会津八一に関するブログ 12
2014年10月~2015年1月

会津八一に関するブログ 495

村荘雑事・第8首(会津八一) 2014・10・2(木) 解説
 
 まめ ううる はた の くろつち このごろ の        
       あめ を ふくみて あ を まち に けむ 

 (豆植うる畑のくろ土この頃の雨を含みて吾を待ちにけむ)  

 花作り以外に豆なども植えた。自然とのふれあいが心を穏やかにする。


会津八一に関するブログ 496

村荘雑事・第9首(会津八一) 2014・10・6(月) 解説

 いりひ さす はたけ の くろ に まめ うう と      
         つち おしならす て の ひら の おと

  (入り日差す畑の畔に豆植うと土押し均す手のひらの音)

 豆を植える八一は自然と一体化している。


会津八一に関するブログ 497

村荘雑事・第10首(会津八一) 2014・10・10(金) 解説

 あめ はれし きり の したば に ぬれ そぼつ
            あした の かど の つきみさう かな

  (雨霽れし桐の下端に濡れそぼつ明日の門の月見草かな)

 雨上がりの朝、しっとりと濡れた黄色い月見草、好きな歌である。


会津八一に関するブログ 498

東京4 2014・10・17(金)

 9月27日に飯田橋で4時間余過ごした同郷のYと一緒に2005年に植田重雄早大商学部教授にお会いしている。教授の八一研究の本に触発されてネットで八一のページを作っていたが、恥ずかしかったので黙っていた。

上野公園 2005・7・16(土)
 演劇博物館見学の翌日、上野公園に出かけた。平成17年、植田重雄商学部教授と同級生Yと三人で国立博物館の室生寺展へ、学者の解説付きという豪華な鑑賞である。その上、先生に美味しい鰻をご馳走になった。その年、博物館内に法隆寺宝物館と平成館が新たに作られた。
 法隆寺宝物館の仏像たちは素晴らしく、思わぬ「ご馳走」だった。鑑賞していると外国人達がカメラで撮影している。えっ!と思って係りの人に聞くと「博物館内はフラッシュを使わなければ全て撮影はいいですよ」と言う。入場料300円を取って、3重塔の撮影を禁止している奈良の法起寺とは大違いだ。


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村荘雑事・第12首(会津八一) 2014・10・23(木) 解説

 あきづけば また さき いでて うらには の        
       くさ に こぼるる やまぶき の はな 

 (秋づけばまた咲き出でて裏庭の草にこぼるる山吹の花)

 山吹は晩春に咲くが、下落合秋艸堂にあったものは四季咲きのものだったという。


会津八一に関するブログ 500

村荘雑事・第13首(会津八一) 2014・10・27(月) 解説

 みづ かれし はちす の はち に つゆぐさ の     
         はな さき いでぬ あき は きぬ らし 

   (水涸れし蓮の鉢に露草の花咲き出でぬ秋は来ぬらし)

 我が家の小さな睡蓮鉢は今年は花が咲かなかった。咲かないと余計に花が偲ばれる。


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村荘雑事・第14首(会津八一) 2014・10・31(金) 解説

 おこたりて くさ に なり ゆく ひろには の     
        いりひ まだらに むし の ね ぞ する 

 (おこたりて草になりゆく広庭の入日まだらに虫の音ぞする)

 草は放置するとどんどん生える。その自然の姿の中に鳴く虫の声は風情がある。


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村荘雑事・第15首(会津八一) 2014・11・4(火) 解説

 しげり たつ かし の このま の あをぞら を    
         ながるる くも の やむ とき も なし
 
 (繁り立つ樫の木の間の青空を流るる雲の止む時も無し)

 我が家の樫の木の下より見上げると背の高い皇帝ダリアが沢山の蕾を持っている。


会津八一に関するブログ 503

村荘雑事・第16首(会津八一) 2014・11・8(土) 解説

 わが かど の あれたる はた を ゑがかむ と   
        ふたり の ゑかき くさ に たつ みゆ 

 (わが門の荒れたる畑を描かむと2人の絵かき草に立つ見ゆ)

 2人の絵描きは中村彝(つね)の門下生と言う。中村彜の八一の歌に対する評価は掲載した手紙で良く分かる。


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村荘雑事・第17首(会津八一) 2014・11・12(水) 解説

 むさしの の くさ に とばしる むらさめ の     
        いや しくしく に くるる あき かな
 
 (武蔵野の草にとばしる村雨のいやしくしくに暮るる秋かな)

 この歌碑のある法融寺に友人Kと訪れたのは7年前、八一の墓前に膝まずいた事を昨日のように思い出す。


会津八一に関するブログ 505

横田めぐみ 2014・11・15(土)

 會津八一記念館近くめぐみさんの拉致されし場にしばし佇む
            神奈川県 冨田茂子(朝日歌壇入選作)

 北朝鮮による拉致被害者、横田めぐみ=失踪当時(13)=が新潟市内で消息を絶ってから、15日で37年経った。いまだに解決しない痛ましい事件である。上記の歌は移転する前の會津八一記念館近くの場所で詠まれたもの、消息を絶った場所から推測して、旧記念館のすぐ西にある西海岸公園で詠まれたものと推測する。拉致問題の早期解決を希望するが、政治的に利用されないようにと願っている。

 2007年8月、この西海岸公園を訪れたのは八一の歌碑を見るためで、ここが拉致の現場と考えられていたことは全く気がつかなかった。

 松の雪(第2首)  解説

  みゆきつむ まつのはやしを つたひきて 
        まどにさやけき やまがらのこゑ

  (雪に埋まった松の林を伝って来て、
         窓からすがすがしい山雀の声がひびくよ)

 この碑の建立は平成元年10月22日なので、拉致事件より10年ほど後である。



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鹿鳴集・震余 2014・11・16(日)

 関東大震災の時に会津八一が詠んだ8首である。言い表すことができないほどの惨事を歌を以て追体験するばかりである。
 八一は震災の後の絶望的な状況の中で、全唐詩を手任せに読んでいるうちに、その中の絶句31文字を和歌に訳そうと言う大胆な試みをした。それが鹿鳴集最後にある「印象」(9首)である。

 関東大震災
 1923年(大正12)9月1日午前11時58分、関東地方南部を襲った大震災。最大震度7、規模はM7.9。5日までに人体に感じた余震は936回、各地に津波が襲来した。被災者は約340万人、死者9万1344人、行方不明1万3275人、重傷1万6514人、軽傷3万5560人、全焼38万1090世帯、全壊8万3819世帯、半壊9万1232世帯、損害額は推定約55億円余。


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九月一日大震にあひ庭樹の間に遁れて・第2首(会津八一) 
                 2014・11・25(火) 解説 

 うちひさす みやこおほぢ も わたつみ の        
     なみ の うねり と なゐ ふり やまず

(うちひさす都大路もわたつみの波のうねりとなゐ振りやまず)

 大地震の中にあっても八一は冷静に対処し、歌8首を残す。


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高倉健と会津八一 2014・11・28(金)

 残念だが高倉健が11月10日に亡くなった。いろいろ思い出に浸っていると友人から「高倉健は自分の台本に八一のこの歌を自分の心情として貼っていた」「高倉健さんの八一はわたしも以前にNHKで見ました」とメールが届いた。素空も以前にこの番組を見た。

 夢殿の救世観音に(会津八一)   解説

  あめつち に われ ひとり ゐて たつ ごとき
           この さびしさ を きみ は ほほゑむ


 高倉健は自分の台本の最後にこの歌を自分の心情として貼っていた。彼は熱狂的な八一ファンだったと新潟日報が報じている。
 もともとこの歌の歌碑を所有していた奈良の原家から11月7日に法隆寺に移されて、もう一つの歌碑とともに盛大な除幕式が行われている。高倉健の死と除幕式は同じ11月初めに行われていることに何かの因縁を感じる。
 素空の恩師・故植田重雄は早稲田高等学院に入学した時「(鹿鳴集を)買い求めた。読みすすめるうちに衝撃を受ける歌がいくつもあった」と書き、その最初にこの歌をあげている。「・・・これはいままでの日本にない歌だと思った。至高の存在と人間の根本関係を感じさせる作品である。・・・
 この2基の歌碑を今年中に見に行こうと思っている。


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九月一日大震にあひ庭樹の間に遁れて・第3首 
              2014・11・30(日) 解説

 あたらしき まち の ちまた の のき の は に     
          かがよふ はる を いつ と か またむ

   (新しき街の巷の軒の端に輝ふ春をいつとか待たむ)

 惨事を前にポジティブに考え、復興の未来を確信し願う。


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後数月にして熱海の双柿舎を訪はむとするに
       汽車なほ通ぜず舟中より伊豆山を望みて 
                2014・12・4(木) 解説

 すべ も なく くえし きりぎし いたづらに       
       かすみ たなびく なみ の ほ の へ に 

(すべもなく崩えし切り岸いたづらに霞たなびく波の秀のへに)

 2004年、熱海に一泊して双柿舎を見学し、掛けられていた扁額を写真に撮った。そのことを昨日のことのように思い出す。


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小松菜と葉ボタン 2014・12・7(日)

 8月に蒔く種として小松菜、葉ボタン、パンジー、ビオラがあったので、購入してプランターで育てることにした。ところが、パンジーとビオラが芽が出なかった。反対に小松菜と葉ぼたんは沢山芽が出て順調に育った。
 葉ボタンが虫に弱いのを知らなかったので、途中で青虫に沢山食べられた。気が付いた時から毎日虫取りをしてなんとか育ったので、他の花とコラボした正月用の鉢植えを作った。
 小松菜は何度かに分けて栽培し美味しく食べていたが、途中から小さな虫が大量に付いた。薬は使わないので、手で取り除いているが、被害にあった小松菜は幾分苦い。先日、知り合いから「小松菜をプランタで作っています。無農薬でいいですよ」とメールがあった。敗戦の一年前(昭和19年)、八一に小松菜の歌がある。

 街上(第3首)     解説

  まちびと が きばこ に まきし こまつな の      
          このごろ のびて はる はて に けり
 
  (町人が木箱に蒔きし小松菜のこの頃伸びて春果てにけり)


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被服廠(ひふくしよう)の跡にて・第1首(会津八一) 
               2014・12・8(月) 解説

 あき の ひ は つぎて てらせど ここばく の     
         ひと の あぶら は つち に かわかず
 
 (秋の日はつぎて照らせどここばくの人のあぶらは土に乾かず)

 震災の生々しい姿を詠む。「人のあぶら」は強烈である。


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被服廠(ひふくしよう)の跡にて・第2首(会津八一) 
              2014・12・12(金) 解説

 みぞがは の そこ の をどみ に しろたへ の      
         もの の かたち の みゆる かなしさ

     (溝川の底のをどみに白妙の物の形の見ゆる悲しさ)

 「しろたへのもの」は人間の足らしきもの、と八一は言っている。


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山口剛に(会津八一) 2014・12・14(日) 解説

 うつくしき ほのほ に ふみ は もえ はてて     
            ひと むくつけく のこり けらし も

 (美しき炎に書は燃え果てて人むくつけく残りけらしも)

 (山口剛が)罹災して悉く蔵書を喪(うしな)ひ、悲嘆の状見るに堪へず。是を以て作者ことさらに諧謔(かいぎやく)の語を以て、一首を成して贈る。意はむしろ倶(とも)に啼(な)かんとするに近し。(自註鹿鳴集)


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会津八一の歌と解説(完) 2014・12・18(木)

 たびびと の め に いたき まで みどり なる    解説
          ついぢ の ひま の なばたけ の いろ

 崩れた築地の向こうに萌え立つ緑の菜畑が見えるという。何でもない様な風景だが、歴史のある奈良であるからこそ感慨深い。築地の崩れが時を感じさせるのだ。この大好きな歌を解説した2002年5月18日が始まりで、それから886首完成に12年半かかった。詩心も乏しいのに、思いつきでいい加減にはじめたがここまで来れたのは根気だけ。能力不足でも少しずつ実行すればなんとかなるということかな?

 わたつみ の そこ ゆく うを の ひれ に さへ    解説
          ひびけ この かね のり の みため に

 四国の五剣山八栗寺の鐘の鐘銘として詠んだ歌、海の底を行く魚にまでこの鐘の音が仏の教えとして届けと詠う。この歌が886首目(2014年12月9日作成)最後の歌である。
 終わって少し虚脱感はあるが、ほっとしている。作成に協力していただいた友人、知り合い、あるいは投稿の方に感謝している。そして、最後のお願いとして、誤りその他を見つけられたら、是非指摘して欲しいと思っている。
 会津八一死後58年、命日は12月21日。


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淡島寒月老人に(会津八一) 2014・12・19(金) 解説

 わが やど の ペルウ の つぼ も くだけたり    
           な が パンテオン つつが あらず や

  (わが宿のペルウの壺も砕けたり汝がパンテオン恙あらずや)

 20歳ほど年上の敬愛する淡島寒月にも諧謔の語をもって歌を送る。


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会津八一 鹿鳴集・望郷(七首) 2014・12・23(火)
        いつの頃よりか大正十四年七月に至る

自註鹿鳴集より   
 作者の郷里は新潟の市内なり。されど一生の大半を東京にて暮らし、罹災して困窮に陥りしために、やむなく老後の身を故郷に寄せ来りしなり。かへつて新潟の歌を詠むこと少きは、住むこと久しからざりしためなり。  
 
 会津八一は1881年(明治14)8月1日に新潟市古町通五番町に生まれ、1902年(明治35)21歳の時、東京専門学校(現早稲田大学)高等予科に入学する。1925年(大正14)44歳に早稲田大学附属高等学院教授になるまでに詠んだ若き日の望郷の歌を含む7首である。
 作品を収録した歌集「鹿鳴集」の刊行は1940年(昭和15)59歳の時、その鹿鳴集を自ら解説した「自註鹿鳴集」の刊行は1953年(昭和28)72歳の時である。


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望郷・第1首(会津八一) 2014・12・27(土) 解説

 はる されば もゆる かはべ の をやなぎ の     
          おぼつかなく も みづ まさり ゆく

 (春されば萌ゆる川辺のを柳のおぼつかなくも水増さりゆく)

 故郷を離れて暮らす八一が新潟を思って詠った7首の最初。先ずは信濃川を詠う。


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今年を振り返って・会津八一 2014・12・29(月)
 歌と奈良が気にいって、気楽に紹介を始めたのは12年前だった。まさか全てを網羅するとは思っていなかったが、終わったのは事実だから自分でもびっくりする。ただただ、根気がよかっただけで、未だにミスが目立つので修正を行っているが、完成はいつになるか分からない。
 八一の歌と言えば奈良だが、山光集にある戦争末期の歌に良い悪いは別にして、大変な時代を追体験出来たことは大きなことだった。
 素空の恩師・植田重雄が出征のため、八一と共にした最後の奈良見学旅行の記述は常に冷静だった植田先生が感情を表に出していて読む者の心を打つ。社会人になって二度東京でお会いしたが、2006年5月14日に亡くなられた。
                最後の奈良見学旅行へ


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望郷・第2首(会津八一) 2015・1・5(月) 解説

 あさり す と こぎ たみ ゆけば おほかは の      
         しま の やなぎ に うぐひす なく も
  
   (漁りすと漕ぎたみゆけば大川の洲の柳に鶯鳴くも)

 調和して絵になるものを「梅に鶯、柳に燕」と言う。でも川、掘割、柳が印象的な故郷・新潟の思い出は柳に鶯なのだ。


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望郷・第3首(会津八一) 2015・1・9(金) 解説

 ふるさと の ふるえ の やなぎ はがくれ に      
         ゆうべ の ふね の もの かしぐ ころ

     (故郷の古江の柳葉がくれに夕べの舟の物炊ぐ頃)

 明治時代、水上で暮らす人が夕餉の支度をする情景を詠う。調べの良さとともに目の前の姿が懐かしさを持って浮かんでくる。 


会津八一に関するブログ 522

望郷・第4首(会津八一) 2015・1・13(火) 解説

 よ を こめて あか くみ はなち おほかは の     
         この てる つき に ふなで す らし も

 (夜をこめて閼伽汲み放ち大川のこの照る月に船出すらしも)

 額田王の歌を思い出す。
  熟田津に舟乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今漕ぎ出でな (万葉集)


会津八一に関するブログ 523

望郷・第5首(会津八一) 2015・1・17(土) 解説

 かすみ たつ はま の まさご を ふみ さくみ      
        か ゆき かく ゆき おもひ ぞ わが する

 (霞立つ浜の真砂を踏みさくみか行きかく行き思ひぞ我がする)

 いろいろな事を“か ゆき かく ゆき(行きつ戻りつ)”考える。意外に思考が進むものだ。


会津八一に関するブログ 524

望郷・第6首(会津八一) 2015・1・22(木) 解説

 すべ も なく みゆき ふり つむ よ の ま にも     
            ふるさとびと の おゆ らく をし も

 (すべもなくみ雪降り積む夜の間にも故郷人の老ゆらく惜しも)

 「幼児より1年の大半を、常に灰色の曇天をのみ眺めつつ育ちたれば・・・」と新潟生まれの八一は言っている。


会津八一に関するブログ 525

望郷・第7首(会津八一) 2015・1・26(月)  解説

 みゆき ふる こし の あらの の あらしば の      
           しばしば きみ を おもは ざらめ や

  (み雪降る越の荒野の荒柴のしばしば君を思はざらめや)

 故郷の人々を思って詠う歌だが、恋人や友人への思いが背景にある。“人を思う”が直接表現されるのは、八一には珍しい。


会津八一に関するブログ 526

吉野北六田の茶店にて(会津八一) 2015・1・30(金) 解説
  
 みよしの の むだ の かはべ の あゆすし の     
           しほ くちひびく はる の さむき に
 
   (み吉野の六田の川辺の鮎鮨の塩口ひびく春の寒きに)

 鹿鳴集の中の南京余唱(なんきょうよしょう)42首は奈良を詠んだ大正14年の作。前半27首は同年3月に、後半15首は同年11月に詠まれた。「新唱」に対する余唱である。この歌は南京余唱第1首。
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