村荘雑事・第14首(會津八一) 2014・10・31(金)
  おこたりて くさ に なり ゆく ひろには の     解説
         いりひ まだらに むし の ね ぞ する 
    (おこたりて草になりゆく広庭の入日まだらに虫の音ぞする)

 草は放置するとどんどん生える。その自然の姿の中に鳴く虫の声は風情がある。
                          くるみ・新車運転へ  
東京5-3(終わり) 2014・10・30(木)
 2009年の同窓会ではお茶ノ水の山の上ホテルに泊まった。ここはかって出版社の密集していた神田に近く、作家の滞在や缶詰に使われた。そのため「文人の宿」ともなっており、川端康成、三島由紀夫、池波正太郎、伊集院静らの作家の定宿としても知られている。
 なお、今月21日にも東京で会があったが、素空は参加しなかった。
山の上ホテル 2009・5・25(月)
 同窓会後、奈良の鹿鳴人が予約したお茶ノ水の山の上ホテル(HILLTOP HOTEL)に泊まる。明治大学の建物に囲まれた丘の上の有名なホテルである。昭和初期に建てられ、戦後はホテルとして名だたる作家たちの定宿になった。出版社の密集していた神田に近いところから、作家の滞在や缶詰に使われることが多かった。
 鬼平犯科帳(池波正太郎)を電車で読み、ホテルで深夜に読み終えた。朝食後、ロビーでくつろいでいると池波正太郎絵画展のポスターがある。フロントで聞くと、池波正太郎は絵も得意で、滞在中良く描いたという。彼の本と絵、その偶然に驚くとともに、この宿を予約してくれた友人の心遣いに感謝して、東京一泊二日の独り言を終わる。
優しいなぐさめ(中日新聞・つれあいにモノ申す) 2014・10・29(水)
 「近ごろ、おじいちゃんもおばあちゃんも、人の名前がなかなか思い出せなくてね」。五歳の孫娘に言うと、「大丈夫、私もそうだから」と返ってきた。
                 (顔を見合わせる老夫婦・74歳)

 同じく、人の名前が思い出せなくなってきた。こんな優しい孫がいいね。
魚が飛ぶ 2014・10・28(火)
 三滝川の河口で大きな魚が飛ぶ。飛ぶたびに歓声を上げたくなる。季節から考えるとボラのようだ。ボラは出世魚で大きくなるにつれて名前が変わる。最後は「トド」、ここから「とどのつまり」と言う言葉ができた。ただ、ボラがなぜ飛ぶかはわかっていない。
 魚が飛ぶ理由を調べると
 1 飛び魚のように敵から逃げるため
 2 飛ぶことがその魚の習性、ボラはこれかな?
 3 水面にいる餌(昆虫)などをジャンプして捕える
 4 身体についた寄生虫をおとす
 などがあるらしいが、3の餌を捕えるためとずっと思っていた。
 今、橋の上からボラの大群がゆうゆうと泳ぐ姿が見える。橋から投網する人もいる。鳥たちもやって来る川の風景は楽しいものだが、とりわけ、川面を大きくジャンプする光景は素晴らしい。
村荘雑事・第13首(會津八一) 2014・10・27(月)
  みづ かれし はちす の はち に つゆぐさ の     解説
         はな さき いでぬ あき は きぬ らし 
    (水涸れし蓮の鉢に露草の花咲き出でぬ秋は来ぬらし)

 我が家の小さな睡蓮鉢は今年は花が咲かなかった。咲かないと余計に花が偲ばれる。
東京5-2 2014・10・26(日)
 2009年の同窓会の時、事前に隅田川周辺を散策したが、あやうく会に遅刻しそうになった。
文七元結(ぶんしちもっとい) 2009・5・24(日)
 浅草寺を抜けて隅田川の吾妻橋に出る。落語・文七元結で左官の長兵衛が身投げしようとする文七を助ける橋である。長兵衛が、娘を吉原に預けた50両を文七に投げ渡して説得する場面から始まる落語の人情噺で、歌舞伎にもなっている。吾妻橋の川上にある向島は、永井荷風の濹東綺譚の舞台、そんなことも思い出した。
 吾妻橋の川下にある駒形橋から河川敷に降りて厨橋まで川面を見て歩いた。水量は豊富で沢山の船が行きかう。きれいとは言えないが、泥臭い匂いは全くなかった。
 厨橋を渡り、蔵前橋を横に見て、両国国技館まで歩き、そのあたりでまた橋を渡って同窓会会場に出ようと思ったが橋がない。橋と思ったのはJRの陸橋だった。あわてて、両国駅で電車に飛び乗って一駅、浅草橋で降りてぎりぎりの時間で会場に飛び込んだ。まっすぐ歩けば浅草寺から30分程の距離を1時間30分かけてしまった。
心遣いありがとう(中日新聞・つれあいにモノ申す) 
                         
2014・10・25(土)
 どこへ行くのもすっぴんの私。友達に会うため久しぶりに化粧すると、夫が「目の下にくまができてるよ。疲れてるんじゃないの?」。これはアイシャドーだ!(化粧嫌い・75歳)

 朝、連れ合いが鏡の前で随分時間をかけているが、どこがどう変わったのかいまだにわからない。
怪我の基準 2014・10・24(金)
 薬指を怪我(裂傷)して半月になるが、まだ痛みが続いている。昔、祖母が指を怪我をしてずっと包帯をしていた。傷は直ぐに治った幼児の頃なのでずっと不思議に思っていたことを思い出す。
 ところで、大怪我とか重傷とか言うが、その基準は何処にあるのかと思っていた。ネットにはこう書いてある。
 事故などの警察の判断
   重  傷  30日以上の治療を必要とする怪我
   軽  傷  30日未満の治療を必要とする怪我
 消防の救急の場合の区別(火事等)、
   重  症  3週間以上の入院
   中等症  入院が必要で3週間未満
   軽  症  入院加療の必要がないもの
 骨折などはほぼ40日かかるので重傷にあたるが、指の骨折などは重傷と言うのかな。とにかく、怪我であれば、軽傷、軽症と言えるが、この年をとって治りにくくなった薬指の怪我、30日以上治らないと重傷??
 「全治〇〇日間」 と表現すればわかりやすい、実際の事故ではそう表現されると言う。
村荘雑事・第12首(會津八一) 2014・10・23(木)
  あきづけば また さき いでて うらには の        解説
         くさ に こぼるる やまぶき の はな 
    (秋づけばまた咲き出でて裏庭の草にこぼるる山吹の花)

 キンモクセイの花が落ちて黄色の絨毯を作っている。匂いも良いが落花も素晴らしい。  
東京5-1 2014・10・22(水)
 同窓会は2009年にもあった。翌年もあったが、素空は欠席している。今年9月の同窓会出席は5年ぶりだった。
 2009年の同窓会の時は鹿鳴人とお茶ノ水の山の上ホテルに泊まり、谷中や浅草に行っている。
夕やけだんだん  2009・5・22(金)
 商店街運営に尽力する奈良の鹿鳴人の希望の行先は「谷中(やなか)ぎんざ」だった。午前中、日暮里駅を降りて「夕やけだんだん」に出る。この階段の上から「谷中ぎんざ」を見下ろす風景は谷中の名所である。「谷中ぎんざ」は昔の東京の面影を残す下町のノスタルジックな人気のある商店街だが、訪れたのが午前中だったので賑わいがなかったのが残念だった。
 谷中は徳川時代に多くの寺が建てられ、また、谷中霊園は有名である。徳川慶喜の墓を見学し、その他有名人の墓も見て歩いた。高橋お伝の墓などもあり、結構楽しめた。19410歩の初めである。
言行不一致(中日新聞・つれあいにモノ申す) 2014・10・20(月)
 膝を打って痛がっていると、夫が「大丈夫、俺が負ぶってやるから心配するな」。頼もしい言葉に思わずほろり。でも喜んだのもつかの間、夫はぎっくり腰で寝込んだ。(ぬか喜びさせられた妻・67歳)

 腰痛がひどい時、連れ合いを頼りに千葉の息子の家に行った。ところが頼りにしていた連れ合いがぎっくり腰になり、痛みをこらえ抱きかかえるようにして帰ったことを思い出す。
                  (明日第3火曜日は独り言を休みます)
                            トミジャスーカインズ
ドングリを食べるとどもりになる 2014・10・19(日)
 となりのあーちゃん(小学一年生)とくるみの散歩で三滝公園に出かけ、ドングリ拾いをした。ちょうど一年前にも一緒に拾った。
 ふと「どんぐりを食べるとどもりになる」と子供のころによく言われたことを思い出した。連れ合いに聞くと知らないと言う。あーちゃんのママも知らないと言う。ママは若いから当然かな。
 迷信だが、懐かしい言葉だ。ドングリにはタンニンが大量に含まれていて、茹でたりしても渋みが強くて食べられないことからこんな言葉ができたのかもしれない。今では上手に料理して食べる方法があるそうだ。
 ところで、小学校の頃にどもり(吃音)の友達がいたことも思い出した。大きくなると治っていたが、ネットではその原因が以下のように書いてある。
  素因論(本人の身体や遺伝的要因)
  神経症説(本人の心理的不安や葛藤、自我の強さ)
  学習説(周囲から与えられた刺激に対する反応として身につくもの)
村荘雑事・第11首(會津八一) 2014・10・18(土)
  うま のる と わが たち いづる あかとき の      解説
          つゆ に ぬれたる からたち の かき 
   (馬乗ると我が立ち出づるあかときの露に濡れたるからたちの垣)

 中国大陸の旅行のため乗馬の練習をしたが、実現はしなかった。  
東京4 2014・10・17(金)
 9月27日に飯田橋で4時間余過ごした同郷のYと一緒に2005年に植田重雄早大商学部教授にお会いしている。教授の八一研究の本に触発されてネットで八一のページを作っていたが、恥ずかしかったので黙っていた。
上野公園 2005・7・16(土)
 演劇博物館見学の翌日、上野公園に出かけた。平成17年、植田重雄商学部教授と同級生Yと三人で国立博物館の室生寺展へ、学者の解説付きという豪華な鑑賞である。その上、先生に美味しい鰻をご馳走になった。その年、博物館内に法隆寺宝物館と平成館が新たに作られた。
 法隆寺宝物館の仏像たちは素晴らしく、思わぬ「ご馳走」だった。鑑賞していると外国人達がカメラで撮影している。えっ!と思って係りの人に聞くと「博物館内はフラッシュを使わなければ全て撮影はいいですよ」と言う。入場料300円を取って、3重塔の撮影を禁止している奈良の法起寺とは大違いだ。
見かけは同じでも(中日新聞・つれあいにモノ申す)
                          
2014・10・16(木)
 干してあった同じ柄の二枚の掛け布団を取り込んで、「どっちが俺のか」とのたまう夫。「加齢臭が付いている方があんただよ」と答えてやったら、大笑いしていた。(掛け違いは許さない妻・64歳)

 連れ合いが時々鼻を寄せて服が臭いとか身体が臭うと時々言う。加齢臭なのかな~?やせ細ってきたから、枯れい臭かも。
亡母の歌 2014・10・15(水)
  ロボットのおもちゃとあそぶ孫の絵は人の脚みなロボットに似て
 孫と2人だけで暮らした時期もある母は、常に孫を見ていた。帰宅した孫に吸いつくように寄っていく姿から、孫は磁石のようだと思ったことがある。
  雨降らばとけてながるる色ならむと亡き君詠みし藤咲きそめぬ
 母のノートや同人誌には沢山の歌がある。ある号の一席になっていた歌である。亡き君とは、36年前に無くなった父ではない。父は花作りは好きだったが歌は詠まなかった。 
  亡き夫が植ゑしてっせん花咲けば花にもわれは物言いにけり
 歌は夫を偲ぶものが最も多い。この歌は18年前の母の葬儀の会葬礼状に義姉が選んで載せたもの。明日は母の命日である。
村荘雑事・第11首(會津八一) 2014・10・14(火)
  うま のる と わが たち いづる あかとき の      解説
          つゆ に ぬれたる からたち の かき 
   (馬乗ると我が立ち出づるあかときの露に濡れたるからたちの垣)

 中国大陸の旅行のため乗馬の練習をしたが、実現はしなかった。
御嶽(岳)山 2014・10・13(月)
 予期しない噴火で多くの人の命が奪われた。心から哀悼の意を表したい。山は魅力的でいつも登ってみたいと思っているが、3000m級の山はとても無理だと思って、いつもその素晴らしい景色を眺めている。
 一昨年、きそふくしまスキー場から眺めた御嶽山は素晴らしかった。
 初めて近くに行ったのは2000年12月、御岳2240スキー場(旧御岳スキー場)で、この時から使い出したスタッドレスタイヤの高性能にびっくりしたことを思い出す。ただ、素空のHPのスキーの記録にはない。
 その翌年(2001・12)、御岳ローブウェースキー場と開田マイヤスキー場に行ったことを覚えている。御嶽山を囲むスキー場はもう一つチャオ御岳スキー場があるがここはまだ行っていない。
 御嶽山は標高3,067m、各スキー場の標高は2,000mだから、ある意味で御嶽山と親しんだと言える。その山が多くの人の命を奪った。山自身が悪いわけではないが、山とは恐ろしいものだ。
季節柄(中日新聞・つれあいにモノ申す) 2014・10・12(日)
 「そろそろ自分たちのお墓のことも考えなきゃ」と、夫婦で久々に同じことを考えた。「私は車を運転しないから駅の近くがいい」「俺は帰りに本屋やスーパーに寄れる墓がいい」。二人とも後に残ることを想定した話し合い。
          (レディーファーストはノーサンキュー・55歳)

 自分が死ぬ前に関連する三つの墓を減らしておきたいと思うがなかなか難しい。
東京3 2014・10・11(土)
 東京の同窓会は奈良の鹿鳴人といつも一緒である。同時に関東在住の同郷の友人Yと会うことも多い。9月27日は同窓会後、Yと飯田橋で落ち合った。過去の記録へ。
東京 2005・7・14(木)
 東京の同級生の昇進祝い(同窓会)は大学横の学生向け食堂・尾張屋で行う。東証一部上場会社の取締役昇進の祝宴に選ぶ場所ではないが、学生当時食べた納豆定食・肉豆腐定食・ハンバーグ・鯖の味噌煮込みなどを注文しながら延々と3時間、話に花が咲く。閉店で追い出され、校内で記念撮影をして散会、奈良から上京した鹿鳴人と2人で二次会後、校内のホテルに泊まる。
 当時を思い出しながら気がついた。東京からは富士山が見えるはずなのに、初めて見たのは去年泊まった浅草のホテルからだった。なぜだろうと考えたら、学生時代はいつも下を向いて歩いていたようだ。その上、活動の場所は学部本部の地下の一室だった。自分としては楽しかったけど、暗い学生時代だったのかな?富士も見なかったとは!
村荘雑事・第10首(會津八一) 2014・10・10(金)
  あめ はれし きり の したば に ぬれ そぼつ     解説
            あした の かど の つきみさう かな
   (雨霽れし桐の下端に濡れそぼつ明日の門の月見草かな)

 雨上がりの朝、しっとりと濡れた黄色い月見草、好きな歌である。
土井たか子を悼む 2014・10・9(木)
 社会党の元党首で女性初の衆院議長を務めた土井たか子さんが9月20日、肺炎で亡くなった。おたかさんの愛称で親しまれた彼女で印象深いのは「山が動いた」のせりふが有名な1989年の参院選だ。大勝して与野党逆転を実現した。自民党を逆転するなんて思ってもいなかったので、旅先でニュースを聞いて、暫く呆然としていたことを思い出す。
 社民党(旧社会党)が極小化し、驚くほど右傾化した今の日本からは想像もできないことだ。
 「ダメなものはダメ!!」「やるっきゃない!」と言って活躍した彼女の死を悼む。
 余談だが、土井たか子は憲法学者・田畑忍に師事したが、素空の兄も同門でよく彼女の話をしていた。兄の結婚式で来賓の田畑先生に会ったことも同時に思い出した。
何枚だ(中日新聞・つれあいにモノ申す) 2014・10・8(水)
 お盆で和尚さんの読経が終わる直前。ナムアミダブツ、ナンマイダー、ナンマイダー…。「お布施が何枚だと聞こえてきたよ」と夫。実は私もそう聞こえた!珍しく意見が一致したご先祖さまの前でした。
                      (いつも意見が違う妻・61歳)

 お布施などはいつも高いなと思う。神主の友人は、先日神式の葬儀をすると言っていたけど読経の代わりは祝詞?
片恋(かたこい) 2014・10・7(火)
 俳句にこの言葉があり、辞書で調べた。“片恋とは片思いのことで、自分のことを思ってもいない人を、一方的に恋い慕うこと。反対語は諸恋(もろこい)”と書いてある。
 長い人生、本の中や映画の中で片恋し、現実の世界でも片恋ばかりで、恋されたり、諸恋は皆無に等しい。こんなことを書いたのは「片恋」「諸恋」の語感がしっくりこないからだ。「片思い」とか「相思相愛」などの言葉で育ったせいか違和感がある。この言葉が使われた俳句は優秀句で紹介されていたが、それだけのせいで興ざめした。
 そんなことを考えながら、昔のことをいろいろ思い出していた。もう恋をするには年を取り過ぎたけれど。
 (このブログを連れ合いが読んだら、家を追い出されるかな?)
村荘雑事・第9首(會津八一) 2014・10・6(月)
  いりひ さす はたけ の くろ に まめ うう と      解説
           つち おしならす て の ひら の おと
    (入り日差す畑の畔に豆植うと土押し均す手のひらの音)

 豆を植える八一は自然と一体化している。
東京2 2014・10・5(日)
 久しぶりに東京に出かけたが、印象は外国人が目に付いたことと車内のスマホ使用者の多いこと。キョロキョロ眺めているので不審者と思われたかもしれない。
 東京での同窓会の過去の記録をメンバーが送ってきたので、その時々のブログを探してみた。以下に過去のブログを採録する。
同窓会 2004・1・27
 1月27日PM6:00霞ヶ関の某所に集合の通知が来た。久しぶりの東京なので奥さんも同行することになった。同窓会の間、奥さんは千葉在住の息子と夕食を共にすることにした。
  「27日東京へ行くから、夕食をハハとするかい?」チチ
  「いいな!ちょうど休みを取っていたので待ってます。・・・」ジュニア
なかなか素直に承諾し、喜んでいると思ったら「え!僕の誕生日だからじゃないの?」親の法事を忘れたことがある夫婦、今度は息子の誕生日を忘れていた。
感染を恐れて(朝日新聞・いわせてもらお) 2014・10・4(土)
 庭で掃き掃除をする母(75)に、父(80)が「そんな薄着じゃ蚊に刺されるぞ。ヤング熱になったらどうするんだ」と真面目な顔で注意した。それを聞いた母はさんざん笑った後、「テング熱!」と教えていた。
           (千葉県佐倉市・正しくはデング熱です・42歳)

 テング熱だと思っていた、不覚。活字では濁点が見えにくくなった。耳は“デ”と“テ”の区別が怪しくなった。“不覚”の言い訳。
こころ・漱石 2014・10・3(金)
 朝日新聞の「こころ」再連載が終わった。読むのは50年ぶりだ。
 背信行為で友人を自殺に追いやった先生は死ぬ前に手紙で書く。
死んだつもりで生きて行こうと決心した私の心は、時々下界の刺激で躍り上がりました。しかし私がどの方面かへ切って出ようと思い立つや否や、恐ろしい力が何処からか出て来て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。そうしてその力が私に御前は何をする資格もない男だと抑え付けるようにいって聞かせます。すると私はその一言で直(すぐ)ぐたりと萎れてしまいます。しばらくしてまた立ち上がろうとすると、また締め付けられます。・・・
 読んだ頃は袋小路に落ち込み、ニヒリスティックになっていた頃だが、漫然と読んでいたのだろう、この先生のこころと自殺は理解できず、他の作品の方が良いと思っていた。
 長い人生で挫折や目的の喪失があり、背信行為もあった。そうしたことを経験して「こころ」を読むと少しは理解できるような気がする。自殺は肯定しないが、自分が未だに生きていることは、内省する力が足りなかったからかもしれない。そのおかげで生をそれなりに楽しんでこれたけれど。
村荘雑事・第8首(會津八一) 2014・10・2(木)
  まめ ううる はた の くろつち このごろ の        解説
           あめ を ふくみて あ を まち に けむ 
     (豆植うる畑のくろ土この頃の雨を含みて吾を待ちにけむ)  

 花作り以外に豆なども植えた。自然とのふれあいが心を穏やかにする。

                           遊んでよ(くるみ)へ
日録 20世紀(1919・大正8) 2014・10・1(水)
 1919年のグラビアは以下である。
  “「三・一」「五・四」抗日の叫び!”
  “独軍1000人と徳島・板東収容所の「思い出」!”
  “「浅草オペラ」スター・高木徳子の人気と死”
  “ドイツの屈辱!ベルサイユ講和条約成立”
 日本の1910年日韓併合、1915年の中国への21ヵ条の押しつけによる権益の拡大に、朝鮮では3月1日に抗日のデモが始まり、中国では5月4日に民衆が立ちあがった。日本の過酷な支配や横暴からまだ100年もたっていない。このことを考えないで近隣諸国との友好は望めないし、もし日本が支配される立場だったら今どうなっているのだろうと思う。
 青島で捕獲したドイツ人俘虜約4700人は徳島県の板東俘虜収容所その他に収容された。捕虜は丁重に扱われ、地域住民との交流もあった。ベートーヴェンの第九がドイツ人俘虜によってはじめて演奏され、日本に伝わった。こういう話は嬉しい。
 高木徳子は知らなかった。浅草オペラの人気はわずか4年で終る。
 ベルサイユ講和条約は敗戦国ドイツには過酷なものだった。それが、後のヒットラー台頭の一因になったと言う。  

 
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