東京 2014・9・30(火)
 27日11時半、母校に5人集まって同窓会、手違いで1人不参加だったMさんとは電話で話した。それなりに苦労した学生時代の仲間なので共有する話題が多く、昼食会はあっという間に過ぎた。
 当時はエネルギッシュな若者だったが、今は昔話の他は健康と孫の話が大半である。次の再会を約束して別れる。
 その後、同郷で埼玉在住の友人Yと2時に飯田橋で落ち合い、喫茶店で四方山話をし、居酒屋へ。自治会や老人会の若手(?)幹部として活躍することや子供達のことを話す。
 Yと別れて、千葉に住む息子宅に着いたのは夜8時、孫たちの喜ぶ顔が嬉しい。翌日は孫・ココロのバレエの発表会だった。
  
抽選会(朝日新聞・あのね) 2014・9・29(月)
 おばあちゃんの家の近くの夏祭りに出かけた。締めは町内会の抽選会。楽しみに待っているのに、なかなか名前を呼んでくれない。
 「僕のこと、知らないのかな?」 (東京都国分寺市 真田 幸信・4歳)

 疑ったりしない素直な心、随分昔になくしてしまったような気がする。
きい子を追悼する歌の碑 2014・9・28(日)
 會津八一が養女・會津きい子を追悼する歌の石碑が、新潟県胎内市(旧中条町)の尼寺・柴橋庵に来年建立予定されている。昭和20年7月10日結核で亡くなったきい子の没後70年である。
  山鳩(第2首)       解説
    やまばと の とよもす やど の しづもり に 
              なれ は も ゆく か ねむる ごとく に
 この時のことを詠んだ八一の山鳩(21首)、観音堂(10首)、柴売(6首)は涙なしに読むことができない名歌である。
 今年4月に亡くなった柴橋庵庵主・渡邉貞乗(92歳)がきい子の枕経を読んだのは21歳だった。この時のことを語った庵主の話が秋艸会報第38号に載っているので一部引用する。
・・・「あの先生はとっても偉い人だから、気を付けて行ってきなさい!」と言われました。「どんな人だろう?おら!偉い人なんて言われても、偉い人と言われれば学校の先生か警察の人くらいしか知らねえ!?」と答えました。翌日早朝、観音堂の庫裏に入ると、先生は一人できい子さんの布団の向こう側に、こちらを向き、胡坐(あぐら)をかいて頭を垂れ、身を震わせ泣いていた。当時、私は二十一歳だったが、小柄で小娘のような私の前では、声を出しては泣けなかったのでしょう。じっと堪えているのが分かりました。
・・・きい子さんの枕元には、小さな机に蝋燭と線香が灯(とも)っていただけのような気がする。外には雨がしとしと降り続いていたのは覚えていま
村荘雑事・第7首(會津八一) 2014・9・26(金)
  ゆく はる の かぜ を ときじみ かし の ね の      解説
           つち に みだれて ちる わかば かな 
   (ゆく春の風をときじみ樫の根の土に乱れて散る若葉かな)

 武蔵野の自然は時には荒々しいのである。若葉まで飛ばす。

                  (明日は都合により独り言を休みます)
    (27~28日  東京 同窓会、Yと会食、孫ココロのバレエ発表会)
くろがねの秋の風鈴鳴りにけり 2014・9・25(木)
 飯田蛇笏の代表作の一つである。
 夏ではなく、秋にくろがね(鉄)の風鈴が鳴ったというところに味わいがある。大岡信「折々のうた」から以下に引用する。
「秋、鉄の風鈴が鳴った」という薄っぺらな意味ではなく、鳴り方が違うのだ。「くろがね」は単に鉄の意だけでなく、その音感そのものが「どっしりと黒いもの」だという印象を強める。「くろがねの秋」と続くのだから、いつのまにか秋がくろがねに変じて、季節はずれの風鈴の中で、深く沈んた鳴り方をするのである
 秋の気配が感じられる三滝公園の木の下にこの句が掲げられている。木々にいろいろな俳句が掲示されているのは嬉しいが、この句はクロガネモチ(黒鉄黐)のところにある。関係者の努力はわかるが、句の“くろがね”と木の“クロガネ”を言葉だけで関連付けては蛇笏が可哀そう。句の味わいが無くなる。
 蛇足だがクロガネモチの意味を以下に記しておく。
モチノキ科モチノキ属の常緑高木。春に新芽を吹き、5月から6月に淡紫色の花が咲き、秋に真赤な果実をつける。名前の由来は「鳥黐(とりもち)」が取れ、また、葉柄や枝が紫色っぽいところからきている。「クロガネモチ」が「金持ち」に通じるから縁起木とされている
お花も虫も、お友達なんです。(朝日新聞・あのね) 2014・9・24(水)
 窓の外のよしずに巻き付いている朝顔。朝は元気に咲いていたのに、夕方になってしぼんでいた。私は心配になって「お花ちゃん、疲れちゃってるね。どうしたんだろう?」(山梨県甲斐市 花沢 咲楽“さら”・3歳)

 たった一日咲くために茎や葉を伸ばす植物の不思議、今年は月下美人が4回にわたって5鉢で54輪咲いた。
ファーブル 2014・9・23(火)
 世界のあちこちで戦争が続いている。戦争とはある意味で殺し合いであり、現代では武器の発達により大量殺戮に繋がっている。生きている生物の中で同種を大量殺戮をするのは人間だけだ。
 他の生物も殺し合うことがあるが必要最低限である。フランスの生物学者・ファーブルはサソリで実験して、そのことを証明している。さらに生物の死は他の生物の食料になったりするので、生の終わりではなく、より高貴な生への入り口だとも言っている。生は尊いのである。
 人の殺し合いは知能が発達し過ぎたからと言う人もある。そんな発達ならご免こうむりたい。
 ともあれ、いつも平和を願っているが、幼いころにファーブルにあこがれ動物学者になりたいと願ったことは夢の彼方に消え去った。
 願い事はなかなか実現しないものなのだ。 
村荘雑事・第6首(會津八一) 2014・9・22(月)
  の の とり の には の をざさ に かよひ きて    解説 
           あさる あのと の かそけく も ある か 
   (野の鳥の庭の小笹に通ひきてあさる足の音のかそけきもあるか)

 大正から昭和初期の自然を残した武蔵野、秋艸堂の風景である。「かそけく」の語感が良く、好きな歌である。
香嵐渓の思い出 2014・9・21(日)
 30年ほど前にまだ小さい息子を連れて紅葉を見に出かけた。その頃は高速道路が無かったので、一般道を時間をかけて走るのだが香嵐渓の手前で大渋滞に巻き込まれた。長い時間をかけてのろのろ進み、あと5kmのところで車を空き地に置いて歩いた。子供は大変だったと思うが、元気よく歩いてくれた。朝早く出かけたのに着いたのは昼ごろで、牡丹鍋を初めて食べたことをよく覚えている。紅葉を堪能したが、また5kmの道のりを歩いて戻るのは大変だった。
 去年の紅葉の時期にノブ君パパから香嵐渓行きを提案されたが、その思い出があるので断った。
 一昨日、渋滞が無ければと言うことで出かけた。道路事情も格段に良くなっているので、四日市から1時間20分ほどで到着した。青々とした木々の香嵐渓もいいものである。  ノブ君ハイキング・9月18日へ 
毎日は不思議と発見に満ちています。 (朝日新聞・あのね) 
                        
2014・9・20(土)
 世界地図を広げて国の名前や場所を覚えるのがマイブーム。大人が知らない国のことも、よく知っている。ある日、お母ちゃんにクイズを出そうと思ったんだけど、なかなか思い出せなくて……。
 「えーっと、あれは何だっけ?お母ちゃんが知らないやつ」
      (東京都世田谷区 竹原 遼平・4歳)

 「えーっと、あれは何だっけ?カコバー(連れ合い)が知らないやつ」によく似た会話は日常茶飯事になった。
                       月下美人8輪咲く(計54-5鉢)
誰が読むかわからないブログ 2014・9・19(金)
 こんな言葉が書いてあって内心笑ってしまった。どんな人が読むかわからないから、書く内容に注意して・・・という意味もあるだろうが、「誰が読むかわからない=読む人がいない」を瞬時に思った。
 ブログを書きだしたのはネットを通じて、人に読んでもらえることが嬉しいと思ったからだ。だけど、10年以上も続けると書くことも無くなるし、マンネリになる。読む方だって大変だろうと思う。
 実際、読者はごく少数である。瞬時に情報が飛び交い、交流が広がるこの世界では、池に隠れてほとんど動かない亀のようなものかもしれない。ただ、毎日のブログは内容によって友人や知人の顔を思いながら書いている。だから、読む人の人数には関係ない。たった一人でも読んでくれればいいと思っている。
 しかし、継続はとても大変だ。それで、ブログは自分の日記やメモでもあると考え、その後、気楽に書けるようになった。
ただ、最近は物の名前が出て来なかったり、的確な述語が浮かんでこない時があり困ることが多い。
 その内、書けなくなるだろうけど
「誰が読むかわからないブログ」をよろしく!!
村荘雑事・第5首(會津八一) 2014・9・18(木)
  しらゆり の はわけ の つぼみ いちじるく         解説
          みゆ べく なりぬ あさ に ひ に け に 
   (白百合の葉分けの蕾いちじるく見ゆべくなりぬ朝に日に異に)

 我家で長年咲いてきた白百合が無くなってしまった。今年は一本が皇帝ダリアの下で細々と咲いていた。
最後の奈良見学旅行11(完)  2014・9・17(水)
 郷里に帰ると、待ちかねていた家族、親戚、知人、友人とwかれの挨拶をするのに忙しく、どのようにして入隊前の日々を過ごしたか分からない。沢山の護符や、千人針の腹巻きをもらった。十二月一日、中部三部隊(旧歩兵第三十四連隊)に入営すべく、幾人かの人々と一しょに郷里の方々に見送られ、藤相鉄道の相良駅の車窓に立った。発車前、さかんに別れと励ましの言葉を受け、万歳の声とともに小旗が一せいに振られた。やがて、軽便が動き出すと、駅の隅で、祖母が小旗を持ってじっと見ていた。
 わたしは四歳のとき、母を亡くしているので、祖母が母代りをしてくれていた。
 二十一日、會津先生は人々に扶けられ、ようやく東京に戻ることができたが、肺炎で危篤となり、五ヶ月も病床に臥し、生涯でもっとも大きい病気となった。また眼の病いにも犯された。その間、献身的に看病したのが、養女のきい子さんである。きい子さんも過労で結核に犯され、ついに『山鳩』『観音堂』に悲劇となる。やがて、昭和二十年、六十歳以上の人々は大学を辞職し、疎開の準備に取り掛かる。その時、空襲に遭い、万巻の書籍、資料を焼失し、故郷新潟に帰り、最晩年を過ごされた。
 この昭和十八年、学徒出陣の折の奈良見学旅行が、會津先生にとっても学生にとっても最後の旅行となった。


 「最後の奈良見学旅行」は以上で終わる。會津八一は1956年(昭和31年)11月16日永眠。植田重雄は2006年(平成18年)5月14日に亡くなった。同年6月3日のお別れ会(早稲田教会)に参列し、師に感謝とお別れをしてきた。
バランス不足(中日新聞・つれあいにモノ申す) 2014・9・15(月)
 片足立ちをしていたら、「そんなこと、わけないよ」と主人。でも片足を上げた途端にふらついて、「扇風機がこちらを向いていたせいだ」だって。あんたは風船か。(風船の妻・80歳)

 片足立ちでバランスを崩すことがある。扇風機ではなく年のせいだと思うけど、このままでは冬山で滑ることに不安を感じる。
                 (明日第3火曜日は独り言を休みます)

                   花ひろばートミジャスーカインズ
塙保己一 2014・9・14(日)
 塙保己一(はなわほきいち)は、大作「群書類従」を編纂した江戸時代の盲目の国学者である。幼いころに聞いた逸話が心に残った。
「和学講談所で源氏物語を講義をしている時、風が吹いてろうそくの火が消えた。保己一はそれとは知らず講義を続けたが、弟子たちがあわてたところ、保己一が“目あきというのは不自由なものじゃ”と冗談を言った」
 立ち場や見方によって物事は変わるものだとその頃から思っている。
 深夜、タバコに付ける火が無くてイライラする友人に「タバコ吸いは不便だね~!」と言いながら塙保己一を思い出していた。
 この学者の名前の学校があった。埼玉県の塙保己一学園(県立盲学校)で、人物のフルネームを校名にした日本で唯一の学校だそうだ。尊敬する塙保己一の名がある学校を知らないなんてと思ったが、この校名に変更したのは2010年だった。
 先日、この学校の目の不自由な生徒が暴力を振るわれた。容疑者は知的障害の男だと言う。また盲導犬を傷つけると言う信じられないこともあった。何と嘆かわしい事件なのだろう。殺伐とした現代の一面を表していると思う。
 理想を追い求めた武者小路実篤の言葉が必要なのかもしれない。“人間そのものを大事にする”と言う言葉を。
村荘雑事・第4首(會津八一) 2014・9・13(土)
  かすみ たつ をちかたのべ の わかくさ の        解説
           しらね しぬぎて しみず わく らし 
    (霞立つをちかた野辺の若草の白根しぬぎて清水湧くらし)

 ありし日の武蔵野の情景が浮かんでくる1首である。
新しき村 2014・9・12(金)
 武者小路実篤とその同志19人は人間が人間らしく生きる理想の世界を求め、1918年(大正7年)宮崎県児湯郡木城町に「新しき村」を作った。1938年、ダム工事によって水田の大部分が水没することになり、一家族が「日向、新しき村」として残り、大半が埼玉県入間郡毛呂山町に「東の村」として移り、現存する。
 「日録1918年」の記事とネットで上記のことを知り、「現存」することに驚き、心動かされた。
 理想郷・新しき村は「夢想」だとか「空想的」とか批判され、現実にも大きなものにはならなかったということで、とっくの昔に無くなっていると思っていた。しかし、存在していた。事の良し悪しは別として立派である。
 武者小路実篤がトマス・モアの影響を受けたとは思えないが、“農業が主体、6時間労働”が「ユートピア」と同じなのが面白い。
 以下に武者小路実篤の言葉を引用する。
僕は人間の真価を生かしぬくのは之からの人間の協力にあると思う。金と武器の世の中では人間の価値は正しくは生き切れまいと思う。我等は武器と金の世の中は卒業したいと思う。他人を支配する力は愛と真理だと言ったら、今の人は笑うであろう。
 しかし人間はもうそろそろ自分の真価を生かすべきだと思う。人間は奴隷ではない。自分の真価を生かす事で、本当の人間が喜んで生きる事だ。自分を正しく生かし、人間同士の価値を高める事だ。生活を目的にせず、人間として立派に生きる事だ。勿論、真価を高める事が大事だ。健康に生きる事は元より大事な事だが、生活の為だけに働くのではなく、有意義に働く為に勉強すべきだ。もう人間は生活が目的ではなく、益々正しく生きる事が大事だ
夏のお出かけは笑いあり、涙あり。2 (朝日新聞・あのね) 
                        
2014・9・11(木)
 お母さんと初めてのバス旅行。窓から外を見ていたら、大きな工場から煙がもくもく。「雲がどんどんできてるよ!ほら、あっちにも!」
            (横浜市 湯浅 伶南“れな”・4歳)

 孫たちと伊吹山山頂へ、雲が向こうからやって来る、みんなでお腹一杯雲を吸い込んだよ。
最後の奈良見学旅行10  2014・9・10(水)
  別れにあたり、わたしはおそるおそる一首を差し出し、「先生、今日でお別れします。これをお読み下さい。日の丸もお願いします」と日章旗を前に出した。その歌はつぎのような歌である。
 みいくさに出征(いで)たつわれや大和路のもゆる夕日をいつかまた見む
 道人はしばらく黙っていたが、
「植田、どんな戦場に行こうとも必ず歌を詠め、どんなことがあっても歌をわすれるな」
 と激しい声でわたしに向かって叫ばれた。日の丸に「祈武運長久 植田重雄君」、墨痕淋漓と書いて下さった。憔悴して苦しそうだった道人は、墨のかわく間じっと眼をつむっていたが、
「戦争はいつまでもつづくというものではない。戦争は終る。その時は研究をつづけるのだ」
 といわれた。有難いことであった。わたしも郷里の家に帰らなければならない。あわてて身支度をととのえ、お別れした。しかし、心の中でもうお別れですと暗然と呟いた。
 みほとけのきみがみ歌を口ずさみ大和路をゆく今日をかぎりに
 師と別れいそぎ故郷に帰りたり荒寥として独り行く道

 師弟ともに出征を望んでいるわけではない。「歌を詠め」「研究を続けるのだ」八一の声が聞えてくる。植田先生は戦後、大学に戻り宗教倫理学をメインにしながら、會津八一研究の労作を出版した。
夏のお出かけは笑いあり、涙あり。1 (朝日新聞・あのね) 
                        
2014・9・9(火)
 家族旅行に弁当を持って来てくれたおばあちゃん。「タコさんウインナー、いっぱい作ってきたよ」と弁当箱を広げた。私は一口食べてびっくり。「このタコ、ウインナーの味がする」 (山口県宇部市 槙本 汐里“しおり”・5歳)

 可愛らしいね、こんな年齢に戻りたい。孫たちとの旅行は外食かコンビニやスーパーのお弁当。我家ではひさしく“弁当”を見たことが無い。
お月見泥棒 2014・9・8(月)
 夕方、隣の家のあーちゃん(小学一年生)に会った。
 「おじさん、今日はお月見泥棒の日だから後で行くね!」
 「えっ!お菓子何にも用意してないよ。玄関の電気を消して鍵をかけ、返事をしないでおこうかな」と冗談を言ったら
 「う~~ん!」と少し考えて、「じゃーお菓子無しでいいから、あーちゃんだけにくるみを抱かせて」と言う。
 連れ合いがすぐにお菓子を買いに走り用意した。7時前にチャイムが鳴って、「お月見泥棒でーす」と5人の泥棒と2人のお母さんが玄関に。東の空に満月が出ている。喜んで走り回るくるみをみんなで順番に抱いていた。「な~~んだ、お菓子もあったんだ。ラッキー!」とあーちゃんが叫んだ。
 子供たちは月からの使者と考えられていたので、この日に限りお団子を盗むことを許された風習から始まったと言う。
 四日市でも沢山の地域で行われている子供達にとって楽しい行事だ。
垂坂公園 2014・9・7(日)
 昨日、くるみが元気になったので、久しぶりに垂坂(たるさか)公園を病気の同級生Kを誘って散歩した。ツクツクボウシの鳴き声が秋を感じさせる。気がつけば、クマゼミやアブラゼミの声は随分前に無くなっていたのだ。公園に夏の名残りのようにサルスベリやノウゼンカズラが咲いている。
 土曜日なので親子連れがキャッチボールやサッカーの練習をしている。芝の上を走っている若い人が靴を脱いで素足だったのでちょっと驚いた。
 Kは喉の調子が悪く病気で沈みがちなので言葉少なだが、動物好きなのでくるみを歓迎し、リードを持って散歩してくれる。仲良く歩いて素空の方をちっとも見てくれない。
 くるみの病気でKとの散歩は半年ぶりである。最近は2~3時間の散歩をしていると言っていたから、幾分良くなったようだ。早く元気になればと思いながら帰ってきた。
村荘雑事・第3首(會津八一) 2014・9・6(土)
   はな すぎて のび つくしたる すゐせん の       解説
           ほそは みだれて あめ そそぐ みゆ 
     (花過ぎて伸び尽くしたる水仙の細葉乱れて雨注ぐ見ゆ)

 村荘雑事を読んだ時、印象深かった歌の一つである。
治ったよ 2014・9・5(金)
 今日は獣医さんで診察、白血球の数値は0.3、正常値で完治のお墨付きをもらった。
 ばんざーい!!
 4月のはじめからだから、5ヶ月かかった。くるみはとても苦しかったけど、チチハハも大変だったみたい。2人でにこにこしていたよ。
 でもね、8月はじめから、チチがもらった薬をカットしていたので、本当は一ヵ月前に完治していたのだとハハが言っていた。皆さん、ご心配をおかけしました。風呂場で遊んだ後なのでザンバラ頭でごめんなさい。
わが家は笑点(中日新聞・つれあいにモノ申す) 2014・9・3(木)
 妻は何かにつけ、「ああすれば良かった」「こうしておけば良かった」と後悔ばかりしている。「あんたは遠洋漁業の船長か」と突っ込み、すかさず「航海(後悔)が多い」と言うと、「座布団一枚!」とほめてくれた。
                          (悩める夫・67歳)
 笑点ファンだが、「座布団一枚!」をもらえるような面白いことや機転の利いた言動をするのはなかなか難しい。テレビを見て笑っているのが一番だ。
最後の奈良見学旅行9  2014・9・3(水)
 十八日、道人は當麻寺から高野山金剛峰寺にゆき、明王院に泊った。山中は、はや雪が積り、疲労と寒さで風邪をこじらせたらしいが、十九日の朝、秘宝赤不動を拝して感動の十一首が生まれた。
 うつせみ の ちしほ みなぎり とこしへ に 
            もえ さり ゆく か ひと の よ の ため に 
 あかふどう わが をろがめば ときじく の 
            こゆき ふり く も のき の ひさし に 
 この見学旅行は、たんに仏像や古寺を巡る旅ではなく、戦争の動乱の中で大学が解体、学問を停止し、師弟が最後の別離、みほとけとのお別れであったから、悲愴な想いが道人の歌にもこもっている。

 上記二首は、山光集・明王院の前書に「十九日高野山明王院に於て秘宝赤不動を拜すまことに希世の珍なりその図幽怪神異これに向ふものをして舌慄へ胸戦き円珍が遠く晩唐より将来せる台密の面目を髣髴せしむるに足る予はその後疾を得て京に還り病室の素壁に面してその印象を追想し成すところ即ちこの十一首なり」と書いた八一の赤不動を詠んだ力作である。
                        月下美人9輪咲く(計46-5鉢) 
愛を分かち合って(中日新聞・つれあいにモノ申す) 2014・9・2(火)
 一つ残ったいただきもののお菓子を、主人と食べようと半分に切っておいた。用を済ませて帰宅すると、全部食べられた後。主人は一人っ子。分けて食べる意識はないみたい。(きょうだいが多い妻・74歳)

 我が家は2人とも末っ子、独り占めはしないが、大事なもの、好きな物への執着心は強い。
星野富弘9~10月の詩画・ガマズミ   2014・9・1(月)
 やっと赤くなったけれど
 また鳥が来て
 一粒のこらず
 食ってしまうと思うよ
 お礼も言わないでさ
 それが
 自然の法則なんて
 いうけれど
 俺だったらアタマに
 来ちゃうよ
 あんたは毎年偉いねえ
 

 ガマズミは日本の山野で見かける落葉性の樹木。5月頃に独特の臭いのする白い小花がかたまって咲き、秋の濃紅色に熟す果実が非常に美しい。多数の果実が付いた枝は野趣たっぷりの味わいがある。 ガマズミの名の由来は「神ッ実」あるいは、「噛み酢実」の転化したものと言われ、「スミ」は染めが語源との説もある。
  

 
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