会津八一に関するブログ 3
2005~6年

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日吉館 2005・2・3

 会津八一が奈良で常宿にしていた日吉館はもう営業していない。観光客の多い東大寺の近くで、ひっそりと閉ざされた姿は痛ましいほどだ。奈良を愛した文学者、美術家たちの宿として名高い。
 宿の女将・田村きよのさんは、奈良散策に訪れる貧乏学生や学者のために宿を一人で切り盛りしていたが1998年、88歳で鬼籍に入った。宿の庭には八一の歌碑がある。

 春日野のやどりにて                   解説

     かすがの の よ を さむみ かも さをしか の
             まち の ちまた を なき わたり ゆく  

         (春日野の夜を寒みかも牡鹿の街の巷を鳴き渡りゆく)    



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2月の終わりに 2005・2・28(月)

 今月の衝撃的な事件はライブドアの行動だ。ことの良し悪しはわからないが、危なっかしい挑戦の向うに何が見えてくるかを楽しみたい。(付言すると未だに後出し・・・のハイエナ楽天は嫌いだ)
 私的には子犬と人形と遊ぶ2月だった。さすがに生身の子犬に軍配が上がりつつある。
 殺人等が多発の殺伐とする昨今、願いを込めて八一の素晴らしい歌を2月の終わりに紹介したい。

  夢殿の救世観音に                 解説

     あめつち に われ ひとり ゐて たつ ごとき
             この さびしさ を きみ は ほほゑむ  

       (天地にわれ1人ゐて立つごときこの寂しさを君はほほゑむ)


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興福寺 2005・4・27(水)

 「いにしへの奈良の都の八重桜」と歌われた奈良を、桜の咲き乱れる頃に訪れたことはない。業平は「世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」と歌ったが、その季節を過ぎて改めて桜を想い、桜に別れを告げよう。技巧的な業平の歌とは一味違うおおらかな調べで絵巻物を見るような趣のある八一の興福寺の桜の歌をどうぞ。

  興福寺をおもふ             解説

     はる きぬ と いま か もろびと ゆき かへり 
             ほとけ の には に はな さく らし も 
 
       (春来ぬと 今か もろ人行き帰り 仏の庭に 花咲くらしも)



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聖徳太子 2005・5・27(金)

 「和をもって・・・」は太子の憲法17条最初にある。親族同士が血で血を洗うような時代に祈るような気持ちで摂政として憲法を作った。商店街の仲間に争いは全く無いが、この言葉を選ぶ新理事長の柔和な人柄がおのずと出ている。
 会津八一は太子建立の法隆寺の歌を沢山作っている。若干28歳、失恋と甘酸っぱい青春の思いの中で荒廃した寺を八一は初めて訪れる。宿で深酒をして女将にたしなめられたりしたそうだが、名歌を多く残している。

   法隆寺村にやどりて           解説 

     いかるが の さと の をとめ は よもすがら  
             きぬはた おれり あき ちかみ かも   

        (いかるがの里の乙女は夜もすがら衣機織れり秋近みかも)



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会津八一の書 2005・6・24(金)

 随分昔、植田先生の紹介で八一の書を神田の書店で見た。当時、その値段の高さにびっくりしたものだ。晩年は歌人・学者と言うより、書家である。昭和24年、日展からの出展要請を断って新宿で個展を開き、その後昭和31年に亡くなるまで8回の個展を開いている。
 八一は言う。「毎日、新聞を見て、読みさしに字を書いてをった。私は血の涙を流すが如き思ひを以てこういうものを書いた。これが書道で一番大切なことである」 新聞の活字を手本にし、垂直線や水平線、渦巻きの練習を重ねる独自の方法で新しい書の境地を開いた。
 最近、出版されている写真集で書画を楽しんでいる。単に書くのではなく、学問と文学がにじみ出た書は味わい深い。     



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毬藻(まりも) 2005・6・25(土)

 植田先生の歌集「六曜星」の巻頭グラビアに右の歌がある。この歌を随分昔に頂いて表装して我家の玄関に飾っている。

 ものいはず 争わず 嘆かず いきづいて
       まりも 瞳線に かたまりにけり   
重 雄

 頂いたときは「瞳線」が読めなかった上に歌心が無く、歌意がさっぱり分からなかった。ただただ先生の直筆を敬っていただけだった。
 静かに生きている美しい毬藻をしっかりと目線でとらえ、主体の感動をもって歌い上げる。静謐の中に生を見据えた秀歌なのだ。何十年も経ってやっとその良さを理解できるようになった出来の悪い生徒である。
           


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会津八一の歌 2005・7・8(金)

 先月は八一の歌を上げれなかった。法隆寺の歌をどうぞ!

    五重塔をあふぎみて         解説 

       ちとせ あまり みたび めぐれる ももとせ を 
               ひとひ の ごとく たてる この たふ   

         千年あまり三度めぐれる百年を一日のごとく立てるこの塔



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坪内逍遥と会津八一 2005・7・15(金)

 坪内博士記念演劇博物館と会津八一記念館を見学。

 早稲田にて         解説 

  むかしびと こゑ も ほがら に たく うち て
           とかしし おもわ みえ きたる かも
          
   (むかしびと声もほがらに卓打ちて説かしし面輪見えきたるかも)


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八朔(はっさく)粟餅 2005・8・1(月)

 家人の好物、赤福の8月の朔日餅(ついたちもち)は八朔粟餅だった。八朔とは陰暦8月1日のこと。『五穀の中で一番早く稔るのが、あわ。その新あわをたべて、つヾく諸穀の豊穣を祈るのは、日本のずいぶん古くからのならわしのようです。私どもでも、毎年八月朔日「八朔もち」と呼ぶ、あわ餅をつくります』(赤福HPより)

 号の一つを八朔(郎)とした会津八一は8月1日生まれだった。こんな楽しい歌もある。
   痩かへる まけるな一茶 是にあり つきにひかへし 會津八朔


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円空展 2005・8・19(金)

 名古屋市博物館の円空展に出かけた。江戸時代前期に活躍し、12万体の仏像を彫ったという円空の作品はとても独創的だ。一刀彫という独特の彫りが、作品の個性を際立たせている。如来や観音などの仏像に必要なものはかすかな微笑だ。円空仏も荒々しい彫りでありながら独特の微笑をたたえている。
 飛鳥仏から現代仏までオーソドックスな仏像を追い求めてきたが、円空の個性あふれる作品に、ある種のショックを受けた。八一の歌う仏とは違う趣がある。

    奈良博物館にて(第5首)           解説
 
    はつなつ の かぜ と なりぬ と みほとけ は 
             をゆび の うれ に ほの しらす らし   



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梓弓 2005・8・25(木)

 東京の法隆寺宝物館で撮った梓弓、八一と遠き聖徳太子の時代を偲びながら。

  御遠忌近き頃法隆寺村にて(第4首)      解説

    みとらし の あづさ の まゆみ つる はけて 
               ひきて かへらぬ いにしへ あはれ
   
       (みとらしの梓の真弓弦はけて引きて帰らぬいにしへあはれ)




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南都新唱(なんとしんしょう) 2005・9・4(日)

 会津八一は第一歌集に南都新唱と最初名付けた。それを見た友人が「なんとしんしょうとは京の芸妓が困ったときの言葉だ」と笑う。あわてた八一は急遽南京新唱(なんきょうしんしょう)と変えて出版する。その名がしっくりするのだから不思議なものだ。
 秋にふさわしいその巻頭歌をどうぞ!

  春日野にて(第1首)            解説

   かすがの に おしてる つき の ほがらかに 
          あき の ゆふべ と なり に ける かも

      (春日野におし照る月のほがらかに秋の夕べとなりにけるかも)


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中秋の名月 2005・9・17(土)

 うなぎの次は月見だんご?明日18日はお月見だが、ちょっと天気が心配だ。名月にふさわしい会津八一の名歌をどうぞ!

 春日野にて(第2首)       解説

  かすがの の みくさ をり しき ふす しか の 
              つの さえ さやに てる つくよ かも

    (春日野のみ草折り敷き伏す鹿の角さえさやに照る月夜かも)


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10月の始めに 2005・10・1(土)

 寝起きにぽんすけ(しゃべる人形)が叫ぶ。「運動会しよう!一等だよ、きっと!」透き通るような秋空のもとで子供達が跳ね飛び遊ぶ。その光景を思い浮かべながら小さい頃を追想してみるのもいいね。
 秋の空と言えば、この歌に尽きる。天女の衣の間から美しく澄んだ秋の空が見える。

  薬師寺東塔(第2首)           解説

    すゐえん の あまつ をとめ が ころもで の 
         ひま にも すめる あき の そら かな    

     (水煙の天つ乙女が衣出のひまにも澄める秋の空かな)


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鹿の角切り 2005・10・25(火)

 奈良の秋の風物詩、鹿の角切りが終わったと鹿鳴人が23日のブログで書いている。会津八一は鹿を沢山詠っているが、その中でもこれは一風変わった鹿の歌である。

  春日野にて 第4首               解説

    つの かる と しか おふ ひと は おほてら の 
             むね ふき やぶる かぜ に かも にる

    (角刈ると鹿追ふ人は大寺の棟ふき破る風にかも似る) 


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木隠れて 2005・11・17(木)

 木立の奥で(木隠れて)牡鹿達の恋争いが続く。古都の秋の夜の静寂が浮かび上がる八一の歌をどうぞ。争う鹿の角の響きを聞いた事は無いが、鹿鳴人が紹介する奈良ホテルに投宿し、秋の夜を楽しんでみたい。

 春日野にて 第5首               解説             
 
    こがくれて あらそふ らしき さをしか の 
          つの の ひびき に よ は くだち つつ

        (木隠れて争ふらしき牡鹿の角のひびきに夜はくだちつつ) 


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月日の流れ 2005・12・15(木)

 早いものでもう12月も半ばになった。歳月の流れの速さは特に年末に感じる。目の前の鹿の顎(あご)の動きに託して、時の流れの止めがたさを詠んだ八一の歌をどうぞ。この歌は、古都のいにしえからの悠久の流れを想いながら味わうと一層深いものになる。

  春日野にて 第9首          解説

    をぐさ はむ しか の あぎと の をやみ なく
            ながるる つきひ とどめ かね つも

    (を草食む鹿のあぎとのを止みなく流るる月日とどめかねつも) 


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毘沙門天 2006・2・2(木)

 七福神その3は毘沙門天。
 元は四天王の1つで須弥山の北方を守護し、戦勝の神と言われる。日本では、四天王の1体として安置する場合は「多聞天」と呼び、単体の場合は「毘沙門天」と言う。室町後期に日本の民間信仰・七福神の1つに加えられた。
 会津八一の歌にも詠まれる。

   浄瑠璃寺にて(第3首)             解説   
    
    びしやもん の ふりし ころも の すそ の うら に 
                くれなゐ もゆる はうそうげ かな

       (毘沙門の古りし衣の裾の裏に紅燃ゆる宝相華かな) 


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水仙 2006・2・15(水)

 今年の冬は寒すぎたのかビオラやパンジーが弱弱しい。その中でずっと水仙が咲き続けている。この水仙は一個の球根から増え続け、今では家の周りを囲んでいる。折に触れ、黄水仙を手に入れて植えたがほとんどが数年すると無くなってしまう。
 ここのところ暖かかったので、桃の蕾が膨らんでいる。チューリップの芽も動き出しそうだ。
 梅雨頃の花の終わった水仙を、八一がこう歌っている。

  村荘雑事(第3首)           解説

    はな すぎて のび つくしたる すゐせん の 
             ほそは みだれて あめ そそぐ みゆ

     (花過ぎて伸び尽くしたる水仙の細葉乱れて雨そそぐ見ゆ)


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浄瑠璃寺の歌 2006・3・1(水)

 奈良の冬は底冷えする日が多いと聞いている。春を告げる東大寺二月堂のお水取りが過ぎても、浄瑠璃寺周辺はまだまだ寒いという。そんな早春の小雪ふる山道を会津八一は浄瑠璃寺へと歩む。今とは違い廃仏毀釈が吹き荒れた明治時代の寺は荒廃しており、訪れる人も少なかった。そんな時代に奈良の寺と仏を宗教の歌としてではなく、芸術として歌い上げた八一の功績は大きい。

  浄瑠璃寺にて               解説
  
    じやうるり の な を なつかしみ みゆき ふる 
           はる の やまべ を ひとり ゆく なり

     (浄瑠璃の名を懐かしみみ雪降る春の山辺を一人行くなり)


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書家・会津八一 2006・3・12(日)

 神田の八木書店から案内が届いた。会津八一は歌人として有名だが、晩年は書家としても有名だった。法隆寺の歌が130万円と書いてある。彼の書はマニアにはたまらないだろうけれど、八一ってだれ?と言われることが多い近年では、高値に人はびっくりするだろう。
 素空は八一ファンでこの書は素晴らしいと思うが、思うことと値段には落差がある。 

      


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馬酔木 2006・3・28(火)

 小田原城ではカンヒザクラや水仙、こぶしの白い花が咲いていた。その時咲いていた写真の花の名を度忘れして思い出せなかった。何度も家人に聞かれたけれど思い出せない。堀辰雄の小説や万葉集にも歌われていてとても好きな花なのに!情けない。 
 浄瑠璃寺の春
 この春、僕はまえから一種の憧れをもっていた馬酔木(あしび)の花を大和路のいたるところで見ることができた。
 そのなかでも一番印象ぶかかったのは、奈良へ著(つ)いたすぐそのあくる朝、途中の山道に咲いていた蒲公英(たんぽぽ)や薺(なずな)のような花にもひとりでに目がとまって、なんとなく懐かしいような旅びとらしい気分で、二時間あまりも歩きつづけたのち、漸(や)っとたどりついた浄瑠璃寺の小さな門のかたわらに、丁度いまをさかりと咲いていた一本の馬酔木をふと見いだしたときだった。
(大和路・信濃路 堀辰雄)

馬酔木2 2006・3・30(木)

 堀辰雄の浄瑠璃寺の春から、会津八一の歌を思い出した。南京新唱では浄瑠璃寺の歌が三首読まれている。新たに第二首の解説を上げた。

  浄瑠璃寺にて(第二首)        解説 

    かれわたる いけ の おもて の あし の ま に 
              かげ うちひたし くるる たふ かな 

       (枯れわたる池の面の葦の間に影うち浸し暮るる塔かな) 


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当麻寺 2006・4・21(金)

 一夜にして蓮糸曼荼羅を織り上げたと言う中将姫伝説で有名な大和の当麻寺に出かけた。会津八一はここで五首詠んでいる。

 当麻寺にて(第二首)       解説

   ふたがみ の すそ の たかむら ひるがえし 
        かぜ ふき いでぬ たふ の ひさし に

     (二上の裾の竹群ひるがえし風吹きいでぬ塔の廂に)


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二上山(ふたがみやま) 2006・5・6(土)

 奈良と大阪の境をなす葛城山脈の北に連なる二上山は517mの低い山だが、奈良でも屈指の歴史を持つ。とりわけ、大津皇子(おおつのみこ)の屍を二上山に葬る時詠んだ姉・大来皇女(おおくのひめみこ)の万葉集の歌は有名である。

  うつそみの 人なるわれや 明日よりは 二上山を 弟背(いろせ)とわが見む 
  (生きてこの世の人である私は、明日からはこの二上山を弟と思って眺めよう)

 二上山をのぞみて(会津八一)    解説

     あま つ かぜ ふき の すさみ に ふたがみ の 
           を さへ みね さへ かつらぎ の くも  

        (天つ風吹きのすさみに二上の峰さへ嶺さへ葛城の雲)


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植田重雄先生 2006・5・19(金)

 先生が14日、胃がんで亡くなられた。専門は宗教倫理学、クラス担任でドイツ語を教わった。ただ、在学中は反抗ばかりしていたので、本当にお世話になったのは社会に出てからである。和歌を同封した手紙で、郷土の研究や歌を読むことをいつも勧めてこられた。
 上京するたびに訪問しようと思いながら、最後にお会いしたのは1999年国立博物館の「室生寺のみ仏たち」の会場だった。上野公園「伊豆栄」のうなぎを友人Yとご馳走になり、いろいろなお話を伺ったが、夕方お別れするときに「もう帰るのか?」と言われた言葉が今でも耳に残っている。素空にとって恩師と呼べるたった一人の先生だった。


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植田先生2 2006・5・20(土)

 「なぜ歌を詠むかと問われるならば、感動が短歌の凝縮された形態を通して、存在の世界を開き、美の閃きが宇宙の実在に触れさせてくれるからである」先生は第三歌集・六曜星のあとがきで言っている。そして「詩歌は自然賛美だけで充分である」とも語っている。
 60年代後半、騒然とした大学の中では寡黙な先生だった。時の流れに流されず、内面の世界の充実に精魂を傾けておられたようだ。授業を政治討論に変えてしまう生徒達をじっと見守り、たびたび授業を中断させたSUを先生は良く覚えてみえた。怪我で出席日数が全く足らなかったドイツ語の期末テスト、無解答で裏面に反省文を書いたら単位を下さった。


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植田先生3 2006・5・22(月)

 ものいはず 争はず 嘆かず いきづきて
          まりも暗緑に かたまりにけり  
植田重雄

 歌集・六曜星の口絵に版画家中川雄太郎作として版画が掲載されている。この歌は戦没した多くの友への追悼を記録した第一歌集・鎮魂歌の一首で、先生がとても気に入っていた。我家には直筆のこの歌が額に入っている。
 敗戦間近の学徒出陣を経験した先生の心の置き所と、その後の物静かな学究生活の根底にあるものを見事にまりもの歌は表している。

   


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植田先生4 2006・5・25(木)

 東大安田講堂が炎上したことに象徴されるこの時代、大学は騒然としていた。語学の単位を温情で与えたが、この生徒は不埒だった。会計学の教授が「勉強して私のゼミに入りなさい。無試験で一流企業に入れてあげる」と豪語したことに反発し、授業を放棄した。
 事後、大学で植田先生とはほとんどお会いしていない。しかし、社会に出て皮肉なことに就職に困った。面接で履歴の不備を先生の名を勝手に出して補った。すぐに電話をかけ、事情を説明したがとても面食らっておられた。しかし、全て了承された上に、いろいろとアドバイスを下さった。その時から先生との交流が始まった。


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お別れの会 2006・6・5(月)

 植田重雄先生のお別れの会は6月3日早稲田教会で行われた。略歴・著書の紹介、関係者のお別れの言葉で、生前の先生の大きさが自然に浮かび上がってくる。
 式辞の牧師の言葉「一番大切なものは自分を大切にするこころ、そして他人をもっと大切にするこころと考えています。愛とか真実とか平和という言葉に置き換えてもよいかと思います」
 宗教哲学者・植田先生が教え子達を大切にしたこと、そうした大きな愛に包まれていたことをひしひしと感じながら献花してきた。  


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石窟 2006・5・24(水)

 奈良・滝坂の道を上り詰めると左方向に春日山石窟仏、右方向に地獄谷石窟仏がある。春日山を写真で、地獄谷を会津八一の歌で紹介する。

  地獄谷にて            解説

    いはむろ の いし の ほとけ に いりひ さし 
        まつ の はやし に めじろ なく なり  

         (岩室の石の仏に入日さし松の林に目白なくなり)

          


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日吉館 2006・5・28(日)

 友人から「奈良の街がセミナーハウス」研究会の紹介メールが来た。ここで取り上げられている日吉館は、故田村キヨノさんの経営で、会津八一や和辻哲郎らが定宿にしたことで有名だが、95年に閉館した。もちろん故植田先生も学徒出陣の直前、会津八一と共に投宿し室生寺に出かけている。
 日吉館のような文化の香りがするセミナーハウスができればとても嬉しいことだ。



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5月の終わりに 2006・5・31(水)

 低温と雨の続いた5月だったが、奈良まで2度足を伸ばせたので満足している。地獄谷の石仏、奈良坂の夕日地蔵を見ることができた。

 奈良坂にて(八一)             解説 

  ならざか の いし の ほとけ の おとがい に 
         こさめ ながるる はる は き に けり


 ただ、悲しいことは恩師・植田重雄の突然の訃報だった。社会人になってからの素空を遠方から温かく見守り、常に学ぶことの大切さを教えてくださった。師の教えを実践できてないことを詫びながら、しかしわずかでも実行することを誓い、冥福を祈りたい。


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興福寺に歌碑 2006・7・10(月)

 6月13日、春日大社神苑(万葉植物園)で会津八一の歌碑の写真を撮り、東大寺から興福寺の境内を抜けて猿沢の池に出た。八一の歌碑は神苑、東大寺、猿沢の池にあり、奈良には13ある。友人からの便りによると来年3月の序幕を予定して、興福寺に歌碑が出来る。なぜ今まで無かったかと不思議に思うほど境内にふさわしい歌だ。

  興福寺をおもふ        解説  

    はる きぬ と いま か もろびと ゆき かへり 
           ほとけ の には に はな さく らし も
 
         (春来ぬと今かもろ人行き帰り仏の庭に花咲くらしも)


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海龍王寺にて2 2006・7・22(土)

 久しぶりに八一のページを更新した。海龍王寺を訪れたのは2002年、八一の歌のためにわざわざ手入れをしてないかのようなお寺で、第一首「しぐれのあめ・・・」が良く似合う境内だった。第二首は以下のように詠まれている。

  海龍王寺にて(第2首)      解説  

    ふるてら の はしら に のこる たびびと の 
         な を よみ ゆけど しる ひと も なし 
 
         (古寺の柱に残る旅人の名を読み行けど知る人もなし) 



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地蔵菩薩 2006・8・5(土)

会津八一の歌に触発されて仏像好きになった。歌を口ずさみながら、地元や奈良の仏像を訪ねる内に自分で作ろうと思った。しかし、それほど簡単ではなかった。四苦八苦して、やっと檜の地蔵菩薩立像・9寸を彫った。

奈良博物館にて(第5首) 解説

   はつなつ の かぜ と なりぬ と みほとけ は 
           をゆび の うれ に ほの しらす らし 



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奈良博物館 2006・8・17(木)

 奈良博物館にて(第4首)         解説 

  つと いれば あした の かべ に たちならぶ 
            かの せうだい の だいぼさつ たち      

        (つと入れば朝の壁に立ち並ぶかの招堤の大菩薩たち)

 この歌の解説のため、朝の奈良博物館の写真を友人に送ってもらった。昨日、博物館のホームページで、どうしても見たかった子島曼荼羅(こじままんだら)の特別陳列を知り、8月20日までなのですぐに出かける。「大菩薩たち」にも会い、帰りに叔母宅にも寄ってきた。


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奈良博物館にて 第6首 2006・9・7(木)

 以前から見たかった子島曼荼羅を奈良博物館で見ることが出来た。曼荼羅を詠んだ会津八一の歌の解説を今日あげた。

  奈良博物館にて(第6首)    解説 

  こんでい の ほとけ うすれし こんりよう の 
         だいまんだら に あぶ の はね うつ

        (金泥の仏うすれし紺綾の大曼荼羅に虻の羽根打つ)


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白毫寺 2006・9・23(土)

 参道の萩が美しい白毫寺は志貴皇子の没後、その山荘跡を寺にしたと伝えられる。奈良市白毫寺町の真言律宗の寺院。春日山の南に連なる高円山の山麓にあり、境内から奈良盆地が一望できる景勝地に建つ寺、五色椿(奈良県指定天然記念物)が有名である。
 過日、友人達と白毫寺を訪れた時を思い出しながら、八一の歌の解説を作った。

  高円山をのぞみて          解説

     あきはぎ は そで には すらじ ふるさと に 
          ゆきて しめさむ いも も あら なく に 

     (秋萩は袖には摺らじ故郷に行きて示さむ妹もあらなくに)


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やまのしづく 2006・10・9(月)

  当麻寺にて(第1首)     解説

    ふたがみ の てら の きざはし あき たけて 
        やま の しづく に ぬれぬ ひ ぞ なき    

   (二上の寺のきざはし秋たけて山のしづくに濡れぬ日ぞなき) 
 
 当麻寺は山寺、秋が深まるにつれて、冷気によって樹木の梢から滴り落ちる水滴により、石段が乾く間もない。八一がそう表現した当麻寺は、晩秋には紅葉が美しいだろう。


会津八一に関するブログ 105

八一の歌碑 2006・10・21(土)

 共同掲示板(どんぐりころころ)でやいちさんから、歌碑の写真を頂き早速掲載した。とてもありがたい。「村荘雑事(第10首)掲載の写真
 八一の歌の解説で心がけているのは以下のことだ。

  ・誤った解説をしないこと ・自分の言葉で語ること 
  ・歌の現地に行くこと ・写真の掲載

 しかし、全てを実行することは難しい。仏像等はほとんど撮影禁止になっているし、遠方はなかなか行けない。既存の仏像写真には著作権がある。友人達の協力を仰いでいるが、今回はネット上で協力を得た。思いがけないことで、本当に心から感謝している。



会津八一に関するブログ 106

木隠れて 2005・11・17(木)

 木立の奥で(木隠れて)牡鹿達の恋争いが続く。古都の秋の夜の静寂が浮かび上がる八一の歌をどうぞ。争う鹿の角の響きを聞いた事は無いが、鹿鳴人が紹介する奈良ホテルに投宿し、秋の夜を楽しんでみたい。

  春日野にて 第5首       解説

   
こがくれて あらそふ らしき さをしか の 
         つの の ひびき に よ は くだち つつ

   (木隠れて争ふらしき牡鹿の角のひびきに夜はくだちつつ) 



会津八一に関するブログ 107

暖冬 2006・12・16(土)

 木枯しが吹き、落葉が舞い上がる、そんな風景には程遠い今年の12月。山に雪もなかなか積もらない。八一の木枯しの歌でいつもの冬を思い出してみる。

  法輪寺にて     解説

    みとらし の はちす に のこる あせいろ の 
         みどり な ふき そ こがらし の かぜ
 
     (みとらしの蓮に残る褪せ色の緑な吹きそ木枯らしの風)
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