70年安保・下 2012・1・31(火)
 70年安保世代、あるいは68年世代、さらには作家の堺屋太一が命名した団塊の世代(1947年~1949年)は相重なる部分が多い。安保・学園闘争終了後、大学生を中心にしたこれらの多くは企業戦士に変身し、日本経済を支え、1980年終わりから始まるバブル経済の担い手になっていく。
 ここで問題なのは、終焉した運動への主体的な反省抜きに、多くが転向して行ったことである。とりわけ、 個人の思想や行動の主体的な実践を唱え、個人(自分)を第一義に考える側面が強かった全共闘には、自らが指導した運動や組織に対する責任感はほとんど見られない。70年安保・学園闘争が矮小化され、清算的に語られるのはこんなことも一因であろう。
 ともあれ、今は昔の話ではあるが、当時の一こまを以下の文が良く伝えている。文中の「長谷」はベレー帽議員で有名だった長谷百合子である。
『(1968年10月21日)午後七時前、お茶の水女子大二年生だった長谷は国鉄(現JR)代々木駅から線路に飛び降り、仲間と新宿駅方向に走った。「米軍タンク車輸送阻止」。米軍のジェット燃料を運ぶタンク列車が新宿を通っていた。線路の石をポケットに詰め込む。機動隊とぶつかるが催涙ガスで散らされる。
 新宿駅東口に出ると、駅前広場を埋め尽くす群衆が見えた。三万人はいた。デモ隊とやじ馬が混然となり、西口につながる地下道わきの大看板は音を立てて破れ、そこから群衆が線路内になだれ込む。翌日午前零時十五分、警視庁は十三年ぶりに騒乱罪を適用した。 』
正しい説明(朝日新聞・あのね から) 2012・1・30(月)
 通販の電話受けの仕事をしている。先日、注文を受けて「お届けのご住所は、どのような漢字でしょうか」と聞いた。するとお客様、、「かんじ?そうねぇ、裏庭は山がきれいで空気がおいしくて、野ウサギもいるよい所よ。今度、遊びにいらっしゃい」。
       (横浜市・理解するまで2分ほどかかりました・50歳)
高村光太郎5 2012・1・29(日)
 智恵子抄を味わってみよう。

  樹下の二人   (1923年3月)
  ――みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ――

 あれが阿多多羅山(あたたらやま)、
 あの光るのが阿武隈川(あぶくまがわ)。

 かうやつて言葉すくなに坐つてゐると、
 うつとりねむるやうな頭(あたま)の中に、
 ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります。
 この大きな冬のはじめの野山の中に、
 あなたと二人静かに燃えて手を組んでゐるよろこびを、
 下を見てゐるあの白い雲にかくすのは止しませう。

 あなたは不思議な仙丹を魂の壺にくゆらせて、
 ああ、何といふ幽妙な愛の海ぞこに人を誘ふことか、
 ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は、
 ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり。
 無限の境に烟るものこそ、
 こんなにも情意に悩む私を清めてくれ、
 こんなにも苦渋を身に負ふ私に爽かな若さの泉を注いでくれる、
 むしろ魔もののやうに捉へがたい
 妙に変幻するものですね。

 あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川。

 ここはあなたの生れたふるさと、
 あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫(さかぐら)。
 それでは足をのびのびと投げ出して、
 このがらんと晴れ渡つた北国(きたぐに)の木の香(か)に満ちた空気を
 吸はう。
 あなたそのもののやうなこのひいやりと快い、
 すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。
 私は又あした遠く去る、
 あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、
 私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。
 ここはあなたの生れたふるさと、
 この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。
 まだ松風が吹いてゐます、
 もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい。

 あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川。
両端 (朝日新聞・あのね から)2012・1・27(金)~28(土)
 大あん巻きを四つに切り、「半分ずつね!」と中の二つを取る妻。「わしは両端かよ」と言うと、「あんたは糖尿病だから」。体を気遣ってくれたかと思いきや、めんたいこも四つに切って、中の二つを取るのは、どんな訳!?
                   (平等な半分を望む夫・68歳)
南京余唱第10首(八一) 
 香具山にのぼりて(第4首)   
   はる の の の こと しげみ か も やまかげ の 
            くは の もとどり とかず へ に つつ    解説
     (春の野のこと繁みかも山影の桑のもとどり解かず経につつ)
高村光太郎4 2012・1・26(木)
 昭和16年に出版された第2詩集「智恵子抄」はどの詩も愛の思いの深さで人の心を打つものがあり、現代詩(愛の歌・相聞)の代表と言える。智恵子と結婚する以前から彼女の死後までの30年間の詩29篇、その他を収めている。「智恵子抄」は以下の詩で始まる。

  人   に     (1912年7月)

 いやなんです
 あなたのいつてしまふのが――

 花よりさきに実(み)のなるやうな
 種子(たね)よりさきに芽の出るやうな
 夏から春のすぐ来るやうな
 そんな理窟に合はない不自然を
 どうかしないでゐて下さい
 型のやうな旦那さまと
 まるい字をかくそのあなたと
 かう考へてさへなぜか私は泣かれます
 小鳥のやうに臆病で
 大風(おおかぜ)のやうにわがままな
 あなたがお嫁にゆくなんて

 いやなんです
 あなたのいつてしまふのが――
 なぜさうたやすく
 さあ何といひませう――まあ言はば
 その身を売る気になれるんでせう
 あなたはその身を売るんです
 一人の世界から
 万人の世界へ
 そして男に負けて
 無意味に負けて
 ああ何といふ醜悪事でせう
 まるでさう
 チシアンの画いた絵が
 鶴巻町へ買物に出るのです
 私は淋しい かなしい
 何といふ気はないけれど
 ちやうどあなたの下すつた
 あのグロキシニヤの
 大きな花の腐つてゆくのを見る様な
 私を棄てて腐つてゆくのを見る様な
 空を旅してゆく鳥の
 ゆくへをぢつとみてゐる様な
 浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ
 はかない 淋しい 焼けつく様な
 ――それでも恋とはちがひます
 サンタマリア
 ちがひます ちがひます
 何がどうとはもとより知らねど
 いやなんです
 あなたのいつてしまふのが――
 おまけにお嫁にゆくなんて
 よその男のこころのままになるなんて
寒波 2012・1・25(水)
 日本海側は大雪になると報道されている。適度な雪は歓迎!
   一杯積もったよ!     琴将ページ
   きそふくしまスキー場   スキー
70年安保・上 2012・1・24(火)
 安保条約成立(1960年)から10年、自動延長されるこの条約を阻止する運動が70年安保闘争で、同時にベトナム戦争反対運動が行われた。沖縄のアメリカからの返還運動も絡めて盛りあがった運動は、1970年6月23日の安保自動延長決定、1972年5月15日の沖縄復帰で終息する。残ったのは日米同盟と核兵器(米軍)を満載する沖縄が日本の領土に返還されたことである。
 この時代の特徴的なことは、肥大化したが有効な運動を展開できない社会党や共産党などの既成左翼に対抗して反日共系の新左翼各派が台頭したこと、また体制や左翼組織(特に組織一般)に反発して個人の思想や行動の主体的な実践、勝利を目指した全共闘などによる急進的な運動が展開されたことである。日大闘争や東大闘争として現れたこの運動は、1968年5月10日に起こったフランス5月革命などと共に世界的な流れだった。この世代を68年世代と名付ける人もある。
 しかし、全共闘はある意味で無責任な個々のノンセクトラジカルの連合だったので、運動の衰退とともに見事に霧散してしまった。個人(自分)を第一義に考える側面が強いので、社会性に乏しく、大衆運動への指導責任などは無かったと言える。とはいえ、新左翼系を含む左翼も70年を契機に衰退の道を歩むのである。
 ドラスティックに社会が展開したこの時代に東京で暮らした。いろいろ懐かしい。
南京余唱第9首(八一) 2012・1・23(月)
 香具山にのぼりて(第3首)   
  かぐやま の こまつ かり ふせ むぎ まく と
          をの うつ ひと の あせ の かがやき     解説 
     (香具山の小松刈り伏せ麦蒔くと斧打つ人の汗の輝き)
60年安保 2012・1・22(日)
 日米安保条約(軍事同盟)の是非を巡って国論が2分し、巨大な反対闘争が行われた時はまだ子供だった。ただ、国会で死亡した東大生・樺美智子の名前は脳裏に焼き付いている。
  みな貧しく一途(いちず)に激しゆきしかな岸上大作、樺美智子よ
 1月21日中日新聞に載った「追憶の風景」で1943年生まれの福島泰樹はこう詠んでいる。さらに以下が続く。
  みな雨に濡れていたっけ泣いていたフランスデモの若者が行く
 紹介されている岸上大作の歌は
  血と雨にワイシャツ濡れている無縁ひとりへの愛うつくしくする
 この二人、福島も岸上を知らなかったが、70年安保世代の素空には歌が臨場感を持って迫ってくる。1939年生まれの岸上は国学院大学で闘争歌を歌う学生歌人として話題を呼び、福島は早稲田大学で安保闘争、第一次早大闘争にかかわった歌人で、歌謡の復権を目指した「短歌絶叫コンサート」を全国で開催していると言う。
 その時代を体験していないが、映像や文献で知っており、またこのような短歌で散文以上に伝わってくる。
 
岸上大作(きしがみ だいさく、1939年 - 1960年)は兵庫県出身の歌人。母子家庭に育つ。國學院大學文学部に入学し、安保闘争に身を投じて負傷。1960年の秋、安保闘争のデモの渦中に身を投じた経験と恋とをうたった「意思表示」で第3回短歌研究新人賞推薦次席。安保世代の学生歌人として「東の岸上大作、西の清原日出夫」と謳われた。同年12月、失恋を理由として自殺。
 福島泰樹(ふくしま やすき、1943年 - )は東京都出身の歌人で早稲田大学理工学部非常勤講師。台東区下谷の法華宗本門流法昌寺の住職でもある。早稲田大学在学中に早稲田大学短歌会に入会、三枝昂之や伊藤一彦と親交を持つ。また安保闘争をはじめとした学生運動にも関わる。「短歌絶叫コンサート」を全国で開催。立松和平とは長年の親友であり、彼の葬儀の導師を務めた。
着こなし(つれあいにモノ申す・中日新聞) 2012・1・21(土)
 上は綿入れのはんてん、下は甚平の半ズボン。どういうセンスしているのか、私には分からん! (あきれる妻・54歳)
 ここまでではないが、外出前に連れ合いにチェックされ、あきれられることは度々である。
元号と西暦 2012・1・20(金)
 昭和の時代を長く生きたので元号と西暦の差が25であることは良くわかっている。(昭和45年は+25で西暦1970年)ところが、明治や大正のことになると元号と西暦の変換がすぐにできない。平成もずいぶん過ごしてきたのにあやふやである。
 両親の生まれた年や会津八一や高村光太郎の活躍した年の変換に苦労する。パソコンがあれば、自動で変換してくれるソフトが沢山あるのだが。
 いろいろ考えていてあることに気がついた。明治、大正、平成はその差がぞろ目なのだ。
      明治 -33 または 67 (元号にプラスする) 
      大正   11
      平成   88 または -12
 亡父は明治44年生まれだったので、西暦では1911年生まれと言うことになる。たまたま元号がぞろ目なので、計算後の西暦もぞろ目になって面白い。存命なら101歳だ。
南京余唱第8首(八一) 2012・1・19(木)
 香具山にのぼりて(第2首)   
  かぐやま の かみ の ひもろぎ いつしかに
          まつ の はやし と あれ に けむ かも    解説
     (香具山の神の神籬いつしかに松の林と荒れにけむかも)
高村光太郎3 2012・1・18(水)
    ぼろぼろな駝鳥       (1928年2月)
 何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。
 動物園の四坪半のぬかるみの中では、
 脚が大股過ぎるぢやないか。
 頸があんまり長過ぎるぢやないか。
 雪が降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢやないか。
 腹がへるから堅パンも食ふだろうが、
 駝鳥の眼は遠くばかり見てゐるぢやないか。
 身も世もない様に燃えてゐるぢやないか。
 瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢやないか。
 あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆(さか)まいてゐるぢやないか。
 これはもう駝鳥ぢゃないぢやないか。
 人間よ、
 もう止せ、こんな事は。            
           高村光太郎詩集・「道程」以後より -岩波文庫-
 高村光太郎の大正3年に刊行した第1詩集「道程」から昭和16年の「智恵子抄」までの間の未収作品を、「道程」以後として上記の詩集はまとめており、編者奥平英雄は以下のように書いている。
 「この時期の詩は、自然の美しさ、人生の真実に寄せる感動が深い愛と善意にみたされ、ときには祈りにも似た感動の表現となり、また求道者的な叫びともなって高く響いている。・・・それだけにまた、人生、自然の真実に背反するものに対する怒り、悲しみ、孤独感がひとしお燃え上っている・・・」
 「道程」の求道的でヒューマニズムにあふれた詩作は智恵子への愛と共にさらに深められていくのである。
共通リフト券 2012・1・16(月)
 ダイナランドスキー場(1972年開設の旧“大日岳国際スキー場”)と高鷲スノーパーク(1999年開設)は奥美濃の大日岳山麓にある。別々のスキー場だったが、ともにジェイ・マウンテンズ・グループに買収され、その傘下に入った。そのため、2つのスキー場を共通リフト券で滑ることができるようになり、全部で31コースもある巨大スキー場となった。この買収はスキー人口の減少による経営問題が影響しているのだろう。
 14~15日、仲間5人の今年のスキーツアーをこの岐阜のコースにした。コースを回ってみると高鷲スノーパークは新しいので、歴史を誇る名門・ダイナランドはなんとなく古い感じを否めない。昼食時の高鷲のセンターハウスは人であふれていた。
 リフトで一緒になった岐阜の同年代の人が、長野の乗鞍温泉スキー場の経営が苦しいので是非行って下さいと言っていたが、伊吹山スキー場等沢山のスキー場が閉鎖に追い込まれている。
 こぶこぶ(非圧雪の急斜面)の上級コースを除いて全コースを仲間と回ったが、一日半では相当きつい。膝の痛み等で途中2人が脱落したが、腰痛も起こさずなんとか滑ってきた。スキーページへ
      お断り 昨日15日は疲れと仕事で独り言を休みました。
                         (明日第3火曜日は独り言を休みます)
 
南京余唱第6首(八一) 2012・1・13(金)~14(土)
 吉野の山中にやどる(第4首)
  ふるみや の まだしき はな の したくさ の 
         をばな が うれ に あめ ふり やまず      解説
      (古宮のまだしき花の下草の尾花がうれに雨降りやまず)
南京余唱第7首(八一) 
 香具山にのぼりて(第1首)  
  はにやま と ひと は なげく を ふみ さくむ 
         わが うげぐつ に かみ は さやらず       解説  
    はにやまと人は嘆くを踏みさくむ我がうげぐつに神はさやらず)
稲垣淡斎 2012・1・12(木)
 パラミタミュージアムに飛鳥園仏像写真展・小川親子の作品を見に出かけた。会津八一もかかわった奈良の仏像写真家二代の作が並ぶ。香薬師立像の大型写真の前では彫っていた頃を懐かしく思い出した。
 同時開催の同館の所蔵作品展で木葉天目茶盌(わん)があり、作者は稲垣淡斎(四日市)と書いてある。帰宅後、ネットで調べた。
  稲垣淡斎 大正2年生れ 国学院大学卒業 谷川春陽に師事
  健窯、油滴天目、兎豪盞(とごうさん)、磁州窯、掻落など中国風技法で
  茶器中心に作陶 四日市市諏訪町 淡斎陶房眠窯   とある。
 間近の諏訪町に窯があると書いてあり、興味がわくがそれ以上はわからなかった。機会があればもっと調べてみたいと思う。
高村光太郎2 2012・1・11(水)
   冬が来た     (1913年12月)
 きつぱりと冬が来た
 八つ手の白い花も消え
 公孫樹(いてふ)の木も箒になつた

 きりきりともみ込むやうな冬が来た
 人にいやがられる冬
 草木に背(そむ)かれ、虫類に逃げられる冬が来た

 冬よ
 僕に来い、僕に来い
 僕は冬の力、冬は僕の餌食(ゑじき)だ

 しみ透れ、つきぬけ
 火事を出せ、雪で埋めろ
 刃物のやうな冬が来た                詩集・道程より 
「あさこはうす」にハガキを出そう 2012・1・10(火)
 「あさこはうす」は、青森で原発建設に反対する小さいが心強い行動だ。友人NKDからの新年メールで知り、早速ハガキを出した。月一回は出そうと思っている。以下にNKDメールの一部を転載する。
 祈念新春――「インチキ収束宣言」直後のこの新年は、どうしても「おめでとう」と言う気になれないので、へん てこな言葉ですが、「今年は人類にとって少しでもいい年になりますように」という意味合いの言葉で始めたいと思います。
 年末から「あさこはうす」にハガキを4通出しました。これからも週1通を目標に続ける予定です。青森県下北半島の先端の方に大間町(おおままち)という人口6千人余りの小さな漁村があります。ここに電源開発という会社が1980年代から原発建設計画を進めており、予定の大半の土地が買収されましたが、熊谷あさ子さんという女性が「大間にはマグロやコンブがとれる宝の海がある」と、たった1人買収を拒否してログハウスを建て、そこに住み続けて建設反対の意思表示をしていました。当然、電源開発との間で訴訟合戦も繰り広げられました。
 06年、あさ子さんが亡くなると、あさ子さんの4人の子供たちがその遺志を継いで「あさこはうす」を守り続けています。ただ、4人ともほかの場所に住んでいるので、函館に住む長女の小笠原厚子さんが月の半分だけ大間に戻り、「あさこはうす」に住むという形です。
 「あさこはうす」に通じる道は、周りの買収された土地との間を収容所のように高いフェンスで遮断されています。この道は、小笠原さんのいない間は人通りもないので、それを理由に電源開発はこの道を閉鎖してしまおうと目論んでいます。
 そこで、「あさこはうすにハガキを出そう」という呼びかけがネット上で飛び交うようになりました。郵便屋さんが毎日、郵便を届けに通えば、 その道は立派に使用していることになるというわけです。
 心ある方はハガキを出してください。
  【あて先】〒039‐4601青森県下北郡大間町大字大間字小奥戸396
          「あさこはうす」  小笠原厚子様
昔話 (朝日新聞・あのね から) 2012・1・9(月)
 娘がまだ3歳だったころ。ある冬の日の昼過ぎ、柱時計を見上げていた。私「どうしたの?」。娘「曇り1時雪と言ってたの」。娘は「曇り一時雪」を、「午後1時になれば雪が降る」と思って、じっと待っていたのでした。
   ー鹿児島県姶良市(あいらし) その娘も今は43歳です・75歳ー
高村光太郎1 2012・1・8(日)
    道 程       (1914年2月)
 僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出来る
 ああ、自然よ
 父よ
 僕を一人立ちにさせた広大な父よ
 僕から目を離さないで守る事をせよ
 常に父の気魄(きはく)を僕に充たせよ
 この遠い道程のため
 この遠い道程のため                 詩集・道程より

 高村光太郎「1883(明治16)年~1956(昭和31)年」は彫刻家・高村光雲の長男として生まれ、詩人・彫刻家として活躍した。彼の詩を味わいながら、終戦後全ての活動を停止した7年間の岩手での隠遁生活の意味を問い直してみたい。
 「道程」は大正3年に刊行された第1詩集で、明治43年から大正3年までの詩を収めている。前半はデカダンスに染まっているが、後半は上記の詩・道程などで明らかなように求道的でヒューマニズムにあふれたものになっている。
ウイングヒルズ白鳥 2012・1・7(土)
 昨日、積雪が凍る山道を怖い思いをして走り、滑ってきた。ここには「満天の湯」という友人が行きたがっている温泉露天風呂がある。
ヒマラヤユキノシタ 2012・1・6(金)
 富弘さんの年頭を飾る詩と絵、「どんなに寒くても咲く強い花」が雪降る新年にぴったりと合う。
 この花は別名ベルゲニアと言い、ユキノシタ科ベルゲニア属で原産地はヒマラヤ、シベリア。だから寒い季節に強く、春先に美しく咲くのだ。
 「順応する」が花言葉、どんな寒さにも耐え、しかも対応能力があると言うのだろうか?
  ヒマラヤユキノシタ -星野富弘-
   私が苦しんでいた時 どんなに寒くても咲く 強い花ですと
   この花をくれた人 今年も冷たい冬が来て あの花が咲きました   

   
南京余唱第5首(八一) 2012・1・5(木)
 吉野の山中にやどる(第3首)   
   あまごもる やど の ひさし に ひとり きて
            てまり つく こ の こゑ の さやけさ    解説
     (雨ごもる宿の廂に一人来て手毬つく子の声のさやけさ)
嫁と姑 2012・1・4(水)
 正月に集まった9人の食事の後片付け、連れ合いが食器を洗い、息子の嫁が食器棚に入れて行く。「お母さん、どこに入れればいいですか」「どこでもいいよ」と和気あいあいである。
 その時、素空が「夜中にお母さんが2階から降りてきて、置き直していたらおもしろいね」と言ったので皆が大爆笑。とりわけ義姉は息が詰まるほど笑っていた。
 そんなこんなで楽しい正月が過ぎ、連れ合いは帰っていく嫁に食器棚の中のいろいろな皿をプレゼントしていた。もちろん、孫たちのためにサンドイッチを作り、「龍の瞳」で作った美味しいおにぎりも渡していた。    
賀春2 2012・1・3(火)
     ひがな春  調べぞ昔  かるた歌      by 刀子
                        兄夫婦の年賀状より
賀春 2012・1・2(月)
 記念撮影(元旦午後) 
  今から諏訪神社へ全員で初詣
   

 3Dアート展(31日、近鉄) 
  平面の絵のある空間で撮影、写真を90度左に回転させると不思議!
  立体写真になった。
  
賀春 2012・元旦(日)
         
 今年も楽しいページを作って行きたいと思います。ご支援・ご鞭撻をお願いいたします。
 午前0時30分、諏訪神社に初詣してお御籤を引いてきました。

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