野の草にとばしる村雨のいやしくしくに暮るる秋かな)


真贋 2007・6・27(水)
 ネットオークションに秋艸道人・会津八一の掛軸が出た。初値は1000円、右写真の左端の署名がある。他の二つは本物、明らかに贋作であると思うが、14000円まで行った。
 ネットでは値段の基準が以下のように書いてある。
真贋 2題 3技法 4出来栄え 5制作年代 6大きさ 7保存状態 8表装 9箱の有無 10鑑定書
 ところで右端の署名の掛軸は75万円の値がついていた。その他、小さな作品でも八一には25万円ぐらいの値がつく。


享年 2007・7・2(月)
 明治生まれ(1881年8月1日生)の会津八一は1956年11月21日故郷新潟で死去、享年75。この時代の人としては長生きだった。八一書簡(2341通)で亡くなる年の手紙を読んでいるが、「老耄(ろうもう)」を嘆きながらも、簡潔で味のある文章を展開している。
 ところで享年とは人が天から授かった寿命で、この世に存在した年数なので、厳密には「享年75歳」のように「歳」をつけない。また、天寿を全うするという意味なので、幼児の死などにはこの言葉は使わない。
 さてさて、我輩は享年と言う年になったや否や?天から享(う)けた年数は後どれくらいだろうと考える。


代への憧憬 2007・7・11(水)
 聖武天皇の東大寺行幸を、深い学的知識を背景に臨場感豊かに歌い上げる東大寺懐古2首。そのイメージを大仏殿前で現在行われる音楽コンサートなどを通して想像していたが、友人・鹿鳴人から送られてきた井上博道氏の作品で、もっと鮮明に感じ取ることができた。「幡鉾(はたほこ)」も写っているのでなおさらである。
    東大寺懐古(第2首)   
           おほてら の には の はたほこ さよ ふけて
                ぬひ の ほとけ に つゆ ぞ おき に ける 
     八一
          (大寺の庭の幡鉾さ夜ふけて縫ひの仏に露ぞ置きにける)


鑑真和上像 2007・7・28(土)
 唐招提寺の鑑真和上像に博物館でお会いしたことがある。6度目の渡航に成功し、東大寺において日本で初めての正式の授戒(僧と認める)をし、その後唐招提寺を建立した。だが度重なる渡航の失敗で失明する。
 明治の廃仏毀釈等によって衰退する寺や仏教に対する嘆きの中で、若き八一は鑑真和上像をどっしりと正面にすえて歌い上げた。東京空襲で罹災し、故郷新潟に帰った晩年、ある寺から仏像に対する作歌を懇望されたが、作れずに断っている。
    開山堂なる鑑真の像に   
       とこしへ に ねむりて おはせ おほてら の  
              いま の すがた に うち なかむ よ は
  八一
         
 (とこしへに眠りておはせ大寺の今の姿にうちなかむよは)


新潟会津八一記念館 2007・8・28(火)
 念願の八一記念館を訪れ、「会津八一と斑鳩」展をみる。帰ってから、八一の斑鳩の歌2首をアップした。
  御遠忌近き頃法隆寺村にいたりて   
   うまやど の みこ の まつり も ちかづきぬ  
         まつ みどり なる いかるが の さと
    八一
      
 (厩戸の皇子の祭も近づきぬ松みどりなる斑鳩の里)
   いかるが の さとびと こぞり いにしへ に   
         よみがえる べき はる は き むかふ
   八一
      
 (斑鳩の里人こぞり古によみがへるべき春は来向ふ)


聖徳太子はいなかった? 2007・8・30(木)
 聖徳太子(厩戸の皇子)は、藤原不比等らの創作であり、架空の存在であるとする説が近年出された。幼い時からお札や切手でも馴染み、日本人の代表のように教わってきた“聖徳太子”の名前が、後の世につけられた尊称であると言う事実だけでも驚きである。
 しかし、太子は史上もっとも偉大な人物という考えは定着しており、多くの人が理想としてきた。為政者が政治的に利用しない限り、尊敬したいと思う。
   御遠忌近き頃法隆寺村にいたりて   
     うまやど の みこ の みこと は いつ の よ の  
               いかなる ひと か あふが ざらめ や
   八一
          
(厩戸の皇子の尊はいつの世の如何なる人か仰がざらめや)


9月のはじめに 2007・9・1(土)
 今日は涼しい風が吹きぬけた。連日の猛暑に痛めつけられた心と身体が一度に復活したような気がする。9月の声を聞くと急に戸外に出たくなる。まずはスポーツの予定を入れた。そして、秋の春日野に遊んでみたいと思う。
    かすがの に おしてる つき の ほがらかに  
          あき の ゆふべ と なり に ける かも
      八一
         
(春日野におし照る月のほがらかに秋の夕べとなりにけるかも)    

考えるだけの餘裕(八一の講演) 2007・9・10(月)
「實に君みたい頑固な奴はなかつた」そこで僕が、「僕がちつとも頑固なんでなく、ほかの人が輕薄なんだ」といふと、「そういへばそれまでだけども、輕薄か頑固かは兎も角、君は人が右といへば左といふし、左といへば右へ行く、西洋史の試驗があるといふと日本歴史の本を讀む、漢文の試驗があるといへば英語の本をみてゐる」「そんなことがあるもんか」といつて笑ひましたけれども。實際にその話の如くんば宜しくないですな。さういふのは宜しくないけれども、人が皆右右といふ時に左のことも心の中に考えるだけの餘裕がないと矢張り人間としても、地方人としても國民としても、世界の人としても私は十分でないと思ふ。
 会津八一が戦後すぐに新制新潟高校で講演した一部である。オリジナリティを大事にした彼の真髄が語られている。 


画家・小泉清 2007・11・10(土)
 しばらく前に中日新聞で小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の作品を掲載していた。三男が小泉清で、その作品が、NHK日曜美術館30年展の「第IV章 知られざる作家へのまなざし」で紹介されていた。SUの好きな赤と黒を基調にした迫力ある絵である。
 東大を追われる様に退職した八雲を、会津八一は早大に招く活動をし実現するものの、半年で八雲は亡くなる。当時、早稲田中学にいた八雲の遺児・清を八一は励まし、あるいは叱咤し、物心両面で支援して終生面倒を見る。残念なことに清は50歳頃に自死を選ぶ。名だけ知っていた清の絵を、映像であっても接することができたのは嬉しい。


2007・その3 2007・12・23(日)
 3月末から開始した三体目の仏像・観音菩薩立像(一尺三寸)、やっと仕上げの段階に入った。まだ光背に手をつけてないので、作業は越年する。四体目は阿弥陀如来を予定しているが、あと一年かかりそう。先輩達に比べると2倍以上の時間がかかる。この世界では才能が顕著になる。才能があるとは思えないのに続けるのは何だろうかな?
   奈良博物館にて   
     はつなつ の かぜ と なりぬ と みほとけ は 
              をゆび の うれ に ほの しらす らし
    八一


病中法隆寺をよぎりて 2007・12・27(木)
 久しぶりに会津八一の歌の解説をアップロードした。

   病中法隆寺をよぎりて   
     あまた みし てら には あれど あき の ひ に  
               もゆる いらか は けふ みつる かも
   八一  
       (あまた見し寺にはあれど秋の日に燃ゆる甍は今日見つるかも)


2007・その7 2007・12・28(金)
 8月末、念願の「新潟会津八一記念館」を訪問した。いつも頭の中にある八一の歌が書として眼前に展開する。その迫力にしばし呆然として館内に立ち尽くした。同時に展示されていた法隆寺金堂の壁画(焼損前の1935年に撮影された3メートルを超える原寸大写真)は素晴らしい。壁ごと外しての保存を提唱した八一の焼損後の思いや如何に、と思う。
 書道論などを通じて「模倣ではないオリジナリティ」を主張した戦後の文献から学ぶことが多い。今年も会津八一に魅せられた一年だった。


会津八一に関するブログ 113

5月のはじめに 2008・5・1(木)  

 奈良博物館にて     解説     

   はつなつ の かぜ と なりぬ と みほとけ は 
        をゆび の うれ に ほの しらす らし

    (初夏の風となりぬとみ仏はを指のうれにほの知らすらし)

 5月にはこの歌が最も似合う。「み仏はその美しい指先で初夏の風をほのかにお感じになっておられる」と八一は詠んだ。仏像作りの世界で、ポイントを先生は顔と指とおっしゃる。完成に近づいた観音さんの指は、意図に反して不出来である。
 八一の歌の解説が去年の12月から止まっている。がんばって今月は更新しよう。


会津八一に関するブログ 114

法隆寺 2008・5・19(月)

 金堂の須弥壇修理に伴って、金堂安置の四天王像2躯(持国天像と増長天像)をはじめとする飛鳥・白鳳時代の宝物を秘宝展で展示している。6月30日までなので、訪れてみたい。

 病中法隆寺をよぎりて    解説
 
  うつしよ の かたみ に せむ と いたづき の 
         み を うながして み に こし われ は
 
  (うつし世の形見にせむといたづきの身をうながして見にこしわれは)


会津八一に関するブログ 115

6月の終わりに 2008・6・30(月)

 月の初めには叔母との悲しい別れがあったが、孫たちと伊豆で楽しい時間を持つことができた。雨の多い季節なので、家で過ごす時間が多くなり、外に出られない愛犬・うららはフラストレーションが溜まったようだ。遅々として進まないが仏像彫りは続けている。
 奈良では「まんとくん」の応援歌ができたそうだ。その奈良では法隆寺金堂展が開催されている。明日見に行く予定にしているが、12面の再現壁画が楽しみだ。

  病中法隆寺をよぎりて(第3首)    解説

    いたづき の まくら に さめし ゆめ の ごと 
          かべゑ の ほとけ うすれ ゆく はや

    (いたづきの枕に覚めし夢のごと壁絵の仏うすれゆくはや)


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会津八一書簡展 2008・7・2(水)
 
 東大寺206世別当の上司海雲が東大寺観音院住職として活躍した時代(志賀直哉、会津八一、河合卯之助、杉本健吉、須田剋太、入江泰吉らと交流)は観音院が文化拠点であった。広く文学・芸術を愛した彼は中心人物として多くの世話をした。その上司海雲宛ての八一の書簡(124通)が新たに発見され、奈良大学が購入展示している。

 新潟・会津八一記念館蔵の八一作品(画像)が20点以上展示された会場は、まさしく「八一の世界」だった。35ページの無料目録配布に大学の並々ならぬ姿勢を感じた。ちなみに有名な万葉学者・上野誠先生はこの大学で教鞭をとる。


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金堂壁画火災 2008・7・5(土)

 昭和24年法隆寺金堂壁画は火災でほぼ全滅した。それ以前に会津八一は、壁画を切り取って別の場所に保管し、金堂には現代作家の新しい壁画を掲げることを提唱した。だが、法隆寺の内外より猛烈な反感を受けたという。当時、新たな壁画とは大胆な提案だが、今は再現壁画で金堂は修復されている。

  病中法隆寺をよぎりて(第4首)    解説
 
     ひとり きて めぐる みだう の かべ の ゑ の 
           ほとけ の くに も あれ に ける かも

       (一人来て巡る御堂の壁の絵の仏の国も荒れにけるかも)


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病中法隆寺をよぎりて 7首 2008・7・8(火)

 全7首の解説に半年かかった。歌の理解がなかなかできなかったが、読み込むことと再現壁画に対面したことで八一の世界に入り込めたように思う。

  病中法隆寺をよぎりて(第6首)    解説

    うすれ ゆく かべゑ の ほろけ もろとも に 
       わが たま の を の たえぬ とも よし

     (薄れゆく壁絵の仏もろともにわが魂の緒の絶えぬともよし)


  病中法隆寺をよぎりて(第7首)    解説

   ほろび ゆく ちとせ の のち の この てら に 
       いづれ の ほとけ あり たたす らむ

     (滅びゆく千年の後のこの寺にいづれの仏ありたたすらむ)


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中宮寺の仏 2008・8・24(日)

 弥勒菩薩半跏像として有名な中宮寺の仏像は宝冠、瓔珞(ようらく)等の装飾品が全て失われている。そのため、尼僧たちが拭き磨いたため、黒光りする美しい姿になった。それを尼寺の朝の光の中で絶妙に八一は表現した。

 中宮寺にて        解説

   みほとけ の あご と ひじ とに あまでらの 
        あさ の ひかり の ともしきろ かも

     (み仏の顎と肘とに尼寺の朝の光のともしきろかも)


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磯長御陵(しながごりょう) 2008・8・28(木)

 大阪府南河内郡太子町にある磯長御陵は聖徳太子(厩戸皇子)と母と妃、3人が葬られている。母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)は621年12月20日、妃・膳部大郎女(かしはでのおおいらつめ)は622年2月21日、太子はその翌日に亡くなっている。磯長御陵で八一は聖徳太子を想う。

 河内国磯長の御陵にて太子をおもふ     解説

   やまと より ふき くる かぜ を よもすがら 
          やま の こぬれ に きき あかしつつ  

    (大和より吹きくる風をよもすがら山の木末に聞きあかしつつ)


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聖観音菩薩 2008・9・6(土)

 台座や光背に時間がかかり観音の完成が遅れた。仏像の中では観音が一番美しいと思う。仏に性別はないと言われているが、観音は女性を思ってしまう。体型の微妙な曲線や指先の美しさは格別だ。しかし、いざ表現しようとするとそうはいかない。


 奈良博物館にて(第5首)      解説

  はつなつ の かぜ と なりぬ と みほとけ は   
        をゆび の うれ に ほの しらす らし

     (初夏の風となりぬとみ仏はを指のうれにほの知らすらし)


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新宿中村屋 2008・10・4(土)

 連れ合いの従姉妹(北海道)から秋ジャガが届いた。お礼にお菓子を送るために近鉄百貨店に行く。四日市名物・永餅は賞味期限の関係で北海道は無理と断られる。結局、新宿中村屋の菓子を連れ合いに提案し送った。理由は会津八一関連である。
 クリームパンやインドカレーで有名な新宿中村屋の創業者、相馬愛蔵・黒光夫妻と八一は親交があった。夫婦の長男を早稲田中学で教えたことからの縁で、新潟在住の晩年は上京すると中村屋を拠点に活動した。八一は中村屋の看板、茶器、包装紙に書を残したが、その書入りの茶器を最近苦労して手に入れたので思い入れが強い。


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法輪寺 2008・10・19(日)

 秋晴れの法輪寺を訪れた。八一の名歌「くわんのん・・・・」の歌碑がある。詠まれた仏がこの寺の十一面観音か虚空蔵観音か定まらないが、今回訪れて、どちらの仏にもこの歌は合わないと思った。後日解説したいが、「くわんのん・・・・」は現実の仏像を超越してしまった名歌なのである。
 以下は秋の青空の奈良を詠んだ八一の歌。

  汽車中       解説

   やまとぢ の るり の みそら に たつ くも は
      いづれ の てら の うへ に か も あらむ 

    (大和路の瑠璃のみ空に立つ雲はいづれの寺の上にかもあらむ)


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南京新唱(なんきょうしんしょう)・自序より 2008・10・29(水)

 会津八一第一歌集(大正13年)は、初めて奈良を訪れた明治末期の荒廃する古都・奈良での歌を主にしている。自序の一部を紹介する。

 「われ奈良の風光と美術とを酷愛して、其間(そのかん)に徘徊(はいかい)することすでにいく度ぞ。遂(つい)に或(あるい)は骨をここに埋めんとさへおもへり。ここにして詠じたる歌は、吾ながらに心ゆくばかりなり。われ今これを誦(じゆ)すれば、青山たちまち遠く繞(めぐ)り、緑樹甍(いらか)に迫りて、恍惚(こうこつ)として、身はすでに舊都の中に在(あ)るが如(ごと)し。しかもまた、伽藍寂寞(がらんじやくまく)、朱柱たまたま傾き、堊壁(あへき)ときに破れ、寒鼠(かんそ)は梁上に鳴き、香煙は床上に絶ゆるの状を想起して、愴然(そうぜん)これを久しうす。おもふに、かくの如き佛國の荒廢は、諸經もいまだ説かざりしところ、この荒廢あるによりて、わが神魂の遠く此間に奪ひ去らるるか」           (全文へ


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季節の味 2008・11・1(土)
 食卓にはいろいろの柿が並ぶ。買ってきたもの、もらったもの、味が違うそれぞれを季節感を持って食べる。四季折々の味覚を楽しめる風土に感謝し、次に出回る食べ物に期待を膨らます。ところが困ったことが二つある。技術の進化で季節を無視して食品が出回ること、もう一つは食の安全が揺らいでいることだ。
 月が変わって11月になった。食べ物も風物も素晴らしい秋が深まっていく。

  薬師寺東塔(第2首)        解説

   すゐえん の あまつ をとめ が ころもで の 
        ひま にも すめる あき の そら かな

     (水煙の天つ乙女が衣手のひまにも澄める秋の空かな)   


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香薬師像 2008・11・8(土)

 新薬師寺の高さ75cmの香薬師像(金銅仏)は昭和18年、3度目の盗難に会い、その後行方不明になっている。そのレプリカが本堂で特別公開されているので出かけた。撮影もスケッチも禁止になっている像を時間をかけてじっくり観察し、素晴らしい微笑みを持つ楚々とした仏を目に焼き付けてきた。

 香薬師を拝して(第2首)        解説

    ちかづきて あふぎ みれ ども みほとけ の 
              みそなはす とも あらぬ さびしさ
 
      (近づきて仰ぎ見れどもみ仏のみそなはすともあらぬ淋しさ)


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月のはじめに 2008・12・1(月)

 落ち葉が目立つ晩秋から初冬、広大な野や林があった昔の武蔵野に立ったつもりで八一の歌を味わってください。

  奈良より東京なる某生に       解説

    あかき ひ の かたむく のら の いやはて に
       なら の みてら の かべ の ゑ を おもへ 

     (赤き日の傾く野らのいや果てに奈良のみ寺の壁の絵を思へ)
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