会津八一に関するブログ 11
2014年7~9月

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放浪唫草・第54首(会津八一) 2014・7・4(金)

 菅原道真をおもひて      解説
     
  わび すみて きみ が みし とふ とふろう の
            いらか くだけて くさ に みだるる  

  (わび住みて君が見しとふ都府楼の甍砕けて草に乱るる)

 学問の神様と言うことではなく、左遷された菅原道真の悲哀が彼への思いを深くする。



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放浪唫草・第55首(会津八一) 2014・7・8(火)

 観世音寺の鐘楼にて      解説

  この かね の なり の ひびき を あさゆふ に 
            ききて なげきし いにしへ の ひと 

      (この鐘の鳴りの響きを朝夕に聞きて嘆きし古の人)

 菅原道真は九州に左遷された。八一は幹事と対立し、早稲田中学教頭の職を辞して、九州の旅を続けている。



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放浪唫草・第56首(会津八一) 2014・7・12(土)

 観世音寺の鐘楼にて(第2首)     解説

  いたづき の たぢから こめて つく かね の 
        ひびき の すえ に さぎり は まよふ 

  (いたづきの手力こめて撞く鐘の響きの末にさ霧は迷ふ)

 病身だが力を込めて鐘をついた。その響きは夕霧とともに漂い消える。



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放浪唫草・第57首(会津八一) 2014・7・17(木)

 観世音寺の鐘楼にて(第3首)    解説

  ひとり きて わが つく かね を ぬばたまの 
        よみ の はて なる ひと さえ も きけ
 
(1人来て我が撞く鐘をぬばたまの黄泉の果てなる人さえも聞け)

 私の撞く鐘の音よ、私の想うあの世の菅公・菅原道真に届け! 



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最後の奈良見学旅行1  2014・7・18(金)

 恩師・故植田重雄先生の「會津八一の生涯」(1988年)を読んだのが、会津八一との出会いである。先生の本はほとんど読んだが学術書で難しい。そうした中で、感情が表に出て、情感豊かに書かれている「最後の奈良見学旅行」(秋艸道人 會津八一の学藝・補遺二 2005年)は印象に残った。そこには生身の先生がいたからである。
 最近、会津八一の第二歌集・山光集の歌の解説を進めているが、この補遺二と関連する。学徒出陣間際(昭和18年)の学生たちを連れたこの「最後の奈良見学旅行」を数回に分けて紹介する。現在の戦争への道を開こうとする愚かな選択を憂いながら。

 會津八一(秋艸道人)先生は、毎年美術科・史学科の学生のために、大和の寺や古美術の見学の旅行を行ってきた。しかし昭和十八年の秋のそれは、特別のものであったようにおもう。太平洋各戦域でアメリカは総反攻に転じ、ミッドウウェー海戦、ガダルカナルの激闘、アッツ島の玉砕等々日本は守勢に立たされていた。
 当時、貴族院議員であり、土佐の武市半平太の嗣子なる人が、まだ日本は敗北したわけではない、三十万人の学生の精鋭がいるではないか、これらをして国難に当たらしめ退勢を挽回しようと提案した。戦後は戦争責任を軍部にだけかぶせたが、政治家もなかなか率先してやったものだ。やがて「徴兵猶予の停止」が宣言され、学園の学問や研究の火は消えることになった。いわゆる学徒出陣である。雨の降る明治神宮外苑球場での、東條英機総理のもと、閲兵分列の壮行会が行われたのは十月十五日である。



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放浪唫草・第58首(会津八一) 2014・7・21(月)

 観世音寺の鐘楼にて(第4首)     解説 

  つき はてて くだる しゆろう の いしだん に 
           かれて なびかふ はた の あらくさ 

  (撞き果てて下る鐘楼の石段に枯れて靡かふはたの荒草)

 枯れ草の靡く鐘つき堂は閑散としている。菅公の悲哀と一人旅の八一が目の前に浮かんでくる。



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最後の奈良見学旅行2  2014・7・22(火)

 愚かな戦争は未来を担う学生たちも戦場に駆り出した。「戦後は戦争責任を軍部にだけかぶせたが、政治家もなかなか率先してやったものだ」植田先生の眼は鋭い。
 最後の奈良旅行は戦地に赴く学生たちとの別れともいえる。多くの学生は八一の鹿鳴集を携えて出征したと言う。

 奈良見学旅行は、いろいろな行事を避けたためにおくれ、ようやく十一月十一日に行われることになった。芸術科の学生だけでなく、奈良美術に興味を持つ学生はだれでも参加してよいということである。それは間もなく入隊し、戦地に赴く学生たちに、美の故郷である奈良とその仏像を観てほしいという、會津先生のおもいやりであったとおもう。しかし、あわただしい入営間近の旅行である。郷里に帰り、身辺を整理したり、親戚知人への別れの挨拶もひかえていた者にとって、全日程をこなすことはむつかしかった。だから、十一日から二十二日までの全日程を、はじめから終りまで旅行したのは、ごく少数で、大方は五、六日、あるいは三、四日、道人の一行に加わり、途中で別の自分の選んだ寺社を旅する者、随時参加して道人に別れの挨拶をして帰郷するものなどまちまちであった。それも時局の厳しさを反映するものである。


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放浪唫草・第59首(会津八一) 2014・7・25(金)

 長崎のさる寺にて    解説

  おくり いでて かたる はふし の ゆびさき に
             みづ とほじろき わうばく の もん 

    (送り出でて語る法師の指先に水遠白き黄檗の門)

 寺の門から俯瞰する白い長崎の海、素晴らしい光景が浮かんでくる。



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最後の奈良見学旅行3  2014・7・28(月)

 道人と学生たちの泊まった宿は、言うまでもなく登大路の日吉館である。まず、東大寺大仏殿、三月堂、戒壇院、新薬師寺が十一月十一日の一日目である。その後十六日の毎日新聞に、「春日野にて」と題して掲載されている歌はつぎのごとくである。

  いで たたむ いくひ の ひま を こぞり きて 
          かすが の のべ に あそぶ けふ かな   
解説
  うつしみ は いづく の はて に くさ むさむ 
         かすが の のべ を おもひで に して    
 解説  
  かすがの の こぬれ の もみぢ もえ いでよ 
        また かへらじ と ひと の ゆく ひ を
      解説

 春日野に立って、入隊間近の学生たちの感慨をおもいやっての歌である。これらの作品について今更論評する必要はない。明治四十一年、はじめて奈良を訪れ、春日野にたたずんだときの古代美への憧れと、恍惚とした想い、唯美の境地と何というちがいであろうか。

 植田先生が言うはじめて春日野を詠んだ歌は、鹿鳴集の冒頭を飾る。

  かすがの に おしてる つき の ほがらかに 
        あき の ゆふべ と なり に ける かも    
解説
  かすがの の みくさ をり しき ふす しか の 
        つの さえ さやに てる つくよ かも      
 解説



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放浪唫草・第60首(会津八一) 2014・7・29(火)

 西国の旅より奈良にもどりて     解説

  しか の こ は みみ の わたげ も ふくよかに
          ねむる よ ながき ころ は き に けり 

   (鹿の子は耳の綿毛もふくよかに眠る夜長き頃は来にけり)

 九州の長旅の途中一度、大阪、奈良を訪れる。鹿の子の綿毛、鋭い観察力を感じさせる。



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最後の奈良見学旅行4  2014・8・2(土)

 十二日には法隆寺、法輪寺、中宮寺などを訪ねたが、しかし道人は歌碑のことで県の役人との面談のため、学生だけとなった。翌十三日には、学生たちと薬師寺、唐招提寺、西大寺、喜光寺、秋篠寺などを巡拝した。つぎの歌は、薬師寺の東塔である。

  うかび たつ たふ の もごし の しろかべ に
     解説
        あさ の ひ さして あき はれ に けり   

 東塔は元来三重の塔であるが、各層を補強するために、裳階(もこし)をつけ、六重のように見える。晴れわたった秋の空に裳階の白壁が、朝日に映え鮮やかであるという意である。
 さらに東院堂の聖観音が詠まれている。

  みほとけ の ひかり すがしき むね の へ に 
    解説
           かげ つぶらなる たま の みすまる    
  
 薬師寺の金銅仏は、みな磨き上げられて光沢を発している。とくにこの仏像は若々しい理想の青年像として荘厳、清浄をきわめる。胸にかがやく宝珠に焦点をあてて讃嘆した一首である。
 十四日、平城宮址、海龍王寺、奈良博物館を訪れた。平城宮址の冷たい風に吹かれたためか、極度の緊張と、疲労が重なったせいか、道人は風邪を訴え、翌十五日は日吉館で休養をとり、学生だけで浄瑠璃寺、岩船寺を訪れた。翌十六日は自由行動で、学生たちは好みの寺や神社を訪れ、道人は二日の休養をとり体力が回復し、十七日には元気よく桜井の聖林寺に向かった。


 植田先生が薬師寺東院堂の聖観音を表現した「この仏像は若々しい理想の青年像として荘厳、清浄をきわめる」は全くその通りだと思う。仏像作りを始めたころ、この聖観音に身震いしたことを思い出す。 



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放浪唫草・第61首(会津八一) 2014・8・3(日)

 奈良の戎(えびす)の市にて      解説

  ささ の は に たひ つり さげて あをによし
         なら の ちまた は ひと の なみ うつ 

  (笹の葉に鯛吊り下げてあをによし奈良の巷は人の波打つ)

 「憂患」を抱えた寂しい西国の旅の途中で、戎市の賑わいを詠う。八一は徐々に心の安定を取り戻しつつあった。


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最後の奈良見学旅行5  2014・8・6(水)

 仏像あるいは芸術的な対象への対応を学生に教える八一、他の本でも取り上げられている有名な場面である。

 聖林寺の十一面観音は、和辻哲郎の『古寺巡礼』でも取り上げているように、元々、三輪神社の御輪寺(おほみわでら、だいごりんじ)という神仏習合の神宮寺にあった仏像である。現在は特別に観音堂を設けて安置しているが、当時は本堂本尊の傍らに置かれていた。扉を閉めたままの暗い本堂にはいると、学生の一人が懐中電灯をつけて見ようとした。すると、「懐中電灯など照らしたって、仏像は見えはせんぞ」道人が怒鳴った。
 やがて住職が手燭をともして差し出すと、それを受けて道人は、ぐりぐりと抉るように、観音の顔、胸、手などを照らし出して、「この観音様の光背は、昔のままではない。はじめどのような光背であったかを想い浮かべなければならない。この仏さんを祀っていたお堂は、はじめどんなお堂であったかも想像しながらよく見るのだ」「何度もいうごとく、仏さんを前にしてどうあるべきか、それぞれ自分自身で納得、解決することだ」
 道人がかかげる手燭に照らし出される観音は、全世界をおおうような、やさしく悲しいお顔をしていた。



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放浪唫草・第62首(会津八一) 2014・8・7(木)

 奈良より東京の友に       解説

  なべて よ は さびしき もの よ くさまくら
        たび に あり とも なに か なげかむ 

  (なべて世は寂しきものよ草枕旅にありとも何か嘆かむ)

 放浪唫草全63首の総括と言える歌。人生の本質は寂しいものなのだ、心の中の懊悩煩悶は己特有のものではないと旅の中で悟った。


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山光集 2014・8・10(日)

 会津八一・山光集(第2歌集 246首)の解説を8月7日に終えた。始めたのは今年の2月4日だから、6ヶ月で終了したことになる。鹿鳴集(第1歌集 371首)には10年以上かかったので、すごいスピードだった。理由は現地を訪ねていないこと、写真をいれなかったこと、戦争の影響で今日的に歌として評価できない作品があり、簡単な解説をとどめたことなどによる。
 山光集は昭和15年6月から昭和19年4月に至る4年間に詠まれた246首で、戦争時代を色濃く反映した作品も含まれる。戦中、戦後の価値観の転換により3度出版され、歌の取捨が行われた。
 山光集について八一の弟子で和光大学教授だった故宮川寅雄は以下のように書いている。(昭和46年出版・山光集、解説より)
 「・・・醜い、無惨な戦争に、拒絶の術もなく、時にはひきまわされ、時にはさいなまれ、その歌にさえ、それを投影しないではおれなかったのである。
 しかし、それは、総体的日本人の歴史的宿命でもあった。そして、會津八一もまた、その思想の質を、それによって冷厳に問はれ、試されたのであった。かれは軍国主義やファシズムには無縁ではあったが、国家の伝統の伝説には弱かった。『山光集』に、それをまざまざと見とることができる。しかし、かれは、その陥穽に対して、微妙に警戒を怠らなかったことも汲み取るべきだろう。
 『山光集』には、一部の、戦争の投影を除けば、そこには、平常の、美しい人・會津八一がいる。・・・


  参照   山光集・例言と改版に当りて  山光集・後記


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放浪唫草・第63首(会津八一) 2014・8・12(火)

 石切峠にて           解説

  いはばな の ほとけ の ひざ に わすれ こし
           かき の み あかし ひと も みる べく 

     (岩鼻の仏の膝に忘れ来し柿の実赤し人も見るべく)

 放浪唫草、最後の歌。ここでも赤が印象的に使われている。



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最後の奈良見学旅行6  2014・8・13(水)

 聖林寺を出たあと、桜井から近鉄に乗り、室生寺口に至り、大野磨崖仏をわきに見ながら、室生寺渓谷の山道を遠足でもするように一行は歩いていった。谷合の夕暮れは早い。やがて室生寺にたどりつく頃は、激しい川水がひびくのみである。
 室生寺の沿革について道人は講話した。それは空海ではなく、興福寺の賢憬(けんきょう)と修円によるものではないかということであった。夜更けて、たれやらが村にいって買ってきた酒を、渓川のあたりで、會津先生をお呼びして別離の宴にしようといい出した。
 「海ゆかば水漬くかばね、山ゆかば草むすかばね・・・・・・」の歌がどこからともなくひびき、校歌や軍歌もつぎつぎに歌った。無理をして酒を飲み、川風に吹かれたのがいけなかった。道人は再び風邪をひいたらしい。


 この時、八一が詠んだ歌が山光集・霜葉の第2、3首である。

  やまがは は しらなみ たてり あす の ごと   
        いで たつ こら が うた の とよみ に
  解説
  うみ ゆかば みづく かばね と やまがは の   
         いはほ に たちて うたふ こら は も
  解説



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村荘雑事・十七首(会津八一) 2014・8・17(日)

 会津八一 鹿鳴集・村荘雑事(十七首)
           大正十一年九月より同十三年に至る

 親戚筋にあたる市島春城(しゅんじょう)の別荘「閑松庵」を無償で借りた八一は秋艸堂と名づけ、14年間ここで生活した。下の不動谷を加えると3千坪もあった下落合秋艸堂は学問、芸術が成熟するのにとても役立った。ここで詠まれた村荘雑事17首を植田重雄は「平淡の世界」と言っている。

村荘 
 作者は、これより先久しく小石川区豊川町にて星島二郎君の貸家に住みしを、この時より落合町三丁目一二九六番地なる市島春城翁(1860-1944)の別荘を借りて移り住みしなり。(自註鹿鳴集より)
   
市島春城(1860~1944)
 政治家・文筆家。新潟県北蒲原郡生まれ。本名謙吉。ジャナーリスト、衆議院議員、早稲田大学図書館初代館長として活躍した。八一の親戚にあたり、住居の借用など、学業から生活まで手助けした。



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最後の奈良見学旅行7  2014・8・21(木)

 翌朝、よく晴れたよい秋日和、住職の厚意で金堂、講堂の密教美術の粋を拝むことができた。

  わくらご は あな うつくし と みほとけ の 
        みどう の やみ に こゑ はなち つつ  解説

 道人は金堂でも手燭を点して、沢山ならぶ仏たちをゆっくり、しずかに見せてくれた。「わくらご」とは、若い学生たちを古風に呼んだ。思わず「美しいなあ」と溜息のような声がこだましたが、わたしもその一人だった。かって大正十一年(1921)八月のさ中、道人ははじめて室生寺を訪ねたときの感動と陶酔を、若い学生たちに味わせたかったのだろう。室生寺は道人が奈良美術の研究を手がける出発点だった。最初に世に出したのは『室生寺大観』であった。そして最後に残しておいた研究テーマでもあった。金堂には釈迦・薬師如来の立像がが立ち、文殊・地蔵菩薩、さらに十一面観音の五体が安置されている。

 しよく とりて むかへば あやし みほとけ の 
         ただに います と おもほゆる まで   解説
 この歌は十一面観音立像である。手燭をとって近づけば、うら若く、あやしいまでに女性のお姿である。薬師寺の東院堂の聖観音と同じように、しばしば理想の男性像、女性像で仏身を表現する。


 室生寺の金堂には五体の仏像(本尊釈迦の左に文殊、十一面観音、右に薬師、地蔵)が並び立ち、その手前に十二神将立像がある。何度でも訪れたいところであり、とりわけ十一面観音立像は素晴らしい。



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法隆寺の歌碑 2014・8・23(土)

 会津八一の歌碑建立が2基計画されている。一つは今年の11月上旬に予定されている法隆寺境内の歌碑

  五重塔をあふぎみて     解説

   ちとせ あまり みたび めぐれる ももとせ を 
           ひとひ の ごとく たてる この たふ


 この建立で奈良にある歌碑は20基になる。法隆寺周辺に歌碑はあるが、今まで境内には無かった。その理由は素空の想像だが、法隆寺再建・非再建論争で八一が唱えた再建説を法隆寺が歓迎しなかったこと、その調査の過程での八一の強引な手法が寺の不評を買ったことなどがある。
 また、金堂壁画の落剝、荒廃を嘆く八一が早くから壁画を切り取って別の場所に保管し、金堂には現代作家の新しい壁画を掲げることを提唱していた。それは法隆寺の内外より猛烈な反感を受けた。このことも影響しているだろう。(その後、昭和24年金堂壁画は火災でほぼ全滅)
 法隆寺の歌を19首詠んだ八一の歌碑が境内に無いことを早くから不思議に思っていたが、今回の建立で実現する。ファンにとって嬉しいことだ。
 もう一つは来年予定の新潟県胎内市の尼寺・柴橋庵の歌碑である。

  山鳩(第2首)       解説

   やまばと の とよもす やど の しづもり に 
          なれ は も ゆく か ねむる ごとく に



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村荘雑事・第1首(会津八一) 2014・8・24(日)  解説

 きく うう と おり たつ には の このま ゆ も     
           たまたま とほき うぐいす の こゑ 

  (菊植うと降り立つ庭の木間ゆもたまたま遠きうぐいすの声)
 
 武蔵野の名残を残す広大な敷地の下落合秋艸堂に移り住み、心の余裕を得て自然と交わりながら詠う。


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最後の奈良見学旅行8  2014・8・27(水)

 途中でおくれて参加をゆるされたわたしは、独りでよくみるべきもの、もう一度見たいものがあって、道人に挨拶して室生寺川の道を、一足さきに急いで戻っていった。独りになったとき、悲壮な孤独感におそわれた。入営の間近さが一層、心をたかぶらせたのであろう。わたしはつぎのような和歌を詠んだ。

 青空にしきりに紅葉舞ひ上る秋のをはりの室生寺の川

 わが世には再びは見じ流れゆく室生寺川の瀬々の紅葉は

 もう一度聖林寺の十一面観音に逢いたくて訪れると、やさしい老僧がどうぞといってくれ、本堂に上がらせてもらった。すると、小さな蝋燭をともしてこもっている老母が合掌し、観音さまにしきりにつぶやいている。村の人々に日の丸を振って歓呼の声でおくられ、わたしも旗をふってわが子を見送ったが、どうかわが子が無事であるようお守り下さいと、涙ながらにいっている。これで三度目の召集であるという。仏さまが眼の前に在(いら)っしゃっているように、訥々と老母が語っているのだ。慈悲のまなざしで観音さまは蓮をかざしておられる。

 みほとけのみ手のはちすのいつしかも人の心に咲きてあれこそ

 こう願い、このように歌わずにはいられない想いに駆られて詠んだ一首である。
 わたしは三輪神社に詣でた。晩秋の木枯らしが三輪の御山を吹いていた。拝殿や古い神杉のあたりには人影はなく、白髪の老翁が長い箒で、しずかに掃ききよめている。しかし、夕日の射すあたりに、杉の古枝が丸い塊りになって、ばさっばさっと落ちてくる。それを意に介せぬように翁は落着いていて黙々と掃いている。その有様が何とも清浄で、たかぶっていたわたしの心は、はじめて落ちついていった。嬉しいような心定まる想いであった。

  みやしろのみ前しづかに掃く翁見つついつしか心定まる

  こがらしに杉の古枝落ちしきり翁黙々と掃き浄めゐる


 「わが世には再びは見じ・・・」と詠み「たかぶっていたわたしの心は、はじめて落ちついていった」と言う出征前の植田先生の心を想う。


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村荘雑事・第2首(会津八一) 2014・8・30(土) 解説

 きく うう と つち に まみれて さにはべ に   
        われ たち くらす ひと な とひ そね 

 (菊植うと土にまみれてさ庭辺に我立ち暮らす人な問ひそね)

 どうか一人にしておいて欲しい、と詠うが実際は多くの学生や門下生が秋艸堂を訪れた。


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最後の奈良見学旅行9  2014・9・3(水)

 十八日、道人は當麻寺から高野山金剛峰寺にゆき、明王院に泊った。山中は、はや雪が積り、疲労と寒さで風邪をこじらせたらしいが、十九日の朝、秘宝赤不動を拝して感動の十一首が生まれた。

 うつせみ の ちしほ みなぎり とこしへ に    解説
        もえ さり ゆく か ひと の よ の ため に 

 あかふどう わが をろがめば ときじく の     解説
        こゆき ふり く も のき の ひさし に 

 この見学旅行は、たんに仏像や古寺を巡る旅ではなく、戦争の動乱の中で大学が解体、学問を停止し、師弟が最後の別離、みほとけとのお別れであったから、悲愴な想いが道人の歌にもこもっている。


 上記二首は、山光集・明王院の前書に「十九日高野山明王院に於て秘宝赤不動を拜すまことに希世の珍なりその図幽怪神異これに向ふものをして舌慄へ胸戦き円珍が遠く晩唐より将来せる台密の面目を髣髴せしむるに足る予はその後疾を得て京に還り病室の素壁に面してその印象を追想し成すところ即ちこの十一首なり」と書いた八一の赤不動を詠んだ力作である。


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村荘雑事・第3首(会津八一) 2014・9・6(土) 解説

 はな すぎて のび つくしたる すゐせん の       
         ほそは みだれて あめ そそぐ みゆ
 
   (花過ぎて伸び尽くしたる水仙の細葉乱れて雨注ぐ見ゆ)

 村荘雑事を読んだ時、印象深かった歌の一つである。


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最後の奈良見学旅行10  2014・9・10(水)

 別れにあたり、わたしはおそるおそる一首を差し出し、「先生、今日でお別れします。これをお読み下さい。日の丸もお願いします」と日章旗を前に出した。その歌はつぎのような歌である。

 みいくさに出征(いで)たつわれや大和路のもゆる夕日をいつかまた見む

 道人はしばらく黙っていたが、
「植田、どんな戦場に行こうとも必ず歌を詠め、どんなことがあっても歌をわすれるな」
 と激しい声でわたしに向かって叫ばれた。日の丸に「祈武運長久 植田重雄君」、墨痕淋漓と書いて下さった。憔悴して苦しそうだった道人は、墨のかわく間じっと眼をつむっていたが、
「戦争はいつまでもつづくというものではない。戦争は終る。その時は研究をつづけるのだ」
 といわれた。有難いことであった。わたしも郷里の家に帰らなければならない。あわてて身支度をととのえ、お別れした。しかし、心の中でもうお別れですと暗然と呟いた。

  みほとけのきみがみ歌を口ずさみ大和路をゆく今日をかぎりに

  師と別れいそぎ故郷に帰りたり荒寥として独り行く道
 

 師弟ともに出征を望んでいるわけではない。「歌を詠め」「研究を続けるのだ」八一の声が聞えてくる。植田先生は戦後、大学に戻り宗教倫理学をメインにしながら、会津八一研究の労作を出版した。


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村荘雑事・第4首(会津八一) 2014・9・13(土) 解説

 かすみ たつ をちかたのべ の わかくさ の        
          しらね しぬぎて しみず わく らし 

 (霞立つをちかた野辺の若草の白根しぬぎて清水湧くらし)

 ありし日の武蔵野の情景が浮かんでくる1首である。


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最後の奈良見学旅行11(完)  2014・9・17(水)

 郷里に帰ると、待ちかねていた家族、親戚、知人、友人とわかれの挨拶をするのに忙しく、どのようにして入隊前の日々を過ごしたか分からない。沢山の護符や、千人針の腹巻きをもらった。十二月一日、中部三部隊(旧歩兵第三十四連隊)に入営すべく、幾人かの人々と一しょに郷里の方々に見送られ、藤相鉄道の相良駅の車窓に立った。発車前、さかんに別れと励ましの言葉を受け、万歳の声とともに小旗が一せいに振られた。やがて、軽便が動き出すと、駅の隅で、祖母が小旗を持ってじっと見ていた。
 わたしは四歳のとき、母を亡くしているので、祖母が母代りをしてくれていた。
 二十一日、會津先生は人々に扶けられ、ようやく東京に戻ることができたが、肺炎で危篤となり、五ヶ月も病床に臥し、生涯でもっとも大きい病気となった。また眼の病いにも犯された。その間、献身的に看病したのが、養女のきい子さんである。きい子さんも過労で結核に犯され、ついに『山鳩』『観音堂』に悲劇となる。やがて、昭和二十年、六十歳以上の人々は大学を辞職し、疎開の準備に取り掛かる。その時、空襲に遭い、万巻の書籍、資料を焼失し、故郷新潟に帰り、最晩年を過ごされた。
 この昭和十八年、学徒出陣の折の奈良見学旅行が、會津先生にとっても学生にとっても最後の旅行となった。

 「最後の奈良見学旅行」は以上で終わる。会津八一は1956年(昭和31年)11月16日永眠。植田重雄は2006年(平成18年)5月14日に亡くなった。同年6月3日のお別れ会(早稲田教会)に参列し、師に感謝とお別れをしてきた。


会津八一に関するブログ 491

村荘雑事・第5首(会津八一) 2014・9・18(木) 解説

 しらゆり の はわけ の つぼみ いちじるく         
    みゆ べく なりぬ あさ に ひ に け に
 
 (白百合の葉分けの蕾いちじるく見ゆべくなりぬ朝に日に異に)

 我家で長年咲いてきた白百合がほとんど無くなった。今年は一本が皇帝ダリアの下で細々と咲いていた。


会津八一に関するブログ 492

村荘雑事・第6首(会津八一) 2014・9・22(月) 解説

 の の とり の には の をざさ に かよひ きて     
          あさる あのと の かそけく も ある か
 
  (野の鳥の庭の小笹に通ひきてあさる足の音のかそけきもあるか)

 大正から昭和初期の自然を残した武蔵野、秋艸堂の風景である。「かそけく」の語感が良く、好きな歌である。


会津八一に関するブログ 493

村荘雑事・第7首(会津八一) 2014・9・26(金) 解説

 ゆく はる の かぜ を ときじみ かし の ね の      
           つち に みだれて ちる わかば かな 

  (ゆく春の風をときじみ樫の根の土に乱れて散る若葉かな)

 武蔵野の自然は時には荒々しいのである。若葉まで飛ばす。


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きい子を追悼する歌の碑 2014・9・28(日)

 会津八一が養女・会津きい子を追悼する歌の石碑が、新潟県胎内市(旧中条町)の尼寺・柴橋庵に来年建立予定されている。昭和20年7月10日結核で亡くなったきい子の没後70年である。

 山鳩(第2首)  解説

  やまばと の とよもす やど の しづもり に 
        なれ は も ゆく か ねむる ごとく に


 この時のことを詠んだ八一の山鳩(21首)、観音堂(10首)、柴売(6首)は涙なしに読むことができない名歌である。
 今年4月に亡くなった柴橋庵庵主・渡邉貞乗(92歳)がきい子の枕経を読んだのは21歳だった。この時のことを語った庵主の話が秋艸会報第38号に載っているので一部引用する。
・・・「あの先生はとっても偉い人だから、気を付けて行ってきなさい!」と言われました。「どんな人だろう?おら!偉い人なんて言われても、偉い人と言われれば学校の先生か警察の人くらいしか知らねえ!?」と答えました。翌日早朝、観音堂の庫裏に入ると、先生は一人できい子さんの布団の向こう側に、こちらを向き、胡坐(あぐら)をかいて頭を垂れ、身を震わせ泣いていた。当時、私は二十一歳だったが、小柄で小娘のような私の前では、声を出しては泣けなかったのでしょう。じっと堪えているのが分かりました。
・・・きい子さんの枕元には、小さな机に蝋燭と線香が灯(とも)っていただけのような気がする。外には雨がしとしと降り続いていたのは覚えています

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