7月の終わりに 2014・7・31(木)
 うだるような猛暑日は熱中症になったかと思うほど身体が動かなかったが、28日はノブ君と日本昭和村を元気に楽しんできた。
 月下美人が28~29日に19輪咲いた。鳴きだした鈴虫はあちこちに婿入り、嫁入りしている。今日は先日ガンで亡くなったくるみの友犬・チーズ君の家にも鈴虫がもらわれていった。
 悲しいと言えば、くるみの友犬・エイト君も亡くなった。ハハの友人の飼っていた11歳の犬だった。川原田にある立派な葬儀場で見送ったという。
 くるみは元気になり、三滝川(新技)を泳げるようになったから幸せである。8月初めに行く病院で病気回復と診断されることを願っている。
 今日はうらら姉さんの命日(3年目)、くるみが姉さんやチーズ君、エイト君の分まで元気に走り回ってくれると良い。
日録 20世紀(1917・大正6) 2014・7・30(水)
 1917年のグラビアは以下である。
  “「目玉の松ちゃん」人気絶頂!”(主演1000本の邦画スター第一号)
  “日本海軍、地中海遠征!”(第一次世界大戦、赫々たる戦果)
  “女スパイ、マタハリ銃殺”(官能の踊り子から世紀のスパイへ)
  “レーニン、「封印列車」で帰国!”(ロシア革命)
 「目玉の松ちゃん」は知っていたが、言葉以外は全く知らなかった。尾上 松之助(1875~1926)は映画俳優、歌舞伎役者、映画監督である。日本映画草創期に活躍した日本初の映画スターで本名は中村鶴三。
 この年は第一次世界大戦の真っただ中で、海軍は地中海まで遠征し、ドイツのスパイと言われた大女優マタハリはパリ郊外で処刑されている。
 この年の大事件はロシア革命だろう。4月16日レーニンは亡命先から「封印列車」で帰国する。(大戦中なのでロシア人はドイツ領を通行できない。そこでドイツ当局と秘密交渉し、一切ドイツ人と接触しない「封印列車」でドイツ領内を通行することを認めさせた。ドイツはロシアの革命が進むと自国に有利と考えた)
 10月、ロシア革命により史上初の社会主義国家が樹立されるが、その後の変質を経て、社会主義国家は事実上崩壊した。
 マルクスが現状の矛盾を取り除いた先におぼろげに垣間見た理想社会、その実現を現実に推し進めたレーニンの目指したものは今は無い。そしてマルクス主義も終焉した。
 その後は、大きな矛盾を抱える資本主義社会を根底から変える新しい思想は生れていない。
放浪唫草・第60首(會津八一) 2014・7・29(火)
 西国の旅より奈良にもどりて     解説
  しか の こ は みみ の わたげ も ふくよかに
          ねむる よ ながき ころ は き に けり 
      (鹿の子は耳の綿毛もふくよかに眠る夜長き頃は来にけり)

 九州の長旅の途中一度、大阪、奈良を訪れる。鹿の子の綿毛、鋭い観察力を感じさせる。
最後の奈良見学旅行3  2014・7・28(月)
 道人と学生たちの泊まった宿は、言うまでもなく登大路の日吉館である。まず、東大寺大仏殿、三月堂、戒壇院、新薬師寺が十一月十一日の一日目である。その後十六日の毎日新聞に、「春日野にて」と題して掲載されている歌はつぎのごとくである。
  いで たたむ いくひ の ひま を こぞり きて 
           かすが の のべ に あそぶ けふ かな   解説
  うつしみ は いづく の はて に くさ むさむ 
           かすが の のべ を おもひで に して    解説  
  かすがの の こぬれ の もみぢ もえ いでよ 
           また かへらじ と ひと の ゆく ひ を    解説
 春日野に立って、入隊間近の学生たちの感慨をおもいやっての歌である。これらの作品について今更論評する必要はない。明治四十一年、はじめて奈良を訪れ、春日野にたたずんだときの古代美への憧れと、恍惚とした想い、唯美の境地と何というちがいであろうか。

 植田先生が言うはじめて春日野を詠んだ歌は、鹿鳴集の冒頭を飾る。
  かすがの に おしてる つき の ほがらかに 
           あき の ゆふべ と なり に ける かも    解説
  かすがの の みくさ をり しき ふす しか の 
              つの さえ さやに てる つくよ かも    解説 
変化なし(中日新聞・つれあいにモノ申す) 2014・7・27(日)
 鏡台で化粧をしているとき、自分の顔を見て、思わず「あーあ、こんなに年食ってブサイクになっちゃって…」とつぶやいた。すると夫が「若いときと別に変わってないぞ」だと。(言葉に気を付けたい妻・73歳)

 ユーモアのある夫だ。喧嘩になっていないようだから、ジョークが生活のリズムになっている夫婦かな?「変わってない」のは立派、当方、年を取って型崩れし、よれよれになっている。
                26~27日 月下美人19輪咲く。
金剛力士像 2014・7・26(土)
 三重刻友会の先輩、安藤宣朗さんが金剛力士像(阿吽)で四日市市美術展覧会の四日市文化協会賞を受賞されました。おめでとうございます。
 製作過程の折々に拝見してきましたが、作品は高さ500mmの欅の大作で2年かかっています。
 素空が彫刻刀の使い方さえ知らなかった頃に安藤さんはいろいろな作品を作っており、こんな作品が彫れるようになったらと憧れたものです。
 四日市市美術展覧会は7月26日~8月3日まで四日市市文化会館で開催されています。時間がある方はお出かけください。
  
放浪唫草・第59首(會津八一) 2014・7・25(金)
 長崎のさる寺にて     解説
  おくり いでて かたる はふし の ゆびさき に
               みづ とほじろき わうばく の もん 
       (送り出でて語る法師の指先に水遠白き黄檗の門)

 寺の門から俯瞰する白い長崎の海、素晴らしい光景が浮かんでくる。
柳家花緑 2014・7・24(木)
 人間国宝だった5代目柳家小さんの孫である。過日、四日市文化会館の独演会に出かけた。演目は“傘碁”と“井戸の茶碗”、古典落語の伝統に甘んじることなく随所に工夫がしてあり、その芸の素晴らしさに唸った。目線の使い方や「間」の取り方が素晴らしい。
 小さんの孫だから良いと言うのではない、現に6代目小さん(5代目の息子)はぱっとしない。実際6代目は名人級の柳家小三治(7月18日人間国宝内定)がなるものだと思っていたのでその時失望したことを覚えている。
 「花緑は15歳で祖父に入門し、22歳で真打ちとなった落語界のプリンス、柳家の伝統の落語と花緑の革新的で斬新な発想がミックスし、舞台上で躍動している」と評されている。その通りだと思った。花緑は“落語家はなぜ噺を忘れないのか”で以下のように書いている。
「落語は伝承芸です。江戸時代から受け継がれてきた噺の数々を後世にも伝えていく――これも確かに伝承芸です。しかし今、私がもっとも伝承していきたいと考えているのは、『お客さんを熱狂させる空間の再現』なのです。/江戸時代の人たちは、落語で熱狂したと思うんです。大笑いしたり、泣いたり、あるいは感化されたり。そんな感動、感心、発散という目に見えない欲を満たす熱狂を与えた場所が、寄席だったのではないでしょうか。もしも、その空間がつまらなければ、寄席が今でも残っているはずはないんです。だから我々落語家がやるべきなのは、かつて人々を熱狂させた空間を再現し続けていくことではないのかと。もっと言えば、噺の伝承なんて二の次なのかもしれません」(ネットから引用)
 客席と一体化しようとする努力が随所にみられた彼を評価したい。ただ、残念だったことは知名度不足なのか客席が半分しか埋まっていなかったことである。彼の落語を楽しもうと思うと今後は遠方になりそうだ。
孫に注意?(中日新聞・つれあいにモノ申す) 2014・7・23(水)
 中学三年の息子が高校に合格したので久しぶりに祖母に電話した。でも「〇郎だよ」「孫の〇郎だけど」と何度呼び掛けても反応ゼロ。私が後で電話すると「オレオレ詐欺かと思った」だって。
                    (合格祝いに期待する母・40歳)

 小学生の孫たちが高校合格するころには、ボケてオレオレ詐欺の餌食になっているかな?今から心配だ。
最後の奈良見学旅行2  2014・7・22(火)
 愚かな戦争は未来を担う学生たちも戦場に駆り出した。「戦後は戦争責任を軍部にだけかぶせたが、政治家もなかなか率先してやったものだ」植田先生の眼は鋭い。
 最後の奈良旅行は戦地に赴く学生たちとの別れともいえる。多くの学生は八一の鹿鳴集を携えて出征したと言う。

 奈良見学旅行は、いろいろな行事を避けたためにおくれ、ようやく十一月十一日に行われることになった。芸術科の学生だけでなく、奈良美術に興味を持つ学生はだれでも参加してよいということである。それは間もなく入隊し、戦地に赴く学生たちに、美の故郷である奈良とその仏像を観てほしいという、會津先生のおもいやりであったとおもう。しかし、あわただしい入営間近の旅行である。郷里に帰り、身辺を整理したり、親戚知人への別れの挨拶もひかえていた者にとって、全日程をこなすことはむつかしかった。だから、十一日から二十二日までの全日程を、はじめから終りまで旅行したのは、ごく少数で、大方は五、六日、あるいは三、四日、道人の一行に加わり、途中で別の自分の選んだ寺社を旅する者、随時参加して道人に別れの挨拶をして帰郷するものなどまちまちであった。それも時局の厳しさを反映するものである。
放浪唫草・第58首(會津八一) 2014・7・21(月)
 観世音寺の鐘楼にて(第4首)     解説 
  つき はてて くだる しゆろう の いしだん に 
           かれて なびかふ はた の あらくさ 
    (撞き果てて下る鐘楼の石段に枯れて靡かふはたの荒草)

 枯れ草の靡く鐘つき堂は閑散としている。菅公の悲哀と一人旅の八一が目の前に浮かんでくる。
オキザリスの様な  2014・7・20(日)
 先輩に花苗をいろいろプレゼントした。月下美人が咲き、その見事さに感激した先輩から感謝の手紙を頂いた。とても嬉しいので、その一節を以下に紹介する。
 “花苗を頂いてより鉢植えを始めました。・・・一人ぼっちの老人の庭に可憐な花が次々咲いてくれ淋しさを紛らわせています。
 月下美人の開花でふと3人の子供達を育ててくれた亡き妻を偲びました。妻に先立たれて約30年、・・・妻は月下美人と云うよりオキザリスの様な清楚な女でした。・・・”
食えない夫(中日新聞・つれあいにモノ申す) 2014・7・19(土)
 夫は私の料理を一度も「おいしい」と言ったことがない。「褒めてくれればやる気がでるんだけど」と言ったら「食えんとは一度も言っとらん」だって。失礼ね、食えない物なんて、一度も出してません。(一度でいいから褒められたい妻・68歳)

 この頃、連れ合いが「これ、味が薄かった?(美味くなかった?)」と聞く時がある。「大丈夫、この頃薄味になったから丁度良い」と答える。濃い味付けのものが出たら、反対の答えを言うのだろうかな?
最後の奈良見学旅行1  2014・7・18(金)
 恩師・故植田重雄先生の「會津八一の生涯」(1988年)を読んだのが、會津八一との出会いである。先生の本はほとんど読んだが学術書で難しい。そうした中で、感情が表に出て、情感豊かに書かれている「最後の奈良見学旅行」(秋艸道人 會津八一の学藝・補遺二 2005年)は印象に残った。そこには生身の先生がいたからである。
 最近、會津八一の第二歌集・山光集の歌の解説を進めているが、この補遺二と関連する。学徒出陣間際(昭和18年)の学生たちを連れたこの「最後の奈良見学旅行」を数回に分けて紹介する。現在の戦争への道を開こうとする愚かな選択を憂いながら。

 會津八一(秋艸道人)先生は、毎年美術科・史学科の学生のために、大和の寺や古美術の見学の旅行を行ってきた。しかし昭和十八年の秋のそれは、特別のものであったようにおもう。太平洋各戦域でアメリカは総反攻に転じ、ミッドウウェー海戦、ガダルカナルの激闘、アッツ島の玉砕等々日本は守勢に立たされていた。
 当時、貴族院議員であり、土佐の武市半平太の嗣子なる人が、まだ日本は敗北したわけではない、三十万人の学生の精鋭がいるではないか、これらをして国難に当たらしめ退勢を挽回しようと提案した。戦後は戦争責任を軍部にだけかぶせたが、政治家もなかなか率先してやったものだ。やがて「徴兵猶予の停止」が宣言され、学園の学問や研究の火は消えることになった。いわゆる学徒出陣である。雨の降る明治神宮外苑球場での、東條英機総理のもと、閲兵分列の壮行会が行われたのは十月十五日である。
放浪唫草・第57首(會津八一) 2014・7・17(木)
 観世音寺の鐘楼にて(第3首)    解説
 ひとり きて わが つく かね を ぬばたまの 
        よみ の はて なる ひと さえ も きけ 
   (1人来て我が撞く鐘をぬばたまの黄泉の果てなる人さえも聞け)

 私の撞く鐘の音よ、私の想うあの世の菅公・菅原道真に届け! 
蝉の抜け殻  2014・7・16(水)
 2日前、我家の白い塀に抜け殻があらわれた。夏の到来を目の当たりに見る光景だが、不思議なことがある。
 この塀の下はコンクリートなどで固められているのでどこから来たのか?さらに蝉は何処へ行ったのか?庭で鳴いていないのはこれは雌だろうと考えて納得した。
 白い塀を真横に行けばハナミズキがありその横に樫がある。蝉は横歩きして木にたどり着いたのか?
 今日、気がついたが、抜け殻から3m余り離れた樫の木の根元に幼虫の出た穴があった。随分横に動く物だと感心しながら、蝉の鳴き声を早く聞きたいと思った。夏を実感する風物詩である。 
朝のテスト(中日新聞・つれあいにモノ申す) 2014・7・14(月)
 朝起きる前、夫は「今日は何曜日?」とよく聞く。人に聞いてばかりだと、頭を使わなくなるので「ぼけないように自分で思い出して」と答えると「おまえがぼけてないか試しているんだ」。(健康そのものの妻・64歳)

 なかなかユーモアがあり、機転の利く人だ。この頃、曜日はわかっているけど何日かがあやふやになる。ぼけが進んでるのかな?
                (明日第3火曜日は独り言を休みます) 

                  小沢獣医ーパワーシティートミジャス
                     月下美人7輪咲く。
紫香楽宮跡 2014・7・13(日)
 奈良時代、聖武天皇の都が恭仁京(京都)にあったとき紫香楽宮は離宮で、一時ここに都が置かれたと言われている。また、後に東大寺で実現される盧舎那大仏の造営もここで試みられたという。ただ、都はすぐに難波京(大阪)に移った。以上が歴史で学んだことである。
 先日、信楽に行った。随分前に紫香楽宮跡(甲賀市信楽町)と言われる場所に行った時は、雑木林に看板が立っているだけだったので失望して帰ってきたが、今回は、紫香楽宮跡(甲賀寺跡)となっていてごく小さな拝殿と説明が施されていた。
 1926年にここが紫香楽宮跡として国の史跡と指定されたからだそうだがどうも甲賀寺跡が本当のようだ。2000年に、北約1kmにある宮町遺跡から大規模な建物跡が検出され、そこが宮跡と今は考えられているようだ。今回はそこを訪ねなかったが、ネットで調べながら紫香楽宮跡について書いてみた。
 遠い時代のことを想像しながら、史跡を訪ねるのは楽しい。紫香楽宮跡は近々また行こうと思っている。
 “信楽”ではなく“紫香楽”と言う文字のフィーリングに昔から惹かれるものがある。
  
放浪唫草・第56首(會津八一) 2014・7・12(土)
 観世音寺の鐘楼にて(第2首)     解説
 いたづき の たぢから こめて つく かね の 
         ひびき の すえ に さぎり は まよふ 
       (いたづきの手力こめて撞く鐘の響きの末にさ霧は迷ふ)

 病身だが力を込めて鐘をついた。その響きは夕霧とともに漂い消える。 
星野富弘7~8月の詩画
   こころのたべもの(アガパンサス)
 2014・7・11(金)
 たべられません
 あなたが
 美しく彩った
 草花のほとんどは
 たべてもうまくありません

 でも人はそれを庭に植えて
 こころのたべものにしています


 先月訪れた又木茶屋(桑名市長島町)にアガパンサスが咲いていて、友人が思わず「いいね」とつぶやいた。
 茶屋では和菓子付きの煎茶でおしゃべり、これもある意味「こころのたべもの」と言える。
ジコチューな夫(中日新聞・つれあいにモノ申す) 2014・7・10(木)
 何事も自分の都合を優先させる夫。「もう少し家族に気を使って」と言うと「会社で気を使ってるのに、家で使えるか」とのたまう。会社は三年前に定年退職したはずでしょ。(気疲れしている妻・53歳)

 仕事や家で、仲間内でいつも気を使っているので、こんな人はいいな~~と憧れる。
戦争への道 2014・7・9(水)
 なぜ憲法を無視して戦争への道筋をつけるのかさっぱりわからない。争うより仲良くする方がずっと良いと思うのだが。
 敗戦後の70年近く、日本は戦争のない幸せな時代を満喫してきた。それは戦争への反省と1960~70年に日米軍事同盟に反対し平和を求めた世代、とりわけ団塊の世代に支えられてきたと思っていたが、どうも同世代を過信していたように思う。平和ボケし、骨抜きになって高齢者の仲間入りをしたようだ。
 団塊の世代は戦争体験を先輩から聞き、戦後の平和教育で育ったがそれは上っ面のことだったかもしれない。自らの子供達に平和の大切さを教えなかった、あるいはそんな必要がないと思うほど平和ボケしていたかもしれない。
 先日、本当に平和の大切さを思い、そうした活動を支えてきたのは戦争体験者だとある人が語っていた。なるほどと思った。空襲の焼け野原に茫然と立っていたと語り、安倍政権の暴挙に憤る先輩こそ生身の戦争体験者なのだ。言葉の重みが違う。
放浪唫草・第55首(會津八一) 2014・7・8(火)
 観世音寺の鐘楼にて      解説
 この かね の なり の ひびき を あさゆふ に 
            ききて なげきし いにしへ の ひと 
        (この鐘の鳴りの響きを朝夕に聞きて嘆きし古の人)

 菅原道真は九州に左遷された。八一は幹事と対立し、早稲田中学教頭の職を辞して、九州の旅を続けている。
くるみときゅうり 2014・7・7(月)
 仏像教室の仲間が家庭菜園をしていて、季節に応じていろいろな野菜をくれる。「このきゅうりは曲がっているし、小さいから鈴虫用」と他の物とは別に包んでくれた。
 帰宅して、その10cmほどのきゅうりをくるみに渡すとソファの上で食べてしまった。薬のせいでブタくるみになったので、低カロリーのキャベツやきゅうりを与えるが、美味しいものを見せて次にあげると言わないときゅうりなどは食べない。よほど、お腹が空いていたか、このきゅうりが美味しかったのか、未だに謎である。
 低カロリーのドッグフードと野菜、鶏肉などの好物の品各種で食事を作るが、以前は1日1回だったのに、この頃は3回食べる。これではダイエットにならない。深夜に帰宅すると2階から降りて来て、お座りして見上げる。これでは甘くなってしまうよね。
 投薬が続いているが、この10日ほどは元気に走り回っているくるみの現状報告。
 追伸、鈴虫は大きいので10mmぐらいになってきた。鳴きはじめは20日ごろかな?
小学校(朝日新聞・いわせてもらお) 2014・7・6(日)
 新1年生になった6歳の孫娘に「学校楽しいかい?」と尋ねると、「うん楽しいよ。もっと早く行けば良かった」。
           (札幌市・そんなに気に入ったんだね・71歳)

 そうだよね~!学校はいつも楽しかった。沢山友達ができた。でも試験の時は嫌だったけどね。
アマゾン返品半額 2014・7・5(土)
 友人がアマゾンで音楽機器を買ったが、届いてみると望んだ機能の物ではなかった。製品の内容はしっかり確認したつもりだったが、見落としたのだから、落ち度は買い手の側にあったと言える。返品をしようと思ったら、製品の箱の開封などをしてあると半額しか返金しないと言う。友人には他に使い道が少ないもので、しかも値が張ったものだったので、残念だが返品した。
 素空と2人で、随分検討し注意して発注したがミスをした。目の前に商品があり、販売員がいる場合はよいが、ネットでの購入は現物がないのでこうした間違いを起こしやすい。廉価な物ならあきらめて手もとにおいてもいいが、高額だとショックは大きい。
 ネットは便利だが、落とし穴もある。手助けした責任もあるので、後味の悪い出来事だ。
 しかし、実際には全額が返金されてきた。半額没収では、アマゾンの評価が落ちると思ったかな?ともあれ、良かった。
放浪唫草・第54首(會津八一) 2014・7・4(金)
 菅原道真をおもひて        解説     
 わび すみて きみ が みし とふ とふろう の
           いらか くだけて くさ に みだるる  
     (わび住みて君が見しとふ都府楼の甍砕けて草に乱るる)

 学問の神様と言うことではなく、左遷された菅原道真の悲哀が彼への思いを深くする。
絮(わた) 2014・7・3(木)
   たんぽぽの咲きたる順に絮となり絮となりたる順に飛びゆく
                        館林市 阿部芳夫
 新聞の歌壇にあったこの歌の「絮」は初めて見た字だった。歌意から「わた」だと思ったが、辞書で確認した。普通はたんぽぽの「綿毛」などと表現する。
 春の終わりに花が絮になり、風とともに次々に飛んでいく姿、幼いころにそっと吹いて飛ばしたことなどが浮かんでくる。そんなことを思い起こさせるいい歌だ。
 たんぽぽの花言葉の一つに「別離」がある。綿毛になって飛んでいく姿そのものだと思う。
 岐阜の木曽三川公園アクアワールド水郷パークセンターで毎年「たんぽぽまつり」(4~5月)がある。一度は行きたいと思っている。
猫が命(中日新聞・つれあいにモノ申す) 2014・7・2(水)
 ペットの猫を抱いて「おまえはかわいいでちゅ。世界で一番大好きだよ」とほおずりする夫。そのセリフ、少しでも私に言ってくれれば、夕食のおかずもお酒も増やしてあげるのになあ。 (ペットに嫉妬する妻・60歳)

 猫を犬に、夫を妻に代えると全く我が家。「そのセリフ、少しでも私に言ってくれれば」なんでも言うことを聞くのだけどね。

                        月下美人3輪咲く。
春田打ち 2014・7・1(火)
     春田打ち飛行機雲の消えるまで
 春田打ちは田植の前に水田を耕す農作業のこと、この語の響きの良さに詩的共感を感じ、続く言葉の壮大さと作者の立ち位置の現実感を思う。作者は友人のQちゃん、田んぼで作業する彼女が生き生きと浮かんでくる。
 この句は津の勤労者福祉会館の春季大会で選者の特選賞と三重俳句協会賞をダブル受賞した。
 以下の彼女の句とともに紹介して7月を始めたい。
     まひまひの水輪広がり川狭し  

 
inserted by FC2 system