3月の終わりに 2016・3・31(木)
 暖冬で思うようにスキーができなかったことが心残りだけど、年を取ったのでほどほどにしておかないとそのうちに大怪我をするかな?
 今月は弱い者いじめや差別などへの文に触れ、いろいろ考えさせられることが多かった。
 29日安保法制が実施された。戦後の平和な世界に生きてきたものには思いもよらぬことである。安保法制を再確認すると以下の二つである。
  ・集団的自衛権行使ができる
  ・自衛隊をいつでも海外に派遣できる
 国家や民族を問わず仲良く暮らしたいと思う。戦争なんてもってのほかである。
谷岡経津子2・経歴など 2016・3・30(水)
 兵庫の同級生Mがメールでこう言ってきた。「ブログ(谷岡経津子1を見た。・・・四日市博物館は中々魅力的で、プラネタリウムは特に良いなあと思った。星って何だかロマンを感じるから館長さんの絵、高田本山・専修寺の門のところの休憩所に無かったかな?日展は地方によって違うから、中々拝見はしにくい。お会いした事は無いけれど、みんなのメールからも気さくに接して下さって、色んな情報を教えて下さるように感じた
 高田本願寺に寄贈された絵ノブ君ハイキングで去年拝見した。赤を中心にした鶏頭の絵である。
 ここで簡単に経歴を書いておく。
 1943 三重県津市生まれ
 1961 津高校卒業 三重大教育学部美術学科卒業(1965) 
 1964 光風会第50回記念展初入選、個展開催1回
 1983 光風会東海展第69回S氏賞受賞
 1993 日展初入選(通算20回入選)
 2013 日展東海展中日賞受賞
 現 在 光風会会員 日展会友 四日市博物館館長 
      四日市大学名誉教授 三重県ユネスコ連絡協議会理事長 等
               (掲載写真は2016・3・9に撮影) 
小園・第2首(會津八一) 2016・3・29(火)
   はる たけし には の やなぎ の はがくれ に      解説
              はと ふたつ きて ねむる ひ ぞ おほき

 広大な秋艸堂の柳にとまる2匹の鳩、生涯独身で通した八一にはどのように映ったのだろう。 
素材を生かした犬の顔 2016・3・28(月)
 「何か彫れないかね!」と安達先生から変わった形の樟の板をいただいた。荒っぽく裁断された板を持ち帰ったら、連れ合いが「犬だよ」と言う。なるほどと思って犬の形に仕上げたら愛犬・くるみによく似たものになった。
 素材を生かしたので、鼻を黒く塗り、目にガラス球を入れた以外は形を彫っただけである。彫刻の名品は彫り刻むのではなく、木の中に埋まっている像を掘り出すとよく言われることを思いながら作ったが、もちろん名品ではない。
 愛犬のために作ったこの作品を廊下の壁にあるうららくるみの彫刻の間に掛けた。                            作品へ
夫の一大決心(中日新聞・つれあいにモノ申す) 2016・3・27(日)
 普段、穏やかな人ほど、大きな事件を起こすらしい。そう聞いた夫は「俺も、チョイ悪ジジイになってみるか」。さあ、今後を楽しみにしています。
                (いいばあさんでいたい私・69歳)


 チョイ悪ジジイどころではない、若いころは相当「悪いこと」をやったけど、今は好々爺。知り合いはみんな家族と思うようになった。
少数派になることを恐れるな! 2016・3・26(土)
 信念を貫いて行動することは難しい。つねに迷いが付きまとう。ある人が「少数派になることを恐れるな!」と東北の被災地で反原発をかかげて復興に尽力する人を励ましている。
 多くの人が正しいということは正しいという確率が高いが、落とし穴もある。多数派の人の中には、新聞やテレビが、知識人や有名人が言っているからと自らが思考することを停止して物事を判断する人がいるからだ。多数派であれば安心だという考えもあるかもしれない。
 目の前の現実を自分の目でとらえ、思考し判断する。間違えることが多々あるかもしれないが、「多くの人の意見」という言葉に思考を停止し、安穏と迎合することだけは避けたい。「少数派になることを恐れるな!」は、いい言葉だ。 
小園・第1首(會津八一) 2016・3・25(金)  
   たち わたす かすみ の なか ゆ とり ひとつ      解説
               こまつ の うれ に なき しきる みゆ


 第1歌集「南京新唱」を刊行したころ、市島春城の別荘を借りた八一はここを秋艸堂と名付け、先生として学者としての豊かな学求生活を送る。

                           くるみの子供?(3・25)
枕草子(五十七段)・よき家 2016・3・24(木)
 立派な家を訪れた檳榔毛(びろうげ)の車とそれにかかわる人達の姿や行いを良いものだと描写する。
 檳榔毛の車とは白く晒 (さら) した檳榔ヤシ科の植物の葉を細かく裂いて車の屋形をおおった牛車で、上皇・親王・大臣以下、四位以上の者、女官・高僧などが乗用した。
 清少納言が描いた当時の情景を気楽に想像して見るとよい。
(五十七段)
 よき家(いへ)、中門あけて、檳榔毛(びろうげ)の車のしろくきよげなるに、蘇枋(すはう)の下簾(したすだれ)、にほひいときよらにて、榻(しぢ)に打(うち)かけたるこそめでたけれ。五位六位などの、下襲(したがさね)のしりはさみて、笏(さく)のいとしろきに、扇(あふぎ)うちおきなどいきちがひ、又、装束(そうぞく)し、壺胡籙(つぼやなぐい)負ひたる随身(ずいじん)の出入(いでいり)したる、いとつきづきし。厨(くりや)女のきよげなるがさし出(いで)て、「何(なに)がし殿の(どのゝ)人やさぶらふ」などいふもお(を)かし。
 立派な家の中門を開けて、檳榔毛の車で白くきれいなのが、蘇枋色をした下簾のあざやかな色合いを見せて、車の轅を置くための榻に立てかけてあるのは素晴らしい。お供の五位、六位などの者が、下襲の裾を帯に挟んで、真っ白な笏の上に扇を置いたりなどして、あちこちに行き違い、また正装をして壺胡籙を背負った随身が出入りしているのは、この立派な屋敷にふさわしい。台所で料理をする小ざっぱりとした女が、顔を出して、「誰々様のお供の方はいらっしゃいますか。」などと聞いているのも、とてもよい。
 「車の轅を置くための台」 ・壺胡籙「矢を背負う細長い筒型のもの」
物持ちのよい夫(中日新聞・つれあいにモノ申す) 2016・3・23(水)
 要らなくなった物をいつもくれる夫。先日、「もう僕ははけないから、あなたがはいたら?」と、差し出してきたのは夫がはき古したパンツ。とうとう、そうきましたか。          (せめて下着は女ものを・59歳)


 物はもったいないと思うけど、連れ合いに渡すようなものはほとんどない。反対に男でも持てそうなバックや入れ物はもらったりする。
                               めいほう(3・23)
多喜二の母 2016・3・22(火)
 先日、小林多喜二の虐殺について触れたが、2月22日の朝日歌壇・馬場あき子選に以下の歌が選ばれていた。
 多喜二の死後かくれて字習ひ忌日の詩書きのこしたる母セキあはれ
                      (埼玉県) 酒井 忠正
 心動かされる歌である。ネットで母セキの歌を探した。やはり三浦綾子の「母」に載っていた。それを紹介した文を転載する。

 字の書けないセキは、多喜二への断ち切れない思いを、まるで秋田に古くから伝わる歌のように綴り、近藤先生にだけ見せたという「この詩」を三浦綾子に読んで聞かせた。

あーまたこの二月の月かきた
ほんとうにこの二月とゆ月か
いやな月ことをいパいに
なきたいどこいいてもなかれ
ないあーてもラチオて
しこすたしかる
あーなみたかてる
めけねかくもる


これな、ほんとは近藤先生にだけは見せたんだ。したらな、先生、なんも言わんで、海のほうば見ているの。五分も十分も黙ってるの。(先生、何か気にさわったべか)と思ったら、先生の口、ひくひくしてるの。そしてな、持って来たでっかい聖書ひらいて、「お母さん、ここにこう書いていますよ。『イエス涙を流し給う』ってね」先生そう言って、声は殺して泣いてくれたの。わだしは、「イエス涙を流し給う」って言葉、何べんも何べんも、あれから思ってる。イエス様はみんなのために泣いてくれる。こったらわだしのために泣いてくれる。下手なもの書いたと思ったけど、そう思ったら破るわけにもいかんの

いや、長いこと喋ったな。ほんとにありがとさんでした。
いや、ありがとさんでした。
おや、きれいな夕映えだこと。海にも夕映えの色がうつって・・・。

三浦綾子の作品「母」はここで終えている。
荒彫りする 2016・3・21(月)
 仏像を 作る角材 荒彫りする
              夫の首すじ 汗の光りぬ
    安達洋子
 大きな仏像を作るとき、工作機械の力も借りるが作業には力がいる。夏場だと大変である。その時の夫の姿を「光る汗」に感じて歌として対象化している。その根底にはもちろん夫婦愛がある。昔いただいた短冊の歌を仁王と一緒に板に彫った。
 安達先生はもうじき90歳を迎えられるので、以前のように荒彫りを繰り返すことは難しいが、作仏に対する情熱と技術は素晴らしい。いつまでも師事したいが、仏像を彫らずに板彫りばかりしている不肖の弟子はそのうち破門されるかもしれない。               作品へ
鹿鳴集・小園(九首)(會津八一) 2016・3・20(日)
                    大正十三年前後より昭和九年に至る
 小園  さきに「村荘雑事」に詠みたると同じ庭園なり。(自註鹿鳴集より)

 親戚筋にあたる市島春城(しゅんじょう)の別荘「閑松庵」を無償で借りた八一はここを秋艸堂と名づけ、14年間生活した。下の不動谷を加えると3千坪もあった下落合秋艸堂は学問、芸術が成熟するのにとても役立った。

注 市島春城(1860~1944)
 政治家・文筆家。新潟県北蒲原郡生まれ。本名謙吉。ジャナーリスト、衆議院議員、早稲田大学図書館初代館長として活躍した。八一の親戚にあたり、住居の借用など、学業から生活まで手助けした。

1 小園(第1首)
    たち わたす かすみ の なか ゆ とり ひとつ
                 こまつ の うれ に なき しきる みゆ 
2 小園(第2首) 
    はる たけし には の やなぎ の はがくれ に
                 はと ふたつ きて ねむる ひ ぞ おほき
3 小園(第3首)
    あをやぎ の えだ も とををに あわゆき の
                 ふり つむ なべに つゆ と ちり つつ 
4 小園(第4首)
    ひびき なき サジタリアス の ゆみ の を の
                 かど の かれき に かかる このごろ
5 仏伝をよみて
    みほとけ を やどし まつりて くさ の と の
                 あかつきやみ に かしぐ かゆ かな  
6 折りにふれてよめる(第1首)
    あり わびぬ ほとけ いまさば をろがまむ
                 やむ と しも なき よる の まくら に
7 折りにふれてよめる(第2首)
    さき ををる もも の したみち ひたすらに
                 くだち も ゆく か よる の をすぐに    
8 折りにふれてよめる(第3首)
    ふじ の ね の そこ つ いはね に もゆる ひ の
                 あかき こころ は しる ひと も なし    
9 某生の訃(ふ)をききて
    くれ かねて いざよふ はる の むさしの の
                 いづれ の そら に きみ を もとめむ 
谷岡経津子1・はじめに(敬称略) 2016・3・19(土)
 ずっと日展(20回入選)で作品を見続けてきた画家・谷岡経津子(光風会会員、日展会友)は知り合いの同級生で、四日市博物館の館長である。博物館のエレベーターでお会いして、その後何回か話をする機会を得た。
 画家であり、館長であり、四日市大学の名誉教授である人に親しくしていただくのは嬉しい。今回、彼女を紹介しようと思ったのは、立派にいろいろな活動をしているのにおごりがなく親切で人懐っこいことに感じたからだ。
 経歴はのちに紹介することにして、画家自身の絵に対する言葉を以下に引用する。
作品への思い
 近代洋画の美術史に残る巨匠が生まれた画壇「光風会」にあこがれ門をたたいて半世紀以上になる。1993年「高原の室内」1997年「有明」に代表されるような初期の作風は、爽やかな「青」を基調に、カール・ブッセの言葉のごとく<山のかなたの空とおく幸い住むと人のいう・・・>室内から見える戸外の風景に未来への幸せの予感を切望していた。
 次の作品は「赤」を中心としたタイトル「鶏頭炎花」「鶏頭燃ゆる」のあふれる生命感を追及する。その後、具象を超越したところの生きとし生けるものの鶏頭花の儚さを表現した「秋映鶏頭」へと変遷する。
 この10年の画風は「饗宴」白の詩」から始まる胡蝶蘭シリーズである。「白」を基調にもう一度原点に戻ることになる。「白」ほど複雑な色は魅力的であり追及する価値がある。自己の心の中に感動と葛藤の歳月が流れている。「生きていく限り作品は未完である。」  
ゴキブリの気持ち(中日新聞・つれあいにモノ申す) 2016・3・18(金)
 自宅でゴキブリ発見。すばやく夫が仕留める。「すごい!」と言う私に、夫は「相手の気持ちになれば、どっちに行くか分かるんや」と得意顔。はて、私の気持ちは一体、いつになったら分かるんでしょう。
                         (その日を待つ妻・62歳)

 「相手の気持ち」になればよかったんだ。幼いころは虫取りや魚取りに明け暮れたが、ただがむしゃらに取りに行っただけで収穫は少なかった。
 「連れ合いの気持ち」は全く考えない。すべてに服従しているから。

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カランコエ 2016・3・17(木)
 放置してあった鉢の中で葉がどんどん増えた。調べるとマダガスカルや東アフリカに分布するカランコエ(ベニベンケイ)という花だった。寒さに弱いので室内で育てた。やっと黄色の花が咲いて部屋に潤いを与えてくれている。名前はわかったがどこで手に入れたかは覚えがなかった。
 先日、月ヶ瀬に行ったとき、つぼみを持った小さなカランコエを売っていたので気が付いた。2年前にここで買ったのだった。
 最近物忘れが激しいので、月ヶ瀬で買ったことを思い出しただけでも嬉しいことだ。

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花々 2016・3・16(水)
 蕾で買ってきた月ヶ瀬の梅が暖かい室内で咲きだした。今年は君子蘭の開花も早い。スパティフィラムもずっと咲いている。
 庭に白やピンクの木蓮が咲き、あちこちの庭先では色とりどりの花が咲きだした。
 ボタンやアジサイ、芙蓉も新芽を伸ばし、ハナミズキの蕾はいつ咲こうかと考えているようだ。
 スキーヤーをあざ笑うかのように春は急速にやってくる。あああ!
 
旅愁・第19首(會津八一) 2016・3・14(月)
 京都東山のあたりをおもひて                    解説
   はる と いへど まだしき れんげわうゐん の
              ひとき の やなぎ もえ いで に けむ

 蓮華王院(三十三間堂)の桜を詠む。1月中旬におこなわれる「楊枝(やなぎ)のお加持」は有名である。
                 (明日第3火曜日は独り言を休みます)   

              安八百梅園-おちゃぼさん-カインズ
梅見 2016・3・13(日)
 例年第3火曜日の休みに梅を見に行くが、暖冬の今年は散っているだろうからと昨日、鈴鹿の森庭園と奈良の月ヶ瀬に出かけた。間に四日市での用事を入れたので強行軍だったが、夕食の時間には家に帰ってこれた。ただ、どちらも満開は過ぎていたが梅見には大丈夫で、にぎわっていた。
 鈴鹿の森庭園のしだれ梅は見事、月ヶ瀬は大自然の中にゆったりと沢山の梅が咲いて心が休まる。連れ合いと愛犬・くるみと出かけたが、沢山の店が並ぶ月ヶ瀬が二人?は気に入っている様だ。連れ合いは買い物に、くるみは新しいにおいを嗅ぎまわって嬉しそう。
 夕食は買ってきたシイタケとコンニャクが並んだ。         
   
                  鈴鹿の森庭園
   

                     月ヶ瀬
枕草子(五十六段)・ちごは 2016・3・12(土)
 身なりの良い小さな子どもが小弓や棒切れで遊んでいるのはとても可愛らしい。車の中に入れて抱きしめたいと思うし、その子から薫物(たきもの)の良い香りがするのはさらに良く、とても風流だと言う。
 現代でも同じ。無邪気な幼児の愛らしい姿に心動かされるものだ。
(五十六段)
 ちごは あやしき弓、笞(しもと)だちたる物など、ささげてあそびたる、いとうつくし。車などとゞめて、いだき入(いれ)て見まほしくこそあれ。又、さて行(い)くに、たき物の香、いみじうかゝへたるこそ、いとをかしけれ。
 幼児は、手製の変な弓や棒切れのようなものを振りかざして遊んでいるのが、とても可愛らしい。車に乗っているときはそこに止めて、子供を中に抱き入れて近くで見ていたいと思う。また、車に抱き入れたいと思った時、薫物の香りがとても強く香ってくるのは、非常に風流だ。
愚問でした(中日新聞・つれあいにモノ申す) 2016・3・11(金)
 毎朝、テレビドラマが終わってからでないと、食事を作ってくれない妻。「俺とテレビ、どっちが大事なんだ」と聞くと、怖い顔でにらまれた。聞くまでもなかった。             (大事にされたい・67歳)

 「俺とテレビ・・・」とは言わないが、時々「くるみ(愛犬)とどっちが?」と聞くと「言うまでもないでしょ!」と返事が返ってくる。


                    ダイナ&高鷲(3・11) トトロの服(3・11)
日食 2016・3・10(木)
 昨日はインドネシアで皆既日食、日本では部分日食だった。あいにくの雨で四日市では見れなかったが、北海道では日食を楽しんだと報道されていた。二日前、谷岡経津子館長に勧められていつもの仲間で博物館のプラネタリウム「〜東南アジア 皆既日食ツアー〜 黒い太陽のひみつ」(~13日)を楽しんだ。日食は太陽が月によって覆われてできることは知っていたが詳しいことは知らなかった。館内では映像とともに楽しいクイズなど使ってわかりやすく説明してくれた。
 地球を中心に据えた場合の太陽の軌道を「黄道」というのは会津八一の太陽を詠む(第2首)の時に学んだが、月の動きは「白道」ということを知った。「黄道」と「白道」が交わるときに日食は起こる。
 鑑賞後、館長が明日(9日)用の日食グラスを全員にプレゼントしてくれた。「館長さんからいただいた日食グラスは残念ながら雨で使えなかったので、次の日食までとっておきます」(E)とメールがあったが、素空は千葉の孫に送ろうと思っている。
 ところで、博物館を訪れるたびに親切にしていただく谷岡館長について、これから少しずつ紹介していきたい。

  
旅愁・第18首(會津八一) 2016・3・9(水)
 大和のさるかたにて                         解説
  みづがめ の ふた の ひびき も うつろ なる
              てら の くりや の くれ かぬる ころ

 八一と関連の深い東大寺・観音堂での情景である。
再入学 2016・3・8(火)
 昔、通った私立大学を3度退学になった。内2回は学費未納での退学処分で、私学は納入すれば自動的に復学になった。理由は学費の使い込みである。訳あって親に仕送り(生活費)を止められていたので、学費を使い込んだのだ。親は学費を2度払いし、下宿代をその頃から親から直接支払う事に変更している。
 学部から素空の件で呼びだし(親子に)があった時、父親は一人で行き、学部当局と息子を擁護しながら話しあったと言う。そのことは最近見た父親の遺品の中にあった学部からの丁重な手紙と父親のノートに書いてある。
 そんな親の思いを踏みにじるように3回目は自分の意思で退学した。理由は能力不足かな? 失意のなかで帰郷した素空をはらはらしながら温かく見守ってくれたのはやっぱり親だった。
 それでもその頃は親の行為を当然のように思っていたから怖い。今は感謝しても感謝しきれない思いで一杯だ。自由で素晴らしい時間を過ごさせてくれた親である。
 ところで、中年になった頃、一所懸命勉強して再受験して大学に入学し、学内を歩いていた夢をよく見た。何だったのだろう?
安い買い物(中日新聞・つれあいにモノ申す) 2016・3・7(月)
 「あなたはいつも安物買いで、だめだわ」。夫にこう言うと「そんなことばかりでもないよ」と余裕の表情。どんな良いものを買ってきたことがあったものかと、思い返していると「女房は安かったけど、四十年以上もってるで」。
             (結納金をつり上げればよかった・65歳)
 
 連れ合いと一緒になった時、3000円しかもっていなかった。この年までせっせと奥さんをしてくれているから、超安い買い物だったかな。 
法隆寺金堂壁画 2016・3・6(日)
 去年の11月、67年前(1949年)に焼けた法隆寺金堂壁画の初の総合調査を行うと法隆寺が発表した。3年かけて劣化の有無や最適な保存環境を最新の科学で探り、一般公開の可能性も検討する。良いことで期待している。
 この壁画に関しては、明治から昭和のはじめにかけ、失われゆく古い仏画をありのままに模写し、後世に伝えようと格闘した仏画師・鈴木空如(1873~1946)と「これら十二枚を、いとも周到なる用意のもとに切り取りて、別の安全な処に保管し、その跡には現代作家をして新(あらた)に揮毫(きごう)せしむるに如(し)かず」と意見を述べた会津八一の事は2014・6・13のブログで書いた。
 今回、ネット上でこの件に関する八一の辛辣な意見を見つけたので、以下に紹介する。
 「法隆寺を焼いた責任は、法隆寺にあるか文部省にあるかと世間でやかましくいうけれども、その責任は君達国民にある。焼けてしまってから、どこへ行っても、あれは実に惜しかった惜しかったと、この頃はまるで時候の挨拶のようにいうけれども、焼ける前には誰もあの寺の美術の噂をするものもなかったし、この地方(新潟:筆者補足)からあちらへ見学の団体が繰り出したことも聞かない。つまり平素からあまり興味もなく、ちっとも大切にしているふうもなかった。焼けてから急に惜しがるのは、ちょうど金持ちの馬鹿息子が蔵の中に死蔵していた先祖伝来の宝物を泥棒に持って行かれ、役所への届出をするために価格を計算してから始めて口惜しがっているのと同じことだ。
 ・・・(国民が選んだ)代議士の中から割合に利口なのが大臣になって国のことを世話するのだけれども、そんな連中は、こんな場合には惜しかったとか、なんとか、一人前のことをしかつめらしくいうけれども、つねづねから美術の尊さを考えている人は恐らく一人もいない。・・・もし惜しんでもないものを、さもさも惜しがっているように見せようとするのなら、こういう虚偽な態度を国民は断然改めなければならぬ(1949)
」 「文化財」と国民の受容より
旅愁・第17首(會津八一) 2016・3・5(土)
 大和安堵(あんど)村なる富本憲吉の工房に立ちよりて    解説
   いかるが の わさだ の ころ にかりほ して
              はに ねらす らむ ながき ながよ を

 陶芸家・富本憲吉を詠う。2011年友人たちと記念館を訪れたが、2012年に閉館になった。
枕草子(五十五段)・わかき人 2016・3・4(金)
 若い女性や子供はふっくらしているのが良い、身分のある年配の男は肥えている方が良いと言う。五十段の「雑色・随身は少し痩せて、ほっそりとしているのが良い。男は、若いうちは、そういった感じの細身が良い。とても太っている男は、眠たそうに見えていけない」に対応している。
 容姿の見方はいろいろあるだろうが、概ね納得。
(五十五段)
 わかき人、ちごどもなどは、肥(こ)えたるよし。受領(ずりやう)など、おとなだちぬるも、ふくらかなるぞよき。
 若い女性や子供などは、太っているのが良い。受領をしているような年配の大人たちも、でっぷりいるほうが良い。
画家イ・ジュンソプと山本方子 2016・3・3(木)
 太平洋戦争末期に結婚した韓国人画家と日本人山本方子のことをNHKの日曜美術館で知った。そもそも韓国人の芸術家の紹介が少ない日本で、しかも韓国を植民地支配していた戦時中に結婚していたとは!とても驚いたし、この事を知ってとても嬉しかった。他民族同士の結婚に先日のブログでふれたばかりである。
 2人の事を日曜美術館の紹介を参考にして簡単に書く。
韓国の国民的画家イ・ジュンソプ(1916~1956)は戦争や貧困に直面しながら、朝鮮民族の象徴とも言われる牛や、家族への愛を描く。彼が心の支えとしたのが妻の山本方子(やまもと・まさこ、現在94歳)。朝鮮動乱後、二人は韓国と日本で離ればなれになりながらも互いを恋い慕い、そこから数々の作品が生まれた。
 彼と方子は、戦前に東京の学校で出会い、太平洋戦争の末期に朝鮮半島北部(現在の北朝鮮)のジュンソプの故郷で結婚した。貧しさのなかで、粗末な紙やくぎを使ってでも絵を描き、独自の作品世界を創りあげてゆく。韓国に一人残ったジュンソプは、方子と2人の息子に絵のついた手紙を書き送った。つづられるのは“いつか真に新しい絵を描いて、ふたたび家族一緒に暮らしたい”だったが、栄養不良や拒食症等で衰弱し、誰にも看取られずに39歳で息を引き取った

  参 考  映画『ふたつの祖国、ひとつの愛 ~イ・ジュンソプの妻~』 
つまずく妻(中日新聞・つれあいにモノ申す) 2016・3・2(水)
 妻と二人でウオーキング。よくつまずく妻に「もっと足を上げて歩けば」とアドバイスする。すると、すかさずこう言い返された。「あなたと結婚したのが、つまずきの始まりだったわ」(反論できない夫・70歳)

 「つまずきの始まり」と言われないように気を付けているが、最近足の上がりが悪くなったし、片足立ちで靴下も履きにくくなった。
3月のはじめに 2016・3・1(火)
 3~4月の星野富弘の詩画は「ハナニラ」詩の中に「私にしかできないこと」とある。星野は手足の自由を失いながら、生きる事の意味を考えてきた。
 1月は「同じ重さ(椿)」で生きる事の意味を書き、今回は「私にしかできないことがある」と詠う。能力を制限された彼のこの言葉は重い。
 
ずっと自分の不得手なことに挑戦してきたが、「自分にしかできないこと」もできてないことをこの詩に指摘されているようだ。
 ハナニラ

   この花は
   この草にしか
   咲かない

   そうだ
   私にしか
   できないことが
   あるんだ


    

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