会津八一に関するブログ 73
坪内逍遥と会津八一 2005・7・15(金)
坪内博士記念演劇博物館と会津八一記念館を見学。
早稲田にて 解説
むかしびと こゑ も ほがら に たく うち て
とかしし おもわ みえ きたる かも
(むかしびと声もほがらに卓打ちて説かしし面輪見えきたるかも)
会津八一に関するブログ 74
八朔(はっさく)粟餅 2005・8・1(月)
家人の好物、赤福の8月の朔日餅(ついたちもち)は八朔粟餅だった。八朔とは陰暦8月1日のこと。『五穀の中で一番早く稔るのが、あわ。その新あわをたべて、つヾく諸穀の豊穣を祈るのは、日本のずいぶん古くからのならわしのようです。私どもでも、毎年八月朔日「八朔もち」と呼ぶ、あわ餅をつくります』(赤福HPより)
号の一つを八朔(郎)とした会津八一は8月1日生まれだった。こんな楽しい歌もある。
痩かへる まけるな一茶 是にあり つきにひかへし 會津八朔
会津八一に関するブログ 75
円空展 2005・8・19(金)
名古屋市博物館の円空展に出かけた。江戸時代前期に活躍し、12万体の仏像を彫ったという円空の作品はとても独創的だ。一刀彫という独特の彫りが、作品の個性を際立たせている。如来や観音などの仏像に必要なものはかすかな微笑だ。円空仏も荒々しい彫りでありながら独特の微笑をたたえている。
飛鳥仏から現代仏までオーソドックスな仏像を追い求めてきたが、円空の個性あふれる作品に、ある種のショックを受けた。八一の歌う仏とは違う趣がある。
奈良博物館にて(第5首) 解説
はつなつ の かぜ と なりぬ と みほとけ は
をゆび の うれ に ほの しらす らし
会津八一に関するブログ 76
梓弓 2005・8・25(木)
東京の法隆寺宝物館で撮った梓弓、八一と遠き聖徳太子の時代を偲びながら。
御遠忌近き頃法隆寺村にて(第4首) 解説
みとらし の あづさ の まゆみ つる はけて
ひきて かへらぬ いにしへ あはれ
(みとらしの梓の真弓弦はけて引きて帰らぬいにしへあはれ)
会津八一に関するブログ 77
南都新唱(なんとしんしょう) 2005・9・4(日)
会津八一は第一歌集に南都新唱と最初名付けた。それを見た友人が「なんとしんしょうとは京の芸妓が困ったときの言葉だ」と笑う。あわてた八一は急遽南京新唱(なんきょうしんしょう)と変えて出版する。その名がしっくりするのだから不思議なものだ。
秋にふさわしいその巻頭歌をどうぞ!
春日野にて(第1首) 解説
かすがの に おしてる つき の ほがらかに
あき の ゆふべ と なり に ける かも
(春日野におし照る月のほがらかに秋の夕べとなりにけるかも)
会津八一に関するブログ 78
中秋の名月 2005・9・17(土)
うなぎの次は月見だんご?明日18日はお月見だが、ちょっと天気が心配だ。名月にふさわしい会津八一の名歌をどうぞ!
春日野にて(第2首) 解説
かすがの の みくさ をり しき ふす しか の
つの さえ さやに てる つくよ かも
(春日野のみ草折り敷き伏す鹿の角さえさやに照る月夜かも)
会津八一に関するブログ 79
10月の始めに 2005・10・1(土)
寝起きにぽんすけ(しゃべる人形)が叫ぶ。「運動会しよう!一等だよ、きっと!」透き通るような秋空のもとで子供達が跳ね飛び遊ぶ。その光景を思い浮かべながら小さい頃を追想してみるのもいいね。
秋の空と言えば、この歌に尽きる。天女の衣の間から美しく澄んだ秋の空が見える。
薬師寺東塔(第2首) 解説
すゐえん の あまつ をとめ が ころもで の
ひま にも すめる あき の そら かな
(水煙の天つ乙女が衣出のひまにも澄める秋の空かな)
会津八一に関するブログ 80
鹿の角切り 2005・10・25(火)
奈良の秋の風物詩、鹿の角切りが終わったと鹿鳴人が23日のブログで書いている。会津八一は鹿を沢山詠っているが、その中でもこれは一風変わった鹿の歌である。
春日野にて 第4首 解説
つの かる と しか おふ ひと は おほてら の
むね ふき やぶる かぜ に かも にる
(角刈ると鹿追ふ人は大寺の棟ふき破る風にかも似る)
会津八一に関するブログ 81
木隠れて 2005・11・17(木)
木立の奥で(木隠れて)牡鹿達の恋争いが続く。古都の秋の夜の静寂が浮かび上がる八一の歌をどうぞ。争う鹿の角の響きを聞いた事は無いが、鹿鳴人が紹介する奈良ホテルに投宿し、秋の夜を楽しんでみたい。
春日野にて 第5首 解説
こがくれて あらそふ らしき さをしか の
つの の ひびき に よ は くだち つつ
(木隠れて争ふらしき牡鹿の角のひびきに夜はくだちつつ)
会津八一に関するブログ 82
月日の流れ 2005・12・15(木)
早いものでもう12月も半ばになった。歳月の流れの速さは特に年末に感じる。目の前の鹿の顎(あご)の動きに託して、時の流れの止めがたさを詠んだ八一の歌をどうぞ。この歌は、古都のいにしえからの悠久の流れを想いながら味わうと一層深いものになる。
春日野にて 第9首 解説
をぐさ はむ しか の あぎと の をやみ なく
ながるる つきひ とどめ かね つも
(を草食む鹿のあぎとのを止みなく流るる月日とどめかねつも)
会津八一に関するブログ 83
毘沙門天 2006・2・2(木)
七福神その3は毘沙門天。
元は四天王の1つで須弥山の北方を守護し、戦勝の神と言われる。日本では、四天王の1体として安置する場合は「多聞天」と呼び、単体の場合は「毘沙門天」と言う。室町後期に日本の民間信仰・七福神の1つに加えられた。
会津八一の歌にも詠まれる。
浄瑠璃寺にて(第3首) 解説
びしやもん の ふりし ころも の すそ の うら に
くれなゐ もゆる はうそうげ かな
(毘沙門の古りし衣の裾の裏に紅燃ゆる宝相華かな)
会津八一に関するブログ 84
水仙 2006・2・15(水)
今年の冬は寒すぎたのかビオラやパンジーが弱弱しい。その中でずっと水仙が咲き続けている。この水仙は一個の球根から増え続け、今では家の周りを囲んでいる。折に触れ、黄水仙を手に入れて植えたがほとんどが数年すると無くなってしまう。
ここのところ暖かかったので、桃の蕾が膨らんでいる。チューリップの芽も動き出しそうだ。
梅雨頃の花の終わった水仙を、八一がこう歌っている。
村荘雑事(第3首) 解説
はな すぎて のび つくしたる すゐせん の
ほそは みだれて あめ そそぐ みゆ
(花過ぎて伸び尽くしたる水仙の細葉乱れて雨そそぐ見ゆ)
会津八一に関するブログ 85
浄瑠璃寺の歌 2006・3・1(水)
奈良の冬は底冷えする日が多いと聞いている。春を告げる東大寺二月堂のお水取りが過ぎても、浄瑠璃寺周辺はまだまだ寒いという。そんな早春の小雪ふる山道を会津八一は浄瑠璃寺へと歩む。今とは違い廃仏毀釈が吹き荒れた明治時代の寺は荒廃しており、訪れる人も少なかった。そんな時代に奈良の寺と仏を宗教の歌としてではなく、芸術として歌い上げた八一の功績は大きい。
浄瑠璃寺にて 解説
じやうるり の な を なつかしみ みゆき ふる
はる の やまべ を ひとり ゆく なり
(浄瑠璃の名を懐かしみみ雪降る春の山辺を一人行くなり)
会津八一に関するブログ 86
書家・会津八一 2006・3・12(日)
神田の八木書店から案内が届いた。会津八一は歌人として有名だが、晩年は書家としても有名だった。法隆寺の歌が130万円と書いてある。彼の書はマニアにはたまらないだろうけれど、八一ってだれ?と言われることが多い近年では、高値に人はびっくりするだろう。
素空は八一ファンでこの書は素晴らしいと思うが、思うことと値段には落差がある。
会津八一に関するブログ 87
馬酔木 2006・3・28(火)
小田原城ではカンヒザクラや水仙、こぶしの白い花が咲いていた。その時咲いていた写真の花の名を度忘れして思い出せなかった。何度も家人に聞かれたけれど思い出せない。堀辰雄の小説や万葉集にも歌われていてとても好きな花なのに!情けない。
浄瑠璃寺の春
この春、僕はまえから一種の憧れをもっていた馬酔木(あしび)の花を大和路のいたるところで見ることができた。
そのなかでも一番印象ぶかかったのは、奈良へ著(つ)いたすぐそのあくる朝、途中の山道に咲いていた蒲公英(たんぽぽ)や薺(なずな)のような花にもひとりでに目がとまって、なんとなく懐かしいような旅びとらしい気分で、二時間あまりも歩きつづけたのち、漸(や)っとたどりついた浄瑠璃寺の小さな門のかたわらに、丁度いまをさかりと咲いていた一本の馬酔木をふと見いだしたときだった。(大和路・信濃路 堀辰雄)
馬酔木2 2006・3・30(木)
堀辰雄の浄瑠璃寺の春から、会津八一の歌を思い出した。南京新唱では浄瑠璃寺の歌が三首読まれている。新たに第二首の解説を上げた。
浄瑠璃寺にて(第二首) 解説
かれわたる いけ の おもて の あし の ま に
かげ うちひたし くるる たふ かな
(枯れわたる池の面の葦の間に影うち浸し暮るる塔かな)
会津八一に関するブログ 88
当麻寺 2006・4・21(金)
一夜にして蓮糸曼荼羅を織り上げたと言う中将姫伝説で有名な大和の当麻寺に出かけた。会津八一はここで五首詠んでいる。
当麻寺にて(第二首) 解説
ふたがみ の すそ の たかむら ひるがえし
かぜ ふき いでぬ たふ の ひさし に
(二上の裾の竹群ひるがえし風吹きいでぬ塔の廂に)
会津八一に関するブログ 89
二上山(ふたがみやま) 2006・5・6(土)
奈良と大阪の境をなす葛城山脈の北に連なる二上山は517mの低い山だが、奈良でも屈指の歴史を持つ。とりわけ、大津皇子(おおつのみこ)の屍を二上山に葬る時詠んだ姉・大来皇女(おおくのひめみこ)の万葉集の歌は有名である。
うつそみの 人なるわれや 明日よりは 二上山を 弟背(いろせ)とわが見む
(生きてこの世の人である私は、明日からはこの二上山を弟と思って眺めよう)
二上山をのぞみて(会津八一) 解説
あま つ かぜ ふき の すさみ に ふたがみ の
を さへ みね さへ かつらぎ の くも
(天つ風吹きのすさみに二上の峰さへ嶺さへ葛城の雲)
会津八一に関するブログ 90
植田重雄先生 2006・5・19(金)
先生が14日、胃がんで亡くなられた。専門は宗教倫理学、クラス担任でドイツ語を教わった。ただ、在学中は反抗ばかりしていたので、本当にお世話になったのは社会に出てからである。和歌を同封した手紙で、郷土の研究や歌を読むことをいつも勧めてこられた。
上京するたびに訪問しようと思いながら、最後にお会いしたのは1999年国立博物館の「室生寺のみ仏たち」の会場だった。上野公園「伊豆栄」のうなぎを友人Yとご馳走になり、いろいろなお話を伺ったが、夕方お別れするときに「もう帰るのか?」と言われた言葉が今でも耳に残っている。素空にとって恩師と呼べるたった一人の先生だった。
会津八一に関するブログ 91
植田先生2 2006・5・20(土)
「なぜ歌を詠むかと問われるならば、感動が短歌の凝縮された形態を通して、存在の世界を開き、美の閃きが宇宙の実在に触れさせてくれるからである」先生は第三歌集・六曜星のあとがきで言っている。そして「詩歌は自然賛美だけで充分である」とも語っている。
60年代後半、騒然とした大学の中では寡黙な先生だった。時の流れに流されず、内面の世界の充実に精魂を傾けておられたようだ。授業を政治討論に変えてしまう生徒達をじっと見守り、たびたび授業を中断させたSUを先生は良く覚えてみえた。怪我で出席日数が全く足らなかったドイツ語の期末テスト、無解答で裏面に反省文を書いたら単位を下さった。
会津八一に関するブログ 92
植田先生3 2006・5・22(月)
ものいはず 争はず 嘆かず いきづきて
まりも暗緑に かたまりにけり 植田重雄
歌集・六曜星の口絵に版画家中川雄太郎作として版画が掲載されている。この歌は戦没した多くの友への追悼を記録した第一歌集・鎮魂歌の一首で、先生がとても気に入っていた。我家には直筆のこの歌が額に入っている。
敗戦間近の学徒出陣を経験した先生の心の置き所と、その後の物静かな学究生活の根底にあるものを見事にまりもの歌は表している。