会津八一に関するブログ 484
最後の奈良見学旅行8 2014・8・27(水)
途中でおくれて参加をゆるされたわたしは、独りでよくみるべきもの、もう一度見たいものがあって、道人に挨拶して室生寺川の道を、一足さきに急いで戻っていった。独りになったとき、悲壮な孤独感におそわれた。入営の間近さが一層、心をたかぶらせたのであろう。わたしはつぎのような和歌を詠んだ。
青空にしきりに紅葉舞ひ上る秋のをはりの室生寺の川
わが世には再びは見じ流れゆく室生寺川の瀬々の紅葉は
もう一度聖林寺の十一面観音に逢いたくて訪れると、やさしい老僧がどうぞといってくれ、本堂に上がらせてもらった。すると、小さな蝋燭をともしてこもっている老母が合掌し、観音さまにしきりにつぶやいている。村の人々に日の丸を振って歓呼の声でおくられ、わたしも旗をふってわが子を見送ったが、どうかわが子が無事であるようお守り下さいと、涙ながらにいっている。これで三度目の召集であるという。仏さまが眼の前に在(いら)っしゃっているように、訥々と老母が語っているのだ。慈悲のまなざしで観音さまは蓮をかざしておられる。
みほとけのみ手のはちすのいつしかも人の心に咲きてあれこそ
こう願い、このように歌わずにはいられない想いに駆られて詠んだ一首である。
わたしは三輪神社に詣でた。晩秋の木枯らしが三輪の御山を吹いていた。拝殿や古い神杉のあたりには人影はなく、白髪の老翁が長い箒で、しずかに掃ききよめている。しかし、夕日の射すあたりに、杉の古枝が丸い塊りになって、ばさっばさっと落ちてくる。それを意に介せぬように翁は落着いていて黙々と掃いている。その有様が何とも清浄で、たかぶっていたわたしの心は、はじめて落ちついていった。嬉しいような心定まる想いであった。
みやしろのみ前しづかに掃く翁見つついつしか心定まる
こがらしに杉の古枝落ちしきり翁黙々と掃き浄めゐる
「わが世には再びは見じ・・・」と詠み「たかぶっていたわたしの心は、はじめて落ちついていった」と言う出征前の植田先生の心を想う。
会津八一に関するブログ 485
村荘雑事・第2首(会津八一) 2014・8・30(土) 解説
きく うう と つち に まみれて さにはべ に
われ たち くらす ひと な とひ そね
(菊植うと土にまみれてさ庭辺に我立ち暮らす人な問ひそね)
どうか一人にしておいて欲しい、と詠うが実際は多くの学生や門下生が秋艸堂を訪れた。
会津八一に関するブログ 487
村荘雑事・第3首(会津八一) 2014・9・6(土) 解説
はな すぎて のび つくしたる すゐせん の
ほそは みだれて あめ そそぐ みゆ
(花過ぎて伸び尽くしたる水仙の細葉乱れて雨注ぐ見ゆ)
村荘雑事を読んだ時、印象深かった歌の一つである。
会津八一に関するブログ 488
最後の奈良見学旅行10 2014・9・10(水)
別れにあたり、わたしはおそるおそる一首を差し出し、「先生、今日でお別れします。これをお読み下さい。日の丸もお願いします」と日章旗を前に出した。その歌はつぎのような歌である。
みいくさに出征(いで)たつわれや大和路のもゆる夕日をいつかまた見む
道人はしばらく黙っていたが、
「植田、どんな戦場に行こうとも必ず歌を詠め、どんなことがあっても歌をわすれるな」
と激しい声でわたしに向かって叫ばれた。日の丸に「祈武運長久 植田重雄君」、墨痕淋漓と書いて下さった。憔悴して苦しそうだった道人は、墨のかわく間じっと眼をつむっていたが、
「戦争はいつまでもつづくというものではない。戦争は終る。その時は研究をつづけるのだ」
といわれた。有難いことであった。わたしも郷里の家に帰らなければならない。あわてて身支度をととのえ、お別れした。しかし、心の中でもうお別れですと暗然と呟いた。
みほとけのきみがみ歌を口ずさみ大和路をゆく今日をかぎりに
師と別れいそぎ故郷に帰りたり荒寥として独り行く道
師弟ともに出征を望んでいるわけではない。「歌を詠め」「研究を続けるのだ」八一の声が聞えてくる。植田先生は戦後、大学に戻り宗教倫理学をメインにしながら、会津八一研究の労作を出版した。
会津八一に関するブログ 489
村荘雑事・第4首(会津八一) 2014・9・13(土) 解説
かすみ たつ をちかたのべ の わかくさ の
しらね しぬぎて しみず わく らし
(霞立つをちかた野辺の若草の白根しぬぎて清水湧くらし)
ありし日の武蔵野の情景が浮かんでくる1首である。
会津八一に関するブログ 490
最後の奈良見学旅行11(完) 2014・9・17(水)
郷里に帰ると、待ちかねていた家族、親戚、知人、友人とわかれの挨拶をするのに忙しく、どのようにして入隊前の日々を過ごしたか分からない。沢山の護符や、千人針の腹巻きをもらった。十二月一日、中部三部隊(旧歩兵第三十四連隊)に入営すべく、幾人かの人々と一しょに郷里の方々に見送られ、藤相鉄道の相良駅の車窓に立った。発車前、さかんに別れと励ましの言葉を受け、万歳の声とともに小旗が一せいに振られた。やがて、軽便が動き出すと、駅の隅で、祖母が小旗を持ってじっと見ていた。
わたしは四歳のとき、母を亡くしているので、祖母が母代りをしてくれていた。
二十一日、會津先生は人々に扶けられ、ようやく東京に戻ることができたが、肺炎で危篤となり、五ヶ月も病床に臥し、生涯でもっとも大きい病気となった。また眼の病いにも犯された。その間、献身的に看病したのが、養女のきい子さんである。きい子さんも過労で結核に犯され、ついに『山鳩』『観音堂』に悲劇となる。やがて、昭和二十年、六十歳以上の人々は大学を辞職し、疎開の準備に取り掛かる。その時、空襲に遭い、万巻の書籍、資料を焼失し、故郷新潟に帰り、最晩年を過ごされた。
この昭和十八年、学徒出陣の折の奈良見学旅行が、會津先生にとっても学生にとっても最後の旅行となった。
「最後の奈良見学旅行」は以上で終わる。会津八一は1956年(昭和31年)11月16日永眠。植田重雄は2006年(平成18年)5月14日に亡くなった。同年6月3日のお別れ会(早稲田教会)に参列し、師に感謝とお別れをしてきた。
会津八一に関するブログ 491
村荘雑事・第5首(会津八一) 2014・9・18(木) 解説
しらゆり の はわけ の つぼみ いちじるく
みゆ べく なりぬ あさ に ひ に け に
(白百合の葉分けの蕾いちじるく見ゆべくなりぬ朝に日に異に)
我家で長年咲いてきた白百合がほとんど無くなった。今年は一本が皇帝ダリアの下で細々と咲いていた。
会津八一に関するブログ 492
村荘雑事・第6首(会津八一) 2014・9・22(月) 解説
の の とり の には の をざさ に かよひ きて
あさる あのと の かそけく も ある か
(野の鳥の庭の小笹に通ひきてあさる足の音のかそけきもあるか)
大正から昭和初期の自然を残した武蔵野、秋艸堂の風景である。「かそけく」の語感が良く、好きな歌である。
会津八一に関するブログ 493
村荘雑事・第7首(会津八一) 2014・9・26(金) 解説
ゆく はる の かぜ を ときじみ かし の ね の
つち に みだれて ちる わかば かな
(ゆく春の風をときじみ樫の根の土に乱れて散る若葉かな)
武蔵野の自然は時には荒々しいのである。若葉まで飛ばす。
会津八一に関するブログ 494
きい子を追悼する歌の碑 2014・9・28(日)
会津八一が養女・会津きい子を追悼する歌の石碑が、新潟県胎内市(旧中条町)の尼寺・柴橋庵に来年建立予定されている。昭和20年7月10日結核で亡くなったきい子の没後70年である。
山鳩(第2首) 解説
やまばと の とよもす やど の しづもり に
なれ は も ゆく か ねむる ごとく に
この時のことを詠んだ八一の山鳩(21首)、観音堂(10首)、柴売(6首)は涙なしに読むことができない名歌である。
今年4月に亡くなった柴橋庵庵主・渡邉貞乗(92歳)がきい子の枕経を読んだのは21歳だった。この時のことを語った庵主の話が秋艸会報第38号に載っているので一部引用する。
“・・・「あの先生はとっても偉い人だから、気を付けて行ってきなさい!」と言われました。「どんな人だろう?おら!偉い人なんて言われても、偉い人と言われれば学校の先生か警察の人くらいしか知らねえ!?」と答えました。翌日早朝、観音堂の庫裏に入ると、先生は一人できい子さんの布団の向こう側に、こちらを向き、胡坐(あぐら)をかいて頭を垂れ、身を震わせ泣いていた。当時、私は二十一歳だったが、小柄で小娘のような私の前では、声を出しては泣けなかったのでしょう。じっと堪えているのが分かりました。
・・・きい子さんの枕元には、小さな机に蝋燭と線香が灯(とも)っていただけのような気がする。外には雨がしとしと降り続いていたのは覚えています”
最後の奈良見学旅行8 2014・8・27(水)
途中でおくれて参加をゆるされたわたしは、独りでよくみるべきもの、もう一度見たいものがあって、道人に挨拶して室生寺川の道を、一足さきに急いで戻っていった。独りになったとき、悲壮な孤独感におそわれた。入営の間近さが一層、心をたかぶらせたのであろう。わたしはつぎのような和歌を詠んだ。
青空にしきりに紅葉舞ひ上る秋のをはりの室生寺の川
わが世には再びは見じ流れゆく室生寺川の瀬々の紅葉は
もう一度聖林寺の十一面観音に逢いたくて訪れると、やさしい老僧がどうぞといってくれ、本堂に上がらせてもらった。すると、小さな蝋燭をともしてこもっている老母が合掌し、観音さまにしきりにつぶやいている。村の人々に日の丸を振って歓呼の声でおくられ、わたしも旗をふってわが子を見送ったが、どうかわが子が無事であるようお守り下さいと、涙ながらにいっている。これで三度目の召集であるという。仏さまが眼の前に在(いら)っしゃっているように、訥々と老母が語っているのだ。慈悲のまなざしで観音さまは蓮をかざしておられる。
みほとけのみ手のはちすのいつしかも人の心に咲きてあれこそ
こう願い、このように歌わずにはいられない想いに駆られて詠んだ一首である。
わたしは三輪神社に詣でた。晩秋の木枯らしが三輪の御山を吹いていた。拝殿や古い神杉のあたりには人影はなく、白髪の老翁が長い箒で、しずかに掃ききよめている。しかし、夕日の射すあたりに、杉の古枝が丸い塊りになって、ばさっばさっと落ちてくる。それを意に介せぬように翁は落着いていて黙々と掃いている。その有様が何とも清浄で、たかぶっていたわたしの心は、はじめて落ちついていった。嬉しいような心定まる想いであった。
みやしろのみ前しづかに掃く翁見つついつしか心定まる
こがらしに杉の古枝落ちしきり翁黙々と掃き浄めゐる
「わが世には再びは見じ・・・」と詠み「たかぶっていたわたしの心は、はじめて落ちついていった」と言う出征前の植田先生の心を想う。
会津八一に関するブログ 485
村荘雑事・第2首(会津八一) 2014・8・30(土) 解説
きく うう と つち に まみれて さにはべ に
われ たち くらす ひと な とひ そね
(菊植うと土にまみれてさ庭辺に我立ち暮らす人な問ひそね)
どうか一人にしておいて欲しい、と詠うが実際は多くの学生や門下生が秋艸堂を訪れた。
会津八一に関するブログ 486
最後の奈良見学旅行9 2014・9・3(水)
十八日、道人は當麻寺から高野山金剛峰寺にゆき、明王院に泊った。山中は、はや雪が積り、疲労と寒さで風邪をこじらせたらしいが、十九日の朝、秘宝赤不動を拝して感動の十一首が生まれた。
うつせみ の ちしほ みなぎり とこしへ に 解説
もえ さり ゆく か ひと の よ の ため に
あかふどう わが をろがめば ときじく の 解説
こゆき ふり く も のき の ひさし に
この見学旅行は、たんに仏像や古寺を巡る旅ではなく、戦争の動乱の中で大学が解体、学問を停止し、師弟が最後の別離、みほとけとのお別れであったから、悲愴な想いが道人の歌にもこもっている。
上記二首は、山光集・明王院の前書に「十九日高野山明王院に於て秘宝赤不動を拜すまことに希世の珍なりその図幽怪神異これに向ふものをして舌慄へ胸戦き円珍が遠く晩唐より将来せる台密の面目を髣髴せしむるに足る予はその後疾を得て京に還り病室の素壁に面してその印象を追想し成すところ即ちこの十一首なり」と書いた八一の赤不動を詠んだ力作である。
最後の奈良見学旅行9 2014・9・3(水)
十八日、道人は當麻寺から高野山金剛峰寺にゆき、明王院に泊った。山中は、はや雪が積り、疲労と寒さで風邪をこじらせたらしいが、十九日の朝、秘宝赤不動を拝して感動の十一首が生まれた。
うつせみ の ちしほ みなぎり とこしへ に 解説
もえ さり ゆく か ひと の よ の ため に
あかふどう わが をろがめば ときじく の 解説
こゆき ふり く も のき の ひさし に
この見学旅行は、たんに仏像や古寺を巡る旅ではなく、戦争の動乱の中で大学が解体、学問を停止し、師弟が最後の別離、みほとけとのお別れであったから、悲愴な想いが道人の歌にもこもっている。
上記二首は、山光集・明王院の前書に「十九日高野山明王院に於て秘宝赤不動を拜すまことに希世の珍なりその図幽怪神異これに向ふものをして舌慄へ胸戦き円珍が遠く晩唐より将来せる台密の面目を髣髴せしむるに足る予はその後疾を得て京に還り病室の素壁に面してその印象を追想し成すところ即ちこの十一首なり」と書いた八一の赤不動を詠んだ力作である。
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村荘雑事・第3首(会津八一) 2014・9・6(土) 解説
はな すぎて のび つくしたる すゐせん の
ほそは みだれて あめ そそぐ みゆ
(花過ぎて伸び尽くしたる水仙の細葉乱れて雨注ぐ見ゆ)
村荘雑事を読んだ時、印象深かった歌の一つである。
会津八一に関するブログ 488
最後の奈良見学旅行10 2014・9・10(水)
別れにあたり、わたしはおそるおそる一首を差し出し、「先生、今日でお別れします。これをお読み下さい。日の丸もお願いします」と日章旗を前に出した。その歌はつぎのような歌である。
みいくさに出征(いで)たつわれや大和路のもゆる夕日をいつかまた見む
道人はしばらく黙っていたが、
「植田、どんな戦場に行こうとも必ず歌を詠め、どんなことがあっても歌をわすれるな」
と激しい声でわたしに向かって叫ばれた。日の丸に「祈武運長久 植田重雄君」、墨痕淋漓と書いて下さった。憔悴して苦しそうだった道人は、墨のかわく間じっと眼をつむっていたが、
「戦争はいつまでもつづくというものではない。戦争は終る。その時は研究をつづけるのだ」
といわれた。有難いことであった。わたしも郷里の家に帰らなければならない。あわてて身支度をととのえ、お別れした。しかし、心の中でもうお別れですと暗然と呟いた。
みほとけのきみがみ歌を口ずさみ大和路をゆく今日をかぎりに
師と別れいそぎ故郷に帰りたり荒寥として独り行く道
師弟ともに出征を望んでいるわけではない。「歌を詠め」「研究を続けるのだ」八一の声が聞えてくる。植田先生は戦後、大学に戻り宗教倫理学をメインにしながら、会津八一研究の労作を出版した。
会津八一に関するブログ 489
村荘雑事・第4首(会津八一) 2014・9・13(土) 解説
かすみ たつ をちかたのべ の わかくさ の
しらね しぬぎて しみず わく らし
(霞立つをちかた野辺の若草の白根しぬぎて清水湧くらし)
ありし日の武蔵野の情景が浮かんでくる1首である。
会津八一に関するブログ 490
最後の奈良見学旅行11(完) 2014・9・17(水)
郷里に帰ると、待ちかねていた家族、親戚、知人、友人とわかれの挨拶をするのに忙しく、どのようにして入隊前の日々を過ごしたか分からない。沢山の護符や、千人針の腹巻きをもらった。十二月一日、中部三部隊(旧歩兵第三十四連隊)に入営すべく、幾人かの人々と一しょに郷里の方々に見送られ、藤相鉄道の相良駅の車窓に立った。発車前、さかんに別れと励ましの言葉を受け、万歳の声とともに小旗が一せいに振られた。やがて、軽便が動き出すと、駅の隅で、祖母が小旗を持ってじっと見ていた。
わたしは四歳のとき、母を亡くしているので、祖母が母代りをしてくれていた。
二十一日、會津先生は人々に扶けられ、ようやく東京に戻ることができたが、肺炎で危篤となり、五ヶ月も病床に臥し、生涯でもっとも大きい病気となった。また眼の病いにも犯された。その間、献身的に看病したのが、養女のきい子さんである。きい子さんも過労で結核に犯され、ついに『山鳩』『観音堂』に悲劇となる。やがて、昭和二十年、六十歳以上の人々は大学を辞職し、疎開の準備に取り掛かる。その時、空襲に遭い、万巻の書籍、資料を焼失し、故郷新潟に帰り、最晩年を過ごされた。
この昭和十八年、学徒出陣の折の奈良見学旅行が、會津先生にとっても学生にとっても最後の旅行となった。
「最後の奈良見学旅行」は以上で終わる。会津八一は1956年(昭和31年)11月16日永眠。植田重雄は2006年(平成18年)5月14日に亡くなった。同年6月3日のお別れ会(早稲田教会)に参列し、師に感謝とお別れをしてきた。
会津八一に関するブログ 491
村荘雑事・第5首(会津八一) 2014・9・18(木) 解説
しらゆり の はわけ の つぼみ いちじるく
みゆ べく なりぬ あさ に ひ に け に
(白百合の葉分けの蕾いちじるく見ゆべくなりぬ朝に日に異に)
我家で長年咲いてきた白百合がほとんど無くなった。今年は一本が皇帝ダリアの下で細々と咲いていた。
会津八一に関するブログ 492
村荘雑事・第6首(会津八一) 2014・9・22(月) 解説
の の とり の には の をざさ に かよひ きて
あさる あのと の かそけく も ある か
(野の鳥の庭の小笹に通ひきてあさる足の音のかそけきもあるか)
大正から昭和初期の自然を残した武蔵野、秋艸堂の風景である。「かそけく」の語感が良く、好きな歌である。
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村荘雑事・第7首(会津八一) 2014・9・26(金) 解説
ゆく はる の かぜ を ときじみ かし の ね の
つち に みだれて ちる わかば かな
(ゆく春の風をときじみ樫の根の土に乱れて散る若葉かな)
武蔵野の自然は時には荒々しいのである。若葉まで飛ばす。
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きい子を追悼する歌の碑 2014・9・28(日)
会津八一が養女・会津きい子を追悼する歌の石碑が、新潟県胎内市(旧中条町)の尼寺・柴橋庵に来年建立予定されている。昭和20年7月10日結核で亡くなったきい子の没後70年である。
山鳩(第2首) 解説
やまばと の とよもす やど の しづもり に
なれ は も ゆく か ねむる ごとく に
この時のことを詠んだ八一の山鳩(21首)、観音堂(10首)、柴売(6首)は涙なしに読むことができない名歌である。
今年4月に亡くなった柴橋庵庵主・渡邉貞乗(92歳)がきい子の枕経を読んだのは21歳だった。この時のことを語った庵主の話が秋艸会報第38号に載っているので一部引用する。
“・・・「あの先生はとっても偉い人だから、気を付けて行ってきなさい!」と言われました。「どんな人だろう?おら!偉い人なんて言われても、偉い人と言われれば学校の先生か警察の人くらいしか知らねえ!?」と答えました。翌日早朝、観音堂の庫裏に入ると、先生は一人できい子さんの布団の向こう側に、こちらを向き、胡坐(あぐら)をかいて頭を垂れ、身を震わせ泣いていた。当時、私は二十一歳だったが、小柄で小娘のような私の前では、声を出しては泣けなかったのでしょう。じっと堪えているのが分かりました。
・・・きい子さんの枕元には、小さな机に蝋燭と線香が灯(とも)っていただけのような気がする。外には雨がしとしと降り続いていたのは覚えています”