会津八一に関するブログ 10
2014年1~6月

会津八一に関するブログ 425

放浪唫草・第17首(会津八一) 2014・1・8(水) 

 別府にて(第4首)    解説

  たちばな の こぬれ たわわ に ふく かぜ の
          やむ とき も なく いにしへ おもほゆ

    (橘の木末たわわに吹く風の止む時もなく古おもほゆ)

 八一の関心は古代ギリシャから日本の古代へと向かって行く。


会津八一に関するブログ 426

放浪唫草・第18首(会津八一) 2014・1・11(土)

 別府にて(第5首)   解説

  わが こころ つくし の はま の たちばな の
          いろづく まで に あき ふけ に けり

   (我が心筑紫の浜の橘の色づくまでに秋ふけにけり)  

 前歌(第17首)では橘を眺めて古代憧憬の思い、ここでは色づく橘に季節の推移を感じて詠う。


会津八一に関するブログ 427

放浪唫草・第19首(会津八一) 2014・1・18(土)

 別府にて(第6首)  解説

  うなばら に むかぶす やへ の しらくも を
       みやこ の かた へ ゆめ は ぬひ ゆく

  (海原にむかぶす八重の白雲を都の方へ夢は縫いゆく)

 旅にあっても活動の場所である東京への思いは深い。


会津八一に関するブログ 428

放浪唫草・第20首(会津八一) 2014・1・23(木)

 別府にて(第7首)   解説

  つきよみ の かげ は ふたたび みつれども
       たび なる われ は しる ひと も なし

  (つきよみの影は再び満つれども旅なる我は知る人もなし)

 旅に出て一月が過ぎ、深まる旅愁が詠われる。


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放浪唫草・第21首(会津八一) 2014・1・28(火)

 鬼の岩屋といふところにて    解説

  ゆふ されば ほとぎ の さけ を かたまけて
       いはや の つき に おに の ゑふ らむ

  (夕さればほとぎの酒をかたまけて岩屋の月に鬼の酔ふらむ)

 「鬼の岩屋」から鬼たちの酒盛りを連想する。


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放浪唫草・第22首(会津八一)2014・2・1(土)

 別府の宿より戯(たわむれ)に奈良の工藤精華に贈る 解説

  そらみつ やまと の かた に たつ くも は
       きみ が いぶき の すゑ に か も あらむ

   (そらみつ大和の方に立つ雲は君が息吹の末にかもあらむ)

 遠い九州から奈良の知人の吐く息を雲にたとえたユーモアある歌である。


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放浪唫草・第23首(会津八一) 2014・2・5(水)

 別府のやどりにて夢想   解説

  をちこち の しま の やしろ の もろがみ に
          わが うた よせよ おき つ しらなみ

  (をちこちの島の社のもろがみに我が歌よせよ沖つ白波)

 “ここにては「空想」にはあらず。睡眠中に作りて、醒めて後尚(な)ほ記録せる詩歌の類を神仏の霊感などの如く思ひて「御夢想」などいふ。”自註鹿鳴集


会津八一に関するブログ 432

放浪唫草・第24首(会津八一) 2014・2・9(日)

 大分市外上野の石仏をみて    解説

  ひびわれし いし の ほとけ の ころもで を
          つづりて あかき ひとすぢ の つた

   (ひび割れし石の仏のころもでを綴りて赤き一筋の蔦)  

 赤い蔦が石仏の袖のほころびを縫っているかのようだと詠む。



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放浪唫草・第25首(会津八一) 2014・2・15(土)

 豊後海上懐古     解説

  かみ の よ は いたも ふりぬ と ひむがし に
             くに を もとめし おほき すめろぎ

   (神の世はいたも古りむと東に国を求めし大き天皇)

 天皇に対する思慕が強かった八一が神話・神武東征を詠う。  



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放浪唫草・第26首(会津八一) 2014・2・20(木)

 豊後海上懐古(第2首)     解説

  あたらしき くに ひらかむ と うなばら の
       あした の かぜ に ふなで せり けむ

  (新しき国拓かむと海原のあしたの風に船出せりけむ)

 豊後の海を眺めて神話・神武東征の船出を想像して詠う。 



会津八一に関するブログ 435

放浪唫草・第27首(会津八一) 2014・2・27(木)

 豊後海上懐古(第3首)    解説

  うなばら を こえ ゆく きみ が まながい に
              かかりて あをき やまとくにばら

    (海原を越え行く君がまながいにかかりて青き大和国原)

 神武天皇が求めた大和は、八一が憧れた地でもあった。 



会津八一に関するブログ 436

放浪唫草・第28首(会津八一) 2014・3・3(月)

 耶馬渓(やまけい)にて (第1首)   解説

 大正十年十二月十二日雨を冒(おか)して耶馬渓に入り二日にして去る時に歳やうやく晩(おそ)く霜葉すでに飛びつくしてただ寒巌と枯梢(こしよう)と孤客の病身に対するあるのみ䔥条(しようじよう)まことに比すべきものなかりき 
 耶馬渓 山国川の谿谷。「山」の字を「耶馬」と訓読して、かく命じたるは頼山陽(1780-1832)なり。今日にいたりては、原名の方かへりて耳遠くなれり。

 あしびき の やまくにがは の かはぎり に
          しぬぬに ぬれて わが ひとり ねし

  (あしびきの山国川の川霧にしぬぬに濡れて我が一人寝し)

 新緑でも紅葉でもない12月半ばの氷雨の耶馬渓で11首詠う。この作品群は高い詩的世界を作っている。



会津八一に関するブログ 437

放浪唫草・第29首(会津八一) 2014・3・7(金)

 耶馬渓(やまけい)にて (第2首)   解説

  やまくに の かは の くまわ に たつ きり の
           われ に こふれ か ゆめ に みえつる
 (山国の川のくまわに立つ霧の我に恋ふれか夢に見えつる)

 川霧が今度は夢に出てきたという。昔は夢に現れる人が恋しているとした。霧を恋人と仮定する説もある。



会津八一に関するブログ 438

放浪唫草・第30首(会津八一) 2014・3・12(水)

 耶馬渓(やまけい)にて (第3首)   解説

  よひ に きて あした ながむる むか つ を の
             こぬれ しづか に しぐれ ふる なり 

  (宵に来て朝眺めむるむかつをのこぬれ静かに時雨降るなり)

 12月半ば、季節外れの耶馬渓に降る時雨、1人旅の憂愁が漂う。



会津八一に関するブログ 439

放浪唫草・第31首(会津八一) 2014・3・16(日)

 耶馬渓(やまけい)にて (第4首)   解説

  ひと みな の よし とふ もみぢ ちり はてて
           しぐるる やま を ひとり みる かな

   (人皆の良しとふ紅葉散りはてて時雨るる山を一人見るかな)

 「大正十年十二月十二日雨を冒(おか)して耶馬渓に入り・・・」の寒々とした情景である。



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放浪唫草・第32首(会津八一) 2014・3・25(火)

 耶馬渓(やまけい)にて (第5首)   解説

  しぐれ ふる やま を し みれば こころ さへ
             ぬれ とほる べく おもほゆる かも

   (時雨降る山をし見れば心さえ濡れとほるべく思ほゆるかも)

 1人旅の心情が伝わって来る。



会津八一に関するブログ 441

放浪唫草・第33首(会津八一) 2014・3・30(日)

 耶馬渓(やまけい)にて (第6首)   解説

  あさましく おい ゆく やま の いはかど を
           つつみ も あへず このは ちる なり

  (あさましく老いゆく山の岩角を包みもあへず木葉散るなり)

 老いたる人に似た岩、落ち葉がその岩を隠せないと言う。八一の視点と表現の素晴らしさを想う。



会津八一に関するブログ 442

放浪唫草・第34首(会津八一) 2014・4・4(金)

 耶馬渓(やまけい)にて (第7首)  解説

  むか つ を の すぎ の ほこふで ぬき もちて
            ちひろ の いは に うた かか まし を

    (むかつをの杉の鉾筆抜き持ちて千尋の岩に歌書かましを)

 杉の木を引き抜き、巨大な岩に歌を書きたいと言う。



会津八一に関するブログ 443

放浪唫草・第35首(会津八一) 2014・4・8(火)

 耶馬渓(やまけい)にて(第8首)  解説

  しぐれ ふる やまくにがは の たにま より
           ゆふ かたまけて ひとり いで ゆく

  (時雨降る山国川の谷間より夕かたまけて一人出でゆく)

 2泊した耶馬渓を出て、孤客はさらに九州の旅を続ける。



会津八一に関するブログ 444

放浪唫草・第36首(会津八一) 2014・4・12(土)

 耶馬渓(やまけい)にて(第9首)    解説

  やまくに の かは の せ さらず たつ きり の
            たちかえり つつ みむ よし も がも

  (山国の川の瀬さらず立つ霧の立ち返りつつ見むよしもがも)

 耶馬渓を去ろうとする八一は何度もこの素晴らしい渓谷を見る方法が無いかと詠う。



会津八一に関するブログ 445

放浪唫草・第37首(会津八一) 2014・4・17(木)

 耶馬渓(やまけい)にて(第10首)   解説

  あき さらば やまくにがは の もみじば の
       いろ に か いでむ われ まち がて に

 (秋さらば山国川のもみじ葉の色にか出でむ我待ちがてに)

 次に私が来るのを待って耶馬渓の紅葉は色づくだろうと詠む。



会津八一に関するブログ 446

放浪唫草・第38首(会津八一) 2014・4・21(月)

 耶馬渓(やまけい)にて(第11首)    解説

  たにがは の きし に かれ ふす ばら の み の
               たまたま あかく しぐれ ふる なり

   (谷川の岸に枯れ伏すバラの実のたまたま赤く時雨降るなり)

 印象的な赤、バラの実を配して、「耶馬渓にて」11首を終わる。



会津八一に関するブログ 447

放浪唫草・第39首(会津八一) 2014・4・25(金)

 自性寺(じしようじ)の大雅堂にて (第1首)  解説

 自性寺は豊前中津町にあり 池大雅(いけのたいが)かつて来りて滞留したりと称し寺中の二室を大雅堂と名づけその襖(ふすま)に彼の書画大小二十余点を貼りつめたり まことに西海の一勝観なり しかるにこの寺今はさだまれる住職もなきばかりに衰へて袴はきたる青年ただ一人ありて見物の客の案内などするのみ そのさま甚だ旅懐をいたましめたり
 彼     池大雅(1723-1776)。今に及びて最も人気ある
       南画家。本名池野秋平。別名は三岳道者、霞樵(かしょう)。
 貼りつめ  作者が、これらの歌を詠みてより、久しからずして、この
       墨蹟を、悉(ことごと)く剃刀(かみそり)かなどにて、襖より
       切り抜きて盗み去りしものあり。それより後今日に至るも、
       遂に行くところを知らずといふ。因(ちなみ)にいふ、昭和
       五年(1930)平凡社発行の『書道全集』第廿一巻には、
       これらの墨蹟のうち五点を掲載せり。
               (八九、九〇、九一、九二、九三頁参照)
       
  むかしびと こころ ゆららに もの かきし
         ふすま に たてば なみだ ながるる

   (昔人こころゆららに物書きし襖に立てば涙流るる)  

 人をあまり褒めない八一だったが、池大雅は評価した。



会津八一に関するブログ 448

放浪唫草・第40首(会津八一) 2014・4・29(火)

 自性寺(じしようじ)の大雅堂にて(第2首)   解説

  いにしへ の くしき ゑだくみ おほ かれど
        きみ が ごとき は わが こひ やまず

 (古の奇しき絵だくみ多かれど君がごときは我恋ひやまず)

 池大雅こそ私が認める稀なる芸術家だと言う。



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放浪唫草・第41首(会津八一) 2014・5・7(水)

 自性寺(じしようじ)の大雅堂にて(第3首)    解説
     
  なほざり に ゑがきし らん の ふで に みる
           たたみ の あと の なつかしき かな

  (なほざりに描きし蘭の筆に見る畳の跡のなつかしきかな)

 畳の目の跡を南画の中に見る書家会津八一の眼。
 蕪村は和紙を畳の上に直において描き、岩肌の感じを出したと言う。



会津八一に関するブログ 450

放浪唫草・第42首(会津八一) 2014・5・13(火)

 自性寺(じしようじ)の大雅堂にて(第4首)    解説 
      
  いにしへ の ひと に あり せば もろともに
         もの いは まし を もの かか まし を

  (古のひとにありせば諸共にもの言はましをもの書かましを)

 池大雅に対する最大級の賛辞と言える。



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放浪唫草・第43首(会津八一) 2014・5・17(土)

 木葉(このは)村にて        解説

 肥後国木葉村に木葉神社あり 社頭に木葉猿といふものを売る素朴また愛すべし われ旅中にこの猿を作る家これを売る店のさまを見むとて半日をこの村に送りしことあり

  このごろ の よる の ながき に はに ねりて
           むら の おきな が つくらせる さる

   (この頃の夜の長きに埴練りて村の翁が作らせる猿)

 心が沈みがちな九州の旅で自ら「戯歌」と言った歌6首を作る。八一は郷土玩具にも造詣が深かった。 



会津八一に関するブログ 452

放浪唫草・第44首(会津八一) 2014・5・22(木)

 木葉(このは)村にて(第2首)     解説

  かはら やく おきな が には の さむしろ の
            かぜ に ふかるる さにぬり の さる

   (瓦焼く翁が庭のさ莚の風に吹かるるさ丹塗りの猿)

 心と体の病を癒す目的もあった八一の九州の旅だが、ここでは穏やかな安堵が感じられる。木葉猿は無病息災、子孫繁栄の守り神という。



会津八一に関するブログ 453

放浪唫草・第45首(会津八一) 2014・5・26(月)

 木葉(このは)村にて(第3首)     解説

  ほし なめて かず も しらえぬ さにぬり の
         ましら が かほ は みる に さやけし

  (乾し並めて数も知らえぬさ丹塗りの猿が顔は見るにさやけし)

 一面に並ぶ猿の顔は赤、八一は赤を印象的に使った歌が多い。



会津八一に関するブログ 454

放浪唫草・第46首(会津八一) 2014・5・30(金)

 木葉(このは)村にて(第4首)   解説

  こころ なき おい が いろどる はにざる の
         まなこ いかりて よ の ひと を みる 

     (心なき老が彩る埴猿の眼怒りて世の人を見る)

 「こころなき」は“無心なる。素朴なる。”自註鹿鳴集。情趣を解さない、無風流である、よりこの言葉を使ったと思われる。“こころなき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ”(西行法師)



会津八一に関するブログ 455

放浪唫草・第47首(会津八一) 2014・6・3(火)

 木葉(このは)村にて(第5首)    解説

  さる の こ の つぶらまなこ に さす すみ の
           ふで あやまち そ はし の ともがら 

      (猿の子のつぶら眼に注す墨の筆過ちそ土師のともがら)

 猿のまるくてかわいい目を上手に描いて欲しいと優しい気持ちで詠う。



会津八一に関するブログ 456

放浪唫草・第48首(会津八一) 2014・6・7(土)

 木葉(このは)村にて(第6首)    解説

  ひとごと を きかじ いはじ と さる じもの
          くち おしつつみ ひじり さび す も
 
  (人言を聞かじ言はじと猿じもの口おし包み聖さびすも)

 三猿(さんざる、さんえん)は江戸初期の左甚五郎作と伝える日光東照宮のものが有名。八一は木葉村の三猿を滑稽味を以て詠った。



会津八一に関するブログ 457

放浪唫草・第49首(会津八一) 2014・6・11(水)

 木葉(このは)村にて(第7首)     解説

  さる の みこ ちやみせ の たな に こま なめて
            あした の かり に いま たたす らし 

    (猿の皇子茶店の棚に駒並めて朝の狩りに今立たすらし)

 馬に乗る陶器の猿を今にも狩りに出ようとしていると遊び心で詠んでいる。八一の頭には常に古代の風景があった。



会津八一に関するブログ 458

放浪唫草・第50首(会津八一) 2014・6・15(日)

 木葉(このは)村にて(第8首)     解説

  ましらひめ さる の みこと に まぐはいて
        みこ うまし けむ とほき よ の はる 

  (ましら姫猿の尊にまぐはいて御子生ましけむ遠き代の春)

 木葉村にて8首は尊と姫の間の子の誕生で締めくくる。緊張を解いた遊び心溢れる歌である。



会津八一に関するブログ 459

法隆寺壁画と鈴木空如 2014・6・19(木)

 鈴木空如(1873~1946)と言う日本画家をNHKの日曜美術館で知った。法隆寺金堂壁画12面の原寸大の模写を単独で生涯3度も行っていて、1949年の火災による壁画の焼損後、1967年に行われた再現模写事業に無名の空如の模写は貴重な資料となったと言う。
 再現模写が完成したことは嬉しいことだが、空如の模写があったことも素晴らしい。
 会津八一は法隆寺に何度も足を運び、壁画の歌を多く作っている。そして壁画について鹿鳴集自註でこう書いている。
 「・・・これ等の壁画の保存方法につきて意見を求められしに対して、作者は、これら十二枚を、いとも周到なる用意のもとに切り取りて、別の安全な処に保管し、その跡には現代作家をして新(あらた)に揮毫(きごう)せしむるに如(し)かずとの意見を送りたるに、忽(たちま)ち法隆寺の内外より猛烈なる反感を招き、不謹慎、不敬虔の譏(そしり)をさえ受けしが、その後、その寺にて不注意より起こりし火災のために、壁画は殆ど全滅とも云ふべき大破を来(きた)したり。」
 八一の嘆きとは別に、空如のような目立たないところで価値ある仕事をした人を評価したい。



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放浪唫草・第51首(会津八一) 2014・6・20(金)

 車中肥後の海辺にて      解説

  たち ならぶ はか の かなた の うなばら を
          ほぶね ゆき かふ ひご の はまむら 

   (立ち並ぶ墓の彼方の海原を帆船行きかふ肥後の浜村)

 墓のある風景、次歌にある大隈重信(早大初代総長)重症の影響があろうか。 

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放浪唫草・第52首(会津八一) 2014・6・24(火)

 旅中たまたま新聞にて大隈候の病あつしと知りて   解説

  わせだ なる おきな が やまひ あやふし と
        かみ も ほとけ も しろし めさず や 

   (早稲田なる翁が病ひ危ふしと神も仏もしろしめさずや)

 旅先で大隈重信の重病を知ったが、東京へは直ぐに戻らなかった。旅前の学内での対立もあって知人らが帰京を勧めなかったという。


会津八一に関するブログ 462

放浪唫草・第53首(会津八一) 2014・6・28(土)

 大宰府のあとにて    解説

  いにしへ の とほ の みかど の いしずゑ を
              くさ に かぞふる うつら うつらに 

   (古の遠の御門の礎を草に数ふるうつらうつらに)

 大宰府跡に立って、遠い昔に思いを馳せる。以前、奈良・飛鳥の川原寺跡で古のことをしきりに考えたことを思い出す。
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