8月の終わりに 2014・8・31(日)
 8月は原爆投下、終戦と続くため、どうしても戦争と平和について考えてしまう。もちろん、平和が良いに決まっている。しかし、いまだに世界の至る所で戦争が行われ、殺戮が繰り返されていることに強い失望を感じる。
 古事記では神武東征の大量殺戮が書かれ、旧約聖書には永い間の戦争と虐殺の歴史が記されている。戦争の無い世界は実現できない理想なのかと思いながら、戦後69年平和だった日本に感謝する8月である。
 8月は孫たちとの楽しい日々でもある。小学1年と3年の孫はまだまだジジババと一緒に遊んでくれる。彼らとの楽しい6日間は、快い疲労感とともに忘れることができない日々だった。
村荘雑事・第2首(會津八一) 2014・8・30(土)
   きく うう と つち に まみれて さにはべ に      解説
           われ たち くらす ひと な とひ そね 
     (菊植うと土にまみれてさ庭辺に我立ち暮らす人な問ひそね)

 どうか一人にしておいて欲しい、と詠うが実際は多くの学生や門下生が秋艸堂を訪れた。 
日録 20世紀(1918・大正7) 2014・8・29(金)
 1918年のグラビアは以下である。
  “日本軍シベリア出兵!”
  “武者小路実篤、同志19人と「新しき村」建設!”
  “「米騒動」勃発!富山県から全国へ飛び火”
  “「スペイン風邪」世界的流行で死者2500万人!”
 シベリア出兵は1918年に連合国(日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリアなど)がロシア革命に対する干渉戦争で、日本は巨額の戦費を投入したが多くの死者(3333人~5000人)を出し撤退した。日本は権益拡大のみに走ったので各国の不信を招き、撤退したという。
 「新しき村」は武者小路実篤によるユートピアの試み。
 米騒動は軍事費拡大、シベリア出兵などによる物価の高騰、特に米の異常な値上がりに公憤した富山県魚津の主婦たちが、米の積み出しを阻んだ事件(民衆運動)だが、たちまち43都道府県の43市、187町、206村に広がり、検挙者は数万人にのぼったという。このため、寺内正毅内閣が倒れ、原敬による初の政党内閣が誕生した。
 スペイン風邪は凄い、ヨーロッパでは第1次大戦終結の遠因になったようだ。日本でも38万人が死んだ。
 今、猛威をふるうエボラ出血熱の終焉を心から願っている。
忘れないで(中日新聞・つれあいにモノ申す) 2014・8・28(木)
 二人でダンスパーティーに行った。一人でずっと座っている女性がいて気になったので、「踊ってあげたら」と主人にすすめたら、それっきり私のところに帰ってこない楽しそうな夫。言わなきゃ良かった。(寂しくなった妻・65歳)

 なんだか友人の旦那のよう、もっともこの人は連れ合いのすすめるまえに踊っていそう。
最後の奈良見学旅行8  2014・8・27(水)
 途中でおくれて参加をゆるされたわたしは、独りでよくみるべきもの、もう一度見たいものがあって、道人に挨拶して室生寺川の道を、一足さきに急いで戻っていった。独りになったとき、悲壮な孤独感におそわれた。入営の間近さが一層、心をたかぶらせたのであろう。わたしはつぎのような和歌を詠んだ。
 青空にしきりに紅葉舞ひ上る秋のをはりの室生寺の川
 わが世には再びは見じ流れゆく室生寺川の瀬々の紅葉は
 もう一度聖林寺の十一面観音に逢いたくて訪れると、やさしい老僧がどうぞといってくれ、本堂に上がらせてもらった。すると、小さな蝋燭をともしてこもっている老母が合掌し、観音さまにしきりにつぶやいている。村の人々に日の丸を振って歓呼の声でおくられ、わたしも旗をふってわが子を見送ったが、どうかわが子が無事であるようお守り下さいと、涙ながらにいっている。これで三度目の召集であるという。仏さまが眼の前に在(いら)っしゃっているように、訥々と老母が語っているのだ。慈悲のまなざしで観音さまは蓮をかざしておられる。
 みほとけのみ手のはちすのいつしかも人の心に咲きてあれこそ
 こう願い、このように歌わずにはいられない想いに駆られて詠んだ一首である。
 わたしは三輪神社に詣でた。晩秋の木枯らしが三輪の御山を吹いていた。拝殿や古い神杉のあたりには人影はなく、白髪の老翁が長い箒で、しずかに掃ききよめている。しかし、夕日の射すあたりに、杉の古枝が丸い塊りになって、ばさっばさっと落ちてくる。それを意に介せぬように翁は落着いていて黙々と掃いている。その有様が何とも清浄で、たかぶっていたわたしの心は、はじめて落ちついていった。嬉しいような心定まる想いであった。
 みやしろのみ前しづかに掃く翁見つついつしか心定まる
 こがらしに杉の古枝落ちしきり翁黙々と掃き浄めゐる


 「わが世には再びは見じ・・・」と詠み「たかぶっていたわたしの心は、はじめて落ちついていった」と言う出征前の植田先生の心を想う。
無知の怒り(中日新聞・つれあいにモノ申す) 2014・8・26(火)
 夫が「冷やし中華大盛り無料」というのぼりを見てラーメン店に入ったら、お金を払わされたという。「あんなのぼりはおかしい」と怒っていたが、おかしいのはあなたよ。大盛りの追加料金がないってことでしょ?そんなことも分からないなんて・・・。(夫に日本語を勉強して欲しい妻・45歳)

 きわどい表現、広告が目立つが一般常識から大きく外れていればわかるもの。勘違い、お気の毒。「大盛り」「食べ放題」が最も苦手なので、素空はこんな言葉には魅力を感じない。
                          月下美人10輪咲く(計37)
ドイツの責任 2014・8・25(月)
 「私たちドイツ人は過去に対して責任がある、と教えられ、育ちました」
 朝日新聞の戦後69年を検証する連載にあった言葉である。ドイツ軍によるフランスの虐殺現場(遺跡として残された)に独仏両指導者が仲良く訪れたことをとり上げ、ヨーロッパと極東(日本・中国・朝鮮半島)の差を言う。
 ドイツが第2次世界大戦のドイツによる大虐殺を反省し、フランスと歩み寄りながら新しい欧州共同体を作っていこうとする根底に上記の言葉があると言うのだ。
 他方、極東では国家間の軋轢が至る所で現れている。この原因が中国の膨張主義だとか韓国の反日感情だ、などというとらえ方が横行するが、こと日本に関しては、前提となる「日本人は過去に対して責任がある」という真摯な反省の言葉が無いことが一つの要因だ。いろいろな反省や配慮を積み重ねることが、国家間の融和の前提だと思う。
 戦後の経済復興を皮切りに世界の経済大国にのし上がった日本に欠如したのは上記の反省である。今の総理大臣にそんな気持ちが微塵も無いのは分かるが、国家間の軋轢を助長するような彼の言動を日本人の多くが陰に陽に支えていることが問題だ。
 利潤の追求を至上命題にした国家が置き去りにして来たものは「人間が人間らしく、しかも仲良く共存していること」だと思う。
                           月下美人1輪咲く(計27)
村荘雑事・第1首(會津八一) 2014・8・24(日)
  きく うう と おり たつ には の このま ゆ も     解説
           たまたま とほき うぐいす の こゑ 
     (菊植うと降り立つ庭の木間ゆもたまたま遠きうぐいすの声)
 
  武蔵野の名残を残す広大な敷地の下落合秋艸堂に移り住み、心の余裕を得て自然と交わりながら詠う。
法隆寺の歌碑 2014・8・23(土)
 會津八一の歌碑建立が2基計画されている。一つは今年の11月上旬に予定されている法隆寺境内の歌碑
  五重塔をあふぎみて     解説
    ちとせ あまり みたび めぐれる ももとせ を 
                ひとひ の ごとく たてる この たふ
 この建立で奈良にある歌碑は20基になる。法隆寺周辺に歌碑はあるが、今まで境内には無かった。その理由は素空の想像だが、法隆寺再建・非再建論争で八一が唱えた再建説を法隆寺が歓迎しなかったこと、その調査の過程での八一の強引な手法が寺の不評を買ったことなどがある。
 また、金堂壁画の落剝、荒廃を嘆く八一が早くから壁画を切り取って別の場所に保管し、金堂には現代作家の新しい壁画を掲げることを提唱していた。それは法隆寺の内外より猛烈な反感を受けた。このことも影響しているだろう。(その後、昭和24年金堂壁画は火災でほぼ全滅)
 法隆寺の歌を19首詠んだ八一の歌碑が境内に無いことを早くから不思議に思っていたが、今回の建立で実現する。ファンにとって嬉しいことだ。
 もう一つは来年予定の新潟県胎内市の尼寺・柴橋庵の歌碑である。
  山鳩(第2首)       解説
    やまばと の とよもす やど の しづもり に 
              なれ は も ゆく か ねむる ごとく に
化粧は化粧でも・・・(中日新聞・つれあいにモノ申す)
                           
2014・8・22(金)
 買い物に出掛けようとして「あ、化粧直ししてない」と口にした。すると、テレビで相撲中継を見ていた夫が「なに、化粧まわし?そんなものどうするんだ」と真顔で言う。私は関取ではありません。(最近太めの妻・41歳)

 聞き間違いかジョークか分からないが、最近の連れ合いの腹を見て、密かに笑ってしまった。
最後の奈良見学旅行7  2014・8・21(木)
 翌朝、よく晴れたよい秋日和、住職の厚意で金堂、講堂の密教美術の粋を拝むことができた。
 わくらご は あな うつくし と みほとけ の 
           みどう の やみ に こゑ はなち つつ   解説
 道人は金堂でも手燭を点して、沢山ならぶ仏たちをゆっくり、しずかに見せてくれた。「わくらご」とは、若い学生たちを古風に呼んだ。思わず「美しいなあ」と溜息のような声がこだましたが、わたしもその一人だった。かって大正十一年(1921)八月のさ中、道人ははじめて室生寺を訪ねたときの感動と陶酔を、若い学生たちに味わせたかったのだろう。室生寺は道人が奈良美術の研究を手がける出発点だった。最初に世に出したのは『室生寺大観』であった。そして最後に残しておいた研究テーマでもあった。金堂には釈迦・薬師如来の立像がが立ち、文殊・地蔵菩薩、さらに十一面観音の五体が安置されている。
 しよく とりて むかへば あやし みほとけ の 
           ただに います と おもほゆる まで     解説
 この歌は十一面観音立像である。手燭をとって近づけば、うら若く、あやしいまでに女性のお姿である。薬師寺の東院堂の聖観音と同じように、しばしば理想の男性像、女性像で仏身を表現する


 室生寺の金堂には五体の仏像(本尊釈迦の左に文殊、十一面観音、右に薬師、地蔵)が並び立ち、その手前に十二神将立像がある。何度でも訪れたいところであり、とりわけ十一面観音立像は素晴らしい
                                  琴将6日目
六十の手習い(中日新聞・つれあいにモノ申す) 2014・8・20(水)
 近所に英会話教室ができた。妻に「暇だから通ってみようかな」と言ったら「今さら英語? 年なんだからお経でも習ったら」だと。
                      (海外旅行をしたい夫・61歳)

 英語は読み書きを重視したので会話は全然できない。昔、会社で輸出業務を少ししたが、西洋のバイヤーと話すのは苦手だった。度胸がある社長の片言英語と手振り身振りのほうが対話できた。
                            琴将4-5日目
ユートピア 2014・8・18(月)
 イギリスの思想家トマス・モアが1516年にラテン語で出版した著作「ユートピア」に登場する架空の国家の名前で、日本では「理想郷」と訳している。マルクス・エンゲルスが空想的社会主義と批判したこの本を今になって読んでみた。
 ユートピアは現実には決して存在しない理想的な社会として描かれ、その意図は絶対王政下の社会と対峙させて、現実への批判をおこなうことだった。ユートピアでは、住民はみな清潔な衣装を着け、財産を私有せず、必要な時は共同の倉庫のものを使った。人々は勤労の義務を有し、日頃は農業に従事し(労働時間は6時間)、空いた時間に芸術や科学研究を行う。
 トマス・モアはイングランド王ヘンリー8世に仕え、出世するが、宗教上の立場から国王の離婚に反対したため、ロンドン塔に幽閉され斬首刑になっている。本とは関係ない理由で処刑されていて気の毒である。
 このユートピアは当時も今日においてもいろいろと欠陥がある。しかし、「理想郷」を描き求めることは立派なこと、少なくとも社会の矛盾に気づかず、あるいは気づいているにもかかわらず、現実を全面的に容認、賛美することよりは。
      琴将3日目     (明日第3火曜日は独り言を休みます) 

 伊吹山ー鍾乳洞ーエコミュージアムー胡麻の里ー関ヶ原決戦跡(琴将と)
村荘雑事・十七首(會津八一) 2014・8・17(日)
  会津八一 鹿鳴集・村荘雑事(十七首)
              大正十一年九月より同十三年に至る
 親戚筋にあたる市島春城(しゅんじょう)の別荘「閑松庵」を無償で借りた八一は秋艸堂と名づけ、14年間ここで生活した。下の不動谷を加えると3千坪もあった下落合秋艸堂は学問、芸術が成熟するのにとても役立った。ここで詠まれた村荘雑事17首を植田重雄は「平淡の世界」と言っている。
村荘 
 作者は、これより先久しく小石川区豊川町にて星島二郎君の貸家に住みしを、この時より落合町三丁目一二九六番地なる市島春城翁(1860-1944)の別荘を借りて移り住みしなり。  (自註鹿鳴集より)   
市島春城(1860~1944)
 政治家・文筆家。新潟県北蒲原郡生まれ。本名謙吉。ジャナーリスト、衆議院議員、早稲田大学図書館初代館長として活躍した。八一の親戚にあたり、住居の借用など、学業から生活まで手助けした。
日本人は優秀 2014・8・16(土)
 近隣諸国の事故や食品問題に対して年上の知人が「日本人は優秀だからそんなことはしない」と言った。民族(日本人)への信頼の素朴な言葉だが、何となく違和感を感じた。数十年前には日本人も同じようなことをしていたのにと思い、民族の違いではなく、政治や経済、文化の発展の違いから来ていると考える。
 この言葉から浮かんだことは、過去に日本が民族主義と結びついた国家主義で起した大きな過ちである。そんな忌まわしい過去を再現してはいけないと思うが、いたるところでその兆しが見えるので恐ろしい。
 そんなことを考えながら言葉の意味を明確にするために、・・・主義という言葉などの意味を調べてみた。参考に!
                  (コスモポリタンに憧れる素空)
民族主義
  自らの民族を政治・経済・文化などの主体と考え、価値観の至上と
 する思想や運動で、国家主義と結びつきやすい。
国家主義
  国家を最高の価値あるもの、人間社会の最高の組織と見なし、
 個人よりも国家に絶対の優位を認める考え方。
全体主義
  個人の全ては全体に従属すべきとする思想または政治体制。
 この体制を採用する国家は、通常1つの個人や党派または階級
 によって支配される。個人の私生活なども積極的または強制的に
 全体に従属させる。
個人主義
  国家や社会の権威に対して個人の権利と自由を尊重することを
 主張する立場。あるいは共同体や国家、民族、家の重要性の根拠
 を個人の尊厳に求め、その権利と義務の発生原理を説く思想。
自由主義
  自由主義は集団による統制に対して個人の自発性を優先し、
 国家その他の社会諸制度は個人の自由を保障し個性を開花
 させるためにあるとみなす。
国際主義
  1 独立した主権国家の存在を前提に、その相互間の協調や
   連帯を重んずる立場。
  2  すべての民族の民族自決権を保障し,国際的に民主主義を
   実現しようとする立場。
  3  社会主義運動や労働運動などで、国家の枠を超えて共通の
   目的のために連帯しようとする立場。
コスモポリタン
   国籍・民族などにとらわれず、世界的視野と行動力とをもつ人。
 また、 コスモポリタニズムを信じる人、世界主義者。
墓参り 2014・8・15(金)
 13日、四日市北部丘陵公園に義兄、連れ合い+くるみでN家の墓参りをした。今年は息子一家の帰省が遅いので、親族で全ての墓を廻るのは18日に予定している。2度も参りに来るので、亡き義父母や祖先はびっくりするかもしれない。
 近くのまだ墓石が立っていない区画に仏像が安置してあった。なるほど良いことだと思ったが、木像なので風化が早そうだ。
 仏像作りの先輩・Aさんは同じように円空仏を置くが、雨よけを付けると言っていた。
  
交差点にて(朝日新聞・いわせてもらお) 2014・8・14(木)
 赤信号中、若い女性が2人、しゃべりながら横断歩道を渡ってきた。「ウチ、そういうのは守る人やから~」
 「ウソやろ~」と思った。
        (大津市・交通ルールも守れない人が・・・・・・・19歳)
 麻雀2題
 ・他人の打ち方をを遅い遅いと批判する人で、自分が遅いことに
  気がついてない人がとても多い。
 ・「何でもないところであのプロはあんなに考えるのだろう」と言って、
  何でもないところで考え込んでゲームの進行を遅くする人。
最後の奈良見学旅行6  2014・8・13(水)
 聖林寺を出たあと、桜井から近鉄に乗り、室生寺口に至り、大野磨崖仏をわきに見ながら、室生寺渓谷の山道を遠足でもするように一行は歩いていった。谷合の夕暮れは早い。やがて室生寺にたどりつく頃は、激しい川水がひびくのみである。
 室生寺の沿革について道人は講話した。それは空海ではなく、興福寺の賢憬(けんきょう)と修円によるものではないかということであった。夜更けて、たれやらが村にいって買ってきた酒を、渓川のあたりで、會津先生をお呼びして別離の宴にしようといい出した。
 「海ゆかば水漬くかばね、山ゆかば草むすかばね・・・・・・」の歌がどこからともなくひびき、校歌や軍歌もつぎつぎに歌った。無理をして酒を飲み、川風に吹かれたのがいけなかった。道人は再び風邪をひいたらしい。


 この時、八一が詠んだ歌が山光集・霜葉の第2、3首である。
  やまがは は しらなみ たてり あす の ごと   
           いで たつ こら が うた の とよみ に   解説
  うみ ゆかば みづく かばね と やまがは の   
           いはほ に たちて うたふ こら は も    解説
放浪唫草・第63首(會津八一) 2014・8・12(火)
 石切峠にて                解説
   いはばな の ほとけ の ひざ に わすれ こし
           かき の み あかし ひと も みる べく 
       (岩鼻の仏の膝に忘れ来し柿の実赤し人も見るべく)

 放浪唫草、最後の歌。ここでも赤が印象的に使われている。
大雨特別警報・避難指示(四日市) 2014・8・11(月)
 9日午後6時前、避難指示がテレビで流れ、すぐに携帯に四日市市から大雨特別警報が入る。しばらくして今度は避難指示(約13万世帯、31万人)の連絡が来た。外では市の警報がなり、近くの市民センターのスピーカーが状況を説明し、避難を呼び掛けていた。
 千葉の息子夫婦から心配の電話とメールが届く。さらにA先生夫人、兄、親戚、遠方の友人達から連絡が入る。
 三滝川から近いので、さすがにその氾濫が心配になった。近くの避難先を連れ合いと話し、結局、義兄のマンションに避難することにしたが、とりあえず、川の様子を車で確認しに行くと氾濫までには2mほどあった。また、古くから住む隣の元消防団の人から、2階におればいい、伊勢湾台風の時も大丈夫だったと聞いて、自宅に待機することにした。
 深夜、もう一度川面を確認に行くと少し減っていたので、非難は取りやめにした。(後で分かったことだが、近くに住む人の公的施設への避難は2か所で60人ほどだった)
 翌日、近くの家の木製の塀が倒れており、三滝公園は折れた木の枝が重なっていた。諏訪公園では木が倒れ、今日撤去作業をしていた。
 予報が大げさ過ぎるという批判はあるが、ともあれ大きな事故は無かったのでホッとしている。
 そして、いろいろな人に心配していただいたことに、このブログで御礼申し上げます。
山光集 2014・8・10(日)
 會津八一山光集(第2歌集 246首)の解説を8月7日に終えた。始めたのは今年の2月4日だから、6ヶ月で終了したことになる。鹿鳴集(第1歌集 371首)には10年以上かかったので、すごいスピードだった。理由は現地を訪ねていないこと、写真をいれなかったこと、戦争の影響で今日的に歌として評価できない作品があり、簡単な解説をとどめたことなどによる。
 山光集は昭和15年6月から昭和19年4月に至る4年間に詠まれた246首で、戦争時代を色濃く反映した作品も含まれる。戦中、戦後の価値観の転換により3度出版され、歌の取捨が行われた。
 山光集について八一の弟子で和光大学教授だった故宮川寅雄は以下のように書いている。(昭和46年出版・山光集、解説より)
 「・・・醜い、無惨な戦争に、拒絶の術もなく、時にはひきまわされ、時にはさいなまれ、その歌にさえ、それを投影しないではおれなかったのである。
 しかし、それは、総体的日本人の歴史的宿命でもあった。そして、會津八一もまた、その思想の質を、それによって冷厳に問はれ、試されたのであった。かれは軍国主義やファシズムには無縁ではあったが、国家の伝統の伝説には弱かった。『山光集』に、それをまざまざと見とることができる。しかし、かれは、その陥穽に対して、微妙に警戒を怠らなかったことも汲み取るべきだろう。
 『山光集』には、一部の、戦争の投影を除けば、そこには、平常の、美しい人・會津八一がいる。・・・」
進化論(朝日新聞・いわせてもらお) 2014・8・9(土)
 蚊に刺され、かゆがる私。隣のベッドでスヤスヤ寝ていた妻に「近頃の蚊は音を消して刺しに来る。進化したものだね」と言うと、「あなたの耳が退化したのよ」。  
   (埼玉県川口市・絶対に蚊が進化していると思うのですが・63歳)

 「あなたの耳が退化したのよ」この返事は優しい。耳が遠くなったので聞きそこなってミスしようものなら、連れ合いの容赦ない罵倒が飛ぶ。
原爆の思い出 2014・8・8(金)
 日本に原爆が投下された昭和20年8月6日と9日に素空はまだ生まれていない。二つの爆弾で年末までに21万人余が亡くなった。惨いことだ。原爆のことを知ったのは小学生の時に観た映画である。とにかく目を背けたくなるような惨状が次から次に映し出され、堪えられないほどだった。まだそれほど考えることをしなかった時代の脳裏に映像として焼き付いた。
 その映画は緑青で青くなった銅の屋根が印象的な今はもう無い四日市公会堂だった。この公会堂で同時に記憶に浮かぶのは初めて端役で出た劇のこと、はじまる前に誰かに倒されて汚れた服で舞台に上がったことを覚えている。
 思い出はともかく、二つの原爆投下に対して為政者の声が聞こえてこないことが寂しい。それよりも戦争へ道を準備しているようにしか見えないし、もっと勘ぐれば原発再開を急ぐのは将来の核爆弾の準備かと思ってしまう。
 原爆詩の朗読を続ける吉永小百合(69)は、「日本人だけはずっと、未来永劫、核に対してアレルギーを持ってほしい」と語っている。
 この感覚を日本のすべての為政者が持てば孫の世代も安心なのだが。
放浪唫草・第62首(會津八一) 2014・8・7(木)
 奈良より東京の友に            解説
  なべて よ は さびしき もの よ くさまくら
       たび に あり とも なに か なげかむ 
      (なべて世は寂しきものよ草枕旅にありとも何か嘆かむ)

 放浪唫草全63首の総括と言える歌。人生の本質は寂しいものなのだ、心の中の懊悩煩悶は己特有のものではないと旅の中で悟った。
最後の奈良見学旅行5  2014・8・6(水)
 仏像あるいは芸術的な対象への対応を学生に教える八一、他の本でも取り上げられている有名な場面である。

 聖林寺の十一面観音は、和辻哲郎の『古寺巡礼』でも取り上げているように、元々、三輪神社の御輪寺(おほみわでら、だいごりんじ)という神仏習合の神宮寺にあった仏像である。現在は特別に観音堂を設けて安置しているが、当時は本堂本尊の傍らに置かれていた。扉を閉めたままの暗い本堂にはいると、学生の一人が懐中電灯をつけて見ようとした。すると、
 「懐中電灯など照らしたって、仏像は見えはせんぞ」
 道人が怒鳴った。
 やがて住職が手燭をともして差し出すと、それを受けて道人は、ぐりぐりと抉るように、観音の顔、胸、手などを照らし出して、
 「この観音様の光背は、昔のままではない。はじめどのような光背であったかを想い浮かべなければならない。この仏さんを祀っていたお堂は、はじめどんなお堂であったかも想像しながらよく見るのだ」
 「何度もいうごとく、仏さんを前にしてどうあるべきか、それぞれ自分自身で納得、解決することだ」
 道人がかかげる手燭に照らし出される観音は、全世界をおおうような、やさしく悲しいお顔をしていた。
健康志向(中日新聞・つれあいにモノ申す) 2014・8・5(火)
 就寝中、蚊が来たと妻が騒ぐので目が覚めた。「面の皮が厚いんだから、何ともないだろ」と言うと、「体のあちこちが悪い薬漬けのあなたより、私はたくさん刺されるの。どっちが健康か蚊も分かるのよ」と逆襲された。
                       (墓穴を掘る夫・71歳)

 最近連れ合いは脂肪が増えた。さぞ、蚊は美味しい獲物だと思っているだろうけど、痩せて貧弱な素空でもやぶ蚊は容赦なく襲う。
柳亭市馬と柳家小三治 2014・8・4(月)
 落語家としては若い柳亭市馬(52歳)が落語協会(約250人)の会長になった。柳家小三治前会長(74)が指名したという。人間国宝になった柳家小三治の実力は折り紙つきで会長は最適だと思っていた。
 兄弟子である小三治が「(市場は)面白いことをことさら面白くしようとはしない。私よりよほど小さん的」と認める骨太な正統派の古典落語で定評がある。また美声の持ち主で歌手としてCDを出すほどである。客席からよく美声を催促されている。
 最近よくテレビで柳亭市馬を観るが面白くて安定感があり、安心して聞いていられる。会長としての発言は
「これからの若い人に、いい指針を与えられる会長でありたい」
「お客さんにいいもの(芸)を与えられる者を、いつでも真打ちに抜擢したい。そんな人が出てくるのを待っている」
「(自身の芸については)まだまだこれからやりたい噺がいっぱいある。会長だからといって怠ることはしない」
 期待できる発言である。今後を見守りたい。
放浪唫草・第61首(會津八一) 2014・8・3(日)
 奈良の戎(えびす)の市にて      解説
  ささ の は に たひ つり さげて あをによし
          なら の ちまた は ひと の なみ うつ 
   (笹の葉に鯛吊り下げてあをによし奈良の巷は人の波打つ)

 「憂患」を抱えた寂しい西国の旅の途中で、戎市の賑わいを詠う。八一は徐々に心の安定を取り戻しつつあった。
最後の奈良見学旅行4  2014・8・2(土)
 十二日には法隆寺、法輪寺、中宮寺などを訪ねたが、しかし道人は歌碑のことで県の役人との面談のため、学生だけとなった。翌十三日には、学生たちと薬師寺、唐招提寺、西大寺、喜光寺、秋篠寺などを巡拝した。つぎの歌は、薬師寺の東塔である。
  うかび たつ たふ の もごし の しろかべ に 
           あさ の ひ さして あき はれ に けり    解説
 東塔は元来三重の塔であるが、各層を補強するために、裳階(もこし)をつけ、六重のように見える。晴れわたった秋の空に裳階の白壁が、朝日に映え鮮やかであるという意である。
 さらに東院堂の聖観音が詠まれている。
  みほとけ の ひかり すがしき むね の へ に 
           かげ つぶらなる たま の みすまる      解説
 薬師寺の金銅仏は、みな磨き上げられて光沢を発している。とくにこの仏像は若々しい理想の青年像として荘厳、清浄をきわめる。胸にかがやく宝珠に焦点をあてて讃嘆した一首である。
 十四日、平城宮址、海龍王寺、奈良博物館を訪れた。平城宮址の冷たい風に吹かれたためか、極度の緊張と、疲労が重なったせいか、道人は風邪を訴え、翌十五日は日吉館で休養をとり、学生だけで浄瑠璃寺、岩船寺を訪れた。翌十六日は自由行動で、学生たちは好みの寺や神社を訪れ、道人は二日の休養をとり体力が回復し、十七日には元気よく桜井の聖林寺に向かった。

 
植田先生が薬師寺東院堂の聖観音を表現した「この仏像は若々しい理想の青年像として荘厳、清浄をきわめる」は全くその通りだと思う。仏像作りを始めたころ、この聖観音に身震いしたことを思い出す。 
眠れぬ理由(中日新聞・つれあいにモノ申す) 2014・8・1(金)
 若いころはドライブ中によく助手席で眠り、運転している夫に怒られたが、最近は目がさえている。年を取って反応が鈍くなった夫の運転では、不安で眠れないからだ。(今は家で昼寝をしている妻・64歳)

 若い頃、連れ合いが運転する時は助手席でブレーキを踏む動作ばかりしていた。結構乱暴で未熟な運転だったから。最近はそんなことにも鈍くなって平気で横に乗っている。
  
 今日は血液検査、白血球の値は正常値、ばんざ~~い!でも「薬は二日置きに飲みなさい」だって。

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