新東名高速道路探索 2012・6・30(土)
 仲間に日帰りツアーの案を出したら、新東名のサービスエリア見学を中心にした行程が提案され出かけることとなった。7時に出発、まずは東名高速を走って袋井インターで降り、5分ほどの可睡ゆりの園に行く。ここで食べたゆりの天ぷらは予想外に美味しかった。
 ゆりの園から15分ほど走って、森掛川インターからいよいよ新東名高速に入る。新しい道は美しくゆったりしている。すぐに遠州森町パーキングに入る。次にNEOPASA(ネオパーサ)浜松へ。更に伊勢湾岸道路の刈谷ハイウェイオアシスにも入った。
 高速道路サービスエリアのお上りさん的ドライブ、人が聞いたら笑いそうだが、ずっとしゃべり続ける日帰りツアーなので行先は何処でもいいのかもしれない?(写真は可睡ゆりの園) 
南京余唱第36首(八一) 2012・6・29(金)
 東伏見宮大妃殿下も来り観たまふ (第2首)
   まつ たかき みくら の には に おり たたす 
              ひがしふしみのみや の けごろも
         (松高きみ倉の庭に下りたたす東伏見宮の毛衣)  解説
芸術 2012・6・28(木)
 俳句を作るKがやってきたのでNを呼んで四方山話をする。新聞の歌壇に度々入選するMの短歌を紹介しながら話が弾んだ。素空の周りには短歌より俳句を作る人が多い。Cの連れ合いやQは秀句を作る。義姉は川柳に長けている。
 「(俳句は)自然と人間との交渉を通じて自然を自己の内部に投射し、また自己を自然の表面に映写して、そうしてさらにちがった一段高い自己の目でその関係を静観するのである」(寺田寅彦)「なぜ歌を詠むかと問われるならば、感動が短歌の凝縮された形態を通して、存在の世界を開き、美の閃きが宇宙の実在に触れさせてくれるからである」(植田重雄)を再度読み返して、芸術が美を創造するために人間が行った行為からでたものとするなら、画家・木下晋の作品から受けた強烈な衝撃はまだ続いている。
 ところで、Kが「君は詩歌を作らないのか?」と問うたので、「吾輩は評論家である」と答えた。
文殊菩薩 2012・6・27(水)
 悟りの知性的側面を象徴する仏。実践的側面を象徴する普賢菩薩と共に釈迦如来の脇待(左)をつとめる。「智慧の文殊・慈悲の普賢」とも呼ばれ、文殊菩薩は獅子に乗っている場合がある。
 「三人寄れば文殊の知恵」という諺はもちろんこの文殊菩薩から来ている。あやかりたいものだ。
小型犬(つれあいにモノ申す) 2012・6・26(火)
 犬の散歩中に、引っ張られて転倒した夫。「肋骨にひびが入っている」という医師に、犬種を尋ねられた。「マルチーズ」と答え、笑われた。
               (笑えない妻・62歳)

 くるみの散歩に気をつけよう。トイプードルで転倒ではそれこそ笑えない。
画家・木下晋 2012・6・25(月)
 「日曜美術館 孤独 闇 そして光へ」に強い衝撃を受けた。木下晋は10Bから10H までの鉛筆を使い、モノクロの写実画を描くが対象が瞽女、年老いた母親、ホームレスの老人、痴呆老人、ハンセン病元患者等で特殊である。老人の皺の中に刻まれている人生、人の心の闇の部分、生きざまという見えないものまで表現したいと願ったと言う。
 描かれた対象は生の極限に近い。凡人にはそれは「醜」にしか見えないが、美醜を語ることを許さない真実が描かれていると言っていいだろう。しかし、芸術とは?美とは?を再考させられた。この衝撃は大きい。
 衝撃の二つ目はハンセン病元患者で詩人の桜井哲夫さんの存在と実写である。60年以上を療養所で暮らした彼の容貌を初めて見た。ハンセン病に関するいろいろの思いが浮かんでは消えて行った。
釈迦牟尼像 2012・6・24(日)
 釈迦牟尼像の原形は、京都府八木町諸畑大谷口の清源寺に収められている。木喰上人は1806年にこの寺に立ち寄り5ヶ月間滞在、28体を造像し念願の微笑仏壱千体を満願したという。
四日市港8 緑地公園とコンビナート 2012・6・23(土)
 旧四日市港から北(名古屋方面)は第2、第3コンビナートが続く。コンビナートの中には入れないが、コンビナートと四日市市街地との緩衝地帯として国道23号線(名四国道)に沿って公園など、いろいろの施設が作られている。
 今回は午起交差点で名四国道に入り、霞ケ浦緑地公園にくるみと一緒に入った。公園の南端に霞ケ浦第1、第2球場とサッカー場があり、その北に四日市ドームが横たわる。ここは多くの市民の憩いの場所だが、緑地は巨大な第2、第3コンビナートに囲まれている
 幼い頃は午起、霞ケ浦は海水浴場だった。とりわけ、霞ケ浦は有料の海水浴施設があり、巨大な水槽に大型のエイが泳いでいた。と言うことは緑地公園もコンビナートもすべて埋立地の上に作られているのだ。コンビナートを作りだした人間の活動エネルギーの大きさに驚くが、あの泳ぐことができた砂浜が全く無くなってしまったことは悲しい。    
 
大黒天半跏像 2012・6・22(金)
 この大黒天半跏像は、静岡県引佐郡引佐町の個人のお家に伝わるものである。福袋の上に座る大黒天の大きさは四分の三を占めるため大きく感じられる。保存状態が極めてよく東海地方の秀作の一つであると言われている。木喰上人は、この方のお家の横に小屋を建て夜になると仏像を彫りその姿を決して他人に見せなかったという話が伝わっているそうだ。
雨の日の休み 2012・6・21(木)
 一昨日の休みは雨模様と思ったら台風までやってきた。雨だと子犬・くるみと一緒に出かける場所が限定される。ペットカフェはあるがそれだけだとつまらない。屋根があってペットも一緒の場所は?と言ったら連れ合いが長島温泉のアウトレット「ジャズドリーム長島」と叫んだ。
 台風は夕方直撃のようだがそれまでに帰ればよいと雨戸を全部閉めて朝早く出かける。台風だからガラガラだよ!と言って到着したがそれなりに車が止まっている。ほとんどが他県ナンバーである。今日が休みで予定した人達なんだと言いながら、ペット可の店をはしごして、コーヒーを飲む。風と雨が強くなってきたので北ジャス(イオンモール四日市北)に移り、くるみが爪切りをしてもらう間に昼食と買い物を済ませ、急いで帰った。
 くるみと風呂に入ってからごろごろしていたら、若嫁から大丈夫ですかとメールが届いた。そのころには台風は通り過ぎて被害はなかった。
 月一回の休みは今回もこうして平穏に過ぎて行った。
苦悩と平穏 2012・6・20(水)
 生きている限りいろいろな苦悩があり、切羽詰まった悩みに自己を苛まれることがある。幸か不幸か年と共にそうしたことや感情の起伏が少なくなり、比較的穏やかになったような気がする。それは感性が鈍くなったことの証左でもあるから褒められたものではないのだが。
 過日、悩み事の相談を受けたが適切な応対は出来なかった。その後、「ブッダの言葉」(中村元訳)のなかで見つけたこんな言葉がアドバイスの一つになるのではと思った。
 「怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない」 
 ブッダは様々なものへの執着を無くせと言う。なかなか難しいことだが、頭を空にし、全ての執着を無くそうとすれば、あるいは無くすことを想像してみるとその先に見えてくるものもありそうだ。
 若い時は執着の塊だったから、こうした言葉は門前払いだった。
日食パート2(いわせてもらお 朝日新聞) 2012・6・18(月)
 小学6年の息子に「金環日食の時は肉眼で太陽を見てはいけない」と、何度も言い聞かせていた。当日、日食グラスを使って無事に見終わった後で、息子がこう言った。「日食終わったから、太陽見てもいいの?」
     (草加市・それはもっとダメ!・43歳)

 日食当時は曇っていたし、睡眠中だった。後日、試みに太陽を直視してみたが、とても見られるものではなかった。
     (明日第3火曜日は独り言を休みます)
 
       「ジャズドリーム長島」(6・19)
エベレストと女性登山家 2012・6・17(日)
 登山家・竹内洋岳さんが日本人初の世界8000メートル峰全14座制覇に成功したのは5月26日だが、その6日前の20日には73歳の女性登山家・渡辺玉枝さんがエベレスト登頂の女性最年長記録を作った。この快挙にも拍手を送りたい。
 女性登山家としては世界で初めて世界最高峰エベレストおよび七大陸最高峰への登頂に成功した田部井淳子さんが有名である。渡辺さんより1歳年下の田部井さんがエベレスト登頂に成功したのは36歳だから、73歳での登頂は凄いの一言だ。
 スキー場のリフト券が70歳以上は無料の所があるので、その年までスキーを続けたい。まだまだ先だが渡辺玉枝さんが手本だ。しかし、それまで足腰が持つかどうか。
両面仏 2012・6・16(土)
 三重県菰野町の明福寺所蔵のもので、表裏に阿弥陀如来と薬師如来が彫ってある椹(さわら)材の一本彫(1.66m)である。昭和47年に菰野町指定有形文化財となる。伊勢の常明寺の持仏 であったが、明治の廃仏棄釈で廃棄されようとしていたのを、明福寺十三世住職の弟さんが貰い受け、生家の明福寺へ大八車で持ち帰ったそうだ。
狛坂磨崖仏4(完) 2012・6・15(金)
 狛坂磨崖仏は金城山(こんぜやま)ハイキングコースの一角である。磨崖仏を見て引き返し、途中で左折し耳岩、天狗岩方面に進み、多くのハイカー、登山家とすれ違った。圧倒的に中高年が多く、颯爽とした10人ほどの女性の後を2,3人の男性がゆっくりと行くグループの姿は、現代社会を表しているようだ。若いグループは頼もしい男性が中心である。
 ここは四方からの登山口があり、また沢山の見る物があるので再訪したいと思う。標高も600mぐらいなのでちょうどいい。
 早めに車に戻り、こんぜの里に寄る。県民の森を遠望し、道の駅で土産を買って帰路へ、夕方の渋滞前に有料道路を走り帰宅した。尻尾を振って喜ぶくるみといつもの時間に散歩ができた。
南京余唱第35首(八一) 2012・6・14(木)
 東伏見宮大妃殿下も来り観たまふ (第1首)
   あさ さむき みくら の には の しば に ゐて
                 みや を むかふる よきひと の とも
     (秋寒きみ倉の庭の芝にゐて宮を迎ふるよき人のとも) 解説
四日市港7 塩浜地区、石原地区 2012・6・13(水)
 くるみと遊んだ四日市地区(千歳地区)の南側の塩浜地区に第一コンビナートが大規模に作られたのは1960年頃だった。その後第2コンビナート(四日市地区)、第3コンビナート(霞ケ浦地区)と拡大されるが、公害問題が発生し、最初に多くの住民が苦しんだのはこの塩浜地区と南の磯津地区だった。ここには昭和四日市石油と石原産業がある。
 石原産業の巨大な煙突を見上げながら小中学校に通った。この煙突は、東洋一の高さ 185mの煙突だったが、1944年の東南海地震で、先端 が50m折れたと言う。それでも見上げるほど大きかったのだ。その煙突も今はもうない。大きな煙突から慣れ親しんだ石原産業は60年代の公害企業の一つだし、最近ではフェロシルト事件などで不正行為を繰り返している困った企業だ。
 1960年代、国鉄(現JR)関西線で京都方面から四日市に汽車が近付くとコンビナートの夜景はとてもきれいだったことを覚えている。しかし、沢山の煙突が排出するスモッグで窓を開けることは出来なかった。
   
          四日市地区から見る塩浜地区、石原地区
50度洗い(つれあいにモノ申す) 2012・6・12(火)
 50度のお湯で野菜を洗うと、シャキッとしておいしくなるー。テレビを見ていた夫が「これ、人でも使えるといいなあ」と、こちらをちらり。それって、私に言ってる?(シャキッとしない妻・65歳)
「総刑期」は50年 2012・6・11(月)
 朝日新聞5月25日付けの天声人語に『人は一生の間にどれくらい罪を犯すものだろう、と故・井上ひさしさんがユーモラスな随筆を書いていた。幼いころ、隣家の猫のひげをちょん切ったそうだ。これは立派な犯罪になるらしい。他にもスカートめくりやキセル乗車など、あれやこれやで「総刑期」は50年を超す・・・』とあった。 
 とても面白い発想だ。自らを考えると少なくとも彼よりは今の日本の法律で判断すれば、何倍もの「総刑期」になるだろうし、法には触れないが罪になりそうなものも沢山ある。
 法は相対的なもので絶対ではないので「総刑期」をそれ程気にしなくてもよいが、「総刑期」など全く無いと思っている人には閉口する。他人の些細な罪でも重い罪でも容赦なく批判し、責め立てるような人を見ていると気分が滅入る。宗教に頼ろうとは思わないが、こんな場合はいろいろな宗教家の寛容と愛の精神に学ぶべきだろう。
 またいつも思うが、法にも悪法は沢山ある。為政者が都合の良いように決めたものはその最たるものである。「法にふれるから」とか「みんながそう判断するから」などと言うのが一番怖い。もっと事の良し悪しを自分の思考で判断する習慣を付けた方が良い思う。
 最近は「寛容の精神」が培養されてきた。年かな~~?
4座制覇 2012・6・10(日)
 登山家・竹内洋岳(ひろたか)さん(41歳)が5月26日、ネパールのダウラギリ1峰(8167メートル)に登頂し、日本人初の世界8000メートル峰全14座制覇に成功した。遅ればせながら、おめでとう!!
大飯原発再起動 2012・6・9(土)
 野田総理は「国民生活を守るために再起動」と言う。福島原発事故の処理が全く進まない中で原発再稼働とはびっくりである。人間とは愚かなものなのかどうか?昭和10年7月、中央公論に書かれた災害雑考・寺田寅彦の一部を転載する。
 「・・・地震の研究に関係している人間の目から見ると、日本の国土全体が一つのつり橋の上にかかっているようなもので、しかも、そのつり橋の鋼索があすにも断たれるかもしれないというかなりな可能性を前に控えているような気がしないわけには行かない。来年にもあるいはあすにも、宝永四年または安政元年のような大規模な広区域地震が突発すれば、箱根のつり橋の墜落とは少しばかり桁数のちがった損害を国民国家全体が背負わされなければならないわけである。・・・」
 「・・・大津波が来るとひと息に洗い去られて生命財産ともに泥水の底に埋められるにきまっている場所でも繁華な市街が発達して何十万人の集団が利権の争闘に夢中になる。いつ来るかもわからない津波の心配よりもあすの米びつの心配のほうがより現実的であるからであろう。生きているうちに一度でも金をもうけて三日でも栄華の夢を見さえすれば津波にさらわれても遺憾はないという、そういう人生観をいだいた人たちがそういう市街を造って集落するのかもしれない。それを止めだてするというのがいいかどうか、いいとしてもそれが実行可能かどうか、それは、なかなか容易ならぬむつかしい問題である。事によると、このような人間の動きを人間の力でとめたりそらしたりするのは天体の運行を勝手にしようとするよりもいっそう難儀なことであるかもしれないのである。・・・」
木喰上人・羅漢像 2012・6・8(金)
 木喰上人が89歳の時、逗留した京都府南丹市の清源寺(木喰羅漢寺)の和尚に頼まれて造像した十六羅漢の一つ。木喰上人が村人達の宴会に誘われそのときの無邪気に騒ぐ村人をモデルに彫ったといわれている。酒壺を独り占めして照れている羅漢像はユニークである。
狛坂磨崖仏3 2012・6・7(木)
  白洲正子が著書・かくれ里で書いている。「磨崖仏は、聞きしに勝る傑作であった。見あげるほど大きく、美しい味の花崗岩に、三尊仏が彫ってあり、小さな仏像の群れがそれをとりまいている」
 1時間弱の登山コースを歩いて眼の前に現れる磨崖仏は白洲正子でなくても素晴らしいと思う。
 この磨崖仏を知ったのは、故毛利久神戸大教授の著書・仏像東漸である。「Ⅴ 当麻寺弥勒菩薩仏像と新羅様式」で取り上げ、この弥勒菩薩と類似点が多いことから新羅的だと言い、新羅からの渡来人を造像の周辺に想定すると言っている。石仏の案内板にも「渡来系工人によるものと考えられる如来三尊像」と書いてある。ところで、ネット上で阿弥陀(如来)三尊像としている場合があるが、所説を参考にすると阿弥陀仏とは断定できないから如来三尊像と言うのが正しいだろう。
 ちょうど12時になったので、石仏の前の岩の上に陣取り、ゆっくり昼食を取る。頭の中は渡来人たちが山中にこの大きな石仏を彫った当時に飛んでいき、想像は好きなように広がり、石工達の汗する姿が浮かんでくる。そして風雨にさらされ風化していくこの仏像の行く末を心配した。
善財童子 2012・6・6(水)
 インドの長者の子が文殊菩薩の勧めで、様々な指導者(善智識)53人を訪ね修行を積み、普賢菩薩の所で悟りを開いた。それが善財童子。
 童子が文殊に問う。「私は長い間、自尊心に囚われて、無知蒙昧なまま罪を重ねてまいりました。愛欲の深みにはまり、愚かさの闇に入り込み、憎しみの怒りの炎を燃やし続けてきて、果てしない迷いの世界を流転し続けている者でございます。・・・・生老病死の苦しみに苛まれている私の悩みを除いて安らぎを授け、菩薩の道を教えて下さい」
四日市港6 四日市地区(千歳地区) 2012・6・5(火)
 くるみと一緒に四日市地区(千歳地区)で遊ぶ。四日市港の概要で書いたように四日市港は大きく分けて5つの地域でなっている。四日市地区・第二埠頭では自動車運搬船へ次から次へとホンダの車が積まれていた。ここには穀物専用のサイロもあり、中部地区の穀物供給基地としての役割を果たしている。港湾作業が行われていて進入禁止の場所も多いが、釣りをする人あり、車を止めて昼食を取る人ありで、港は以外にのんびりしている。
 この四日市地区は素空の若い頃は四日市港の中心であり、港と言えばここだった。戦後、羊毛の輸入が大幅に伸びたが、昭和30年代前半の塩浜地区の石油化学コンビナートの誕生で原油の輸入が急速に増え、四日市港は典型的な工業港へと発展する。
 コンビナートが出来つつある中学生時代には自転車で出かけて旧港でよく遊んだが、足を延ばしてこの四日市地区にも入り込んだものである。
 青春時代はデートの場所だったような気もするが、記憶はあいまいである。今はくるみとデートを楽しんでいるのだが。
  
南京余唱第34首(八一) 2012・6・4(月)
 正倉院の曝涼に参じて
  とほ つ よ の みくら いで きて くるる ひ を  
           まつ の こぬれ に うちあふぐ かな    解説
     (遠つ代のみ倉出で来て暮るる日を松の木末にうち仰ぐかな)
77歳のスノーボード 2012・6・3(日)
 77歳の女性がゲレンデを見事に滑り下り、健康をアピールする。60歳を過ぎてからスノーボードを始めたと語り、今あるのは某健康食品のお陰だと言うコマーシャルだ。
 これにはたまげた。40代の頃、転倒時の衝撃の強さなどを考えて挑戦しなかったことを思い出しながら、これなら今からでも遅くない、やってみようと思ったりした。ところがそう簡単なことではなかった。ネットサーフィンしていたら、こんな記事に出くわした。
 「・・・の中にはすごい人がいるんです!!スノーボードをしている・・・の中で最高齢でしょう!?アルパインスノーボードをこよなく愛す安田きよ子さん(77才)です。ニュージーランドやカナダのキャンプに参加したり、シーズン中はお仕事の合間にガッツリ 白馬岩岳スノーフィールドに通い、シーズンオフはテニス・トレーニングジムと英会話に通い常に前進している・・・」
 並みの人では無かった。強靭な体力と人一倍の努力をしている人なのだ。やっぱり無理なことは止めようと思ったし、コマーシャルは眉に唾をつけて見るものだと気がついた。
木喰(もくじき) 2012・6・2(土)
 遊行僧・木喰上人は、1718年に現在の山梨県にあたる甲斐国に生まれる。22歳で仏門に入り、45歳のとき、木の実を食べ米などの穀類は常食しない木喰戒の修行を終える。その後日本廻国の願いを立て、木彫像を刻み始めたのは60代初めからで、93歳で旅先で亡くなるまで、2千体を目標に、造像し続けたようである。作品は異彩を放ち、円空が彫った仏像と並び、高い評価を受けている。木喰自刻像は東京民芸館が所蔵している。
狛坂磨崖仏2 2012・6・1(金)
 スキーのシーズンオフに山登りを考え、まず手始めに丘陵地帯にある石仏や景勝地を求めて歩くことにした。この狛坂磨崖仏は奈良末期から平安初期に作られた新羅的要素のある魅力的な如来三尊像で、ずいぶん以前から行こうと思っていたところだ。
 登山靴など用具を引っ張り出し、食べ物その他をザックに入れて出かけたが、気が付いたら登山靴を積み込むのを忘れた。
 駐在さんが「昨日、雨が降りましたから山道は気を付けてください」と言う。「うっかり、登山靴を忘れたのですが?」当方の運動靴を見て「その靴なら大丈夫でしょう」とOKが出た。ただ、下り坂で一度滑って転んでしまった。
 馬頭観音堂からハイキングコースに入る。道は狭く坂も多いのでいわゆる登山道と言えるが、整備されており案内板もあるので順調に進めた。15分くらいで竜王山の山頂(標高605メートル)にでた。そこから新緑、山つつじ、鶯の声などを楽しみながら磨崖仏へと歩く。所々で現れる下界の景色を眺め、写真も沢山撮りながら、磨崖仏に1時間ほどでたどり着いた。
   



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